渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

仕事納め

2012年12月30日 | 外出・旅

昨日の夕陽からすると、きょうは晴れかなと思ったら、かなりの雨だ。

瀬戸大橋を通り、本州に戻る。


瀬戸大橋には、途中の予島(よしま)という島に橋脚が立ち、サービスエリアが
設けられている。瀬戸内海のど真ん中のSAなので、景色も良い。
かつては橋の東西にわたりSAがあって、東側はフィッシャーマンズワーフとして
お土産専門店があったが、2011年11月30日に廃止されてしまった。現在は廃墟
のようになっている。

フィッシャーマンズワーフ跡地


こちらの第二SAからは遊覧船「咸臨丸」が就航しているが、これもそのうち廃線に
なりそうな予感・・・。

咸臨丸と予島SA

予島SAは眺望の良さともうひとつのウリがある。
それは讃岐の国だけに、うどんが美味いのだ。
第一SA予島プラザ内の食堂のうどんがなかなかいける。

じゃこてんうどん。


じゃこ天とは、魚のすり身をさつま揚げのようにしたもので、現愛媛県の
宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が故郷仙台をしのんで職人を連れてきて
生産をさせたのが始まりとされている。瀬戸内のじゃこ天は有名だが、
どうやら宇和島が発祥らしい。それもたどれば仙台にルーツがあるようだ。
仙台はかまぼこが今でも名産になっているよね。復興を祈ります。

ということで、今年の仕事はきょうでおしまいにした。
自分で行動計画立てられる立場だけど、仕事って、いつまでもやっていたら
きりないからね。だらだらと休みの日や自宅に持ち帰って仕事してるのが
「できる」と勘違いして
いるオバハンやおっちゃん連中がいるけど、あれ大きな
勘違いですから。
仕事ができないのよ、そういう人は。

大晦日は『笑ってはいけない・・・』を見て笑うことにしよう。


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淡路島に沈む夕陽

2012年12月29日 | 外出・旅


明石大橋を渡り、本州から淡路島へ。
空が良い。




うむ。空が良い。


640キロ走った。
帰らず、どこかに泊まるか。

結局ここに来た。高松の「ビリヤード吉田」。


穴せめぇ〜(笑

ドキウコ(撞球会)くらいかな。

でもって、撞く。マスターがキュー貸してくれたよ。


すごいね、このキュー。俺が一番欲しかったはこのザンボッティのデザインだ。奥村モデルみたい。
う〜ん。奥村さんのは、S字インレイがフラットだったかな。よく覚えてないけど。



店のお客さんのA級の人が相撞きしてくれました。ありがとん。

ビリヤードの面白さはね、キューを持っていろいろな店に立ち寄るのよ。ふらりと。
それがまるで武者修行のような感じで、そこで一人で撞いていると、必ず誰かが
「よろしかったらご一緒に」と声をかけてくれるの。声をかけるまでは大抵こちらの
腕を見計ってるのね。これが昔からの「玉屋」の風習なんだ。たぶん賭け玉の
時代の名残りなのだろうけど、「素玉(=賭けでないスポーツ)」だとしても、大抵
今でも声をかけてくれる。もしくは、店主がお客さんを紹介してくれる。
その場面で問いかけられるセリフは不思議なことに日本全国定番だ。
「普段はどちらで撞いていらっしゃるのですか?」
必ずこのセリフが出てくる。「いずれのご家中か。御流儀は」みたいな感じで。

このセリフが全国版だということは、西日本に引っ越してきてはじめて知った。
私は都内のほぼすべての撞球場で撞いたが、どこでもこのセリフが存在した。
また西日本では、
大坂でも、中国地区でも、四国でも、九州でもこのセリフを投げ
かけられた。このセリフはアマもプロも問わず投げかけてくる。一人で撞いていると、
プロも大抵はこのセリフで声をかけてくれる。

ただし、こうしたやりとりが行われるのは本式のビリヤード場=玉屋だけのことだ。
数年前から登場した
ネットカフェやアミューズメントのような本物ではないビリヤード台が
ある「遊び場」
ではこうした文化は一切ありません。玉撞いてるの素人さんばかりだし、
そういう本式でない場所は。

この今でも残っているビリヤード文化は日本だけかと思ったら、考えたら映画『ハスラー』
でも「どこの出身だ」というミネソタ・ファッツのセリフがあったので、アメリカ合衆国でも
似たような文化がかつてはあったのかも知れない。
だが、『ハスラー』から25年後の1986年の『ハスラー2』ではそのようなやりとりが
一切なかったので、合衆国ではすでに80年代にはすたれていたことが想像できる。
最近、戦隊物がアメリカでも大流行らしいが、アメリカ人が不思議そうに言っていた。
「なぜ登場の時に自分の名を名乗るのか」と。あれね、あれは日本の伝統的な
風習なんだよ、サムライからくる。と説明したが、でも「なぜ」というのは理解が及ばない
ようだ。名乗って正々堂々の一騎打ち、というのは、英仏人には理解できても、
騎士がいなかった合衆国の人には理解しにくいみたいよ。

日本のビリヤード場での「撞ける人」同士のやりとりは、昔の侍のやりとりのようで
なんだか面白い。
こういうのは、この世界の中に入らないと、つまり一歩踏み出さないと知りえないこと
だろうと思う。
本式に玉を撞く人というのは、どなたもとても礼儀正しいしね。ポケット・ビリヤードも
礼儀正しいけど、キャロム(穴なし台で撞く競技)の人はもっと礼儀正しい。
ただ、最近世界的には強いフィリピンのプレーヤーはそういう礼儀は一切ない。
フィリピンではビリヤード=バクチだから、礼儀など育つわけがない。
実際にフィリピン・プレーヤーと競技してみたら、あまりの文化の違いに驚いたよ。
わざと台汚したりチョークの粉を落としたり、こちらが撞く直前に音を出したり等々、
汚い手管使うの当たり前だし、マナーもへったくれもあったものではない。
正々堂々と勝負して勝ちたい、という映画『ハスラー』の中にあった精神、というものは
まったく存在しないのがフィリピン・プレーだよ。あと中国人ね。ビリヤード後進国
だった中国は、最近国家的テコ入れでものすごい躍進しているようだが、90年代
後半のブクロあたりにいた大陸の人間もエグかったなぁ。プロなの隠して素人から
かっぱいでいたしね。ゼニカネにしか興味がないみたい。「社会主義」の国の人間
なのに(笑)。中国人の女性もゼニカネがすべての判断軸で、「すごいね〜。
このニセモノの社会主義の国の人間たちは」と思ったよ。
ビリヤードでは、フィリピンとか中国を相手にすると、勝っても負けても、まったく
もって気分が良くない。
そりゃあ勝負の世界は勝ってナンボだろうけど、小汚い手を使ってでも勝つという
のは、日本の撞球師には馴染めないのではないかなぁ。それを指して「日本のプレー
ヤーは甘い」とか言う日本人もいるけど、俺はそうは思わない。それで勝っても、それは
そういう手で勝ったのであって、本来の技術力で勝負したことにはならないでしょう?
サッカーの強い国の人間が、プレー中に対戦チームのメンバーのユニフォームを
審判に見えないように掴んでいて、それを指して「勝ち方知ってるよな」と言った南米人
がいたけど、それって違うと思う。

ビリヤードでも、技術力で勝負するのでなく、小汚い手を使って勝ちの助けとすると
というのは、あくまでも小汚い手が長けているかどうかであって、本筋のビリヤードの
技術での勝負ではないでしょう?
ボクシングでも、頭突きしたり「ええか。肘で目狙っていけ目」とかいうのは、そうまで
して勝ちたいのはなんなの?なんだか、ラッパ、スッパのやり口で勝ってもどうなの?
みたいに思えるのよ、私は。
でも、ボクシングのプロの世界でもそれを平気でやっちゃう人間がいるのだから、
えげつなくひどい話だ。
武術でも「勝ちゃあいいんだ」というのを旨としている人もいるみたいだけど、
どうなのかなあ。大切な「名誉」は守られないよ、それで勝っても。まあ、武士らしくは
ないし、誹りは受けるだろうね。
映画『ハスラー』の中でも描かれた「金は関係ない。金が絡まないところで真剣勝負が
したい」と表明して頭がいかれてると思われたエディ・フェルソン(ポール・ニューマン)の
心意気というものは、そうした気概が銭金にのみ囚われた人たちの世界の中で孤独感
にさいなまれていき、「本当とはなんだ?」「本物とはなんだ?」という映画のテーマに
さえなるほど輝きを持っていた。
映画『ハスラー』はアカデミー賞にノミネートされたが、残念ながらその年のアカデミー
賞は『ウエスト・サイド・ストーリー』だった。昔はいい映画が多かったね。
しかし、勝負の本筋に何を求めるかを見誤ると、俗人たちの暗黒面に支配されて
しまうように思えるのよね。こうしたことはビリヤードでも武道でも同じ地平にある
ように思える。囲碁や将棋はいいよね。真っ向勝負だから。
ビリヤードの世界では、アミューズメントではない「玉屋」には、まだ名を惜しむ気風が
残っているから好きさ。


 


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「論文」について思うこと

2012年12月29日 | 日本刀

今年の夏だったか、剣友に疑問をぶつけてみた。
「刀剣界では、たかだか刀屋の販売誌や会報等に載せた文章を『論文』と自称する
風習があるんだよね。あれはどういうことだろう」と。

友人は言下に、「大学に行ってない、もしくは学問の世界を経験していないのでしょう」
と答えた。
これが正解だろう。
「論文」というのは、学会などで発表されて初めて「論文」というものになる。
単に研究課題を私的に書き連ねたものは「作文」であり、単なる論述を「論文」と
呼ぶことはこの世にはない。ないことを刀剣界の連中はやろうとしている。
無知なのだろう。あるいは無学なのに権威づけのためか。
歴史学会なり、考古学会なり、冶金学会なりで発表してください。きちんと学術の
学会員になって。

そうして、はじめて「論文」となります。大学生の卒業論文も、学術界・教育機関で
認められて、はじめて文科省から認可された単位となり、「論文」となるのです。
単なる私的な作文を「論文」と自称・僭称するのは恥ずかしいからいいかげんに
やめたほうがよい。日刀保各支部のお歴々たちと美術刀剣界の方々は。
ブログに書いた作文も「論文」とする人がいたりして、もう目を覆う・・・のが斯界の
現状です。
どう転んでみても、人としてレベルの高い世界とは呼べないよね。偽物を忌避する
世界でニセモノがまかり通るのだから。Mなどのオカルト雑誌の記事を「論文」と
呼ぶに等しい。疑似科学の世界と似たり寄ったりが刀剣界の現状でもある。
学術界が刀剣界をあまり本気で相手にしていない理由がなんとなく分かったような
気がする。学者たちの刀剣に関する無知は、刀剣の媒介者たちによって興味を
そそられないからだろう。まさに論を俟たないというやつだ。


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キューの切れ味

2012年12月28日 | スポーツ・武道など

Sick Pool Trick Shots MUST SEE


この子、キューがよく切れているなぁ。マッセも巧いね。
中学生くらいかしらね。
自宅のホームテーブルだから台の大きさが2/3大なのはご愛嬌。

セット玉は出来玉だから面白くないけど、見どころはキューを立てずに
平らにしての
押し抜きやキリ引きだ。手玉がまるでマッセのような動きをする。
これはキュー切れがよくないと絶対にできない。つまり腕がないとできない。
そして、よく見ておいてほしいところ。それはラシャだ。
練習の痕跡でラシャがボロボロになっているのが判る。
ようするに、練習もせずに頭で理解しただけですぐに名人になることなど
あり得ないのだ。これは武術も一緒だ。体を使うことはすべて一緒。
頭でっかちになってはいけないよ。実力もないのに。
武術やってる奴に多いんだよなぁ、そういう人。かなり痛々しい裸の王様だよ。


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験を担ぐ武士たち  〜刀装具〜

2012年12月28日 | 日本刀


肥後縁頭 雁に水辺の図

刀の柄(つか)に装着する金具に縁頭(ふち・かしら)という物がある。
上の画像の左が柄頭に着く「頭(かしら)」で左が柄の鍔元に着く「縁(ふち)」である。
刀の外装である拵(こしらえ)にはこの金具がなくてはならない。

たぶん江戸期からもそうであったろうが、この縁頭が揃いではなく別々に
市場に出てくることがある。それらは「離れ縁(ふち)」と呼ばれる。
では「離れ頭(かしら)」というのはないのかというと、縁(ふち)が別に
売られるのだから、当然にして頭(かしら)もある。
しかし、「離れ頭(かしら)」とは呼ばれない。それはなぜか。

生死を常に意識しなければならなかった武士たちは異様な程に験(げん)を担いだ。
出来る限り、いくさ場以外、本分以外での死を連想させる物を避けるようにした。
江戸と上方で鰻のさばきかたが背開きか腹開きかの違いは、武士が多く居住した
江戸では、腹から切り裂くことは「ハラキリ」に通じるので、料理人たちがこれを
憚ったからだ

タクアンにしても人様に出す物は「ふたきれ」が東京では常識となっている。
これは「一切れ」
は「人切れ」につながり、「三切れ」は「身切れ」につながるからだ。
だから、
東京では今でも沢庵は一切れでも三切れでもなく二切れが常識なのである。
「二(ふた)切れ」は火縄銃の火ぶたを切る「ふた切れ」にも通じるので、武士には
好まれる。
たったタクアンのキレッパシひとつとっても、こうした風習が東京の蕎麦屋などに残って
いるのは、
武家居住地であった日本最大の城下町=江戸としての名残りだろう。

これらの背景があるから、武具である縁頭(ふち・かしら)についても、
「離れ縁」=「離れ扶持」は別な士官を求めて主を離れること(ニ君に仕えずと
されたのは平和な江戸中期以降に捏造された新武士道であり、従来の古く
からの日本の士道においては武士は独立した個体ゆえ主君は自分で選び、
主が不届きであるならばさっさと主替えすべきとされた)であるので、別段
いとわないが、「離れ頭(かしら)」は斬首で首が飛ぶことに通じるので、
これを強く忌避したため金具の頭片方しかなくとも「離れ頭」とは呼ばなかった
のではなかろうか。また「離れ縁(ふち)」の方は「離れ縁(えん)」にも通じ、
武士の潔さとも背反しない。

ところが、不思議なことに、市場に出回る離れ金具は圧倒的に「離れ縁(ふち)」
本体の方が多いのである。
これはどういうことだろう。
あくまで推測だが、本来は頭(かしら)と縁(ふち)が揃っているところ、頭は
柄糸の押さえのために絶対必要だが、縁はなくとも刀を抜刀して斬り合い
しない限りはさしあたってはなくても糸はほどけない。ゆえに、浪々の身に
あった武士たちはまず目貫金具を売り、そして次に縁を取って売却して
糊口をしのいだのではなかろうか。
しかし、残った頭はどうなったのか。武士が存在しなくなった現在、つじつまが
合わない。縁があるなら、ほぼ同じ数だけ頭がないとならないのに市場には
出てこない。
答えは「廃棄処分」されたのだと思う。
これもあくまで想像だが、頭(かしら)を離すとき、それはそれこそ最後の最期と
武士たちは
考えたのではあるまいか。
もしくは、圧倒的に離れ金具としての頭の数が少ないことに説明がつくような
未知の出来事、しかも歴史上誰にも知られていないような出来事があったか。
肥後拵は武辺一辺倒ではなかった芸術肌の細川公が考案した日本刀拵で
実用的かつ優美な拵として歴史に名をとどめているが、なぜか肥後拵は離れ
金具が多い。これも歴史研究の一材料として考察を要する事項だと私は思う。
実際には縁のほうが頭に比べて作られた数が多いのではとの疑問もある。
頭に角を使うことが多く行なわれたからだ。当然縁のみの数は増える。


離れ金具は金銭換算の面では著しく価格が下がる。縁頭(ふち・かしら)と揃って
いる金額が縁と頭でばらばらになると価格はそれぞれ2分の1ということには
ならない。ひどいときには片方が10分の1くらいになってしまうこともある。
書画骨董の金額というものは「相場」であり、あくまで作られたものであって、
金額というのはあってないようなものということがよく判る。

新規に日本刀の拵を作る場合、気に入った縁(ふち)を手に入れたがどうしても
それに合う頭(かしら)がなかったらどうするか。
似たような作風の金具を別々に揃えることを骨董業界では「合わせ」と呼ぶ。
中古車業界では「ニコイチ」などと言う。
たとえ合わせでも、よく似ている作風、縁と大きさと幅のマッチする金具を探して
くるのは容易な
ことではない。
市場には圧倒的に縁(ふち)の数の方が多い。
ではどうするか。
そういう時には、天正拵などの頭に使われる「水牛の角」がおあつらえ向きだ
(誂えではないが)。

この角頭(つのかしら)というものは、東南アジアの水牛の角を磨いて成形し、
黒漆で仕上げた物だ。

天正拵えに見られる角頭の掛け巻きなどは、後に江戸幕府の礼装用刀装具にも
用いられた。
なかなか品がある。

角(つの)に穴をあけて金具風にする方法もあるが、いささか現代風だ。
しかし、さりげない装備としてはこれも大いにアリかと思われる。


この水牛の角の穴に「しとどめ」と呼ばれる細工彫りがあしらわれた金具をはめて
柄糸を通せば
かなり引きしまる。
程よい金具の頭が見つからない時の妥協案として
だけでなく、これはこれでもそこそこ
良いのではないだろうか。

そして、思うに「しとどめ」は「死 止(とど)め」につなげているようにも思える。(しとどめの
別名は「ひとどめ」)

ただし、この角頭を用いた場合、風呂桶のような形状で内側に深みがある一般的な頭金具
のような形状と異なり、角頭は柄木に当たる面が面一であるので、頭は「柄木への接着」と
柄糸の巻き締めによってのみ固定される。当然、柄木が中に入って固定されさらに柄糸で
締め上げられる金具の頭のようにがっちりとした堅牢性はない。実際に角頭が着いた柄で
数多く切り試しをしていると、接着がはずれ、やがてはぐらぐらになってくる(経験済み)。
角頭は実用的ではない。実用にはやはり金属製の金具で柄木が中に入り込む頭を選択する
べきだろう。
角で中コミを削り出すと「割れ」が生じる危険性があるので、これも得策ではない。
やはり実戦的な柄頭は金属製に軍配が上がる。天正拵を「実用的」とする見解も美術刀剣界
には存在するようだが、私ははなはだ疑問である。
一番実用的な金具は、太刀拵のように柄木の呑みこみが深い金具であろう。太刀は実用を
前提に考案されているので、かなり頑丈である。日本軍の軍刀も戦国武士の太刀拵を
参考に製作されていたが、私見では最終の三式が一番堅牢性が高いように思える。
美術刀剣業界は軍刀を蛇蝎のように毛嫌いするので、刀剣や刀装具の本当の実用性など
には興味がないと見受けられる。その見識が戦国期の刀装にまで及ぶとしたら、如何とも
し難し。出口のない暗闇に向かう亡国のイージスに乗っているようなものだ。


武士は駄洒落のように験を担ぐ。
武士が用いる武具の意匠にトンボが好まれるのも、トンボは前にしか進まず、飛びながら
虫を攻撃して捕食するゆえに勝虫(かちむし)と呼ばれ、その在りざまが武士に好まれたからだ。
西洋人はトンボを「フライング・ドラゴン」と呼んで、とても「怖い虫」と捉えているのに対し、
日本の武士はトンボをことさらに好んだ。
勝ち虫という名称自体がすでに武士好みで
あるのだが、勝虫は「かっちゅう=甲冑」とも
読めるので、なおさら武士たちは虎や鷹や龍と共にトンボを好んだ。

ほとんど駄洒落オチのような噺だが、こうした験担ぎの文化風習は、明治以前には
音が同じであれば使う漢字には厳密性を求めなかった日本の世相文化ゆえの発想
だった
のではなかろうか。駄洒落なりと一笑に伏すことはできない。




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過ぎ去ったきのうの日月

2012年12月28日 | 外出・旅

昨日の夕日。坂を下っていくと、広島の海が見えた。


日が沈む頃、東の空に月が出た。安芸の国、大山(おおやま)に昇る月。


夜−
向かいの山のふもとにはホテルがある。
谷を抜ける国道の右には大山。
月の光が優しくおまえを照らしているから。


1580年2月。
この大山の山麓で私の刀、「安芸国大山住仁宗重作」と銘のある一刀が命を宿した。
決して忘れえぬ、忘れてはならない出来事・・・。
424年後の10月1日。この山にはまだ青々とした葉が、かすかに風に揺れていた。


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螺鈿(らでん) 〜日本の美〜

2012年12月27日 | 文学・歴史・文化



正倉院の宝物にも多く施されている螺鈿(らでん)の技術。
元々は奈良時代に唐から輸入されたが、平安時代に漆技術の発達と
ともに急速に日本国内で発展を遂げた。
貝を煮て外皮をはがして削っただけで、光を受けたら角度により
色が変わる美しい貝片になる。これと漆器の技術が融合して日本の
螺鈿技術は発達してきた。
厳密には零コンマ以下の薄貝を青貝と呼び、1ミリ以上の厚みの貝を
用いる技法を螺鈿と呼ぶらしい。
西洋でもこうしたインレイ技術はやはり歓迎され、アコースティック
ギターのインレイなどに採用されている。
しかし、日本の螺鈿技術はかなり繊細で高度な匠の技と思える。

刀の鞘にギンギラギンではない螺鈿をひとさし施した物などがあったら、
とてもお洒落だろうなと思っていたら、そういう拵(こしらえ)はあった(^^

風に舞う桜花の花弁。ジャパン!である。

ゴテゴテさせてないところがよい。


ピンク色はこれは貝の染め技法だろうか。


日本人はなぜ武器である日本刀に美を求めたのか。
これは外国の人にはなかなか理解できないことかもしれない。
今の日本人でもよくわからないことかもしれないし。

上の刀はこちらで販売中のようです。 勇進堂

拵も粋だが、この刀めちゃくちゃ切れそう・・・。
価格はこのクラスで四半世紀前のバブルの頃から50万円程安くなっている模様。
日本刀の相場がいかに崩れているか。
廃刀令直後は日本刀はどんな名刀でも二束三文だったそうだが、現在の価格が
それに迫る感じがする。とはいっても、重刀クラスはそれほど値崩れはしていない。
そもそも投機的目的で刀を扱うこと自体私には抵抗があるし、日本刀の価値を
換金利率にしか求めない感覚の主とは会話をする気にもならない。

でも世の中、結構そういう人多いんだよねぇ。犬連れていたら「この犬高いんでしょ?」

とか訊くような人間なんだな、大抵そういうのは。
日本人にあって、すべての領域において「ゼニカネに換えたらナンボ」というのがモノを
見る判断の中心になったのはいつからなのだろう。
もしかすると、それは近現代の資本主義が入ってきてから醸造されたものではないかも
しれない。
現代に思う。「よい学校」「よい職場」「よい縁談」・・・。すべてつきつめると、地位や名声や
経済的裕福さなどが判断軸になっている。こうした「格差」を是認する思考法は、
前時代の封建時代に育成されて日本人に染みついた観念なのではなかろうか。
人の意識は格差を是正する方向には向かわず、自分だけがそこから脱出すればそれで
よしとする。自分だけ、おらがとこだけを基準に考える。いきつくところはゼニカネ
判断軸と
同軸になっていく。

数年前意図的に流布された大嫌いな言葉に「勝ち組、負け組」という言葉がある。
最近あまり使われなくなったが、やはり「経済格差」を「あって当たり前のもの」としたい勢力が
意図的に流布した一過性の言語だったし、そのステレオ概念そのものがナンセンスだし、
どうにも首肯できないものだったので、私はその言語を職務においても使ったことはない。
自分で言うのもなんだが、無思慮に流行語をエヘラエヘラ使う程、軽薄ではない。
この「勝ち組、負け組」に代表される感覚がなぜ起きるのか。
それはそうした概念と現実が当たり前だとすると得をする人間たちがいるからだ。
しかし、私は経済的に裕福になった者がどうして「勝ち組」なのかよく解らない。
ゼニカネにすべての判断軸を集中させるその精神はまったく受け容れられない。
アメリカンドリームのアメリカ人の真似してるのか?日本人も。
いくら経済面だけ欧米人の真似をしても、日本人は日本人だぜ。

今の時代、清貧というのはもう存在しないね。
今の若い子たちも、貧乏が悪いことではなく、貧乏人が悪いことのように勘違いしているもの。
若い子たちではないな。1980年代末期のバブル経済の時に日本の女性の雅は死滅したし。
愛の表現は手編みのマフラーから「アッシー」「メッシー」の要求へと変化した。

金満主義にいち早く飛びついたのは女たちだった(企業側策士によって戦略的に飛びつか
された哀れな人たちなのだけど)。

刀の価格は、よくよく思案すると、現在の価格が適正なのかもしれない。
バブリーな頃はやはりどうかしていたよ。
1980年代初期〜中期のスタグフレーションを脱したのは80年代末の金融緩和であり、
これによって不動産投機などが活性化して景気が潤ったが、超極限インフレの行きつく
先は一挙的な金融引き締めによるバブルのポン!と音を立ててはじける日本経済の崩壊
だった。
その後「失われた10年」が「失われた20年」となり、今では「失われた四半世紀」となって
しまった。
インフレ政策がいいわけないでしょ?一時的な潤いはあくまで一時的なもの。
自分の任期中だけ一時的に景気回復して「あとは知らね」と逃げ出す為のカモフラ公約
だとなぜ多くの人は気づかないのかなぁ。
「取り戻す!」と言っている本人が一番日本の本当の美を壊すことをやろうとしているのだけど、
まあ、国民も自分たちで選んだことだから仕方ないね。堕ちるところまで堕ちてください。
もう泥の船には乗ってるのだから。

 


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和服の季節

2012年12月26日 | 文学・歴史・文化



そろそろ和服の季節がやってくる。
本当ならば、日常的にいつも和服を着ていたい。
しかし、仕事柄それもままならないので、仕事着である
背広の洋服を着ている。
夏休みと正月休みは和服を着て過ごせるので、それが嬉しい。

過去の和服に関するエッセイはこちら


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元禄会津藩御様(おためし)の談

2012年12月26日 | 日本刀



時は元禄十一年(1698)、師走も迫る肌寒い霜月のことであった。
会津藩主松平正容(会津保科家三代目。二代目の弟、初代保科正之の六男。初代
会津松平)は藩工として召し抱えた古川孫右衛門兼定と三善藤四郎長道の両名を
召し出した。それぞれが鍛えた一刀を共に試し比べをすることを藩主松平正容は所望
したのである。
試斬するのは一束の真綿であった。
日本刀は堅い物は切りやすいが、柔らかい物は実に切りにくい。乾いた真綿の束などは
衝撃を吸収してしまうのでまず切れたものではない。よほど刃付けをカミソリのように
しておかないと切り込んでは行かない。
さて、試しとなった。
兼定は見事にこれを両断した。
しかし、長道は斬り損じてしまい、大いに面目を失った。
城から辞退する際に、憤懣やるかたない藤四郎長道は、いきなり刀を抜いて城門の
乳輪に斬りつけた。鉄製の乳輪は見事に両断された。
だが、藤四郎長道は鉄を切ったその刀を掘に投げ捨ててその足で菩提寺である城下
蚕養町の法華寺に赴いて墓前で切腹して果ててしまった。
藩主正容は三善長道の死を深く惜しみ、隠居していた利右衛門政長に三善家の
家督を継がせた。三善家はこれにより子々孫々まで永らえたのである。
この一件は城の内外に広まり、これ以降、会津家中をはじめ城下の衆までが
兼定を「真綿斬り」、長道を「鉄斬り」と呼んで末長く賞賛した。

というのがこれまで喧伝されてきた会津藩における元禄試斬の様子である。
しかし、いささかというか、かなり眉つばで出来すぎた(=出来の悪い)話だ。
なぜならば、当事者の没年が合わない。藤四郎長道は貞享二年(1685)に53才で
没している。この試斬のオハナシである元禄十一年(1698)の13年前に死んでいるのだ。
しかも、藤四郎の父である三善利右衛門は正保五年(1648)に死亡している。元禄十一年
時点で隠居していたとする利右衛門(実際は死亡後50年経過)を呼びだして家督を継が
せるとは、幽霊にでも家督相続させたというのか。

ならば、藤四郎長道の子の長道のことかというとどうもそれも怪しくなってくる。
普通に考えれば藩主の面前で面目を失ったことで切腹というよりも、城の門扉に抜刀
して斬りつけたことの方が負い目が大きいはずだ。城門にそんなことをしてただで済む
わけがない。切腹ならばこちらが理由となる
のが筋だろう。武家の感覚からいくと、やぶれ
かぶれにふてくされて城で抜刀して
城郭損壊に及んだりしたら、そんな乱心はそれだけで
腹を切るには十分な理由となるし、そのような
無軌道を藩主召し抱えの御用鍛冶の刀工が
為すとは到底思われない。大逆に等しい行為だからだ。そのような行為に及んだ士を
哀れと思って藩主がことさらに取りたてるだろうか。城は藩主の家屋、一国を鎮護する
館である。現代に置き換えてみればよい。皇居で天皇陛下の御前で試しがあったと
しよう。不面目な結果に憤り、皇居の建物に斬りつけたとする。その人物の子を宮内省が
哀れに思って取りたてることがあると思うか。実際に明治天皇の御前で兜割り試刀会が
催されたが、榊原健吉が同田貫を使って兜を斬った以外は、すべての剣士が不面目な
結果となった。なかには刀をグタグタに曲げた者もいた。彼らが憤って皇居に斬りつけて後
自刃したら子孫は明治政府から取りたてられていたか。あるいは現代一般企業でもよい。
製品開発プレゼンで不面目を喫した。その者が会社の建物もしくは器物を損壊して自殺した。
社長はその者の家族を哀れと雇用採用して重要な役職に着任させたりするか?
いずれも子孫は排除こそされ、積極的に惜しまれ褒め称えられ御取り立て、ということは
まずあり得ないおとぎ話だ。おとぎ話としてもあり得ない程の出来の悪い与太噺である。
まして、時代は人権もへったくれもない封建時代、絶対領主の時代である。剛直な武家の
しきたりも存在する武家政権の時代である。城門に斬りつけた士は生きながらえも
しないし、その子孫が咎めも受けずに逆に取りたてなどということは万が一にも絶対に
あり得ない。
小説講談与太話の類と現実的な武家政権時代の真実は大きく異なる。
やはり、この会津公の御前試しの話は、元禄赤穂浪士討ち入り後の各藩公による遺族召し
抱えの美談にかこつけた会津藩主を讃える美談の創作であり、武家の本質を知らない後世の
町方の作り事とみるのが順当だろう。町の刀屋あたりが売らんがなのために作り上げた噺では
なかろうか。刀屋の作為的キャンペーンというのは江戸期を通じて大いに大手を振っていたし、
この現象だけは現在でも連綿と続いている。刀屋のこうした常套の行為はすべては真実流布の
ためではなく、儲け=ゼニカネのためである。商売人は武士ではない。ゼニカネのためには
商売人は何でもする。偽物をニセモノと呼ばずにギブツと呼んで業界に積極的に流通させて
きたのは現代まで続く刀屋という存在とそれに寄生して利権を貪る「権威筋」であるし、偽銘
切りや偽物作りを積極的に援助したのが刀屋たちの商人だった。ゼニカネのためには何でも
する。儲けには正義もモラルもない。儲ける為には毒でも売る。放射能を降らせてでも儲ける。
儲けることが正義とされるのが商人の世界であり、商人の感覚である。武家とは感覚が一切
交わり得ない。
いずれにせよ、兼定家と長道家が明治まで「会津の切れ物両家」として心得ある武士の間では
名声を得て
いたことは確かである。それは見た目が芸術的だからではない。武士の本懐を
全うするにふさわしい「切れる刀」だったからである。
刀は頑丈で切れてこそ刀である。
芸術性や美術性が自分の身を守り、主の身を守ってくれるわけではない。人の命と共にある
日本刀は、頑丈で切れることにこそ存在意義がある。これは動かしがたい「絶対条件」だ。

ちなみに、幕末、会津十一代兼定は新選組土方歳三が愛用していた。こちらはお試し噺とは
異なり、史実である。


会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる

民謡『会津磐梯山』は会津地方で広く盆踊り唄となっている。三十番まであるこの曲は会津民謡
の『玄如節』からの転用で昭和十年(1935)頃に小唄勝太郎(1904年〜1974年)のレコード
に収録された。「おはら庄助さん なんで身上つぶした・・・」の御囃子が入り、全国的に有名に
なった。
20年ほど前、東北居合道大会出場の折、士族の末裔である居合の先輩の奥様の実家の
御屋敷に泊めていただいたことがある。
聞くところによると、会津地方では未だに長州人に対して快く思っていない風潮があるという。
特に武家の末裔に多く残っているのではなかろうか。
会津藩は戊辰戦争で庄内藩と共に奥羽列藩同盟として最後まで薩長の新政府軍に抗した。
本当の意味でのラストサムライは会津の武士だ。会津士魂こそ侍の魂だと私は思う。
私の先祖は「官」軍側だが、政治利用のために天皇を持ち出した薩長土肥のかたわれかと
思うと、忸怩たるものがある。戊辰の「官」軍=西軍に本当の赤心などはなかった。
その後の明治以降の国家滅亡の道をたどった勢力と同じく、天皇を自分たちの政治権力の
ために利用したのである。靖国神社などはその典型だ。
最近安倍新総理が皇室の世継ぎ問題で「男系に限る」との見解を発表した。これまで日本の
歴史上存在した女性天皇は天皇ではないというのか。安倍発言もすべて自分ら徒党の
政治主張のために天皇家を利用しつくすものだ。自論の展開のために皇室論をぶっている
だけで、真に天皇家の存続について心を痛めているわけではない。男系のみに限定した
ならば、たまたま現在は男子宮様がご誕生になったからよかったものの、このままでは
将来的に天皇家そのものが消滅の危機に瀕する可能性がある。安倍らは結果的にそれを
助長しようとしている。旧態然とした硬直した頭で「男性優位」を主張しようとする右翼脳の
浅はかさがそこにある。天皇家のことなどひとつも本気で考えてはいない。安倍にとって
大切なのは自己の政治主張を貫徹することだけだ。
皇室はご自分の家のことなのにご自身の意見や意向は一切無視される。明治の「御一新」
以来ずっとそうだった。否、朝廷から政権を簒奪した武家政権ができる以前には藤原に牛耳られ、
それ以前も多くの政治家に牛耳られていた。真に日本の歴史で天皇親政だったのは、
天皇という言葉も日本という言葉も存在しなかった「倭の五王」の時代で終了しているのでは
なかろうか。
現代もすべて政治利用されている。特に国士を装う連中や自民党の連中が天皇制を最大限に
政治利用する。
天皇陛下万歳を叫ぶ連中も自分らの政治主張のために天皇を利用している。自分らに対抗する
勢力を批判するために天皇陛下を持ち出す。
本当の意味の赤心はそこにはない。
何年か前、ある県で国体が開催された。その県の開催市の市長は天皇陛下に拝謁し直立不動で
こう言った。
「今、県の小中学校では日の丸を掲げて君が代を全員で歌うように徹底的に教育しております」
今上陛下は非常に御不快な面持ちになられ、次のように述べられた。
「いろいろなご意見をお持ちの方がおられますので、そのようなことは、無理にはなさらないほうが
よろしいかと思います」
その市長は顔面蒼白になり石のように硬直した。
赤心を知らず、自分の自己主張のために天皇を利用しているという大きな勘違いの例がここに
ある。
先の太平洋戦争の解釈についても、周辺アジア諸国への日本のかつての行ないについて
右翼や安倍政権が主張する内容は、昭和天皇が昭和五十九年(1984)に、また
今上陛下ご自身が平成二年(1990)に直接述べられた御言葉と御心をないがしろにするもの
である。
すべて、自分らの軍国主義的な主義主張を強引に通すお墨付きとして天皇を利用しているの
である。赤心は一切ない。陛下ご本人の意思や御心やご発言とは別なところで動いたり主張
したりすることに何の赤心があるというのか。たわけたことである。

 


【松平-保科-正容】
寛文九年(1669)生、享保十六年(1731)没。
保科松平家三代目。延宝八年(1680)に異母兄の保科正経に子がないため養嗣子と
なる。元禄九年(1696)、27歳の時に松平姓と葵の紋の永代使用が許可されて徳川一門
となる。徳川吉宗の「髪切り親」を勤めた。

【古川孫右衛門兼定】
美濃和泉守兼定の奥州移住系会津兼定(古川孫四郎)の二代目。明暦元年(1637)に
会津保科家の抱工となる。慶安四年(1651)三月に近江大掾を受領。会津兼定家は
利刀の刀工家として幕末まで続き、十一代兼定は京都所司代会津中将松平容保に
随伴して京都に赴き会津家中のために鍛刀した。新選組の土方歳三の愛刀が十一代
和泉守兼定だが、一般的には手に入れることは不可能であり、会津藩と新選組の関係
があってこそ土方は会津兼定を所持できた。

【三善藤四郎長道】
寛永十年(1633)〜貞享二年(1685)。
初期銘道長。寛永十年(1633)会津生まれ。万治二年(1659)に陸奥大掾を受領して
三善長道と改める。切れ味鋭い利刀を鍛え、受領後は会津松平藩抱え鍛冶として
活躍する。作風が似ていることとあまりにも切れるので「会津虎徹」と称された。子孫も
明治まで刀工として続いた。貞享二年に53歳で没。最上大業物。

【三善利右衛門長道】
慶長四年(1599)〜正保五年(1648)。
寛永四年(1627)父長国とともに四国松山から加藤嘉明移封に従って会津に移住する。
加藤明成の転封に伴い、政長もこれに従って会津を出ようとしたが、新領主の保科正之
から引き続き会津の地で鍛刀することを命じられ、定住を決意したと伝わる。「陸奥大掾
三善長道」藤四郎の父。

【会津兼定】
会津兼定の祖は美濃国和泉守兼定(之定)の子である古川清右衛門が弘治年間(1555〜
1557)に会津領主の芦名氏に禄二百石で召し抱えられ会津に移住し、会津兼定家の開祖
となったことに始まる。
清右衛門兼定の子である古川孫四郎兼定は本国美濃より福井藩主松平-結城-秀康の
求めにより越前に渡り、後の文禄(1592〜1595)始めに会津に移住している。慶長年間
には会津藩主の蒲生氏郷に仕えて会津兼定初代となった。孫四郎は寛永四年より綱房と
銘を切る。寛永十四年(1637)八月二十日没。孫四郎以降、兼定家は代々、会津藩の
御抱鍛冶を勤め、兼定銘十一代を数えて明治末期まで血脈が続いた。

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巨匠クロサワのミステイク 〜映画『七人の侍』〜

2012年12月25日 | 映画・ドラマ



黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年東宝)は、洋画邦画を含める全作品の中で
一番の傑作だと私自身は思っている。
『七人の侍』は何度観たかわからない。

しかし、巨匠世界のクロサワも歴史的名作の中でも大きなミスを犯す。
いくつかあるが、ひとつだけ紹介しよう。

野武士が襲ってくることがわかり、村人を軍事訓練した傭兵たる七人の侍たち。
五郎兵衛(稲葉義男)と久蔵(宮口精二)が村の防備の様子を見まわっていると、
どうにも持ち場についた村人たちが怯えている。
「どうもいかんな」と思案に暮れていると、別な防衛拠点の持ち場からエイエイと
気合を入れる村人たちの声が聞こえてきた。見ると七郎次(加東大介)が農民たち
に気合をいれて指揮し、全員で気勢を上げていたのだった。


この時のシーンの久蔵の刀に注目してほしい。
長丸型の鍔で表の左に小柄穴があいている。


そして、一瞬画面が向こうで気勢を上げる七郎次たちにカットが移り、再びすぐに
こちらの五郎兵衛と久蔵にカメラが移る。
「これはよい、こちらもやるか」となってこちらの持ち場でも村人たちを鼓舞するのだが・・・。

ありゃりゃ!
久蔵の刀が別な刀になっている(◎。◎)

丸型鍔で左に小柄穴はなく右に笄(こうがい)穴がある。鍔の表左には
梅鉢の透かしがある。明らかに違う鍔である。


この場面カットが変わる時間はわずか2秒ほど。
ラッシュ段階でちぐはぐさに気づいてももう撮り直しはできない。編集で短く繋げる
ことでちょっと見には違和感が
ないようにしたのだろう。

このようなことはごく最近の山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』にも存在する。
この『たそがれ清兵衛』は、撮影上の違和感がないように、徹底的に
シナリオと映像と演出にこだわりぬいた作品だというのがDVDのボーナス
トラックの撮影秘話から十分にうかがい知れる。
ところが、清兵衛(真田広之)と甲田豊太郎(大杉漣)が河原で対決する
シーンで、なんと大杉漣さんは左手の薬指に大きな指輪をはめたまま
なのである。これは実は撮影時に監督含めて誰も気づかなかったのだ
という。そしてラッシュでそれに気づく。しかし、出演者のスケジュールが
揃わず、撮り直しがまったくできない。やむなく「このままで使う」という
ことになったという。だから幕末の武士が現代指輪をしているという極めて
珍妙なシーンになってしまった。以前から「なぜだろう?」と思っていたが、
DVDを見てその理由が判明した。

映画という作品では映像上の齟齬(そご)がかなり多くあったりする。
アクション映画などではほぼ確実に存在したりする。『プレデター』でも、
サソリを踏みつけて潰して靴を上げたらサソリの向きが逆になっていたりとか。
しかし、大抵は短いカット割りやカメラアングルを変えたりして
違和感をなくす
偽装が施されていたりする。ただし、そのままのカメラアングルの場合、ちぐはぐさ
が目立ってしまう。

記憶に残る一番映像上のちぐはぐさが多かった作品は『ハスラー2』だった。
これは私は公開時から劇場で観た際に多くの部分に気が付いていた。
ビデオで再度観たとき、あまりに多いので驚いた。ビリヤードのシーンなどは、
顔のアップになって次にテーブルにカメラが移動すると玉位置が違っている
などというのはほぼすべてのシーンで存在した。

世界のクロサワでさえどうしようもないことがある。
それは、「撮り直しがきかない」ということだ。
しかし、『たそがれ清兵衛』は、CGもそこそこ使っているので、CG処理で指輪
だけを消すことは十分できたのではなかったろうか。黒澤監督の時代は仕方
ないとしても。
よくできた傑作『たそがれ清兵衛』だけに、唯一その指輪はめたままという
シーンのために画竜点睛を欠くような気がしてならない。

黒澤明『七人の侍』においてもまだほかにもつじつまが合わないシーンが沢山ある。
特に、村の中をどうやって守るかと島田勘兵衛(志村喬)らが地図を作り、村の隅々
まで下見して回るシーンで、人物の影と太陽の位置、それと地図を見比べると、
実は実際の東西南北とは関係ない場所なのに地図上の東西南北に当てはめて
いる部分もあることが即座に判明する。これは私は、初めて『七人の侍』を観た時
に瞬時に
違和感を覚えた。ポイントは「影」だ。
特にクロサワ作品は「なんとなくそんな感じ」という「雰囲気ファンタジー」を監督は
撮ったわけではないので、たとい一人の観客にさえこのような違和感齟齬を察知
されてしまうのは、やはり文字通りの「ミステイク」だと思う。
何度もテイクしたはずだろうに
映画作りってムツカシイね。世界のクロサワ作品でも
こうしたことがあるのだもの。


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剣道の稽古と国宝名刀展

2012年12月24日 | 外出・旅

早朝から娘が剣道の稽古会なので福山市内の県立高校まで
こんな車でスイーッと送る。


こいつはこいつでかわいいぜ。


8時過ぎに到着。

私の母の母校でもある。この高校の武道場は施設が素晴らしい。床も良い。
元福山藩の藩校だった。
かつてはこの高校も城下にあったが、現在は移転して市内の小高いこの丘の上に
移転している。


正門がある坂道の向こうには福山城が見える。


稽古会終了まで時間があるので、ふくやま美術館で開催されている国宝名刀展を
見学した。


国宝8口重要文化財9口が特別展示されている。所有は京都国立博物館と文化庁、
そして、大半は小松コレクション(私的法人)の物だ。すごいね。

国宝ってなかなか研げないのだろうなぁ。小松コレクションの国宝の下地の砥石目が
残りまくりの
太刀がいくつか見受けられた。たぶん同じ研ぎ師かと・・・。研ぎからして
平井千葉師ではない(と思う)。研ぎには好感が持てない。国の宝を減らさないのは
大切だろうけど、あれほど下地(名倉あたり?)の研ぎ目残していいものか・・・。

どれもさすがにナショナル・トレジャーだけあって文字通りの名刀なのだが、
平安時代の太刀が一番私の心に迫った。
山城伝の地鉄も良いのだが、平安時代の伯耆安家を見てから鎌倉末期の
来(らい)を見ると、来がまるで新作刀のように見える。これは備前刀にしても
そうだ。平安末期から南北朝まで300年近く時代が開くのだが、やはり世間で
喧伝されている「時代が下がるほど鉄と人は悪くなる」というのは当たっている
かもしれない。室町や江戸新刀からすれば南北朝の刀はとてもよい鉄なのに、
平安時代の地鉄を見てから見直すと南北朝の鉄でさえ色あせて見えるのだ。
戦闘様式の違いもあるだろうが、源平の頃の平安時代の刀剣を見てから
南北朝の兼光の太刀を見ると、南北朝の太刀が人斬り包丁のように見えてしまう。
兼光なら兼光だけを見ていたらそうでもないのだけど、いろいろ並ぶといけないね。
ついつい、個別の作の良さよりも、違いに目がいってしまう。

そうはいっても、平安〜南北朝までの日本刀の地鉄は室町〜江戸時代の
地鉄とまるで違う。まして現代の「玉鋼」とやらとは大きく違う。これは目で見て
現実的に違うのだから、違うものは違う。
砂鉄も使っただろう。だが、本当に砂鉄だけか?鍛え方も今と同じか?
同じなわけがないと、現実に国宝の刀剣群を見て思う。あまりに今の鋼と違うから。
いくら古刀再現として自家製鉄をやっても、工法が現代工法である限り、平安〜鎌倉
初期のあの地鉄は出来得ないのではないだろうか。800年の経年変化がもたらした
出来上がった刀剣の鋼の変化が仮にあったとしてもだ。
気付いたこととして、平安期の伯耆国安家(国宝)の作は横手下あたりまで棟焼き
があった。これは意外だった。つまり、帽子の焼きの返りが棟側に長く伸びているのだ。
まるで備後「三原」刀のように。これは私にとってちょっとしたカルチャーショックだった。
伯耆安家は「日本刀」として最古級の時代の刀鍛冶だ。平治の乱(1160年)の頃の
刀工である。日本の刀剣に反りが出来て鎬造りが一般化し、「日本刀」として刀剣が
完成された時代の作者である。ウインドガラスの展示ケースの中にあるその作の前で
前かがみになり、覗く角度をいろいろ替え、40分ほど凝視した。決して忘れないように
心に刻んだ。

美術館の二階ロビーから見た福山城。

日本刀を観るのはとても集中力を使う。魂をすり減らすようにして見るので、
観た後はぐったりとなる。
しばらく、ロビーのソファーに深く腰掛け休んでいたら、いつの間にか午睡の睡魔が
襲ってきた。


12月の午前の日差しが差し込むロビーでまどろんでいたら、胸ポケットの i Phone が
震えて覚醒した。昼を過ぎ、稽古会が終わったという娘からの連絡だった。

美術館には3時間ほどいた。
稽古会場に娘を迎えに行って、帰りにコンビニでお稲荷さんを買って車の中で二人で
食べた。

日本刀だけにお稲荷さん?(^^)
しかし、神話だ伝承だとないがしろにはできない。
狐の化身とは、日本の歴史の人民統制史と密接な関係にある。
鐵を制する者がこの国を支配したからだ。支配あるところには必ず被支配がある。
そこには歴史に刻まれた、あるいは埋もれた哀しいできごとが必ずある。
そうしたことから目をそらして、歴史の表層だけを追うのは、時の流れの中で
人として生きることを捨てるようなもののように私には思える。目をそらさずに
人間が生きてきた息吹を感じてほしい。

娘は再来年、歴史を学ぶために東京の大学に進学するという。
歴史の上辺だけを追う知識の収集家にだけはならないでほしいと願う。
「武家文化よりも江戸期の町人文化を勉強したい。」のだそうだ。
当然、発禁の歴史も学ぶことになるだろう。江戸期の文化を学ぶことを通して、
表現の自由とはなにかを学びとってくれたらいいな。

きょうは夜にBSでイルカさんのライブを放送するね。正やんとこうせつ先輩も出るみたい。



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誕生日&クリスマス

2012年12月23日 | 外出・旅

きょうは娘の誕生日なので、母も招待して家族で食事に出かけた。





以前はピアノの生演奏などもやっていたが、最近やってないのかな。

本日のメニューはこれ。


正装での食事中に食べ物の写真撮るのは不作法なのでしなかった。
デザートのみ瞬息でパチリ(^^)


とてもおいしゅうございました。


お腹一杯ではあるのだけど、女性たちはケーキは別腹とのことらしく・・・
三原の実家に帰ってきてからケーキを切った。


17歳の記念撮影。
あ。後ろにオッサンの背後霊(笑


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鳥取県から岡山県を通り広島県へ

2012年12月22日 | 外出・旅



ゆず湯には入らなかった。
昨夜はホテルの前にある店でシースーを食す。

鳥取市内に入ったのが遅く、いつも行く小料理屋がすでに暖簾を下げた
後だったので、ときどき行く寿司屋に。
一般寿司屋の定番面白し。どれ食べようが大抵料金は5000円(笑)
なぜか瓶ビールが半端ない美味さだった。
ビールも生き物だから当たりというのがある。
1989年に北海道のスキー場で飲んだサッポロビールは格別だった。
昨夜この店で飲んだのは普通のキリンだったが、とても芳醇だった。
私はビールは普段は瓶を注文する。

本日、鳥取での案件を片付けた後、鳥取市内の客先を数件訪問す。
その後、広島への帰還途中で岡山県津山市の客先数件を年末挨拶で巡回訪問した。
最後の客先から3キロほどのごく近くに行ってみたいところがあったので、帰りしなに
そこを通ってみた。

典型的な里川。美しい風景だ。好きだなぁ、こういう場所は。でも鱒族はいなさそう。
吉井川の上流部支流である。


のどかな風景の中を行く私の車。目的地が見えてきた。


中国道の津山ICからほど近い穏やかな里にそれはある。
魂を打つ人の御屋敷が見えてきた。






アポもとっていないし、突然の訪問は大変失礼なので、きょうは目の前の道を
通り過ぎただけだった。


帰りはゆっくりと車内で聖子ちゃんを聴きながら帰ってきた(笑)
デビューからのベストアルバムをデビュー曲「裸足の季節」から聴いたが、いろいろと
気付いた
ことがある。
初期から中期にかけて、どの曲から歌い方が変わったとか、曲のアレンジとか。
左脳で聴いてはだめなんだけどね、音楽は。

タイムリーに松田聖子黄金時代に20代だったので、当時の記憶が克明に蘇る。
「風立ちぬ」は、特に忘れえぬ1981年の10月秋に出た曲なので、思い入れが強い。
当時何があったか思い出しちゃったよ、おにぎり屋のやよいちゃん(笑)
それにしても、85年あたりまでの聖子ちゃんはとんでもなく良い曲ばかり
もらっていたなぁ。
1980年「風は秋色」から1988年の「旅立ちはフリージア」まで連続24曲が
オリコンで1位を獲得した。1980年代はアイドル全盛の時代(特に82年以降は
百花繚乱)だったが、松田聖子
だけは別格だった。飛びぬけていた。多くのアー
ティストも彼女に楽曲を提供した。

聖子ちゃんは途中から激務のため喉がつぶれてうたい方変えたけど、
それがかえってキャンディーボイスとして新しい聖子の魅力をよりアピールした。
「赤いスィートピー」などは典型的な聖子の初期→中期の転換期の歌い方だ。
松田聖子はレコードよりもTVでの生ライブが魅力的な歌手で、きっちり
うたい切る歌手だった。今の人気疑似アイドルの口パクとは大きく違う。
おニャン子だってあの歌唱力(^^;)で本当に歌っていたのだから、今の
オールくちパクの集団アイドルがいかに「疑似的」な「作られすぎた」存在か
わかる。AKBなどは歌手ではない。BGMを流してのパフォーマーだ。
これで紅白に出たりするのだから、音楽歌謡の世界もなめられたものだ。
その点、モモクロは好感がもてるよ。本当に歌っているから。

1980年当時、松田聖子はとりわけて好きではなかった。圧倒的存在だから
いつも1位にいるのがアタリマエで、あえて意識せずとも普通にその位置に
いるのが当たり前だったからだろう。東京タワーがそこにあるように(東京の
人間は東京タワーには登らない。そこあるのが当たり前だからあえて登らない)。

今、1980年代の松田聖子を聴いてみると、かなりの歌唱力に改めて驚く。
youtubeなどで、妙な著作権強化で販社の告発によりどんどん1980年代当時の
動画が削除されているのが残念だ。動画サイトで視聴して、再びCD買いたくなる
俺のようなファンもいること考えると「宣伝効果」はあるのにね。角川あたりは宣伝
効果を狙って、動画サイト掲載の告発をすることは会社方針ではしていない。
しかし、他の企業はこれでもかというくらいに動画サイトに告発して削除申請
している。

レコード・CDなどは、録音の際にかなり音をいじるので、歌唱力がまるでない
歌が下手な歌手(最悪だな、これ。寿司を握れない寿司屋はいないが、歌をうたえない
歌手が存在するのが音楽興業界。芸能の人なのか?最近では刀を打てない刀鍛冶
というのもいるらしい
)でもそれなりに聴こえてしまう
が(ユーミンが典型だ。ライブは1970年代から聴けた
もんじゃない。一度ライブに
行って「うっそ?なんじゃこれ?」と思った。ライブビデオ買ったらこれもひどすぎた)、
松田聖子こそは現実に生で歌う方がさらなる実力を出せるプロ
だった。裏方のプロ
デュースの力もあったが、何よりも彼女に歌の実力があった。
ユーミンは呉田軽穂という名で松田聖子に楽曲を提供している。


やっぱし、いいよ、松田聖子。お嬢ちゃん育ちなのに、歌手になるのが夢で
ひたむきに頑張ってるデビュー当時の感じも良かった。ステージでの顔と普段の
顔が違いすぎるのも音楽関係者から聞いてはいたが、それは彼女がプロだという
証しでもある。

楽曲としては、CD聴いてみて、「野ばらのエチュード」がかなりいいことを
再発見した。財津さん、やるなぁ。
「風立ちぬ」は曲聞いただけで大瀧詠一だというのが判るけど、あれは松本隆
の歌詞が深い。リリースされた松田聖子の初めての失恋歌だが、主体が女で
あるのか男であるのか、
どちらとも取れる歌詞になっている。
女って、自分の方から気持ちが離れてしまって他に好きな人ができて別れても、
それを感傷的に自分が「傷ついた」とすることができるんだよね(苦笑)。
「私がほかに好きな人ができたのはあなたのせいよ」という自己完結ができる
のが女性という生き物なんだな。男とは決定的に思考の回路が異なる。
そして、不思議なことに、大抵の女性は別れた男に再び連絡を取ってくる。
それは再びやり直したいとかではなくて、自分の自己完結の感傷の一環として。
すでに他に人がいるのに大抵の女性は連絡を取ってくる。
まあ、私の経験が一般論には当てはまらないかもしれないけど、今のように
「元カノ」とか「元彼」とかいうのがあまり軽々しく言えなかった時代のことだけに
別れた相手に連絡取るのも軽い気持ちではないだろうが、奇怪な行動表現
ではある。女心の複雑さ、というやつかもしれない。別れた女に男の方から連絡
取るということは男にはないものだし(俺だけか?)。

聖子ちゃんはいいね。







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モトGPマシンの加速

2012年12月21日 | バイク・車


D.ペドロサが駆るGPマシン

う〜む。
モトGPマシンはツインリンク・モテギの裏の短いストレートで300km/hを
超えるんだ。ほえ〜。
一番低速になるヘアピンコーナーで60km/hくらいに落ちるのだから、
加速減速のGってすごいよね、きっと。
短い距離で300km/hという加速はさすがに未体験だわ、おいらは。
250cc純レーサーでもせいぜい富士の長い直線で250km/hくらいじゃ
なかったかな。スピードメーターついてないからよくわからないけど(^^;


Moto GP Montegi mit Dani Pedrosa



イタリアのロッシが長年在籍したヤマハに戻って来た。2013年からはヤマハだ。
オフシーズンのテストランにも余念がないようだ。
久しぶりにヤマハのマシンにライドした時、「これだよ、これ」ともらしたという。
そして、ロッシはマシンにそっと触れながら「待たせたね」と語りかけたそうだ。
派手なパフォーマンスで誤解を受けがちだが、ロッシの走りは極めてきめ細かく
スムーズだ。力でねじ伏せるホンダ系ではなく、ヤマハのハンドリングと合って
いるのかもしれない・・・が、ロッシはどのメーカーに乗っても速い。車が速いの
ではなく、ロッシが速いのだ。マシンコントロールが異様に巧いのもスペンサーに
似ている。ロッシはほとんどハイサイドで飛ぶことはない。スペンサーもそう
だった(スペンサーのハイサイドは見たことがない)。スペンサーもロッシも
スライドを巧みに操る。スペンサーとロッシの違いは、スペンサーは単独先行
逃げ切り型だが、ロッシは後ろから激しいバトルでまくっていくタイプであることだ。
ロッシの走りはほぼこれだ。
15才の時から彼の走りを見ているけど、やはり走りにもタイプがあって、
俺は好きだな。バレンティーノ・ロッシ。おばかピーなところも。


Valentino Rossi- King on 2 Wheels

時代が違うから塚原卜伝と宮本武蔵のどちらが強いかとか比較できないが、
ロッシとフレディ・スペンサーが同時代だったら、どちらが速いだろう。
10代後半から1983年、1985年のスペンサーの速さは異常だった。
だが、燃え尽きるのも早かった。幾人かの秀でたチャンピオンたちの
ように何度も世界王者にはなれなかった。フレディが世界の頂点に立ったのは
3度だけだった。同時代の他のどのライダーよりも傑出した天才と呼ばれていた
にもかかわらずだ。

ロッシは10代の頃からものすごい数の世界チャンピオンになっている。
世界戦に15年参戦して9回世界チャンピオンというのは、尋常ではない。

そして現役だ。今もロッシが一番速いと思う。四輪のF1に移籍するとの
噂もあるが、このまま二輪でGPを走ってほしいな。
ちなみにロッシの父親は世界GPライダーだった。父グラツィアーノは1982年
まで活躍した。つまりフレディ・スペンサーと同時代だ。フレディとバレンティーノは
親子ほども世代が違うのである。

1980スズキ・イタリアのグラツィアーノ·ロッシのワークスマシン



Fastest - Official Trailer


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井戸を焼く陶工

2012年12月20日 | 文学・歴史・文化

井戸茶碗 −見果てぬ夢−(外部リンク)

いいなぁ。こういう作者は大好きだ。
是非とも若い刀工諸氏にこそ目を皿のようにして読んでちょんまげ、だな。
「刀匠作家先生」たちには無駄。自分を変えようとしないから。
作為を超える作というのは、何故か?何故なのだ?本当にそうか?本当に?
と、もがき苦しむことを通りぬけないと到達できないと私は思う。


【重要文化財】井戸茶碗 細川

 


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