渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『オイディプスの刃(やいば)』

2014年03月31日 | 映画・ドラマ・コミック



昨日、映画『オイディプスの刃』を観た。
人間の愛憎めぐる精神世界が一口の日本刀を介して展開する。

私はこれはと思う映画は何度でも観る。小説も何度でも読む。
映画『ハスラー』などはビデオが擦り切れるくらい観たし、DVDでも数限りなく観た。
台詞のほとんどを覚えてしまったほどだ。多分、25年間で100回は軽く観ていると
思う。(年間4回以上は確実に観ているので100回では収まらない)
だが、私が私的には地球上の全映画作品の中で一番と感じている
黒澤明
『七人の侍』はそれほど観ていない。30回も観ていないのではなかろうか。


『オイディプスの刃』は赤江瀑の原作である。
文学とはこれのことだろう。

映画『オイディプスの刃』レビュー(2007年1月28日)

小説『オイディプスの刃』レビュー(2007年7月3日)

映画『オイディプスの刃』に関して、刀の研ぎについての雑感(2011年12月21日)


映画『オイディプスの刃』において、オープニング間際に刀掛けに抜き身で

飾られている刀身は明らかに関物の近代軍刀刀身であり、「名刀」では
ないのだが、「この作品にふさわしくない」などという野暮な突っ込みをする
ことは避けたい。
また、大迫家の三男の少年が瀬戸内の海に面した大邸宅の庭で居合を抜いて
いるシーンも、見る者が見たらてんで居合になっていないということも解るが、
そうしたところを突っ込む類の映画でもない。
作中では実際に南北朝時代の古刀に見えるような作を何口か撮影に使って
いた。障子を叩っ斬るシーンやラストのシーンにもその古名刀を使ったのでは
なかろうかというような刀身の形状だった。
日本刀を観る場合、まず最初に「姿」を見る。姿によって時代が凡そ特定でき、
その後鉄味を観て街道筋を絞り込み、流派一門を絞り込み、細かい作柄から
刀工個人を特定していくのである。
この映画は、最初に出てきた関物以外は、それとなく南北朝時代の刀らしき
ように撮影されており、芸が細かい。
三島由紀夫亡き後の
三島系文学に触れたい方は、ぜひ映画『オイディプスの刃』を
ご覧になり、
赤江の原作もお読みになることをおすすめする。


この記事をはてなブックマークに追加

映画『プラチナデータ』 原作:東野圭吾

2014年03月23日 | 映画・ドラマ・コミック



「人間の未来を決めるのはDNAではない。本人の意思だ。大切なことに
気付かせてくれた・・・。」

面白かった。
原作は東野圭吾だ。
江戸川乱歩賞を同時受賞したもう一名の現在匿名の陰に隠れて他人の悪口と
名誉棄損と差別発言とを己の脳内の憤怒に支えられてまき散らしている、ただ
あとは死に
ゆくだけの日本刀の周辺でうろうろして呪詛を呟いている忌まわしい
男とは雲泥の差だ。

さて、悔し紛れにまた俺の悪口でも書くかな?(笑
みみっちい人間にできることは、せいぜいそうした排泄行為のみ。
もはやモノカキでさえもない。
待つのは死だけだ。誰も本気で相手になどしない。
心おきなく消えて行くがよい。


この記事をはてなブックマークに追加

眠狂四郎の夢想正宗

2014年03月20日 | 映画・ドラマ・コミック


この拵(こしらえ。別名「ツクリ」)がめちゃくちゃカッコ良くてさあ。
中学生の時には柴田錬三郎先生の原作を読みふけった。
そして雷ちゃんの狂四郎でキマリだった。
この拵にあこがれて、1990年代の一時期、似た仕様の刀を
居合で使っていた。

今思うと、なんというミーハーな(笑

若気の至り、まったく赤面もので、穴があったら入りたい。
なぜ、眠狂四郎の差し料と居合に興味を持ったかというと、
実は小学生の時に観たこの狂四郎のシーンが忘れられなかった
からだ。
権力にもひれ伏さない狂四郎のハードボイルドさにも、幼いながらに
俺は心惹かれた。


『眠狂四郎 円月斬り』(1964)


音声解説の外人さん、「夢想正宗」というの発音できてないよ(苦笑
「ムソウ マサルミェ」になってます(^^;

こちら映画の中での狂四郎の差し料「夢想正宗」。


撮影には何セットか同仕様が用意されたが、これはその一つ。
このページ一番上の画像の個体と同じ物と思われる。


こちらは別の個体。柄の鮫皮が黒塗りになっています。


これは何故かというと、『眠狂四郎 無頼剣』(1966)で、江戸市中
焼き打ちによる幕府武力転覆を図ろうとする強敵の愛染(天地茂)と
対決する伝説の名シーンでの演出のためです。


月夜の江戸市街の屋根の上で、眠り狂四郎は黒、対する幕府転覆による
世直しを主張する愛染は白を基調としてそのコントラストを描いています。

暴力的幕府転覆による世直しを主張する愛染(あいぜん)は一見正義の
使者のように見えるような白装束で描き、柄の鮫巻きも白、装束も白。
対する反骨のニヒリストのダーティーヒーローである眠狂四郎は黒を身に
まとっています。
しかし、燃え盛る江戸市中の炎を指して「見たか」と叫ぶ愛染に狂四郎は
言います。
「城も焼け。大名屋敷、問屋、札差、焼きたくば焼け。
ただ、罪咎もなく、焼き立てられて住むに家なく、食うにあしたのたつきも
絶えた八十万庶民をなんとするのだ。
主義が、主張がどうであろうと、この暴挙は、愛染、許されんぞ」
ダーティーヒーローのように生きる眠狂四郎は、民衆を苦しめる者や権力に
対してこそ命をかけて抗しても、庶民の命をないがしろにすることは決して
しない。
これは作品が作られた1960年代の時代なりの正義だと思います。
今の時代は、お上にひれ伏して優等生ぶることが美徳のように勘違いして
いる人間だらけの欺瞞的な時代になったからね(苦笑
つまらん説教たれの年寄りのみならず、若者たちさえもが弱者を踏みにじる
ことに手を貸して、それで自分は「勝ち組」だなどと思いこもうとしている。
人に対する差別心を煽ることをしながら論を展開したりする。恥を知れと人に
言いつつ自分はその言質の中で恥知らずな発言を為しながらそれを言ったり
して平気の平左を決め込む。己の不明に刃は向かない。
本当にくだらん時代が来たものだと思う。

『眠り狂四郎 無頼剣』では、この屋根上での対決シーンの時、黒色に身を包む
眠狂四郎こそが真の白く輝く光明であり、白装束をまとって正義を主張する愛染
こそがダークであることが逆説的にあぶり出される。
この名シーンでの対決は、その「明暗の逆転」を際立たせるために、月夜の
ほのかな光に反射しないように、あえて眠狂四郎の柄の鮫は黒く染めた
小道具の刀の拵を撮影に使用しているのである。
こういう細かい演出は実にニクい。最近の時代劇の撮影では見ないよ、こういう
視覚効果プラス含みを持たせた凝った演出は。


そして、「円月殺法対円月殺法」というとてつもない展開になる。
この二人は似ているが実は非なるもの、しかしそれは表裏一体で
あることを表している。




これはこの6年後の「仮面ライダー vs ショッカーライダー」の対決を彷彿させる
演出のような・・・(んなこたぁない)。
しかし、何が正義で何が悪か、見た目や表面上の言説では単純に量れないの
だよ、ということをこの狂四郎シリーズ中の名作とされる『無頼剣』では描いている
と思われる。
撮影秘話としては、愛染役の天地茂さんが雷蔵を食いまくりで、雷蔵先生が
「どちらが主役だかわからん」と撮影所でオカンムリになったという逸話つき
ですけど(笑
天地茂さんが20世紀のコルトのリボルバーを劇中で使っていたのはご愛嬌と
いうところでしょうか。
もっと凄いのは、『眠狂四郎』の別な作品で、徒手空拳を使う若山富三郎さんが
眠狂四郎に言っちゃいます。
「狂四郎。おぬしの円月殺法と俺の少林寺剣法、どちらが強いか勝負だ」
(少林寺拳法は昭和の時代に生まれたものです)

昔の文芸や映像作品を観る時、時代の流れの中で何が失われたのか、何が
活き活きと生きていたのか、今のような世の中だからこそ何を残すべきなのかを
胸に手をあてて現代人は考える必要があると思う。
(という言わずもがなは好きではないのだけど。スッパーンと言っちゃうと、ウダウダと
権力にひれ伏したり金儲けることばかりに心とらわれてないで、若者も年寄りも、
ドタマ持ってるならてめえの頭でちったあ考えろよ、つー感じ)


眠狂四郎役はドラマでの田村正和さんも良かったが、田村さんは
カイナゲモンドの役のほうがピッタリだったように思える。
市川雷蔵の眠狂四郎が最高にカコイイ。


この記事をはてなブックマークに追加

テレ朝開局55周年記念番組『宮本武蔵』 後編

2014年03月18日 | 映画・ドラマ・コミック



さて、期待した『宮本武蔵 後編』(3月16日放送分)について語ろうか。

う~ん・・・とですね・・・ ×

それ以外には言いようがない。
この世に存在するすべての「宮本武蔵」物の中で最低だった。
あれほどひどい巌流島での決闘も見たことがない。
ある意味すごいね。こんな作品を世に出せることが。
製作者の自己満足の自慰行為なのでしょうか。

しかたないから、せめて(あり得ないけど)エンターテイメントと
してどうにか見られる部分を前編から上にキャプチャリングしておく。
スローで見ると、撮影用に最初から切ってつないだ太竹をうまく
分からないように画像処理していた。
ただし、キムタクが切って切って切りまくって「未熟者~」と叫び崩れた
その周りには、切った数より少ない竹(笑
こういうところがいい加減なんだよなぁ。
太刀筋と切り終えた竹の切り口を合わせていたのはなかなかだけど、
1本足りないよ(笑
そして、これだけ太い竹の真横切りは
絶対にできないけどね(苦笑

嘘だと思うならやってみればいい。というかやらないでね。刀壊すから。


しかし、柳生石舟斎どのならば一刀のもとに切断できるかもしれない。
なぜならば、柳生の里には「一刀石」なる石舟斎どのが両断したという
伝説の石が存在するからだ。

これ。


切った刀はこれだそうだ。三原正家。

柳生石舟斎が一刀の下に大石を両断し、天狗とこれで剣術をし、これを引き継いだ
石舟斎の五男柳生宗矩は徳川家康のそばに仕えて関ヶ原で家康を急襲した5人の
襲撃者を一呼吸で斬り伏せたという。

だけど、一刀石って、どれくらいの大きさかというと、こんくらい。
でっけぇ~!

石舟斎さん、最後のほう、刃筋は立っているが、刃波が狂ってるね(笑

というか、大風呂敷の法螺伝説も、ここまででかいと気持ちがよい。

少し真面目な話をすると、(柳生)新陰流は物凄く剣技の学習
プログラムが整備された剣術流派です。学べば学ぶほど深さが
分かります。
私は新陰流と二天一流の両方を少々学んだことがあります。
一方、武蔵の二天一流は、学習プログラムよりも、かなり他流派を
研究しつくした上に「エッセンス」というか要諦のみを濃縮させて
完成されているような流派です。

それにしても、キムタクのあの前かがみのへっぴり腰はどうにか
ならんもんか・・・。
多少なりとも指導者に就いて「ズータンヘッタイ」を学んだほうが
よかったと思うよ。
柳生の剣は「運剣の妙」であり、武蔵の剣は「体転の妙」であるの
だから。
ただ、武蔵は暗に柳生の剣を自書で批判しているね。太刀数が
多すぎる、と。
柳生の剣も武蔵の剣も、共通するのは、前かがみのへっぴり腰は
ありまへんえ、ということ。これは武蔵も自書に書いているし、二天
一流にもその体さばきが残されている。
柳生や一刀流は「合撃(がっし)」や「切落」を究極の奥義として
持ってきているが、武蔵流は「指先(さっせん)」という極意をまず
一番初めに持ってきている。これなどは武蔵の剣の究極だからね。
習うと分かるよ。冷や汗ものの恐ろしい剣だということが。
昔、ある物斬りの大会の自由業のカテゴリーの時に、私が「あしたの
ジョー」のような武蔵の両手ぶらり戦法で「静」の状態から「指先」で
ズバッと畳表を刺し貫いた。本来はカウンター技なのだけど、畳表は
静止物体だから、本当の対敵剣技の業前ではないのだけどね。
しかし、審判や観戦者には何がなんだか分からなかったみたい。
「迫力がない」なんて妙なことを後で言われたよ。物斬り流派や一般
居合人は他流を知ろうとしない人が多いからね。
まあ、それを知っているから、こちらは「あら、そう」で聞き流したけど。
唯一理解していたのは審判長だけだったみたい。
その方は、後日私に「二天一流も習ったの?」と訊いていた。
一時期、「指先」で2センチくらいの的を体転しながら体が崩れずに
刺し貫くことばかり稽古していた。自分の流派の道場ではできない
から、別な場所で。
この業はですね、現代ミリタリー・マーシャルアーツのある業にとても
似ていてですね、本当に必殺技のように思えます。マーシャルアーツ
のほうは、後頭部を地面に叩きつけて砕くんだけどね。まあ、なんと
いうか、死にますわ。これは防護設備がない所での一般訓練禁止だし。

あとね~。
キムタクが屋外なのに剣道のようなすり足の継ぎ足で攻めていたのは、
いやはやいただけなかった。
殺陣師は一体どんな仕事をしとるのか!(笑
柳生流も武蔵流も基本は屋外試合での「歩み足」だよ(苦笑
「すり足」というのも、現代剣道や居合人は理解してないしね。
現代人は親指側を床にすると思っている。
違うって。板の間ではかかとは浮かさず親指側を持ち上げてするんだよ。
幕末剣法以降の明治大正昭和の剣道→現代居合の流れだから、
失伝しているのはしかたないけどね。
「すり足=今の方法」とのみ限定思考を押しつけるのはよくない。
心ある指導者は「現代剣道のすり足」ときちんと説明すべきでしょうね。

てな分かったようなことを言ってみたりする。

それとだすね~、吉川英治の『宮本武蔵』ならば、絶対にあの研ぎ屋の
シーンは入れてほしかった。
あれ、吉川英治氏に説教した刀鍛冶で東京帝国大学で冶金学を学んだ
岩崎航介氏を吉川英治氏が皮肉で「研ぎ師 厨子野耕介」として登場させ
たんだよね。当時、岩崎氏が神奈川県の逗子に住んでいたから。
吉川氏があまりに日本刀について連載作品中の『宮本武蔵』でテケト~な
表現していたから、岩崎先生が指摘したのさ。そしたら作品中に小言高兵衛
のような感じで説教親父として登場させられた(笑

昔の映画では佐々木小次郎の太刀背負いは柄を左肩上に正しく出して
いたけど、今回のドラマはやはり大間違いで右肩上に柄を出していた。
あれでどうやって三尺の太刀を抜くのよ。
やってみろっての(笑
こういう見え透いた嘘ンこはよくないと思うけどなぁ。まあ、エンターテイメント
だし、誰も気づかないからいいのか(^^;
だったら居合斬りなども、1センチほどだけ抜いてすぐにチンと納めて、敵が
一呼吸置いてバッサリ斬られるとかにすればいいのに。
それじゃドリフのコントだよ(笑

それにしても、お通さんカワユス♪
あ、元祖のほうね(笑


この記事をはてなブックマークに追加

テレビ朝日開局55周年記念ドラマスペシャル『宮本武蔵』

2014年03月15日 | 映画・ドラマ・コミック

テレビ朝日開局55周年記念ドラマスペシャル『宮本武蔵』の
前篇第一日目を観た。
典型的な吉川英治作品なのだが、このドラマ、詰め込み過ぎだろう(笑
展開にかなり無理がある。
まるで、ダイジェスト版を見ているような感じだ。
各シーンが薄い。薄すぎる。サビのない曲、つまらん坊主の読経のようだ。

作品としては大失敗のように思える。

ただし、ビジュアル的には秀逸なシーンもある。
この有名なシーンも映像美としてはかなりいけてる。
このシーンでは数秒止まるが、これが一服の絵のような枯淡の美しさを
見せている。そして、まさに千の言葉を語っている。




だがしかし!

私は言いたい。
これは、シナリオがまるで駄目だ、と。
このシーンは、柳生石舟斎が斬った花の一刺しを見て、武蔵が
「これは只者ではない」と感銘を受けるシーンだ。
原作で柳生石舟斎が斬った花はシャクナゲである。

シャクナゲ


石楠花(シャクナゲ)は現在の季節でいうと4月10日から5月5日あたりの
間に咲くサツキの仲間の花だ。

今回のドラマでは「菊」になっていた。
柳生の里での屋外シーンでは、武蔵役の木村拓哉もお通役の真木よう子も
息が白かった。本作品の撮影がこの冬に行なわれたことが判る

春の終わりから夏に向けて咲くシャクナゲを使えなかったのだろう。
しかし、戦前に書かれた『宮本武蔵』において、菊花を斬り落とすなどという
ことはあり得ない。時代がそれを許さない。

当然、原作者吉川英治はそこらあたりも念頭に入れて、菊花ではない花を
斬る描写を導入したはずだ。
それに、このドラマでは「菊の枝を・・・」という台詞にしていた。
二重三重に駄目(サイコロの本当の意味での駄目)である。
本作品で映像上斬っているのは菊の茎だ。枝ではない。

細かいことだが、こういう細部の表現の機微にこだわらない映像表現と
いうのは、正直言って駄作のエッセンスがてんこ盛りであり、ダメダメ作品に
直結への特急切符ハイどうぞ、ということに
なると思う。
シナリオライターは誰だ?
まったく、「仕事」をしていない。素人のような脚本だ。
この作品、駄作確定なりしか。
(明日放送の後編に期待してみる)

それと、元祖定番お通さん役の八千草薫さんを尼役で出しているところは
テレビ的なファンサービスか。中谷美紀を遊女の太夫役で出しているのも
他局の大人気だったドラマ『仁 -JIN-』の遊女役がドンピシャだった
ので、これもファンサービスのように思える。う~ん。なんだか安直。
真木よう子さんは日本アカデミー賞という権威無き賞で最優秀主演
女優賞を獲得した実力派女優だが、どうも「通」という役は合わない
ように感じる。もっと深刻でシリアスで暗い面を持つ女性を演じるほうが
彼女の演技力を引き出せると思う。ミスキャストと私は感じた。
やはり往年の八千草薫さんが歴代武蔵作品のベストだろう。

だが、映像のキャメラさんはいい仕事をしている。
それも、かなり。
作品中のCGは限りなくしょぼく、この公式サイトの絵柄構成もとてつもなく
陳腐でもしょぼいけど。

つまらなくダッサい広報図柄・・・。担当者、センスなし。
何がダメって、構図そのものが陳腐だし、武蔵と小次郎に同じポーズ
させたらアカンやろって。その意図やいかに。
って、な~んも考えてないと思うよ、深いところまでは。
隠し絵のような含みもなければ、痛快娯楽としてのインパクトもない。
いわゆるチープで陳腐な構図センスなり。
こういうのは局から依頼された映像製作会社の仕事だから、そこの
会社の担当者の仕事ぶりがこれという訳だ。
コピーも古臭いありきたりの表現法の使い回しで、実にくだらん。
表現として、「斬った数だけ、強くなれた。」のコピーで激昂的な表情の武蔵を
出して、それの対比で「斬った数だけ、涙を流した。」のコピーで哀愁ある
表情の武蔵を出しているでしょう?
さらに右の激昂武蔵では背景に雷様の稲妻チュドーンで、左の哀愁武蔵では
肩越しに太陽の光明が射してくるという・・・。もうね、お話にならない。
こういうステレオタイプで直截の絵的表現というのは拙劣の極みなのよ。
たとえば、文芸においては、美しいものを「綺麗だ」と表現しても観る者読む者
には美しいとは伝わらないの。美味い料理を「おいしい料理だ」とか言っても
てんで駄目なのよ。悲しい場面で「悲しい」という台詞を入れても駄目なの。
特に映像というのは言葉無き表現でその情感を描き切らないとアカンのす。
これは文学においても然り。直截に美人を美人、ブスをブスと表現するのは
そんなことは誰だってできる。たとえば、笑顔を見せてもそれが涙を誘うとか、
メジャー調の楽曲でも心の奥の悲しみを表現できているとか、真っ直ぐな物に
ほんの少しの歪みを入れることによって人の心の不安定部分に訴えかける
映像とか文章とか、そういうのが芸術(文芸)における「表現」の機微なのよね。
そうした「ゆらぎ」こそが絵画・映像・文学全般…芸術=文芸の表現描写には
不可欠であって、白を見て「白」とただ言うだけ描くだけというのは、人間の心の
機微について無頓着過ぎるのよ。
そして、光らない作品というのは、文芸作品にしろ映像作品にせよ、駄目だね。
この番組サイトのこの番宣図柄だけ見て、「これはアカンわ」と感じ取れる人は
感じ取るだろうと思う。こいつぁ薄っぺらだよなぁ、と。
よくyoutubeの動画で、映像を編集して作ってアップしているド素人が多いけど、
曲の歌詞に合わせて、「駅で」という歌詞のシーンでは駅を出して、「太陽が」と
いうシーンでは太陽を出したりとかしているのがあるでしょう?
ただ単に歌詞に合わせてその映像をいちいちめぐるましく繋ぎ合わせている
だけの動画というのが。
ああいうのはド素人の「センス皆無」の極みで、表現のなんたるかをまったく理解
していないのよね。
たとえば、「私と彼女が海岸を一緒に歩いた時間を思い出して」という英文直訳の
ような表現と、「二人が渚を共に歩んだその時間(とき)の狭間を思い起こして」と
した表現の場合、どちらが文学的かということにセンサーが働くか、というような
ことなんだよね。
妖艶なシーンで「唇」を表現するのに、直截に唇を映したり文章で書くのではなく、
テーブルに置かれたカクテルグラスに残った口紅のほのかな痕を映すことで唇を
表現するとか、そうした「連想を視聴者に喚起させる。わずかなショットから情景を
脳裏に思い描かせる」というのが大切なのよ。静を映して動を描き、動を撮って静を
表現するというのが。
説明や解説を映像でなすのは文芸作品としても娯楽作品としても、「表現」としては
下の下なのよね。
娯楽ではなく、現実のドキュメンタリーなども、ロバート・キャパの写真にしても、
危険を顧みずに戦場に行って殺し合いの直截ショットを撮影したからピューリッツァー
賞を取ったのではない。直接戦闘の場面ではなく、「人」を撮ることで戦争の惨劇を
世界に訴えかけて賞を取った。
文芸作品とドキュメンタリーは娯楽とシリアスという人々に訴える視座が異なるとは
いえ、そういう大切な映像センスの基本が本作『宮本武蔵』からはほとんど感じ
取れないのがとても残念だ。
はっきし言って、開局55周年記念特番にしてはトホホだと思う。
歴史に残る作品とは思えない。

テレビ絡みの宮本武蔵関係で私が一押しの最強の作品は、映画『巌流島』である。
これは日本テレビ制作の映画作品だ。
なにが凄いって、この作品の中での武蔵役の本木雅弘の演技力だ。
一見の価値大いにあり。作品自体の出来もかなりいい。
吉川英治武蔵像が教条主義でつまらん坊主説教作品であるのに対し、
これはかなりアンチテーゼをぶちかます好感が持てる仕上がりになって
いる。
時代劇マニアならこれを見逃して宮本武蔵を語るな、という作品と言っても
過言ではない。てか、マニアなら観ろ(笑
時代劇マニア向けというよりも脚本マニア向け作品かもしれないが。


この記事をはてなブックマークに追加