森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

薔薇とスノウさん

2021-10-30 21:10:13 | 家族スナップ

薔薇と雑文と日記。

薔薇は、24日の午前中に訪れた「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇です。

☆       ☆

今日、病院に持病の定期検診に行きました。

その数字を見て、「やっばい~!!!」となりました。

これは人の心配している場合じゃないぞー。

と、一瞬思ったかも知れませんが、「何を言っているのだ、私。」となりました。

 

なぜなら妹のスノウさんは、「白秋の時を、いかに生きるか。」などと、なんだか何かに酔っているかのようにクダクダ言っている余裕もなく、玄い(くろい)冬の魔女にその肩をつかまれ、見えない世界に引きずり込まれようとしているのですよ。

私が心配しないわけないじゃない。

心配しか出来ないんだから。

 

10月24日にスノウさんに会いに行ってから、どうも気持ちが沈みがちです。

星子さんが言いました。

「姉妹が多くて、いつも楽しそうでいいなと思っていたけれど、多いという事は、それだけ悲しい事も多いのね。」

確かにそうだなと、私はしみじみと思いました。

光の分だけ影があるようなもの。

こんな風に気持ちが重くなるのも、楽しかったことがいっぱいあったからなんだ。

じゃ、いいや。

この重さを受け入れるよ、私。

 

ある時はスノウさんは言うー。

「何年も、私はずっとこんな。もう嫌なの。もうちゃんと生きるんだ、私。」

そうだよ。楽しい事、今できる事を探して、今を生きようよ。と、私たちは言う。

だけどもう、彼女には体力も気力もなくてー。

でもスノウさん、ずっとじゃなかったんだよ。

 

私たちが行った時、スノウさんのリクエストで彼女の夫さんが、駅前でスペアリブを買ってきてくれていました。食欲が全くないスノウさんもそれは美味しく食べる事が出来ました。

そのスペアリブが出てくる記事があります。→自由が丘散策日記

あの時は楽しかったな。

 

またある時は、彼女は言います。家に行った時も言いました。

「もう生きていたくない。もう死にたいの。」

 

と、この話の続きは、また明日。

 

こんな話ばっかりなの ?

はい。

これは24日の日に妹のスノウさんの所を訪れた時の日記だからです。

 

私たちは親バカならぬ、姉妹バカ。

スノウさんは、このページの薔薇のように、華やかで美人の自慢の妹なんです。

そんな事を堂々と言う私は・・・ネッ、言ったじゃない。姉妹バカって。

そう言えば、今日くろ豆の検診にも行ったのです。

先生が、「可愛らしい猫ちゃんが来ましたね。」と言いましたが、私は迷わず、微笑みながら

「はい、そうなんです。」と答えていました。

これも飼い主バカって事ですか ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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「おかえりモネ」☆癒しと再生への共鳴

2021-10-29 16:13:13 | テレビ・ラジオ

【画像は関係がありません。絵がないと寂しいので「イングリッシュガーデン」の薔薇を載せています。】

 

またも半年続いたドラマの感想を、1回で書くと言う無謀な事をするわけですが、そんな訳で、上手く書けるかどうかは疑問です。

「おちょやん」からの「モネ」でしたので、最初は、このユルユルと進んでいるかのようなテンポに、戸惑いを感じました。

だけどむしろ、スローに見えたそのテンポに何故か癒されるような気もしたのです。

これは物語がスローなテンポなのではなく、ヒロインのキャラがそう思わせていたようにも感じました。

 

ところがこの物語は、癒しとは関係のない、災害によって傷ついた人たちの再生への物語で、決して甘い内容ではなかったのでした。

それでも何か勘違いをさせるものがあったとすれば、それは登米を舞台にしていた頃の「モネ」がそう思わせたのだと思います。

夏木マリさんが演じた新田サヤカさん、本当にカッコ良かったですね。

彼女だったら、何でも分かってくれる。彼女が来たから大丈夫。そんな安心感があって、こういう大人・・・・・、いやもう大人なので、こういうシニアになりたいものだと憧れました。

それにやっぱり、私は森が好きで、だからなのかも知れません。

海と森とが繋がって輪になっていると言うようなお話も、凄く良かったですよね。

 

あっ、そう言えば、私的には大事な話を思い出しました。驚いたので記事にしようと思っていたのですが、すっかり忘れていた事です。東葛地域の中学一年生の国語の教科書を読んでいたら、畠山重篤氏の「森には魔法使いがいる」が載っていました。

そこには「モネ」で言われていた事につながるような事が書かれていて、タイムリーだなと思いました。今時のお子様はあまりテレビなどを見ないのかもしれませんが、たまたま見ていた人は、この単元の国語がよく理解できたことでしょう。

 

そのお話の中には、

・60年以上前に気仙沼・舞根に「カキ研究所」が設立された。

・カキの赤ちゃんに食べさせる植物プランクトンの培養が上手くいかない。

・すると今井先生が「雑木林に行って腐葉土を集めてきなさい。」と言われ、若き研究者は「えっ、森に行くのですか。」と驚くのです。

そっしてお話はつづき、そしてその中に

「漁師による森づくりは現在まで続き、森は大きくなり、川も綺麗になりました。省略・・・

豊かな海が蘇えってきました。」と言う文が登場してくるのです。

 

私はドラマのOPやEDのテロップなど、あまり見ない人なのですが、ライター様は、参考文献としてお読みになったか、または現場でリサーチしたのでしょうね。

それを読んだ時、私は

「あっ、『モネ』じゃん。」と思いました。正確に言うと、「モネの世界観」という事でしょうか。

 

気象予報士などにならなくても、その登米でのモネの成長譚でも良かったのになと、極端な事を思っていたのですが、当たり前の事ですが、残念ながらモネは東京に。

だけど東京でのお話も面白かったです。

普通の暮らしの中で、草臥れて引き籠ってしまった人が、気配と音だけで登場してきました。最後まで姿を見せなかったのに、本当に存在を感じさせて見事でしたね。

東京のキャストさんたちも皆良かったです。だからエピソードも面白かったですね。

時々、とんでもないシーンを混ぜ込んできますよね。

浅岡さんとお父さんのシーン・・・・・^^

西島さんと内野さんと言ったら、ねぇ💛

(『昨日何食べた?』、今度映画でやるから見に行こうかなぁ♪)

 

物語的には、気仙沼に帰って来ないほうが面白かったのになどと思ってしまったりもするのですが、帰らないと「おかえりモネ」にはならないものねと思っていました。

だけど本当の「おかえり」は、最終回で語られたのですよね。

やっと、モネがあの3.11の時、そこに居なかった後ろめたさを乗り越えて、みんなの元に本当の意味で帰ってきたことを指して、幼馴染の子供たちに「おかえりモネ」と言われたことが、本当の「おかえりモネ」の意味だったのかもしれません。

でも帰る所があるから、「おかえり」になるのですよね。

お父さんと、おじいちゃんが牡蠣棚に出掛けていく。みぃちゃんが東京に出掛けていく。皆「行ってらっしゃい。」と言う。

だけど、それはまた「おかえり」と言ってもらえる場所があると言う安心感があるからだと思います。

 

自立しようとする子供を、寂しくてついつい引き留めてしまう事もあるかもしれませんが、この「おかえり」を言ってあげられる、そんな場所の人になりたいなと思いました。

 

みいちゃんもやっと自分の心のうちを話せて、大学に行ける事になりました。

最終回近くにぶち込んできた、みぃちゃんの秘密。

あの時、全く動こうとしてくれなかったおばあちゃんを置いて、自分だけ逃げたー。

それをずっと苦しんで、ここから離れてはいけない。この場所で人の役に立つことをしていたら、きっとその罪も許されるかもしれないと、みぃちゃんは悩み続けていました。

あの震災の時、隣の家のおばあちゃんの様子を見に行って、動こうとしないその老人を説得している間に、一緒に津波に巻き込まれてしまった少女の話はがありませんでしたか ?

あの少女も「じゃ、仕方がないな。」と逃げて行ったら、みぃちゃんのように10年も苦しんでしまったのかもしれません。場合によっては、もっとずっと。

みぃちゃんの告白を聞いて、私はあの津波の時に知った「津波てんでんこ」と言う言葉を思い出しました。

それは「地震があったら家族のことさえ気にせず、自分の命を守るために、てんでんばらばらに直ぐに避難せよ

と意味。

だけどそれは一緒にいた人をと言うわけではないのですよね。厳しい話だと思いました。

だからモネの諸々の提案の中にも、それに対しての事もあったような気がします。

うちの地域は、山なし川なし海なしで、災害のリスクは少ない方だと思うのですが、それでも一応日頃から自治会は独居老人の把握などをしているわけでが、あまり親身ではなく、役員が終わったら忘れてしまい、いざという時にどれだけの役に立つことか分からない事です。

いろいろと考えなくちゃいけない事って、ありますよね。

 

人は簡単には復活できないー。

時には10年だってかかる。それ以上の人だっていると思うー。

お父さんにも想いがあり、お母さんにも打ち明けられない教師を辞めた秘密がありました。もちろんみぃちゃんにも。そしてモネの周りでは震災に関係がなくても、菅波先生にも生きてきた道には、悔いる出来事がありました。

それでもゆっくり時を進めて、みんなを未来に運んだ素敵な物語だったと思います。

 

最終回、りょうちんの船が出航します。

感動的なシーンでした。

涙が出そうになりました。

その及川亮を、今ノッテいる永瀬廉が演じ、なんたってそのお父さんが浅野忠信なもんだから、思わずこっちの家庭の物語だったような錯覚に陥ってしまいました。

浅野さん演じる新次が素晴らしくて、何度も泣かされましたから。

 

そして最終回のラストシーン。

菅波先生が、ヨロヨロになって登場です。

 

お話が2020年の春からいきなり「数年後」などと飛ぶので、コロナを飛ばすんだなと思いました。

だけど「2年半ぶり」と菅波先生は言いました。

モネは動じず

「私たち、距離も時間も関係ないですから。」と言います。

多くを語ってないだけで、コロナは飛ばされていませんでした。

あのモネの家に挨拶に来た時に、感染症患者の事で、東京に呼び戻されて、もしかしたら菅波先生はあれっきり会えてなかったのかもしれません。たぶんそうでしょう。

ずっと長い間、東京の人は福島には入れませんでしたし、医療現場の大変さを思ったら、会えるわけもない事でしたね。

菅波先生も、ずっと陽の光を浴びてなかったと言っていたので、本当に現場で大変な想いをし続けてきたのだと分かりました。

 

思わず抱き合おうとした時、モネが「あっ」と言って躊躇しました。

私は最初、意味が分からなかったです。

それがコロナでだったのかと分かったら、あとからじわじわと来ました。

 

コロナも乗り越えての2年半。二人は抱き合い、そして手を繋ぎながら、雨が降るからと家に帰るために砂浜を歩いていく所で終わりです。

そしてツイッターはやはりお勉強になります。


最後の最後まで、意味があったところも素敵でしたね。

 

 

 

 

 

 

 

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薔薇と秋の日

2021-10-28 17:12:49 | 思いつくまま

薔薇と雑文と日記。

「相棒」の感想が先かなと思っていましたが、最初の15分で寝落ち。見直してから感想を書くので遅れます。

花と花の間に、いつものように文を差し込もうと思いましたが、すでに多くを語る花たちに負けて、一番下から書き始める事にしました。

「文、要らないじゃん。」とも思いましたが、ひとつ前の『「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇たちと。』の中に

『薔薇の花を背景に、また最近のつれづれを好きに語らせていただきたい』と書いたので、またも自分の言葉に縛られて、やっぱり書いていく事にします。

ただ、一言入れさせていただくと、すぐ下の写真は私自身の自撮り。もちろん顔の部分は編集で切ったわけですが、自撮り棒などは使わない自撮りだと、私は目があらぬ方向を見ていていつも微妙な顔をしています。めったに撮らないのですが、そういうのも上手になりたいものです。

だけど薔薇の花の方は、なにげに綺麗に撮れていました(これも、自画自賛かしら^^)

 

 

 

ちょっと前の話ですが、先月の月一の吉田拓郎「オールナイトニッポンGOLD」は神回と言われただけあって、本当に素晴らしかったのですよ。

もう一回聴きなおして、ブログにも保存しようと思ったのですが、うっかり二回目を聞き逃して、ブログアップも諦めたのでした。だからこの記事は、そのラジオの記事ではないです。検索で引っかかった人が居たら申し訳ないので、一番下にウキィ様を貼っておきますね。

 

主につま恋コンサートの話だったわけですが、1975年の様子が拓郎さんの口から細かく語られて、大変興味深かったです。

私のツイッターのタイムラインでも「懐かしい。」と言う言葉が並びました。

斯くいう私も・・・・・・って、本音を言えば、全く懐かしくなんかなかったのです。

行ってないですから。

新しい事実を知っていろいろと面白く感じたのですね。

 

ずっと後になって、姉が言いました。

「何で私たちはあの時、行かなかったのだろうか。」と。

私は即答です。

「だって、私、未成年だし。行かないし、行けないよ。」

またしばらくして、姉は言いました。

「あの時、中学生だった人も家を抜け出して行ったとか、他にも花ちゃんぐらいの人はたくさんいたらしいよ。」

うーむ・・・・

そこで少し過去の自分を思い出す・・・・・

「家を抜け出して行くなんて論外だけど、そうでなくても、やっぱり私たちの家では、そのコンサートに参加する事は、あの時代ではありえない事だったよ。」と、私は姉に言いました。

 

人はその成長や環境によって、行動範囲が決まってくると思います。

意外と好き勝手な事をやっていたような気がするのですが、それも時代と共にゆっくりだったと思います。

あの時の私は、深夜に大勢の人に紛れて、野外に立ってテンション高く盛り上がる自分を想像もできない事だったし、そこに出掛けていくエネルギーさえなかったのでした。(40日間、休み一日でバイトし続けるエネルギーは有ったけれど)

だけど、その時に行けなかったそれを、心の中ではずっと意識していたのかもしれません。本当は行きたかったのだと思います。だから2006年、また「つま恋コンサート」が決定し、姉が「行く?」と聞いて来た時、「行くとも !!」と気合を込めてお返事しました。

2006年の会場でも、いっそ朝までやってくれないかなぐらいの事を思っていました。

 

もちろんそれは夢の夢。

だけれど、そんな朝までやらないコンサートでしたが、感激で胸がいっぱいになり、その頃始めたばかりの拙いブログでしたが、記事を四つ書きました。

「聖なる場所に祝福を―つま恋」

「朱夏の群れ、晩夏をいく  〈つま恋〉」

「朱夏の群れ、晩夏をいく  〈つま恋〉後編」

「ありがとう」

私はこの記事の中に、

人は若さを何かの特権のように誇る時があるけれど、〈かって私もそうだったかも〉生き続けていくことが出来るならば、「人生の時」は残酷なほど平等だ。

「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」・・・・

なかには遅い青春の終わりにしがみついている方もいるかもしれないが、私たちは「朱夏」の時代を生きている。大きな荷物を背中に背負って、大汗かいて、だけど生き生きと。

一寸先の未来さえ見ることも出来なくて、いつも何かが不安だった、いつも何かにイラついていた。そんな青の時代に、懐かしさはあったとしても、何の未練があるのだろう。

 

15年前の私は、間違いなく「朱夏」の人。

でも今は、違うと思います。確かに仕事もしています。だけど働き盛りではないのです。昔と違って、ある意味恐ろしい時代です。反面違う視点で見たら素晴らしい時代です。

昔はご隠居さんにしかなれなかった年齢に、まだお仕事があるのです。まだ働かなければならない事情もあるのです。光と影とがそこにも存在しているのです。

働きつつも、この白い秋を迎えると言うのは、私にとっては大事な考えるべき視点だと思います。「朱夏」の時代とは、気持ちは変わらなくても肉体が違うからです。

また、年齢問わずに次の冬を、時にはじっと見て考えなくてはいけない時代でもあるかなと思うのですね。

人はみな、訪れる季節によって、自分の環境や生活スタイルを考えていくことは、本当に大切な事だと思います。

そして今、私は、自分の人生の秋に戸惑いながら、毎日の時間を時には無駄に過ごしているような気がするのですが、無駄になんか過ごす時間など、人生の砂時計には残ってないかもですね。

 

→「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」

→「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」

 

 

 

 

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「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇たちと。

2021-10-26 02:01:19 | お出掛け日記

10月24日の日曜日は、私にとっては大きな大事な一日になりました。

きっとずっと忘れない時間を持てた一日だったと思います。

それは1年と2か月ぶりに、妹のスノウさんに会う事が出来たからです。

スノウさんは病気です。

何度も手術をして、それでもいつも強気で明るかったのに、今は強気でいる事にも疲れ果ててしまっているようで、泣いてばかりいます。

会えば、私も一緒におーいおーいと泣きそうになると思いました。

でも、その時は泣かずにはすんだのです。

 

姉にタフだねと言われながらも、妹のいる自由が丘に行く前に、実家からこの「横浜イングリッシュガーデン」にひとりで出掛けていきました。

そしてたくさんの薔薇たちを見て、心を半分埋めていったのが良かったのだと思いました。

 

しかし私はどうも時間配分が甘い人で、かなり端折って見る事になってしまいました。それでも100枚の写真を撮ってきました。

薔薇の花を背景に、また最近のつれづれを好きに語らせていただきたいかなと思います。

 

でももちろん、お花見レポも含めながらにです。

 

 

「イングリッシュガーデン」は春薔薇、紫陽花の季節に来て、今回で三回目です。

秋薔薇とハロウィンバージョンの飾りのガーデンです。

若いパパさんとママさんが、子供に仮装をさせて、けっこう来ていました。

 

撮影ポイントが用意されているので、可愛らしい写真を撮りに来ていたのですね。

私もひとりで無かったら、撮ったかもです。

その他の飾り。

薔薇の花たちがちっとも出てこないけれどどうしたのと、言われそうですね^^

 

イングリッシュガーデンは、カラーでコーナーが分けられているので、コスモスなども混在していて、可愛らしいです。

まだ赤のコーナーが続きますが、記事はつづきます。

上の写真、なにげに好きです。

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「人間臨終図巻 上巻」

2021-10-24 23:57:28 | ユーモレスクを聴きながら(book)

(トップ画像は、記事には関係のない事ですが、最近記事に絵がないと寂しく感じるようになりました。

「横浜イングリッシュガーデン」の薔薇です。(^_^;))

☆       ☆

最初に本の内容の感想ではないのですが、私が読んだのは、1986年9月出版のもので、425ページあったんです。しかも上段と下段に書かれていたもので、言うなれば役850ページ分あったわけですよね。

久しぶりに、「読んでも読んでも終わらない」と言う感じがして、フゥフゥと言ってしまいました。

これは図巻でもあるわけだから、全部読まなくてもいいのではと、途中思ったものの、実は面白くて弾みがついたら止められなくなりました。

と言っても、なかなか読み終わらなかったのでしたが(^_^;)

 

上下巻合わせて、923名分の臨終の様子が書かれているらしいです。

上巻は10代、20代の44人の人の死にざま、そして30から1歳刻みで載っています。

やはり若くして亡くなっていると、その死を悼みたくなります。

例えば八百屋お七とか大石力。

何となく、物語の中の人たちのような気がして「ああ、そうか。」と、その死も、普通に受け止めていたのですが、これを読むと、やっぱりその若すぎる死が哀れに感じたのでした。

好きな小説家や、ロマンチックな大好きな詩を書く詩人、心に染み入る音楽を作り上げた作曲家、その人たちにけっしてロマンチックな死が訪れてはいない事を知り、少し衝撃を受けたりもしました。

 

死の原因はそれぞれと多様で、やはり癌や脳卒中などで亡くなる方も多かったのですが、ちょっと胸が痛かったのは梅毒が原因での死亡が多かったことです。

この恐ろしい病気は、才ある人たちを狂人にして、そして命を奪っていきました。

今の世の中は、恐ろしい他の病気に心を痛めなくてはならない事も多く、陰をひそめているように見えますが、けっして根絶している病気ではない事を留意しておかなければならないと思います。

 

人々が如何に臨終を迎えたかをずっと読んでいても、徐々に面白く感じて来たかと言えば、それは別の見方からしたら、まさにそれは人々の生きた記録に他ならないからだと思いました。

死は、生まれて来た時からの逃れられない約束です。

生まれて生きて、そして死ぬ。人々のそんな記録が、寧ろ私を勇気づけたのでした。

また知らなかった人たちをかなり知る事が出来ました。

 

たくさんの知識を、この本から得る事が出来たように思いましたが、さりげない一文が心に残りました。

ただ、今その本が手元にないので正確な言葉ではありませんが、与謝野晶子の所で、

ー貧しくとも優雅に生きる事が出来た見本のようなもの。

と言うような内容だったと思います。

 

素晴らしい人は、やはり素晴らしいなと思いました。

上巻は64歳まで。

時代によっては、それ相当な平均寿命と言えるかもしれませんが、今の感覚では、みな若すぎる死だったと思います。

こちらにて、どのような人が乗っているのか確認できます。→「人間臨終図巻」

 

今は、読みやすくなって再出版されています。↓

 

 

 

・・・・


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花ファンタジアのコスモス

2021-10-23 01:34:57 | お出掛け日記

やはり秋の日には、コスモスが似合いますね。

うちの方では、コスモスと言ったら「あけぼの山」なのですが、「花ファンタジア」のコスモスも、凄く良かったです。こちらではコスモスは初めてだったと思います。

確かに種類からしたら、普通のコスモスだと思うんです。

普通のコスモスって何かと言ったら、『あけぼの山』のコスモスは、いろいろなコスモスが植えられているから、比べる必要もない事ですが、こちらの花が「普通」と言うものに感じたのですね。

だけど「普通」には「普通」の良さもあり、やはりコスモスの花の可憐さには、心が洗われるような気持ちになれたのでした。

やっぱり、コスモス、大好き !!

以下は、下まで、ずっとずっと画像が続きます。

 

 

 

 

 

 

お日様の当たり具合で色が変わります。

 

いきなり冬がやって来てしまいました。

寒暖差があり過ぎて、調子の悪くなる方も多いかと思います。

お気をつけて、楽しい週末をお過ごしください。

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花ファンタジアのコキア☆2021

2021-10-22 14:34:48 | お出掛け日記

10月20日の日に、今年のコキアを見に行ってきました。

 

毎年、この「花ファンタジア」にコキアを見に来ているわけではありませんが、なんとなく久しぶりに見たいなと思っていました。

水曜日の日の朝に、頭の中でなんとなくの一日の計画を立てている所に友人からお電話が入りました。

コキアを見に行くけれど、一緒に行くかと尋ねたら二つ返事でした。

ただ、私はその前に図書館に行って、遅延している本を返さなければならないのだと言うと、そこにも付き合ってくれると言いました。

悪いな~と思ったのですが、彼女曰く。

「この駅で降りた事がないから、新鮮 !

どこかに来た気分よ。」

その気持ち、よく分かります。

 

どこか遠くに行けない時も、ほんのちょっと数駅先の降りた事のない駅に降り立っただけで、それは小さな冒険の始まりなのかも知れないのですよね。

図書館経由の「花ファンタジア」。歩く歩数を稼ぐにはちょうど良かったかもしれません。

今年のコキアは、ちょっと小ぶりでした。

そしてとってもお行儀よく並んでいました。

 

 

 

色も可愛らしかったです♪

動物も植物も、皆同じものってなくて、同じ「赤」でもサルビアの赤とは、また違う。

違うという事が不思議です。

 

ちょっと違う花も。

ここの薔薇園の薔薇はもうちょっと寂し気でした。

そして、ツバキ。私はこの花を見ると、「椿姫」と言う小説が生まれてきたのも無理はないと思えてしまうのです。けっして薔薇に引けを取らない美しさですよね。

「花ファンタジア」の記事は、もう一回続きます。

やはり、秋って言ったら、あの花ですよね。

 

花ファンタジアのコキアの過去の記事は

2016年11月2日に行った時の記事は

・「セピア色の、コ。」

この時は、本当にショックでした。だけど今思うと、この風景を知っているから、この赤いコキアたちの良さが分かるのかも。

2017年10月11日に行った時の記事は

・「真っ赤なコキア♪」

言うなれば2016年のリベンジです。

 

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相棒20 第2話「復活~死者の反撃」

2021-10-21 00:32:13 | ドラマ(相棒)

(画像は記事には関係ないものですが、何もないと最近寂しく感じて載せています。)

 

まさかの3話連続でした !!

ずっと昔にも、そういうのがありましたよね。ええと、確か「双頭の悪魔」で。

今回、前回の本多博太郎さんの朱雀がゲストで出たりで、なんか輿水さんはその「双頭の悪魔」に拘っているのかしら。

 

中郷都々子の死は、自殺に見せかけたいのか、自殺に見せかけたようにわざと分からせようとしているのかと言うような、不自然さがありました。

合鍵を作って中に入り、ためらい傷まで作ってらしく見せているのに、鍵を掛けずにそのアサシンが去るわけがありません。しかも如何にも死亡時間をごまかしたいが為のような冷房。

でも死亡時間ごまかしと言うのは、殺人犯が自分のアリバイを作るためにやる事であって、あれはいかにも不自然ですよっていうアピールですよね。

この気持ちの悪い殺人のその意味は、何か !?

 

あのベンチで死んでいた女性は、笑い方が気持ち悪い殺し屋だったのですね。

顔の角度でちょっと分かり辛く、誰かしらと思ってしまいました。

そしてその女性が、都々子の部屋の合鍵を持っていたから彼女が犯人って、右京さん、それマジですか?

普通、すぐに捨てるでしょう、そんなものは。

それを持っていた不自然さを感じました。

しかも驚くことに彼女は、河西を殺した殺し屋だという事も判明したのです。

整形に肉体改造。殺し屋も大変な職業ですね !!

 

「殺し屋」と言う、あまり現実には思えない世界ではあるんだけれど、ここに殺人教唆という現実的な罪名が絡んできて・・・・

 

しかしなにげにいっぱい働いていたのは、青木君じゃないですかね。

彼がいなかったら、何も話は進まなかったと思います。

偉そうな口ぶりだから、なにげにスルーしちゃうけれど「偉い偉い」と褒めてあげたいですね。

 

だけど河西ワールドに入り込んだ三人組の格好が忍者。

夫殿が、「大変ね、あんな格好させられちゃって。」と言ったので、私も「本当にね。」って、ニヤニヤしちゃいました。

 

崖っぷちの甲斐さんの怒りとか、キャラ変してしまった刑事部長の判断と命令とか、意外とどのシーンも面白かったです。

それに元刑事の怪しいイケメン、所々で佐野と名乗る男も出て来て、次回はどう決着をついて行くのか楽しみですね。

一番気になるのは、やはり河西の残した切り札、つまり鶴田の弱点。

そしてまたあの人の真実ですね。

 


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「孤道完結編 金色の眠り」

2021-10-20 01:24:31 | ユーモレスクを聴きながら(book)

(画像は15日に薔薇園で撮ったものです。花が音符みたいでしょう。)

 

2017年3月の「浅見光彦、未完小説「孤道」の刊行は!」から

>『2014年の12月から2015年8月まで毎日新聞に連載され、内田康夫氏が病気の為に中断されていたものが未完のまま刊行されることになったのです。

そしてそれを完結させる続きが公募されることになったんですよ。』

 

そしてその感想は→「孤道」

また、公募で決まった完結編の記事は→「孤道」の完結編は !!

 

すぐに読みたいものだと思っていたのに、ようやく読みました。

この作品、内田康夫氏が完成していたら、氏の代表作になるのではないかと思われるほど、前半の導入から広げ方から素晴らしかったのです。

これを引き継いで、どうやって落とすのかと興味を持って読みました。

なるほどこうやってなのかと、上手くまとめたなと感心しました。

さらに感心したのは、和久井氏の知識量の多さです。

文末の主要参考文献は28はありました。主要なので、細かいリサーチは本当にもっとたくさんしたと思いますが、きっと氏は、この研究畑の人なのかなとも思えました。

アマゾンサイトの評価の星の数も多かったです。

このプロジェクトが良い結果に終わって良かったなと言うお気持ちから、☆を多めに付けた人もいたかもしれませんね。

ただ私・・・・・・・

いろいろモヤモヤしました。

思わず、そのサイトのレビューを読んでしまいました。同じ感想の方は居ないかと思いまして。

まったく同じ事を思われている方が二人はいらっしゃいました。ひとりの方は☆ひとつでしたが、もうひとりの方は、それでも星は四つ。これは、上にも書いたように「頑張ったね。」と言うお気持ちからではないかと思いました。私もそう思います。

だけど、このブログでは、凄く正直に自分の気持ちを書かせていただきたいなと思いました。

本の紹介の下に、思った事を正直に書きました。

でもこんな風に思われてしまうのは、引き継いだと言うプロジェクトだからですよね。やっぱり和久井氏は頑張ったのです !

 

 

以下の文はあらすじを書いていないので、読まれていない方には、何を言っているのか分からないと思います。しかも珍しく、あまり良い事ばかりを言っていないので、これから読む参考にはならないかも知れません。

ただむしろ逆に興味を持たれて、「ああ、言ってたのはこの事か。」などと思っていただけたら幸いです。

☆     ☆

和久氏の豊富な知識が、小説の中であまり消化されて書かれていないと感じてしまいました。ゆえにその詰め込まれた知識が多かった前半には、

「私は何を読まされているんだろうか。」と思いました。その知識から来るお話は、それなりに興味ある話だったし物語の深みを感じさせる内容だったかもしれません。ただジャンル的に推理小説なので、やり過ぎのように感じました。

それが浅見があちらこちらに行って、収集した知識なら良かったのです。

善麿の日記からと言うのが、ちょっと苦痛に感じました。

それは日記を読んでいる浅見が多過ぎて、この人(浅見)何をしているのだろうかと思ってしまったのも辛かったです。

いや、そういう手法の小説もあります。でもこれは、だから前編ありきの小説なので、やはりこれはないような気がしてしまったのです。

また文庫で読んだのがいけないのかもしれませんが、そのレイアウトが、日記の部分が太字で普通のリアル部分とに堺がないのです。これは本の作り方の問題ではあるのですが、1行空けて欲しかったとも思うし、読者にこの日記を読ませるならば、古語文体とか、昔の文字には、注釈付けて読みやすくする工夫が欲しかったと思います。

そしてこれだけその日記を読ませるならば、その日記の中に事件が含まれてなければいけないと思うのですよ。

確かにありましたよね。村長さんの死。

ウーム・・・・・。

私、この辺り、ちょっとワクワクしたのです。何をかって言うと、この日記は、実は殺人の告白に変わっていくんじゃないのかと。

だったらちょっと面白いじゃん。「思わず立ち上がる浅見。」と言うシーンを期待してました。

「そんな~」「ばかな~」って、ネバーエンディングストーリーみたいにね。(笑)

違いましたが・・・・残念(^_^;)

 

それと違和感を感じたのは、日記の中の会話形式。

会話を日記に書くことはある事ですが、それでも若干書き方が違うような気がしました。

これは小説の中の小説。そんな感じ。なんたって神童と言われた善麿が書いているわけですから、そんな小説風の日記だからこそ、殺人の告白なんてものを期待したのかもしれませんね。

 

違和感と言うより驚いたのは、この話の落とし方です。

新しい登場人物多数。

なるほど、こんな風にやれば良かったのか。思いもよらなかったな。と思いました。

だけど、その物語は2時間サスペンスに相応しい内容になってしまったような気がします。

 

それはそれでいいと思います。

 

だけど私はやっぱり、その最後になんだかスッキリしないものを感じたのです。

綺麗に叙情的な美しさと余韻が残るラストでした。

でもオリエント急行の乗客の犯罪は赦せても、名探偵の最後の殺人も赦せても、この個人的な感情で歴史的な発見の封印は、何か私の中の道徳心が否定するものがあったのでした。

 

落しておいて持ち上げるわけではありませんが、この前半からの引継ぎは、本当に難しいと思っていました。やはりそれを思わぬ手法を持ってきて、完結させたのは凄いなと思いました。

だから敢えて思ってしまいました。これもアマゾンのレビューに同じ事を言っていた方がいらして、みな思う事って大差ないんだなと思ったのですが、次点の方の作品を読んでみたいという事なんです。

その方はどんなふうに物語を紡いだのでしょう。

ちょっと気になる所ですが、叶わない夢ですね。

 


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オチオチ熱も出せない その3

2021-10-18 15:53:25 | 梢は歌う(日記)

・「オチオチ熱も出せない その2」の続きです。

その記事の中で

>『夫のコロナ騒動も、最初に結論から書いてますが、「陰性」で「疑惑」で終わったわけですが、決して「良かった、良かった。」には思えないお話です。

しかし最初に結論から書いてしまうと、ハラハラドキドキ感も薄まって、ドラマチックとは言えませんね。(笑)』と書きましたが、そこに行きつくまでは、ドラマチックではなくてもけっこう大変だったのですよ~。

 

熱が続く夫が発熱外来で検査したものの、抗原検査でちょっと反応が出たような感じ(かなりあいまい)だったので、医師に「たぶん、そう。」と言われて帰ってきた夫。

翌日のPCR検査の結果待ちになったものの、「そう」と言われたら、いつまでもクヨクヨしていても仕方がありません。

 

実は夫が帰ってくるまで、気持ちが落ち込んでボーっとしていました。

でも私はいきなり覚醒し、出来る限りの事をしようと思いせっせと働きだしました。

 

ワクチンを打っていてもかかるなら、やはり私にもうつるかもしれません。

でも、うつらないかも知れません。

 

「備えと言うのは備蓄ばかりではなく、ライフスタイルも含めて言うのかもしれない。」と、地震の時に思ったけれど、それは地震の時ばかりではない事だと、しみじみと思ったのはこの時でした。

確かに玄関には手の消毒薬が置いてあり、帰宅したら、何を置いてもまず手洗いとうがいはしてきました。外出時はアルコール含むウェットティッシュと携帯用消毒薬、使ったそれらを入れるミニゴミ袋を持って歩いていました。(最近は、気が緩んでと言うのもあり、またどこにでも置いてあるという事もあって、あまり持ち歩かなくなっていました。)

でも「こんな時代」なんて言葉を使う割には、それ以外に何をやって来たかしら。

 

 

それでまずは丁寧に掃除機を掛けて、ファブリーズしまくりました。(却って咳が出てしまいそう・・・)

洗面所のコップも紙コップにしました。この紙コップは、一昨年の台風の時に、停電からの断水に備えて買っておいたものでした。あの時、あれだけ経験のない大きさのなどと言われては、やはり準備はしますよね。それは幸いな事に必要がなく使わずに済んだのでしたが、あの時、同じ千葉の八街の友達は停電が何日も続き、しかも井戸を使っていたので、水もなくて困ったのでした。

そしてその紙コップの横にはイソジンを置きました。

このイソジンも、何処かの市長が何か言ったから、買い求めたわけではなくて、ずっと以前からの期間限定に私のお守りでストックしてあるのです。

なんたって、冬場は時には鼻水ズルズル咳コホコホの人を、(以前は)ノーマスクで相手をしなければならない事もあるお仕事です。

何か余計な事を、いろいろ語っていますが、今はそんな気分なのでお許しアレ。

で、とにかく紙コップにイソジンです。

そして洗面所のタオルは止めて、ペーパータオルにしました。

これは昨年の8月の終わりに、横浜の実家に姉妹で集まった時に、こんな風にしてとお願いしたやり方だったのです。姉の家は、そのままそれが定着したみたいなのですが、私の家では、やらなかったのです。やっぱり自宅と言うのは、自分にとっては「安全地帯」のようなものに感じていたからなんですね。

それから・・・・・

実は「葛根湯」を飲みました。

以前友人が、コロナ初期には「葛根湯」が有効なのだと言ったのです。

その時私はにこやかに、「まあ、そうなの。じゃあ、その時は試すね。」なんて調子の良い事を言っていたのでしたが、ふと思い出し、今更ながら検索してみると、漢方医の人の説明などがネットに載っていました。人に強くお勧めできるほど、その方の説が頭に入ったわけではないので、お勧めは出来ませんが、今の病気は対処療法なので、風邪の初期症状によく効く薬ならば、それなりの効果があるような気がしました。それに葛根湯って、効能を読むと、肩こりにも良いのだそうですね。

 

もちろん寝室は分けました。リビングの方もよほどでない限り、私の方が行かないようにしました。私は別にテレビがなくても一向にかまわない人なので。

夫には、真夜中でも何かあったら電話してとお互いにスマホは枕元に置きました。

その他にやっておくことは、近隣のビジネスホテルの場所とお値段と空き状況をチェックしておきました。もし翌日の連絡で、夫の黒が決まったら(とうとう黒と言う名に)、私たちも検査しなければならないでしょう。そして私とルート君が白だったら、なんとしても彼だけはワクチン接種前なのですから、守らなくてはならないと思ったのです。

もちろん今は、感染者数も激減し、夫の方が入院出来るのかもしれません。

でも今みたいな解熱剤を飲めば熱が下がる状態では、あの数字も悪いとは思えなくて(あの数字と言うのが、今度忘れ中)、入院が出来るのか否か。

前もってのリサーチって大事でしょ。で、検索していると、かなりの数の人が見ていて、予約もかなり入っている。しかも連泊で。みんなが出張とか旅行とかには思えません。

中には同じ事を考えて、リサーチしている人もいたかもですね。

 

更に私は考えました。

夫が黒で、ルート君が白。そして夫が入院で、私も黒だったら、私は家に残るなと。

だって猫がいるから・・・・。

ああ、猫が家にいるから入院を拒否して亡くなってしまった人の気持ちが、よく分かるなとしみじみとしました。

いや、ほんと、ここ、難しい問題ですよね。

だから動物を飼っているうちの人は、病気になんかなっちゃいかんのです←さっき見てた映画に影響されてる(^_^;)

 

検査した翌日の日曜日、なかなか病院から電話がかかって来なくて、夫はヤキモキしてましたが、私はもうケセラセラで、呑気に隔離された部屋で(そう、私の方が隔離状態)本を読んでいました。

すると午後3時くらいに、夫殿がノックして

「もうこのドアは開けっぱなしにしておいても、何も問題がない事が分かりました。」と言いに来ました。

「わー、良かった~ !!」と一度は言いましたが

「じゃあ、あなた !!

本来のするべき心配をしましょう !」と、私は言いました。

ああ、やっとです。

 

なぜなら夫の熱は金曜日から解熱剤で下げているだけで、ずっと下がっていないからです。原因も本来の病院に行けてないので分からないのです。

 

長くなったので、続くと言いたい所ですが、これ以上引っ張ってもと思うので、少々長くなりますが、よろしかったらお読みください。

 

その翌日、かかりつけ医に電話しました。一応発熱中だったので。すると

「あとから出てくる場合もあるので、市の相談センターに電話して、もう一回検査してきてください。」と言われたのです。

頭のどこかがクラクラしていたので、ハイハイと言われたとおりに、また違う大きめな病院に行って検査を受けました。

でもこれは後からじわじわと、腹が立ってきました。夫には言わない事ですが。

発熱してから2日目の検査は信用できなくて、4日目の検査だから信用が出来るって事でしょうか。

 

その病院では、抗原検査が陰性だったら、もうPCR検査はしませんでした。

もちろん陰性です。その検査の結果で、かかりつけ医に電話すると、午後から整形の先生がインフルの検査をしてくれることになりました。

なんだか彼は病院ばっかし行って疲れてしまったと言いました。

当たり前だと思います。

この検査の分は、絶対に余分だったと思います。

そしてインフルエンザも陰性。

そして熱の原因はよく分からないので、翌日また内科の先生に見てもらう事になったのです。

朝、電話した時間にその病院に行けたら、翌日の診療なんかにならなかったのに !!

 

で、結局、翌日の朝(火曜日)、また内科に行って、レントゲンを撮り、そして紹介状を書いてもらって、午後に前に入院したことのある呼吸器内科の大きな病院に行きました。

そこで頂いたかなり強い薬が効いて、熱は下がりました。たぶん肺炎。でもまた次の検査までははっきりしません。とりあえず、何とか復活しました。

 

だけど月曜日の真夜中、彼は初めて「息が上がって来て、苦しい。」と言いました。

熱を出す原因の所が悪くなってきていたのです。

これが一日早かったらと、私がやっぱり思ってしまったのは、無理のない事だと思いませんか。

 

「こんな時代」で無かったら、たぶん土曜日には、本来の治療のための薬を飲み始めていたかも知れません。

熱が出ると、あの例の病気を考えるのは当たり前でしょう。

検査に行ったら「たぶん、そう」なんて言われて、またもバタバタ。

なんか私の家らしいエピソードだと思いませんか。「らしい」とは何かとは思いますが、なんとなく。

そう、やっぱりドラマチックよね。でも感染者が抑えられている今だから、いろいろと考えておくことは大事な事ですよね。

それで、そっちはセーフと言われても、本当の心配はそこから。

この5日間、本当にメチャクチャ疲れました。

 

・「オチオチ熱も出せない その1」の最後に書いた、

>『またある時、バスの中で知り合いに会いました。

「今、病院の帰りなの。メチャクチャ酷い風邪を引いちゃって・・・・。」

「あまりそういう風には見えないよ。」

「もう良くなりかけてるから。それでもやっと診察してもらって、ホッとしたわ。」』

その意味が、今回の事で身に染みて分かりました。

メチャクチャ酷かった風邪が、はた目からは普通に見えるほど良くなるまで、診察してもらえない今と言う時代。

本当に、オチオチ熱も出せませんね。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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