俺の両親は永らく時間をともにしてきたこともあり、今では色合いが似ている。
しかし、それぞれが育った環境は天と地ほどに違う。
親父は白山の教師の家に生まれ、一時アイカで研究所勤務をしていたが家を継ぐことになり帰省。
そして祖父同様に教師となった。
帰省する際にいっしょに連れて帰ったのがお袋。
これがまた名古屋の錦の鰻屋の娘だ。
今では同じ空気をまとったように見える夫婦だが、親族を見るとその色合いは好対照。
クラッシックとロックのような違いがある。
親父の親族は教職や警察や公務員で固められている。
かたや、お袋のほうはエンジニア・営業マン・自営業者など多岐に渡る。
何かあると俺はいつもお袋の親族の家に転がり込んでいた。
話していておもしろかったのだ。
叔父や叔母と話すなかで社会のありようを学んでいた気がする。
そして俺もまた自営業者となった。
25年前の話だ。
今日出席した一周忌法要は俺にとっては叔父、お袋の妹の旦那さんだ。
三菱重工のエンジニアだった。
台湾や韓国など、海外出張を頻繁にこなした叔父。
単身赴任ゆえに、叔母は一人娘を連れて当時、お袋や俺が住んでいた一志の山奥、今は廃校となった波瀬中学の教員宿舎をよくたずねてきた。
この叔父からは物づくりの楽しさを教わった。
一時本気に考えた写真家の夢もまた、叔父に手ほどきされたライカの写真機がきっかけだった。
今日の法要に出席していた叔父、こちらはお袋の一番したの妹の旦那さん。
トヨタ関連の会社でいいところまでいったが、退職した後も会社に要請されて今も会社に出社している。
この叔父からは営業マンの辛さ、それを克服したときの営業の醍醐味を教わった。
俺のマージャン人生で唯一、黒星を付けられたままの人物でもある。
俺に自営業の辛さ、税務署のせこさを教えてくれた叔父、お袋の弟は2年前に亡くなった。
中学生の俺にハイボールを飲ませてくれた叔母、お袋の姉は柳ケ瀬でスナックを経営していた。
その叔母は今は病院で療養中。
俺のまわりにはいろんな大人たちがいた。
そして彼らや彼女たちから受けた影響はとてつもなく大きい。
いくつかのモデルケースを見ながら俺は少しずつ大人になっていった気がする。
今の子どもたちが不幸なこと、・・・自分のまわりの世界から等身大の大人の消滅。
原因はいくつか考えられる。
自分たちの共通コードを絶対視して、不協和音の大人たちを見ようとしない子どもたち。
子どもたちの世界に踏み込むことを良しとせず、歪んだ物分りの良さを演じる大人たち。
原因は何であれ、子どもたちが不幸であることは間違いない。
ゴールデン・ウィークなんて週末からやろ・・・そんな甘い予想が吹き飛ぶ。
大渋滞の名古屋で立ち往生した一日だった。
やっと塾に辿り着いた俺、そこに見たのは歯切れのいい言葉で中1に理科の授業をする玄太(津高1年)の姿。
所在なさげに真ん中の部屋で大典(浪人)と話す俺・・・複雑。
クリックのほう、ほんまに頼んます。