森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

寝ずの番

2013-06-22 08:54:38 | 父へ

《風のように人生を過ぎていく。番外編2》

番外編1〈通夜の夜〉》の続きです。

 

「こんなに早くなんか寝られないや。」と言っていた夫は9時半頃にはグーグー。
前日に、引越しをしていた超ハードスケジュールの妹たち夫婦はスヤスヤ。
いろいろ気疲れの姉夫婦もムニャムニャ。
いつもの睡眠時間の母はとっくに夢の中。

帰ってきたラッタくんさえ5分待たずにぐっすり。

とにかく時間外の人はみんなが寝てる・・・・・。

なんで私だけがお目目、バッチリなの。

体操したりトイレに行ったり・・・・。

トイレを出てきたら母の叔母が、つまり私の大叔母と遭遇しました。

「眠れないのか?緊張してるんだなあ。」と彼女が言いました。

緊張―そうかも。私はちっちゃい心の女なの。 いやいや、「狭い」と言っているのではなく「ちっちゃい」。そこの所大事です。

 

こんなに眠れないなら、時間外で行くかなと思ったけれど、あれはやっぱり時間を決めておいて良かったのだと変なところで気が付きました。だって通夜の場所に泊まりこみなら何の心配もないことだけれど、家から行くのでは鍵の数が足りないじゃない。

と言うことは好き勝手には行けないということでもあったのですよね。

とにかくお目目ランランのまま午前2時の丑三つ時がやって来ました。

私、嫌な予感がして来ました。

私の事だからきっとやっちまうなと・・・。

 

私と姉は2時から5時までの寝ずの番です。時間をずらして2時から3時までは姉妹4人の時間を持ちました。

この1時間で父の最期の時の様子をまたゆっくり話したり、私の携帯に残っている父の留守電を聞いたりして、皆でハラハラと泣きました。

父は本当は11月13日の自分の誕生日に死にたかったのです。4月の終わりには移動する時には苦しかったものの、後は普通に暮らしていた父。あっという間のまさかの1ヶ月だったかも知れません。ただ医師の話を聞いていた姉と私だけはそう思ってはいなかったのです。父の願いは知っていたので、その11月13日は何かをしようと思っていました。そのことを妹達に告げたり、来年のお正月は「お正月」という名前ではなくても、やっぱりみんなで同じ様に集まろうなどとお話したりしました。

そんなこんなで1時間の時間が過ぎ3時に妹達が帰って行くと、やっぱり思っていたことが起きたのです。

ネ・ム・イ

ネムネムネムイ・・・・。

待っていた眠さがやってきたのです。この眠さを逃したくない私は、姉に正直に言いました。

「寝ても良いかな~?」

―なんで今寝るのよ、ガミガミガミ

なんてことは絶対に姉からは言われないのです。

「いいよ、いいよ。じゃあ、私は下に行ってお線香をあげたりして祭壇の所に行ってるね。」

すでに半分寝ぼけちゃってる私は、それでもムニャムニャ言いました。
「もしかしたら、これって怖くない?」

「・・・・・」

もう私は夢の中。なんたってカウント5で寝られちゃう人なので。

 

バサッと倒れこむように寝てしばらく立つと、体がゆさゆさ揺れました。

―うわっ、地震なの。こんな日に。下では火も使ってるし。

と飛び起きて周りを見回すと電気のスイッチの紐も揺れてない・・・。

あれっ?

う~む!

私はちらりと二階にも飾ってある父の写真を見て
「もしかしたら、起こした?」と聞きました。

―そうだよ。みんなちゃんとそれなりにやってるのに、なんでお前だけがここに来て寝てるんだ。
と、心の中で声が聞こえましたが、それは自分の声であって父の声でなかったのは逆に残念でした。

階下に降りて行くと、姉が一人静かに手を合わせていました。

その後ろに座って同じように祈りはじめたのですが、なんたって眠くて体がモニャモニャ動きます。

すると姉がイキナリすごい笑顔で

「ああ、ありがとう。早めに来てくれたんだね。」と振り向いたのでビックリしました。

振り向いても、まだ誰も来ていません。

「何をおっしゃってるの。誰も居ませんよ。」

「えっ、だって、誰か人の気配がしたじゃん。」

「えーっ、やっだー。しないよ。そんなの。 あっ、これかな。」と体をモニャモニャ動かすと、椅子がキシキシ音を立て

「ああ、それだね。その音だね、きっと。」と姉は言いました。

なんでそのような怖い演出をするのだと思いながら、眠い目をこすりつつ、姉の後ろで手を合わせて祈っていました。

と、その直ぐ直後、突然ガタッと音がしたので、私はまたビックリして漫画のように
「うわっ!!」とピョンと飛び上がってしまいました。

だけどそこには私と妹の夫たちが立っていたのでした。

「ああ。本当に早く来てくれたんだ。」

驚いたので満面の笑顔ではない私がそう言っても、何が「本当に」なのかわからない彼らでしたが、 とにかく早く来てくれたので助かりました。

 しかも早く来たので、鍵を持っている義兄を置いてきてしまったとのことで、家は鍵が開いている状態。急いで帰る口実も出来、びゅううと帰った私は布団に倒れこみ、ぐっすり2時間ぐらい寝た頃、下の子供〈ルート君〉が起きました。

彼は前日までの仕事がハードすぎていとこ同盟から離脱していたのです。

「起きたけれど、どうしよう。」と言うので
「まだパパがいるから、今から行けばいいと思うよ。やっぱりチョットでも参加した方がいいよ。」 と言うと、出かけて行きました。

いつも夜の睡眠時間が短く朝も早いので、私ももう気分もスッキリで朝食の支度のお手伝いに起きました。

 

この寝ずの番は、朝7時までやったのですが、最後の夫たち+ルート君が帰って来ると、彼らは不思議なことを言いました。

「30分ぐらい前なんだけれどさあ、ルートが来て義兄さんが先に帰った頃、俺達二階で話していたんだよ。そしたら階下で『バッターン』っていう大きた音がして、『やばい、何かが倒れたんだ。』って三人で下に駆け下りたんだけれど、なんにも倒れてなんかいなかったんだよ。その音は三人とも聞いたんだよ。」

それを聞いて、私が
「実はお父さん、私達と一緒に側に居たね。それでふと気がついたらすっかり夜なんて明けちゃっていて『マズイ! すっかり朝じゃないか』って慌てて帰った音だと思うな。」と言うと、妙にみんな納得したのでした。

「そう言えば、私も真夜中に体がゆらゆら揺れて・・・」と言うと、
「それは、あなたが勝手に寝ぼけただけでしょ。」と誰も聞いてくれない・・・・

ショボーン・・・・・・。

 

※        ※         ※ 

「デル」という噂で怖いからと言って、そこには泊まらなかったのに、真夜中にひとりでその広い部屋に寝ちゃって、もう片方ははやっぱりひとりで祭壇前に座っていました。 

「いつもなら、昼間だってひとりでここに座っててって言われても、怖くて出来ないわ、私。」と姉は言いました。

そんなことが出来た通夜の夜。

あの時「もしかして、これって怖くない?」と私が寝ぼけながら言うと

「大丈夫。お父さんが一緒だもん。全然怖くないよ。」と姉は言ったのでした。

 

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通夜の夜

2013-06-17 23:33:06 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、番外編》

書き終わってもいないのに、早くも番外編・・・
まあ、いいか。

《その5「今日はいい日だね、その2」》の続きです。

※        ※        ※

ずっとずっと昔、まだ私に子供もいなかった頃、山梨の祖母が亡くなりました。その祖母とは子供の頃にも1年に一度会うか否かで大きくなってからは殆ど会わず、祖母も孫の名前をちゃんと覚えていないそんな関係でした。

だけどどうも私は血の繋がりを大事に思うタイプなので、「祖母」という名の人がそんな遠い関係の人であることを寂しく思っていたのです。それで結婚してから夫を連れて私の両親と一緒に祖母が住んでいる叔父の家を訪問したのです。その日は特別な思い出深い日になりました。その後祖母の口から私の名前が出るようになったと風の便りに聞いて嬉しく思い、せっせと密かに暖かい下着を集めていました。纏まったら贈ろうと思っていたのです。

だけどそれを送る日も待たずに祖母は逝ってしまいました。

その葬儀に参列して、初めて気がついたことですが、私は本当の通夜というものに経験がなかったのでした。通夜といっても、通夜の式に参列し精進落としの料理を食べて帰るという段階のことではなく、その後のことです。

父が亡くなってから通夜の日までは5日間の間が空いていたので、私は普通に仕事をしていたのですが、
「今週の土曜日にはお通夜に行かなくちゃ。」と言うと、そこに居た子供たちは
「良いな、ご馳走を食べるんだよね。」とみな言うのです。

実は私も昔はその程度の発想しかありませんでした。精進落としの客たちが帰っても、残った家族や親族は酒を飲み交わし賑やかに故人の思い出話に華を咲かせるのかと思っていたのです。

だけど家族と親族だけが残ると、
「シーン」という音が部屋中に満ち溢れました。何かを話したくても、歳の若い私が、しかも日頃からお付き合いのない親戚に対して話を振るなんてあり得ないことでした。

―静かだなあ・・・

と思ったその時、妹がツンツンと腕を突き小声でコソコソと以下のことを言ったのです。

「お姉ちゃん、あのさ。あまりに静かなんで、『凄いな、この静けさは。まるでお通夜みたい』って思っちゃった途端に」

オチを待たず、私の顔はニマァっとにやけてしまいました。

「『あっ、本当のお通夜だった。』って気がついたの。だから静かで良いのかって。」

箸が転がっても可笑しく感じた若き日、ちょっと笑いを堪えるのが大変でした。

しかし「お通夜のようだ。」という言葉があるくらいなのだから、通夜の夜にしんみり、またはシーンと静かなのは正しきあり方なのかもしれません。

 

でもそれって、我が家流お通夜の夜には当てはまらないような、そんな気がしてました。

あっ、今気がついたのですが、「お通夜の夜」っていうのは「頭痛が痛い」と同じ感じでしょうか。

って、それもまあ、いいや。

 

父は町会であれやこれやとやっていた人で、町内会館には思い入れのある人だったと思います。なので葬儀はそこでやることにずっと昔から決めていたようです。

今は葬儀場などを借りてやると、通夜の寝ずの番なども夜通しはやらないのだそうですね。

20年以上前に自宅で葬儀を行った義父の時も、夫たちは皆そこに泊まったというのに、明日のことを考えてある程度の時間が来たら皆寝たのだそうです。

町内会館の二階には、その寝ずの番の為に泊まれるようにもなっているのですが、なにせ葬儀にも頻繁に利用される会館ゆえに、なにやら「出る」という噂もあるのです。明かりを消して寝ていたらドア付近に知らない人が立っていた・・・なんて噂ではないのですが、もしもそんな人を目撃しちゃったら怖いので、そこに泊まるのはナシにしました。理由はそれだけではなく、家のほうがリラックスして寝られるからというのもそうだったのですが。家も近いし、家から順番を決めて通うことにしたのです。

この順番は予め姉と二人で決めておいたのですが、その時義兄に注意されました。こういうのは気持ちでやるもので、何の権限があってそれを決めるのだと。それはもちろん私が言われたことではありませんが、至極もっともなご意見だったので、引き下がりました。だけどその決めた一覧表のメモは破棄せずに、バッグの取り出しやすい所に入れて行きました。なぜなら予感があったのです。

もしも気持ちを優先して「寝ずの番」を行うと、誰かがめちゃくちゃ頑張るかまたは誰もがちゃんと寝ることが出来ないか、もしくは義父の時のように、「まあ、この辺で。」と言うことになると思うのです。儀式にどれだけ拘るかでやり方が変わってくるのだと思えたのです。

お葬式というものに「慣れる」ということはありません。おおまかな流れは葬儀屋さんが教えてくれるものかもしれませんが、その他の小さなことは、自分たちの考えが生きてくる儀式なのだと思いました。

 

実際にその日の夜が来ると、他の姉妹とその連れあいから担当の時間を決めてと言われました。

「みなさ~ん、聞いてください。担当する時間はおおまかに決めておきました。異議がなければこのようにお願いしま~す。」

 とバッグに入れておいたメモを取り出し言いました。なんたって4人姉妹にそれぞれの連れあいと子供たちなもので、決して「お通夜みたい」という夜にはならない我一族だったのです。

 しかも我が家流は、若き日に抱いたイメージの賑やかに思い出話を死者の傍らで語り合うという寝ずの番であって欲しかったのでした。

 

だから早い時間は孫達全員、つまりいとこ同盟が担当することになりました。いつから同盟などというものになったのかはわかりませんが、親たちは勝手に呼んでいました。

 

だから、 時間になって戻ってきたラッタくんに私は聞いたのです。

「お通夜なので「楽しい」と言う言葉はないけどね、それなりに良かったですか。」と。
「うん、それなりに意義のある時間ではあったよ。」と彼は言いました。

 

ところでこのお話が、なぜ《番外編》としたかなのですが、それはこれからのお話を読めばわかります。

みんながそれなりにちゃんと眠れるように予定を立てたのに、私、全く眠ることが出来なかったのです。目を瞑れば5分どころかカウント5で眠ることが出来る私。だけど、まーったくお目目冴え冴え・・・

 

だけど、長くなったのでまた明日。
 

 

 

 

 

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ナカヤスミ

2013-06-12 01:27:07 | お散歩&写真日記

皆様へ

「風のように人生を通り過ぎていく」をお読みくださってありがとうございます。

あれはもう少々続きます。

でも、日帰りですが実家の方に行ったりするのでちょっと中休みです。

 

ささやかな幸せを綴る別ブログ「果樹園のティータイム」も復活しましたので、良かったらお立ち寄りください。

唐突ですが
あつこ様、ありがとうございました。そちらのブログで記事にさせて頂きました。お手紙でもなくメールでもなくて申し訳ないのですが、なんとなく
「ほらっ、素敵でしょ。」 と言いたくて記事にしちゃった^^

 

ところで季節はいつの間にか紫陽花の季節。

いつもならお散歩コースのいつもの公園に行って写真を撮るところだけれど、やっぱりまだいろいろ余裕が無いのです。だけどあじさいって家の周りにも素敵な花がたくさん在るのですよね。

それでも素敵なものは所有したいと言う所有熱にかられて、鉢植えを買ってしまいました。

トップの画像がそれです。

以下は家の周りのアジサイたちです。

あじさいって好きだなぁ。

桜と薔薇とあじさいは毎年撮っていても全く飽きない花たちです。

 

 

 

 

 

 

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今日は良い日だね その2

2013-06-07 09:02:51 | 父へ

 

《風のように人生を通り過ぎていく、その5》

その4「今日は良い日だね、その1」》の続きです。

 

親の死に立ち会えるか否かは、言葉は適切ではありませんが単に運の善し悪しだと言えるのかも知れません。だけど時には何かに導かれたようにそこにたどり着いた私。導かれたのには意味があったのだと、その時を迎えた時私はそうはっきりと思いました。私には私のやるべき仕事があったからです。

だけど間に合わなくてそれを電話で知った妹達はどんな気持ちだったのでしょうか。

その日の夜はドライアイスの害に合わない距離に父と同じ部屋に布団を引いて姉妹で眠りました。その時に私は一番下の妹にその時のことを聞いたのです。

最初、姉から5時まで持たないかもしれないというメールが行きました。その後さほど時間も空かずにポケットの中にあったスマホが鳴った時、妹は「ああ、もしかしたら」と覚悟したのだそうです。姉からの電話でそのことが告げられると、我慢しきれず泣き崩れた妹。その様子に「どうしたの。」と一緒に仕事をしていた人が駆けつけて、理由を話すとすぐに帰って良いことになったのだと言いました。

寝る前に父に線香をあげ二人で祈り始めると、後ろから妹の嗚咽が聞こえて来ました。
ちらりと振り向くと 妹と目が合い、私はウンウンと頷いてまた前を向いて祈りました。

だけど思わず涙が溢れて来ました。それは父を想っての涙ではありませんでした。

目の前にまるで見たかのように妹の姿が浮かんできたのです。

姉からの電話
―今ね、おとうさんが亡くなったの。眠るようだったよ。

―分かった。分かったよ。

我慢したくても溢れだす涙。次の連絡のために一方的に切れる電話。妹はその電話も切ることが出来なくて、溢れる涙も止めることは出来なくて ・・・

ああ、どんなに切なかったことだろう。

 

※          ※         ※

 

本当は分かっていたのです。人前では泣くまいとする無用の努力が母の行動をとんちんかんなものにしていたのを。分かっていながら、何度も「!」と思った私。

今思うと、この日を映画っぽく演出したのは、この人だったのかも。

父の残された時間が殊の外短いのだと知らされた私たちは、父の傍らでジュースパーティをすることにしたのです。みんなで楽しかった父との想い出の話をすることにしました。と言っても話しているのはおしゃべりな私。

私は甥と姪は行かなかった奈良旅行の時の話をしていました。東大寺の帰り道、タクシーが捕まらなくてもうちょっと行けばもうちょっと行けばとあまり歩けない父をかなりの距離を歩かせてしまった話。

「結局さあ、バス停までたどり着いちゃったのよ。」
「酷いね~。」と、甥と姪は笑いながら言いました。
「もうあんなハードなのは、私達でも無理だわぁ。たった3年ぐらいまえのことなのに、こっちも歳を取っちゃって・・・。」って、あの時父と母を振り回したくせにぬけぬけ言う私。

「でもね、帰る時虹が出たのよ。まるで見送ってくれるように。」
「へえ・・・。」

とみんなが頭の中にそれぞれの虹を思い描いた時、父の息が止まったのです。

「あっ!」
「あれっ?」

これが聞いていた無呼吸なのか・・・。

「お姉ちゃん、時間測って・・」

少しの沈黙があってまた短く息をする父。

そしてまた止まる息。

私が看護師さんから無呼吸状態が来ると聞いた時、抱いたイメージは無呼吸の発作が起き、また通常の荒い息に戻り、またその状態が続き、そしてしばらくしてまたその無呼吸が起き、そしてそれを繰り返すと言うものだったのです。 

だけど父を見ていて、これは違うなと感じました。

私は父の胸をさすりながら

「みんなおとうさんに感謝してるよ。立派だなって誇りに思ってるよ。おとうさん、大丈夫だから安心してね。おとうさん、大丈夫だよ、怖くないよ。みんな逝く道だよ。怖くないよ。・・・・・・・」

この「・・・・」の部分は、父と私とそこに居た家族だけの秘密の言葉。いわゆる宗教的なものでした。後で思い返すと、「・・・」の部分をちゃんと書いても3行ぐらいの言葉を、その時に言う為に私はそこに居たのだと思わずにはいられないのです。

私は妙に冷静でした。

父の息は三回止まりました。父がそういう状態になって、それを目の当たりに見たら涙だってこみ上げてくるのも自然だと思います。だけど最初、上に書いたとおりまたこの発作は収まるかもしれないと思っていた私は、
「泣くのはまだ待て。まだ死んでいないから。」などとすっとぼけた事を言う・・・・・

でも3回目の無呼吸になった時、
―ああ、これは泣いたって良い『時』が来てしまったんだな。
と感じたのでした。

4回目に、父が明らかに違う息の仕方をしました。体の全組織を使って息を吸おうとするかのように顔が真っ赤になりました。

そして静かになったのです。

―ああ、父は死んだのだな。
と、私は思いました。それでも首すじを触り、手首を取りました。暖かい手首。その時、私は「おやっ?」と思いました。なぜなら凄く弱くても脈があったように感じたのです。驚いてもう一度その脈を探しましたがもう見つかりませんでした。それは単なる私の勘違いだったのかもしれません。でもその時私は、人は徐々に死んでいくのだと思ったのでした。もちろん死の侵食のスピードはゆっくりではありません。血の流れを止めそして温もりさえも奪っていくのでしょう。

私は妙に冷静―
そう、冷静だったがゆえに大きな間違いをしないですみました。この時動揺してしまったら、私は父の傍らを陣取りさめざめと泣いたかも知れません。この「徐々に死んでいく」という思いが、私に大切なことを思い出させたのでした。それは父の傍で最後に声をかけるのは私ではないということに。

「お姉ちゃん、前に来て。耳は一番最後まで働くって言うよ。きっと、声は聞こえるよ。」

この「一番最後」というのは何を持って言うのかは、この際どうでもいいことなのです。はっきり言って思い込みだろうが勘違いだろうが、どうでもいいことなのです。

姉は短く父に声をかけ、
「みんな、おじいちゃんにお別れを言おう。」と言いました。

甥が
「おじいさん、長い間本当にありがとうございました。」と涙にむせびながら言いました。

なんて丁寧な優しい言い方なんだろうと思うと、涙が溢れました。

姪が曾孫と一緒に
「おじいちゃん・・・」と声をかけた時、ようやく私はあることに気が付きました。

「おやっ!あれっ?」

なんと、母がいないじゃないの。この局面に・・・・!!!

私は家の中をダダダダダっと走り和室で
「お母さん!」と呼び、そこに居ないと分かると、また走り父の部屋で
「お母さん!」とまた叫びました。

と書くと、さながら豪邸のようですが、まあ走ったといっても十歩と三歩ぐらい・・・。

で、父の部屋にも居ないことが分かり、思わず仁王立ちのポーズで
「あのババア、どこに行った――ー!!」と叫びそうになった時、ジャーと水の音がしたのです。

「えっ、ジャーってジャーって、なんで今・・!?」

トイレから出てきた母は
「ダメなの、もうダメってことなの。」と言いました。

―何を今更。

私は驚きつつ、また「ダメ」という言葉っていついかなる時も好きじゃないなあと再確認しつつ
「うん。まあ、そうですよ・・・」とショボショボと答えると、言葉に拘ってる場合じゃないだろうとハッとし、「早く行って」と即しました。

「今までどうもありがとね。」と母は短く言いました。後ろで聞いていた私は、思わず

「みじか~!」と文句を言って、母の腕を掴んで引き止めそうになりました。母はその手を振りほどいても立ち去ろうとしました。

「いろいろあったけれど、私、幸せだったよ。 」って、仕方がないのでつい続きを私が代わりに呟いちゃったりして・・・。

母が引きとめようとした私の手を振りほどいても行きたかった場所は、和室。

母は和室のテーブルに伏せてワッと泣きました。

「うんうん。お母さんも頑張ったよね。・・・」とか何か声をかけたように思います。この時、私も母と抱き合って泣きたい衝動に駆られたのです。でも「お母さん」と声をかけようとしたら、母はばっと顔を上げ
「私、頑張ったよね。やることをやりきったよね。」と言いました。
「うん。やった。お母さんはやったよ。」と私。
「じゃ、いいね!」と母はキッパリ言いました。


―早っ~!!!

 なんという立ち直りの早さでしょうか。私は唖然としてポカーンとしてしまいました。

 

でもこの後の絶え間のない弔問客との接待のことを思うと、それはそれで正解だったのだと思ったのでした。

 

※        ※         ※

通夜の日の深夜、姉妹で寝ずの番をした時に、私は上に書いたその時の様子を妹達に話しました。甥の丁寧な言葉の所ではやはり涙ぐみ、そして母のくだりでは泣き笑いをしながら聞いていた妹達。

話し終わると不思議なことに、なんだか父との別れのその時、姉妹四人ともが揃ってそこに居たような気がしてきたのです。

その事を私が言うと。
「うん。私達ももうそこに居たような気がするよ。」と妹も言ってくれたのでした。

 

 

看護師さんと一緒に父の体を拭くときも連絡だとかに追われその場にいなかった母。
「ちょっと落ち着けよ。何事にも順番ってものがあるだろう。」などと微かには思ったものです。看護に務めた姉は死亡診断書などの説明などで、やはりその場にいなくて、たまにやって来ては父とお喋りをして帰っただけのような者の私が、体を拭いて着替えさせると言う大切な務めを一人でやって良いものかと申し訳ないような気持ちがしてしまったのでした。母にはそこにいて欲しかったです。

だけどこれを書きながら、なんだか彼女の気持ちと行動が少し分かるような気がしたのです。

1年未満の日々でしたが、母は父の前で泣くまい涙を見せまいとした毎日だったと思います。
泣きそうになったら席を立つ。きっとそれを頻繁に繰り返し習慣化したのだと私は思いました。

私は泣き虫。それは父は泣き虫、母も泣き虫。そんな二人の娘だから・・・

だけどそんな母が涙を見せまいとする毎日は、それはそれで彼女の闘いの日々だったように思ったのでした。

 

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今日は良い日だね その1

2013-06-03 22:40:31 | 父へ

《風のように人生を通り過ぎていく、その4》

その3「傍らの人」》の続きです。

 

母が何度も雨戸を開けようかと言ったのに、陽の光が寝ている父の顔に当たって眩しかったらイヤダなと思って、「イイよ、このままで。」と言っていた私。だけど父の死の連絡を受けて訪問看護の看護師さんがいち早く駆けつけると、父に向かってこう呼びかけました。

「今日は本当にいい天気だよ。良い日だねえ、☓☓さん!」

その言葉を聞いて、以前藤原紀香が主演した何かのドラマの中に出てくるインディアンの詩の言葉を、私は思い出しました。

―今日は死ぬのにとっても良い日だ。

そして、それだったら雨戸を開け窓も開けて風をサッと通したら良かったのだろうかと、ちょっと悔やんでもみたのです。

だけど
「さあ、起きて!」と 言う必要もなかったわけで、それはそれでもう良い事にしようと自分に言い聞かせたのでした。

どんなに心を砕いて気遣っても、見送る者がパーフェクトでというわけにはいかないのがお見送りだと思います。

川を渡っていく人が今生に未練を残さないで貰いたいのはもちろんですが、見送る人が悔いて逝く人の心を引き止めてはいけないのだと思ったのでした。

父との別れは悲しみではありますが、でも悲しみイコール悲劇ではありません。

以前、井上ひさし氏の特集の番組「ラストメッセージ」の感想「悲劇/喜劇は表裏一体なのか」の中にも書かせて頂きましたが、その文の一部をセルフ引用させて頂きます。

「だけどカメラをぐっと後ろにひいて撮影するように、引きの視点で父の人生を見るならば、それは悲劇なんかじゃちっともないのでした。悲劇じゃない物語の最後が死であるならば、その死は物語の結びであって悲劇ではないはずです。」

 前回の朝ドラ「純と愛」の中のドラマ好きの登場人物が「ドラマちっくだねえ。」と言うシーンが多数ありましたが、映画好きの私にはこの死ぬには良かった日には「映画っぽいなあ。」と思わず呟きたくなる場面が多数ありました。そしてそれは井上氏が悲劇を描きながら笑いで舞台を引っ張っていくそれに近いものがあったようにも思えたのでした。

いっぱい笑っていっぱい泣いて人生は過ぎていく。そして一日はそれを凝縮したようなもの。
それが顕著だった「その日」であったと思います。

 

 とは言っても、父の日から数日経ってしまったわけで、最初は事細かく全部書きそうな勢いでしたが、それは流石になくなり私も少々冷静になりました。

悲しみの中でクスリと笑えた出来事は、一年後二年後みんなで「そうそうあの時ね、こんなこともあったじゃない。」とニコニコと語り合いたいと思います。でも一番、「あの時さあ・・・」と語り合いたい人は、実は父だったりして・・・・

 

 

26日の朝、私が起きて行くと姉と母が父の座薬と格闘し終わった後でした。この二人の献身ぶりには本当に頭が下がります。いる時ぐらい役に立ちたいので、その後の父のそばにいる役は私が引き受けました。その間に姉は家族の朝食を作ったり洗濯したり、母もいつもやっている町内会館の仕事をしに行ったりしました。

23日には会話が出来た父。24日に私が一度帰る時には
「どうもわざわざ来て頂いて・・・」のような丁寧な言葉を言うので、私だって分かっているのだろうかと心がざわついたりもしたのですが、それでも言葉は聞き取れました。だけど26日の朝は、何かを言っていてもまるっきり聞き取れません。それはまるでうわ言のようでもありました。だけど耳を澄まし父の様子を観察していると、たしかに薬のせいで意識は朦朧とし言葉ははっきりとは喋れないにしても 、時にその朦朧とした意識から目覚め最後まで意識を失っていなかったように思えたのでした。

 

時には耳を澄まし、時には語り話しかけそして涙ぐみ、私はほんの数時間でクタクタの疲れてしまいました。それでもまだ私は「その時」がそんなに差し迫っているのだと自覚がなかったのでした。
そして交代で変わってもらったその時間に、書き始めるなら今だなと感じて姉のパソコンを借りてこのテーマの最初の記事「四季の家で」をアップさせたのでした。

要するに自分に出来る何かをせずにはいられなかったのかもしれません。

 

その日の朝に父をじっと観察していた私が気になってしまったことは、喉に痰が絡んでいるのではないかということでした。

数日前の父は自分で血痰を吐き出していました。このような状況になったら自力でというわけにはいかないのです。
私は妄想過多の人。

喉にそれが溜まっていきまた溜まっていき、そしてそれで「あああああ」と窒息してしまったら一体どうしたら良いのだろうか・・・。

家で最後を迎えさせようというのは、実はそういうことなのだと思います。

呼べば直ぐに対応はしてくれる医師と看護師との連携は成り立っているものの、時間で頻繁に状況把握をするプロの人はいないのです。自分たちで看護することに加えて、見守り判断し対応することが必至。

姉が対応の相談に訪問看護の事務所に連絡して、たんの除去の仕方を聞きました。だけど上手くいくものではありません。しっかり除去しようと思ったら、唇を濡らすための綿の付いた棒をかなり喉の奥に入れなくてはならず、それは苦痛に思われたからです。

口の中が少しでもさっぱりしたから良かったかもしれない、という僅かな自己満足でいいことにしました。

昼食の時間になり、甥がみんなの分のお弁当を買ってきてくれました。

みんな、なんとなく疲れていたのです。そんな時に油断というものが生まれるのだと思います。なぜなら、私たちは全員で父とは別室で揃って食事を取りました。それというのも、前日の医師によるアドバイスもその行動の底辺にはあったかもしれません。医師は
「家で看取るということは、何かを見逃すかもしれないし何かをしていてその最後を看取れない場合もある。だけどそれもありなんです。」という言葉。直接は聞いていないので、ニュアンスは違うかもしれませんがいろいろなことがあっても、自分を責めることはナシだと言ってくださったのかもしれません。自分のすべてを犠牲にすることはないということなのだと思います。

だけど食事を撮り終わると、なんとなく疲れも取れて冷静になりました。

「ねえ、なんかみんなここにいるねえ。」と私は言いました。
「ちょっとどうする。この時間に何か変化が起きていたら・・・。お姉ちゃん、ちょっと覗いて来てくれない?」って、私は小心者の卑怯者。

父の様子を見てきた姉は
「大丈夫だったよ~。だけど、相変わらず喉が辛そうなの。どうしようかな、どうしようかな、どうしようかな。」と姉は悩んだ末、もう一度電話をかけて看護師さんに来てもらうことにしました。

今こうやって書いてみると、なんでそんなに迷ったのかも不思議です。分からないのだから電話をかけて相談するのは当然だし、いかに日曜日で担当の人と違うといっても、出来ないのだから来てやってもらうのも普通の事だと思います。でも「やたら」というのは悪いような気がして遠慮してしまうと言うのは、日本人だからでしょうか。いや、思い出しました。私は何かのドラマを見て、その痰吸引が非常に辛そうに感じていたのでした。そんな事を今の父にヤッてもらうことに躊躇いがあったのも事実です。でもそれはあくまでもドラマで仕入れた感覚、実際には違うかもしれないので看護師さんに診てもらうことにしたのです。

 

でもこのタイミングが結果的には物凄く良かったのです。

日曜日は訪問看護の人たちは、時間で担当者が変わる交代制なのです。

姉が電話した時、いつも父の面倒を見てくれているよく分かっている看護師さんに交代になったばかりの時間だったのです。

直ぐ来てくれた看護師さんが、別室に姉と私を呼びました。

この別室で話すのは、話の内容を父に聞かれないためです。

亡くなった後も普通に話しかけ、意識の無いように見える父の前でも気を配るこの人達のプロぶりが私は大好きです。

看護師さんは言いました。

―痰除去をすればショックで、今息が止まるかもしれません。大丈夫かもしれないし、だけどその可能性があります。でもご家族が苦しそうだからヤッてという意向であるならばやります。

その機械を使ったら苦しいとか辛いと言う段階ではなかったのでした。良かれと思っても何かをヤッて命を縮めるわけには行きません。なので私は、自分の妄想イメージのことを聞いてみました。痰で喉が詰まる可能性についてです。

―その可能性もあります。

「そうなってしまったらどうするのですか。」

―何も。

そんなことはないですよとか言って欲しかったけれど、その可能性もあると言われて、私は少々のショックを受けました。もうやることは見守ることだけなのです。看護師さんの「何も」には強い意思のようなものを感じ、私も思わずうなずきました。なにか心の中でぎゅっと結ばれたような気がしたのです。

―とにかくみんなで傍に居てあげてください。もう傍で静かにしていなくて良いですよ。皆さんの声できっとホッとしますよ。次のクスリは何時ですか?

「次は、5時です。」と姉が答えると、看護師さんは言いました。

―そのクスリは、もう要らないかもしれません。

私と姉はびっくりして顔を見合わせました。続けて彼女は

―この後、無呼吸状態が何度か起きるかもしれませんから、それが起きたら時間を測っておいてね。

そのようなことも初めて聞きました。まるでそれは最後の打ち合わせのようでした。彼女が帰ると、もう私達の最後の戦いだと、そんな感じがしました。

姉は仕事が終わり次第駆けつけることになっていた二人の妹にメールを送り、私は近くの自販機にジュースを買いに行きました。

そしてその時家に居た者、つまり姉と私、甥と姪、そして母とで父の部屋でジュースパーティを開くことにしたのです。

自販機にチャリンチャリンとお金が落ちていく音を聞きながら、「見てろ―」とか「いざ」みたいな感覚が湧き上がって来ました。

今思うと、私は何と戦おうとしていたのだろうか―

 

長くなったので次に続きます。

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6月1日ですね

2013-06-01 01:54:11 | 梢は歌う(日記)

こんばんは、皆様。

タイトルが取ってつけたようですが、まさしくとりあえず付けただけのタイトルなんです。

コメントやメッセージ、ありがとうございます。「風のように人生を通り過ぎていく」を全部書き終えたらお返事書くと書かせて頂きましたが、それはいつ書き終わるのかというと、実はまだ少々続きます。少々続くというのはどの位なのかというと、それは書き終えるまでです。じゃあいつ書き終えるのかというとそれは・・・ってヤメレ、私。

まあ、いつもの私です。

でも時々泣いてます。2秒とか3秒とか。よせばいいのに留守電のメッセージなんか聞いちゃったりして・・・・。

だから皆様の励ましやお悔やみの言葉にすごく励まされています。本当に有難うございます。

書き終えたらなどと言っていましたが、今日明日で徐々に落ち着いて来ますので、ゆっくりお返事を書かせていただきたいと思います。

 

とは言っても数日また更新ができないと思います。

復活してもまたこのテーマです。

 

 

ええと・・・

藤原竜也さんを同じくご贔屓にしている皆様へ

このようなお知らせの下に書きたくはないのですがお許し下さい。

本来なら彼の結婚記者会見のお祝い記事で華やかな雰囲気にしたかったところですが、私的にはなにぶんタイミングがヨロシクなかったわけなのです。

でも嬉しかったですね。やっぱり彼のお仕事を充実させているのは陰の力があってこそだったのかもしれませんね。

 

あっ、そうそう。今日は6月1日。今年の前半の締めくくりの月の最初の日。頑張っていきましょう。

・・・・、と、取ってつけたように言う・・・・。

いやいや、本当に素敵な一日になりますように♪

コメント (2)
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