森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

ハムレット観劇日記【その3】

2015-02-28 17:17:33 | 観劇・コンサート日記

 「ハムレット観劇日記【その2】」の続きです。

この記事は敬称略で書かせていただいています。

※       ※         ※

「ハムレット」の物語にそんなに思い入れがなくても、ずっと昔からオフェーリアは私にとって大切な人なのです。それはたぶん子供の時にドラクロワの一枚の絵ハガキを貰った時から。

そのお話はこちらです。→「ネズミのようにシェークスピアをかじってみる

オフェーリアは劇中のヒロインでありながら、多くの画家たちの素材として好まれたようです。

ラファエル前派展に行ってきました。」で取り上げた、ジョン・エヴァレット・ミレイのオフェーリアは、まことに今回の満島オフェーリアと重なるものを感じました。無垢で従順であるがゆえに狂気の人になっていったオフェーリア。

 

「ハムレット」と言う物語は、有名であるがゆえにそのセリフを知っている者には、もしかしたら自分なりの演出による舞台がすでに脳内に存在するなんて事があるかもしれないと、ふと思いました。そこにずれが生じると、どうしても違和感が生まれてしまっても仕方がないのかもしれません。

シェークスピアを演出したり演じたりするのって、すごく難しい事なんだなあって、だから私、思ってしまいました。

たとえば、分かりやすい例で言ってしまうと「奇跡の人」と言うお芝居だったりすると、「ウォーター」の奇跡のシーンは、みなそれぞれに工夫を凝らして、なるほど~こう来たかみたいな感覚にはなるけれどそのアイデアを楽しんで、違和感のようなものを感じる事はあまりないんじゃないかな。

いや、それは実は「ハムレット」にだって言える事なんだけれど、やっぱり古典であるがゆえにハードルが高いと言うような気がしてしまうのです。

実は私、少々オフェーリアのシーンには若干のイメージのずれを感じていたのです。

でも、でもですよ。

先日2月25日にBSプレミアムで、「女優 満島ひかり まだ見ぬ世界へ~シェークスピアに挑む~」を見たんです。「ハムレット」の感想の最後はこの番組を見てから書こうと思ったのはまさに正解でした。

私の中にあったズレが一気に修正されていき、舞台への感動が再び蘇ってきました。

 

本当は舞台は一期一会のように、一回の鑑賞で自分の気持ちとピッターとくると嬉しいのは確かだけれど、素晴らしい舞台って言うのは、素晴らしい演出、役者さんの素晴らしい演技力に加え、観客の見る力って言うのもその舞台を作り上げていると思うんです。だからこういうドキュメンタリーやインタビュー番組を見て自分の中で舞台を完成させていくと言うのもありなんだと思うのです。

 

満島ひかりは「愛のむきだし」から大好きな女優さんです。

でもこの番組の初めから、「満島ひかり、すげっ!!」って思ってしまいました。

「凄い!!」じゃなくて「すげっ!!」

もう、お口あんぐり~です。

だって

「皆さんやたら声が大きくて何を言ってるか分からない。それって問題だと私は思います。」

お隣に座ってた鳳蘭がやっぱり「すげっ!!」と言う顔をして面白そうに彼女を見ていたのが印象的でした。

そう、彼女、とっても面白いんです。

これからも凄く楽しみな女優さんですね。

 

 「To be or not to be, that is the question.」を彼女は、私だったら「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ。」とは訳さないと言います。

凄く共鳴する。

その感覚は同じではないかもしれませんが、そしてこの訳だから日本では愛されてきたようにも思うけれど、今の感覚だと私的には普通に「なすべきかなさざるべきかそれが問題だ。」の方が自分にはスッキリするのです。そして自分の生活の中にこの言葉が浸透してくるのでした。

自分を持っている女優さん。

だからこそダメ出しの続く弟である満島真之介との二人舞台特訓のシーンは良かったですね。

 

そして最初は自分にダメ出しが来ない事を不安に思って〈不満に思ってか〉いた彼女に、オフェーリアの見せ場のシーンでダメ出しの嵐。

でもそこ、素晴らしかった。どんどん完璧なオフェーリアに近づいていくような気がしました。

「オオカミ少女のようにうろうろするんじゃないよー!!」

野性味あふれる満島の魅力を封印して、立ち尽くし語るオフェーリア。

 

静かに目を開けたまま死の恐怖も知らないで沈んでいくオフェーリアの姿は舞台では語られるだけ。

でもそこを画家たちはこぞって描こうと言うのです。

そこを音楽を奏でようとする者はテーマに選ぶのです。

劇中では真実に微塵にさえも触れる事もなく、愛に迷い愛を乞う女性として描かれ、愛する家族をその愛の迷宮に誘い込んだ相手ハムレットに殺されて狂っていくオフェーリアの物語は、「ハムレット」の物語の中では、もしかしたらざっくりと排除してもギリギリに成り立つかもしれない派生的なものに私には感じられるのです。お芝居をさらにさらに面白くするエッセンスのようなものと言うか。

だけれどエロスの神が宿るハムレットの母、ガートルートよりも、オフェーリアと言う少女のような女性に芸術の神は恋をしたのかもしれません。

 なんたって

「オフェーリアよ、尼寺に行け。」ですからね。

 

私、この場面が作り込まれていくシーンも番組内でもっと見たかったです。

意外と唐突感がしたからなんですが、思えばハムレットは聡明で思慮深い人でありながら狂人を演じていたわけですから、あの衝撃シーンで良かったのですよね。

この「尼寺に行け」は今でも論議が分かれる所なんですって。

 

いにしえから演じられているお芝居なのに、いつの間にか分からない部分が出て来て研究されてるって言うのも面白いと思います。

ハムレットは愛するオフェーリアを、これから起きる政治的なドロドロに巻き込みたくなかったと言う説もあれば、尼寺は別に娼婦館の意味合いがあって、そこに行けと言ったのだと言う説。今ではこちらは少数派だとか。

じゃあ、私は少数派なんだなと思いました。

守りたいんだったらあんな言い方をして、はいそうですかって行くわけもない事ですし、・・・・あっ、守ると言うのは自分から遠ざけると言うことなのかな。

でもお芝居を見る時はちゃっかし膝枕・・・。

娼婦館とは思いませんが、この時代の尼寺って言うのは相当乱れていて、それが周知の事実になっていたと聞いたことがあるのです。

復讐で頭がいっぱいのハムレットに、親に従順にしたがってある意味愛の駆け引きのような事を言うオフェーリアに、

「愛が欲しかったら、尼寺に行け。」と言ったのではないかと、これは相当昔から思っていた設定ですが、でもこれって私が考えたのじゃなくて、古典映画の解釈がそうなっていて、それが私の中で定着してるのかもしれません。また古い古典映画を見る事もないと思うので確認はできませんが。

「愛が欲しかったら・・」とおとなし目に書きましたが、要するに「愛欲を満たしたかったら・・」と言う意味で、この時代の貴婦人でしかも聖少女であったならば、相当聞くだけで恐ろしく感じる言葉だと思います。ノイローゼになるレベルと言うか。

とどめに父の死と言うものがあるのですが、彼女のセリフを聞いていると、彼女が精神の迷路に迷い込んだのは愛の迷路の出口が見つからなくなったからなのだと感じるのは私だけではないはずです。

 

2015年度版「ハムレット」はぴったりのキャストたちで演じられ、本当に素晴らしかったです。

それと「女優 満島ひかり まだ見ぬ世界へ~シェークスピアに挑む~」と言う番組は、満島ひかりの魅力ばかりでなく、そこにちらほらと映る藤原竜也の姿が贔屓筋としてはかなりの嬉しさがありました。

横浜の実家で見たのですが、ちょっと出遅れて部屋に入っていった私に妹が

「おねーちゃんの好きな人がテレビに出ているよ。」と教えてくれました。〈知っててかけてもらっていたんだけれどね。〉

ほかの姉妹も、みんな藤原竜也は好きなんです。でもこの人は「おねーちゃんの好きな人」とすでに定着しているのがちょっと嬉しく感じた私なのでした。

 

 ←お土産で買ったファイル。ファイルなので少々歪んで写ってしまいました。二枚組でもう一枚はパンフレットと同じ画像です。

 

このように長々と書いてしまったものを読んでくださった方、本当にありがとうございました。

本当は美術・音楽、語りつくしていないような気もするのですが、またこのお芝居と出会う時にでもと思います。

まだあるのか~って今、思った?     ^^:

 

最後にちょっと、WOWOWの回し者になりお知らせです。

3月8日プライムにて「ジュリアス・シーザー」、3時からやりますよ~♪

 

 

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花燃ゆ第8回「熱血先生、誕生」

2015-02-23 18:35:49 | ドラマ (大河)

自分のなりたいものになれる人なんて、今だって、そんなにはいないと思います。

多くの人が、その悔しさや挫折を乗り越えて、今ある場所で花を咲かそうともがく、それが現実だと思うのです。

だけれど若い時には、他者を見る事が出来ず、おのれの不運ばかりを呪って卑屈になっていく事も多いのかもしれません。

彼のように。

 

彼とは、久坂玄瑞。

優しい兄がいた時には、医者の道を選ばなくてもいいと許されて、自分の望む武士の道を進めるのだと信じていた玄瑞。だけれど家族を一気に失って、そして家督をつぐために希望の道を絶たれてしまった彼。

だけれど、彼はそれでもただ不平不満の人であったわけではなく、一人でコツコツと兵法を学び松陰の存在を知れば、手紙をせっせと書き送る能動の人であったのです。それと言うのも国の存亡を危惧し憂いて必死に勉学をいそしんでいたのです。誰の後ろ盾もなく孤独に。

東出君の顔が相当の不満顔だったので、その本質を見逃すところでした。

そして彼は血が頭に上りやすい人ではあるけれど、そのギリギリのところではちゃんと冷静さを失わない人なのだと、松陰を切りに行くと言いながら、真剣ではなく木刀を選ぶシーンなどで伺えました。

しかし私、再会した文にも最後まで優しい言葉が返らなかったので、少々寂しく感じたのです。

「あのおみくじは大吉だった。」

それが精いっぱいの優しい言葉だったのだと思いますが、

いやいやいや、もっとなんか~違うことを言って欲しかったですよ、私。

ちゃっかし、あの時のおみくじを大切に持っているんですから。

 

熱血青春学園ドラマはスタートしても、青春ラブストーリーへの道は遠いかもしれません。

 

他のシーンで印象に残ったのは、椋梨藤太の奥様が出て来て、派閥の集まりで新参者の寿さんに優しい声を掛けました。

夫が、「良い人で良かったね」などと美しい顔に騙されて、そう言うので、

「まさか~。」と即、反論。

「こやつらは似たもの夫婦に違いない。」と言ったとたんに二人の会話になって、奥様も相当嫌なやつであることが判明しました。

でも寿さんは、このお付き合いにちょっと舞い上がっている模様です。

なんかこのシーン、会社の社宅ドラマみたいでしたね。

 

と言うわけで、今回も面白かったのですが、あまり書くこともないので、昨年行って撮ってきた松下村塾の画像を再掲ですが載せておきます。

 

 

 

 

 

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もも吉祭り

2015-02-22 22:33:59 | 猫のもも

今日は「猫の日」ということで、私の三つのブログでも「もも吉祭り」をやってます。

ももちゃんも。→「2月22日だから

果樹園のティータイム→「猫の日だから

 

「ももちゃんも。」には子猫の時のもも吉を載せました。

―ずいぶん大きくなったなあ。お尻がでっぷりだよ。

もも吉はベランダで外を見るのが日課です。

背中のお日様の光が、なんとなくぽかぽか。

春はもうすぐかなぁ。

 

「ももちゃん!ももちゃん!」

「うんっ?   なあに?」

 オメメ、くりくりじゃないけれど、愛想が良いニャンコロリンなんですよ。

 

夫がもも吉の頭を撫ぜながら言いました。

「もうすぐ、ニャンニャンの日は終わっちゃうよ。」

 

ああ、でもさ、「猫の日」が終わってしまっても、もも吉は私たちの大事な家族だし、

猫は私たち人間の大事な友達に変わりはないんだよねー。

 

 

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「ハムレット」観劇日記【その2】

2015-02-22 02:12:53 | 観劇・コンサート日記

ハムレット」観劇日記【その1】の続きです。

〈この記事は敬称略で書かせていただいています。〉

 

【その1】の最後に

「次に私が感じた事は、ゆっくりパンフレットを読んでいたら、全く思った事と同じことが書かれていました。

亀山郁夫氏の「『ハムレット』、または擬制としての父殺し」のページに書いてあることなので・・・」と書いてしまいましたが、よくよく考えてみれば、すこぶる傲慢な発言であったかと思い反省しました。氏のコラムは内容充実、すこぶる説得力があるのに、さもそれに乗っかって「同じです。」とはいかにも図々しいかも。

思った事をどうせ書ききれないような気もするので、結構薄い事を言ってしまうかもしれませんが、逆に読みやすいかもしれませんね。

舞台や物語にたびたび登場してくる「エディプスコンプレックス」と言うテーマ。

 

舞台冒頭で権力も愛する妻も手に入れて上機嫌なクローディアスが、優しい声でハムレットに語り掛けます。

「ハムレット、わが甥にして我が倅。」

と、ここで、私は片隅にいてまるで存在感のないかのようなハムレットに気が付くと言う始末。

―えっ!?  そこにいたのか。

と私は思ってしまいました。光の中のクローディアスと闇の中に落ちているハムレット。

その対比が素晴らしい。

でも・・・しかし、見えにくい。

思うに2階以降の右側の席からは全滅だなあ。

と、舞台の構図的な不満を少々思いつつ、この時感じたのは、ハムレットの心痛は尊敬していた父王の死よりもあっという間に再婚してしまった母への失望だったと思いました。

ハムレットのグチグチとしたすこぶる分かりやすいセリフが続きます。

 

ワタクシ、ちょっとだけ思ってしまいましたよ。クローディアスももっと上手くやれば良かったのにって。

急いては事を仕損じるって言うじゃないですか。権力と妻を同時にではなく、権力そして次はハムレット、そして妻の順で懐柔して行けば上手くいったかも。

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ってやつですよ。

と、何で悪い奴の反省点をチェックしてるんだ💦

まあ、ハムレットは馬にはならないタイプだと思いますが。

 

「ハムレット」のお芝居の中で、無垢なる人であるオフェーリアよりもダントツにエロスの神は母、ガートルードに宿っているように思います。

愛してやまない母を褥に招くことが出来るのは、尊敬してやまない父だったから許せることだったのです。それがその死から時を空けずに母は近親相関の褥に赴くのです。

ハムレットの絶望はそこにあったと思います。

この近親相関と言う考え方は、今の血の繋がりで言う関係ではなくて、その当時では血の繋がりのあった兄弟と結ばれることも指して言っていて、あまり良い事ではなかったのですね。要するに「恥」でもあったわけ。

物語の中では、あまりガートルートの気持ちは表現されていません。あの母は何を思ってクローディアスに嫁いだのかー。

寝室でハムレットに責められた時に、おのれの気持ちに初めて向き合ったのでしょうか。欲望のままに受け入れたのだと。

 

ホレイシオとその他の目撃情報があるから、父王の亡霊は亡霊なんだと思うのですが、やっぱり私的には、その亡霊はハムレットの深層心理が映し出している鏡のようなものに感じてしまうのですよね。(と言うか、前の記事でも書きましたがシェークスピアの時代だったら亡霊は亡霊じゃないと舞台として成り立たないですよね、きっと。〉

だからその亡霊は言うのです。

「決して母を傷つけ追い詰めてはならない。」と。

死してまでそして裏切られても、それでも妻を愛している父王。だけれどそれはハムレットの本意ではないからなのではないかと思えるのでした。

だけれど母の寝室で、ハムレットは責めに攻めまくります。

するとそこにまた亡霊が現れるのですね。

だけどその亡霊は母には見えないのです。

亡霊は父王の姿を借りたハムレットだから・・・・・・?

 

そしてここでは藤原竜也の「貴女程の歳の者ならば・・・」と言う所からガートルートを責めまくっていくところ見ごたえがありましたね。

 

思うに「ハムレット」と言う物語は凄い傑作の物語なんですね。

そしてシェークスピアは凄い!!

古典を知ると言うことは大事な事なんだと本当に思います。

 

なぜ4世紀以上も人々は彼の物語に惹かれ演じ続けられてきたのかー。

それは面白さが網羅しているからなのかも知れません。

 

クローディアスの懺悔を試みると言うか苦行の祈りをしようとしていると言うのか、あのシーンも好きです。

そこにたまたま通りかかってしまうハムレット。復讐のチャーンス!!

 

だけれどハムレットはクローディアスが本当に祈っていると思って、留まるのですよね。

この物語は少々の宗教的理解がないと、「良く分からないけれど、まっ、いいか」と言う部分が出て来てしまいそうです。

今そこで殺してしまっては、彼は許されて天上に上ってしまうと思ったからと言う解釈でいいのでしょうか。

最初の亡霊との会話で善の王で偉大だった父王が、地獄の業火に焼かれると嘆いたのは、唐突に殺されて懺悔をしていなかったから。

なんて酷い事と嘆くハムレットが印象的でした。

 

だけどハムレットがその場を立ち去った後、クローディアスはその本性をむき出しにするのです。

ちっとも悔いてないから懺悔など出来ないと。

彼は彼なりにその時までは努力してきたのだと思うのですが、その本性は闇の人。

そこからクライマックスまで迷うことなく「悪」と言うのが分かりやすくていいですよね。

 

それからオフェーリアの墓を掘る墓守との絡みのシーンも好きです。

男でもなく女でもなく、女であった者の墓。

なんだか悲しいセリフです。

墓を掘ると、前の遺体の骨が出てくると言うのも凄まじいなと思うのですが、その骨がハムレットにも縁のあったものの骨だったと言うシーンのセリフにも心惹かれるものがありました。

 

To be or not to be, that is the question.」と言うセリフを

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」と訳したのは、訳者が素晴らしいのだと思います。だけれどこの「生きる」「死ぬ」と言う言葉が浮かんできたのは、この物語全体にたびたび登場してくる「生」と「死」の対比のセリフなのではないかと感じました。

「この者は生きている時には・・・」

「この老人は生きている時には・・・

死んでやっと・・・・」

みたいな。

常に生と死が見え隠れしている「ハムレット」。

 

ああ、見ごたえ十分だったなと満足してさい芸を後にしようとしたその出口で、背後からおばさま方の怒りの声が聞こえてきました。

「本当よね。もう怒りのレベルよね。」

何を怒っていらっしゃるのかと思わず耳ダンボ。

「何を言ってるのか、何も聞こえないのよ。もうイライラしちゃって。」

 

ああ、なるほど~と思いました。

フォーティンブラスの声は、私当たりの年でギリギリです。かなり耳を澄ましてしまいました。

人は悲しいけれど、年と共に視覚も失っていくけれど聴力もなんですよね。

どうも演出が、劇場中に聞こえてしかも抑える声と言うものらしいのですが、そこはちょっと厳しいものがまだあるかもですね。

 

私は一応聞こえていたのですが、後からパンフレットの内田健司ーフォーティンブラスのページを読むと、彼は血気盛んで世間知らずの若者らしいのですが、彼の話し方では凄く物静かで知略に富み理性的な若者にしか感じられなかったと言う点においては微妙なところかもしれません。

でも内田健司は素敵な人ですね。

 

「ハムレット観劇日記」は【その3】まで続きます。

オフェーリアは、心惹かれる大切な人。来週には満島ひかりの特集があるみたいなので、それを見てから書きたいと思います。

 

あっ、そうそう。

シェークスピアって凄いなあとぼんやり考えていたら思い出しました。

彼の生家に行ったのでした。

その記事は→こちらです

 

 

 

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虹ですよ♪

2015-02-20 00:20:59 | お散歩&写真日記

久しぶりに大きな虹を見たので、テンションが上がりました。

出先で見たのですが、いつもはバッグに入っているカメラを置いて来てしまったので、急いで帰ってマンションのベランダから撮りました。

だからアーチになっているのはないのですが、それでもちょっと嬉しかったです。

ようやく再開した日記ブログ「果樹園のティータイム」も更新しました。良かったら来てね~。←リンクしてます。

 

 

下の画像はマンションからはもう出たくはなかったので、端の階段まで行って一階上に上がり踊り場のふちに寄りかかって撮りました。

ひぇ~、怖い。

私、高い所が苦手なんです。

アーチはこれがそこからだと限界です。

そして西側の空は・・・

 

ベランダの反対側から見た虹。

 

そしてその西側。

 

 

こんな空を見ると、ちょっと思います。

― 明日もきっと良い一日♪

って。

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相棒 season13第16話「鮎川教授最後の授業 ・解決篇」

2015-02-19 01:40:31 | ドラマ(相棒)

たぶんこの流れではカイトの殉職はないなと心のどこかでホッとしたけれど、でも悦子のそして二人の未来はどうなるのと気になるところです。

確かに悦子の赤ちゃんは、カイトとカイトパパとの関係を修復するきっかけになったかもしれないけれど、すでにあの二人は本当はかなり修復しているんじゃないかと思えるので大丈夫なんだと思いますよね。

 

胎児の時に殺されかけたと殺意を抱く女性もいれば、望んでも生まれて来ることが出来ない子供もいると言うのに、今回のお話は暗に何か皮肉のような事を言いたかったのかと疑問にも感じたのです。

でも他の事も納得できなくてそちらには気が回らず、もしも何かを含んでいてもさっぱり分からないままで今回は終了です。

リアルで見ていたので録画なども取らなかったのですが、もう一回見たらもっと違う何かが見えたのかもしれません。再放送時に期待します。

 

美彌子が最後に右京に

「あれは暗示ですよ。」と言ったのが一番共鳴できたセリフでした。

 

私はこういう時、小野田官房長の

「杉下の正義は時に暴走する。」と言う言葉を思い出してしまうのです。

 

銃を突きつけられ、今まさに撃たれると思った時に、撃ちかえして身を守る。その時に相手に理不尽に命を取られるかもしれないと思ったら殺意、もしくは同等の憎しみを感じるなんて当たり前じゃんとか思ってしまうのですが、その瞬間の殺意までどうして暴かれなくちゃいけないんだろうと思ってしまうのです。

これこそ日頃の殺意とその時の殺意を結び付けてはいけない大事なポイントではないのかしら。

 

それに一生苦しむことになるのに、殺意抱いてるから、望み通りに殺させてあげよかな~なんて思う親なんかいねぇってと、そこはむきになって不愉快に感じた点でもあります。

 

あっ、いや。二回見たら見方が変わるかもしれないって書いたから、文句みたいなのはこの辺にしておきます。

だからとりあえず一回目の感想は、アイデア的には面白いような気もするし面白い風に作ってあるんだけれど、珍しく私好みではなかった、と言うことになるのかな。

 

だけど日本の正当防衛って結構厳しいのですよね。

もし自分が何かそういう状況になっって、上手く反撃が出来た時に過剰防衛にならないように防衛できるんだろうかって、そちらの方も怖いなって時々思うのですよね。

だって人には上記に書いた通り「怒り」と言うものもあるだろうし、また「恐怖のあまり」と言う気持ちが行動に現れる事だってあるじゃないですか。

襲い掛かってきた人に木刀で反撃し、相手が倒れたにもかかわらず、ムクリと起き上ってくるかもしれない恐怖の思いに駆られて打ち続け殺してしまったら、日本ではたぶん正当防衛にはならないと思うのですよね。

だから本当は、今回の女性も護身用に銃を携帯している段階で、殺意云々じゃない部分で厳しかったかもしれないとは思うのですが。

 

でも、とりあえず仲間さんの相棒っぷりは良かったかも。

 

 

 

 

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「ハムレット」観劇日記【その1】

2015-02-18 01:17:23 | 観劇・コンサート日記

2月5日に与野本町さいたま芸術劇場で観てまいりました。

〈この記事は敬称略で書かせていただいています。〉

※     ※     ※

もしも私が、この物語のここはと申しましたら、それは天下のシェークスピアにたてつくと言うことなのでしょうか。

もしも私が、この物語のここはと首を傾げたら、世界の蜷川に畏れ多くもケチをつけると言うことになってしまうのでしょうか。

ふとそんな事を考えたら、感想なんかとても書けるものではないなと思ったのでした。

人の命には限りあり。

そしてその命の消え入る時まで本当に生きていられる人はまた限られていると思うのです。

「ハムレット」は心に残るいい作品でした。

だけれどもしも演劇の神がいるならば、決して満足などしないと思います。そしてまだまだ地上にとどまってある男に仕事を続けろと言うに違いないと、ふとそのお芝居を見ていて思ったのでした。

※     ※       ※  

思ったことや感じたことが多くて、それをどんなふうにまとめようかと考えている間に日にちだけが過ぎていってしまい、そうこうしているうちに東京公演〈さいたまだけれど〉は終わってしまいました。

アウトとイン。

パソコンの話ではないですが、自分の中の持っているものを私は上手くアウトプット出来る事がとっても大切な事だと、前々から思っているのです。自分の中に取り込む事が多くても、それを抱え込んでいるだけでは、脳内でそれが形を成さず消えて行ったり、またはそれに囚われて頑固になったりすると思うからなんですが、お芝居を見て感じる事も多かったと言っているのに、加えて、ふと、21歳の時の藤原竜也は、この「ハムレット」をどのように演じていたのだろうと、〈すでに前の記事に書きましたが〉youtubeでそれも見てしまい、止せばいいのにその時のインタビューなども見続けて、またまた多くの感想を持ち、抱え込み過ぎて更に言葉の迷宮に迷い込んでいるようなものです。

 

2003年度の「ハムレット」のインタビューの時に、蜷川幸雄が藤原竜也に向けて
「ストイックに向き合う者だけに放つことのできる光がある。」と言った時に、もう頷くしかなかったです。そして胸が痛くもなりました。21歳と言ったら、私にとっては子供と言っていいような年齢なのです。その若き人から教えを乞うことがたくさんあるような気になったからです。

この時の言葉は2015年の今回のお芝居にも通じているように思います。

藤原竜也が拘った「進化」がそこにはありました。

 

たとえばとたった一つだけ例に挙げる所が「殺陣とか」と言ったら、「そこか~!!」と突っ込まれるかもしれません。

でもそこは難しいことを何もなく考えずとも分かる場所であるかと思います。伊達に「劇団新感線」のお芝居に出たり「るろうに剣心」に出てたわけではないのですよね。

レアティーズとの対決のシーンはスピード感と説得力がありました。

剣の腕の評判の高いレアティーズよりも日頃の鍛錬を怠っていないハムレット王子は強かったのです。

何事もなければ、まさに王の器に値した者だったのですね。

 

そして若きハムレットと今のハムレットの共通して言える事は、際立つ美しさではないかと思ったのでした。

悲劇の舞台では、やはりハラハラと花が散るがごとくの悲しみが欲しい所です。やはりその花は鮮やかな美しい花であって欲しいですよね。まさに彼はその美しい花であったと思います。

 

だけど私が藤原竜也を贔屓にしていることは周知の事実。

これ以上言ったとしても、親が子が何をしても憎からず思うのと同様に取られかねないのでこの辺にしておく事にしましょう。

 

 

 「ハムレット」はシェークスピアの4大悲劇の一つですが、それでもなんとなく優しいと言うかホッとできる部分があると感じたのは、友人ホレイシオの存在だと思います。

もしもシェークスピアが現代のライターさんだったら、父王の亡霊を、果たしてハムレットよりも先に見せてその報告をし、そこからハムレットが父の亡霊に会えると言う展開にしただろうかと感じたのでした。

「悲劇」の舞台を目の前にして、涙を友にしながら物語に心酔することの多い私に一粒の涙の欠片さえなかったこの舞台。

次に見る機会があったら、そこは分からない事ですが、確かに今回はそうだったのです。

そうであったのは、やはりホレイシオの存在だったのではないかと思えてしまうのでした。

死は人生の中で一番の悲しみの出来事だと思います。それが仕組まれてしまった不覚の死、無念の死であったならば更なる悲しみ。でも本当の悲しみは、誰にも真実を知られない事なのではないかと、私は思っているのかもしれません。

たった一人でも最初からハムレットの行動を理解し真実を知っていた友、ホレイシオ。

殉死する勢いのホレイシオの手を止めて、真実を語れとハムレットは言い、そして後継者の名を託して逝くのです。

 

考えてみれば「ロミオとジュリエット」も二人の死は悲しくても憎しみ合っていた両家は和解していったし、「ジュリアス・シーザー」でもブルータスの死はアントニーの言葉によって尊厳を与えているのです。

物語の闇と光のバランスが、その物語の大きさを決めるのかもしれません。

それを知っているから、もしもシェークスピアが現代のライターさんであっても同じ展開だったかもしれませんね。

でも物語のバランスを崩して物語のスケールを小さくしてしまっても、闇の度合いを高めより悲劇性を増すことは、彼の時代には無理でも〈観客が理解できないから〉今の世の中なら可能だと思いました。

つまりホレイシオの存在からハムレットの妄想の産物なのです。亡霊も父王の死に疑念を抱くハムレットの心が見せた幻。

舞台を見ると言うことは〈映画でも言えることかもしれませんが〉、自分を映す鏡のようなものなのかもしれません。

きっと私は、真実が語られない事と同じように孤独で物事と立ち向かう事の中に悲しみを感じる人なのかもしれません。

 

次に私が感じた事は、ゆっくりパンフレットを読んでいたら、全く思った事と同じことが書かれていました。

亀山郁夫氏の「『ハムレット』、または擬制としての父殺し」のページに書いてあることなのですが、その続きはまたの機会に書くことにします。

と言いましても、そんなには間は空けるつもりではありませんが、間に他の記事が入ってしまうかもしれないとちょっと思っているのです。

 

物語の感想も舞台の感想も書きたいと欲張っているとこうなってしまうわけですが、ちょっとだけ欲張らせていただきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

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花燃ゆ第7回「放たれる寅」

2015-02-16 01:04:20 | ドラマ (大河)

またもどうでも良いお話からしてしまいます。

オープニングの所で、文字が躍ったように出てくるシーンがあるじゃないですか。いろいろな文字の中で、私、どうしても「仁」と言う文字に目が言ってしまって仕方がありません。

しかも「仁」の文字は真ん中に出て来て、また長く留まっているんですよね。

それって、やっぱ、あれじゃないの~!?

狙ったような気がしちゃうの、私だけでしょうか。

 

さて今日の「花燃ゆ」もあっという間に終わってしまったと感じてしまいました。

とっても面白かったです。

寅次郎を外に出したいと考えてた文さんでしたが、どうしたらいいのか分かるはずもなく、高須久子に相談します。

そこで久子が話した内容は、今の世の中にも充分に通用するお話だったと思います。

要するに、解決する力を持っているものを見つけその者を味方につける。つまり頼み&託すのだと言うやり方。

この時代は完全なる男社会なのでその味方と言うのは、殿方の味方と言うことになるわけですが、大事な事は誰が解決する力を持っているかを見極める事なんですね。

 

そこで文さんは寅次郎が書いた「福堂策」をもって小田村伊之助を頼りにします。

小田山は桂小五郎に働きかけ果ては水戸藩まで動く始末です。

普段は敵対しているように見える仲でも、それでも殿方にはその繋がりがあってと言った久子の言葉そのものに、椋梨の力もあって寅次郎は自宅蟄居の許しが下りるのでした。

だけれどこの椋梨は一筋縄ではいかない模様・・・・・。

「福堂策」と言うのは、獄中であっても更生の為に勉学させ獄を福堂に変えることが出来ると言うような内容の物でした。

これはまさに自分が投獄され野山塾にて・・・・って、早くも書き間違えてしまいました。野山塾ではなくて野山獄を学び舎のごとく変えてしまった経験から出た意見なんですよね。

 

しかもこの内容は、まるで今の刑務所のような感じだなと印象を受けました。

 

獄から出られる事が決まった事を知らせに文さんと梅太郎が野山獄に行くと、困った事に「福堂策」をもとにそこを出ないなどと言い張る寅次郎。囚人たちも
「寅次郎は渡さない。」などと言っているのです。

説得のために足をまた運ぶと言う梅太郎に妻の亀が美しい高須久子に焼きもちを焼いて嫌がり、結局は父が出かけて行く羽目になりました。

だけれどその父のさりげない一言で、周りの囚人たちの心が動くのでした。

囚人たちの心を変えたのは、文が学びたがっているのに残念だと言うようなものだったのですが、さすがの父上様、さりげない言葉、だけどツボをつく言葉を心得ているのですね。

 

学びたいのは文さんばかりではなく、残念に思うのも彼女ばかりではない。皆まで言わなくても、そこに留まっていてはならないのだと何でもないような会話で伝える術を持っているようにしか思えませんでした。スキルの高いお父上でした。

そこで高須久子、自分の言葉通りの作戦に打って出ます。

久子は真夜中にそっと富永の牢の前で声を潜めて話します。・・・・なんか色っぽい^^

 

富永の企画で開かれた句会は、実は寅次郎の送別会の句会でもありました。

涙ながらに別れの句を読む囚人仲間たち。

友だったと寅次郎に言わしめた金子を除くと、この野山獄の人たちは松陰最初の弟子だったのだと感じました。

 

今回のもう一つの見どころは、「二十一回猛士」と言う、号が出てきたことですね。

「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。」

 

なかなか面白い発想で、こういう漢字の分解とか結構好きなんですよ。

 

次週はいよいよ塾開業かな♪

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年のバレンタインは、

2015-02-15 00:51:44 | 梢は歌う(日記)

このようにムーミンのパッケージのチョコが三つ。中身もそれぞれ絵柄が付いているものも入っていて、画像がないのですが、なかなか可愛いのですよ。

私があげる人は、毎年決まっていて夫と二人の息子。

でも離れて暮らすラッタ君にはまだ渡せていません。今月の末に会った時にでもと思っているのですが、送ってあげたらサプライズで喜んだかもしれませんね。

だけど親からのサプライズなんか嬉しくもないか💦

 

夫には「このチョコ、美味いな。」と言って貰えたので、わざわざ買いに行ったかいがありました。

 

ところでこのチョコを買う時に、売り場のお姉さんがちょっと不思議な事を言いました。

それがどんなことを言ったのか、ちゃんと覚えていないと言うヘナちょこエピソードなんです。

 

私が、これらのチョコの味の事で質問をして、

「男の人は、凝った味よりも結局はシンプルなチョコレートの味の方が好きなのよね。この可愛らしいチョコレートが食べやすい味なら良いのだけれど。」と言うと、お姉さんはそれに応えてくれた後に、にっこり微笑んで優しげにその言葉を言ったのでした。

ちゃんと覚えていないと言ったけれど、私が驚いて

「えっ、家族にあげるんですよ。」と即答をしたのははっきりと覚えているのです。

 

つまり、たぶん・・

「凄く親しく交際なさっている方に差し上げるんですね。」だったか

「凄く想われている方に差し上げるんですね。」だったか、そんな感じ。

いや、もしかしたら単純に

「今お付き合いなさっている方に差し上げるんですね。」と言ったのかも。

 

あまりにもささやかな一瞬の出来事なので、ちゃんと言葉を覚えておくことも出来なかったのですが、ところが私、その一瞬、なんていうか髪の毛数本分ぐらいかもしれませんが、ちょっとだけ嬉しかったのです。

確かに夫や息子とは「凄く親しく交際」しているわけですが、普通はこんな風には言われないでしょ。

見るからに家族チョコのお客でしかないと思うのに、さながら「ドラマチックに生きてます継続中」的なそんな風に言って頂けるなんて…と言う感じ。

 

今思うと、今は自分の為に可愛いチョコや贅沢なチョコを買うと言う自分チョコと言うのもあるらしいので、それではないんですねと言う意味だったのかもしれません。

そしてさらによく考えてみると、チョコ売り場のお姉さんがにこやか接客のあまり余計な事を言うと、時には地雷を踏んでしまうこともあるんじゃないかなと思うので、ひたすらチョコレートの説明をした方が良いのだと思ったのでした。誰に贈ろうが売り場のお姉さんには関係のない事です。

 

それでもかなりの物事をポジティブにとらえてしまう傾向にある私のような人には問題なし。

私、思いました。

家族チョコは時には究極の義理チョコ。だけれど時には究極の本命チョコ。

だけど贈る側にも、バレンタインのチョコにはほんのちょっとの「ト・キ・メ・キ」が必要なんじゃないかなって。

 

ところで昨日、炊飯器でつくるチョコレートケーキと言うものを作ってみました。

お友達のブログで見つけたものですから。

いろいろなアイデアがいっぱいのヤングママちゃんのブログ「みぃつけた!!」はこちらです→ 「子供と作るバレンタイン♪ (炊飯器で超簡単チョコレートケーキ)

レシピは→「超簡単!炊飯器でチョコレートケーキ

 

レシピにある数字よりもバターもお砂糖もココアもみんな少な目 で作りました。市販のチョコレートケーキが、いつも味が濃厚すぎたり甘すぎたりと感じていたでちょっとそうしてみたのですが、それでもかなり美味しくできました。

以前、ラッタ君が炊飯器でケーキを作っているのを見て、やってみたかったのです〈「ケーキの配達です!

 

デコ無しの焼いただけケーキです。

 

炊飯器でケーキって、ちょっと癖になりそうな簡単さですね。

 

 

 

 

 

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相棒 season13第15話「鮎川教授最後の授業」

2015-02-12 23:16:07 | ドラマ(相棒)

もしかしたらこれはお試しかって思ってしまいました。

 

カイト卒業の後のいろいろな噂が飛び交っています。新相棒にはミッチー復活だとか、美彌子(仲間由紀恵)だとか。

それでこれは様子見なのかって思ってしまったりもして・・・・・。

だからこの回の前にその事を発表したのかなとか・・・・・。

うーむ。

おいおい、何を推理してるのじゃ。

 

と言うことで本編の感想。

私、あの生徒の中の誰かが共犯だと思っていたのですが、家政婦が右京たちと同じように囚われの身になってしまった時から違うのかとがっかりしました。

だってあの男たちを、家政婦と二人で教授はよいしょよいしょと運んだのでしょうか。

トラックに乗り込むシーンだと、石野真子演じる家政婦は手伝っていなかったような雰囲気。

あり得ない。絶対にありえない。

いやいや数歩譲って、よほどの体力のある老人なのだとと解釈しましょう。

運ばれた男と女のどこにも、体に痛み説かなかったのでしょうか。

なんか脇が痛いとか。

と、このような細かい所が気になってしまって、面白かったんだけれど、ちょっと雑な感じで惜しいような気がしたのです。

 

お話自体は面白かったです。あっ、今これ言いましたね^^

今回は前篇。

右京と美彌子が見た毒薬の謎にも触れられていませんし、まだまだ秘密がありそうです。

もしかしたら生徒の一人が共犯と言う可能性も出てくるかもしれません←しつこいって!!

だけど「どうして人は殺してはいけないのか」と言うテストに美彌子は追試分の用紙を二枚持ってくるのですよね。なんか足りなくないかって思いませんでしたか。でも結局は何を書いても悪魔を解放すためのきっかけになってしまうのなら意味のない事なのかもしれませんね。

 

しかし気になるのは、産婦人科で子供を孕んだ悦子に告げられた深刻な事態とは何か。

どう考えたって嫌な予感は拭えませんよね。

 

前篇なので感想はこの辺で。

あらすじなどはHPで→こちら

 

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