渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

複雑な職人魂

2016年09月21日 | 日本刀



銘を切った人に完全に脱帽する。
ものすごく研究している。
もしかすると鍛冶平直光の銘か。

「虎徹を見たら贋物と思え」とは人口に膾炙されてきた
ことではあるが、『大鑑』所蔵の正真とされる虎徹にも
鍛冶平の偽銘があるとさえも云われている。

この作の銘は非常によく研究されている。
筆致だけでなく、時代による興里の癖、鏨使い等々、
かなりのものだ。

実話として、こういう話がある。
現代でも、少し前までは偽物師で凄腕がいたりした。
現在市場に蔓延している某刀剣商がタイで違法に密造させ
て東京と鹿児島で登録を取って売りさばいている満鉄刀の
劣化贋物のようなデタラメな銘などの仕事ぶりではない。

その職人はどうみてもフルコピーの正真に見える偽物を
拵えたという。

そして、彫り物なども、象嵌でそれとまったく判らない
ような超絶技法の手仕事を施す。
モノの本によると、その者が言うには、贋物製作の依頼者は
普段は公正を謳っているような
刀剣界のみならず世間で
高名な斯界の権威筋だったりするそうだ。

そして、偽物師は懇意の知人にほくそえむように言ったそうだ。
「高彫りの裏にそいつの名前を刻んでおくのよぉ。ある時
なんかの拍子に本物とされているそれが取れたとしねえ。
そしたら、そこには依頼者の名が出てくるってえ寸法よ。
どうだい?おもしれえだろ」
恐ろしい話だ(苦笑

もし私が偽物師だったとして、フェイクを造るとしたら、偽物師
鍛冶平直光が写した偽銘ではなく、鍛冶平直光の真作
そのものを写し取ってやりたい。上(かみ)からなかごから
銘に至るまで。
そして、土に眠る直光に言ってやりたい。
「どうでえ?おもしれえだろ」と。


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脳内妄想

2016年09月17日 | 日本刀

以下、一部は妄想族の戯言です。

もし仮にタイムマシンがあったとして、天正年間に時空移動するとする。
その時に、刀を持って行くとしたら・・・。
その時には迷わず、上のほうの天文年間(鉄砲伝来の頃)の古刀備前
二字銘を持って行く。


上:「則光」(天文年間-1532~1555-/備前国長船)
下:「安芸国大山住仁宗重作 天正八年二月吉日」
  (天正八年-1580-/安芸国大山)


←クリックで拡大

私は、斬鉄剣小林康宏刀に絶大なる信頼を寄せているが、こういう
ケースでは選択する刀剣は別である。
それは、現行いくら信頼できる物であっても、「バトルタイムプルーフ」
という重みのほうが優るからだ。
仮に時空を超えて飛ぶならば、打ち込み疵や矢を受けた痕など、疵
だらけになりながらも、戦国期を生き抜いて450年後のこんにちまで
生き残ってきたという事実がある丸太斬り則光の一刀のほうを私は
選ぶ。

そして、よく「古刀は腰が弱く、鋼の焼きも甘い」などと分かったようなこと
が一部で言われたりもするが、「古刀」の一括りで概括できるほど日本刀
というものは総合的な製品均一性などはない。すべてに個体差がある。
現に私の丸太斬り則光などは、数打ちといえどもすこぶる頑丈だ。信じら
れない程に丈夫なのである。
茎(なかご)を観察するに、製作時の元棟重ねは9ミリほどはあったこと
だろう。
それが現状6ミリ台まで研ぎ減っている。
それでも、腰も強く張りがあり、その切れ味たるや最上大切れ物だ。

現代刀は、いくら古刀再現を目指して古刀に肉迫しても、どうしても越えら
れない壁がある。
それは、現代が刀剣による剣戟が存在する時代ではないので、現実世界
とはと乖離しているところで刀剣製作を現代刀工はしなければならないと
いうことがあることだ。
つまり、どれほど古刀に近い物を作り上げようとも、それは古刀に迫る現
代刀でしかなく、実物の古刀は、武士たちが本当に合戦に用いていたも
の、その時代に造られた物、という大きな事実がある。
それだけは、どうやっても現代刀は超えられない。

そうした面でも、私は古刀に対しては、一種特別な思いがある。
この思いは、上述した脳内妄想に基づくものではない。


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大太刀

2016年09月14日 | 日本刀



日本刀の歴史の中で南北朝時代に登場した大太刀。
その大太刀について、得能一男先生の著作に説明があるので、
一部抜粋紹介したい。

南北朝時代 建武元年(1334)~明徳4年(1393)
 
鎌倉時代末期の元寇によって集団戦を経験させられたために、

戦闘方法にも変化の兆しをみせてきたことは前述した通りですが、
まず甲冑が活動に便利な胴丸を多用するようになってきており、
一部の上級者を除けば胴丸着用が普通の状態になっております。
また腹巻も次第に多用されるようになっております。
 戦闘方法にも集団戦の影響が出てくると、どうしても軍団の
構成で歩兵の占める割合が多くなり、勢い騎馬の廻りには歩兵
がむらがり集まるようになってくるので、このような歩兵を払
い除けるために大太刀が出現しております。
 刃長が三尺から四尺をこす大太刀が出現すると、これに対抗
するために歩兵の側でも中間距離の刺突や斬撃に適した槍、薙刀
が多用されるようになってきて、歩兵の騎兵に対する攻撃力が飛
躍的に増大してきたので、大太刀の効果が失われると、今度は反
対に大太刀に依存するだけでは歩兵のなかに孤立して危険にさら
される可能性が出てきて、大太刀の流行は短期間で終わっており
ます。
 大太刀が流行したのはそんなに長い期間でなくて、貞和(1345
~1349)ころから始まって、延文(1356~1360)、貞治(1362
~1367)ころを頂点として急激に衰退しております。
 大太刀の用途は、斬るよりも薙ぎ払うという目的のために造られ
ておりますから、長さが長く、三尺から長いものは四尺以上もあり
ます。そうして身幅が広く、重ね薄で、大切先になった大段平造
(おおだびらづくり)に造られておりますから普段に佩用するのは
難しく、仕様方法は通常徒士の従者にかつがせておき、使用する時
は従者に鞘をもたせたまま柄をつかんで引き抜いて使ったようです。
 したがって、いざという時に従者が逃げたり、追いはらわれたり
して、急場の役に立たないこともしばしばあった故でしょうか、
当時の絵図などを見ると、大太刀を身につけている武者も描かれて
おりますから、不便を忍んで佩用していた人も少なくなかったもの
とおもわれます。
 このような大太刀の流行によって、新たに用いられるようになっ
たのが打刀です。
 二尺から二尺二寸前後の比較的に小振りのものが造られるように
なって、大太刀と併用して使われております。
 末期の応安これおになって大太刀の流行が全く止むと、使用する
太刀も、大太刀の反動でか、これまでは差添えにしていた打刀と全
く変わらない程の至極小振のものが造られるようになっております。
 これらの小太刀は、刃長が二尺一・二寸で小切先になっており、
粗見すると、室町期の嘉吉(1441~1443)、文安(1441~1448)
ころの打刀の姿に紛れかねません。
 しかし嘉吉、文安これおの打刀に較べてやや反りが高く、しかも
先反りが殆どつかない点が大きく異なっております。
(『入門 日本刀図鑑』得能一男/光芸出版/1989年初版)


異説もあるだろうが、刀剣書は読んでみるものだ。
インターネットだけで情報や知識を得ようとしても大きな限界がある。
また、インターネットというものは、一般書籍よりも難易度が高い
面もある。
それは、ネットは情報自体が玉石混交であり、読み手の側に「真贋を
読み取る能力」、「情報を取捨選別する識別能力」を求めてくるから
である。
いずれにしても、連絡ツール、情報伝達ツールとしては、ネットは
便利なツールであるが、ネット依存脳になると、どうしても情報収集
が偏頗な状態をきたしかねないことが往々にしてあるので要注意だ。
そして、学識経験者は理解しているだろうが、情報なり説なりは、
第一次史料までを手繰り寄せないと、伝言ゲームのようなネットの
轍に自らはまると、真実を見抜くことから遠ざかることにもなる。
そして「伝~」や、「~と伝えられている(誰から、いつ、どこで、
どのような形で?)」というような言い回しは、ほぼ信用しないほう
が懸命だ。偽書ではない確定史料が無い限り、自己宣伝による伝承や
言い伝えなどは、あくまで「と云われるもの」程度として捉えるべき
であり、それに重点をおいて物事事象を捉えると、大きく判断を誤る。
とりわけ、刀剣および刀剣使用に関する武術の世界は、決して善意の
錯誤ではない恣意的な大嘘・捏造・盗用・剽窃・僭称・欺網(ぎもう)
等々がとめどもなくひしめいている悪意渦巻く世界なので、くれぐれ
も自分自身の確固たる「見る目」をしっかりともっていただきたいと
願う。


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聖地巡礼不能

2016年09月14日 | 日本刀


海の中に埋め立てた臨海公園。

赤色が江戸期直前までの海岸線。黄丸が上掲画像の場所。


日本刀の世界において、「古三原は現在の広島県三原の地で・・・」などと
いうことを言われている限り、聖地巡礼は不可能だ。
なぜならば、「古三原」の鎌倉時代には、三原という地面は存在せず、
この画像のようなものだったからだ。古代山陽道さえも通っていない
ただの断崖の海辺である。


戦国末期の天正年間まで、現在の三原はただの海の中。「古三原」なる
刀鍛冶の鍛刀場所を現三原とする限り、絶対に聖地巡礼はできない。
「元禄時代、今の江戸月島で造られた刀」などが100%存在不能であるの
と同じで、天正年間までただの海だった現在の三原エリアに人は住めない。
三原というのは、たかだか来年で450年の「新しい」地方都市であったのだ。

赤線部分が中世までの海岸線。「古三原」鍛冶はここには存在できない。


白線までがかつては海。三原という地面はなかった。
「三つの原が集まった場所だから三原と名がついた」と行政が言う伝承
さえ怪しい。原とされる谷は合流しておらずそれぞれ独立していた海岸線
であったからだ。古史料に見られる「三原」「柞原」とは、この海岸線のこと
ではなく、別な土地のことであろう。もっと内陸部、古代山陽道沿いと私は
推測している。そこには「原」も「柞」もあるからだ。



それにしても、日本刀剣界はそろそろいいかげんに「古三原は現在の
広島県三原の地で云々」という大嘘を語るのをやめてほしい。
江戸期、月島で刀を打った鍛冶は存在できない。
三原という地面が登場したのは、小早川隆景が海中の小島を繋いで
お台場や出島のように埋め立てた「三原城」が海上に登場した天正
年間以降なのである。
海の中で刀は作れないどころか人は住めない。
ありもしないことを設えて、それを定説とすることをいまだに刀剣界は
続けているが、そろそろ誤謬は誤謬であると認めて正しく「作刀地不明」
としたたほうがよい。
確かな現実。それは、現在の三原の地は、天正までは地がなく海である。

海の埋め立て築城により無理矢理町を作ったのが三原城下。


維新直後、明治10年(1878年)。


明治40年頃。



大正時代には埋め立てが進んだ。大正新開から見た城郭跡。


昭和50年(1975年)。城郭周囲は住宅で埋め尽くされている。
平成の現在は城址公園整備のため、大幅撤去。
ようやく、数十年ぶりに道から石垣全体が見えるようになった。


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好み

2016年09月14日 | 日本刀


三本杉というのは、空襲を受けている都市の惨状のように見えてしまい、どう
にも好きになれない。
これは個人的な感性の問題なので、悪しからず。
ただし、蛙子丁子は好きである。
これは風大左ェ門のドボジデの涙に見えるから(笑

ちなみに、いなかっぺ大将は風 大左衛門ではなく、風 大左ェ門が正しい。
ウィキに間違いあり(笑

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長大刀の意外なネック

2016年09月14日 | 日本刀



三尺三寸などの長い刀は、事と次第によっては通常使用していても
曲がりやすい
ことがあるらしい。
北の達人の過去の記述を読むと、三尺三寸の真剣刀身重量は2kg
達するらしいが、鉄の絶対量が増えても、長さからくる曲がり易さと
いうものはあるようだ。

画像は三尺三寸まではないが、かなり長寸といえる小林康宏作。
鞘払い約1.8kg。康宏としては長めの作となる。
製作者本人曰く、「曲がるかも」とのことだった。それと、「鉄を斬ったら
折れるかも」とも。
長物をあまり作ったことがないので、データが取れていないのだ。

短い物ほど折れ曲がりし難い。長い物ほど曲がり易い。薄い物ほど
曲がり易く、厚い物は曲り難い。これは好むと好まざるとに拘わらず、
物理原則なので仕方がない。
短い物でも鎧通しなどが重ね厚み1センチ以上あったりするのは折損
防止
のためだろうし。
かといって、太刀・打刀を頑丈にするために1センチ以上の元重ねにし
たら、
先っぽに向かうまで多少薄くなるとはいえ、とんでもない厚みの
刀身と
なってしまい、重量が増して振り回せなくなる。
(康宏の場合は特殊形状で、棟重ねは厚みの基準にならない。棟重ね
7ミリ・鎬重ね7.Xミリというのが備前物などの特徴だが、康宏作で棟重ね
7ミリだったら鎬重ねは1センチを超える。そのため鎬重ね5.5~6ミリ
ほどでも通常の刀剣よりも相対的に鎬高が厚く重い刀身となる)

刀身を頑丈にするには厚みを増せば頑丈さも増すことは確かだが、
扱えなくなっては武器として意味がない。
その強度確保のぎりぎりの厚みと、扱える重量の公約数をどこに見出す
かが製作のキモなのだろうが、これはいろいろなデータを取らないと
かなり難しい部類に入ると思う。

1977年頃の書籍に載った刀工の対談で、「近頃は、拵に入れることを
考えない奉納刀のような物ばかりが流行っている。一体誰が使うのか。
使うことを前提としない刀など何の意味があるのか」と著名な無鑑査
刀匠が言っている。
たしかに当時は身幅かなり広く、長さも二尺七寸八寸九寸といった
長大刀が新作刀剣コンクールでは流行っており、二尺三寸五分あたり
のいわゆる定寸刀を出品しても全く審査員に相手にされないという
傾向があったことは確かだ。私が高校の頃などは「何でこんなでかい
刀ばかりなの?」という傾向が新作刀には強かった。
また、実用としても居合流派では「長ければ長い程、刀は良い」という
ことを主張する流派が圧倒的な権力を持っていた時代なので、江戸期の
定寸文化などは完全に軽んじられていた。
それは流派の定めとしての長大刀の指定と技法に基づくものではなく、
「でっかいことはいいことだ」的なところで長大刀が好まれていたという
傾向性がかつては強くあった。
ただし、感覚的選択ではなく、流派基準として長大刀を指定選択する流は、
刀の長さ指定は
当然のことだろうと思う。小太刀流派では大太刀ではなく
小太刀を選ぶ
のが当たり前、二刀流派では一刀ではなく二刀を手にする
のが当たり
前、ということと同じように、三尺三寸基準を基本とする流派に
おいては
三尺三寸を選択するのが当たり前なのだ。

それにしても、寸が伸びると曲がり易い。
いくら鍛えた鋼といえども、あれだけ金属を薄くして伸ばしているのが
日本刀だ。
ただ単に折れ曲がりし難くするには断面積を増やして槍のような形に
するしかないのだろうが、それでは刀剣ではなくなってしまう。それらは
槍や鉾になってしまう。

強度問題というものは、本当に難しいと思う。

画像の康宏作「鬼凪」は、注文主の指定寸法通りに造り、注文者本人にも
満足していただいたのだが、かなり分厚い造りとはいえ、硬物を斬ると曲が
るかも知れない。指定寸法とはいえ、曲がったらごみん。
ただ、直紀康宏が言うように「折れるかも」ということについては、私個人は
推測では折れないと思う。試しをしていないので何ともいえないが。
やはりアンコを使わないオール鋼というのは、ある種無駄とも思える贅沢
ではあるが、一つの堅牢性確保のためには寄与している工法ではと思う。
しかもずんべらどうではなく、硬軟の錬り合わせという。
しかし、刃の長さ定寸でナカゴ長さ36センチという注文刀もあり、「ナカゴの
先まで全鋼というのは過剰品質では」とも思ったが、よくよく考えるとそれで
正解のような気も個人的にはしている。
藤安刀匠と町井先生から特別に分けてもらったあの貴重な昔の鋼も、康宏
刀工は玉潰しからの無垢で行くと言ってるし。
私が「貴重な鋼がもったいないから、アンコを入れたら」と親方に言うと、「うち
はそれはやらない」ときっぱりと言われた。普通に甲伏せやまくりや四方詰め
もできるのに、である。あえてきゃん玉潰しからの無垢で行ってる。

長寸刀の強度問題は、今後ひとつの研究課題のように思える。 

ところで、数メートルの刃渡りの刀剣って、どうやって焼き入れしたのだろう。
川や池で?
それに元から先まで均一に焼くのは、やはり田楽だと思うのだが・・・。
というよりも、鍛えるのだけでも、通常のやり方では無理だ。
国宝大太刀を研いだ人間国宝の研ぎ師は、天井から刀身を吊り下げて、
ブランコのように振って研いだという。
超長寸物は、製作においても一般的な技法とは異なるのではなかろうか。



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加筆 ~武用拵のイロハ~

2016年09月13日 | 日本刀




3日前の記事武用拵のイロハに注意書きを加筆しました。
「注意事項を記載しておかないと、真似して目釘穴付近を壊す
者が現れるかもしれない懸念」を読者の方から指摘されました。
この判断はとても正しいと私も思いますので、過去記事に以下
の部分を大幅に
加筆して注意書きを添えました。



(加筆部分)
※重ねて申し上げますが、「決して『鍔が緩んだから切羽を増し入れ
代わりに詰め物をする』のではない」ということです。あくまでも
金属同士の滑りを除去するための先人の工夫であり、紙よりも薄い
薄革を挟むのが本来の手法です。また、増し切羽も、初期設定で太刀の
ようにクリアランスが計算されたもの以外は打刀拵には好ましくあり
ません。
今回日記記事にした金属ずれ止め工夫の
根本のところを捉え違いすると、
緩んだ鍔を固定させるために無理やり
切羽を増して幅を詰めることで、
合っていない目釘穴に目釘を打ち込ん
で柄木を割ったりしかねません。
そうした誤った考え、誤った工作による柄前損傷の事例は多くあります。

鍔自体の緩みは目釘の損傷によって生じることがほとんどの原因であり、
鍔の上下方向ではない横ゆれは、きちんと工人による「責金」を鍔に
設置してやって(あるいは職人による「責鏨」で鍔穴を寄せる)、鍔の
穴が刀身のナカゴにピタリと合うように加工する必要があります。
くどいようですが、「緩んだので詰め物をする」のではないということ
を重々ご承知おきいただきたいと思います。

鍔が音鳴りするほどに緩んでいるのは大変危険です。まず目釘が損傷して
いることが考えられます。
基本的に竹目釘は一度外すとそれを再挿入するものではないということ
をご存知でしょうか?
竹目釘は目釘自体がへこむことによりなかごの目釘穴に食い込んで固定
させるテンションを得ます。
状態により再利用できる竹目釘もありますが、大原則は一回一回柄を
外すごとに交換することです。
鍔緩みを直すのには、まず新しい竹目釘を圧入するようにしてみて
ください。
それで直らなければ、鍔に責金をきちんと入れるか、寄せ鏨を打つ(職人
でないと無理です)か、柄前を作り直すか、柄の目釘穴を鳩目入れで
補修するか等を行なって下さい。
とにかく鍔がカチャカチャと音鳴りしているような武具というものは
存在しませんし、目釘損傷ですので大変危険です。
周囲への安全配慮に充分にご注意ください。


------------------------------------------------------------

「使っていて緩んだから詰め物をする」のではないということを
よくよくご理解いただきたい。
現状、鍔がカチャカチャ音が出ている危険な刀剣をお使いの方は、
周囲の人々への安全確保のために、徹底的に刀を直してください。
お願いいたします。

ずれ止め武用スペーサーは、いわゆるラテックスなどの「ごく薄くん」
製品等を切って使うのが物理的には適しているかと思われるが、さすが
にそれを刀装具に使うのはいかがなものかと(^^;
軍隊においては、陸戦で海から上陸したり、沼地を進軍する際には
それを銃口に被せるんですけどね。あと登山などでも便利なブツで
はありますが、本来の使用法とは異なるので・・・(^^;
まあ、衛生品ではあるのでしょうが、刀に使うのはためらわれる。


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柄巻きの巧拙

2016年09月12日 | 日本刀





柄巻きの巧拙をみる(見る、観る、視る、覗る、すべて)とき、
柄糸が緩みなくビシッときちんと決め処を決めてクスネと菱紙
を使って巻かれていることも大切だが、技術の差は外見
上にも
出るので見逃さないでほしい。

稚拙な技術の者が巻いた柄巻きは、菱の形がガタガタだった
りするので、その時点で「ちゃんと巻けない」ということが
判明するのでアウト。そのような職人には刀は預けないほうが
よい。
菱の形が揃ってないということは、均等な力配分で決め処を
決めていない、つまり巻きのテンションがバラバラという事
が顕在化している柄巻きの仕事だからだ。研ぎでいえば、研ぎ
ムラのようなもの。

江戸期~明治・大正時代の拵の柄巻き師はかなりの腕だ。
過日、刀剣商町井勲氏と古い鑑定書付の時代拵をいくつか
実見する機会があったが、町井氏も私も感心した。
刀身の不充分な仕上げを柄前の作り込みで補っている柄を
いくつも見たからだ。最初、柄だけを見たら金具も後合わせの
不良品かと思えるような作りだったが、それは刀身の欠点を
補うための繊細な作り込みで、刀身に柄を装着したら、すべて
がビタリと決まるような計算されつくした柄前師の仕事だった。
これには唸らされた。昔の職人さんは本当に良い仕事をする。

現代柄での柄巻きでもう一つ見逃せないのが、柄糸の高さと
縁頭金具の水平度だ。
きちんとした仕事ができる柄前師、柄巻き師は、金具との
極端な段差が生じないように柄下地を作り込み、また巻き
糸も合わせてくる。
しかし、いい加減な仕事の柄前師と柄巻き師は、金具と柄糸
のラインがかなり段違いになっていたりする。

自称「伝統工芸家」や、刀職でもない素人なのに「私は拵が
作れる」と称している人たちもこの世界にはいるので注意を
要する。
いくら理屈や理論や理念を説いてもだめだ。職人の世界は
仕事の出来栄えこそがすべてだ。ガッコの勉強ではない。
いくら脳内で浮かんだ理屈や理論で正論を説いても、職人は
仕事ができなければ全く以て100%意味がない。
これは、武術についてもいえることで、いくら口先名人を
自認していても、実際に身に着けた技がしょぼかったら
まるでオハナシにならない。
それと同じ。

刀職と呼ばれる日本刀に関する伝統工芸の仕事に携わる職人
たちの腕の良し悪しは、物理的に実存する手掛けた仕事の
作品なり製品なりに如実に現れるので、非常に厳しい世界
だと思う。
小林康宏もよく言われるけどね。他の刀鍛冶たちに。
「あんなのは刀ではない」と。
確かに姿形が悪かったりする。なかご仕上げなどは、造形
含めて研究の余地は沢山ある。
しかし、康宏自身は他の刀鍛冶のことを貶したり悪く言っ
たりしたことは一度もない。むしろすべての刀工に敬意を
抱いている。
これは刀鍛冶であるなし関係なく、小林直紀の性格性分に
起因するものであると私は知っているが、なぜだか刀鍛冶
には同業他者をこけおろすことによって自分の地位を認めて
もらおうという心にベクトルが傾く人が多い。実に多い。
ま、なんというか、それが職人なのだとしたら、職人てのは
ずいぶんと人間的了見の狭いせこい人間たちばかりなのね
とか思うが、先に直紀の段で述べたように、こうしたものは
職業的な背景は関係がない。人的性格であり、その人の性分
だ。

ただし、仕事は仕事。プロの世界は仕事の結果で勝負する。
きちんとした結果を出すことができずに口先名人、口八丁
達人というのは、ほんなこついただけまっしぇん。


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曲がってしまう刀

2016年09月12日 | 日本刀




某所で、三尺三寸刀の模擬刀がこのように曲がったとの公開報告
を見た。
そして、模擬刀の強度(法ではなく関連政令で定められている)に
ついての緩和を望む、と。

だが、しかし!
衝撃の事実を公開してしまおうと思う。
真剣三尺刀でもこのようになることがあるようです。
私は実見しています。
最初、長い柄の中ぐりの精度がでていなくて斜めに刀身が柄に入って
いるのかと思いましたが、思い起こしても、完成直後はこの
ような状態
になかった。
「どうしてこうなったの?」と尋ねると、
持ち主本人曰く、「横にして
寝かせて置いているから、刀身の重みで曲がった
のでは」とのことだが、
そんなことはあり得ない。鞘に入っているのだし、
鯉口でハバキが固定
されているのだから。

曲りを見るに、棟から見てハバキ元から右に傾いた状態です。そのネット
上で見た模擬刀の曲りとまったく同じ現象。
刀を振る際に刃筋が立っていないからか、はたまた刀身を力止めした
ことによる横ブレ負荷によるものか、原因は分かりませんが、こうなって
しまったという現実は現実として存在します。

長い刀は物理的に支点に高い負荷がかかるのは当然とはいえ・・・。

原因は使い方に問題があるのか、刀身自体の物理的強度の問題なのかは
不明です。

ただ、現実に模擬刀ではない真剣日本刀においても三尺刀の一つの個体
ではこのような
ことが起きています。
結構、私自身は衝撃的。


ちなみに、その熊本県産の新作三尺現代刀は、刃を付けると刃こぼれして
しまうとのことで、モノサシよりも丸く刃先をまんまるに刃引きしてあります。

以前、同人別作では、抜き差ししていると、鞘内にこすれて引っかかり、いつ
の間にか切先が欠け落ちて消滅しているという現象が起きたこともありま
した。

欠けやすいということであるなら刀身は硬いはずなのに、欠けやすいから
刃を作者においてまんまるに落としたという長尺物で刀身の曲りがいつの
間にか生じたというのは、私個人としてはいささかその原因が推測不能。
高硬度かつ粘って折れ欠けし難いという一見矛盾する刀身を小林康宏は
実現していますが、そうした矛盾するようなことが存在するように、逆も
またなんとかで、低硬度で欠け易いという刀身もあるということでしょう
か。
小林康宏の刀が一般概念には該当しない特性があるように、やはり、刀
というものは、柔かいから曲がりやすい、硬いから欠け易いという単純な
ことだけではないのだろうか、と。
とても疑問。
わけわからん・・・。

まあ、日本刀の刀身というものは、板状のフラットな検体ではない複雑な
三次元的な形状になっているので、物理的負荷にどう耐えるかというのは
さまざまなファクターが絡んではくるのでしょうが、作刀の側に立つ視点
からすると、難しい問題です。
長尺物は、ただ単に普通の打ち刀を長くするだけではなく、昔の実在の
大太刀などをもっと多角的に研究する必要があるのではなかろうか。
手元だけ炭素量を増やして強度を増している、とかいうことは・・・それは
ないよね?(^^;
しかし、刀身全体が同じ炭素量だとすると、長い物は支点部分で曲り易く
なるのは当然で、いにしえの刀剣はどうやってそれに対処していたのだ
ろうか・・・。
ただ、戦場においては、モノウチから先の欠損を防ぐために、あえて焚き
火の中に刀身を突っ込んで焼きを甘くしたということも、嘘か本当か判ら
ないが伝わっている。
これは刀身内部で部分的に硬度を変えるということをやることで、折損
を防止したことになる。つまり手元を硬いままで先を軟らかくするという。
となると、長尺物の大太刀などで、元重ねがそれほど厚くない物などは、
予めこうした手元の炭素量のみ高くして・・・という工法が実はあったの
だったりして。ただ失伝しているから不明なだけで。

真相というか根本原因はなぜだか分かりませんが、元から先まで同硬度
の刀身(模擬刀=キャスト素材など)の場合、ある状況下ではハバキ元
から曲りが生じるという現象は現実的にあるようです。
そして、それと全く同じ現象が真剣日本刀でも起きているという事実が
あるのだが、その原因を私は知りたい・・・。

愛媛県の大山祇神社に残されている数メートルの国宝や重文の大太刀
などを見ると、あれ、曲がってないんですよね。
もっとも、極太極厚なのですが。刃こぼれがあるので使用したのでしょう
けど。
日本刀の形状は、ある特定の長さまでは一般的な尋常形状のまま伸びた
ものでも耐えられるが、ある一点を超すと重ねの厚みを増すとか、元身幅
を広くするとか、あるいは目に見えない内部の成分分布を変える工法とか
のことで対処しなければならなくなるということがあったりして、もしか
すると。
しかも日本刀の強度の謎は、単に比例コンパスで計って、相似形で大きく
長くするというだけではなく、車のエンジン出力曲線のようにフラットな線
ではない曲線のような強度特性を示す物だったりしてね。わかりませんが。
とにかく、実在古刀の多くを実見して多角的に、まず少なくとも形状から
詳細に解析しないと、実用長尺新作刀は作れないのではなかろうか。
どうやら、単純に単に長さを伸ばせば事足りるということでもないような、
なにかとんでもない方程式が隠されているように私には思える。

金属としては、構造物の強度は体積の三乗に比例するから、物理的に
絶体量を増やす=日本刀ならば重ねや身幅を増す=ことで強度はアップ
するのであるが、小林康宏のように元幅一寸、元棟重ね5.5ミリ~6ミリ程
の刀身でも斬鉄して刀身に何らダメージのない日本刀も存在する訳で。
また末古刀でも私の長船も元棟重ね6.5ミリで丸太まで斬ってしまうよう
な物もある訳で。
いわゆる尋常体配で強度的には十二分な能力を持つ刀身もある。
こうした物は、形状ではなく質性が強度確保の根本原因であるので、それ
と同じく、長尺物の強度という問題も、やはり刀身内部の質性の問題が
大きく関与してくるのかもしれない。

しかし、それはエンジン性能のフラット線的な見方で、もし日本刀の強度
という問題が、2ストエンジンのようなピーキーな特性曲線を描くもので
あったとしたら、まだ未知な部分が多くあるということになる。
前述した、「ある特定の長さを超える物については、相似形の形状による
大型化だけで解決できる耐性は当てはまらない」という何かがあるのかも
知れない。

これ以上考えあぐねると、頭ハゲそうだからやめとく(^^;
解明のカギは、「温故知新」しかないとは思うけど。
現代刀の圧倒的大多数の潮流としては、幕末新工法を墨守するだけで
それを「伝統」としていて、そういう古刀解明の視点には立たないから、
古来の日本刀全般の全貌の解明は厳しい。
一部の刀工たちだけが各々独自に研究しているだけだし。
あ。また一本髪が・・・。や~んぴ。

 


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得物

2016年09月11日 | 日本刀







判で押したような九寸五分、28.8センチである。
こういう短い刀剣というのが怖いんだよね。

新宮正春の小説に『笑二堪エタリ六十七年』という幕末の剣聖
男谷精一郎を主人公とした作品がある。
小説とはいえ、その中で刀の長さに関する面白い描写があるの
で一部抜粋紹介する。

 刀は、長さ三尺二寸。小柄な小吉が差すには長過ぎ、行き
かう人はみな好奇の目で見たが、当人はいっこうに気にして
いなかった。
 小吉の剣の師匠である子龍こと平山行蔵も、十二、三歳の
子供と間違えられるほどの矮小な体をしているが、その愛刀
は三尺八寸と異様に長い。
 ふつう、差料の定寸は二尺三寸だから、行蔵の刀はそれよ
り優に一尺は長いのだ。道を往くときは、引きずって歩いて
いるようにも見えた。

(中略)

(来たな)
 道場の入り口がざわめき、門弟たちの先導で妻木弁之進が入
ってきた。
「得物は、それか?」
 と、団野真帆斎が精一郎にたずねた。
 低い声である。
「は」
 精一郎は、右脇に置いてある自分の差料を見た。
 黒鞘におさまった二尺三寸の相州物である。
 真帆斎への挨拶もそこそこに、つかつかと道場に足を踏み
入れた弁之進の差料は、これよりやや短い。真帆斎はとっさ
にその長短をみくらべて、精一郎に注意をうながしたに違い
ない。
 直心影流には、刃引きの刀を用いる稽古があるが、道場で
真剣による立ち合いをおこなったことはない。
 --非切
 すなわち、おのれの非を切断することを流儀の要諦とし、
面籠手を頼りにせずに一身を防ぐのを題目とするのが直心影
流である。
 
(中略)

 その真帆斎が、刀のことを口にしたのだ。
(待てよ)
 精一郎は、思案した。

 道場の板壁の刀架には、門弟たちの差料がずらりと並んで
いる。そのなかでもっとも目立つのが、勝小吉の大業物だっ
た。
 精一郎は、三尺二寸もある長大なその刀をじっとみつめ、
「よしっ!」
 と、小さくつぶやいた。

(中略)

 竹刀や木刀での立ち合いならば、打たれて死ぬことはまず
ないが、こと真剣となると、話はまったく違ってくる。
 使う得物も、間合いを大きくとって自分をより安全な位置
におこうとするため、一寸でも二寸でも長いのを使おうとす
る。
「では・・・・・・」
 白い鉢巻きに襷がけですっと道場の中央に出た弁之進が、
端座している精一郎をうながした。
 壁際に居並んでいた直心影流の門弟たちのあいだで、ざ
わめきが起きた。
 精一郎が黒鞘におさまった二尺三寸の相州物を置き、脇差
を手にして立ち向かったからである。
 脇差は長さ一尺七寸。弁之進が携えている大刀より四寸も
短い。
「おのれっ!」
 それを一瞥した弁之進が、思わず罵声をもらした。
「それがし、非力でござりますゆえ、もし立ち合いが長びい
てご迷惑をかけても、と思いまして・・・・・」
 精一郎は弁解したが、愚弄されたと思ったらしい弁之進は、
「立ち合いが長びくとの心配は無用!」
 と、さっと抜刀した。
 精一郎も、脇差を構えた。
 互いに間合いをはかって動かず、長い沈黙が道場を支配し
た。
 その沈黙を破ったのが弁之進だった。
「おうっ!」
 すさまじい気合いとともに、体を大きく前傾させて鋭い打
ち込みを精一郎にくれた。
 チッ--。
 青白い火花が散った。
 同時に精一郎の脇差がきらりと閃いた。
「そこまで・・・・・」
と、正面の席から真帆斎が声を発した。
「・・・・・・ただいまの勝負、相打ちと見た。互いに剣をひくよう
に・・・・・・」
 その声で、弁之進は肩で大きく息をつき、席に戻った。
 着物の左側が襦袢の裏地まで四寸ほどすぱっと切り裂かれ
ていて、白い薄綿の中身が表にはみだしていた。
 中断からの弁之進の打ち込みは、精一郎の鍔を鳴らし、青
白い火花を散らしただけで終わったが、精一郎の技は受け止
めただけでは終わらなかった。
 そのまま目にもとまらぬ迅さで短い刀身を横に滑らせ、弁之
進の左胴を払ったのである。切っ先は正確に着物の下の襦袢
の裏地まで届き、肌を傷つけることはなかった。

(中略)

 いま試みた捨て身の技は、じつは平山行蔵の道場で体得し
たものだった。
「それ剣術とは敵を殺伐することなり」を信条とする行蔵は、
門弟に一尺三寸という特性の短い竹刀を持たせ、三尺三寸の
竹刀を持った相手に向かわせるという荒稽古をさせた。
 短い竹刀を小脇に構えて突進する精一郎を、長大な竹刀で
あしらって相手をしてくれたのが小吉だった。
 行蔵の道場にいたのは一年あまりでしかなかったが、その
稽古でつかんだ捨て身技の足の運び、手首のひねりなどはい
まだに精一郎の体に刻みこまれていた。


剣術も柔術と同じく「柔をよく剛を制す」という面は多分にある
と私は思う。
平山行蔵という人は、あと50年遅く生まれていたら、あるいは
数百年早かったら、というような武を中心として行住坐臥生きた
人で当時の時代には即さなかった武士だったが、武の本質を突
いた人でもあった。
広島藩三原城下に伝承された藩伝の剣術「信抜流(しんぬきりゅ
う)」も平山行蔵が修めた「心貫流」と同派同系であり、新陰流の
系譜の中にあり、始祖は新陰流から出たタイ捨流の奥山左衛門
太夫とされている。その後、豊後出身の永山大学が心貫流を以っ
て広島藩士として備後三原城主に仕えるも、すでに広島藩には
片山伯耆流系の心貫流という名の流派があったため、同名を憚っ
て信抜流と流名を改めて広島藩に伝えたとされる。(但し、シンカゲ
流からシンヌキ流に名称を変更したのは、永山の数代前の長尾
美作守からとの説もあり)
広島藩伝信抜流は現在も広島県内にて藩伝宗家筋直伝流派と
して伝承されている(しかし、これを亜流傍系であると異を唱える
信抜流別派もあり。真相不明。先代宗家派は、1970年大阪万博
の際に門弟80名を引き連れて大阪にて公開演武をした)。
三原藩伝信抜流も、防具として網笠を頭から背にかけて背負い、
木刀で相手に叩かせながらも小剣を手にひたすら突進して敵を
刺突するという稽古を江戸期には行なっていた。(現在失伝。
残存は居合形のみ)
ただ、三原信抜流においては一種変わった剣術観を教え伝えて
いた。それは「槍は切る物、刀は突く物」という一般概念を逆転さ
せた剣理を説いていたのである。三原信抜流居合剣法は、現在
も鍵槍を使う佐分利流槍術を別科目として併伝併習することが
本筋とされている。(併伝の鎖鎌、長巻、太刀打ちは失伝)
江戸派の平山行蔵の心貫流は忠孝心貫流と名を変え、さらに講
武実用流と名を変えた。平山心貫流では「できるだけ長い刀を使
え」との教えで、皆が三尺以上の刀を使用していたようだ。
しかし、三原藩伝信抜流では江戸派とは逆の現象がみられ、三原
城代であった家老戸田勝壽(千石。子孫は後年社会党から出馬、
三原市長)の差料は短い刀だった。戸田家が信抜流を相伝してい
たが、彼の差料は二尺二寸、重ね三分、銘は「備後三原住田中
源正秀 天保八年君命作之於其邸中」という一刀が現存している。
三原の武士は二尺二寸程の差料を帯びる者が多かったようだ。

けだし、「これは何が何でもこうである。こういう物である」という
視野狭窄の自己満足に基づく固定概念は死に直結するという
実戦時代の哲学を体現しているように私は感じる。
宮本武蔵も説く。刀の長短等には捉われるな、居着くな、考えを
柔軟に持て、と。
生死をかけた争闘においては、自己満足、自画自賛の驕りと固定
概念こそが死を招く。
「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」と言ったのは映画監督
の黒澤明だが、繊細できめ細かい注意力と大胆で勇猛な決断力を
併せ持たないと死地においては生還できない。

刀は「長いから有利⇔不利」「短いから有利⇔不利」という一面的
なステレオ的な判断では推し量れない。固執は死への近道切符だ。
ただ、私自身の経験則上の判断としては、短い得物を手にする者に
ついては、相当に警戒するし、かなりの脅威と思っている。
これは、判る者にしか解り得ない世界の事柄ではあるのだが。

但し、小説は小説であり物語である。
脇差一尺七寸はかなり長い。目の前にある家に残された先祖の
ごつい差料を見てそう思う。備中水田住山城大掾源国重二尺二
寸の大刀のほうではなく、脇差である。差し副え=切腹用などと
いう概念は一瞥すればすっ飛ぶ。
明らかに戦闘用のサブウエポンであることが読み取れる。
この小説のこの部分は、刀の長さそのものよりも、別なことを表現
したものであろう。

(家伝脇差一尺七寸強)


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御国拵(おくにこしらえ)

2016年09月10日 | 日本刀



これは庄内鎺(はばき)でしょうかね。
こうした御国拵(おくにこしらえ)の文化が残っている藩は
いいなぁと思う。
ほんまに広島浅野家中には御国拵がないのざますかねい?
紀州新宮から安芸備後入りだから、紀州の何か残っていても
よさそうなものなのだが・・・



お!
この肥後鎺みたいなの、持ってるよ!


下手な工作だなぁ、下作というものかね、とか思ってたら、
ぬぁんととても手の込んだ二重鎺という作り込み。


もう少し丁寧に造れないものかと思ったりもするが、まあなんというか
肥後鎺の時代コピーなのかも知れない。
ただ、見て判るように、材質はめちゃくちゃ良い物を使っている。
切羽も、「捨てちゃ駄目だよ、こいつは金だぜ」という奴ね。

安芸広島藩に無いものは無いでしかたない。
ねつ造する訳にはいかない。「実は当藩では、これが伝わっています」
なんてことをでっち上げて世間に喧伝するのは犯罪的行為だからだ。
そういうことしちゃ駄目。

ちなみにこの肥後風鎺の一刀は広島県登録である。


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武用拵のイロハ

2016年09月10日 | 日本刀



使うたびに柄糸を濡れ手ぬぐいで汚れをこすり落としていたら和染色が
剥げてだんだん白っぽくなってきた「時代黒」色の正絹柄巻き。
強度を考えて鮫皮は一枚巻きにしてある。
また、武用刀身であるので、柄頭付近までナカゴの長さがあり、これは
柄折損防止のために両手を寄せて柄握りをする剣術メソッドでなくとも
両手離しの剣法でも使える柄仕様となっている。
柄糸の染色が水拭きのたびに落ちて薄灰色系に白っぽくなってきたこと
を諦めてはいたが、
これはこれで遣い手が帯びていた時代拵のようで
いいなと思えるように
なってきた。
まるで『壬生義士伝』の吉村貫一郎のように(笑

吉村貫一郎の柄は千切れた柄糸を麻紐で縛り上げて補修だけどね(^^;




それと、今回も鐔の緩みを予め押さえるために、ボール紙を黒く
塗ってスペーサーとした。金属切羽の厚みは1.0ミリだ。

鉄目釘を固く打ち込み、ギチギチに固定した。
鍔・金具類は
ガチガチに締め付けられ、一切微動だに動かない。
無論、柄の中で刀身が遊ぶようなことも全くない。
目釘を打ち込む時の音はキンキンキンと金属音が響く。雑にでは
なくゆっくりと丁寧に打ち込む。ただの鉄目釘ではない。ライフル
が切ってあって、刀身に食い込むようになっている完全武用仕様の
日本刀探究舎鍛人(かぬち)の特製鉄目釘なのである。
これは一般使用はおすすめしない。あくまで康宏用だ。理由は刀身
との相性による。他の刀剣で使用すると斬りつけの衝撃で刀身を
傷めることがある。
康宏拵1stバージョンの山桜製の柄にもこの鍛人製鉄目釘を使用した
が、万余という太刀数で試斬すれども、一度たりとも柄や鍔金具が
緩んだことはなかった。つまり、目釘穴ずれは一切生じていない。


これは鍛人製鉄目釘ではなく、私の自作鉄目釘。旋盤を用い計算された
精密なテーパーで削り出した。
さらに、
ただのライフリングではつまらないので、逆方向のテンション
にも
緩みが生じないように噛み込みができる工夫と同時に、そこに「美」
を投入した。特製鏨によって竹の意匠を彫りと切りで表現したのである。
この後、防錆のための黒錆付けを施して、製作依頼者に出荷した。
(一般非売品。刀工康宏さえも竹目釘を推奨しています)



このスペーサーを噛ませて切羽と縁金具および鍔に食い込ませて固く
固定させる方法は、古来の
武人は薄革を切って挿し込んで締め上げる
ようにして行なっていた。

ただし、現代の輸入皮革は、輸入の段階でとんでもない塩漬けにして
持ち込まれるので、どんなに鞣しても接触した鉄部は錆を誘発する。
ナイフなどでナイフ
本体と革シースを必ず別に保管するのが刃物所持者
の嗜みであるのは、
たとえステンレス素材のナイフでもステンレス鋼が
鋼である限り、ナイフをシースに入れっぱなしのまま
だと必ず錆が発生
するからだ。
ナイフ愛好家にナイフをシースに入れた
ままで保管する者はいない。
それは心得知らずなことであるからだ。


それでも、私が居合を始めた平成元年頃は薄革でスペーサーを作ることを
教わった。先輩方の中には、どこでそれを仕入れるのか、紙のように薄い
鹿革をスペーサーにしている方もいらした。

それは昔ながらの刀剣武具メンテであり、調律という意味でのチューンの
ノウハウだったことだろう。武具万全を期す武人の心得としてそれはあっ
た。
(このことから私は鯉口くんを思いついたのだが)
だが、私はずっと厚紙(しかも質を限定)を使用するようにしている。
理由は出錆
防止のためだ。中には同様にハガキをスペーサーとするように
薦める先生もいらした。
また、この古来からある金具固定のスペーサーには、現在ではごく薄い硬質
ゴムを使用する人もいる。
これも手だろうと思う。ギューッと固く薄革のように押さえつけられて金具
固定化に一役も二役も買うことだろう。

大切なのは、「緩んだから詰め物としてスペーサーを入れるのではなく、
緩む
ことを防止するために、締め固めるように予めスペーサーを入れる」
いうことである。


ナイフの場合、ブレード本体とハンドルや金属パーツとの間などに専用に
作られたカーボン紙を挟んで締め付けて接着させることがある。
これの理由は、金属同士をいくら固く締めつけても摩擦係数の問題から
スベリが生じるからだ。スベリは緩みに繋がる。だからカーボン紙を間に
入れて圧着させることで一切緩まないようにする。
日本刀の金属面の圧着もまったく同じ現象がある。
そのため古来から武用刀剣は薄革で切羽等の圧着が行なわれ、隙間が
ある場合は押圧(おうあつ)によって圧着できる経木などが使用された
のだ。
さらに上質の切羽などは、金着せや銀着せによって銅地よりも「へこむ」
ことによって圧着の完遂が成される工夫がされた。時代物の切羽などに
ハバキ等の形で押圧痕が強く残っているのはそのためである。へこませて
沈み変形することにより、より一層圧着させて固定度を増すという工夫が
なされていたのである。金着せや銀着せはただの伊達技法ではない。


こうしたちょっとした武具のメンテ等も「口伝」の類なので、本当に伝承
された
者たちだけしか知らないことだ。
「実は当流では・・・」などという毎度の後出しジャンケンでいくらブログ
サイト記事を盗用や剽窃で書き替えても無駄なこと。
本物の武芸ノウハウは武技そのものまで含めて本物系にしか伝承しては
いない。コスプレサークルにはこうした伝承は存在しない。
ただし、今から「新作創作物です」という正しい認識に自ら立つならば、
から未来に向けては歴史を刻むことが開始される。
それはそこには嘘は
ない。
一応、このスペーサーの件も、礼によって「実は当流では・・・」が始まる
前にここに書いておく。結構これまで様々なことを盗用・剽窃されてきたが。
(だが、面妖なねつ造流派はいつも鍔大緩みのまま激しいカチャカチャ音を
させて演技しているので、こういう本物の武人が伝え残した武具手入れの
教えなど端から存在しないことだろう。鍔カチャカチャの伝統古流などは
この世には存在しない。ましてガム食いながら一礼もなく道場入場の宗家
など本物には存在しない)

本当の戦闘武器としての柄巻きは、たとえ上からの補強巻きであるにせよ
真田紐などが最適なのだが、現在、真田紐を柄巻きにする人はほとんど
いない。
それでも、武具としてあった真田紐は茶器の桐箱の結び紐として現代の
世においても生きている。
伝統は形を変えてでも生き残る。それはそこに現実に存在した物だからだ。
存在しない物は伝承などされない。
平成時代に私が発明した「鯉口くん」のことを江戸時代から存在した物
です、などと私が言ったら、これは大嘘になる。
少なくとも、そういうことは私はしない。

※重ねて申し上げますが、「決して『鍔が緩んだから切羽を増し入れ
代わりに詰め物をする』のではない」ということです。あくまでも
金属同士の滑りを除去するための先人の工夫であり、紙よりも薄い
薄革を挟むのが本来の手法です。また、増し切羽も、初期設定で太刀の
ようにクリアランスが計算されたもの以外は打刀拵には好ましくあり
ません。
今回日記記事にした金属ずれ止め工夫の
根本のところを捉え違いすると、
緩んだ鍔を固定させるために無理やり
切羽を増して幅を詰めることで、
合っていない目釘穴に目釘を打ち込ん
で柄木を割ったりしかねません。
そうした誤った考え、誤った工作による柄前損傷の事例は多くあります。

鍔自体の緩みは目釘の損傷によって生じることがほとんどの原因であり、
鍔の上下方向ではない横ゆれは、きちんと工人による「責金」を鍔に
設置してやって(あるいは職人による「責鏨」で鍔穴を寄せる)、鍔の
穴が刀身のナカゴにピタリと合うように加工する必要があります。
くどいようですが、「緩んだので詰め物をする」のではないということ
を重々ご承知おきいただきたいと思います。

鍔が音鳴りするほどに緩んでいるのは大変危険です。まず目釘が損傷して
いることが考えられます。
基本的に竹目釘は一度外すとそれを再挿入するものではないということ
をご存知でしょうか?
竹目釘は目釘自体がへこむことによりなかごの目釘穴に食い込んで固定
させるテンションを得ます。
状態により再利用できる竹目釘もありますが、大原則は一回一回柄を
外すごとに交換することです。
鍔緩みを直すのには、まず新しい竹目釘を圧入するようにしてみて
ください。
それで直らなければ、鍔に責金をきちんと入れるか、寄せ鏨を打つ(職人
でないと無理です)か、柄前を作り直すか、柄の目釘穴を鳩目入れで
補修するか等を行なって下さい。
とにかく鍔がカチャカチャと音鳴りしているような武具というものは
存在しませんし、目釘損傷ですので大変危険です。
周囲への安全配慮に充分にご注意ください。


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梅の心に生きる

2016年09月10日 | 日本刀



刀工康宏友の会の游雲会メンバーで歳の離れた後輩は、今後
梅の意匠の刀装具を集めて行くらしい。
そうした特化蝟集もおもしろいかも知れない。私がピースメーカー
を50丁以上持っているように(笑)。


ここでも奇縁を知る。(私の場合、このケースが多いのだが)
游雲会の後輩が高校の剣道部の時、指導にあたっていた教師は
私の同級生の友人だったのである。
しかも、私とその友人は、ただのただ友ということではなく、バイク
の扱いについて母校の歴史を一変させ
たある歴史的事件を起こし
ていた。(表に出ない歴史なのだが、実は本当は男の友情という
いい話ではある。しかし、その友情ゆえに、友はとても苦悩したよう
だ)

その後の幾多の後輩たちにはガラリと母校の体制が変わったきっ
かけを作ってしまったことを申し訳なく思うが、折をみてぽつ
ぽつと
つづっていきたいと思う。

事件に関連して、別なクラスメートの親友は母校を退学して都立
に転校したが、その後、国際A級ライダーとなり、イギリスのマン
島を走った。これはポニーキャニオンから記録ビデオも出ていた。
この親友が退学になった根本原因を作ったのも、私とその剣道
の友人が遭遇した事件がきっかけだった。

申し訳なく思うが、時の運というものもあり、遺憾に思う。


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鍔変更 ~梅づくし~

2016年09月09日 | 日本刀



康宏の鍔を替えてみた。

透かしは梅桜。碁石形の中高鍔だ。鉄味が結構良い。




結構渋い。厚みは従前装着していた鐔と同じだが、碁石形のため
外周に向けて肉が削がれているからか、鞘払いが5グラム程軽く
なった。


ポン着けではなく、責めタガネが結構せっていたので、それを
康宏の刀身に合わせてダイヤモンドヤスリでかなり削ってビタッ
と鍔とナカゴが合うように加工した。緩みなし。

それと、この拵の切羽は、縁金具に合わせた大きさで誂えた物
なので、スッキリとまとまっている。康宏第二工房である日本刀
探究舎鍛人(かぬち)製の切羽だ。


左の水戸鍔は保存モードに移行である。水戸といえば梅だから、
これでも別段おかしくはなかったのだが、思うところあり、私の
康宏はザ・武用!というような
梅桜透かしの鉄鐔に交換した。


梅に鶴なら林逋梅妻鶴子の図となり、勝手気ままな独り身の自由人
というような図案にもできるが、柄金具が20年前にすでに梅づくしで
まとめてあるので、後から合わせる鍔の画題には結構悩む。
一応、梅華で魁を表し、梅に添える桜花の透かしで季節の移り目と
潔さの心を表現してみた。

冠鍔さん、おつかれさま。


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国宝 厚藤四郎 ~粟田口吉光~

2016年09月08日 | 日本刀


銘 吉光(粟田口)

五郎入道正宗、郷義弘と並ぶ天下三作のうちの一人、
粟田口藤四郎吉光の鎧通し、国宝である。
この天下の名作は、数奇な運命を経てきたが、その詳細
については他の方の筆に譲る。


意外と知られていないだろう事実がある。
画像でも確認できるが、差し裏、なかご尻寄りにもう
一つ目釘穴があけられている。だが表側は塞がっている。
また、上側に目釘穴が二つあるのは、製作後の後代の
いつの時代かに、磨り上げのため若しくは拵に合わせて
あけられたものだ。こうした例は非常に多くある。
昔は、いくら名品といえども、刀身のみで観賞などしない。
刀剣は必ず拵に入っていた。白鞘でさえ普及したのは明治
以降である。刀身は拵鞘に入れられて保管されていた。
そして、それほどなかごを加工することについては躊躇も
なかったのだろう。大磨り上げ物が多いことがそれを説明
している。

さて、厚藤四郎については「あつ」という読みと「あつし」
という読みがあるとされるが、享保名物帳その他の古剣書
などでは「安徒」などと記載され、「あつ」であったこと
が読み取れる。
そして、棟の形状は現物を見るかしか確認のしようがないが、
世の中「押形(おしがた)」という便利なものがある。
これは日本独自の刀剣文化の中に生きる記録を残すための
先人の知恵だ。
現在のように石華墨で擦ってなかごを拓本で写し取るように
なったのは意外と歴史が浅く、幕末からである。それまでは、
刀を横において、筆で写し描いてきた。刀身の刃文や状態も
写し描くようになったのは安土桃山時代からとされている。

さて、この厚藤四郎の棟の形はいかなるものか。



正解は三つ棟だ。
しかも、押形というのは刀身の表裏だけでなく、棟側からの
押形も重要であり、これにより棟やなかごの形状も記録とし
て後世に残し伝えることができる。
この国宝厚藤四郎は、なかごの断面がまるでどら焼きを横から
見たような形状をしていることが押形により判断できる。
刀剣を学ぶには、手に取って見ることができた刀剣は許可が
得られれば出来うる限り押形を取れ、と先人たちが言い残して
いるが、それは、形状の記録というだけでなく、刀身の刃文等
は安土桃山時代と同じく写し描かなければならないので、刀剣
をよく見ることになるので勉強になるからだ。
だから、刀剣を見たら、可能であるならば押形を取ることが
望ましい。

鎧通しという、太刀・刀よりも純粋に殺傷武器として世に生ま
れた日本刀。それが国宝になっている。
もっとも、刀とは、太刀が短くなったものではなく、サスガと
いう刺突武器がやがて鎧通しになり、それの寸がのびてのちに
刀となったのである。太刀とは発達のツリーが別系統なのだ。
つまり、鎌倉期に作られたこの鎧通しからやがて打刀(うち
がたな)が発生していくことになる。刀剣進化論の如し。
この厚藤四郎は刺突用であるので重ねが1.2センチ程で極めて
厚い。まさに武器だ。

だが、地鉄は粟田口吉光独特の精緻につんだ非常に美しい肌を
している。まるで肌がとてもきめ細かい素肌美人のようだ。
私が一番好きな日本刀の地肌が京の粟田口の作なのであるが、
とりわけ、吉光の吸い込まれるような美しい地鉄は見つめれば
見つめるほど引き込まれてしまう、名状しがたい感動を覚える。
ガラス越しにでも、私は数時間眺めていられるように思う。
国宝展など観に行くと、友人同行の場合は相方に気を使うが、
それでも6時間位は見続ける。女性にはウケが悪い。ずっと刀の
前から離れないからだ(苦笑)。
厚籐四郎。名に恥じない名品、国宝にふさわしい一作だと私は
素直に感じている。

この厚籐四郎は、展示機会があれば東京国立博物館で実物を
観ることができる。


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