まりっぺのお気楽読書

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トスカーナ大公ジャン・ガストーネ妃 アンナ・マリーア

2010-07-05 00:29:55 | イタリア王・公妃
筋金入りのフィレンツェ嫌い
ジャン・ガストーネ妃 アンナ・マリーア・フランチェスカ
               ディ・サッソニア・ローエンブルグ


1672~1741/在位 1723~1737

この方がここまで頑なじゃなければ、メディチ家はもう少し続いていたかもよ…
という女性でございます。

お父様はゼクセン=ローエンブルク公子ユリウス・フランツです。
18歳の時にフィリップ・ヴィルヘルム・フォン・プファルツと結婚しましたが
3年後に死別ました。

        

結婚の前の年、アンナ・マリーアの父は娘だけを遺して亡くなっていました。
すったもんだの末アンナがアスカン家を継いだのですが
この継承には各国がクレームをつけていました。

コジモ3世はアンナの富とザクセン公位が手に入るかもしれん!と
未亡人になっていたアンナと次男ジャン・ガストーネの縁談を考えます。
前夫の死から4年後、アンナはジャンと再婚しました。

コジモには長男フェルディナンドがいましたので
ジャンとアンナは結婚後ライヒシュタットに住んでいました。

アンナは「ビックリするほど、ものすごく、デブ」と言われていたらしいんですが
アルコール依存で男色家の夫を完全に尻に敷いていたそうです。

しばらくするとジャンはフィレンツェへ帰ろうと考えます。
しかしアンナは、メディチ家は妻を平気で殺すと信じていて
絶対に首を縦にふりませんでした。

ジャンは教皇クレメント11世を通じて妻の役目を果たすように説得してもらいましたが
アンナは「あの人は100%不能なんだから(夫じゃないわ)」と言ったそうな…

1708年、ジャンはアンナを連れずにフィレンツェへ戻りました。
しかしお気に入りの(男性)ジュリアーノ・ダーミは連れて帰りましたとさ。
結局その後ジャンとアンナは会っていません。

1713年、兄の死によってジャンが大公子になっても
1723年に大公になっても、アンナはボヘミアから離れませんでした。

でも、ジャンはアンナがいないおかげでけっこうエンジョイできたみたい、
逆にアンナはひとりで寂しい生活を送っていたようです。
意地をはらずにフィレンツェに行けば良かったものを…

てなわけで、ふたりの間にお子様は生まれませんで
メディチ家はジャンの姉アンナ・マリーアを残すのみになりました。

             
                こちらが最後の公女
                  アンナ・マリーア・デ・メディチ


当初はパルマ公ドン・カルロが継承することになっていたトスカーナ大公国は
いろいろあってハプスブルク家に継承されることになります…つづく

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

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