渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

風邪引きヒーフー

2012年01月31日 | 内的独白

先々週、都内に出た時から具合が悪かった。
こちとらすっかり田舎もんになっちまったから、都会に出て人の波の中を
歩いただけで感冒に罹患したらしい。
先週の火曜に数年ぶりに高熱を発し、水曜から金曜まで
仕事にならなかった。
日記は書き貯めネタを校正してアップしていた。

ただ、検査によると、幸いにインフルエンザではなかったようだ。
昨日、数日ぶりに病院に行って次なる処方をしてもらったら・・・


何種類の薬飲ませるつもりなんだよぉ、先生よぉ!
「片桐、柴田!お前たちの気持ちはよくわかる」


だいぶ回復してはきたが、まだ本調子ではない。
居合の稽古は先生に連絡して、2週続けて休んでいる。
扁桃腺がすげ~ぜ。
声が殆ど出ない(笑)

皆さんも風邪には気をつけて~。



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東京時代

2012年01月30日 | 文学・歴史・文化

日本刀の歴史区分は一般的な日本史の歴史区分とは
微妙にずれている。例えば、刀装具などは、江戸幕府が開かれて
しばらくは「桃山時代」としての範疇に加える。刀剣の場合は
慶長以降を「新刀期」とし、それまでの刀剣を「古刀」と呼んで
区別する。やはり区分けは一般的な日本史と微妙にずれる。
刀工銘鑑に記載の時代ごとの年限を書き写ししていて、
あることに気づいた。



一般的な日本史の区分けもおかしいぜ!
なぜ明治維新以降は時代呼称が元号だけなんだ?
例えば「建武時代」なんて区分はないのに、維新後に限って「明治時代」
とかいうのは、なんだかおかしくはないだろうか。

飛鳥以降奈良時代から江戸時代までを主に政庁が存在した場所に
ちなんで「~時代」というならば、明治以降の現代は「東京時代」と
しなければ整合性がないように感じる

でも、難波にも都があって教科書にも載っている日本史上重要な
大変革がそこで行われたのに、「
難波時代」というのもないしなあ。
なんだか、日本史の時代区分って、テケト~(笑)。


※難波宮(大阪市中央区)
645年、孝徳天皇が遷都。「大化の改新」はこの宮で行われた。
戦後の1950年代に遺跡発掘により存在が初めて確認された。


 


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古代製鉄

2012年01月29日 | フライフィッシング



外部サイト「たたら製鉄に挑戦しよう」

え~っ?
鉄ってこんな簡単にできるの?
製鉄にはケラで鋼を取り出す直接法と高炭素の銑鉄を脱炭させて
鋼を作り出す間接法があるけれど(古代はほとんど間接法)、こんなに
簡単に鋼ができるのか?
砂鉄を溶かして底に溜まったのが鋼というわけではないだよ・・・な。


でも、刀工の久保善博さんとかがやっている自家製鉄だから、いい加減な
ことではないと思うけど・・・。
なんだか拍子抜け(笑)

これが採れた鉄=ケラ。
この中に鋼があるのですねい。

9キログラムのケラから何キロの鋼が採れるのでしょうか。
この外部サイトは面白い。

このサイトで紹介されている「エビスさん」て、広島のナイフメーカーで刀工で
フライフィッシャーのエビスさんではなかろうか・・・。

それにしても、昔は磁石で選鉱したのでなく鉄穴流しという砂と鉄鉱石(砂鉄)の
比重差で選鉱した。
このサイトでは
「重力選鉱ではチタン成分が残るので後の製鉄作業も難しい
とのことであった」とある。
いくら自家製鉄で古代製鉄を目指しても、磁石使っての選鉱自体に疑問を
向けなければ古刀の本質的再現は不可能に私は思える。
古刀再現の壁は、ただただ材料問題に尽きると思う。材料が違うから工法も
異なる。材料さえ平安~南北朝と同質の物が作り得れば、当然作り方も
古代と同じく(推定だが)、折り返し回数も少なく無垢でまとめられる筈だ。
そして頑丈な筈である。ビニールテープのラッピングの枚数重ねではなく、
糸を機織(はたおり)機で織り込んで紡いだような全鋼の状態となるのだから。
そこに映りなど出せたらなおさら頑強な構造となる。頑強で美しい刀となる。
                                         ・・・・はず。
それから、フイゴで目一杯送風しているけど・・・そうなのかなぁ、古代は。
そんな強力な送風装置なんてなかったのではないかなぁ。
送風量が多いと、天秤フイゴ使った幕末の永代タタラと変わらないような気がする。
還元には酸素をひっぺがさなければならないのに、なんだか・・・。
まあ、古代製鉄というより、「幕末様式」の「小たたら製鉄」というならわかるが。
やってることは、日刀保の復活タタラ玉鋼製鉄と何ら変わらないような気がする。
本気で、比重選鉱からやらないと駄目なのではないだろうか。いくら幕末=現代の
たたら製鉄を小規模に自前でやっても・・・何か意味があるのだろうか?
あるのだろう。ただし、「古代」ではないよね。ほんの100数十年前の方法だよね。
近世の製鉄と古代の製鉄(未解明)の重なる部分とそうでない部分をもっと
焦点化する必要があるのではないだろうか。そうでないと、いつまで経っても、
永代タタラ製鉄による頃鋼こそが日本刀の材料で、折り返し鍛錬と心金鍛接工法
が日本刀の「伝統工法」であるなどという固定概念から脱することができないままの
ように思える。


うげげ!

よく渓流釣りで訪れた広島県の芸北も鉄穴流しの遺跡跡が多かった。
フライフィッシングで訪れるたびに砂鉄が採れる川、そして鉄穴流しの
遺跡に出くわしたけど、この古代製鉄実験はこの標識のそばでやったのか!
こちらは県東部で、実はヤマメちゃんがウハウハの秘密の川があるのですよ。
禁猟区間と禁猟支流を設定しているのだけど、その間際までの解禁区域では
入れ食いのウハウハ状態なのよ、実は。
でもとっておきだから、年券でなく当日券で釣ってたなぁ~。年券で釣りまくりは
やっぱり芸北の島根県境か吉和の県西部だった。
(禁猟区で釣ってはだめですよ~。遊漁券なしもだめですよ~)

ここがその支流。

こんな渓相。

夏なんか甲虫を模したテレストリアルというフライを叩くように投げると
コニャニャチワッ!と飛び出す。


かわいいね~。

どうして釣られたんだろう・・・てな顔してる。

でもね・・・。
日本海水系だから本当はヤマメが釣れなければならないのに、漁協の人が
間違えて瀬戸内水系のアマゴの種卵を入れちゃったから、ごっちゃになって
ヤマメとアマゴの両方釣れる状態で生態系が崩れてしまっているのよ。。。トホホ。

本当はこんなヤマメが釣れないとならないのよね、このウハウハ支流は。

コバルトブルーの銀鱗。なんて美しい魚なんだ、ヤマメという山の女は。
これたぶんオスだろうけど。「こんにゃろ」なんて表情してるね。
マス類はクロダイのように性別が移動するトランスジェンダーじゃない
から、だんだんオスはいかつい顔になってくる。マスはサケ科だからね。
海に下る個体などはもう口がとんがってサケーッて顔になる。この子は
小判型のパーマーク(幼魚斑紋)がまだ綺麗に残っている。海に下る
グループはこれがなくなって銀色一色になるのよ。

高知から訪ねてきたフライマンをこの広島県東部の川にガイドした
時も、岡山のビリヤード仲間を案内した時も、結構喜ばれた。
特にビリ玉仲間の時は釣り過ぎたよ。もうお腹一杯、てな感じで。
一匹も殺さなかったけど(笑)
釣れ過ぎちゃってさ。全部食えないもの。全部食えないなら、いっそ
全部リリースだよ。フッキングはすべて上顎で毛鉤は飲ませないし。
毛鉤はすべてカエシなしのバーブレスだし。エラへのヒッカケ(まず
ないけど)以外はすべて放す。

そもそも釣りなんていうのは人間の勝手な都合でやっているので、
リリースしようが全滅させようが人間が勝手にやることだ。
ただし物理的なこととして、100匹しか成魚がいない川に釣り人50人
が入って2匹ずつ殺したらその川は死滅することだけは確かだ。
キャッチ&リリース(C&R
)を批判する人間は、「釣ったら食え」という
非現実的なことをさも理想理念のように語る。大抵は釣りをやらない
人間がそういうことを言う。魚影の薄さの現実、河川状況の現実を知ら
ないから言う。さらに、釣った魚を自分でナイフ突き立ててしめ殺すことを
しない立場から綺麗ごとを言う。
C&Rは、魚が可哀想ならだからやるのではない。可哀想なら竿など
出さないほうがよい。
あくまで、「釣り」という人間の勝手な行為の継続を保全するために
環境資源の確保の一環として
やるのである。
結論として、C&Rをやる人間が「魚に優しくしたいため」とか「無益な
殺生を避けるため」とかいうのは欺瞞的で嘘まみれだし、逆にC&R
否定派が言う「釣るならすべて食え」は、現実環境をまったく見ていない
寝言、戯言の類だ。すべて食うなら金魚すくいの金魚までおまえは
食ってから物を言え、と言いたい。そして、現実的に15cm以内の魚体は
生態の継続性の立場からリリースするのが川に入る釣り人の常識だし、
内水面漁業規則でも明記されている。否定派は、単に物を知らずに
情念だけで人を非難しているだけだ。まず金魚食ってから物を言ってほしい。
自分で魚をしめ殺してさばいてから発言してほしい。〆のために脳天に
刃物を突き立てる時、最期の断末魔でビクンビクンと体をゆすって
イヤイヤするのを押さえて更に刃物を押し立てて息の根を止めることを
自分でやってから釣りについて語ってほしい。海釣りでも、ゴカイやイソメや
うじ虫などを自分で握って鉤につけてから物を言ってほしい。
ようは、自分だけは別な安寧の地帯にいて、河川環境の実態を実見したことも
ないくせに「釣ったら食え」なんてのは、百害あって一理なしの夢想情念だ。
釣りをしたことがない人間だからそんな非現実的なこと言えるのだろう。
お魚さんは無尽蔵にわいて出てくると思ってる。そして、魚体数に比して
釣り人はあふれかえっていて、釣り産業だけは不況知らずということさえも
知らないのだろう。


砂鉄が採れる川にはヤマメ(アマゴ)が棲むという中国山地の不思議。
昔の山深い土地の産鉄事業者にとっては貴重なタンパク源だったんだ
ろうなぁ、鱒類は。
砂鉄が採れる川だからか、最上流のイワナ(ゴギ)なんて、肌が黄金色だ
もんなぁ、広島・島根のイワナは。ゴールデン・トラウトだな。あ、チャーか。


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備後国(びんごのくに) ~三原鍛冶~

2012年01月29日 | 日本刀

刀屋のサイトをネットサーフィンしていて、ある刀屋の説明に
「三原-備後国(岡山県西部)」と明記してあり、かなりガックリきた。
不勉強というか社会常識を知らな過ぎるというか・・・。
川崎市が武蔵国でなく相模国と間違うのならありがちで頷けるが、
「相模国=静岡県の東部」と言っているようであまりにもいただけない。
しかも、刀剣商で旧国名の所在を間違えるのはかなり不明瞭なことだと
思う。
三原鍛冶が岡山県西部まで及んだと言うのならまだわかるが、備後国が
岡山県西部とするのは明らかな誤りだ。

三原鍛冶は鎌倉末期に備後国(びんごのくに)を中心に興った。
高野山領の荘園に大和鍛冶が移住したとされるためか刀剣の作柄は
大和伝の気質が強い。しかし、来(らい)物にも紛れるので、一概に
大和伝とはいえない。
(日本刀を山城、大和、備前、相州、美濃の五つに分けて学術的に
体系化したのは明治時代の本阿弥家)
三原の刀は御物に三原の太刀があり、重要文化財にも数口指定されている。
対明貿易には16万口に及ぶ三原の刀が輸出され、秀吉も賞玩し、
多くの三原刀を名だたる大名に下賜している。
戦国末期に至っては、純戦時刀となり、九州肥後同太貫のような実用
一点張りの刀となったが、室町初期の応永年間の三原正家は山田浅右衛門が
定めた業物位列で最上大業物に位置した。戦国末期の武用量産刀も多かった
が、初期中期には美術的にも優れた刀を産したのが三原鍛冶だった。
初期と末期で作風は大きく異なるが、共通することとして、三原物は最上
大業物をはじめ、良業物(よきわざもの)、大業物、業物がひしめき合い、
切れ味で全国に名をはせる利刀を鎌倉末期から江戸初期まで生産した。

あまりに、その刀剣商の説明書きに落胆したので、地図に三原鍛冶の
鍛錬跡地を書き込んでみた。


(←クリックで拡大)

古代行政管区では、備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)の三国
を総称して「吉備国(きびのくに)」という。東端は現在の岡山県東端、西端は
広島県三原市の市中が吉備国の境界だ。
三原市は街中で備後国と安芸国に分かれる。
「三原鍛冶」は戦国末期に築城された現三原市内の三原城周辺よりもそれ以前は
現在の尾道地区に鍛冶が集中している。
これは出雲街道が現尾道市内を貫通していることとも深く関わりがあると思われる。
三原・尾道(尾三地区)を古代には御調郡(みつぎごおり)という。
ミツギとは古代税制夫役の租庸調の調のことだ。
「まがねふくきびのくに」である吉備国は古代から中国地区有数の産鉄
地域だった。現在のところ日本国内最古の製鉄(精鉄?)遺跡は三原市内で
1995年に発見された製鉄遺跡が最古とされている(発見時は縄文遺跡と
されたが、その後3世紀と比定されている)。
古代の三原地区では中央政権への朝貢に特産品の鉄を以って免税免役をなした。

「三原鍛冶」といっても、旧三原城下で作刀されたのはごく末期に限られる。
当たり前だ。鎌倉・南北朝・室町時代には現三原城界隈は海の中だ。海上に浮かぶ
小島を繋いで三原城は天正年間に造られ、城下町も整備された。それまでは
一面海である。つまり、鎌倉・南北朝の頃には現三原城は存在せず、城下町も
存在しない。地理的には大きな入り江が現広島空港ふもとのあたりまで入り込み、
海岸線は江戸期よりもずっと奥まで延びていた。小早川氏の新高山城をはじめ、
山名氏の城など、現在の三原から尾道にかけては夥しい数の中世の山城が群居
していた。
「三原」とは備後国御調郡(みつぎごおり)三原村のことで、狭義には湧原、駒ヶ原、
西原の狭い扇状地を合わせて「みはら(みわら)」と称してた。三原地区は木梨、
杉原氏の木梨荘の西端であり、沼田(ぬた)川流域の沼田荘を治める小早川氏の
沼田荘がぶつかる入り江の土地であった。鎌倉時代には平氏ながら源氏について
活躍した土肥実平が備前備中備後の吉備三国の守護として三原も治めている。
三原鍛冶という場合、戦国末期以降に築かれた三原城と現三原市を想定
するのは厳密には当てはまらない。鍛冶集団は御調郡の広範に及ぶ。
現在の日本史において日本国内で初めての製鉄は古代の三原(現三原市の山間部)
で行われたとされているが、それが中世の三原鍛冶と直接結びつく学術的検証は
未だなされていない。
しかし古書には三原鍛冶のことを「尾道」ではなく「三原」としてあるので、刀剣史上
では御調郡三原村を中心として吉備国西端地域全域を三原と便宜上呼びならわした
通例があったことがうかがえる。
実際に三原鍛冶は現岡山県井原市までに及び、井原の水田国重派は三原辰房派と
備中青江派が合流したものとの研究もある。
いずれにせよ、三原鍛冶とは現在の三原市限定ではなく、「吉備西端」と
認識した方が不合理は生じないだろう。

尾道地区に鍛冶が集中した現象はあるが、三原鍛冶とは三原の鍛冶のことである。
尾道鍛冶とは歴史上呼ばれていない。広義には現三原市から岡山県西部地域まで
に派生した刀工集団の一派を「三原」というのであり、尾道はたまたま複数の刀工が
いたに過ぎない。正しい認識としては、三原鍛冶とは「御調郡(みつぎごおり)」に
興った刀工集団とみるべきだろう。
そして、尾道在住の三原正家子孫と自称する傍系は三原鍛冶の始祖を天平年間
の人で尾道住としており、「日本刀」そのものが存在しない時代まで繰り上げていて、
いささか尾道を文化の中心に据えたい自己願望の小中華思想が過ぎるようだ。
三原鍛冶の始祖は鎌倉時代、徳治年間(1306~)の正家とするのが刀剣界の
定義であり、かつ初代正家は本国が備前で御津郡唐河(辛川)住の左兵衛尉菅原
為遠の門人とされている。為遠は福岡一文字の末裔で永仁(1293~)から文保
(1317~)にかけて作刀した刀工で、岐阜県の重文に文保元年三月日の年紀が
ある太刀が存在する。作風は太刀も短刀も一文字の末裔ながら後の三原風の
直刃を基調としており、その後の三原鍛冶が単に大和風であるのが大和僧兵の
移住によるとする定説に一考を要する根拠となるといえる。
いずれにせよ、湾刀である日本刀が成立したのは平安後期であり、それより400年
も前の西暦730年あたりの天平の甍(いらか)の時代はようやく刀剣が国産され
始めた時代で、すべて直刀、すべて官製鍛冶部の製品となる。そこまで己の祖先を
遡らせて日本刀三原正家の始祖鍛冶とするならば、確かな歴史史料を含めて示さ
ないと、科学的な根拠もないのに自家血脈を捏造しても美化するという半島にみられる
小中華思想的な恣意性が過ぎるとのそしりを免れない。
系図というのは科学的な根拠が提示確認されない限り、まったく信用できない。
ウェブサイト上でも閲覧できる
「三原(尾道?)正家宗家」とする系図を見ると、
後世部分でも道統や血脈的な連綿性がみられず、付会によるカルタ合わせで列挙
して線で繋いでいることが判明する。系図を示すならば、出典根拠たる史書を示さな
ければ信ぴょう性は全くない。
そして、始祖の鍛冶を天平時代とするのは、その時代に尾道正家が日本刀剣界の
歴史に登場するというのであれば、これまでの学術的な日本史そのものをひっくり
返さなければならなくなる。
刀剣史においては、三原鍛冶の始祖は南北朝間際の鎌倉末期徳治(1306~1307)
年間の正家を初代とするのが現在のところの定説である。
しかし、尾道市在住の自称三原正家「宗家」では刀剣史で初代とされる正家を「5代」
としている。
自称宗家の初代=天平頃はその4代前だが、その系図に従うと、たった4代で600年
近く経つことになる。非科学的で不合理な創作であるということは疑う余地がない。
三原正家(まさいえ)に始まる三原鍛冶の一派は、その後、南北朝期に数派が派生
していく。
備後水呑(現在の福山市の芦田川河口付近西岸)に移住した正利は出家して
法華一乗派の祖となり、尾道の辰房(たつぼう/たつふさ)派は後年備中後月(しつき)
郡に移住して新刀国重派の祖となる。
また南北朝期の正信の子の貞次が御調郡木梨から鞆(とも)に移住して鞆三原派の
祖となった。
正和年間(1312~)に其阿弥の法名を得た一派は尾道に住し、五阿弥派を弟子派とした。
さらに三原鍛冶は貝三原という呼称で室町末期から新刀初期に栄えている。
近隣各地に散開して割拠した刀工集団を三原鍛冶というのであり、正当宗家などという
家元制度のような現代的商業利益主義的概念で三原刀工集団を括ることはできない。
従って、三原鍛冶の正当宗家などというものは本質的に存在しないし、現代においても
存在しない。三原鍛冶は刀工集団であるので、その工法を現代に伝える血脈と人脈
なくして「宗家」などはあり得ない。
広島には広島藩家老だった上田宗箇(知行1万7000石)が残した日本で有数の
武家茶道である上田宗箇流が現存するが、これは血脈とともにその伝統作法を現代に
伝える活動をしており、このような流れはまさしく「宗家」そのものであるし、自称他称を
問わず名実共に宗家以外のなにものでもないだろう。また、歴史を捏造僭称して自家に
権威を持たせようとしたものでもない。


なお、余談だが、岡山県井原市は廃藩置県以前には一時福山藩領だったことは
意外と知られていない。井原までが福山藩だった。(その後紆余曲折あり
東部が天領となる)
だから、江戸期の一時期の行政管区としては、備中の一部までが福山藩領
だったのである。
古代から現代に至るまでの行政管区というのは、あくまで為政者の都合により
勝手に区割りされるので、地域性、特産性を見ていく場合は、行政管区に
とらわれずにグルリとした地域で俯瞰しないとならないだろう。
しかし、方言と同じで、地域的な人間性(これは厳然と存在する)という
ものは何によって醸造されたのかは現在の学問では解明されていない。
行政区割りとしては、現岡山県井原は維新後の一時期は福山県となり、
その後改称され深津県になる。さらに倉敷県とともに小田県に統合され、
最終的に福山を含む旧備後の5郡は広島県に編入、それ以外の旧備中国
の地域は岡山県に編入された。三原鍛冶の東端であり青江鍛冶の西端で
ある井原地区は岡山県となり現在に至っている。
そういや、東京でも品川県てのがあったな(苦笑)
維新直後は東京という地名はなくて、江戸から変わった新首府名は東亰だったし、
読み方は「トウケイ」だった。


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隠れた歴史の真実 ~世界グランプリを走った男=居合剣士~

2012年01月28日 | バイク・車

不思議な現象がある。
以前、私は東京都と神奈川県の剣道連盟居合道部会に所属していた。
私の周りの居合剣士はバイクに乗る人間が実に多かった。
特に、私より年上の人たち(しかも10歳~30歳位年上)の多くがバイクに
乗っていた経験があった。現役のライダーも多かった。
ところが、広島県に移籍してから、バイク乗りが殆どいない。これ不思議。
広島の場合はまた別な面白い現象があり、居合人の殆どが剣道を
現役でやっている。東京神奈川の場合、「居合だけ」という人が実に多い。
地域性があって面白く思える。

神奈川時代、県剣連の講習会に出ているとき、お年を召したある先生と
雑談していて度肝を抜かれたことがある。仮に先生の名をS先生としよう。
S先生は別流派だが、居合のことについて客席で休憩時間に話をされていた。
特に気組について。
すると、私の先輩が私を指して「こいつはバイクのレースしてたくらいだから
その辺りは大丈夫だと思います」と言った。
すると、御茶ノ水博士に似ているその先生の目の色が変わった。
そしてポツポツとご自身の経験を話し出した。それは驚愕に値するものだった。

戦後、S先生は日本の自動車産業のさきがけとなったオートバイ産業の
世界に入った。当時、日本国内では数百のバイクメーカーが乱立しており、
四輪車とともに自動車産業の第二次揺籃期にあった。
20歳台前半だったS先生は、仕事仲間2人とイギリスのノートン社に技術研修の
ために渡英した。1950年代のことだ。
イギリスのノートンは伝統あるモーターサイクル・メーカーで、戦前にはプジョーの
エンジンを搭載したマシンでレースを戦ったりしていた。
最初は技術者でノートン社を訪れたS先生だったが、ノートンのマシン開発に
かかわることができた。マシン開発のためには自分で運転できないとならない。
最初の頃は、近所の公道で走行テストをしていたが、S先生のバイクの運転が
巧みで、マシンの状態を適切に技術者に伝える能力にノートン社が気づいた。
帰国の時期が迫っていたが、あるとき英国会社の上司がやってきて「あと1年
帰国を延ばせ」という。そして技術者でなくライダーとしてマシンを走らせろと
いう。社命は絶対なので従うままにしていたら、あれよあれよという間に
英国内のナショナルレースにいくつか出場した。どういう訳か、そこそこ走れた。
気づくとマン島TTレースにエントリーされていた。乗りかかった船だ、ということで
ノートンワークスとしてマン島TTライトウエイトクラスに出場し、完走してしまった。


これはいい!ということで、翌年もノートン・ワークスとして走ることになった。
翌年はあまり成績は芳しくなかったが、ノートン社はその翌年も社員として走れと
告げてきた。もう日本を離れて数年が経っていた。留学的な要素の特別枠の渡航
だとはいえ、日本が恋しくなってきた。とてつもなく早いライダーがノートン社と
契約したこともいい機会と、S先生は英国を離れることにした。


日本のホンダが始めてマン島TTレースに参戦するのは1958年だが、S先生が
ノートンに在籍したのはそれ以前のことだという。
当時のマン島TT(ツーリスト・トロフィー)は世界グランプリの一環としてあった。
S先生は日本人で世界GPを走った日本人ライダー、しかもワークスのライダーと
いうことになる。日本のオートバイ史には一切出てこない。たぶん英国のノートン社の
資料を照査すればS先生の名は出てくるだろうが、日本では一切知られていない
モーターサイクルの驚愕の歴史だ。

こういうことって、世の中、多くあるのだろうなぁと思ったりする。
現在、高速道路に二輪枠の料金体系があるのは、私や私の仲間が80年代に
国内でマスコミまで巻き込んだ一大運動を展開した結果勝ち取って「奇跡の行政訴訟」
と呼ばれて、ひとつの時代の歴史の流れを作ったなどというのは、今となっては誰が
信じようか(笑)。政治色を出さない路線で、数多くの芸能人や著名人のライダーも
賛同して参加したことも大きかった。日本で初めてのバイクデモも俺たちがやった。
社会的な波紋は大きく広がり、結果として世の中を変えた。

高校の時、全学年で私はバイクを走らせるのが2番目に速かった。
1番ではない。1番は私と同じモーターサイクル・レーシングチームのライダー
の奴だった。どうしても峠でもコースでも奴の前を走ることができななかった。
バイクに乗り始めた1年の時にクラスも一緒だった。奴は俺より背が低く体重も
重いのに、俺は奴の走りを超えられなかった。
高校はバイクの免許を取得するのは禁止していなかったが、バイク通学は
禁止だった。だが、彼は遅刻しそうになり、練馬の家から文京区の高校まで
バイクで来た。ヤマハRD250だった。遠く離れた路上にバイクを停めていた。
たまたま、帰りにバイクに跨ったところを生活指導の教師に見つかり、一発で
退学処分をくらった。彼は高2の時に都立高校に転校して行った。1年の時には
同じ国公立大学特進クラスだったので、脳みその中味は奴もバイク一色では
なかったはずだ。だが、気づくとバイク好きの高校生たちはバイクの魔力に
とりつかれて、読む文字はサービスマニュアルくらいになっていった。
彼とは同じレーシング・チームでよくサーキットに共に行った。
気心知れた相棒みたいな仲だったが、鈴鹿に遠征の時、前の晩に泊まった
津市の宿でどつきあいの喧嘩になったこともある。あれは高2の雨の季節だったか。
彼はレース活動を続け、全日本でポイントもうまいこと取って、1980年代前半には
国際A級になっていた。私がいたチームは結構有名どこの選手も多かった。
筑波でのローカルレースを主催したり、漫画に出たり、ヤマハ系の有力サテライト
ショップのチームだったからだ。
そのクラスメートの彼は、後にマン島TTにプライベートで出場した。この模様は
ポニー・キャニオンから映像化されたというが私は見ていない。
彼の名は一般的には広くは知られていない。当時サーキットを走っていた連中が
一部知るのみだ。

神奈川県のS先生は、現在も神奈川県剣道連盟居合道部会で指導にあたられて
いる。
日本のモーターサイクル史では特筆に価する貴重な経験の持ち主なのだが、
「ず~っと昔に一度だけ雑誌の取材を受けただけだよ」とのことだ。
この話を伺った時点からすでに20年が過ぎようとしている。
こうして知られざる歴史の真実というものは時の闇の中に埋もれていくのかも
知れない。多分、日本人で世界グランプリを初めて走ったレーシングライダーは、
S先生であるというのが歴史的な事実ではないかと私は思う。

「レースの原点はツーリングだ。しかも長い。」
ショップの2階にあるクラブハウスで、俺にビールをすすめながら横浜ケンタウロスの
ボスは俺に言った。20代の俺は意味がサッパリ分からなかった。
この頃、少しだけ分かるような気がする。


最近のマン島TTレース
 


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男は黙って2ストローク

2012年01月27日 | バイク・車

熱も下がったので、病院の帰りに友人と本屋に行ったら
こんな雑誌があったので買った。



2ストロークエンジン搭載のバイクだけを特集した雑誌。
DVD付だ。
思わずバックナンバーも買い求めた。


しかし、書店にはVol.2が売り切れで、取り寄せてもらおうと
したら版元においてすでに絶版。出たばかりなのに。
たぶん、出版部数が少ないのだろう。
系列店に問い合わせしてもらったら岡山の店舗に1冊だけ
在庫があったので注文。これは後日届く予定だ。


RZR特集だけよく売れたのか?
今や絶滅危惧種の2ストロークエンジン。
いじりようでどうにでもなる夢のエンジン。
ドカン!とパワーが出る面白いエンジン。
唯一の欠点は、排ガス規制強化の時代にそぐわないことだけ。
(本当は規制クリアのシステムは作れるが、開発費を割くなら
最初からクリーンな4ストエンジンを発展させたほうが経費が
かからないから→地球上から絶滅の道へ)

マックでハンバーガー買って、車の中で付録DVD2枚を連れと二人で
うひゃうひゃ言いながら観た。なかなかエンスーな味付けの編集で
とても面白い。下手な映画よりも面白い。この雑誌は「買い」だ。
観ていて、やっぱりヤマハのパラレルツインがいいなぁ、と感じた。
伝説の名車ホンダNSR250Rについては、そのハンドリングについて
やはりチャタリング発生のことを詳しく当時のライダーが解説していた。
(チャターとはトトトンと起きる振動のこと。主に前輪に発生し、コーナリング
に重大な影響を及ぼす)

RZかぁ。。。(遠い目)
俺のチューンしたRZ350、盗まれちゃったもんなぁ。。。

RZシリーズで今でもローカルレースを戦っている若者もDVDに出ていた。
多分、生まれる前に発売されたバイクだよなぁ(笑)

このRZ-Rなんてレーサーにしているけど、きれいにまとまってるね。
まるでヤマハ純レーサーのTZみたいだ。85年あたりの。


こちらはRZ-RのTTF3マシン。

こいつは走りそうだ。
TTF3とは市販車ベースの改造マシンによるレースで、
4ストは400cc、2ストは250ccのレギュレーションだった。
1980年代はGP250クラスよりも人気があった。
改造費含めるとGP250クラスで純レーサーを走らせるほうが
費用がかからないのに、レースでは市販車改造クラスのF3の方が
人気あった。レースと市販車が密接につながっていたからだ。
それでも、2ストは4スト400ccに勝てなかった。
それを打ち破ったのがホンダのNSR250R-88年だった。
89年以降になるとF3決勝出場30台のうち21台がNSRというような
現象が起きた。ほぼNSR同士のレース(笑)。NSRでないと勝てない
という時代が来た。

NSRの登場で影が薄くなったRZだが、レースブームと2ストブームと
バイクブームに1980年に
火をつけたヤマハRZシリーズのパラレル
(並列)2気筒の2サイクル
エンジンとマシンは今でも魅力的だ。

レースやるわけじゃないから、今乗るなら、やはりパラツインかなぁ。
そうなると、RZシリーズに目が行く。
市販車RZを一番きれいに、そしてレーシーにまとめているのは
個人的にはこの車だと思う。

カスタムショップ・レトロさんが作り上げたRZ-R。
美しすぎて言葉がない。
この画像は、携帯の前の機種の時、ずっと待ち受け画面にしていた。

でも、流行らないのか採算がとれないのか、レトロさん、事業を縮小して
こういうカスタム・バイクを作るのやめちゃった・・・。
鉄フレームのしなりは、独特のフィールをライダーに与えて面白いん
だけどね。詳しく書くと長くなるから省くけど、ホンダが2002年からの
MOTO GPで作った5気筒マシンRC211Vもガチガチに固める思想
から「しなり」を与えるシャシ設計に変更していた。

オートバイの2ストマシンは現在、1台も作られていない。
ところが、RZ-Rのシリンダーとピストンは今でも新品が手に入るんだって。
なぜかというと最近まで新車販売されていた3輪バギーのエンジンが
RZ-Rと同じエンジンなんだそうだ。
こ、これは!
新品パーツ絶滅のNSRよりも、RZ-Rでバイクを作る方向で行った方が
いいように思われる。V型エンジン嫌いだし(笑)
一番面白そうなのは、後方排気のパラレルツイン(TZR250-89年式のみ)
なのだけど、いろいろ欠陥があるのも知っているから・・・


と思っていたら・・・この車の欠点をすべて解消したカスタムを手がけだした
という元レーサーのバイク屋さんの記事が『2ストマガジン』に載っていた。
詳しく読むと・・・う~む、その方法だといけそうだ。これぁすごい。

89年式ヤマハTZRはパラレルツインにこだわったヤマハの最終型だ。
ホンダのNSRに大きく水をあけられたヤマハがあせって市場に投入、
しかし、いろいろな細かいトラブルをかかえて、「失敗作」などと
いわれたりした。一定条件になると水流が停滞しデトネーションを
発生したりしたからだ。手本としたのはワークスレーサーTZMだったが
市販車はうまくいかなかった。

88年式ヤマハ純レーサーTZM250

仕方ないからヤマハが採った手法は・・・
なんとパラレルツインを捨てた。
1990年からは新開発のVツインエンジンにしたのだ。
ホンダ関係の書籍によると、この報を聞いたホンダ陣営は「ヤマハに勝った」と
開発室内に歓声が挙がったという。2ストの世界覇者だったヤマハがホンダと
同じVエンジンにしないと勝てないと悟った歴史的瞬間だったからだ。

だけど、おいらは個人的にはパラが好き(笑)
今は勝ち負けの世界には生きていないから、純粋に好みだけで言ったら
パラレルツインが好きだ。
好きなことに理由などない。刀が好きなのと一緒だ。
2スト・パラツインの味が単純に好きなのだ。

そして、思う。
本屋でついでに(笑)、1/25発売のモデルグラフィックス3月号を買った。

MGのサイト紹介記事にはこうある。
【巻頭特集】駆け抜けた「あの夏」の想い出
「198X モーターサイクルヒーロー列伝」

1980年代、日本のオートバイ事情は空前の大ブームを迎え、
そしてそれはピークに達した。ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ
の各オートバイメーカーは「より高スペックなマシンを」と、さながら
ワークスマシンを開発するかのようなサイクルで新型を開発し市場
に投入。結果、「2スト レーサーレプリカ」が日本中に溢れることと
なった。
あれから30年近く経った2010年代。なぜかいまその時代のバイク
の模型が立て続けにリリースされている。言葉にすると少々気恥ず
かしいが、いま「熱かったあの夏を思い出しながら作る」ときがやって
来たのだ。」

この雑誌の中で、2ストロークマガジン編集部の後藤武氏が書く。
「今のバイクはつまらない」
まったくその通りだと私は思う。
特集記事も、あさのまさひこ氏の文章はこう始まる。
「『X年代』という枠組みで10年間を区切る場合、'80年代というのは
実は『'81~'90年』のことを指す。ただし、誰もが気分的には、
『'80~'89年』こそが'80年代であったと感じていたのではないだ
ろうか?」
どこかの日記で読んだような内容だが、これが「同時代感覚」と
いうものだ。そして、特筆的な歴史的一ページだった1980年代に
ついてコラムを書いている。

そうなのだ、そして私は思うのだ。
「今のバイクはつまらない」と。
躊躇なく、確信を持って、思う。

何もかもが小さくまとまろうとしている今の時代、私は1/12のプラモではなく、
1/1モデルをこつこつと作っていきたい。
そして、「男は黙って2ストローク」だ。


てね、


思ったりするんだよ。




2ストロークマガジンの付録DVDの中に
 Which do you like?
と字幕が出て、しょこたんみたいな顔したかわいい双子の女の子が
RG-ガンマ1型とRZ1型に乗って並んでゆっくり走っているプロモ動画があった。
連れが「どちらがええ?」と訊くので「どちらも乗ってた・・・」と言ったら、
連れは「どっちもか!なんてけしからんやらしい奴なんや!・・・おれ右の子」と。
おまえなぁ・・・。
・・・おんなじ顔じゃんか(笑)

え~と、視聴者はお約束の反応で、狙い済ました映像演出が冴えた
DVDでした(笑)



 

バイクネタを書くと、その後数日間は1日訪問者が150名くらい
減るのだけど(笑)、お客さんに媚びる記事を書くつもりはまったく
ないので、これからもバイクネタは時々書くですよ、と。


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作刀日誌

2012年01月26日 | 火と土と水、そして鋼



小刀は康清という名で作る。
正式な刀工修行と実技試験を経ての文科庁登録名ではないので、
あくまで「私称」だ。刃長もすべて適法に15センチ未満だ。
私称としてだが、小林康宏師匠と兄弟子に許可を貰っている。
師匠の一文字と清廉の清をつけた。
「安き世」という平和を願う意味も込めている。
この名を貰った時、幸いに日本にはこの刀工銘は一人もいなかった。
また、現在でも一人もいない。
そして、私は刀工ではないので、あくまで在野の弩素人の好き者の趣味
の領域を出ない。

平成7年(1995年)に初めて自分だけで作ってみた。
その時の作刀記録をまとめた小冊子が出てきたので、抜粋紹介して
みようと思う。


-作刀日誌-
 

平成七 乙亥年元日 快晴
紋服を着て、広島県三原市の三原八幡宮に初詣。作刀成就祈願。

(中略)

刀工小林康宏の口伝をもとに、康宏日本刀鍛錬場で折り返し鍛錬した
材を用い、素延べ以降を広島県三原において小柄小刀とすべく製作に
取り組む。
以下は、小刀作製の記録である。

(技法まで含めての日誌本文を2015年9月28日までアップしていたが、
思うところあり割愛)



紹介したのは、ほんのごく一部である。
結構な量の技術面含めた日誌を書き残している。
特に下地処理の段階ではかなり細かく作業工程を詳述している。
記録はつけておくもんだなぁ。こんなの、今思い出して書けと言われても
無理だもの(笑)



一発目からどうにか形にはなったけど、日誌を読むと細かいところでは
失敗も出ている。それを製造途中でいろいろ工夫してリカバリーしている。
特にやっぱり鍛錬が難しい。



今まで作った作品は殆ど人にあげちゃったけど、この処女作だけは
手元に置いておくつもり。生まれて初めて自分だけで作った作なのに
奇跡のようにきちんとまとまって「作品」となったし。師匠は破顔一笑で
「なかなか良い」と言い、兄弟子はこれを手にして40分間あらゆる角度
から睨みつけたまま動かなかった。

 
寸法は、山田浅右衛門吉睦著『古今鍛冶備考』掲載のこの図と寸分違わぬようにした。

 
 穏やかに ともに生きたし 安き世に
                    (康清)


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小柄工房

2012年01月25日 | 日本刀



小柄小刀の地肌。
美しい綾杉肌ですね。
都内の足立区で、刀工と提携して小柄小刀の製作体験教室が開かれています。

小柄工房
   身の回りからいつの間にか手作りの刃物がそっと姿を消したと思いませんか?
   いろいろな事情があったにせよ少なくとも「道具としての刃物」を知らないことは
   残念なことです。錆びないステンレスのナイフ、「簡単」、「便利」、「安全」
   これら目先の安直さに隠れてしまったちょっと手のかかる小刀「小柄」を創り出して
   みませんか?それも日本刀の伝統的な技法に従って。そんな機会と場を用意
   しました。
   美術品としてこの世を生き抜こうとしている「日本刀」はちょっと敷居が高くて
   高価です。まして、直接手を出して創ることなどは不可能に近いのが現状です。
   小柄工房は「楽しく」、「少年のような好奇心」で取り組む本物の刀鍛冶の工房
   です。そして少しでも「日本刀」を理解する機会になればと願っています。
   刀匠の指導のもと、昼前から仕事を始めて休息を入れて約7時間の作業です。
   弁当、飲み物、着替え、筋肉痛、多少のまめは自己負担です。そう、軍手、タオル
   もお忘れなく。
   「鍛錬場」は様々な道具が所狭しと並び、鉄の削り粉、炭の煤(すす)と汗で、
   「作刀」はちょいと汚れる作業ながら「かなり楽しい」ことは間違いありません。

とのことです。
「日本刀の伝統的技法」というのが合わせ鉄鍛接工法を指すならば、ちょっと
個人的には疑問がありますが、江戸期以降の工法と捉えれば理解できます。
なによりも、消滅しそうな打ち刃物への接近を日本刀製作者の側からなしている
こと、一般の人に日本刀と日本古来の刃物のよさを自ら製作することを通して
理解してもらおうという趣旨が素晴らしいと思います。
研ぎと白鞘付(この二つは本職が担当)で55,000円て、めちゃくちゃ安い!
しかも希望者は池袋から車で都内鍛錬場までご案内、てマジか?
つい20年ほど前までは、刀工側からこのような場を提供したり、一般人に
アプローチをすることは一部を除いて殆どありませんでした。刀工と個人的に
懇意になるか、旦那衆が企画して内輪で小刀作刀会が密かに開かれる程度。
日本刀と他の打ち刃物は別世界で、言ってみれば日本刀側から一般人に
参加体験などの門戸を開くことは特殊な例を除いて殆どなかったといえます。
言葉悪く言えば、日本刀側はお高くとまっていました。
今、国内から火の消えそうな鍛造刃物の危機状況、不景気による日本刀
刀工の困窮という状況、これらが合わさってこうした一般開放による体験教室が
全国各地で開かれてきているのだと思います。
広島県でも島根県でも岡山県でも兵庫県でも開催されています。
主催者側は「創文化活動」としての崇高な理念だけでなく、裾野を広げるという
日本刀の潜在需要の活性化を狙う意図もあるでしょう。
抜け目ない業者はツアーを組んで泊りがけ旅行プランとして作刀体験パックを
商品化したりしています。

形はどうあれ、私なども刀工たちの趣旨に賛同しますし、個人的には多くの人が
日本刀に興味を持つきっかけになるのなら嬉しいことこの上ない。
それに、この「小柄工房」は都内で日帰りでできるというのが素晴らしい。
岡山の「おさふね博物館」内の工房でも同様の体験教室が開かれていますが、
やはり地方は交通の便が悪く、都内のように電車地下鉄で気軽に行けない
のがネックでしょうか。
それと、どこも「鍛錬」が体験できないのがなんとも残念(島根ではできます)。
岡山の場合も刀工が予め打って形にした物を選んで、削り出しからの作業と
なるようです。
焼入れは重要な工程ですが、鍛錬如何でかなり素質が決定しますので、
本職刀工との合作という楽しみはありますが、やはり全工程自作でないのは
惜しいところでしょうか。
しかし、作刀で一番難しいのは沸かしと鍛錬ですから、これはプロに任せるしか
ないのかも知れません。吉原義人刀匠は「赤めて叩くだけ」とサラッと言いますが
そこには極めて濃い技術が濃縮されています。槌音ひとつで「あ、失敗した」
とか「割れが出る」とか分かったりします。鍛錬は本職でないとできないかも
知れません。また、火を扱うので危険ですし。
では、鍛錬以降の工程は簡単かというとそうではなく、焼き入れも、水を張った
舟に入刀する角度ひとつで変わってしまいます。私が催した焼入れ会でも、
真横に水に入れた女性の刀が真横に90度近く反りが入ってしまったことも
ありました。大切なことは「言われた通りにやる」ということだと思います。

自分で作ってみると判りますが、とにかく整形(せんすきとヤスリがけ)と
研ぎにとんでもない時間がかかります。焼き入れなどは過熱を除けば
焼き入れ自体は5秒ですし、焼き戻しを入れても小刀なら30分です。
あとはひたすら削ったり研いだりする時間です(笑)
根気と「作り上げるのだ」という根性だけが必要。
だからホントはあんまりお手軽な気持ちでは参加できないんですよ(^^;
それでも、「体験」することはいいことだと思います。誰に勧められるのでなく
自分で望んでそこに行くのですから、自発的な参加でしょうし、なによりも
完成した時の達成感と喜びはひとしおです。

都内の小柄工房の教室、行ってみたいな。
岡山の長船(おさふね)では、銘切りまでさせてくれるみたい。
刀工が協力して、全国各地にこのような教室ができるといいなあ。
陶芸では早くからあったけど、日本刀の世界ではやっと最近こういう教室が
でき始めて、ちょっと嬉しかったりします。

ところで、私は小柄小刀の場合、火造りの後に焼きなましたその次には
ガンガン空打ちして鋼が光る程打ち締めるけど(冷鍛)、他の人たちは
どうしているのかなぁ。


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ワンコの表情

2012年01月24日 | ポチたま



うひゃひゃひゃ。
かわゆいな、こやつ。
イトコのワンコです。

こういう表情って、狙って撮影できないんだよねえ。

風景画と違って、動物の絵を描く人なんかも、写真が無かった時代は
どうやっていたのだろう。
たぶん脳裏に記憶なんだろうなぁ。

鉛筆画ですごいの見つけました。
これ写真ではありません。鉛筆画です。エンピツで描いた絵!


すげ~っす。。。
もうなんというか・・・言葉がないとはこのこと。
ただ、確証はないけど、これ描いた人、左利きのような気がする。


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鐵を探る ~クロガネの男の拳がある~

2012年01月23日 | 日本刀

ぶひ~!
面白いサイトみつけちゃった。

刀匠大野兼正氏は自家製鉄を手掛けていたが、その心は脈々と
うけつがれている。

こちらのサイト⇒兼正流小だたら製鐵

驚いたのは鉄穴流し(かんながし)まで実験している。
こりゃすごい!


それで出来た自家製鉄で作った日本刀はこちら。

おお~!なんちゅう精良な地鉄なんだ!
いいね~。とてもいい。


で、このサイト見ていて、個人的に別回路でかなり萌えたのはこれ。

いや、なに、このフォントなんだけどね(笑)
これ・・・明らかに昔の大学によくあったカクメイ的なお兄さんたちが書く
タテカンやビラの文字そのものなのよ(笑)
見る人が見れば即座に判る(苦笑)
こういうフォントってあるんだね~。知らなかった。
10年ほど前に共産趣味者の間で趣味的にPC用ゲバ字フォントが作られたと
いうのは都市伝説として耳にしたことがあるが、ここまで完成度が高いと
マジ笑える。
1980年頃までは、日本国内の大学にはこの字体があふれていた。
むろん、1970年前後には全国の全大学でこの系統の字体だらけだ。

東大全共闘(全学共闘会議)のタテカン(立て看板)

当然、70年代に大学に入学した私も学生時代には原稿書きやハケを使っての
看板文字書きはこの字体だった(苦笑)。
レジュメも試験の解答も全部この字体。筆使っての手紙の時だけ純和風の字体。
笑える、このサイトでこの字体が出てきたことは。
でもね、実はこの左巻きのフォントは何も全学連や全共闘のあんちゃんたちが使い
始めたんじゃないのよ。最初に使ったのは、実は旧日本軍だったりする(笑)
皇軍のプロパガンダのポスターや翼賛会などはこの系列の原初的なフォントなの。

戦時中の大政翼賛会のビラ。
字体といい、言い回しといい、その後の新左翼そのものだ。


国論を二分した60年安保(現実的には国民の7割以上が
安保反対だった)から7年後、そろそろ「ゲバ字」として戦前
の字体が復活し始める。使ったのは右翼ではなく新左翼だった。
これは1967年10.8羽田闘争(通称ジュッパチ)に向けた
中核派のビラと同闘争で機動隊との衝突で死亡した京大生
山崎君虐殺抗議のビラ。字体や言い回しは上記大政翼賛会
の国粋主義的右翼ビラとそっくりである。
1967.10.8羽田で反日共系全学連は学生運動史上初めて防具
としてヘルメットを被り、武器としてゲバ棒と後に呼ばれる角材を
持って街頭に登場した。以降、数年はこのスタイルが権力に抵抗
する学生スタイルとなっていった。
(後に日共、社会党、右翼も被る。ただし日共は反権力闘争ではなく
新左翼襲撃のためだけに黄色ヘルメットを被り、新左翼のような
折れやすい杉角材ではなく、釘を何本も打ち込んだ樫の棒を
襲撃部隊全員が所持した。反スタ(反ソ連)主義である新左翼を
襲撃するソ連派スターリニスト日本共産党の実態が如実に表れて
いた)
後に無党派である全共闘もこの反日共系全学連ゲバスタイルを
踏襲していく。組織温存路線のセクトよりもノンセクトである全共闘
の方が時には過激であった。彼らは「ノンセクト・ラジカル」と呼ばれた。

1968年当時の大学生の一般的スタイル。無党派でも「反スタ」が
主張の根幹だった。反スタ(=反ソ連)は反権力の一環でもあり、
そうした地平においてアメリカやフランスの学生たちとも連帯が
克ち取れていった。1960年代後半は西側先進国のほとんどの
国で「異議申し立て」と戦後地球上で最悪の戦争であるベトナム
戦争に反対・抗議するムーヴメントが広がった。ビートルズなどの
ポリシーもその延長線上にある。
日本全国で数十万人の学生がこのスタイルで抵抗運動に参加した。
紛争大学数は全国で260校を優に超え、学習院でさえ全共闘が
結成されていった。

戦時中の檄文用・プロパガンダフォントは、それが1970年前後に亡霊のように
新左翼学生たちによって復活させられたという歴史の皮肉。
おもろいね~、文化史ってのは。
そして1970年頃には学内の右翼が出すタテカンも左翼の字体とさして変わら
なかった。
三島が死んだ直後に右翼が出したタテカンは普段敵対する新左翼によっても
撤去行使はされず、新左翼学生たちも頭を垂れて瞑目して哀悼の意を表した。
(否定的だったのは現世を変えたくない日本共産党くらいではなかったか)

早稲田大学内に出された右翼のタテカン(立て看板)。
三島を別人名に、狂気を「パトス」に、昭和維新を「プロレタリア
日本革命」と入れ換えたら、まったく新左翼党派(というよりも
東大や日大の学内の壁に書かれた無党派学生の独白落書き)
のセリフになるというロジック(笑)。
右と左(既成左翼でなく新左翼)は実は180度方向を大旋回
ループしてつながっているということを感じ取れるだろうか。
三島は東大全共闘との討論集会にも出席していた。
右翼タテカンの実力撤去行使を新左翼があえてしないところに、
日本が敵兵皆殺し切り捨ての「チェス」ではなく「将棋」の国である
ことがうかがい知れる。
敵将を総殲滅皆殺しにするのでなく、人材を活かすためには
過去の立場は問わないということにみられる日本の独自性、
欧米や中国朝鮮と異なる精神特性は、決して「(ソ連型)共産主義」
や「帝国主義的全体主義」や「ファシズム」や「ナチズム」とは
相容れない日本人の「和」を尊ぶ歴史的国民性のように思える。
私はそこにこそイデオロギーを超えた日本人のアイデンティティと
日本の「美」を見る。

文字の字体に代表されるこうした文化は日本独特のもののような気がする。
仮名文字が女文字であったことが遥か昔の時代となってから以降は、イデオロギーを
超えるという点で、字体というものはどこか一方の勢力の所有物ではないという側面
において日本独自の文化であるし、字体は階級性を持ちえないことの証左だとも思える。
こういう文字文化のグローバリズム(本来の意味のグローバル)というのは、アメリカや
イギリスやフランスには存在しないのではないだろうか。敵味方関係なく、総体を
包むものとして日本人には源平の頃から旗を愛する文化があるように、字体や文字
そのものを慈しむ文化は、日本人全体を包む文化として培われてきたものである
ように思える。表意文字でない欧米は早くからタイプライターだしね、手紙も。
日本でも最近は封書の中の私信さえもワープロ文字で済まそうとする人がいたりして、
なんというか、美しくないなぁ、と思う。文字の上手い下手ではなく、肉筆文字で
相手に伝えることが日本人の心であり礼儀のような気がする。

ところで、文字といえば、「鉄」という字はやはり「鐵」の方がいいと思う。
「鉄」というのは「金を失う」で、「鐵」は「金の王なり」だし。
しかし、江戸時代の刀のナカゴにも「鉄」という字は使われたりしているから、
あながち最近使われだした漢字という訳でもないみたいよ。
画数が多くても、「鐵」の方が本来の意味を体現していていいなぁ、俺は。
この製鉄サイトはあえて「鐵」を使用しているところに、産鐵者としてのポリシーが
見えるよ。


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ごまかしのきかない小物造り

2012年01月23日 | 日本刀

ネットで、ある刀工の小刀作りを拝見した。



丁子でもこのようにふわりと水面からマッチの頭が浮き上がるような
刃を焼ける現代刀工がいるんだ。プチ驚き、というか感動もの。



裏(銘側)にも刃が焼けている。


かなりの出来だ。只者ではない。


この人の作刀日記読んでいたら面白い。
注目したい若手刀工だ。

卸鉄(おろしがね)で刀を造るらしい。


折り返しせず造ってみたり、いろいろなことも試している。
ただし、やはり「玉鋼」「積層構造=アンコ造り」を中心に据えている。
そして、それが「折れず・曲がらず」の基本だとしている。


水車小屋を改造して鍛錬場とし、兵庫県で槌音を響かせているらしい。

雰囲気ありすぎ!(^^)

桔梗隼光鍛刀場(サイト製作中)

作刀日記(井手町時代)

刀匠隼光 羅漢の里日記(現行ブログ)


桔梗というのは本名の名字らしいけど、珍しいよね。
少女マンガの主人公みたいな名前。もしくは宝塚か(^^;)
ブログは残念ながら現行の物よりも井手町時代の旧日記の方が
充実しています。
兵庫県の相生の羅漢の里では、参加費3500円で小刀製作体験教室も
開いているらしい。こういうのはいいね~。3500円というのはたぶん赤字だよ。
儲けのためにやっているのではないことがよくわかる。普通、この手の小刀
製作体験は参加費5万円前後だもの。3500円・・・。材料代も炭代も出ないよ。
お茶菓子代じゃないか、これでは。
でも、この刀工の心意気なんだろう。意気は粋だ。

小刀というのは簡単そうで、実はかなり難しい。
折り返し鍛錬は初析炭化物の均一化のために必要なことだけど、
一般的な刀工は「軟鉄との接合」こそが「日本刀造りの伝統」などと
思いこんでいる人がほとんどだから、全鋼でまとめることができなくて
包丁鉄を鍛接しようとする。結果として、割れがでやすかったりもする。
粘って欠けない良質な鋼にしていく工夫よりも、「接合造りまずありき」で
行こうとするから大切なことをすっ飛ばす。
この若手刀工隼光は、いろいろなことを試しているようだ。
メインを卸鉄においているところも面白い。
カネを下げたり上げたり(脱炭させたり吸炭・浸炭させること)・・・これって
まさしく鋼を作っていく(育てる)ことだよね。

小物にも映りがばっちり出ている。

出来を即座に確認したいため硝酸をかけて見た状態。それでも、恐ろしい程の
映りが出ている。ただし、印象が良いとはいえない。カメレオンの肌みたいで
心象は良くはない。それでも、焼き刃の谷部分に高い映りが出るのは、古刀の
映りと同種の現象が現出しているので注目できる。この人のデジカメの画像処理の
問題かも知れないが、サイトやブログで使われる画像は、全般的に緑が強すぎる
彩色モードとなっている。一番上に掲げた小柄小刀の鋼色も、紫がかった黒鉄色
ではなく、緑の鉄のような色合いに写っている。明らかに肉眼で見るだろう色合いとは
異なるので、サイトやブログアップのためには、画像処理ソフトで赤みを増すように
調色して肉眼で見るのと同じようなナチュラルな色彩を再現する必要があるように
思われる。


最近の若手刀工群で面白い傾向がある。
それは、新手法(実は古式)を模索する刀工が増えていることだ。
だが、旧来からの「アンコ造り」が「日本刀の伝統工法」だとする権威筋の
プロパガンダを墨守する若手も多くいる。当然玉鋼神話を信奉している。
傾向として面白いのは、以前ならば、出る杭は打たれる式の方法さえも
いろいろ試す若手陣と、そうではない協会追従タイプに大きく二分化している
ことだ。
新しいこと(実は古式古刀の製作法研究)をやる若手の中から、近い将来、
古刀のような斬鉄剣を作りだす作者がぞくぞくと出てくるのではないだろうか。
今の時点で確実に言えることは、協会玉鋼を使って、アンコ積層構造で
造る限り、ガラスの刀のように脆いことから脱することはまず不可能だろう。
以前TV番組で「義経が使った古刀の再現を狙う」と称して、有名な刀工が
江戸期以降の造り方である玉鋼を使って積層組み合わせで刀を作っていた
のには、申し訳ないけど飲んでいる茶を噴いた。まるで、大江戸の料亭料理
の再現と称して化学調味料バンバン使うみたいで、お寒い感じだった。

幸いなことに、幾人も注目に値する刀工が現在では散見される。
本質的な古刀製作方法の解明と技術の模索は開始されている。
その胎動を若い力に感じる。
そうした日本刀の本質を求める勇気ある試みが保守派に潰されないことを
切に祈る。
もしかすると、近い将来、正しく明るい日本刀の未来が開ける時代が
来るのかも知れない。


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日常的態度

2012年01月22日 | 内的独白

きょうの昼間、TVを見ていたらちあきが出ていた。
そういえば、この人、金曜の午後、羽田の全日空到着フロアの
日本蕎麦屋で蕎麦食ってた。
おいらは出発ロビーだったけど、蕎麦屋がないので到着ロビーに
エスカーで1階下がって蕎麦屋に入り、もりを二枚頼んで前見たら、
2つ向こうの席になんだか冴えない男と一緒にいた。
ちあきには、90年代の初めに路上で話しかけられたことがある。
夜、目黒の碑文谷デニーズ(今はもうない)を出て歩道に停めたバイク
いじってたら、知り合いでもないのに「何やってんのぉ~」とスタッフ
みたいなのと歩いてきていきなり話しかけられた。
「別に何もしてねぇよ。自分のバイク診てんだよ。邪魔だから向こう行け」
と追っ払った。
TV見てたら、もう40歳なんだ。顔も性格も昔と変わらないね~。
でも、大昔の戸川純とキャラがかぶるような気もする。
ちあきは番組で「間髪入れず」を「カンパツいれず」と言ってたけど、
おまいさん、そいつぁ間違いだから。「かん はついれず」だから。
勉強できて東大目指していたお嬢様の家系らしいけど、日本語は
正しく行こうぜい。

きょうの番組では、美輪さんの「ヨイトマケの唄」がよかったなぁ。
録画しました。


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大丸 東京店 ~日本刀鑑賞と買い物~

2012年01月20日 | 外出・旅

朝0700にホテルで食事。
午前中、しばらくお客様と時間を潰し、浜松町のモノレールまでお見送り。
私は八重洲ブックセンターにて、日本刀関係の研究書を物色して
帰還の便まで時間を潰します。

東京駅ビルともいえる大丸東京店の刀剣柴田に日本刀を見に行きました。
ここは本店よりもマニアックな展示品揃えで、あきらかに銀座の本店と
展示内容を変えていますね。こちらは、大刀・脇差は2~300万クラスの
物が多く、中には1千数百万の物も展示してあります。2千万近い青江があった。
眼福にござる。



刀剣柴田は、ウインドウの中に展示してある刀剣や古式銃などを
申し出れば手に取って見せてくれます。
私が見入っていると、「ご覧になられますか」と声をかけて見せてくださり、
数口手に取ってゆっくり拝見しました。
ただ、誰にでも手に取らせるというのはリスクも大きいですよね。
私の後に「これ見せて」と言ったひやかし客が、フリントロックの古式銃を
ガチャガチャ作動させて空撃ちしていた時には、他人ながら「やめなさい」
と言いたくなりました。素人の恐ろしさというか、モデルガンじゃないん
だから・・・。というか、モデルガンでさえ、購入前の空撃ちや作動などというのは
ご法度なのに、美術品である古式銃をオモチャのエアガンのように扱うと
いうのは、実に腹立たしい。文化遺産を拝見する作法も礼儀も知らないの
なら見るだけにしとけ!と言いたくなります。あ~、ひどかった。
「私の親戚が刀持ってるんですよ」って、おまえ刀屋に来て何言ってんねん(笑)。
困ったさんとしては、刀でも、鑑賞刀の拝見の仕方を知らないから、鞘を横に
して抜こうとしたり、鞘に納める時に刀身の棟に手を触れたり、刀見ながら
口あけて話をしたり、もう目も当てられないような人を時々刀剣店で見かけ
ます。
居合大会会場で出店ブースの刀剣を見る剣士たちでさえ刀の扱い方を知らずに
乱暴に扱ったりする。剣士でこれは、かなり恥ずかしいことだし、第一、売り物の
刀なんだから常識わきまえろよ、とか思ったりするよ。べたべた手で刀身を
触ったりする居合剣士も多くいるので、オ~マイガッ!となります。
なんだかね~、刀振り回す前に覚えることがあるような気がするんだけどね・・・。
剣士たちは、ことさらに刀に関しては勉強してほしい。常識として。

大丸の柴田さんの刀剣では、小柄小刀や大小刀(おおこがたな)に見るものが
ありました。
故高野政賢(まさかた)の大小刀があったのには感動した。じっくり拝見しました。
また、故谷川盛吉さんの小柄小刀もあり、こちらもゆっくりと拝見しました。
鉄が違うので、自家製鋼でしょうか、谷川さんの作は。国東半島あたりの
浜砂鉄を主体に自家製鋼をされていましたが、その自作鋼かも知れません。
盛吉刀工は志半ばで亡くなられ、長男の延寿宣次さんもまた若くして亡くなり
ました。
谷川盛吉刀工は、以前の職場の上司(大学の時の年上の友人。彼の方は
東大で学生ウンドしてた。私が1年の時、彼は6年(笑)だった)の弁護士とは
年の離れた従兄弟でもあり、また谷川先生の仕事場兼自宅は私の妻の実家の
すぐそばでしたので、ある夏の日、その職場の弁護士と一緒に熊本の谷川
鍛錬場を見学させてもらったことがあります。注目したのは密閉炉だったこと。
鍛冶押し用には大型の回転水砥石を使ってました。座布団くらいの大きさの
丸砥石だった。
6時間くらいお邪魔していたかな(笑)。 ビールいただき過ぎたかも(^^;

政賢刀工は、武州多摩御岳山の麓に住した刀工で、晩年は目を患いました。
刀工には「白内症」という職業病があります。
長く火を見つめるから、「目が盗られる」のです。火の神に。
鍛冶神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が一つ目であったりするのは
そのためとの説もあります。また、差別的な単語で「めっかち」という言葉の原意は
「目鍛冶(め・かぬち)」ということのようです。一つ目小僧や唐傘お化けなども
製鉄の歴史と大きな関係があるものとされています。
政賢刀工は最後まで奥さんが向こう鎚を勤めました。
自主制作映画の名作に『刀匠記 ~多摩の絆~』という映画作品があります。
これは東京都の映画祭で金賞を受賞したドキュメンタリー作品ですが、その中で
描かれていた奥様のけなげさは、小説『いっしん虎徹』に出てくる虎徹の妻
ゆきさんの姿にそっくりで、目頭が熱くなります。
最晩年作に高野政賢は久しぶりに長銘を切り、さらにタガネを進めて「相鎚貴子」
と銘を切ります。それを見て、銘切りのために刀を押さえていた奥様の頬に
一筋の涙が伝います。感動のドキュメンタリー作品で、私も観ていて涙腺が緩んだ。
刀剣柴田で見た政賢作の大小刀は、差し裏(銘を切ってあるやすり目の面)にも
しっかりと乱れ焼き刃が入っており、政賢刀匠の土置きは小刀といえども大刀の
ように表裏両面に同じ土置きを施す手法であることが理解でき、これは収穫でした。
大抵の小刀作りでは、経眼した物の多くは、包丁鉄と鋼を鍛接させる造り込みのため、
やすり面の方は土置きはベタ塗りが採用されているようですが、正賢作は裏面にさえ
表と同じ鋼の変態が生じています。これは明らかに無垢で造られていることを表します。
ちなみに、私はすべて無垢で造りますが、小刀の両面に同様の土置きと土引きを
します。これは片切刃といえども実用の見地からもそうしています。ですから、ヤスリ目で
働きまでは見ることができませんが、研いである地刃面と同じようにヤスリ面にも
同様の刃文ができているはずです。私の作は、角度により光の反射でそれとなく
ヤスリ面側の刃部が判るのですが、政賢作の場合は角度を変えずともしっかりと
鋼が変態しているのが見え、かなり深い焼きであることも分かりました。私の作は
地沸がついて刃中の働きもありますが、総体としてボンヤリと眠い感じの沈み心の
刃縁です。政賢作はヤスリ面側にもくっきりと乱れ刃が出るくらいに焼いています。
政賢刀匠の間(あい)の取り方は、手に水をつけて刀身に振りかけて温度を探る
方法で、しかも焼き戻しの時間が極度に少ない。ここらあたりも関係しているのかと
思います。私の場合は康宏伝なので、300度脆性を避けて、時間をかけて
じっくりと焼き戻しをして靭性を出すようにしています。古刀のように冴えて且つ
粘る刃が理想ですが、見た目の冴えよりも靭性を付与させることに重点を置いて
間の保持時間を長く取るので、どうしても刃が眠くなり、結果として凡工の域を出ません。
一度、後に刀工登録した兄弟子が焼き戻しを極度に短くして刃が冴えた脇差を
作ったのを見て、私が「それ、もって行き方がよくないんじゃない?」と言って言い合いに
なったことがあります。兄さん曰く、「おまえも言いにくいことズケズケと言う奴だなあ。
これは俺が使うからいーの!」と。私は「だって、それ康宏伝じゃないじゃん」と。
そこで互いに思うところをぶつけ合う言い合いが始まりました(^^;)
今はそういう胸襟を開くつきあいをしてくれた兄様も鬼籍に入ってしまった・・・。

鍛冶のもうひとつの職業病に肺を病むことがあります。
大抵の鍛冶職は長生きできないのですが、亡くなった時には肺は真っ黒である
場合が多いそうです。刀剣などには詳しくない私の母でさえそのことを言うの
ですから(『多摩の絆』を観ながら目をウルウルさせながら)、一般的に「鍛冶屋の
早死に」や「鍛冶屋の貧乏」というのは、昔からよく知られたことだったようです。
最近では、日本刀の刀鍛冶は「作家」である、「先生」である、と上から目線の
刀工もいるようですが、どうなのかなぁ。自分がそうした俗界とは別世界に生きる
職人であるということを忘れてはいないだろうか。
私は全般的には概ね刀工に強い敬意を持っていますが、中には矜持と高慢を
はき違えている人もいるように見受けられます。
もっとも、武術の世界ほどではないのでしょうが。(武道・武術の世界はトンデモ
さんがとても多いからね~。非常識な人格破綻者が多いのも武術の世界の常識です)

大丸百貨店内の刀剣柴田さんでは、絶版本2冊を合わせたリメイク書籍
(絶版物は2冊とも所有していますが)を購入。それと、油や細々した物を
いろいろ買い、さらに江戸期の小柄小刀を一口買い求めました。鉄(かね)が
良かったのと求めやすい価格だったので。

羽田空港では、いつものように刀剣油のみは事前に陸上貨物便で自宅宛に宅配便に
託しました。なぜなら、平成19年3月1日から航空保安規則が変更になり、液体類
の機内持ち込み(手荷物預けおよび客室持込)にかなり厳しい制限ができたからです。
少し前まではビリヤードのキューも客室に持ち込めましたが(笑)、今は傘も×。
また、他の物もかなり厳密に規制されています。
刀剣油は食用油のように成分が記載されていれば所定の方法で機内に持ち込めて
運搬ができるのですが、世の中、成分記載の刀剣油などはどこにもありません(笑)。
これは致し方ないことです。
法治国家では、最高の位置にある法規は憲法で、その下に法律、さらに下位に
行くに従い条例、政令、規則、細則・・・等と続きますが、いわゆる法令は国民の
義務として遵守しなければならないので、私などがしのごの言ってもはじまらない。
ただし、国交省が定める航空保安に関する規則では、液体について細かく品目を
指定しているため、逆にそれがアダとなって、そこに記載されていない品目の液体は
一切機内持込みができない、ということになってしまします。まるで類推適用を許さない
刑法の罪刑法定主義の弊害みたいな現象が起きてしまいますが、これの法規的な
欠缺(けんけつ)を指摘しても詮無きことでしかありません。超法規的措置が行使
できるのは国家のみなのですから。

では、北海道での全日本の居合道大会などでは、数百名の選手団はどうやって
手入れ用の油を運んでいるのか。
それは、国交省の規則を読んでお考えください。
 ~液体に関する機内持ち込み制限についてはこちら(PDFファイル)
を参照のこと~
 ~液体の種類についてはこちら(PDFファイル)~


数年後のA空港入り口ゲートにて。
検査官「なんだ、この集団は。日本刀だけでなく、全員が食用油持ってる!」

B空港入り口ゲートにて。
検査官「なんだ、この集団は。日本刀だけでなく、全員がスキンオイル持ってる!」

C空港入り口ゲートにて。
検査官「なんだ、この集団は。日本刀だけでなく、全員がヘアオイル持ってる!」









透明なオイルもあります。↓

この透明オイルは化粧品です。
こちら

椿油は刀剣保存油としても以前から使われていました。
食用にもなるので、食用ナイフの防錆にも使ったりします。
これらの100ml以下の容器を透明なジッパー付のプラスティック(ナイロン)
袋に入れれば申請しなくともOK!完全に法も規則もクリアです。
要は、鉱物性の刀剣防錆油が何から出来ているか表示がないから、検査官
が安全性・合法性を確認できないからアウトなのよ。
ただし、植物油は腐食性が高いから、帰還時には鉱物性もしくは100%化学合成の
防錆油に塗り替えておきましょう。
航空機利用移動先で刀に油を塗って伸ばすためには、化粧品用のパフを使いましょう。
ネルに浸み込ませた油は駄目ですよ~。何の油か検査官が確認できないから。
そして、「100ml以下の容器」「ジッパー付プラスティックの袋」、これが条件です。
実は私、日本刀持っての移動用にはパフを持っていて以前から愛用していました(笑)
パフ見た東京の先輩「・・・おまえ・・・」。
違いますから(^^;



帰りの飛行機内では、八重洲で買った刀剣書籍を読みながらフライト。
きょう、東京は初雪でした。

 


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夜の池袋

2012年01月19日 | 外出・旅

鳥取からのお客様2名と羽田で待ち合わせ、
埼玉の工場で製造製品の検収を終えて、
夕食の店の予約入時間まで3人で池袋でくつろぎます。

サンシャイン60の59階。

サンシャイン60は、元巣鴨プリズンのあった所です。
私が高校1年の時に建設中で、よく学校帰りに池袋の東武デパート
(ブランデートTOBU)の屋上から「きょうは○○階までできたね」と
言いながら彼女と夜景を見ていた思い出があります。
高1の初めの頃は、中学の時のバスケ部の友人たちと、学校帰りに
池袋の立教大のそばの喫茶店に集まって時間を過ごすことが
多かったので、池袋は思い出の街なのです。
彼女も中学の時のバスケ部の子だった(笑)
女子バスケ部は強くて、関東大会で準優勝とかしていた。
それでも、弱かったうちら男子バスケ部と練習試合すると、何回やっても
男子のほうが勝つのだから、技術よりも体力勝負ではやはり中学あたり
では男子の方が勝っていたようです。うちの男子が弱いといっても、
私初めスタメンは全員50mは6秒以内だったし、俺なんて手も早かったし(違


サンシャインの59階から見た風景。東方面。

東京の夜は早く、5時過ぎにはこんな感じです。


ここからサンシャインビルの中に勤務する大学時代の友人にメール。
「今59階にいるよ」と。「今日は残業ヘビーだよ~」と返事あり。
バイク乗りでもある彼は、今は大会社のお偉いさんになってます。
そうなんだよなぁ。うちらの世代はスポーツでいえば監督クラスの年齢
だもんなぁ。あたしも落ち着かないとね(苦笑)

夕食接待して、今夜は池袋に一泊です。


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出張

2012年01月19日 | 外出・旅
夜明け前に広島空港に向かう。
今、羽田第二AP。

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