森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

「ハムレット」観劇日記【その1】

2015-02-18 01:17:23 | 観劇・コンサート日記

2月5日に与野本町さいたま芸術劇場で観てまいりました。

〈この記事は敬称略で書かせていただいています。〉

※     ※     ※

もしも私が、この物語のここはと申しましたら、それは天下のシェークスピアにたてつくと言うことなのでしょうか。

もしも私が、この物語のここはと首を傾げたら、世界の蜷川に畏れ多くもケチをつけると言うことになってしまうのでしょうか。

ふとそんな事を考えたら、感想なんかとても書けるものではないなと思ったのでした。

人の命には限りあり。

そしてその命の消え入る時まで本当に生きていられる人はまた限られていると思うのです。

「ハムレット」は心に残るいい作品でした。

だけれどもしも演劇の神がいるならば、決して満足などしないと思います。そしてまだまだ地上にとどまってある男に仕事を続けろと言うに違いないと、ふとそのお芝居を見ていて思ったのでした。

※     ※       ※  

思ったことや感じたことが多くて、それをどんなふうにまとめようかと考えている間に日にちだけが過ぎていってしまい、そうこうしているうちに東京公演〈さいたまだけれど〉は終わってしまいました。

アウトとイン。

パソコンの話ではないですが、自分の中の持っているものを私は上手くアウトプット出来る事がとっても大切な事だと、前々から思っているのです。自分の中に取り込む事が多くても、それを抱え込んでいるだけでは、脳内でそれが形を成さず消えて行ったり、またはそれに囚われて頑固になったりすると思うからなんですが、お芝居を見て感じる事も多かったと言っているのに、加えて、ふと、21歳の時の藤原竜也は、この「ハムレット」をどのように演じていたのだろうと、〈すでに前の記事に書きましたが〉youtubeでそれも見てしまい、止せばいいのにその時のインタビューなども見続けて、またまた多くの感想を持ち、抱え込み過ぎて更に言葉の迷宮に迷い込んでいるようなものです。

 

2003年度の「ハムレット」のインタビューの時に、蜷川幸雄が藤原竜也に向けて
「ストイックに向き合う者だけに放つことのできる光がある。」と言った時に、もう頷くしかなかったです。そして胸が痛くもなりました。21歳と言ったら、私にとっては子供と言っていいような年齢なのです。その若き人から教えを乞うことがたくさんあるような気になったからです。

この時の言葉は2015年の今回のお芝居にも通じているように思います。

藤原竜也が拘った「進化」がそこにはありました。

 

たとえばとたった一つだけ例に挙げる所が「殺陣とか」と言ったら、「そこか~!!」と突っ込まれるかもしれません。

でもそこは難しいことを何もなく考えずとも分かる場所であるかと思います。伊達に「劇団新感線」のお芝居に出たり「るろうに剣心」に出てたわけではないのですよね。

レアティーズとの対決のシーンはスピード感と説得力がありました。

剣の腕の評判の高いレアティーズよりも日頃の鍛錬を怠っていないハムレット王子は強かったのです。

何事もなければ、まさに王の器に値した者だったのですね。

 

そして若きハムレットと今のハムレットの共通して言える事は、際立つ美しさではないかと思ったのでした。

悲劇の舞台では、やはりハラハラと花が散るがごとくの悲しみが欲しい所です。やはりその花は鮮やかな美しい花であって欲しいですよね。まさに彼はその美しい花であったと思います。

 

だけど私が藤原竜也を贔屓にしていることは周知の事実。

これ以上言ったとしても、親が子が何をしても憎からず思うのと同様に取られかねないのでこの辺にしておく事にしましょう。

 

 

 「ハムレット」はシェークスピアの4大悲劇の一つですが、それでもなんとなく優しいと言うかホッとできる部分があると感じたのは、友人ホレイシオの存在だと思います。

もしもシェークスピアが現代のライターさんだったら、父王の亡霊を、果たしてハムレットよりも先に見せてその報告をし、そこからハムレットが父の亡霊に会えると言う展開にしただろうかと感じたのでした。

「悲劇」の舞台を目の前にして、涙を友にしながら物語に心酔することの多い私に一粒の涙の欠片さえなかったこの舞台。

次に見る機会があったら、そこは分からない事ですが、確かに今回はそうだったのです。

そうであったのは、やはりホレイシオの存在だったのではないかと思えてしまうのでした。

死は人生の中で一番の悲しみの出来事だと思います。それが仕組まれてしまった不覚の死、無念の死であったならば更なる悲しみ。でも本当の悲しみは、誰にも真実を知られない事なのではないかと、私は思っているのかもしれません。

たった一人でも最初からハムレットの行動を理解し真実を知っていた友、ホレイシオ。

殉死する勢いのホレイシオの手を止めて、真実を語れとハムレットは言い、そして後継者の名を託して逝くのです。

 

考えてみれば「ロミオとジュリエット」も二人の死は悲しくても憎しみ合っていた両家は和解していったし、「ジュリアス・シーザー」でもブルータスの死はアントニーの言葉によって尊厳を与えているのです。

物語の闇と光のバランスが、その物語の大きさを決めるのかもしれません。

それを知っているから、もしもシェークスピアが現代のライターさんであっても同じ展開だったかもしれませんね。

でも物語のバランスを崩して物語のスケールを小さくしてしまっても、闇の度合いを高めより悲劇性を増すことは、彼の時代には無理でも〈観客が理解できないから〉今の世の中なら可能だと思いました。

つまりホレイシオの存在からハムレットの妄想の産物なのです。亡霊も父王の死に疑念を抱くハムレットの心が見せた幻。

舞台を見ると言うことは〈映画でも言えることかもしれませんが〉、自分を映す鏡のようなものなのかもしれません。

きっと私は、真実が語られない事と同じように孤独で物事と立ち向かう事の中に悲しみを感じる人なのかもしれません。

 

次に私が感じた事は、ゆっくりパンフレットを読んでいたら、全く思った事と同じことが書かれていました。

亀山郁夫氏の「『ハムレット』、または擬制としての父殺し」のページに書いてあることなのですが、その続きはまたの機会に書くことにします。

と言いましても、そんなには間は空けるつもりではありませんが、間に他の記事が入ってしまうかもしれないとちょっと思っているのです。

 

物語の感想も舞台の感想も書きたいと欲張っているとこうなってしまうわけですが、ちょっとだけ欲張らせていただきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 


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