渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

森田童子『ぼくたちの失敗』 1976年

2019年10月22日 | open

森田童子『ぼくたちの失敗』 1976年

この動画を編集した人、とてもセンスある。
大抵の凡人は、歌詞を即物的に映す映像
を持って来るという失敗を犯す。
この動画もその傾向性は少し垣間見ら
れるが、かろうじて『高校教師』の
映像を挿入することでそれを免れて
いる。

このドラマで桜井幸子さんは燃え尽き
女優をやめてしまった。
この『高校教師』は作品としても至高
の作だ。

ただ、この森田童子の「ぼくたちの失敗」
男女の事柄だけに捉えるのは、それは
この曲が発表された1976年当時の時代
世相に疎すぎる。
この曲は中島みゆきの「時代」やバンバン
の「いちご白書をもう一度」に通じる。
それは森田童子の別曲の歌詞にある
「キャンパス通りが炎と燃えた」という
いちフレーズにも現れている。
そして、この曲にある「ストーブ代わりの
電熱器 赤く燃えていた」なのである。
赤く燃えていた「ぼくたち」はもういない。
いるのは「君のやさしさ」の中でうもれて
いる弱虫の今の「ぼく」だけだ。
それでも、その弱虫は「ぼく」であり、
「ぼくたち」ではない。
「ぼくたち」はもういない。
今は赤く燃える電熱器だけが、人々を
温めるストーブ代わりとして目の前に
あった。

なぜ若き彼女は高校を中退したのか。
それは、彼女が「時代」の中に生きたから
に外ならなかった。
そして、同時代人として前を見た若者
たちの「敗北」の世界観を共有する同時代
性の視点なくして、この曲の真意をくみ
取ることはできない。
「ぼくたち」は何に「失敗」したのか。
夢を求めてささくれを作りながら走った
「ぼくたち」は、強大な「力」の前に
打ちのめされた。完璧に。こんな糸が何
になるのとは思わずに、何かになると
信じて「ぼくたち」は古い昨日を壊して
新しい明日を作ろうと赤く燃えて走り
続けたのだった。
しかし、完璧に完全に潰された。「力」
には勝てなかった。
そんな時代があったねと、笑えない季節
がただ毎日過ぎていた。
その「失敗」による「敗北」の現実は、
鉛色の空が落ちて来てしまう程に、死ん
でしまいたくなるような閉塞感を「ぼく
たち」にもたらしたのだった。

「勝者」によって歴史が書き替えられた
時代の中で、森田童子は一切の自分の
過去を封印した。
彼女は、ただ「うたいびと」として
「うた」をうたうことで自己を表現
するようになった。
森田童子は昨年亡くなった。
そして、あの「ぼくたち」の時代から
50年が過ぎようとしている。


刀の映画『オイディプスの刃』

2019年10月21日 | open


静かなる名作『オイディプスの刃』については
こちら をどうぞ。
その記事内リンクの2007年の私の解説が作品
テーマについては分かりやすいかも。

ハウステンボス内の住宅街

2019年10月18日 | open


いや〜、実はこういう所に住みたい、てのは
ある。


ハウステンボス内分譲住宅は、庭先からボート
で海に出られる。


ハウステンボスに住みたいのではなく、こう
いう所に住みたいな、てのはある。
海の見える丘(僻地ではなく市街地で)か、こう
いう所がいいなあ。

諸条件を満たすとなると横浜か厨子、葉山と
いうことになってくる。


湘南あたりは最高だ。