つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

観世音菩薩の世界・・

2005-10-22 | Weblog
観世音菩薩に無尽意菩薩が尋ねたとき観世音菩薩は偈によって答えている。   「無尽意菩薩が問うた時、偈でもって答えた。
釈迦の法を備えた世尊である彼に今重ねて問う。 
仏の子よ、何が因となり、縁となって、その名を観世音と呼ばれているのか。
それは、釈迦の説いた法を身に備えたからである。と偈は無尽意に答えた。
汝、聴きなさい。観音となった人の行いは、諸々に対して正しく対応された、善の行いとなっている。
その誓いは、海の如く弘く深く永遠に思議のいらないものである。
多くの人々を仏としてはべらして、清浄な願いを発した世界である。
我、汝に説くに、身を現して、名を聞かせ語っているのである。
心念の力は、あの世で無駄にならず、諸々の苦をすべて滅ぼしていく。
仮に、悪意によって害を加えられて、大火抗に投げ落とされたとしても、彼の観音の心念力は、大火抗を池に変えてしまう。
或いは、大海で漂流して、龍魚、諸々の鬼難にあったとしても、彼の観音の心念力は、波の中に沈まなくしてしまう。
或いは、須弥山の峰から、人に突き落とされたとしても、彼の観音の心念力は、如来の如く、空中に浮かぶことができる。
或いは、悪人に追いかけられ、金剛山から落とされても、彼の観音の心念力は、一本の毛も損なうことがないようにしてしまう。
或いは、怨みある賊にとりかこまれて、刃物で害を加えられても、彼の観音の心念力は、怨みをなくさせ、慈しみの心を起こさせてしまう。」
・・・等等々語りがまだまだ続いていく。長くなるのでこの辺でやめておく。
 これが、観音となった人の、経験の世界である。釈迦の説いた教えを守り、修行して、教えを身につけて、悟りをひらいていった人の経験は、死んであの世となっても、無くなることが無く、無駄にはならず、心念の力は、何者にも犯されることのない力となって、神通力となっていくとしている。
 「念彼観音力」は、 「彼の観音の力に思いをこらしなさい」としているのではない。「彼の観音となった心念の力」としているのである。その力は、云々と述べているのである。 けっして祈る為の経ではない。
祈る為に作られたものでない為に、どんなに唱えても、けっして救われることは無い。祈って救われるのなら、とっくに皆、救われているはずである。・・・
つづきはまた


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする