森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

ラッパーMRI

2015-08-30 23:59:34 | 梢は歌う(日記)

初めてのMRⅠ体験」の続きです。

閉所恐怖症で、体半分と言えども、あんな狭い場所に入るあの検査だけは受けられないのではないかと思っていたMRI。

案の定、汗は拭きだし呼吸は乱れ、挙句の果てには
「もしも今地震が起きたらどうなるの。」などと考えるありさま・・・・・・

と言う所までが、昨日のお話です。

 

頭も固定、顎も固定、しかも両腕伸ばしたままバンドで止められていて真上を向いたまま。それってかなり辛いのに、そこにもしも地震が来たらなんて想像しちゃったら、もう心拍数が上がっても仕方がないってもんでしょ。
スっごく怖い。

でもね。

その時、私はようやく冷静になったのです。

こうなったら、もう信頼しかないなって。

歩けないくらい大きく揺れても、それでもあの技師さんはここに来て私を助けてくれるに違いないって信じよう。

ああ、そうだわ。

地震なんかなくったって、世の中みんな信頼で成り立っているのよね。

人もそうだけれど、今あるこの状況のすべてが信頼で成り立っているのよね。

信じよう、すべてを。

 

そう思いながら

すぅー・はぁー・すぅー・はぁーとしていたら、やっと落ち着きを取り戻したのでした。

 

そうなってくると、今度は好奇心が生じます。

つむっていた眼を開けてみると、頭や顎を固定していたのは、「羊たちの沈黙」のレクター博士がしていたような顔に被せるマスクみたいなものでした。マスクと言っても顔からかなり浮いているので目で観察が出来るのです。もしかしたらそれは固定以外にも顔に圧迫感を感じさせないために空間を作るためのものなのかも知れません。

私はちょっと…と言うかかなりそそっかしい人なのですが、稀に逆にそれで助けられていることがあります。今回も、マスクにちょっとグレーがかったカバーがしてあるのだと思い込んでしまいました。

検査が終わって外に出てみると、マスクはむき出しの格子。つまりマスクにカバーと思い込むほど中は狭かったのですね。これ、勘違いしていなかったら、更に「すぅー・はぁータイム」は長引いてしまったかもしれません。

 

MRIは音が凄く煩いって言うでしょう。

本当に凄く煩い。

これで寝れる人がいたら、凄いと思います、私。

(と、ここまで書いてあった所でコメントを頂きました。その方二回目の検査の時に寝てしまったのですって。凄いでと思いました。でももしかしたら、私も・・・って今はちょっと思っています。)

 

ところがこの音、気持ちが落ち着いてから聞き出してみると、なかなか面白いんですよ。

たぶん絶対音感なんか持っていた人が聞いたら余計煩く感じちゃうかもしれませんが、加えてその人が私と同程度の「なんでもポジティブ思考」の人だったら、これで一個創作音楽が出来ちゃうんじゃないかと思えるくらいなんです。

 

いくつもの音が同時に聞こえてくるんですが、高音で短い音が、最初

「チッチッ」と聞こえてきたのですが、ふと気が付くと

「チェックチェックチェック・・・・・」と聞こえてきたんです。

検査ですからね、ちゃんとチェックしなくちゃねと張り切っているように感じてユーモラス。

そこに「ブー・ブー」とブザー音が。

こんなはっきりと綺麗に聞こえるブザー音も珍しいなと思っていたら、この音も繰り返しによって

「ブートレック・ブートレック・・・・・・」と聞こえてきたのです。

 

チェックチェックチェックチェック ♪

ブートレック、ブートレック、ブートレック♪

ブーブー ♪

 

こーんな感じ。

「『ブートレック』に何か意味があると面白いのにな。」って私、その時思ったのですが、あまり英語などに詳しくもなく、ただ意味もなく歌っていました・・・・・って、そう頭の中で歌っちゃった ^^

家に帰って検索したら・・・・

「ブートレック」って密造酒の事だったり海賊版の事だったりするのですね。

 

凄くない?

これ。

そりゃチェックも入れたくなりますよね。

 

「ぽわわん」と言う切り替えの音と共に、音が変わるのですが、

 

ひろひろひろひろ

ヒーローヒーローイチローヒーロー

ってパターンと、ただ「がががががー」と言う街中工事音パターンもありました。でもこの街中工事音の時はチッチッと言う音が、

「ずずんちゃーちゃ・ずずんちゃーちゃ」と聞こえてくる。

 

繰り返される音を聞いていたら、あっという間に終わりました。

 

機械から出された私に技師さんは

「大丈夫ですか。」と聞いてくれました。

私は意識してゆっくり答えました。

「ええ、途中から慣れて大丈夫になりました。」と。

 

間違っても

「楽しかったです!」と言わないように。

 

※        ※          ※

 

この検査の結果は「異常なし」でした。

いったい何のために検査をしたのかは、また別のお話です。

 

この検査を受ける事になって、憂鬱に感じていられる方は

「ブートレック・ブーブー」を思い出してくださいね。

 

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「僕だけがいない街」のエキストラ募集してますよ

2015-08-30 23:38:06 | 映画だい好き☆☆

ふと思いついて、「エキストラ募集」とかやっていないのかなと検索してみたら、ありましたよ~。

※       ※       ※

「エキストラ」の新情報、追記の形で入れておきますね。

9月4日 印西市

詳しくは→ こちらのサイトで

こちらも締め切りはすぐです。

9月1日〈火〉 18:00

 

行きたいなあ・・・・。

でも始発バスが走って無くて無理だなあ。

 

※        ※        ※

8月8日に更新した以下の記事は終了しています。

 

茨城の笠間なんですって。

行けないかなあと路線検索してみたら、かなりギリギリ・・・・

はっきり言って、私は無理かと。

いや、日程もあって万が一、行けたとしても選ばれる可能性は低いような気もします。

だってエキストラと言えども、その他大勢で影すら映らないパターンじゃないですよ、これ。

 

でももし行けたとしたら、ダメもとで申し込んだと思いますよ。

 

交通手段が確保できる方、

夏の想い出づくりにいかがですか。

 

詳しくは→こちらです

 

 

 

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初めてのMRⅠ体験

2015-08-28 01:15:11 | 梢は歌う(日記)

〈追記:下の方に「続きはまた明日。」と書いたのですが、実家に行く事になり、その準備のあれやこれやで今日は無理になってしまいました。戻って来てから書きます。m(__)m〉

 

8月27日、初めてMRI 体験をしました。

なんでその検査をしたのかは、そのうち書くねぇ~。←意識して明るく ^^

 

検査の前にいくつかのチェック項目に目を通しました。まあ、体に金属が入っていないかの項目が多いわけですが、その中の一つに、「ああ、そうだった。」と思い出したくないものがあったのです。

ワタクシ、高い所も先端が尖っているモノにも弱いのですが、実は狭い所にも頗る弱いのです。

いわゆる閉所恐怖症と言うやつです。

こういう恐怖症と言うのは、たぶん引き金になる体験があると思うのですが、高所恐怖症は小学生の低学年の時に、おじさんに連れられてマリンタワーを外階段で降りてきた事が誘因だと思うのですが、閉所の方はもっとはっきりしていて、明け方に入ったトイレから出ようとしたら、鍵が壊れて閉じ込められたのがきっかけです。

― ああ、出られないなあ。でもみんなまだ寝ていてこんな事で起こしては悪いから、ここにしばらくいようかな。

なんてことを一瞬思ったのですね。

家のトイレに限っての事だと思いますが、トイレってそんなに不快な場所ではないんですよね。

ところが出られないなと思ったその瞬間、そんなに不快な場所には思えなかったトイレが、狭い・怖い・息がつまる・そんな場所になってしまったのです。

みんなに悪いからと言う気持ちよりも怖いが優先して、大騒ぎをし、飛び起きて来てくれた父と母に助けられました。

その時から、狭い所は苦手です。

と言っても、出られると思っているから、遊園地の潜水艦の乗り物もエレベーターも普段は大丈夫ですよ。ただ地震などでちょっとでも止まって閉じ込められたら、私はかなりまずい状態になるような予感はします。

だから私、この検査の事が知人との話題になる時、自分には出来いかもなどといつも思っていました。

因みに知人の一人は、その機械に入った途端にパニックになり一瞬で終了してしまったそうです。

 

そんな私のMRI体験・・・・・・・。

 

そのチェック項目に印を入れると〈入れていなくてもだと思いますが〉、技師さんは丁寧に対応してくれました。

「音は煩いけれど、寝ちゃってくれればいいですから。」

 

そうよね。

歯医者の治療中に寝かかって、
「ちゃんと口を開けててくださいね。」と叱られるほど、どこでも寝られる度マックスの人なんだから、寝ちゃえばいいんだと思いました。

それに全身すっぽり箱に入れられるわけでもないしー。

 

 と、気持ちは分かっているのです。

だから機会に入った時に

「大丈夫ですか。」と声を掛けられても、即答で

「大丈夫でーす。」と答えたのですよ。

 

が、

体は別反応だったのですよ。

どこでも寝られる度マックスの私でも、ここでは全く寝るなんて出来ませんでした。

頭も体も固定されているって言うのに、汗が噴き出てくるし、呼吸が荒くなってしまって、

深く息を吸ってはいて~の繰り返しです。

すぅー・はぁー・すぅー・はぁー・・・・・・・・

だからすぐに喉がカラカラになってくるし、どうする私 !!

速攻で中止にしちゃった知人の気持ちが良く分かります。

 

しかもなんでかこんな時に、考えてしまうロクでもない事。

― もしさぁ、3・11みたいな地震が今起きたら、私どうなるの。震源地がココだったらどうなるの。揺れる床を張ってでも技師さんは助けに来てくれるのかしら。それとも天井が落ちちゃって、技師さんたちが先に下敷きになってしまったら、固定されているこの手は抜ける事が出来るのかしら・・・・

 

もう考えるなよ、そんな事。

まったく余計に

すぅー・はぁー・すぅー・はぁー・・・・・・・・よ。

 

 

最近、記事が長くなることが多いので、この続きはまた明日~。

深夜族は長生きできないらしいです。

でもついてしまった習慣を修正するには努力を要しますよね。

 

↓ いつもありがとうございます。嬉しく思っています。m(__)m

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旅の途中・戦いの途中

2015-08-26 23:29:04 | 思いつくまま

〈子供たちがお勉強をする手助けを細々と自宅で続けています。〉

 

先日家に来た中学生の子供に、私は別れ際に言いました。

「次の時に、大阪であった恐ろしい事件の話をしましょうね。」

「ええと、なんでしたっけ。」

「だからね、君と同級生の子供たちが恐ろしい目にあったでしょ。」

「ああ、あれですよね。」

「今日は時間になってしまったから、だから次に。」

 

いまだ真相解明が出来ていない恐ろしい事件ですが、彼方の出来事ではなく、子供たちのトラウマにならない程度に話し合うことは、時には大切な事だと私は思っています。

 

その数日前この少年が、親に黙ってファミレスで勉強会をしたと話してくれました。

子供たちは「ちょっと黙って」と私が思うくらい、いろいろな事を話してくれるのです。

「それ、うちでは禁止事項に入ってるよ。」と言うと

「なんでですか。」と聞かれました。当然の流れですが、ふと、今まで子供にそのように真正面から聞かれたことなんかなかったなと気が付きました。

中三ぐらいの子供にその禁止事項を伝えると、

「やりませんよ。」と速攻で返事が返ってくるので、

「なんで?」と逆に聞いてみた事もありました。

「だってそこは食事をするところで、勉強をするところではないし、お店の人にもそうだけれど周りの食事をしている人たちにも迷惑だから。」とすこぶるまともな答えが返ってきたのです。

何の心配もありません。

15歳は意外と大人なんです。

 

本当に一番の理由は「店に迷惑」だと思うのですが、私が禁止事項に入れているのは、また違った理由です。このテーマは実は子供たちの保護者の方と話す機会が多く、だいたい意見が一致しているので、理路整然と禁止理由を子供に述べた事なんかなかったのでした。

ひじょうにグタグタな答え方になってしまい、ちょっと心のうちで反省・・・・

なんでかと言うと、保護者トークと子供に対してのトークは違うものを用意しておかなければならない事に途中で気が付いてしまったからなんですが、ここでも理路整然とは行かないと思いますので、簡単に言ってしまうと、子供たちは弱者であるがゆえにつるみたがり、つるむと気持ちが大きくなり正しい判断力が鈍りがちになる場合もあります。そしてすぐにズルズルとその自分の鈍った判断力で作り上げた世界観で、ものを見て判断する傾向が生じてくるのです。

そのズルズルの罠に落ち込む入口の一つに稀にファミレス勉強会がになっている場合があるからです。

 

13歳は見るからに子供だった小学生から中学生に変身を強いられるわけですが、中身は相当のお子様です。でもそのお子様は、そのままでは留まれないと分かっているお子様なのです。だからもがき悩み、時には失敗もたくさんします。

彼らは子供から大人に向かう旅の途中にいる者なのです。

 

そして多くの親が、その子供の成長と比例するように親のベテランになっていく場合が多いと私はまた思うのです。

親も子育ての旅の途中。

 

その旅は順調に行く場合もあるし、時には困難な道を行く羽目になる場合だってあるのではないでしょうか。

家族構成や経済的なものを背景とした環境などは、その旅をどのようなものにするのか、かなり大きな影響力があると思います。

それに加えて、早い子ではちょうど中学生の初めの頃から「反抗期」なるものがやってくるのです。

小学生の頃まで、子供たちにとって親は神や仏の次に位置するかのごとく絶対だったものですが、自分が成長しようともがく途中で、その絶対に近い存在だった親が、実はそうでもないただの人だった事に気づき始めてしまうのですね。

で、親が正論を言っても、素直に「はいはい」と言う事を聞かない時代が、その程度は様々ですがやってくるのです。

 

親も子育ての旅の途中と書きましたが、親の子育ての基準だってみな同じではありません。例えば上にあげた例としてのファミレス勉強会などでも、ごく稀に「なんでそれがいけないの。」という方もいないわけではなかったのですから。

いろいろな事を通して、子供も学び親も学んでいくのだと思います。

 

そしてその旅の途中は、時には親と子供たちにとって戦いの日々になってしまこともあると思います。子供は親を乗り越えようとして。親は子供を守ろうといろいろな事を言いますが、子供たちから見ると、たいしたことの無い人間が偉そうなことを言って自分たちを支配しようとしているようにさえ感じるのかもしれません。

 

だけどある時、ふとただの大したことの無いように見えていた親が、それでも一生懸命にやっているんだなと気が付いて、なんだか可愛そうだなと憐憫の情に駆られたり、ちっぽけな人だと思っていた親のそれなりに頑張っている姿に、思いがけず感謝の気持ちを感じたりする時が急にやって来て、そして反抗期と言うものが終わるのだと思うのです。

もしくは乗り越えたかった親を乗り越える事が出来なくても、成長して大きくなった心はその親に対して尊敬の念を抱くと言うのもあるかもしれません。

まあ、たいがいの場合は、異常にうるさいなと思った親の言動が、自分のためだったんだと気が付いてくれる程度かも知れませんが。

 

そうなったある日

「あの時の俺は・・・」

「あの時、私は・・・・」と幼く未熟だった自分の行動を振り返り

そして

「ふうやれやれ。私だってさ・・・・」と言う母たちと笑い合える日も来たのかもしれません。

 

「来たのかも」と書いたのは、やはりその日を迎える事が出来なかった大阪の二人の子供たちの事を意識してしまうからです。

大人になる旅の途中で事件に巻き込まれて、その道をとん挫してしまった子供たち。

気の毒でなりません。

 

「都会では、このように子どもたちの深夜徘徊は普通の事なんだろうか。」と言う言葉をどこかで目にしました。

〈「どこか」でごめんなさい。あちらこちらで見かけたので、どこでか良く分からなくなりました。〉

また「都会では」が「今の時代は」になっている場合もあったと思います。

「だろうか」と言う疑問形になっているけれど、本当は「違う」と分かっているのだと思います。

 

そう。

都会でも今の時代でも、多くのほとんどの子供たちは夜は家にいます。たとえ親と上手くいっていない時代に突入していても、家の中でバトル中です。

様々な要因で、困難な旅の道を選んでしまった子供たちが夜の道にはじき出されているのです。

それだって普通は、運が良ければちゃんと補導されるはずなのです。

普通は補導を運が良いとは思えないわけですから、逃げ回っていたのでしょう。もしかしたらそれが犯人の罠にはまるきっかけになってしまったのかも知れないなんて事も思ってしまいました。

 

もっと辛辣な言葉にも出会いました。

「親の責任」「自己責任」・・・・・。

確かにないわけではない。でも厳しい。

いつか笑い合えたかもしれない愚かな行動の時代。でもそのいつかはやって来ないと、今が裁かれてしまうと言うことなんでしょうか。

子供を失った最大の苦しみの中でー。

 

 

「被害者家族のプライバシー的な事をさらすのはどうか。」と言う考えに私は同調します。

公開捜査の時は仕方がない事ですが、ご遺体が見つかった後も、子供たちの映像を流し続けたのもすこぶる嫌な気持ちになりました。お名前だけで画像は要らないのではないでしょうか。

被害者家族にもっと優しいマスコミであって欲しいと、本当に思います。

 

とにかくも警察の働きによって、迅速に事件が解決して良かったと思います。

お二人の子供たちの安らかな眠りを心から祈ります。

 

 

最後につるむことによって、気持ちが大きくなりズルズルの罠にはまってしまった少年のお話をしましょう。

私と知り会う一年前の中学二年生の夏、

ある時みんなで気持ちが高まって、スカイツリーまで自転車で行く事にしたのだそうです。時はすでに夜。

ここからはかなりの距離があるのです。

深夜2時、自転車を走らせていたらおまわりさんに呼び止められて、しっかりと補導されました。

その後、何回もの呼び出し・・・・・。

「補導されるのって大変なんだなあ。」とそのお話を聞いていて、そう思いました。

でも「良かったんじゃない、それで。だって懲りたのじゃない?」と私が言うと、

「はい、もうこりごりです。俺はもう、夜はウロウロしないんだ!あっ、この後君んち行っても良い?」と、横にいた友人に聞く少年。

「断る!来るな!」

 

子供たちは旅の途中。

そして、遠い昔に大人になってしまった私たちも、やっぱり旅の途中を行くものかもしれません。

 

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野田市散策日記その7

2015-08-22 23:59:45 | お散歩&写真日記

実は野田市にはちょっと面白い観光スポットがいくつかちゃんとあるのです。

この「野田市散策日記」は、近頃やたら野田に行く用が増えた私のついでの道すがら写真日記なので、観光スポットをなかなか紹介できないのですが、いつか時間を作って皆様に紹介もしていきたいと近頃思うようになりました。

と言いましても、いつになる事やら。

 

だけど、この街は何気ないこんなシーンがとっても心に残る街なのです。

 

なんでかミニ旅行に来た気分になるんです。

目的地に向かう途中に目についたこんな看板も、気になりますよ~。

 

何々・・・?

 

「厳島神社 弁財天」

 

入口は狭く、奥の方はちょっとだけ広いと言う小さな神社でした。

神社に湧水があると言うより、きっと湧水のあった所に神社を作って、その場所を大切に残したと言うん印象がしました。

 

なんだか緑深くて、なかなか落ち着く場所ではないですか。

でも周りのすぐ横には駐車場や建物が・・・・・。

 

 

周りが建物に囲まれているとしても、このひっそり感が漂っている場所では子供は一人では遊んではいけないかもしれません。

でもほんのちょっとの水辺でも、なんだか癒されるような気持ちになってしまうものなんだなと思いました。

藤の季節になったら、忘れずにまたここに立ち寄ろうと思いました。

 

 

※        ※       ※

7月10日「傾聴ワーク」の最終回でした。

それは学びの多い講座でした。

その会場に飾ってあったどなたかの作品。

 

その時は、ただ綺麗だなと思い癒されましたが、こうして画像で改めて見ると、日にちが経っていたのかアレンジメントに少々の乱れが生じています。〈その時は全く気が付きませんでしたが。〉

でもなんだかそれがユーモラス。

たまたまそこにあっただけの花。

でもその花に「あるひとつの終わり」を祝福されているような気持ちになれたのでした。

 

 

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記憶の沼の底から

2015-08-21 09:05:30 | 思いつくまま

お盆休暇が終わって、いつもの夏の生活が戻ってきました。

お盆休みには、一人暮らしのラッタ君と東京駅で会ったりし、ルート君とは一緒に私の実家に出掛け、そして休み中に一年に一回は遣っている大腸検査で一日費やし、そして夫の父の墓参りと夫の実家にて夕食を頂いたり、そして残りは家の紙ごみと格闘していました。

あっ、そうそう。このお盆休みの最中には夫にとって、そして私にとっても凄く大変な事がありました。

でも、こちらはまだ報告出来る事ではありません。いつかご報告が出来る日が来るといいのですが。

「あっ、そうそう」と言っているくらいなので、差し迫った何かではないとご推察ください。

〈・・・・でも、本当は差し迫った何かになってしまうかと、数日ドキドキしていました。〉

そんなこんなで、のんびりしたのかバタバタしていたのか分からないような夏のお休みは終わりです。

まあ、まったくお仕事のない9日間は、やっぱりのんびりしていたように思います♪

 

オヤスミの間にも少々ブログを書いたのですが、その時、あまりにもお話が広がってしまいそうなのでぐっと我慢して書かなかった事を、今日はお話したいと思います。

ずっと記憶の沼の底で眠っていた一瞬のシーン。

でもブログに記事を書いた時に、その沼の底から浮かび上がってきたのです。

人は生きている間に、本当にたくさんの場面に出会っていて、それをみな徐々にその底に沈めているのだと思います。〈もしくは完全に消去のものも・・・・〉

でも時にはずっと沈んでいた記憶を水面にまで浮かび上がらせ光を当てる事も大切な事なのかも知れません。

 

それは東京駅でのずっと昔の想い出のお話です。ずっと昔と言うのは私が20代の頃で、本当に悲しい事に「昔」です。

東京駅散歩」と言う記事の中で

>「ああ、この辺では男の人が小さな女の子と一緒に土下座して『この子に今日食べる物を買うためのお金をください。』と言っていたな。」と私の想い出はそんなもんばっかし。

と書いたのですが、その男の人と少女のお話の続きです。

 

駅の通路を歩いていたら薄汚い背広を着た男の人が少女と共に冷たい通路に座っていたのです。

ドキリとしました。少女はうつむいたままじっと固まったように動きませんでした。

当たり前だと思います。じっとこんな時間が過ぎるのを待っていたのだと思います。

二人の前に置かれた缶の中には、小銭が落されて行きます。

男はその度に少女の頭を押してお辞儀をさせるのでした。

 

私でさえ、本当に一瞬ですが迷いました。

「入れてあげたいな、でも」と言う迷い。

その迷いは「施し」は、つまりこの人たちにとって正しい行為なのかと言うものだったと思います。

 

ところが立ち止まった途端に目の前を、中年のおじさんが風を切るような凄い早足でやって来て、その男の人の手に直接万札を握らせて、
「早く立ちなさい。この子をこんな風に座らせちゃいけない。」と二人の腕をつかんで立たせたんです。

少女の父親らしき人は中年男性の手を取って「ありがとうございます。」と涙ながらに何度もお辞儀をしていました。そしてやはり少女の頭を押してお辞儀をさせようとしました。

中年男性は、その手を止めて

「そんな事をしないで良いから。」と言いました。

 

私は通りすがりの通行人です。

一瞬目に止まっただけのシーン。

通り過ぎながら、私は本当に良かったなと思ったと思います。

自分の気持ちなのに、ちょっと変な書き方ですが、いくらなんでも事細かにその時思った気持などは書けないと思います。ただ覚えている気持ちが一つだけあるのです。

それはその薄汚い背広を着ていた男の人への不信の思いでした。

あのお金は本当少女のために使われるのだろうかー。

お酒とかに消えてなくならないのだろうか。

私は頭を軽く振って、その考えを振り払いました。

 

単なる通りすがりです。

私には関わりのない事だったのです。

 

そしてその万札を握らせた中年男性にだって、かなりの自己満足を得たんじゃないかと、そんな貧しい感想を持ったかも知れません。

若い時は経験不足から何かを見る時に相当薄っぺらにしか見る事が出来ない場合もあるからです。

でもその時には、そうは思わずに自分の感覚がかなり正しいような気持ちにもなるんですよね。なぜなら頭の中が冴え冴えと澄んでいるからです。かなりの時間を生きて、かなり頭の中がぼんやりしてきた人たちの感覚に負けるわけがないと思っていたのです。

・・・・って、お若い方 !

今、あなた、そうじゃないですか?

 

まあ、それは別のテーマですね。

 

だけれど今、そのワンシーンを今の目で見つめ直してみると、なんだか胸がいっぱいになってくるのでした。

あの時、相当のおじさんに見えた中年男性は、今思うと、今の私と同じくらいか、もしくはもっと若かったように思うのです。

大勢の人が行きかう東京駅の通路で、そこに駆け寄って二人を立たせるって、ちょっと勇気が必要だったのではないでしょうか。でも駆け寄ったスピードを思うと、そんな迷いなどなかったのだと思います。

その人は言いました。

「私にも娘がいるんだよ。この子をこんな所に座らせちゃいけないんだ。」と。

 

思わず私はこの人に頭を垂れるー。

何十年もの時を経て。

 

 そして涙ながらに中年男性の手を取ってお礼を言っていた男の人の気持ちも、今では本当に信じたいと思います。

ずっと昔と書いてきましたが、そのあと数年後には私はラッタ君を産んだわけですから、この少女と我が子はひとまわり違うか違わないかぐらいで、今頃はようやく中年の入り口。今の時代では、中年と言っては叱られてしまう年代かも知れません。

そう思うと、ずっと昔ではなく、少し前の東京駅での想い出になるのかもしれません。

 

そして今も子供たちの受難は続いていて・・・・・・

みんな大人たちの都合によって・・・・・。

 

 ※         ※         ※

 

昨日、雨が降って少しは涼しくなったような気もするし蒸し暑さは変わらないような気もするし、盛夏の時は過ぎても、まだまだ過ごしやすいと言うわけではないですね。

今頃から疲れが出てくるので、皆様お気を付けて、今日と言う日を楽しみましょう。

 

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やっぱりブログって面白い♪

2015-08-17 01:18:26 | 新米パソコン生活
 
白川郷の箱庭
ある時までその良さがちっとも分からないのに、突然「あらっ!?  これってなかなか良いもんだったのね。」と気がつくものってありますよね。父はある時ずっと紙粘土工作に凝っていま...
 

 

上記の囲みは、gooのサービスで昨年の8月16日の記事です。

メールで送ってくださるので、思わずしみじみと読んだりする時もあるのですが、自分のブログ記事を読み返すのってなかなか面白いものがあるんですよね。

それは日記などでもそうだと思うのですが、でも上記の囲みの一つ前の記事「時にはブラックジョーク♪」などを読み返すと、日記と同じようにある日の記録を書いていたとしても、日記にはこういう書き方は絶対にしないと思えて、やっぱりブログは面白いと凄く感じたのでした。

 

そのgooが新たに始めた「リアルタイム解析」がなかなか面白くて、編集画面にインすると特に変化もないのに、すぐにそこを見に行ってしまったり・・・・。

これは最初は有料版のアドバンスの人からスタートなんですが、8月中にはgoo利用者全員にそのサービスがいきわたるそうですよ。

ずっと以前に「ブログペット」と言うブログパーツを貼っていた事があるのですが、(無くなってしまって悲しかったな)

そこに付いていた解析に数に関しては似たような感じもします。でもどんな検索で訪問してくれたのかどちらから来てくれたのかが分かるのが良いと思います。

時には検索で見当はずれの私の所に迷い込んでしまったんだなと言うことも分かって・・・・ちょっと…悲しい・・・^^

 

カテゴリーの「新米パソコン生活」は、このブログを始めた最初からあるもので、10年近くもやっていて「新米」はないよなと思いつつ、やっぱり私は何も分かっていないと反省中。いつまでたっても新米です。ただし、初々しくはないと言うだけの  ('◇')ゞ

 

やっぱりいくつになっても勉強する・学ぶって大切な事だと思います。

まったく知らなくて、昨日今更みたいに知った事なのですが、萩本欽一さん、大学に合格していたんですね。

 

えっ!?

みんなは知っていたって。

すみませーんm(__)m

 

でも欽ちゃんは、74歳なんですよね。

凄いです!!

そのまとめは→ここに

 

なんか負けてはいられないぞって、そんな気持ちにもなるってもんですよね。

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家族の歴史を語り合おう

2015-08-15 18:24:34 | 梢は歌う(日記)

今、私が時々思い後悔している事は、

それはどうしてもっと義父の話を聞いておかなかったのかと言う事。

父の話をもっと聞いておかなかったのかと言う事。

さらにさかのぼって祖母の話をたくさん聞いておかなかったのかと言う事なんです。

 

義父は生前、お酒を飲みながらこう言っていました。

「穴ばっかし掘らされていた。その穴をずっと朝から晩まで掘っていたら戦争が終わってしまった。」と。

「へえ」と思いながら、その穴の私の脳内イメージは良く戦争に出てくる塹壕と言うもの。

穴を掘っている間に戦争が終わっていたのなら、なんだかラッキーな感じもしたのでした。

でもその義父が亡くなってずっと経ってから「硫黄島からの手紙」と言う映画を見て、父の掘っていた穴と言うのは、この硫黄島のような穴ではなかったのかと、映画を見ながらハタとそう気がついたのでした。

もっと深く彼にその時の様子を聞くべきだったのだと思っても、今となっては後の祭りです。

 

それと同じように父の話、祖母の話をもっと聞いておくべきだったのだと思う時があるのです。

 

※        ※        ※

13日から夏休みの我が家の下の息子、ルート君が、

「やっぱし、休みにはばーちゃんの顔を見に行っとかなくちゃな。」と言いました。

このばーちゃんと言うのは、横浜で暮らしている私の母の事です。夫の母は独居老人ですが、なんたってスープが冷めないような〈多少は温くなる〉近くに住んでいるので、会う率は高いのです。

そんな可愛らしい事を言うので、14日の日に二人で横浜に行ってきました。

トップ画像は、その時母がごちそうしてくれたもので、ルート君はすき焼き膳。

私のはデザート付

ミニかき氷です。

昔はそのまま飲む抹茶は大好きだけれど、それのあれやこれやのバリエーションのモノは一切受け付けられなかった私なのに、時がその嗜好も変えて、抹茶味のあれやこれやが好きになりました。

 

13日は義父の墓参りに行ってお墓も綺麗にしてきました。

本来ならば父のお墓にも行きたいところですが、日帰りの予定で、ちょっと自分の疲労度を考えると無理があると感じたので、仏壇に長々と手を合わせる事にしました。

そんなわけでお供物になるようなものを買い求め、ついでに父も気に入っていたプリンなども買い求めました。

治一郎のバウムクーヘン
治一郎
治一郎

ご参考に。

お供物は、このバームクーヘンとラスクのセット。私たちのおやつはプリン。

付いていたので、かき氷を食べてしまったけれど、更におやつのプリンまであったら、もう完璧と思い食事の後は実家にてのんびりする事にしました。

 

ところが姉は、私たちが来るからと人参ケーキを焼いておいてくれていました、母は母で山梨の父の弟さんが送ってくれた巨峰を洗って出してくれたのです。

その他にもやはり帰省してきた姉の長男君のお土産とか溢れるばかりのおやつ三昧。

 

でもそのテーブルで語られた話は、私たち家族の歴史です。

母や父の家族の中でも疎遠になっていってしまった彼らの兄たちの話。

それにはちゃんと理由はあるものの、残念でたまらない部分でもあります。だから父の願いは最後まで「みんな仲良く」だったのに違いありません。

 

家族の歴史と言うものには、恥部と暗部がつきものなのです。

だけれどもしもそこに蓋をして、次の世代に語っていくならば、家族の闇の部分に存在した人たちは記憶の底に埋没して言ってしまうでしょう。

もちろん誰かが誰かのエピソードを語れば、それは話した人の主観に基づくものになってしまうのは確かです。

でもそれを知りそれを覚えていようと思うのは、語られる人の家族に他ならないのでそれで良いのだなんて事は、私は思いませんが、その主観が異様に捻じ曲がっているものは、聞いていてかなりの違和感が付きまとうものなのだと言う事を、私は子供の頃から聞かされていた母のある話で身に染みて感じているのです。

 

さりげなく言わせていただければ、それは家族の会話であっても国レベルの話であってもだと思います。

 

母のある話と言うのは、とてもかき氷の画像と一緒に語る事が出来るものではありませんが、私たちの全く知らない揚子江を泳いでソ連兵から逃げた祖母の兄の話とか、外孫には全く愛情を抱かなかった母の祖母の疎開時のいじわるの話とか、もうそれは母にしか語ることの出来ない話です。

 

そしていつものように、母の父の死んだ話は簡単に語られて次にお話は進もうとしました。

その時私はその話を止めて

「クルクルクル。はい、巻き戻しました。おじいちゃんのお話をしましょう。」と言いました。

 

母の父は戦争に行き部隊が全滅しその中でたった3人生き残ったうちの一人でした。防空壕のような洞穴の中で生き延びて、アメリカ兵の「戦争は終わりました。」の呼びかけで投降したのだそうです。 〈本当かな?〉

その防空壕の中でひっそりと身をひそめながら彼は何をしていたのかと言うと、B29の残骸を切って丸めて指輪を何個も作っていたのだそうです。 〈たくましいじゃないか!〉

 

でも疎開先の福島に戻って来た彼は栄養失調で、そして体もですが心も貧相に様変わりしていました。

祖母は私の目から見たら、かなりの女傑でした。でもその祖母でさえ彼を支え切れず毎日喧嘩ばかりしていたと言うのです。

思春期一歩前の少女だった母には、ずっと一緒に暮らしてこなかった男性は愛すべき父には思えなかったのは、母の母が彼を愛してなかったからだと思います。

母の母、つまり祖母は疎開先を引き払うために家を探すと言う名目で、先に一人横浜に帰ってしまいました。

 

意地悪ばあさんの家で取り残された子供たち・・・・。

そこで私が子供の頃からうんざりするほど聞かされてきたエピソードが語られました。母屋で食べているトウモロコシ。それを見ながら幼い腹ペコの弟は「僕も食べたいよ」と母にすがるのです。意地悪ばあさんは外孫にはくれません。

切なくて畑の畦道を歩いていると、農家のおばさんが何本ものトウモロコシをもいでいました。

母が「そんなにたくさんどうするの。」と聞くと

「べこにあげるんだ。」と言いました。

べこというのは牛の事です。

「それだったら、少しだけ分けてくれないかしら。」と母は言いました。

その図々しい申し出に農家のおばさんは、お前は何々の家のもんかと尋ねました。そうだと言うと、

好きなだけ持っていけと言ってくれたのだと思います。

縁故疎開でも苦労した母たち。近隣の人たちはそれを知っていて気の毒に思っていた人もいたのですね。

でも私が驚いたのは、その話に母の父が登場してきたことです。

伏せって寝てばかりいた母の父も一緒にそのトウモロコシを喜んで食べたと母は初めて語りました。

 

横浜に帰ってきた後、母の父は祖母の家を出て最果ての地北海道に流れていき、そこで死にました。

でも母には、なぜ父が家を出て北海道に行ったのか、全く知らない事だったのです。一度も母の母、祖母に聞くこともなかったのです。

私は言いました。

「思うに、職を求めて炭鉱に行ったんじゃなかったのかしら。いわゆるタコ部屋ってやつよ。」

なんとなく納得するみんな。

こうして家族の歴史と言うのは、良く分からない部分をその時の想像力で穴埋めされてしまうのでした。

ああ、真実はどこに・・・・。

 

死んだと言う知らせに、女手一つで家族を養っていた祖母に北海道に行くようなお金がありません。お手紙を書いて遺骨を送ってもらう事にしました。

布団にくるまれて、遺骨は送られてきました。

彼が家を出ていく時に、誰もがそっぽを向いていた中、母が握り飯を作って見送りました。

その事を母の父は喜んで、途中で立ち寄った福島の親戚に嬉しそうに報告していたのです。そしてくるまれた布団の中の遺骨とともに1通の手紙が入っていました。

母への短い手紙。

それは母の父の、母への感謝と幸せを祈るものでした。

 

「なぜ!?」

私と姉は声をそろえて言いました。

そんな話は初めて聞きました。

 

そこで私はある事を言ったのですが、それは上記にあげた母の「ある話」に関係のあることなので、そこはスルーなのですが、その後、私は言いました。

 

「私はね、ずっと物心がついてから、ずっと私には祖父は山梨のおじいちゃん一人しかいないような気がしていたんだよ。それは生まれる前に死んでいたからじゃないんだよ。でも今日、私には祖父が二人になったような気がする。初めて。」

 

それは母の中に父がいなかったからだと、私は思います。

 

私の祖父はやっとの思いで生き延びましたが、その時のトラウマから抜け出せず帰国した後も、家族や社会の中に溶け込めませんでした。体力も回復せず北海道に流れていきそこで死にました。

もしかしたら自殺であったかもしれません。

 

― おじいちゃん。おじいちゃんは、戦争にゆっくりと殺されてしまったんだね。

そう私は思いました。

 

そしてまだ子供だった母にとっても、心まで病んでいたような父をかばい切れるわけもなく、そして好きにもなれなくて、そして遠い最果ての地で死なせてしまったのは蓋をしたい出来事だったのではないのかと思いました。

迎える家族の事はあまり語られることはないかもしれません。語られたとしても良妻賢母の女性像ばかりが流布しているのではないでしょうか。

 

母への短い手紙は、本当は祖母にあてたものではなかったのかと私はチラリと思いました。そこに母への感謝と幸せを願う言葉が添えられていたのだと思います。

でなかったら、ずっと北海道に行くのが祖母の悲願であったわけですが、そうはならないと思うからです。そしてその祖母は、その悲願の北海道旅行の翌年胃がんになって死にました。まだ70歳前でした。

 

祖母が席を立った後、おやつをむしゃむしゃ食べていたルート君は言いました。

「腹もいっぱいだが、ばーちゃんのありがたいような話がなかなか重くて、そっちも胸も腹もいっぱいだ。」

「だなー。」と笑いながら私。

 

※          ※         ※

 

 

夜はピザを姉が取ってくれると言いましたが、義母がウナギを買ってくれると言うので4時ぐらいに横浜の家を出て、今度は夫の実家で夕食を食べました。

今年はまたウナギが高いので、姉が

「そりゃ、ウナギには負けるわね。」と笑って駅まで見送ってくれました。

夫の母が用意してくれた夕食はいろいろ美味しくて、またもお腹がいっぱいです。

 

よせばいいのに、夜、体重計に乗って・・・・・

 

まっ、予想通りです。

 

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東京駅散歩

2015-08-14 01:37:45 | お散歩&写真日記

ワタクシ、結構、東京駅ラブな人で、あの駅に降り立つと、なんでか心の底に眠っている冒険少女の血が騒ぐのです。

今までの東京駅の記事は

東京駅夜景

東京ステーションギャラリーにて「生誕100年!植田正治のつくりかた」

など。

 

8月10日、横浜で一人暮らしをしているラッタ君〈と言ってもかなりの大人〉が、私に用があると言うので東京駅で待ち合わせをし、東京駅プチ散歩なるものをしてきました。

 

東京駅の情報は、いつもブログで知り合ったからの記事から頂くことが多い私です。

今回のプチ散歩の私のイメージは

中央口から出た斜め前にある「KITTE」でお食事、屋上庭園で休憩、ステーションホテルのどこかでお茶。家族のお土産のおやつや、駅弁を買って帰って夕食を手抜きをしようと言うもの。

 

この「KITTE」の情報は読者登録させていただいているsumikaさんの「87純花のブログ」より「東京駅がおもしろい」で教えて頂きました。

 

だけど、私・・・・・・。

このブログの常連様には予想通りの事でございますが、また出口を間違えてしまいました。

「東京夜景」の時もそうだったのに、またもやってしまいました。

 

思わずラッタ君に誤ってしまいました。

「ごめんねー。私なんだかんだと言って最後は行きつく人なんだけれど、行きつくまでが多大な困難な道と言う人なんだもんだから~。」

するとラッタ君。

「ああ、俺もその血をしっかり受け継いで、どこにも真っ直ぐ行けたためしがない。だからまったく責める気がしない。」

ー へい。そうでっか。

 

なんでかいつも八重洲中央口からふらっと出てしまうのですが、八重洲地下街は若き日の夫とのデートコースで、いくつになっても習慣は体が覚えているものなのかしら・・・・・なんちゃって。

とはいっても、八重洲地下街は昔から面白い所に感じていたのですが、更に綺麗になっていました。

ランチの後に連絡通路を通って中央口に回って行きました。

連絡通路も綺麗です。

 

「ああ、昔この辺で、ホームレスのおじさんたちが円陣組んで座り楽しそうに宴会をしていたな。」

「ああ、この辺では男の人が小さな女の子と一緒に土下座して『この子に今日食べる物を買うためのお金をください。』と言っていたな。」と私の想い出はそんなもんばっかし。

みんな遠い昔の想い出ですが。

「みんな追い出して、そして今があるんだな。」とラッタ君。

 

そうだな。きらきらとして綺麗なここには彼らは確かに似合わないものねー。

 

東京駅、大好き。

だってそこには歴史とみんなの想い出がたくさんあって、それを感じる事が出来る場所だからだと思います。

 

 

 ランチ

ステーションホテルはなんとなく敷居が高かったけれど、行ってみたらそうでもありませんでした。

虎屋のカフェ「TORAYA TOKYO」

小豆とカカオのフォンダン、キャラメル羊羹、夜の梅のプレート。

ラッタ君は季節の羊羹。

私はやっぱりこの壁が好きです。


 

ラッタ君とはお久しぶり・・・・・と言うほどではなかったですね。10日前に親戚の結婚式でも会ったのでした。

でもその時はいろいろな話は出来なかったので、ここでは結構お話が弾みました。

だけれど、彼は夏バテ気味でお疲れモード。

私もですが、暑さからかとっても疲れてしまい、もう帰る事にしました。

もう帰ろうと言ってからも、ちょっとだけ当初の予定があきらめきれなかったので、「KITTE」の屋上庭園だけは行く事にしました。

 

ここ、行って本当に良かったです。

なんて言うか見晴らしが良くてプチ旅行気分を味わえました。以下、何枚も同じような画像が続きます。

見た目は澄ましていましたが、心の中はけっこうはしゃいでいたっていう感じですね。

 

 

 

向きを変えずにそのまま。

 

「もう帰った方が良いかも。」とラッタ君が空を見て言いました。

この頃足立区は大雨だったとか。そしてその日仕事のルート君は大雨の中に居たそうです。

 

じゃあ、もう一回ここからじゃなければ見えない所をじっと見たら帰るかな。

じぃー。

 

これも向きが横向きのまま。

見上げたら、もう一つの空が・・・・。

 

 

結局暑さでげんなりしていたので、おやつも駅弁も買わないで帰って来てしまったのですが、東京駅とその周辺はまだまだ何かを発見できる場所だと思います。〈因みにラッタ君が買ったアナゴのお弁当は凄く美味しかったみたいです。〉

楽しい1日でした。

 

コメント (2)
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NHKスペシャル「あの日、僕らは戦場で ~少年兵の告白~」

2015-08-13 00:58:25 | テレビ・ラジオ

8月11日、NHKスペシャル「あの日、僕らは戦場で」を見ました。

アニメと元少年兵たちの証言を基に作られたアニメドキュメントでした。

 

今までほとんど語られてこなかった、少年兵たちのゲリラ部隊。

 

ねえ、あなた !

そんな事が過去にあったなんて、知っていましたか?

この日本で。

 

17歳までの子供たちが大人の背後にではなく、前面に出て遊撃戦の兵士として戦っていたんですよ。

今までもいろいろな過去にあった戦争で起きたことが伝えられてきました。

でも戦後70年経って、ようやく語られ分かってきたことがまだあるんですね。

まずはその事が大きな衝撃でした。

それはかつて銃を持って戦った少年たちが、戦後70年経って固く口を閉ざしていたその事について、やっとやっと語る事が出来るようになったのかもしれません。

 

訳も分からず少年たちは招集されて、

「命は鳥の羽より軽い。」「一人10人殺したら死んでも良い。」と教え込まれていくのです。

暴力と共に。

まさに洗脳教育。

少年たちはお互いに強く殴り合うことを強要されたりします。

 

私はその話を聞いて、その場面を思い浮かべて涙ぐんでしまいました。

ちょっと話はとんでもない所に飛びますが、ポケモンの一作目の映画はルート君〈息子〉が小学生の時に一緒に見に行きました。本当はかなり嫌々行ったのです。ところがとあるシーンで、私は胸がいっぱいになってしまいました。ふと横を見るとルート君の大粒の涙がぽろぽろ流れているではないですか。周りを見ると泣いている子供がいっぱいでした。こらえ切れなくなって、私もハラハラと子供映画で情けないなとちょっと照れなが大泣きしました。

そのシーンは敵役の者に命令されて、仲間同士で殴り合わなければならないシーンだったのです。泣きながら相手を殴るポケモンたち。

本当に悲しい悲しいシーンなのでした。

それをですよ、かつて子供たちに本当にやらせていたんですよ。

崖っぷちの軍隊は。

 

多くの大人たちは戦場に駆り出される時に、そのほとんどは犬死であったにもかかわらず、
「お前たちを守るために、お父さんは戦争に行く。」と出征して行ったのだと思います。

お前たちと言うのは妻とそして子供たちです。

その子供たちに銃を持たせて戦わせられたら、守りたかった父親たちの心もないものになってしまうでしょう。

 

彼ら少年兵を教育したものの手記には

「彼らはまるで運動会に参加するかのようにはしゃいでいた。」と楽しげであったかのように記したものがあり、全く愛のないその言葉に怒りを感じました。

どんな時にも人はわずかな光を見出して、自分の周りの状況を良くしようとするものなのです。暴力に満ちた毎日の過酷な訓練の中で友達になった者たちとはしゃいでいたのは、若者らしい光の見出し方に過ぎず、そのような事がまったく分からないものが指揮していたのかと思うと、実戦に出た時に、少年たちがどんな悲惨な目にあったのか容易に想像がつきました。

 

沖縄の少年ゲリラ隊の名前は「護郷隊」と言いました。

沖縄は戦場になってしまったがゆえに、護郷隊の少年たちは本当に戦わねばならなかったのです。

この少年兵を遊撃戦の兵士にすると言う作戦は、日本全国で計画されていました。

 

私の父は立川の飛行場〈たぶん〉で、飛行機の整備のために徴用されていました。この護郷隊のアニメの物語の中心人物と同じ年でもあり、また彼と同じ飛行場で仕事をさせられていたのも同じです。

すでに訓練が始まっていたような事が資料に書かれているようなので、父は選ばれてなかったんだなと思いました。

でも本当に本土決戦になんて事になってたら、その先どうなっていたかは分からなかった事だと思えました。

 

男子二人の母ゆえに、14歳から17歳の頃の息子たちが戦場に駆り出されたらと、怒りがこみ上げてきました。

絶対に子供たちに銃を取らせる未来であってはならないのだと思います。

 

あらすじ〈NHKスペシャルより〉

「目の前で幼なじみが撃たれ、倒れた。ぼくは彼を見捨てて前進し、戦闘を続けた。あの時、ぼくの心は異常だった・・・」(当時16才)
 沖縄北部の山岳地帯で米軍と戦った少年兵がいる。戦後70年経った今、30人余りの元少年兵が戦争の秘められた事実を語り始めた。証言や未公開の資料か ら、少年たちは、陸軍中野学校の将校たちからゲリラ戦の訓練を受け、凄惨な戦闘を繰り広げていたことが分かった。さらに、「本土決戦」に向け、全国各地で 少年たちによるゲリラ部隊が計画され、訓練が進められていたことも明らかとなった。彼らが、どのように身も心もゲリラ兵に変容させられていったのか。証言 をもとに、少年たちの戦闘体験をアニメにして、幅広い世代に伝える。また、日本やアメリカで新たに発掘された資料を分析。「一億総特攻」に向けて、子ども が戦争に利用されていった知られざる歴史を伝える。」

 

 

 

 


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