渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

日本鋼全鋼の包丁

2015年06月30日 | 刃物





ぶひ~(><)
東京八重洲の西勘本店に問い合わせしたら、もう日本鋼の包丁は
扱っていないのだって。「もうずいぶん前にやめてますよ」とのこと。
ふんがぁ~。
そりゃあね、うちの日本鋼の包丁は30年前の物ですけどね(^^;
もう二度と西勘の日本鋼の包丁は手に入らない。っしょうめ。


きえーーーい!



まあ、もっとも、西勘は包丁製造メーカーではないし、製造しているのは
別メーカーなんだけどね。西勘は元々は包丁屋ではなく道具屋だし。

(西勘ビル)
現在、テナント募集しています。共益費込みで家賃632500円/27.5坪。
東京駅から徒歩4分。



まあ、それでも日本鋼の包丁が欲しいわけだが、調べたら、包丁は日立の
白紙黄紙や武生
のV鋼などの日本鋼よりもスエーデン鋼製のほうがずっと
高いのね。
知らなかった(^^;

だが、リサーチしてみて、意外と日本鋼を使った全鋼の洋包丁が少ない
ことを知った。
あとね、なんでしょね、あの「ダマスカス」とか称した多層鋼の包丁が多いのは。
あれは実に気持ち悪い。あれそのものも気持ち悪いが、それを好むユーザー
が多いのと、それをさも高級で良いものであるかのように売りさばこうとする
刃物メーカーの姿勢が気持ち悪い。
ああいうグロさをわきまえない目先の派手さに人気が出ること自体、本当の
鋼の鉄味の良さを日本人が理解できなくなった時代に入ったのだと感じる。
あれは切れ味や機能性には10000%関係ない外連味あふれるただのグロ
だから。
あと「三枚」だから高級だとかよく切れるとか意味分かんない。嘘ばっか。
ただの利器材じゃないか。三枚仕込みが頑丈でよく切れるという日本刀世界の
嘘をそのまま引っ張って来てそれに便乗しているところがなんともイタい。
最初から出来上がった工業製品の利器材ではなく、霞に職人が鋼と地鉄を
鍛接した本体のほうがずっと魂がこもっている。それを最初からの工業製品
利器材をさも「最高級品」であるかのように宣伝するというのは、なんだかね。
刃物の切れ味の命は硬度だ。しかもただの硬度ではない。靭性を持った硬度だ。
だから、いくら外側のみを硬くして中を柔らかくしても、外側がパリンパリンに
硬いだけだとそこが欠損し、中の低炭素鋼は衝撃をもろに受けて耐えられなく
なったら折損する。
鋼に粘りを出すのは介在物をすべて除去して「精良な鋼」にすることではなく、
ツナギとなる介在物を適切に残存させること、さらに鍛造(圧延にしろ)過程で
の過剰加熱による粒子結晶の肥大化を防ぐ適温処理こそが要だ。
構造がどうので鋼の切れ味と本体の丈夫さが得られるなんて馬鹿なことは
考えただけでたわけたことであると解るだろうに。
刃物の切れ味と耐久力は構造によるものではない。鍛造工法と熱処理が
鋼に息吹を吹き込むかどうかの最大の根幹だ。


日本鋼で作られた全鋼の洋包丁となると、やはり江戸期から続いている
日本橋木屋になるのか・・・。
木屋は江戸期には日本刀の町研ぎ屋さんだったんだよね。

木屋の日本鋼の洋包丁。(左:三徳(文化包丁)/右:牛刀)


この木屋と西勘の製品はですね・・・多分、製造元が同じだと思う(笑)。
企業秘密だからこういうことは教えてくれないけどね。
眺めていると、なんとなく、同じ場所で製造された物かと。

うちの西勘は三徳ですが、35年を経過して、完全にシルエットが
牛刀になってしまっている。
1995年に家内が床に落とし、切先を数ミリ短くして磨り上げ整形、
1998年にハンドル(柄の部分)を黒檀+シュナイダーボルトに交換
してある。
しかし、しっかりした包丁というのはよくもつものだねえ。30年といったら、
ちょいとしたもんだと思いますよ。ふた昔でなくみっつ昔だもんね。ああ、
ちょうど『めぞん一刻』の頃だ(笑)
もはやアンティークの範疇に入るのではなかろうかと思うが、それがきょうも
あしたもバリバリの現役というのは、なんだかすごい。
そして、うちら夫婦が死んだ後にも、うちの包丁は次世代に残ることだろう。
刀みたいだね。

家内がどうしてもうちの西勘を手放さずにこだわって持ち続けるのは、あの
1980年代の時代を共に過ごした証だからかもしれない。(ちょっと「めぞん
一刻」風に)
ものすごく研ぎ減ったから新しいの買おうか?と訊いても、「いえ、これがいい」
と言い続けるものなぁ。


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ラストシーン比較シリーズ ~第1回 めぞん一刻~

2015年06月30日 | 映画・ドラマ

始まりました新コーナー。ラストシーン比較第1回。(シリーズは続いた
ためしがないが)

高橋留美子原作の1980年代の名作『めぞん一刻』でございます。

原作(連載:ビックコミックスピリッツ/1980年11月~1987年4月)

アニメ(フジテレビ/1986年3月26日 - 1988年3月2日放送)


TVドラマ(テレビ朝日/浪人編2007年5月17日放送/完結編2008年7月26日放送)


(寸評)
TVドラマは、「浪人編」は原作にかなり忠実で、「完結編」はあくまでも
原作に忠実ながら、時間の関係から筋は同じだがかなりシーン描写を
変えている。
かなりの低視聴率だったが、動画サイトで前後編を今見ると充分に
面白い。唯一、管理人の響子さん役の伊藤美咲さんが身長171で背が
高すぎるが、さして気にならない。(原作では響子さんは157センチくらい
と思われる)
ドラマ、結構いいすよ。DVD欲しい。作りが丁寧だし、なによりも『めぞん一刻』
の空気を
よく描いています。スタッフの入魂に脱帽。
ちなみに、「時計坂駅」のロケ地は東急東横線の妙蓮寺駅です。


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木型(きがた)

2015年06月29日 | 火と土と水、そして鋼

まあ、気分によっては実物を造る前に木の型を造ったりするわけです。

これはかつてナイフ一本で削り出して造りました。カンナを使ってない
ので面出しが丸太を「はつった」ようで甘いのですが。



へこみは、うちの初代ポチ1号が仔犬の時にリビングベンチの上に
置いていたこれをかじかじした時の(笑

この歯型が形見となった。





刃長15センチ未満の合法的な自作小型刃物として作ろうとした
原形定規の木型だったのですが、
2008年の法改正により、この
形状の物を造れるのは、日本の中
では刀工免許を持っている
刀鍛冶のみになってしまいました。

ナイフ職人も包丁職人もたとえプロだろうが造っては駄目という
法律です。

従って、現行の法律および政令が変わらない限り、一生この形の
物を私が造ることはありません。
まあ、法律も世の中も変わらないだろうなぁ。変わるのは悪い方向へ
ばかりで。


平家重代と伝承のある小烏丸はなかなか可愛い姿だと思います。


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邂逅(かいこう)

2015年06月29日 | 火と土と水、そして鋼

昔、パッと思いついてサラッと書いた落語がある。
こんにゃく問答

マニアックすぎて一般受けしないだろう噺なのだが、まあ江戸古典落語の
ポイントは押さえているのでは、と。

さて、世の中にはかくも不思議な事というのはあるものだが、かつて無銘
で出した自分の作品に出会えるというのは、摩訶不思議、という感じがしない
でもない。
そして、「地鉄が違う。良い出来なので売り物にはせず自分が持っていても
いいと思った」なんてこと言われたら、そりゃあ作者冥利に尽きるってやつで
して、ええ。やっぱデークの末裔のあっしとしても、てめえの刃物がそう思わ
れるってなぁ、嬉しい限りでやんす。

素人ながら、そこそこの鍛えが出来ていて、それを「良き鉄」と見切ってくれた
人がいるというところがなんともほのかに嬉しかったりする。

この先もこいつは手元に置いておくけどね。


これもだな。




これも出来上がっても外には出さない。
火造り仕上前に止まっている。(オーステナイトは常温安定化させている)


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完全分解 ~日本刀の手入れ~

2015年06月29日 | 日本刀



久しぶりに昨日は晴れたので、蔵刀のすべてを完全にバラして手入れした。
仕事が忙しく、睡眠不足が続いたが、昨日は10数時間睡眠を取った。
金曜昼から土曜夕方まで食事を取らず仕事を続け、さらに昨日曜も一食
だった。
その一食が異様な食欲で、家内ぶったまげ。・・・4人前くらい?
米3合に食パン3枚・・・。まだ足りなかった。やってることが不健康だよなぁ・・・。

武用刀の点検では目釘の点検に注意を払う。傷みがあったら即交換する。
新品目釘は煤竹を削って自分で作る。
皮を残して削るのがポイント。目釘を打ち込むのは、刃側に皮を向けて
打ち込む(窪田清音流)。
また、私は、握った時に抜け防止のために差し裏から目釘を打ち込む
ようにし、目釘形状もそのように作っている。美術刀剣では差し表から
目釘を打ちこむのが一般的だ。それは実用よりも見た目重視だから。



目釘抜きには実銃のファイアリングピンを使用している。これが
一番目釘を傷めなくてよい。

御守は大山祇(おおやまづみ)神社の雷除だ(笑)。意味がある。

最近、仙台の方が私のために山形の居合神社の御守を手に
入れてくれたというので、それには康宏刀の磨り上げたナカゴ尻

を入れようと思っている。

なんだよ、偶像崇拝しないといいながら、とか言わないでちょ。
偶像崇拝はしないが、験や縁起は担ぐ。
だが、狸といえども、神輿は担がない。
狐にカマ掘られたみたいだろ?


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偽物(ぎぶつ)ではなく写し物

2015年06月29日 | 文学・歴史・文化



偽銘ではなく箱書きを写してみた。
落款の無いほうが鍛冶平こと本吉の筆。
本歌小刀作者ご本人に見せたら、あまりにそっくりとのことで大笑いして
いた(^^;

箱の中味の切出小刀は二作とも正真本物左久作製である。

最近でもね、日本刀の鞘書きで、まっさらの白鞘なのに佐藤寒山博士の
鞘書きあるものが出回ったりしているんだよね。業界では「誰だよ、これ
書いたの。こんな新品の鞘に正真にしか見えない寒山の鞘書きなんて」
てなことがかなりあるらしい。どうやら刀剣界ではまだ寒山先生は御存命で
御活躍なさっているようだ(苦笑)。
郷とお化けは見たことないとは言うが、どうやら鞘書きの幽霊は普通に
闊歩しているのが刀剣界という世界のようだ。

そういうのは明らかに鞘書きの偽物(ぎぶつ)、というよりも真っ赤な
贋物で、誰かが似せて書いた¥が目的の悪意ある犯罪行為
だね。
よくやるよ、と思うが、まあ事実だからしかたない。
おいらのこの左久作銘写しも、墨をもう少し薄く磨ったらさらに迫真の
出来になったのではなかろうか。(昨日ちょいと字を書くのに墨磨った
のだが、気合い入れすぎて磨りすぎた)


ただし、技術向上のための写し物というのは美術の世界では当然の
こととしてある。これは洋の東西を問わず存在する。

まず、見て、そのものを写し取ることは素描としても絵の基本だ。
文字も然り。まず手本を写すことから入る。
こういったのは悪意ある模造は別として、美術文化の一つでもある。
漫画でも最初は模写から入ったりする。

だってさ~。俺のこの口伝集なんて、絵がまるで内山亜紀先生だぜ~(笑)



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ネットでの拾い物

2015年06月29日 | 内的独白


(ネットでの拾い物)

ひっで~。熟睡している間に顔に落描きしている(^^;

昔ね、山中湖の湖畔に湖北寮というおばかぴーな大学の合宿所が
あったのね。
まあ、サークルの連中との合宿では夏場などはそこに泊まるわけだ。
すると夜は宴会だな。
だけど、誰も眠ろうとしない。どんなに眠くとも眠ろうとしない。
なぜなら、熾烈な消耗耐久戦が深夜から始まるからだ。
「寝るな、寝たら終わりだ」って雪山みたいだが、寝たらとんでもない
ことが起きる。
おいらも眠らずに頑張っていた。あちこちで「げへへ」とか「うぷぷっ」
とかいって笑い声をこらえることが始まっている。
おいらは眠らない。眠るならば最後だ。


それでもやがては全員が睡眠を取る。
朝。
「よく寝た~」と、ある男が起きた。すると彼は叫んだ。「うっ。いてて。なんだ?」
トイレに行った。
大事な部分にしっかりとリボンが巻かれていた。
「あ゛ーーー!」という叫び声がトイレから響いた時、「ぎゃはははは!」とまるで
BE-BOPのヒロシとトオルのような笑い声が室内にあふれかえった。

「なんだよ?うるせぇなあ」と眠りから覚めた男の顔は、顔半分から下の
右半分が
銀色のマジックで塗りつぶされていた。

「おめーら、ほんとにひでーことするよなぁ」と私は言い、「まさか俺にやって
ねぇだろうな?」と訊くと、「まさかぁ、Tちゃん(と俺は呼ばれていた)にやる
わきゃないじゃん。ねぇ?」と悪友Pは言う。周りも「だって、最後のほうまで
起きてたじゃん」と。
信用できない奴らだから、すぐにトイレに行って顔を確かめた。
何も描かれていない。よし。
しかし、ひで~やつらだ。マジックって、シンナーかなんかじゃないと落ちないぜ。

さて、飯でも食いに行くかよと、皆でバイクで近所のファミレスに行った。
注文をする時に、かわいいウエイトレスのおねーちゃんが、我々のところに来る
たびにプッと笑う。なんでしょね?
「なんか俺のこと見て笑うんだけど」と俺が周りに言うと、「なんだろね」と言う。
Pなんかは「もしかしたらTちゃんに気があるんじゃね?」とか言い出す。
「そ、そうかぁ?いや、まさかぁ」とかまんざらでもない気分になって、運ばれて
きたポークソテーなどをナイフとフォークで食べたりしていた。
水を注ぎに来た時に、またおねーちゃんが含み笑いをする。
「おめーら、ぜってー俺になんかしただろ?」と言うと全員がぶんぶんと顔を
横に振る。あ、こいつら絶対になんかやってやがる。
だが、顔はさきほど鏡でチェックして何も無かった。
不明なまま、食事を続けた。
ふと、肘の先を見たら、ご丁寧に俺が腕をひねらないと見えない位置にやられて
いたよ。東京都のマークみたいなのがきっちりと黒マジックでたっぷりと描かれて
いた。


(東京都のマーク)

しかも、東京のマークではない。俺の肘に描かれた丸は二重丸の◎で、縦線は
貫通している。


「てっめーら、いーかげんにしろよ、ゴルァ」となったが、店内に響き渡るギャハハ
笑いで俺の声はかき消された。
まじもんでひでーやつらだ。

でも、おいらも眠気を我慢しながらあいつらとやったんだ。
すでに寝落ちした奴のところに、目の位置に合わせてデスクスタンドを
スポットライトのように浴びせてセットしたの。
翌朝、そいつは「なんだか目がいてぇの」とか言ったら目が真っ赤に充血してた。


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町井研ぎ

2015年06月28日 | 火と土と水、そして鋼





日本刀研磨師町井勲先生の研ぎ。
この方は下地研ぎが滅法巧い。
実際に途中までの研ぎの刀身、完全に仕上げ化粧まで研ぎあげた
刀身を実見したが、唸らされた。


発見した。
町井先生のマスターアイは左だ。
だが、早計に断じてはならない。
私のようにマスターアイを状況に応じて瞬時に右左どちらにも
変えられる人かも知れないからだ。

この方は剣術、日本刀鍛練、研ぎ、と日本刀に関する技術について才能
の塊だが、剣技に関しては、江戸時代に生まれていたらきっと徳山藩の
剣術指南番になっていたことだろう。
普段の刀を差した姿よりも、この研ぎの写真のほうが私はなぜか本物の
武士ぽく思える。なぜだろう。
刀を差した時とは別な「気」を感じるからか。
なんというか、果し合いに行く前の武士、みたいなものをこの写真から
感じる。刀を差している時には「達観」というか、そういうものを感じる。


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紫陽花(あじさい)

2015年06月28日 | 風情・季節・地球


(三原市内)

紫陽花(あじさい)の季節である。
この紫陽花の中間色が私はかなり好きだ。深紅も真黒も真っ青も好きではない。





かつてこの画像をずっと携帯の待ち受けにしていた。
夏なのにこの透ける感じが紫陽花の色合いに思えたし、構図が
空気と溶け合う妖精のようで、とても気に入っていたからだ。
これは宮崎あおいさん。やよいさんではない(笑)
しかし、カメラマンというのはいい絵を撮るよなぁ。
ただの陰影ではない。光と影とその間にある目に見えないが肌に
感じる空気をよく表現している。
写真というのは、ただ機械で目の前のものを写すだけではなく、
撮り手の感性を描写する世界なのだということを知らされる。

この画像を見た母親が「何これ?AV?」って、お~い!おふくろ!(><)


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世代用語

2015年06月28日 | 文学・歴史・文化



先日、会社の地方管轄部署の営業方針の策定のため、私より学年が
五つ上の役員と個別に
会議をした。
その時、その役員が言う。
「やはり、ここはセクト主義を排して、行動指針としては・・・」
役員は大学は学生運動が盛んだった有名大学出身だが、学生時代に
学生運動には一切参加していない。

また、本社での全国会議の際、社長が言う。
「こういう方向性だとジリ貧は見えているので・・・」
別な役員も言う。
「そこのところのメルクマールが・・・」
さらに別な人も言う。
「なに日和ってるんだと思われるかもしれないが・・・」
「このレジュメによると、チューターの視点は・・・」


発言者たちは過去に一切学生運動に関与していない。
「この人たち、新左翼だったのかよ(^^;」とか思わず思ったが、詳細に裏を
取っても
学生運動などやっていない。有名大の体育会などに属していたし。

時代が作った世相文化というのはあるのだなぁ、と思う。

でもって、私が会議で「これはチョー○×△」と言ったら、一瞬シーンとなった。
あれ?
俺、滑ってる?

ところが面白いことがある。
もう退職したが、まあ、いってみれば全共闘世代の役員たちがいた。
学生の頃には学生ウンドをやっていた。北野たけしや三宅裕司でさえ明大で
ブントの赤ヘル被ってデモに出たりするような世代だ。今の円楽なんてのは
周辺部分ではなく青学のブント叛旗派のセクト(党派)そのもの、中心部分だった。
まあ有体に言えば、誰もがあの頃はウンドに参加していた。
でもって、うちの会社のそのウンド経験者の役員たちは、決して活動家が使う
ような言葉を使用しなかったのだ。
活動家用語といっても、ムスケルやスットなどのマニアックな専門用語ではない。
上述した日常で使われるような言い回しを使わなかったのである。
ウンドの活動に関与した人間が学生ウンド用語を忌避して、それとは別に
まったく学生ウンドに参加しなかった人たちがウンド用語をごく普通に使用
している。
この現象は社会学的に非常に面白く思えた。
岡目八目、一歩引くと世の中よく見える。


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痛車と日本刀

2015年06月28日 | 文学・歴史・文化

痛車(いたしゃ)が流行し始めてすでに数年経つ。
萌えアニメ文化が乗用車にも普及したのが痛車(いたしゃ)だが、
痛い(傍から見ていたいたしい。自覚していなくて哀れという造語)
という自虐的呼称をあえて享受しているようだ。

「目立つ」ことを第一に置く痛車の原初は暴走族の車両に見られるが、
暴走族の場合は派手な塗装や走りに無関係な異形の改造を二輪車
や四輪車に施すことによって注目を浴びようとしていた。
現代痛車の場合は、高度な技術によって貼られたプリントシートの
デザインにこそ特徴がある。すべてが「萌え」柄なのである。ただ単に
派手に塗装した車が痛車ではない。

痛車


先日、ある刀屋に轟音と共に車が横付けされた。
下りて来た二人はツインテールにした派手派手のミニスカの
おねーちゃんだった。
店内に入ってくるなり、「あれ~?」と言う。
店主がなんだろうと思ったら、「全部本物なんですか?本物しか
ないんですかぁ?」と問われた。
刀屋だから本物の刀を売るのが商売だ。本物の真剣日本刀を
置いてある。
おねーちゃんたちは言った。
「模造刀がほしいんですけどぉ」
店主は「うちには置いていませんがお取り寄せはできます。
何にお使いですか?」と尋ねた。
すると、おねーちゃんたちは「コスプレに使うからコスプレ用の」と。

真剣日本刀店にコスプレ用の安い模造刀を買い求めに行くという
その感覚がすげーなー(^^;
レイヤー(コスプレーヤー)さんたち用のオモチャの刀は5000円
くらいから売られているから、アキバやネットで購入すればいいとは
思うが、通り道に刀屋があったので寄ってみたのだろう。
なんともほのぼの系だ。鮨屋にラーメンは置いてない。

社会科学研究会的観点から少し書いてみる。

コスプレの歴史は古い。古くは西洋の仮面舞踏会などがはじまり
だろう。日本でも「仮装」は古くから行なわれて来た。
現行のコスプレは、やはり痛車と同じく、「萌え」文化と結合したところに
特徴がある。今や「萌え」は世界中に輸出され、特にフランス
や北米で
人気がある。ヲタとロリが微妙な線で融合しているのだが、
そこにガンダム
系のメカニカルな潮流も合流交差したりしている。
これは日本固有の「漫画」という文化を抜きにしては成立しないところに
着目する必要がある。北斎漫画以前から日本人(一部の時の権力者では
なく大衆としての日本人)の精神性がどういったものに基づいてきたか
ということを解析するには「萌え」は外せないのである。
現象面では、コミケなどの同人誌出展会場から現行のコスプレは発生
してきたのも、「漫画世界の体現」という性格を色濃く反映している。

元来、対抗文化のサブカルチャーとして(「サブ」という雑誌は別系)
80年代初期に登場したのが「萌え」系ヲタク文化だった。美少女アニメ
フィギュアの登場は84年頃。萌えアニメの嚆矢である「くりぃむレモン」と
連動していた。当時慶應義塾でそうした対抗文化としてのサブカルの流れを
先取りした集団がいて、彼らは『脳細胞爆裂マガジン 突然変異』を編集
出版して学生間に影響を及ぼした。

精神性の流れとしては、萌えの原初は「背徳」と「抵抗」という面において
唐十郎の黒色テントなどに見られた反権力
文化と同一線上にあり、ビジュアル
面では1960年代後半から起こった
サイケデリックと同質性を持つ「対抗世界
の体現」としての背景があった。
しかし、80年代後半から、反骨やアングラ(アンダーグラウンドのブラック
ワールドという意味ではなく、あくまで抵抗文化としてのかつてのニュアンス
を持つアングラ)としてのサブカルは完全に消滅した。思想を持つのは
時代遅れ、ダサい、メンドッチー、かったるい、ということになったのだ。
この頃から「職人」も消滅の道を歩み始める。産業的な衰勢という側面だけ
でなく、下部構造が上部構造を決定しないというマルクス主義的規定の
限界が現象面で社会に噴出し始めた。

全世界的に若者は社会的な変化や構造危機に対して鋭敏であり、
その研ぎ澄まされた感性こそが時代を先取りしていくという認識が
それまでの
社会学の中にもあった。若者は社会の成熟度や危機を
反映する
バロメーターになると信じられていた。
そうした捉え方によってニューレフトの中では世界情勢分析と社会改革の
アプローチ方針まで模索され、「学生こそが魁(さきがけ)となり人民に警鐘
を打ち、社会を牽引する」など
という突拍子もないのぼせあがったことが
「理論化」されたりした。

またジジイたち学者も「これこそ社会変革の金の卵」とその考え方に
乗って、どんどん「学問的」な理論体系を拵えて学生たちを後押しした。
これに基づき、日本では日本共産党を離脱分派した世界初の「新左翼」
が生まれた後は、「先駆性論」という理論を支柱として学生がそれまでの
社会運動とは異なる突出した行動を開始した。
つまり、「若者独特(学生=プチブルインテリゲンチャ)の鋭敏な感性に
よって尖鋭化された行動様式を以て社会に警鐘を乱打する」というものが
それだ。
すべてがこれに依拠して行動された。主としてこの方式を理論として
提唱して推進したのが、6全協以降日本共産党から分派して以降未来永劫
日共と敵対関係に立った新左翼、とりわけ東大日共細胞から離脱して
新組織を作った共産主義者同盟(BUND=ブント)だった。日共は日共で、
「彼らはトロツキストであり反共産主義者である。帝国主義者の手先だ」として、
徹底的に新左翼を弾圧し、武装襲撃を繰り返し、社会に向けては「社会の敵」
と国家権力と手を携えてキャンペーンを張った。選挙方針に行動指針を
転換して「民主主義の旗頭」を偽装していた日本共産党だったが、その実、
裏ではソ連型の極めて凶暴な武力弾圧を行使していたのは事実だ。


一方、60年安保を前にブントは全学連(全国大学自治会総連合)の主流派を
選挙で獲得し、
60年の安保改定反対闘争を領導したが、後に連合赤軍や
爆弾闘争などに繋がる
「過激さ」こそをウリにしていた。1960年6月15日の
国会への包囲突入占拠闘争などはその典型だった。
ただ、それまでの日本共産党が火炎瓶闘争、爆弾闘争を党の方針として
戦後に敢行していたのとは違い、ブントを中心とした新左翼は、武装はせずに
「大衆的実力闘争」を旨としてデモによる闘争を行動指針としていた。
新左翼はかつての戦後の日本共産党のようにやがて火炎瓶や銃で武装を
開始するが、最初の武装は武装とも呼べないヘルメットに角材が初登場した
1967年の10.8羽田闘争である。防護用ヘルメットに催涙ガスから守るタオル
の覆面という「新しい」スタイルは1967年に初めて登場した。
(だが、歴史真実としては、角材を10.8羽田に持ち込んだのは、新左翼内の
内ゲバのためだった。
革共同中核派(学生組織はマル学同)と革共同革マル派、それに共産同(学生
組織は社学同)と社青同解放派が複雑に絡んだ主導権争いに伴う内ゲバの
ために角材は用意された。それが急きょ機動隊向けに使用されただけだ。
結局は日本共産党と同じ「反対勢力は粛清的に武力で潰す」というところから
新左翼は一歩も抜け出せていなかった。
ただ、新左翼と日本共産党の違いは、同一勢力内に武力を用いる点では同じ
だが、暴力を権力に向けるかどうかという一点が大きく異なった。日本共産党と
革マルのみは暴力を反政府勢力に対し行使したが、権力への暴力の行使は
日共も革マルも一切しなかった。革マルを除く新左翼のみは暴力を辞さない
国家権力への抵抗活動を為した。
ちなみに革マルは「他派を武力で潰すことが日本革命への道」というまるで
1970年代に暴走族スペクターを潰すことのみが組織存在意義だった「極悪」
という集団とまったく同じようなスタンスだった。革マル派の機関紙は「これが
政治党派の公式紙か?」と思われるほどの口汚く差別的な罵倒・罵りが延々と
書き連ねられている。他者非難のみならず、他者の存在を消滅させることだけが
自己存立の基盤なので、党の公式文章でもおよそ「人間よくここまで口汚くなれる」
というほどのゲスな日本語の悪辣の頂点を極めた文言が列記されている。
革マル自身が明言しているが、「人民が革命を起こすのではなく革マル派が
革命を起こすのだ」とし、「そのためには他派をすべて消滅させる必要がある」と
している。これが党方針なのだから、そら、人殺しも平気の平左でやるだろう。
それは今のイスラムISを見ていてもよく分かる。日本の社会運動の歴史の中で、
他党派壊滅のためだけに組織を存在させているのは革共同革マル派だけである。
左翼ではない。だが国家権力からしたら大いに利用価値のある組織だ)

1960.6.15国会包囲の安保闘争のさ中、ブントの東大生樺美智子さんは
機動隊に頭がい骨を叩き割られて死亡した。

(60年安保闘争は戦争終結から15年目、平和を求める日本人の声だった)






しかし、先駆性論こそは、新左翼が日本共産党(ソ連派)を「既成左翼=
体制の補完物」と規定して「ソ連型スターリニズム的専横を否定する」と
しながらも、自らがスターリニスト以上に「独裁者」となっていく矛盾の
危険を内包していた。事実、新左翼内での勢力争いは殺し合いの「内ゲバ」
へと発展し、「既存共産党ではない新たなる共産主義党を」とする
発想は、
親分の首をすげかえるだけというもので、「前衛党が人民を牽引する」という
前衛党主義を完全否定
する理論ではなかった。
結局はミイラ取りがミイラになってしまったのが日本の新左翼なのであった。
そして、今や「新左翼」は「旧左翼」になってしまった。新左翼の登場から
すでに50年以上が過ぎている。半世紀だ。「新」である筈がない。
1960年代末期には新左翼をはじめとするラジカルな社会運動が全世界の
抵抗勢力と連動して空前絶後の運動的
盛り上がりを見せたが、あれは、
「新しいことをやっていたから」という
面が非常に強い。人より過激なことを
やれば目立つし耳目を集めたから、
それを狙って、行動様式はどんどん
エスカレートしていった。道行く市民や
背広姿のサラリーマン群衆が新左翼の
学生を支持して学生と一緒に歩道の
敷石をはがして機動隊に投石したり
(これらは見学連と呼ばれた)、材木店が新左翼
に角材をトラック満載寄付
したり、機動隊とぶつかるデモ学生に割烹着姿の
主婦たちが拍手を送ったり
等、現在では想像もつかない現象がこの日本で
起きていた。
過激な事をやるにはそれなりの決意と踏み込みも必要で、
身を呈してそこに
突入してベトナム反戦などを訴える学生たち、殴られても踏みつぶされても
挫けずに立ち上がる学生に市民が
惜しみない拍手を送った時期が一時期
この日本であったことは事実である。

だが、エスカレートする過激な行動は、やがて市民の支持を一気に喪失
させていった。
やがて、社会的な変革や訴えを求めた学生運動は、「反社会」
という領域に
おいてしか存在できなくなり、国家権力によって個別撃破されて
日本の
「学生運動」は終息した。新左翼は破壊のみを敢行し、建設は一切
しなかった。
汚れた大地に釘を打つことはしたが、汚れた地面を緑の大地
に造り変える
方針も行動指針も新左翼は持っていなかったのである。(ソ連の手先の日共や
社会党は論外)


ある古い居合の先輩が私にかつて言った。
「1990年代初期、東京の歩道がアスファルトから敷石に戻された。
もう街頭闘争も今後は絶対にないと国家が判断したことであり、日本の
学生運動は完全に死んだ、と実感した。本当の敗北の到来を実感した」と。
全共闘世代の人だった。


サブカルが対抗文化としての背骨を失って早四半世紀が過ぎる。
ヲタ文化は文字通りヲタクのためだけの独占物となり、自立的な全方位的対抗
文化と
しての推進力を消失した。まるで新左翼の凋落の歴史を見るようだ。
こうした時期が人間社会の歴史の中では一番危険だ。
何が危険かというと、あらゆる勢力によって「人民操作」が開始される時期だからだ。
せめてヲタ文化が今や社会の害悪でしかなくなった新左翼のような自閉的集団の
体現とならないことだけを願う。


だが、社会的認知性を最近得てきたヲタ文化は、商業主義が儲けに目を
つけ
はじめたので、何かに「利用」される危険が非常に強い。すでに国家
軍事組織では
広報でそれが開始されているが。

ダイハツの公式車として発表された痛車


生き馬の目を抜くブルジョアジーたちの商業主義。おそろしい。

三島由紀夫さんが全共闘と足並みを共にして壊したかった社会とは、
一体なんだったのだろう。


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刃筋

2015年06月27日 | スポーツ・武道など



斬るための日本刀の運刀の命は、
「一に刃筋、二に刃筋、三四が刃筋で五に刃筋」である。
「刀なんて刃が付いているのだから、当たれば切れる」
というのは切れることの意味の取り違えだ。
刀を振って敵を倒す「刀法」においては、刀に刃こぼれを生じ
させたり、大曲げさせたりするような斬りつけかたはアウト
なのである。
とにかく、日本刀の斬りは、何が何でも刃筋なのだ。

左右袈裟で、樋のある刀を振って左右袈裟切りと真っ向の
切り下ろしが同じ音がしないうちは、日本刀による試斬は
控える勇気を持とう。
その勇気無き者は、刀など手にするべきではないと私は思う。

そして、物斬りよりもまず剣の術だ。真剣刀法を習得するには
適切な師匠から居合剣法を学ぶことが大切。


~Anecdote~
My favorite Japanese sword; Muneshige manufactured in
February 1580 called KOTOU as old era sword.

During the early Edo era(SHINTOU-New sword era),
process of making Japanese sword of old era completely lost.

But production of new Japanese sword commenced in late
Edo era introducing the New Sword making technique. 

Modern production methods are in accordance with it called
SHINTOU as new era sward
.
KOTOU is better than SHINTOU, has been recognized in Japan.
This is not a nostalgia principle, it is pragmatic.


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銘ぶり

2015年06月27日 | 火と土と水、そして鋼

巧拙ぬきにして、好きな字体というものがある。
日本刀の銘にしても、非常に綺麗な書体で美しいタガネ運びでなくとも、
たとえへたっぴな文字であろうとも、味があるほうが私個人は好きだ。

現役現代刀工のうち、私が一番好きな銘ぶりの刀鍛冶はこの人。この
表現の妙にハマったら抜けだせない。私は心が完全に奪われている。

 




この方も奔放な字体で好きである。タガネが細タガネの切りである
ところも好みだ。自由闊達に切っている。(刀銘は彫りではない)




長船刀剣博物館で自由に手にとって持って振れる作品を展示
している。
その作を見ると、多くの来館者によって金属部分にガンガン刃先を
あてられているのだが、細かい刃先の疵は、刃こぼれではなく
刃マクレであることが検知できる。
つまり、粘る鋼にまとめる仕事をしている刀鍛冶であるということだ。

こういう作を作るのは、現代刀工では結構稀有なのである。
「俺の刀は頑丈で切れ物」と自称していても、竹に当たっただけで
切先がけし飛んだり、竹の節を切っただけで無数の刃こぼれが
生じたりする刀しか造れない鍛冶もいる。これはネットで必要ワードを
入れて画像をググればすぐにその折損刀身が出てくる。販売している
刀工の身内が「刀は当たると簡単に欠けます」と自ら明かしてその
画像をアップしているから、すぐに検索ヒットする。物に当たっただけで
鋩子の中ほどから先が見事に折れたツララのように消失している。
ところが、それは何も特別なことではなく、本当にそのような現代刀が
ほとんどであるのだ。「折れず曲がらず良く切れる」という刀を造る
作者は少ない。
それは、「刀は切るものではない。美術品であり芸術なのだ」という
ことを正面から日本刀業界と現代日本刀作家自身が言いきってるので、
いたしかたないことなのかも知れない。
私の道場の人がある高名な刀鍛冶に新作刀を作ってもらった。
居合で使おうとしたら、「そんなことに使ってもらっては困る。刀は
見るための物だ」とキレられた。これが本当のところの現実だ。
また、正直なところ、空気を切る居合にさえも使うことは憚られる。
仮に素振りであろうとも実用を一切考えずに作られているので、素振り
による折損の可能性もあるからだ。まさか?という笑いごとではなく、
現実に畳表に一太刀切りつけただけで刀身がモノウチから真っ二つに
折れ飛んだり、蛍光灯のナイロン紐を切ったらボロリと大欠けしたりする
作品ばかりなのだ。
さらには、見た目だけでも苦労する作が実に多くある。それは展覧会の
コンクールに出すのに、研ぎ師が刀身を研げないのだ。刃先がポロポロ
とビスケットのように研いでいるそばから刃こぼれして欠損するので。
もうどうしようもないから、研ぎ師が技を駆使して、見た目判らないように
刃引きにしてコンクールに出したりする例もある。それが入選したり
するのだから、新作刀コンクールというのは、鋼の延べ鉄の焼き物展示会
と言われても仕方がない。
今から何年も前、ご自身のお名前も冠された賞がある新作名刀展を
ご覧になったさる宮様が、「この中でどれだけ本当に切れる刀があると
いうのでしょう」と嘆かれたことがある。
あれから数十年経ったが、事態は好転するどこか、ますます悪化している。
戦後第一世代のある刀鍛冶は「新作展には切り試しも入れたらどうか」と
意見を述べていたが、斯界の中心軸は「日本刀は見るための物」という
ところを頑として崩さない。武としての特性具備を否定しては日本刀の
歴史や伝統は伝承し得ない筈なのに、それをあえて金科玉条と巧言令色
で踏みにじろうとしている。
何も刀で人斬りをしろといっているのではない。
飛べない飛行機を造ることは意味がない、ということを私は言いたい。


お次。
本人が手紙で書く文字は丸文字の漫画文字のようなのは
この人。
 



この和歌の一首の銘の下書きは注文主の希望で私が筆書きした。
従ってこの書体は
私の文字だ。
意味は以下。



なき名そと 人には言ひて ありぬべし
             心の問はは いかか答へむ
                    (後撰集 恋三 七二五 読人不知)

 なきなぞと ひとにはいいて ありぬべし
  こころのとわば いかがこたえん       

 <意訳>
 噂は事実無根であると、人に対しては言い逃れもできましょう。
 しかし、自分の心が問うたら、何と答えればよいのでしょう

二代目康宏作の銘は決して巧くない。むしろ下手。しかも長い時を
経ての復活作刀数口目だ。まだ鏨が往年のように走っていない。
(刀身については加速度的に手技が復活してきている)
この作は平成27年6月25日登録だ。私の差し料と同じ餃子

康宏である。打ち下ろし段階で元棟重ね7ミリの二尺三寸一分
だが、裸刀身重量は1060グラムある(≧∇≦)
私の康宏刀身単体が860だから私のより短くてこれは私のよりも
デーブさん?(最近はポッチャリ系と言うらしいが)

私はバランスを取るために柄を重くして抜き身で約1200グラムに
していたが、実はバランスが良いから片手でもピュンピュンと振れて
いた。力では振らない。慣性重量を最大限に活かした振りだ。
これ
を研ぎ上げでどこまで絞るか注文主と打ち合わせしたが、
「削ぎ落し必要無し。そのまま通常の試斬研ぎ仕上けで良い」
とのことだった。九州男児、豪気だねえ。
注文主の友人は、出来上がり状態を聞いた時、まず最初に大笑い
して
いた。
ええ。ジューシーなぷっくりとした餃子、焼き上がりました(笑)。
太刀魚の次は餃子でありんす。


同日登録の他の御方3名(一人は別枠注文分)の出来はシャープで
スマートなようです。

このおいらの友人の刀だけ、私のと同じく木刀のようなデブチン。
でも横から観たら身幅尋常だから見た目は至ってスマート(笑)。
棟重ねを見ても研ぎ上がり6.5ミリくらいだろうから尋常。
どこが尋常じゃねえかって?
備前伝そのもののデカ尻と餃子のような平肉の腹なんす。
ヘラブナみたいな(笑)

こういうのは切れ味ではなく切り味は面白いよ。畳表などは刃が
あたった瞬間にパッと割れ飛ぶようなタッチなの。
薄い刀身は、刃先は切れ味よく切り込むけど、なんといったらいいか
刀身にまとわりつくような抵抗感が途中からあるんだよね。
これはゆっくり切ったらよく分かる。
松葉を張って鎬高く平肉厚い刀身は、一番最初の入刀時の抵抗は
あるものの、切り割くうちに刀を振り抜く前から物体が分離して行く
ような感覚がある。刀が勝手に切ってくれるというか裁断してくれる
ような感覚。
でも、これはほんの微妙なタッチなので、アルデンテかそうでないか
というほどまで一般的には関知しにくいものだと思う。
相当な数を切らないと、判断できないのではなかろうか。
しかも、判断においては正確な判断力、認知力が働かないと感知でき
ないのではと思う。
切りも試斬や斬術ではなく、冷徹な五感を研ぎ澄ました「試刀」で
刀身レビューができるくらいでないと、刃味のタッチの察知は困難では
と思量する次第。
切れるか切れないか、切れたか切れないかなどという低いレベルの
ことではなく、どのようにどう切れていかなる刃味であるか、という話
なので。

切れ味の話になったが、奇しくも上掲の御三方は切れ物系の刀鍛冶だ。
そしてこれまた不思議なことに、三人とも同世代だ。
切れ物作者としてはここに藤安刀工を加えたいが、藤安先生は異様な
ほどに銘切りが上手すぎるので、「好き」とか「嫌い」の範疇を超えて
いる(^^)
そして藤安先生も、上記三名と同世代。
この方々は「戦後第二世代」の刀鍛冶といえる。
第一世代は戦前戦中から作刀をしていた人たち。
第二世代はその子息、もしくは昭和20年前後生まれ。刀工免許は
1970年代に取得している。(二代目康宏は1980年)
そして、現在は第三~第四世代に入ろうとしている時代ではなかろうか。

現代刀工の皆さんはなかご仕立てと銘切りがとても上手だ。
まるで彫り物をみるが如く銘なども美しく流暢なタガネ使いを見せる。
それはとても大切なことだろう。
しかし、私は思う。
勝負は上(かみ)だ、と。
世間でなかご千両とは言われていてもだ。

末備前刀なんて、もう少しだけなかごを長くしてくれたらなぁ~、柄も
傷みが少ないだろうになぁ~、なんて思うが、あれはあれで意味があった
ことなのだろう。尻が張ってるのも。
それと、沸物系のなかご尻がすぼまって細くなっているのも、あれは
それなりの意味があったことだろうと思う。


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めぞん一刻

2015年06月27日 | 風情・季節・地球

わが青春の『めぞん一刻』なのである。
これはタイムリーに読んでいた。丁度私が学生の頃に連載されて
いたからだ。
この高橋留美子の作品は非常に漫画界でも珍しい作品で、長期に
亘る連載が、まさに作品の登場人物の生活の時系列と連動してい
る作品だった。読者がタイムリーに読むまさにその時間日月を
舞台設定としていたのだ。
だから劇中でもリアル社会と同じくタイムリーに時間が流れて行く。
主人公の五代君もアパート一刻館の管理人さんの音無響子さんも
読者と共に年を取って行く。
五代君は私の一つ年下の1961年生まれだ。そして一浪して
大学に入るから学年は2つ下ということになる。
響子さんは五代君の2つ年上なので、私のひとつ年上ということに
なる。
普通漫画はこういうことは斟酌しないものだが、この作品は作中で
流れる「時間」を非常に大切にしている作品であるので、こうした
読み方ができたし、むしろそのような読み方こそが読者を惹き付けた
という漫画史上稀有な作品だった。
内容は1980年代にありがちなドタバタラブコメディタッチながらも、
しっとりと「人と人」の心の機微と情愛を描いている。

かつての人気漫画だったが、アニメ放送もされ、映画にもなった。
近年ではドラマ化もされている。



映画


ドラマ


映画はまったく原作を離れたストーリーだったが、ドラマは原作に
忠実なシナリオで、台詞も原作を再現している。リアルすぎるのが
白けるくらいに原作通りだ。
キャストも、四谷さん役の岸辺一徳さんなんてハマりすぎていて、
どう転んでも四谷さんにしか見えない。

さらに、このTVドラマは、スタッフがたぶんタイムリーに『めぞん一刻』
を読んでいた世代であろうか、原作の再現実写になみなみならぬ
熱意が感じられる。
一刻館管理人となる音無響子さんは、原作では初期には高橋留美子
先生のタッチがラムちゃん風だったのが、だんだん回が進むごとに
まろやかな目の優しい美人に変わって行く。しかし、これは原作者の
タッチそのものの時代変化であり、表現による登場人物の容貌の
変化ではなかった。1980年から1987年までという長期連載で、
原作者自身の描画タッチに変化があったのだ。
初登場の響子さんは中盤以降のイメージとは遠い、ちょっと妖艶な
感じの描画だったのだ。


しかし、TVドラマはやってくれた。
響子さん登場のシーンもまったく原作と同じシーン描写であるなら、
響子さんそのものもこの原作のイメージそのものの雰囲気を女優
伊藤美咲さんが演じている。服の雰囲気まで似せるというスタッフの
こだわりに脱毛、いや脱帽だ。
この眼の輝きは響子さんそのものだ。


スナックのホステスの朱美さんを高橋由美子さんが演じるというのでどうか
と思ったが、ドラマではまったくもって原作の朱美さんにしか見えなかった。
リキ入ってるわぁ、このドラマ。スタッフもキャストも。

TVドラマの作品のほうはセットにも気合が入っていて、ウルトラリアルな
一刻館が
オープンセットとして建築された。ただ、時計の針は見えにくい。
原作は1980年に五代君の受験失敗から始まるが、TVドラマは時代設定を
3年ずらして1983年を物語の始まりとしている。84年に1浪受験なので
原作の五代君は私の4学年下という設定になっている。
だがおかしい。ドラマの一刻館住人控え帖記載では五代君は1963年5月4日
生まれであり、私の3学年下だ。84年受験ということはすでに2浪している
ことになるし、1浪であるならば私の4学年下でないと整合性が取れない。ドラマの
年齢設定は決定的に辻褄が合わない。1963年5月生まれの現役受験は1982年
であり、1浪後の次の受験は1983年だ。ドラマ開始直後の四谷さんの「3浪はほぼ
確実ですかな」という言葉に対し、「3浪じゃありません。2浪です」と五代君が答え、
「ほぉ~~。やはりもう一年浪人することを視野に入れているということですな」と
四谷さんが言う台詞からして五代君は現在1浪であることが判る。だが、年次が
1年ずれている。ドラマのオープニング設定は1983年の12月であり、1984年1月に
共通一次試験があることからも、1浪後の受験は1984年で確定だ。
しかし、これでは五代君の年齢からして謎の空白の1年が生まれることになってしまう。
時計台のあるアパートと「時の流れ」が背景にあるこの作品において、大きな齟齬
を製作サイドはやらかしてしまったのだろうか。原作通りの1980年を描かずに
なぜあえて3年ずらした1983年とし、五代君の年齢と受験年が合致しないような
ミスを犯したのか謎である。五代君が1963年生まれで来年1浪後の受験を控える
という設定ならば、物語の設定の時間軸は1982年でなければならない。
ここから導き出される結論としては、ドラマの五代君は中学浪人をしたか、なんらかの
理由で大学受験までの期間に1年間学年を留年したことになる。
そして、1983年12月24日の東京の夜は暖かく、雪などは降っていなかった。
年明けの84年は1月から2月にかけて猛烈な寒波と降雪で、横浜では坂道に駐車
した無人の車が滑り出して駐車中の車何台にもぶつかるという事故が起きた程だが、
83年の年末は気候はとても穏やかだった。


ただし、原作でも物理的描写でちぐはぐなところもある。


これは作品第一回目冒頭の一刻館なのだが、その後出てくる
一刻館の建物の造作および敷地広さとは異なるのだ。


このようによく管理人さんが掃いている庭先ほど広くはないのが
最初に登場した一刻館なのだ。

その後いつの間にか敷地は広くなり、門から敷地に入り、この建物に
入るまでの間にいろいろ管理人さんと五代君のやりとりが繰り広げ
られたりした。

そして、私は見逃さない。
原作と大きく違う要素がドラマには露出してしまっていることを。


それは、このドラマを作ったスタッフに学生ウンドをやっていた人物が
いるということだ。それは壁に貼られた「管理人さん 歓迎会」という
貼り紙を見れば判る。
一般人ぽく本来の自分の筆跡を崩して書いてはいるが、すぐに看破
できる。
原作では1980年~1987年というまだ国内でヘルメットを被った学生
が結構いたり、大学でも校門前にはタテカンが並ぶのが常だったにも
かかわらず、一切その手の要素は登場しない。
時代によっては、例えばアニメ『あしたのジョー』では観客に赤いゲバヘル
を被った者がいたり、弓月光の漫画でも受験小学生が校門前でシュプレ
ヒコールをやっていて「全学連みたいだ」というシーンが出てきたりする。
また、「アメリカ横断ウルトラクイズ」でも、立教出身の徳光アナは空港で
アメリカに飛び立つ飛行機に向かって拳を突き上げて「シュプレヒコール!」
とアジっていた。劇画・アニメで有名な『アキラ』の原作者大友克洋の
漫画作品には、必ずゲバヘルが出て来た(どこかで拾った風に7歳くらいの
近所のクソガキがライダーベルトを締めて青い反帝学評のメットを被って
いたり、白バイ隊員が車の中に私的に中核の白ヘルを持っていたりした)。
なにも学生ウンドと関与していなくとも、そうした世代の登場アイテムと
して学生ウンドものが登場したし、牧伸二さんは「あ~あやんなっちゃった」
で「学生ウンド」と歌っていた。かつては、世の中でそこらに普通に転がって
いたのが、学生ウンドだったのである。何も決して特別なことでもなかった。

しかし、そうした世間一般世相としての接点ではなく、まじもんの学生ウンド
文化やセクト文化というものは恐ろしいもので、引退後に
一般人を装っても、
カクメイテキ警戒心を解くと、ほろりと過去の行状が
露出してしまう。特に
文字などは一般人を装っても時代性が出て
しまったりする。七色の書体を
書きこなすには独学ででも書道でも
やって過去を払拭するしかない(笑)。
だから三原市内の某量販酒店の店長の貼り文字なども、観たらすぐに
「ああ。店長は○○大のあそこにいたのね」と判ってしまう。

このドラマでも、映像中の貼り文字から、大よそどこ系のセクトかまで
判ってしまう。

いや~、私なんぞが言うまでもなく、私などではなく、お上はなんでも
おみとおしである
ぞよ(笑)。お上が監視を解くのは墓に入ってから。
ゲバ文字についてくっそリアルに研究して再現していたのは、広島県
尾道市出身のかわぐちかいじ先生の劇画『メドゥーサ』だった。
かわぐち先生は1948年生まれ、尾道北高から明治大学に進んだ。
モロに「あの」時代の人だ。尾道北高からは大林宣彦監督(成城大)や共産同
赤軍派議長だった塩見孝也(京大)も出ている。
だが、新左翼学生ウンドのゲバ字の大元は旧日本軍のプロパガンダ文字
なのである。これは意外と知られていない。

(そのあたりの考察と私の所見については → こちら

出ちゃうんだよな~。スタッフさん(^^;
懸命に「定食屋の貼り文字らしく」としているのは伝わるが。


1979年のこと。
水道橋駅近くのじいちゃんとばあちゃんとおばちゃんと学生のバイト君
だけでやっているかなりにぎわう古い定食屋に入ったことがあった。
安くて美味いと評判だったので、駿河台での首都圏のある会合の後に足を
運んだのだった。

壁に貼られたメニューの文字を見て、うちの学友と大笑いした。
「バイト君、明大だね」と。
フォントは明大記念館前の駿河台の坂にある八枚抜き縦置きのカクメイテキ
なタテカンとまったく
同じ文字だった。
ゲバ字というのは、各大学、各組織によってフォントの手癖が異なる。先輩
から後輩に受け継がれるそれの伝承は西暦2000年前後にウェブ上の「共産
趣味者」(ただひたすら趣味的に社会現象や歴史をただヲチするだけという
趣味者。つまりウンドヲタ。間違ってもモノホンの共産主義者ではない)の間
では「伝統技能」と呼ばれた。タテカンは「伝統工芸」。もはや2000年には
全国でほぼ死滅していたからだ。最後までタテカンを出していたのは明大と
立命館かと思うが、北野たけしや三宅裕司が通っていた頃から21世紀初頭
まで設置されていた学生ウンドの最後の砦であった明大のカクメイテキな
タテカンも、記念館取り壊しと共に消滅した。明大サークルボックスには高校
時代から通っていたが、あそこはまさに1960年代後半の空気そのままの
「タイムカプセル」のような場所だった。しかし、歴史ある大学はどこもそうで、
学生会館やサークルボックスの壁は一面貼り紙だらけだし、哲学的なことや
政治主張の落書きもいたるところにされていた。大学とは、そういう場所
だった。もちろん学生のことを中高生のように「生徒」などと呼ぶ者は一人も
いなかった。


再現映像作品を作るというのは時代考証をきっちりやるということでもある。
そのため、江戸期を扱った映像作品ではきちんと江戸期の文字を、
また明治には明治を、昭和大戦中にはその文字を、戦後学生ウンドを
扱ったものではその通りのリアルな文字を、というのが本来の正道だと
思う。

(学生ウンドに関しては、きっかりと文字やアジテーションを再現して
いる映像作品、劇画作品は皆無に等しい。若林監督にしてもそうで
あるし、映画『野性の証明』での連合赤軍をモデルにしたテロリストの
アジでも然りだ。ただ、曽根監督の映画だっただろうか、にっかつロマン
ポルノにおいて、超リアルな駅頭アジテーションのシーンが出て来た。
こういった本当の実写再現は稀有で、映画『道頓堀川』においても、
主人公邦彦(真田広之)が通う大学の校門前のタテカンは明らかに
歴史事実を知らないド素人が書いた文字だった。『道頓堀川』製作スタッフ
には全共闘世代で大学に通った者がいなかったのだろう。あるいは
一切口をつぐんで知らぬふりをしたか。どぎついリアルを求める「テロル
の深作監督」のスタッフであったとしても知らぬ存ぜぬを通したか)


さて、一刻館のある「時計坂」という駅は実在しないが、東京の東久留米が
舞台だという説がある。
そして、舞台とされた西武鉄道東久留米駅は時間限定でこのような粋な
ことをしたことがある。

駅の看板を「時計坂駅」に書き換えてしまったのだ。しかも字体までまるまる
原作に似せて。

やるなぁ~、西武鉄道!
この点はリアル路線で努力をしていたTVドラマ作品の詰めの甘さを思い
知らされる。
西武鉄道の社員にはすばらしいセンスの持ち主がいるとみた!



なぜ私がこれほどまでに文字の書体や筆致にこだわるかというと、
日本刀の偽銘看破のためなんだけどね。


さて、リアルな接点を求める希求行動の現れとして、聖地巡礼はアニメ
ファンの中では定着したが、これも1980年代からファンの
間ではいろいろ
な作品で行なわれていた。ただ「聖地巡礼」という言葉が
なかっただけだ。

聖地巡礼だけではなく、一刻館そのものを現代建築法で建築できるのか
どうかということを検証した建築エコノミストがいる。これまた凄い凝りよう(笑)。
こちら → めぞん一刻館は今建てられるのか

『めぞん一刻』をお読みになったことがない漫画ファンの方は、ぜひ一度お読み
くだされば。

1980年代の日本とはどんな時代であったかを知るということだけではなく、純粋に
作品として楽しめると思います。
今の時代のように毎日殺人事件が起こるような世の中ではありませんでした。
そして、人は個人利益の世界に閉塞していなかった。
そんな今の時代とは遠い世界のような話ですが、時間というものは実は区切りが
あったり途切れたりはせず、連綿と今に繋がっているものです。
『めぞん一刻』は、そんな今の時代に忘れてしまいそうな何かを思い出させて
くれるに違いありません。
私にとっては心に残る昭和の名作ですが、どうしても「遠い過去の作品」と切り
捨てる
ことはできません。

でも、こういうアパートメントって少なくなったよね。
1980年代まではこのようなアパートは結構あちこちにありました。
私の友人たちが何人か住んでいた東急池上線洗足池近くのアパートも映画の
一刻館のような感じ
でした。その名も「洗足池会館」(現在取り壊し)だった(^^)
日本の街の風景が一変してしまったのはこれまでに何度かあります。
それは明治に入ってからと、昭和の終戦直後。そして、1973年頃の高度
経済成長の終わり頃、それから1988年のバブル開始の時です。
それでも1989年頃までは、戦後からの風景が東京だけでなく各地の「街」
には残っていました。それもバブル期に一気に様変わりしました。
首都圏の歴史ある大学も建物が老朽化して建て直しの時期に来ていた
時期と好景気時代が重なったので、ほとんどの私立大学は文化遺産建造物
を除いて校舎を建て替え、近代高層建築で宇宙局のような建物ばかりに
なってしまいました。昔の手塚治虫先生の漫画に出て来たような建物に。


アパートの大家さんの子でもある私ですが、男版響子さんのような
ドラマはありませんでした(笑)。
そして、親と同居の16歳までは持ち家自宅住まいでしたが、親と高校の
時に別居して親が東京から広島に転居し、私はそのまま都内の高校に
通学してからは、高校時の親戚の家の居候時代を除いて広島に30代後半
で転居するまで、ずっと私はアパートや借家という賃貸物件に住んでいました。
結構、賃貸物件住まいも悪くないもんです。特に若い時には。
一時住んだ東急池上線石川台駅で降りる街並みが好きだったなぁ。
住んだ期間は横浜の鶴見の眼鏡橋のそば長かったけど、あそこも風景が
良かった所です。裕次郎の『陽のあたる坂道』でのロケ地に私は住んでいた。
坂のある街は風景に変化があって、住んでいてもなんだか落ち着きます。
だから、親と別居している今も坂の途中にある場所を選んだくらいで(笑)


(1958年作品)





横浜と東京西部は結構坂がある土地なので、「富士見」と名の付く
場所がかなりあります。高層建築物がなかった頃は見晴らしが
よかったのでしょう。

そういえば、考えたら、私が今の妻(後にも先にも妻は今の妻しかいま
せんが)と大昔に暮らし始めたのも、一刻館のようなアパートメントでした。
総一郎さんはいませんでしたけど(^^)
まだ妻でも夫でもなく、互いに大学生でした。
その後、途中一度離れましたが、知り合ったのは互いに10代の頃で、
先日も「長いねぇ」と妻は言ってました。知り合ってから今年で35年です
から、それはやはり長いことかと。今まで喧嘩は2回しかしたことがあり
ません。これ不思議。互いに認め合い、過分な干渉はせず、信頼し合って
いれば、穏やかな時間が流れるようです。なんというか、どっしりと物凄く
安定している。未成年の頃からのつきあい(付き合ったのは私22歳、
彼女20歳からだけど)というのは、プチ幼馴染みたいなもんです。もう、
包み隠さず、いいところも悪いところも互いにひっくるめて互いに請け負う
という感じです。
私と苗字が同じ東京のイトコは中学校のときから付き合ってた彼女と
結婚したし、都内に住む母方のイトコも中学の時の同級生と結婚して
います。それもなんだか青春だよなあ(笑)。その2家族も今でも夫婦が
友だちのように仲がよい。なんというか、異性ではなく同性の友だち同士の
ような感じなのです。うちもそんな感じ。
でも、こういうのは縁ものなので、望んで実現する訳でもないし、「結婚の
条件」というようなのを敷いたら実現しない物語だと思います。
ごく自然に、時は流れる。
けれど、自然な時の流れの中に身を委ねることを望まないならば、望まない
結果を得ようとするのだから、望まないことも望むことも望まない結果しか
やってこないように思えます。
青臭いことは言いたくはないのですが、人とのつきあいは、やはりまず心かと。
不思議なもので、エゴイスティックな「私心」というのはなくなるんですよね。
夫婦はどこまでいっても血のつながらない他人ですが、心がそうなった時、
はじめて「家族」になるような気がします。


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赤い糸

2015年06月27日 | 内的独白



よくさぁ、「運命の赤い糸」とかいわれたりするのあるじゃん?
そんでもって、「私はこの人と出会う運命だったの」とか「切っても
切れない赤い糸で繋がっていたの」なんて舞い
あがったりとかさ。
恋愛熱病にかかった男女にときどき見られるけどよぉ。

それって、ねぇから(^^;
そういうのは見えないし、元々存在しないんだから。

それに、運命の赤い糸なんてのは見えないほうがいいに決まってる。
だって、赤い糸が見えてだよ、その先をずっとたどって行ったら、
こんな沼の中に続いていたりとかだったら、おめぇさんどうするよ?(^^;


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