森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

約8年 その18

2023-03-14 02:49:44 | ランダム自分史

私がコロナのワクチンの3回目を打った日付を、サラリと言えるのは、それには理由がありました。

2022年3月11日にモデルナのワクチンを打ったのですが、その時診察してくださったお医者様が言いました。

「このワクチンの副作用が一番強く出るとしたら、明日で、明後日はケロリです。」と。

確かに翌日の12日、私は寒気と怠さに苦しんでいましたが、熱を測ると37.2ぐらいで、さして高くもなく、言うなれば、体にこもった熱に苦しんでいたように思います。

それが一日中続き、私はゴロゴロとずっと布団の中に居ました。

 

夜の9時過ぎだったでしょうか。

家の電話が、リーンとなりました。

思わず時計を見る私。

電話に出た夫が、「ああ、ハイハイ。今、横になっていますが代わりますね。」と言いました。

それで私は姉の蝶子さんからだと分かり、そして「来た!!とうとう来てしまった。」と思ったのでした。

やはり思った通りでした。

「今、スノウさんの旦那さんから連絡が来て、急変したって。今は落ち着いたからって。でも今日か明日からしい。」

「明日、行くわ。」

「横になっているって言ったけれど、大丈夫なの ?」

「大丈夫よ。単なるワクチンの副作用だから。お医者さんが言うには、明日はケロリだそうよ。その言葉を信じて、私は行くわ。」

 

2021年の10月11月、そして2022年の1月と、なんとなく通いなれて来たスノウさんの家に私たち三人は向かいました。

家に着くと、既にスノウさんはまったく意識のない状態でした。

ツレアイさんが、「耳は聞こえていると思うので、声を掛けてあげてください。」と言いました。

 

それで私は、前からずっと思っていた事を言いました。

「私たちはさ、確かにいろいろと相いれない事もあったよね。でもそれは親たちの育て方とか生まれて来たタイミングとかでさ、たまたまそうなっちゃっただけだと思うの。

次に生まれた時にはね、また姉妹になって、もうくだらないことは全部捨てて、最初から親友のように、子供の時から、一緒にいっぱいいっぱい遊ぼうね。」

私の番が終わって、「どうぞ。」と振り向くと、蝶子さんも名都さんもすでに滂沱の涙。

「もう、言う事がない。」と蝶子さんは言いましたが、それでもたぶん何か言ったと思います。

いつもなら、そういう言葉も私は逃さず聞いて、私の中に記憶として残したりするのですが、何か自分の一番言いたかった事が言えて、私はホッとしたのかも知れません。まったくその時蝶子さんが名都さんが、何を言ったのか覚えていないのです。たぶん聞いてもいなかったのかも知れません。

まだ、私には言いたい事があったのです。

 

ふたりがスノウさんの傍を離れた時、私はまた彼女に話しかけました。たぶん彼女がずっと聞きたかったと思われるその言葉を私は言いました。

「スノウさん、お父さんはね、あなたの事を一番綺麗な娘だと思っていて、とっても自慢に思っていたよ。
スノウさん、お母さんはね、あなたの事を一番強く想っていたよ。そして一番の自慢の娘だったよ。

スノウさん、二人はね、あなたの事を凄く凄く愛していたよ。」

そして、もう言うべき事もなくなった私は、

「良い子だね、あなたは本当に良い子だね。」と、彼女の頭を撫ぜていました。

 

ある時、実家にて名都さんとスノウさんは私の枕もとで飲んでいました。酔っぱらった二人の声が大きくて、彼女たちが眠りにつくまで家中が眠られず、ずっと経ってから、スノウさんに義兄には、謝っておいた方が良いと言った事があるのです。ああ、あの話ねと、中には分かって下さった方もいらっしゃるかもしれませんが、寝たふりしながら聞いていたあの二人の酔っぱらいの話を、私は忘れたことはなかったのです。

 

この日、義兄が母の事も連れてきてくれていました。

最後に母も連れてくる事が出来て良かったと思いました。その母が帰る時に、皆も一緒にと言う雰囲気にちょっとだけなりましたが、

私がまだ帰らないと言うと、義兄が

「お父さんの時と同じような気がするの?」と聞きました。

「うん。」と私は頷きました。蝶子さんも名都さんも帰りませんでした。

 

ワクチンの副作用は、翌日が一番ひどくて、その翌日はケロリと言いましたが、それでも私は少々疲れてしまいました。

みんながスノウさんの周りにいた時、ひとりちょっとだけ離れた椅子に座っていました。

この時スノウさんの息は、痰がのせいかちょっとゼイゼイしていました。何とか少しでも楽にならないかとみんなで努力をしていたのです。その時、名都さんが

「泣いている。」と言いました。

えっ、と思って立ち上がりかけたけれど、なんだか切なくなって、また座ってしまいました。

だけど、また名都さんが「息をしていない。」と言った時は、さすがにベッドの所に飛んでいきました。

 

この時、名都さんが「心臓マッサージ!」と言い、私が「しないのよ。」と言った話は別に書きました。

 

あまりにもあっけない最後の様子に、皆が眠っただけではないのかと思ったほどです。

するとツレアイさんが、スノウさんの肩をポンポンと叩いて

「ママちゃん、ママちゃん」と呼びかけました。

だけど私は手を取って脈を探し、そして首筋を触って、やはり波打っていないか探してみました。

「悲しいけどさ、やっぱり脈ないよ。それにさっきまで部屋中に聞えていた息の音が、今は全くしないもの。」と私は言いました。

この時、私はスノウさんの頬に残っていた涙のあとを見て驚きました。脳の腫瘍の為に、右目はかなり前から潰れてしまっていたのです。涙はその右目から出ていたのです。

かなり後から思い出したのですが、人が死んでいく時には、体の悪い所がすべて治っていくと、真実は知らない事ですが聞いたことがあるのです。もしかしたらその右目の涙は、目が治ったという知らせだったのでしょうか。ただ私には、その時は、スノウさんからの「ありがとう、さようなら」のメッセージに感じたのでした。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と名都さんが、泣いていました。それまで気丈だった娘ちゃんもベッドに顔を埋めて泣きだしました。

「いきなり来たなぁ…!」とツレアイさんは、その驚きの方に戸惑っていたように感じました。それに彼に泣いている暇など無かったのです。

お医者様にさっそく連絡してきて頂かなくてはならないからです。

それにそれが終わったら、葬儀社に手配を考えなくてはならないのです。

バタバタと動き出しました。

泣き虫kiriyはこの時、号泣してたかと言うと、まったく泣きません。その時泣いているように見えたら、みんなが泣いていてなんとなくバツが悪いので泣いているように見せているウソ泣きです。私は別れや悲しみに鈍感な人で、そういう感情は、一旦波が静かに引いて行き、そして後から後から押し寄せて来るのに似ています。

 

お医者さんが来るまで、ツレアイさんがぼそぼそと語りました。

「介護する時、着替えさせたり体を拭いたりで、顔の距離がどうしたって近くなるじゃない。その時、彼女が『パパさん、ハンサムだね。』って言うからさ、『そうだろぅ』って言ったんだ。」

「良い話だね。」と私が言うと、

「うん、それをよすがに生きていこうと思う。」と彼はまた言いました。

ジーンとしました。

 

そうこうしているうちに若いホームドクターがやってきました。若いと言っても40代後半ぐらいだと思います。

「皆さん、お会いする事が出来たんですね、良かったと思います。昨晩急変した時に、旦那さんが焦って救急車を呼んでしまっては、皆さんは会ってお別れする事が出来ませんでしたよ。」とその方は言いました。

死亡診断をするのに、邪魔なのでやはり隣の部屋で座っていました。

そのドクターは、ツレアイさんがこちらの部屋に来ても、まだ一人スノウさんの横に立っていてカルテを見ていました。

そして静かに横たわる彼女に話しかけました。

「3月4日で61歳になる事が出来たんですね。良かったですね。」と。

その言葉が聞こえて来て、私は思わず振り向いてドクターの背中を見ていました。

すると彼は、

「約8年、お疲れさまでした。」と優しく声を掛け一礼をしたのです。

 

私は思わず立ち上がり、彼が帰っていくまで座らず

「どうもありがとうございました。」と深くこうべを垂れました。

 

 

「約8年」は妹の闘病の記録と言うよりは、私の人生の中での大きな出会いと別れのお話です。

昨日から書き始めたのに、結局は日にちを跨いでしまいました。昨日が、スノウさんの命日だったのです。

私はこの記事を1年かけて書きました。

計算していたわけではなく、掛かってしまったのです。

だから私にとっては「約9年」の物語・・・。

 

スノウさんの本当の名前は「ユキエ」と言うのですよ。

「ゆきちゃん」、本当はこの名前の方がずっとずっと可愛らしかったですね。

だけどこの「ゆき」は「雪」ではなくて、「幸」で「え」は「枝」なんです。

彼女の幸せな枝に、多くの人が小鳥になって止まった事でしょう。

もうゆきちゃんは、この地上には居ません。

その枝に止まった小鳥たちのたくさんの想い出の中と、そして心の中にしか。

 

 

「約8年」を今までお読みいただけて、ありがとうございます。

想い出は先に書いたように枯れる事のない泉のようなもので、尽きる事もないのですが、ゆきちゃんとの出会いと別れの物語は、これにて終わりです。

繰り返しではありますが、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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約8年 その17

2023-03-13 09:05:28 | ランダム自分史

約8年 その15

約8年 その16の続きです。

 

スノウさんとの思い出を語りだせば、なんたって付き合いも長いわけですから、たくさんあるのです。

先日は夫とお好み焼きを食べに行きましたが、その時も、スノウさんが浅草でも世田谷のお店でも焼いてくれたなと思いだし、しみじみとしてしまいました。

彼女との「ポーの一族」の話などは、本当は語りたいところです。

ですが、想い出は溢れる泉のようなものなので、いつかまた聞いてくださる時が来ればいいなと思います。

 

だけど、このお話だけはしたいと思っているものがあるのです。大した話ではありません。

きっとスノウさんが生きていてこの話をしても、「そんな事があったかしら。」と言ったと思います。

 

「花ちゃんはライバルだから」と言ったスノウさん。

確かに学校の成績は勝ってたよ。

次女だからね、家族への貢献度も高く発言権も強かったかも。

だけど最初からいろんなところで負けてたんだ。

 

今では、夜はすっかりとドラマタイムですが、昔は夜の散歩が好きでした。

昔とはどのくらい前かと言うと、独身の頃からです。あれは高校生だったか大学生の頃、夜になると様々な想いが心の中で暴れ出す事がありました。

そんな時、その苦しさから逃れたくて、夜の道をただ歩いていました。

今思うと、かなり危ない行動だと思います。

しかも、その頃の私の好きな場所は、歩道橋の上だったのですから。

これも今思うと、かなり迷惑な行為だったかもしれません。

深夜ではなくても、歩道橋の上から若い女性が下を見下ろしているのですよ。

ドキリとしたドライバーの方もいらしたかもしれませんね。

だけどその頃の私は何も考えずに、来る車行く車の白と赤のライトを、ぼんやりと眺めているのが好きだったのです。

と、そこに向こうから青年を2人引き連れている女の子がやって来るのが見えました。

青年たちを両脇にやって来るその子は、まるで若き女王に見えました。

「あれはさ・・・」

「でも私はさ・・・」

と風に乗って声がチラチラと聞こえてきました。

 

私は歩道橋の上から

「スノウさん、やるなぁ。」と見ていました。

そう、その女の子はスノウさんだったのです。彼女だと分かっても、私は歩道橋を走って降りていくなんて事はしませんでした。なぜなら一緒にいた青年たちに、少々驚いていたからです。

かつて中学の生徒会の執行部にいた先輩たちで、彼らは私の目から見たら、いつもキラキラしていました。

その頃からジャニーズ張りのイケメンで、頭も良くて医者の息子である男子を中心に、顔はちょっと濃くて、だけどいろいろな事に興味を持ち実行する人と、メチャクチャ頭が良くて、確かに眼鏡くんではあったけれど、早稲田に合格したものの、それは繋ぎで、翌年には東大に入っていったと噂があった人。その時医者の息子はいなかったかもしれませんが、それでも私にとっては高根の花を、しかも引き連れたように歩いてきたのだから、「凄いな」と思わざるを得ません。

その頃は「花より男子」などと言う漫画はなかったわけですが、私はその頃の漫画の何か(忘れてしまった(^_^;))を連想しました。木原敏江だったか一条ゆかりだったか !?

学校の一番目立つグループと普通の少女の絡みと言うのは、少女漫画の定番なのですよね。

家に帰ってからスノウさんに、その事を言うと、

「へぇ、あの人たちが ? あー、確かに頭は良いかもね。」と気のない返事。

 

スノウさんは、この先の人生でも、彼女のツレアイからも

「彼女、人脈、広くて凄いからね。」と言われるような友好関係があったようです。

 

だけど私の目から見たら、中学生時代は自分で演劇部などを作り、文化祭などで自作のお芝居を演じそれなりに好評だったようですが、友達などそれほど豊かではなく、寂しい人間関係に見えていたのです。それと言うのも、かつての学校という組織がそれを思わせたように思うのです。あまり勉強に熱心でない生徒を、無視し排除し押しつぶそうとする能力のない教師が昔は紛れていました(きっぱり!)。そんな者に、彼女は苦しめられた時代があったと、私は思っています。

だけど人には良い出会いと言うものがたくさんあると思いますが、その出会いと言うのは人とばかりではなく、ある種の組織、つまり何かのサークルなどと言うものもあるような気がします。

彼女は、ある時から、子供会や何かそういうグループの集まりの時に、ゲームや遊びを提供して楽しませるというボランティアに参加したのです。

先に書いた、キラキラ男子先輩たちともそこで知り合ったみたいです。

ある時、近所の公園で子供会の集まりがあり、それをスノウさんたちがそのイベントを進めるのだと聞いて、応援の意味を込めて蝶子さんと見学に行きました。実は心配だったのです。

ところが、多数の小学生の輪の中心になって、スノウさんは大きなハリのある声で

「みなさーん、今日は・・・・」とゲーム進行をしていました。

そのイキイキとした姿を見て、私は驚き蝶子さんと顔を見合わせてしまいました。

 

「スノウさん、凄いね。いつからあんなことが出来るようになったのかしら。」

そこに居たのは、私の知っている寂し気でちょっとさえないスノウさんではなかったからでした。

 

中学生時代は、その「寂し気な」と言う印象も、それは私の思い込みだったのかも知れません。それとも後に彼女は変わっていったのか。

ある時、母が言いました。

近所のスノウさんの同級生のお母さんからお礼を言われたのだそうです。

「心配して出掛けて行った娘が『楽しかった~。次も楽しみ。スノウさんのお蔭』と言っていたのですよ。」と。

ある時から、スノウさんの中学校の同級生は、数年に一回、クラス会を開くようになったのです。

この時、なんとなく遠慮して距離のある人も巻き込んで、みんなが「楽しかった」と言う場所を作ったのは、彼女のホステス気質がかなり貢献したと思います。

 

 

アーア、生きてるうちにもっと褒めてあげれば良かったなと、私は思いますよ。

でもね、きっと

「でしょう~。」と言う得意げな顔で、彼女は言ったと思います。

ふーんだ。やっぱり褒めなくて良かった(笑)

大丈夫。きっと他の人にいっぱい褒められていたと思うから。

 

 

 

 


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約8年《番外編・残酷な夢》

2023-02-15 00:21:03 | ランダム自分史

それは昔からなのですが、体のどこかが不調だと悪夢を見る事が多い私です。

でもその夢は、それなりにストーリーがあったり、心に残る風景があったりで、意外と嫌いではありません。

例えばある日ー、

〈ああ、しかし、夢ってあんなにはっきり覚えていたというのに「君の名は。」でも言っていた通り、どうしても覚えていられない宿命があって、あっという間にモヤモヤの中に吸い込まれて行ってしまうのは、ある意味、自分の脳と心を守る為でもあるのかも知れませんね。長い夢のストーリーをすべて覚えていて、毎日見ていたら、とんでもないことが起こりそうです。だいたいはっきりと覚えているのはそのラストなのではないでしょうか。〉

ー、タクシーに乗って子供を迎えに行くんです。

「ここから先には行けません。」とタクシーの運転手が言うので、降りて、振り向くとそこには長い長い砂の下りの坂道が続いているんです。

夢の中に自分で作り上げた街があるなんて事はないですか ?

私は横浜の育った町がベースで、故郷の町と作りは一緒なのにまったく違う街の中が、たいがい私の夢の舞台です。

ちょっと変なのですが、その夢の中の街は、本当に綺麗な風景が多いんですよ。

その下りの坂道のその先には、さながら日本アルプスのような山々が見えて、なんて美しいのだろうと、しばし足が止まるほどです。

それなのに、そこから続く夢は、ちょっと怖いホラー・・・・。

それでもそんな綺麗な風景を見る事が出来たのなら、まあいいかと言う所です。

 

だけど昨日見た夢は、何でかスノウさんがやたら元気な夢でした。

ほんの少しは「あらら」と思いました。だけどあまり深くは考えなかったのです。

あまりにも普通に当たり前のようにいたから。そんな事もあるな。なんか気を付けようっと。何に気を付けるのかって。さあ、よく分からないけれど、何かに?

そんな感じ。

 

私たちはいつものように賑やかでワイワイとしていました。さながらみんなでディズニーランドに遊びに来たノリと言う感じだったと思います。

大きな声で話すスノウさん。

そこは何かのイベント会場で、そして私は何かに関わっていたみたいで、何らかの雑用に追われていました。

その時スノウさんが言いました。

「あそこ、楽しそう。あっちに行ってみない ?」とそのイベント会場の一角を指さしました。

「あっ、今私ちょっと行けない。」と私は言い、

名都さんと蝶子さんに、一緒に行ってあげてと頼んだのです。だけど私が戻ってくると、スノウさん一人だけが、そっちのブースの方に行っていました。

「どうして付いて行ってあげなかったの ?」と聞くと、二人は不思議そうな顔をしました。

「ひとりで平気と言うから、ここで待ってることにしたのよ。イケなかったの?」

「見張ってなきゃダメなのよ。」と私は言いました。

 

そう。見張ってなきゃダメなのよ。いったい何から ?

だけど私はそう思って、そのブースまで走っていきました。

なんとそのブースの奥は、海水浴場のようなプールになっていました。

真っ赤な唇の受付の女が、笑いながら聞いてもいないのに、「あそこにいる。」と言いました。

 

私は悲鳴をあげました。

なぜなら妹は、楽しそうに人口の波にはしゃぐ人々の向こう側に、ぷかぷかと息もしないで浮いていたからです。

「ダメよ~ !!!」と私は叫びながら、水の中にバシャバシャと入っていきました。そして沈んでいる妹の頭を水の上に一生懸命に持ち上げました。

「まだ大丈夫。間に合うから。息をするのよ。息をして。息をして。息を !!」

 

私はこの夢を、目覚めた後しばらく忘れていました。

午後になってふと思い出し、しみじみと、なんて残酷な夢なんだろうかと思いました。

あの子はキラキラと生きていなたぁと思い、またあの子は死んだんだなと思ったからです。

 

※      ※

スノウさんの心臓が止まった時、名都さんは願うように言いました。

「マッサージは !?  心臓マッサージしたら・・・。」

だけど私は、小さく首を振り、はっきりとゆっくりと名都さんに言いました。

「しないのよ。」と。

 

自宅で延命無しを希望するという事は、実はそういう事なんです。父の自宅での看取りを経験したので、いろいろと分かっていた事もありました。

心臓が止まったからと言って、救急車などを呼ぶなどしないわけで、ゆえにこの場合の心臓マッサージなど本当に意味がない事だと思います。

だけどこの時、その言葉が出て来るとは、実は私にとっては思いもよらない事だったのです。

その時、冷静な私は言うべき5文字を彼女に伝えたけれど、その裏側には、その無駄な意味のない行為を誰よりもしたかったもうひとりの自分が居たんじゃないかと思うんです。

その閉じられた目が再び開かなくても、息をするその呼吸は苦しそうでも、今ひとたびその息の音を聞きたいと、馬鹿みたいになりふり構わずにやりたかった・・・・。

そしてそれはその部屋にいたみんなも、きっと同じような気持ちだったんじゃないかと、今でもふとそう思う時があるのです。

 

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約8年 その16

2022-12-30 01:26:38 | ランダム自分史

「約8年 その15」の続きです。

前回の記事だと、取りようによっては、スノウさんがクレームモンスターのような感じになってしまいました。なので今回は彼女の汚名返上・名誉挽回の記事です。

ある時母が自慢げに言いました。

彼女の中学の先生が、皆、夢を語ったけれど、その夢を叶えたのはスノウだけだったと言ったのだそうです。スノウさんの夢は「女優になる」だったのですよ。

それを聞いて「凄いなぁ」と、私は少しだけ羨ましく思いました。

 

そう言えば、ここまで書いたらある事を思い出しました。

それは「泣けと言われたら泣けるのか」と言う記事に書いたことですが、

> 『昔の事ですが、劇団の養成所にいた妹が、「今日は泣く授業だった。」と言いました。泣けと言われたら、すぐ泣かなければならない授業だったそうです。

「出来たの?」と私が聞くと、「お姉ちゃんのお陰で出来た。」と言いました。
「あのね、お姉ちゃんが死んでしまった事を想像したらすぐに涙が出てきて、結構号泣しちゃった。」

一瞬、私は嬉しく思ってしまいました。なぜなら私でも姉妹が死んだ事を想像したらかなり悲しいと思いますが、すぐに涙が出て、しかも号泣モードにはならないよなと思ったからです。

が、妹は続けて・・「ああ、あの人はあれやこれやと未来の展望を語っていたけれど、結局何も出来ず、何もしないまま、ただこの世から消え去ったのかと思うと、なんか憐れで惨めで・・・」

―あのなあ 』

《続きが気になる方は、リンクした記事にてどうぞ。》

だけど、まったく失礼しちゃいますよね。

 

まあ、それはともかくとして、話を元に戻して「女優」などと言うと、「誰 ?」となる方もいらっしゃるかもしれませんが、はっきり言って無名の人です。テレビを点けたら、思いがけず彼女が出ていて吃驚したことがありましたが、ほとんどセリフのないモブの人だったかと思います。だけどそれは別に「売れなかった」と言う悲劇の人でもないんです。それにそれでも彼女の職業は女優でしたしね。

 

これは彼女が女優志願だと知った頃の事ですが、私はたまたま「結婚しない女」と言う映画を見ました。

今見たら「それが ?」と言うような内容かも知れませんが、あの頃はかなり進んだ作品だったのですよね。

でも私はその映画を見て、一番印象的だったシーンは、他の人には意識にすら残らない場面だったと思います。

それは、朝、夫婦で目覚めると、ベッドから起きようとする妻のパンティの中に手を入れる夫・・・・。

それはベッドを共にしている夫婦だったら、すこぶる普通のさりげないシーンで、誰もそこに目を止めないと思うんです。

でも私はその時思ってしまいました。

「女優ってたいへんだなぁ。」と。

それで妹に言ったんです。

―女優を目指すなら、最初に決めておかなくちゃならないよね。自分はどこまで自分に許すかをね。人が見たらさりげないシーンでも、本人は相当大変だと思うよ。体を触らせてもど真ん中を目指すか、それを許さず脇を目指すか。
売れる売れないの行き当たりばったりでなく、最初に決めておけば、目指す道は変わって来るよ。―ってね。

 

もちろん、その時は私は勘違いをしていて、今の時代は脇の人であっても、更に過酷な条件を飲まなくてはならない時もあると思います。

だけどそんな事を言ってた私って、いいお姉ちゃんだったなと思うんですよ。しかしスノウさんは、この先こんな話を私としたことなんて、すっかりコンコント忘れてしまったと思います。それでも彼女は「道」を選んでいき、「アンパンマン」とか「くまのプーさん」とかのミュージカルを中心にお仕事をしていたのですよ。

 

そう言えば、彼女が高校生の時、演劇部の部長をしていたと思うんです。女子高でしたが、ファンレターなどを貰っていました。

実は実はですが、最初のお手紙のお返事は私が代筆したのですよ。

女性からのお手紙ですからね。

逆に凄く気を使って書いた記憶があります。

 

きっとこの事も、スノウさんは忘れていたと思います。(/_;)

でもその時、ファンレターをくださった方は、その後もスノウさんの舞台のチケットを買ってくれていたのですって。

ああ、なんかさぁ・・・・。

スノウさん !

文句ばっかし言ってないで、少しくらいは私に感謝しても良かったんじゃないかしら。

如何にその人たちの心を掴んでいたのが、あなたの魅力だったとしてもね。

 

だけど彼女の舞台の想い出は、私にとっては楽しいものばかり。いつか番外編で書きたいような気がします。

 

その後彼女は結婚して、オツレアイさんとの時間のすれ違いを解消するために、仕事を辞めてしまった時、私は一言も何も言わなかったけれど、本当は凄くがっかりしました。

 

意外とねー。

ファンだったんですよ、彼女の。


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約8年 その15

2022-11-11 10:49:17 | ランダム自分史

約8年 その14

約8年 その13

の続きです。

 

「4人も姉妹がいると、中には気が合わない者もいますよ。」

そんな事を友達に何気なく言ってしまっていたのは、あれは父が亡くなる少し前あたりの頃だったと思います。

スノウさんの場合は、長い人生とは言えなかったかもしれませんが、それでも思わず「波乱万丈な人生になっちゃったね。」と言ってしまうほど、彼女にはいろいろな事があったのです。

そんな中で、どんなに明るくふるまっていても、ちょっと心がすさんでいた頃があったのかも知れません。

特にお酒が入ると、攻撃的になっていたのです。誰にでもではありません。私にです。

ところが彼女は私に対して言ってるつもりでも、先に周りに居た人が眉を顰め逃げ出したり、先に怒りだしてくれたりで、かなり墓穴を掘っていたと思います。

今でも思い出すと、一族全員が集まった時に、「なんだって、あの時、彼女は・・・・・」と思う出来事があり、その時は先に父が逃げ出し、1か月後に又実家を訪れると、ずっとモヤモヤしていたのか、父の方から話題に振ってきました。そして彼女は「酔った時は要注意」人物になってしまいました。

またもところが、要注意なんだから身構えるぞと思っても、酒豪の彼女は少々飲んでも顔色変わらず、いったいどこら辺から酔っているのか分かり辛らかったのです。だから身構える前に爆弾投下されることもしばしば・・・・(/_;)

で、ある時私は言いました。

「あのさ、君さ、酔うと人格変わるの知ってた ?
でさ、しかもどっから酔っているか分からなくて、いつの間にか酔ってるのよね。今度からさ、『もう酔っていますよ~』ってサイン送ってね。」

実はこの「酔ってますよ」サインの話では、お酒飲みながら、ちょっとだけ盛り上がった話題になりました。

なんでも楽しくしてしまうのが我が家流ってなところですが、彼女の私への攻撃は、何も酔っている時ばかりではなかったのでした。

もちろんそれは攻撃というほど過激なものではなくて、いわゆる「文句」と言うものです。

あの時も、この時も、あれもこれも、もうてんこ盛り。

普通だったら、もう決裂だよ、スノウさん !!

 

だけどそうはならない。

私たちは姉妹で、私がお姉ちゃんだから。

それで喧嘩になる事もなかったけれど、ある時に、私は疲れてしまって、「気の合わない者もいる。」と言っていたのだと思います。

もちろん妹が病気になってからは、そんな事は棚の上です。

気が合う、合わないなどと気が止むのは、それは何事もなく平安な時だからで、一大事な事が起きたら、「どーでもいいや」的な案件になってしまうのではないかしら。

 

だけど愚痴る。誰にかと言えば、私の受け皿は姉の蝶子さんです。

蝶子さんはいつも言いました。

「それはスノウさんが、花ちゃんをライバルだと思っているからだと思う。」

「ライバル !?

あの人何もやらないじゃん。ライバルだなんて100年早いわ。」

この「何もやらない」と言うのは、我が家的イベントに限ってのお話です。

みんなからリクエストを聞いて企画してリサーチしてプランを決めて、ホテルの予約して、交通手段を調べて、チケット取って、時にはタクシー会社にも電話する・・・・そしてスノウさんに文句を言われる・・・と。

家でのパーティ。企画して買い物して作って片付けて。確かに盛り付けと片付けはお手伝いはしてくれたよね。で、やっぱり文句を言われて。

あの・・・・それ、やりたかったんか、君 ?

 

じゃあ、どんなことがあってどんなことを言われたのかなんだけれど、そこは書かない方が良い事なんですよね。元々、あまり悪口はかかない方です。だけどある時、あまりにも酷い時があって、ついつい書き込んでしまった事があります。

『16日の夜、私は湯船につかりながら、ある事で心の底から「嫌だなぁ」と思い疲れ果てていました。腹を立てたり怒ってみたり・・・・って同じ事か。

だけどそうそう、人は長々と怒ってはいられない者なんですよね。』

これは、2020年2月15日にみんなで会った時の事。←「2月の飾りはお雛様

これではなくて他にもあったような気がするのですが、見つけられませんでした。でも書き込んであるのは、やっぱり何も具体的な事はなくて、「みんなが凍り付いた嫌な発言」的なような事。それを読みなおして思ったのは、上の記事の「嫌だなぁ」に対してもそうですが、「なんじゃそりゃ?」です。

何があったのか、彼女が何を言ったのか、すっかり忘れてしまってまったく意味もない事です。

「嫌な事は、『言わぬが花』だなぁ。」としみじみと思いました。

上に書いた、

>『あの時も、この時も、あれもこれも、もうてんこ盛り。』の部分の出来事は、実はほぼみんな覚えているのです。

私は、楽しかったことも嫌だったことも、勿体ないので忘れないように努力するタイプ。

嫌だった想い出も、捨てたくないと思う「捨てない族」の強者なのです。(笑)

せっかく経験して学ぶことがそこにはあるのに、忘れてしまっては同じ事を繰り返すじゃないですか。

だけど、あの時この時の彼女の発言を忘れてしまったのは、「辛い」と書いて捨てたからなんだと思いました。

そしてこの先、きっといろいろと忘れていってしまうと思います。楽しい想い出以外は。

 

スノウさんがほとんどベッドから離れられなくなった頃、二人だけで電話で話す機会がありました。彼女が私たちに順番に電話を掛けて来たからです。

その時、あれやこれやの楽しい話の時に、私は言いました。私はもう、私たちの間に一つもわだかまりの様なものを残したくなかったのです。私たちの心の矢印は、すべてスノウさんの方に向いていたし、心の底から彼女を大切に思っていたからです。

「だから君さ、私に文句言い過ぎじゃん。」って。

するとスノウさんは間髪入れずに

「仕方がないよ。花ちゃんはライバルだから。」と言ったのです。

「えっ !? ふーん、そう。」←間抜けな返事。

 

それは少し驚いてしまったから。

その話を蝶子さんにすると、彼女も驚いて、

「それ、あの子が自分で言ったの ?」と言いました。

その言葉、蝶子さんに言われるのと、彼女本人が言うのとでは、若干意味が違うように私は感じました。

何故、ライバル ?

と、私は真面目に思うからです。

あまりスノウさんとの最後の日々に後悔はない方だと思うのですが、実はこの時の間抜けな返事には、少々の悔いがあります。

ちゃんと言ってあげれば良かったです。

「そうね。確かにあなたは私にいろいろと負けてると思うわ。

だけど私もあなたにはメチャクチャ、いろいろな事で負けていて、いつも凄いなと思っていたわ。」って。

 

そう言えば、蝶子さんのお友達のかなりの霊感の持ち主のお友達が、私の夢の話を聞いて

「スノウさんは夢の中で話しているの?」と言い、蝶子さんがそうだと言うと、

「じゃあ、まだ、傍に居るね。」と言ったのです。

 

と、言うわけで、これがあの時のお返事よと、振り向いて誰もいない空間に呼びかけてみる私。

 

※ 今の私は少々疲れていて「勝つ」という強い言葉は使いたくないので、ネガティブっぽいけれど「負ける」と言う言葉を選択しました。

夫の兄はおととい電話で「今日か明日」と命の終わりを告げてきましたが、その明日と言う時間を無事に通過したみたいです。

私は膝痛に加え、今日はなんだか腰痛も。

姉は膝の手術をして入院中。認知症の症状が日々更新している母のお世話を義兄が一人で頑張ってます。

私は今日から日曜日まで、ほんの少しのお手伝いに行きますが、その家の家族の生活のリズムがあるので、どれだけ役に立つかは分からない事です。

あー、なんか疲れる。だけど負けないぞ~。

 

 

 

 

 

 

 


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約8年 その14

2022-10-19 02:20:07 | ランダム自分史

・「約8年 その13」の続きです。

「その13」を書いたのが、8月の初めで、いくらランダムに続くと言っても、続いてないなと自分でも思いました。

実は最初は、わざと空けていたのです。ひとつの理由には、せっせと書いていたら終わってしまうからと言う気持ちになってきたからというのもあるんです。

なんですか、それはってな感じですよね。

スノウさんが亡くなった時、私は彼女と私たち姉妹の事を、しっかり記憶しておきたくて、この「約8年」を書き始めたのでした。

 

だけどある時、夢を見たのです。

「なんだ、夢の話か。」と思われた方は、もうここで終わりです。

 

私は時々夢の話を書きますが、私の夢は私の矢印。通過しては語れない事がままあるのです。

 

その「ある時」というのは、スノウさんのお葬式が終わったすぐ後の事です。

どんなに長い夢を見ていても、はっきりと覚えているのは最後だけっていう事も多いのではないでしょうか。

その時も、姉の蝶子さんと末の妹の名都さんと私とで、夢の中で、

「ああ、終わっちゃったね。」と言う感じで、お葬式も初七日も終わった労を、お互いにねぎらっていました。

「ちょっとそこで、お喋りでもしようか。」と言いながら実家(たぶん)の和室に座ると、思わず

「あれっ ?」と声を出してしまいました。

蝶子さん、名都さん、スノウさんと、普通にそこに並んでいたからです。

「えへへ」とスノウさんは笑いました。

「いや、別に平気だよ。怖くないもん。寧ろ嬉しいよ。しかもさ、なんか綺麗だよね。なんか若いしさ。」と私。

すると名都さんが

「うん、まるで18歳ぐらいに見える。ズルいぞ、お姉ちゃん。」と言いました。

「だけどこれ、どうやったの?」と私は一番強く思った事を聞きました。

「あっ、だからつまり・・・」と又言いかけました。この話の流れだと、

「どうやったら、そんなに若返る事が出来るの ?」と聞いているかのようにも取れなくはないからです。

だけどスノウさんには、ちゃんと質問の意味が通じたようです。

「うん、これね。吃驚するぐらい簡単だったのよ。

想いを込めて名前を書いて、ペッとその辺の壁に貼っておくだけなの。」

「えっ、そんだけ?」

「そうなの。」とスノウさんがニコニコして言いました。

それで私も、大きな声で

「なーんだ、それいつもやってることじゃん。」と言ったのでした。

 

しかし声が大きかったのが災いしたのか、謎が判明したのがいけなかったのか、夢が・・・夢が覚めていくのが分かってしまったのです。

えーっ、うそ !?

ここで起きちゃダメじゃん、私。

これからみんなでポテチ食べたりビデオ見たり、「あの時のお葬式ではさ」みたいな事をみんなでおしゃべりするのに、ここで起きたら、「スノウさん登場」だけで終わっちゃうじゃないか~!!!

と、心の中で叫んだものの・・・・・

パチリ

目が覚めてしまいました。

 

「想いを込めて名前を書いて、ペッと壁に貼る ?

何が、『いつもやってることじゃん』じゃないよね。

一度もそんな事やった事ないわい。」

目が覚めて一番初めに、私が思った事はそれ。

 

だけど朝の珈琲を飲みながら、ブログ画面を開いた時に

「あっ、これかぁ~。」と私は思いました

 

せっせと書いたら終わってしまうー。

他の理由も。

超えなくちゃならない箱根の関所みたいなエピソードがあって、それをなんとなく越えられずに逃げていたと言うのもありー。

また日常の生活に追われていたと言うのもありでしたが、止まっていたこのテーマ、またランダムに続きます。

 

 

 


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約8年 その13

2022-08-09 12:36:40 | ランダム自分史

約8年 その12の続きです。

 

二か月前だったか、姑と話をしていた時に、彼女が舅との最後の日々の話をしていました。

これといって深い話の部分ではなく、昔は癌の人に告知などしなかったと言う話をしていたのです。

私の舅は、肺がんで亡くなりました。だけど若い時にやった肺結核に又かかったのだと最後まで信じていたのです。

病院には同じような人がたくさん入院していて、看病しながら秘密を抱えた妻たちが会話を交わし親しくなっていったのも、自然の流れだったと思います。だけど病室から離れた所で交わされた会話は、かなり恐ろしいもののような気がしました。

いわゆる情報交換と言うやつですが、それを聞いて私は言葉が怖いなと思いました。

つまり「私たち『それが頭に行っちゃったら、オシマイ。』って言い合っていたわね」と懐かしそうに語る姑。その時は仲良くなった人と語り合っていても辛かったと思いますが、遠い昔の事なので、今は想い出話なのです。

だけど「それ」と言うのは、癌細胞の事で、脳転移を指しているのですね。

「まあ、そうだったんですか。」などと普通の顔をしていた私ですが、心の中では震えました。

たとえ事実であったとしても、物事には言い方があると、やはり私は強く思います。

自慢ではありませんが、私の姑は96歳にしてピンシャンとしていて頭もはっきりとしている人なのです。だけどほんの数か月前に

「頭に行っちゃったから、オシマイ」になってしまった妹を亡くした私には、語って欲しくない話だと思いました。

「老い」と言うものは、容姿肉体の衰えばかりではなく、さりげなくその人の知性の中に培ってきた気配りや配慮、判断力なども奪って言ってしまうのだと思います。怖い事です。

 

因みに姑の話は、本当に遠い昔、30年も前の事ですから。

もしこれをお読みになって心がざわつく方がいらっしゃったとしても、今の最先端医学の方を信じて下さればと強く思います。

 

ただ私は、彼女の話を聞いて心の中では震えましたが、やはり「そうだったのか。」とも思ったのです。なんだかんだと言っても、私も実はその肺がんで逝ってしまった舅の病気の経験を通して、その経過などを基準にして思考のベースにしていることが多いのです。

父の時も、妹の時も。

 

2019年12月20日に脳腫瘍の手術をしたスノウさんでしたが、その後の経過も良くて家で療養していました。だけどその時、彼女は娘と大げんかをしたのです。

普段は、私はそんな事は我関せずです。でも内容など書きませんが時期などを思うと、初めて娘ちゃんに会いに出掛けて行きました。

「ハマスホイとデンマーク絵画」展に行きました。

の時の、お話ですね。

たくさんのいろいろなお話をしましたが、その時、ちょっと私がスノウさんの事で思っていることを言いました。つまり、病気が治る事を信じているし、願ってる。だけど心の中では、ほんの2パーセントぐらいは、ある種の覚悟はしておかなくちゃいけないんじゃないかなと。年が明ける前は決して言わなかった言葉だったと思います。

すると娘ちゃんは言いました。

「分かっています。だから私は自立するなら今から準備して供えなくちゃならないと思っているんです。」

大人だな。しっかりしているな。大丈夫だなと、私は思いました。その可能性を、縁起でもないとか言う理由で排除しない事は大事な事なのです。

そしてこの親子喧嘩の本質みたいなものが、私には分かりました。今まさに自分の手からスルスルと離れていく娘を、引き留めたいがために、かなりろくでもない事を言ったのでしょう。

今はこの話は、これ以上は踏み込んでは書かないつもりです。

いい感じで娘ちゃんともお別れしました。

 

二三日後に、二人もあっという間に仲直りをしました。なんだかスノウさんの口ぶりで、娘ちゃんは上手く丸め込まれたような感じがしたけれど、スノウさんも凄く反省していて、二度とあんな思いをしたくないと言っていました。

だけどそれを聞いていて、あまりメデタシメデタシではない感じがしました。何も話が前に進んでいなかったからです。

更にスノウさんは私に言いました。

「ハナコさん、なんだか娘がご馳走になったみたいで、今度私がお礼します。」

だけどその言い方にシニカルな雰囲気が漂っていて、「嫌な感じ。」と思いました。

大事な娘を取られたように感じていたのかも知れません。

 

あー、やだやだ。

と言いながら、2月15日に彼女がお正月には食べられなかったしゃぶしゃぶで、実家で彼女の退院祝いをしたのでした。

2パーセントぐらいの覚悟は必要とか言いながら、やっぱり私は能天気。

彼女の体力のなさは、肺がんの手術から来ているので、いつか体力が戻ったら、やっぱりいつも通りの日常が返って来るのだと思っていました。だから当たり前のように彼女に怒っていたりもしたのです。

 

またランダムに続きます。

 

あっ、そうだスノウさん。

今度お礼しますって言ったけど、1個貸しのまんまなんですけど。

と、ここで思わず、振り向いてみたりして・・・・。

 

 

 

 


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約8年 その12

2022-08-05 00:14:55 | ランダム自分史

(2019年秋・十月桜)

 

・「約8年 その11」の続きです。

意外と何でもブログに書いてきたように思っていましたが、読み直してその時の事などを思い出すと、そうでもないなと思えてきました。

自由が丘に行きました。その3」の記事の中には、姉妹と別れた後に、なんとなく気持ちが落ち着かず、上野に満開前の桜を見に行ったことなど書いていませんでした。ただあった事だけを書いた行動記録であっても、その行動には微妙な訳があり、その時は踏み込んだ事を書きたくなかったがゆえに省いたのだと思います。

だけどスノウさんは更に元気になっていき、そして秋には春には来ることが出来なかった蝶子さんも含めて、再び自由が丘で4人集合しました。

→「自由が丘に行きました。その4」

他愛のない事がそこには書いてあります。スノウさんが元気だったので、私もすっかり油断していました。

実はこの日も、みんなと別れた後途中下車して東京散歩をしてきたのです。でもそれは春の時とは違います。私に生クリームは天敵なのです。だけど普通に長距離のバスになどに乗っていなければ、別に問題はないので自由が丘のピーターラビットカフェでも、しっかりとデザートを頂いてきたのでした。

帰り道、またも電車の中で腹痛に襲われた私でしたが、「あっ、そうだ。行ってみたい所があったんだわ。」と、途中下車したのです。

さながらその「行ってみたい所」が目的であったかのように。

昔、勤めていた会社があった街をウロウロして、その変化にまたも凄く寂しい気持ちになってしまった私・・・・。

その時の気持ちを詩にしました。

→「歩いていた

その詩は、別にスノウさんの事を詠ったものではなかったけれど、今読み直すとと、ちょっと辛いものを感じます。

 

だけどあの日が来るまで、私たちはみんな能天気もイイ所です。

あのライン集会で、彼女が「頭が痛いから午後から病院に行くんだ。」と言い、「あらッ、風邪とかひいちゃったのかしら。」とみんなで言ったあの日。

でもその痛みは脳腫瘍によるものだったのでした。

→「自由が丘に行きました。その5

上にリンクした記事にその時の事を詳しく書きました。

2019年12月16日に入院して、そして20日の日には手術を終える事が出来たのでした。あっと言う間の1週間でした。

12月17日には姉妹揃って病院に駆けつけ、翌年2020年の1月3日には母も交えて、また病院にお見舞いに行きました。

「自由が丘に行きました。その6

 

それでも私たちは信じていました。

彼女が病気に打ち勝つことをー。

 

だけど「微塵も疑っていなかった。」などとは、それは書けない事です。

他の姉妹はどう思っていたかは知りません。スノウさん自身も。

 

私は12月13日のライン集会までは、たぶんそれを100信じていたと思います。

だけど年が明けた後、私は心の奥底で違う事を考えていたのだと思います。

 

 


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約8年 その11

2022-07-31 03:17:36 | ランダム自分史

約8年 その10

内容的には「約8年 その9」の続きです。

2014年の10月の終わりに、乳がんの手術をしたスノウさん。それから2018年の年末まで、私たちはお気楽な気持ちで、あっちに行ったりこっちに行ったり、そして実家に行っては楽しい姉妹集会をしていました。

その年末の検査で、肺に白い影が映ってしまったのです。

その時のお話といきさつは「自由が丘に行きました。」をお読みくださればと思います。

 

私たちは、どちらかというとポジティブ思考の集団なのかも知れません。

乳癌、肺がんとやっていても、体力さえつけば、また元のような暮らしが戻ってくると信じていたのですから。

なぜなら、上にリンクした記事にも書いたと思うのですが、その肺がんは乳癌の転移ではないと言われたからで、それを信じたからでした。

手術日は2月5日で4時間半の時間を費やしました。

 

その後のスノウさんとお見舞いの様子は→「自由が丘に行きました。その2」

数日前から、この記事を書くために自分のブログを遡って読んだり、パソコンの中のアルバムなどを見ていました。

その病室での写真に写っていたのは、ニコニコと笑うスノウさんと私たちでした。

だからそれからそんなに間の空いていない3月20日には、私と名都さんはまた自由が丘を訪れて三人でちょっとリッチなランチをしたのでした。「その2」の記事内に書いたことですが、肺がんの手術の時に、他にも小さながんが見つかってそれも切除する事が出来たけれど、その為に抗がん剤治療が決まってしまったので、その前のランチ会でした。

自由が丘に行きました。その3

この時、スノウさんったら、私たちにお見舞いのお返しで飲み物代は出すと言ったのに、その時のお酒が高すぎて目を回していたのよね。(パパさんのカードだったからだと思う…。)私はそれに関しては長いお付き合いの歴史で、凄く思っていることがあって、お酒代に対しては凄く冷たいの。

「自分で飲んだのよ。」と知らんぷり。

これに関して、私本当に思っています。「長いお付き合いの歴史で思っていることがあって・・」と言うのは、それは私が他の人からも学んできたことで、あまり間違ってはいない付き合い方だと思うのです。でも人はみんな、いつか死ぬ。それは私も。だったらそこに愛があるのなら、びしっと計算した損のない付き合いなんかに拘らなければ良かったのだと、本当に悔いています。どうせほかでいっぱい損ばかりしているのですから。

「ハイハイ、ここはお姉ちゃんに任せて。」「ハイハイ、ここも私が出してあげる。」「はいはい」「はいはい」と、いい顔してればよかったと思うのです。だって私はお姉ちゃんだったのだから。

もちろん別に何も揉めたわけではなく、やはりアルバムの中の私たちはみんなゲラゲラとまたはにこにこと笑っていました。

その時の記事、『「じゃあね。」と別れて、私と一番下の妹は駅の改札前で時刻表示の案内を見上げていましたら、いきなり別れたばかりの妹が「わっ!!」と抱き着いてきました。

「わーっ、吃驚した。もう行っちゃったと思ってたよ。」と言いながら、私たちはその妹に見送られながら駅の中に入って行ったのでした。

「楽しかったから、お別れが寂しかったのかしら。」と私は思いました。』

この時、私の本当の気持ち・・・・・・

「嫌だな~。こういう事しないでよ。」だったのです。だって忘れられないシーンになってしまうでしょう。まるで映画のワンシーンのように。なんだか感傷的な気持ちになってしまい、帰り道に上野で降りたって桜の花を見て帰った春の日だったのでした。

 

長くなったので「その12」に続きます。

少し続けて書いて行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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約8年 番外編

2022-07-20 02:37:16 | ランダム自分史

まあ、夢の話だよ。

 

実家に帰っているようだ。

母がいて、姉がいて、姉が私に言った。

「新しいお風呂屋さん(スーパー銭湯)が出来たんで、行ってみたわ。」

「えっ、誰と !?」と私。

「うん、みんなで。」

(みんなって!? 何で、私の事も誘ってくれなかったの。)と、寂しく思ったが口にしなかった。

「で、良かったの、そこ ?」

 

「大したことなかったわ。普通よ。」と、スノウさんが言った。

「ふーん。あなたは行ったわけね。」と、ちょっとふてくされた私。気持ちを切り替えて、

「私、来月又実家に来るよ。」と予定の日を告げると

「えーと、え~と。私はちょっとその日は無理かも。毎日飲み会に行ってて、忙しんだもん。なんかその日は空いているような気もするんだけれど、その前や後ろが詰まっててね。」

「なんだぁ。元気になった途端にそれかぁ。」と私。

そして私はスノウさんに聞いた。

「毎日楽しい?」って。

「うん。毎日楽しいわ。あっちに行ったりこっちに行ったり、自由に行けて幸せ。」

と、彼女はちょっとふっくらした手を広げて笑って言った。

 

目が覚めて、「あらまっ。スノウさん、普通に出て来たなぁ。関東のお盆は8月なのに・・・・」

だけどスノウさんの笑顔に、泣き虫kiriyはベソもかかず、何でかちょっと微笑んだ。

 

この夢も16日の話です。

昨日の朝、姉と電話で話していた時、ながら電話の姉が母の部屋に行く用事が出来て、その時スマホをスピーカにして母とも話しました。

それで私は、母にその夢の話をしたんです。

「そう。幸せって言ってた ?  楽しいって言ってた ?

それなら良かったな。あっちの世界でも楽しくやってるんだね。」と母は嬉しそうに言いました。

 

人の夢の話ってつまらないと思うけれど、時には役に立つこともあるんですよね。

 

 

 


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