渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

刀剣雑感

2014年08月31日 | 日本刀


(刀:二代目小林康宏作/平成四年一月製)

今さらだが、各地から個人的にいただくメールで、現代刀が
どうしても刃こぼれが生じやすいという情報が寄せられる。
いくつもの作、幾人もの作でそれが起きている。

かつて20年ほど前、私はその現代刀の現実=真実を自らの
検証で知って
がっくりと落胆したのだが、現代刀は見た目の
「美術性」を追い
求めているのでそれでもいいのではないかと
思うようになった。

はっきり言うと、刃こぼれしにくくてよく切れる刀などを作るのは
一般的現代刀工には無理なのだ。必要ない事とされているから
なおさら鋼の研究など好き好んで現代刀工はしようとはしない。
鋼の研究は自費になるし、そんな酔狂なことに資金援助をする
ようなスポンサーもいやしない。(初代康宏にはいた。財界、
古典伝統芸能界、その他の刀剣界以外の財力のある支援者が
いた。いたのは降って湧いたのではない。刀工の目指す指標に
共鳴して自ら進んで資金援助した方たちがいた)
現代刀工が鋼の
研究をするとしても、どうやったら沸がつくかとか、
どうしたら映りが
出るかとか、どうやったら見た目が、どうしたら
美術的な・・・と
いう誰もがやっている一様なところのみ追い求めて
いるから、そうした方針に沿った作品
しかこの世に誕生しないのは、
ごく当たり前のことなのだ。
その中でも、何名かの刀工は古刀に見紛うごときの作を作り、
すわ実用性も古刀に肉迫かと自分自身で荒試しをして散々な
結果が露呈して、完全に見た目の美術刀剣造りのみにシフトした
りした現実もある。戦前の受命刀工が全員物故になって以降は、
もう完全にほぼ100%に限りなく近くが見た目のみの限定世界に
埋没した。
高円宮様がかつて新作刀展覧会をご覧になって「このうちの何口が
本当に斬れる刀なのでしょう・・・」と嘆息されたその御心などを
現代刀工は知る由もないし、あえて知りたくもないのだろう。

だから、端的に言うと、現代刀工には武士が斬り合いをするため
の刀は作れない。作れないのは、作れるが作らないのではなく、
作る技量が無い。can not ではなく、cannot なのである。
これは仕方のないことだ。

芸術家たらんとする現代造形作家の先生方に、日本刀の製作を
期待
するほうがどうかしているのだ。
むしろ、武器としては成り立たないように、畳表を斬ったりしたら、
刃が簡単に欠けたり、曲がったり、刀身が折れたりする美術品の
ほうが、治安維持上は良いのかも知れない。折れず曲がらず切れる
いわゆる日本刀など造ってはならないのだ。
現代刀工の作域は、現代の社会情勢に合致している。
だから、切るための物ではないから、使って刃が欠けたり、曲がったり、
折れたりするのは、ごく当たり前のことなのであって、現代刀はそれを
目指している。美術品、芸術品に武器としての本質的特性など付与
させてはならないのだ。
現代刀工は、真正直に、現今の治安維持に物理的に貢献していると
いえる。刀鍛冶でも刀工でもない。自らが「刀匠」と名乗っていることで
名が体を表している。「先生」であり、「作家」であり、「芸術家」であり、
「刀匠」なのだ。刀を造る鍛冶屋ではない。


そして、そうした流れに抗して、日本刀は折れず曲がらず切れて
当たり前という気概を持つ刀工も、圧倒的少数だが存在する。
だが、切りを売りとする刀を作ろうとしている刀工作の中でも、
かなり
の実力差があることが最近私にも判ってきた。
切りを前面に出して武用刀と謳って作られた刀が簡単に刃こぼれ
する。
竹に当たったり、畳を切ったり、鞘にこすったりしただけで
刃こぼれ
する。
中には腰が弱すぎてすぐに曲がる刀を作る人も
いる。
各地からのナマの情報を聞いていると、頭を抱えたくなる。


鉄切りを成功させた藤安将平刀工の作は私は所有していないので
なんとも評価できないが、小林康宏については客観的な種々情報
を持っている。
正真二代目康宏の作では刃こぼれが極度に少ない。少ないというか
私が聞き、見知った限りでは、刃こぼれ事例はない。皆無である。
鋳物やガラスに斬りつけたことによって、刃が傷んだ例はある。
あるいは、切先が傷んだ例も。中には陶器に斬りつけた例もある
(無茶はやめてください)。

しかし、二代目康宏の刀というのは、非常に妙な刀で、刃こぼれは
せずにまくれる。マクレといっても、軟鉄のようにグニャリと簡単に
まくれるのではなく、耐性以上の負荷がかかった場合にのみ研ぎ
上げた刃先が曲がる。
曲がるから柔らかいのかというと、試験結果では最硬度部で
ロックウェル67の数値を示した。変な刀である。
切先がまくれた事故では、切先8ミリ近くが真横に90度に曲がった。
通常の刀ならば薄い切先部分はけし飛んで欠損するところだ。
ところが十分に焼きが入っている切先でこうだ。

自分の康宏作で丸太試しをしたことがある。これは長船則光の
丸太試しとは別な方法で行なった。
刃先はなんともない。丈夫すぎて気持ち悪い。
ただし、私は刀を曲げたことが一度もないが、康宏作さえも、横打ち
したら曲がるし、「平打ちしたら折れる」と康宏本人は言う。
実際に曲げてしまった人は何人かいた。太竹で刀線が狂って刃筋が
寝てやや平に当たってしまって振り抜いたために曲がった。
刃先は欠けなかった。
刃先を畳表切り用の薄いキーン刃にしない限り鉄も裁断できると
いうことがよく分かる。
大体からして、鉄が切れる刀なんて、どう考えても変でしょう?
鋼は鉄より硬いから鉄など切れて当たり前という人もいるけど、
(まあ、私も言うのだが)、切れるはいいが刃がボロンと欠ける
という刀が殆どだから。現代刀に至っては折損の危険性があるので
鉄斬りなどできない。(そういう意味でも藤安刀工作はすごいと思う)
刀で鉄が裁断できて、刃がなんともないなんてありえんわぁ・・・。
ところが、現実的にはこの世にあるのだから、ますます妙だ。
実際に私が工房で鉄斬り試しをして、びっくりした。
まるで、50ccで180km/h出るスーパーカブがこの世に存在する
のに出会ったくらいにビックリした。うへ〜、何だこれ、気持ち悪い、
と正直思った。3.2mmの鉄板に斬り込んで刃も欠けず曲がりも
しないというのを目の前で自分が体験するのは、それほどの衝撃
だった。


そして、同じ鋼を使っても、やはり人によるなぁ、という事実を最近
多く知るようになった。
たまたま私が康宏が鍛えた素材を貰って作った小刀はすべて私が
硬物試しをして刃先がまったく何ともない結果を得ている。
そうした作を友人たちに進呈してきた。
極力直紀康宏と同じ工法で鍛えて火造りも手早く、伝法通りに熱処理
をしたからかも知れない。
しかし、同じ鋼でも、別人が刀身を造ると、作り方によっては刃こぼれ
しやすかったり、曲がり易かったりした作になってしまっている事実が
現実に起きている。
やはり、刀は人により唯一、つまり刀は作者と共に個別としてある、
のだと思う。
虎鉄は興里も興正も最上大業物となったが、弟子の興久、興直が
果たして興里と同じ強靭性を持ち得たかどうかは不明だ。
師匠と全く同じ鋼であっても、別工法をたどったならば、個人別に
その出来上がった刀は作の内実が師匠とは異なるのだということを
最近強く感じるようになった。
結局は小鍛冶たる刀鍛冶は、刀剣の製作途中の工程で「鋼を作って
いく」のだということを痛感する。
だから、同じ鋼で同じ工法をすることにより強靭な鋼にまとめて作り
出していけるということは、逆もまた真なりで、脆弱性を持つような
同じ工法を採っていたら、やはり脆い鋼にしかまとまらないのだ。
見た目は異なっても、鋼の強靭性においては金太郎飴になってしまう。
小林康宏は虎鉄のように鋼自体をどのようにまとめるかに腐心した
結果として大型永代たたら製鉄の鋼だけではなく、古鉄卸し鉄や
他の鋼の試しというものに可逆的にアプローチした。見た目の古刀
ではなく、錵匂いの原初的意味を考え、見た目から再現ではなく地鉄
のまとめの試行錯誤から古刀再現を目指して靭性にこだわり続けた
結果、見た目が後からついてきた。初代康宏などは金筋を出そうと
して出したのではない。匂いの深さを、それを出そうとして出したの
ではない。地景も砂流しも出そうとしてそれを目指したのではない。
とにかく地鉄が実用に耐えうるためにはどうやってまとめるかの一点に
腐心した結果、出来上がった作が古刀に肉迫する作域となっただけの
ことだ。
けだし、これが本来の日本刀の道筋であり刀鍛冶の真っ直ぐな一筋の
方向性ではなかろうか。
康宏にあっては、鉄が切れる刀となったのさえも後付けなのである。
とにかく見た目先行ではなく、靭性という一点に絞って古刀再現を
初代康宏は目指した。

(初代康宏 本名小林林-こばやしはやし)

初代康宏作(昭和50年-1975年作)/乱れ映り、湯走り働く


初代康宏作(昭和51年-1976年作)/金筋砂流しさかん


結果として、見た目も古刀に迫り、荒試しにおいては鉄が切れた。
二代目は初代とは作刀の方向性がかなり異なる。
結論から先に言うと、初代がやや肌物であったのに比して、二代目は
地鉄は粟田口のようなつんだ肌で青く深い。刃は初代のようには冴えず、
やや眠く、匂い口潤んで沈む。
だが、初代と同じ点は見た目から作刀指標を定めたのではないことが
挙げられる。
二代目の特徴は、初代の後付けである特性を純化させて目指したし、
今後の作刀方針も昨秋の製作会議で明確に表明している。
それは、「武用専一」。この一点である。
「美術品としてはまったく評価されなくともよい」とまで明言している。
「多くの剣士に私の刀を持ってほしい。私の刀と共に極めてほしい」と。
だが、極上研ぎを加えた二代目作を斬りなどに使うのを停止した人を
何人も私は知っている。地鉄が美しいからだ。実は私もその一人だ。
ある刀剣の専門家は「美術刀剣として十分だ。鑑定に出されたら現代刀
と札を入れる人はいないと思う」と私に溜息交じりに漏らした。極上研ぎ
上げ後、一切試斬に供するのをやめた二代目作を実際に手に取って
観ての言である。
その本人は今回の作刀再開の製作希望者に名を連ね斬術に使う
つもりだった。しかし、サンプルを見て、「私ももしかすると斬りには
一切使わないかもしれない」と呟いた。

小林直紀作(昭和55年-1980年作)/刀工免許審査時の作


さらに、もっとシビアに絞ると、
Aという刀を作り出せるのは、Aという
刀工個人でしかない。

A'やA''や、もちろんBなどではない。
だからこそ、個体銘があるのだが、刀鍛冶の世界は昔から「代打ち」
があるので、個人作の出来不出来以外にもさらにバラつきに拍車を
かけていることになる。

困ったことに、それが見た目からは判断できない。師匠そっくりな
などというのは、技術がある者は作れるからだ。ただし、見た目のみ。

しかし、A作はAが造るからA作なのであり、弟子のBが造った作はAに
近似でも、仮に銘がAとあっても、真実はB作なのである。

ただ見ているだけの対象ならば、そんなことはどうでもいいのだが。
中味の本質を求めて行ったら、どうしても個別のある種の個体を生み
出せる個人の刀工に選択肢が絞られてしまう。
やはり私は二代目康宏小林直紀正真作に全幅の信頼を置かざるを
得ない。なんと申しましょうか・・・物が・・・他の人の作と全然違うんだ
よね。

というか、変な刀を作れる人です。特異ですね。これが一般的な刀では
ありません。


(二代目康宏 本名小林直紀-こばやしなおき)


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小説『いっしん虎徹』

2014年08月31日 | 文学・歴史・文化


『いっしん虎徹』(山本兼一/文春文庫)

改めて、日本刀ファンのみならず、日本文学ファンに是非おすすめの
一作を紹介する。

私の感想は → こちら 
(映画観賞、小説読書、芸能観劇において、ストーリーだけにしか
興味がない方は、私の感想は読まないほうがよい。注釈と所感だけで
なく、顛末が書いてある。顛末を知ろうと知るまいと、作品の描く文学的
表現世界に触れてみたい方はお読みください)


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日本そば

2014年08月31日 | 風情・季節・地球



妹と国内旅行してきた母が土産に信州のそばを持ってきた。
食べた。

ぐへぇ。超絶的なマズさ。なんだこれ。
作り方は完璧だ。きっちりと氷水で最後には絞めている。
つゆ・・・。なんじゃいこりゃあ!(by 優作)

しかし、すげーまずい蕎麦があったもんだ。
こいつぁしどいね。
これなら山手線駅構内の駅そばのほうが数倍美味い。
同じ信州ならば、立ち食いの「小諸そば」のほうが100倍美味い。
永坂更級あたりは1000倍美味い。
あ〜、ひでぇ。こりゃあ、食事ではなく空腹を満たすだけの餌だ。
戦地ならばこれでも贅沢すぎるが、現環境ではこれは文字通り
いただけない。


そういえば、中国地区には日本そば屋がほどんどないが、福山に
なかなかの味を出す店があった。何度か通った。
先日、行ってみたら、味が変わっていた。美味くない。
以前の蕎麦はブレンドなのだが、手間がかかるのでやめたそうだ。
あら、そう。しからば、この味ならばもう来ない。

昨年だったか、尾道になかなか美味い手打ち日本蕎麦屋があった
ので気に入っていた。
先日、家内と行った。
味が変わっていた。美味くない。
店主に尋ねたら、そば粉を変えたという。
いえいえ。そば粉だけでなく、出汁もツユも変わってるでしょうに。
もう行かない。

数年前、岡山のフィールドゲームの帰りに仲間たちと一所にゲーム後に
毎回寄るうどん屋が
あった。かなり汁もうどんも美味くて、地元でも大人気
で大繁盛の店だった。

ある時、いつものようにみんなで寄ったら、客がガラガラだった。
出されたうどんを食べる。美味くない。味が変わっていた。
チームリーダーは、ぼそりと俺に言った。
「お客さんは正直なもんでね。だから客が全然いなくなったでしょ」
確かに。
それ以降、一回もそこには行かなくなった。月一で集団で行ってたが、
ひと月ぶりに行くまでの間に、味を変えざるを得ないような何かが
あったのだろう。

このような飲食店舗で味が変わる時というのは、大抵はコストダウンに
よるものが多い。
結果として、質を下げることにより味が下落する。
価格そのままで、収益側からすると数値上の計算式ではオンの字だと
思っているのだろうが、結果的に客は離れる。客が離れたら飲食店や
店を構えて客の入りを待つ稼業はオダブツだ。
特に飲食関係は、客は味こそを第一目的として来店するので、まずい
店などには客は行かない。

飲食店に限らず、接客業というのは、まずその本旨においてが勝負だと
思う。
飲食店ならば味、おねーちゃんのいる店ならば質の良いおねーちゃん、
おにーちゃん(笑)の店ならば質の良いおにーちゃん、といった具合に。
かといって、おねーちゃんおにーちゃんは知らないが、飲食業の場合は
味は高級食材だからということには直結しない。
廉価な食材でも工夫によっては腕の良い料理人にかかればある程度
カバーはできる(限界はあるが)。食に本来A級もB級もない。
高級食材を使って腕が良い料理人が作る料理が美味いのは当たり前で、
値段もそれらはそれなりに反映している。
しかし、一般大衆ピープルは閣僚政治家や経済界のドンたちのように
高級料亭などで毎度毎度食事などしない。
ただし、大衆店でも、飲食店の経済原則というものは高級店・大衆店の
境なく共通する。
大衆店では、限られた仕入れ予算から、少しでも美味しい料理にする
ところに大衆店なりの料理人の腕の見せ所がある。

問題は、そうした腕も探求心もないのに、金銭的なコスト要因から味が
意図せず
変わってしまうことだ。
こういうのは、結果として、結局は「経営資質」に関わってくる事柄なのだ
と思う。
客は逃げる。客が来なければ、おまんま食い上げだ。おまんま出す店が
おまんま食い上げとは、笑うに笑えない。

味なんてのは、食しているほうは結構敏感だよ。
チェーン店でもそれが現出する。
マクドナルド、最近マズくなったと思わない?
経営内部で何かが変わったんだよ。外部には出ない何らかの問題が起きて
いるとみていいと思う。


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オロカメンの憂愁

2014年08月30日 | 溶解情報


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姿を決める 〜研ぎ〜

2014年08月30日 | 日本刀



日本刀の研ぎは下地が勝負だとよく云われる。
下地こそが腕の見せどころ、鑑賞のしどころ、とも。

下地研ぎ段階で日本刀の研ぎ状態を一般人が見る機会は
少ない。
腕の良い研ぎ師にかかると、素麺をきっちりと並べたような
砥当たりの線が出るという。
ある下地研ぎが上手な駆け出しの研ぎ師が先輩研ぎ師に
自分の仕事を見てもらいたく、下地研ぎの段階で手掛けた
刀を持って行った。
見るなり先輩研ぎ師に鼻で笑われた。

電動ツールを使って研いだと勘違いされたのだった。
「いえ、すべて私の手研ぎです」と若い研ぎ師が言うと、そこで
しばらく沈黙の重い空気が流れた。
どうみてもモーターツールで研いだような
きっちりとした研ぎ目が
揃っており、間断なく精緻に整列していたからだ。人力で研いだ
とはおよそ思えないほどに。
これは
私が耳にした腕のよい研ぎ師の若き日の生のエピソードだ。

日本刀を活かすも殺すも研ぎ次第だが、技量が及ばない研ぎ師
にかかると、刀姿を崩されたり、凸凹にされたりしてしまう。
すべては、基本中の基本である下地研ぎにかかっている。
下地が悪いものをいくら化粧でごまかそうとしても、無理がある。
それほどに日本刀研ぎの生命線は下地研ぎにあるといえる。

そのような日本刀の仕上がりを決定づける下地研ぎだが、鎌倉の
川端弘明先生の弟子だった田村慧研ぎ師は、私は
かなりの下地
研ぎの腕を持っていると見ている。

近所の刀屋と懇意になった時、田村研ぎの刀を持って行って見せた。
すると、刀剣商の親子は詳細に何度も観て、「いや、これは上手い。
誰が研いだの?かなりだよ。う〜ん、上手い」と親子で唸る。
田村氏の名前を告げたが「知らない」という。その時には田村氏は
研磨の部でまだ展覧会などには出品していなかった。
「どこの研ぎ師?」と訊かれたから「鎌倉」とだけ答えた。
正確には北鎌倉だったが。

閑静な北鎌倉は、駅舎が映画のセットのようで美しい。
ただし、今では平日でも人が多すぎて、なかなかよい写真が撮れない。
1970年代には映画のジャケットになりそうな駅と線路の写真など
いつでも取ることができたのだが。


かつて70年代の北鎌倉は、駅の規模は異なるが、まるで後年の
ドラマ『昨日悲別で』のラストシーンを
彷彿させるようなそんな寂しげな
駅だった。

雨と雪が切なく胸にせまる場所。そんな北鎌倉だった。



北鎌倉の田村研ぎ(無銘新刀−ボロボロの状態からの仕上げ)
(クリックで拡大)

一つの判断基準として、私は横手がきっちりと切れているか
どうかを見る。名人平井千葉の研ぎに至っては、鎬のラインに
独特の手癖が出るので、それを見切るようにしている。
平井研ぎは隠し研ぎの天才で、平井師が研いだ刀は疵がすべて
消えてしまうし、どこでどのような技法を投入しているかが隠れて
いて判らないので、他の者が研げないほどなのだ。
それ故か、斯界では「平井が研いだ刀には手を加えるな」と言われて
来た程だ。

だが、ピンとまっすぐに張った鎬のラインにある種の手癖が
隠されて(俺の研ぎだよ)と暗号が秘められているのを私は
平井研ぎに発見した。

他の研ぎ師でそのような手業を見せているのは今までにニ、三しか
観たことがない。長船刀剣博物館の長光は平井研ぎと同じ手癖が
見られた。


田村研ぎ。鋩子の平肉は落とされていないのに横手と子鎬の
ラインがビシッと出ている。横手線に淀みはない。
横手線がぐにゃぐにゃだったりたるんでたり蹴っていたりする
研ぎの画像もあるのだが、その研ぎ師の名誉のためにここには
掲載しない。

田村慧氏は修行時代には初代小林康宏の専属研ぎ師だった。
小林康宏工房が高輪泉岳寺にあった時から康宏刀を一手に
手掛けていた。

独立後の今では人気研ぎ師となっていて、仕事の依頼が立て続けに
入っていると聞く。
本人曰く、研ぎにくかった康宏の刀を毎回研ぎ続けたおかげで
自然と下地研ぎの基礎ができた、という。

下地の大事。
日本の和食は出汁が命だが、日本刀を活かす研ぎの出汁の
味加減は、しっかりとした舌を持つ料理人たる研ぎ師の腕ひとつ
のように思える。


田村氏は日文協の入選研磨師でもある。


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郷土刀 〜備後尾道の刀〜

2014年08月30日 | 日本刀


(文章・押形は私)

私が数カ月前に埼玉の刀剣商から尾道道場で欲しい方がいらしたら、
とのことで預かって来て橋渡しをした刀は、即決で尾道市内在住の
人が買い上げた。
それが今、地元尾道の商店街の中にある展示場に郷土工芸展の
美術品として展示されている。
なんだか嬉しいぞ(^^)
地鉄がですねぇ・・・いいんですよ。
これが永禄から天正に近くなるとガクッと備後刀は鉄が悪くなるから
不思議だよなぁ。備前はそれほど落ちないのだけどね。
一体、備後に何があったとですか?





ま、でも備後はビンゴ!ってんで、語呂がいいよね。響きは好きよ。
刀も備後刀は手前味噌ではなく結構好きなんだけどなぁ。
直刃の備後刀は大和伝ではないよーな気がするんだけど(苦笑
大和というよりも・・・仁王や鵜飼系の技術的流れがあるように
思えるのだけど、私には。
まあ、でもあたくしは素人なんで。でんでん刀は見えませんけど(^3^)



それよりも、今秋、鑑定に出したら世紀の大発見となるかもしれない
寸伸び短刀(登録は脇差)がある。
身近な仲間が持っていた。
秋に日刀保で鑑定予定どす。
せめて同然だとは思うけど、イヤで全然駄目だったら、ごみん。
私の見立てでは、正真。この世で発見二口目!(^^)v


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画題 〜藤戸〜

2014年08月29日 | 日本刀



ある方から居合で使う刀の拵(こしらえ)の金具を見せてもらった。
刀身含めて、すべて時代物である。
縁、頭、目抜、鐔が一体となって一つのテーマを演出していた。
「藤戸」である。

藤戸とは源平合戦のうち児島海戦の藤戸の戦いのことだ。
特に藤戸の戦いでは、悲劇的な出来事もあり、後にそれは謡曲の
演目としてまとめられた。


(以下、wikipedia から)

謡曲「藤戸」

謡曲「藤戸」は能において多く演じられる演目の一つである。
浅瀬の存在を聞いた佐々木三郎盛綱は先陣の功を他人に奪われる
事を恐れ、教えた若者の漁師を殺害したという。このエピソードを元に
室町時代に世阿弥により作られた。

謡曲の内容は以下の通りである。

  1. 前段:盛綱はこの戦いの功績で児島に所領を与えられた。
    領地に赴いた盛綱に殺害された若者の老いた母親が恨みを訴える。
  2. 後段:殺害を後悔した盛綱は若者の法要(管弦講)を営む。法要が
    行われていた明け方近くに若者の亡霊が現れる。若者は盛綱に
    祟りを及ぼそうとするが、盛綱の供養に満足し、やがて成仏する。

(以上抜粋紹介)


能の「藤戸」を紹介すると、以下だ。

うららかな春の日。源氏の武将・佐々木盛綱は藤戸の戦の先陣の功により
賜った児島に意気揚々と入部し、訴訟のある者は申し出るようにと触れを
出す。

すると、さめざめと泣きながら中年の女性が現れ、我が子を海に沈められた
恨みを述べる。
盛綱はその言葉を制し、訴えを退けようとするが、せめて弔って欲しいと
嘆く母の心を不憫に思い、浦の漁師であった青年を手に掛けた経緯を語る
のだった。

去年の三月二十五日の夜、浦の男を一人呼び出し、この海を馬で渡る
ことの出来る浅瀬を聞き出すと、その男と二人きり、夜の闇に紛れて下見に
向かったこと。
このことを誰にも知られまいと男を刺し殺し、亡骸を海に沈めたこと。



明白になった真実にますます悲しみをつのらせた母は取り乱して、我が子と
同じように殺して欲しいと詰め寄る。

盛綱は弔いを約束し、母は涙ながらに帰って行く。(中入)

弔いのうちに現れたのは、亡者となった浦の男の霊である。
命を奪われ沈められた有り様を生々しく再現し、恨みの余り、水底の悪龍の
水神となったものの、遂には弔いの功徳によって成仏して行くのであった。




「藤戸」は源平合戦の悲譚である。
この一戦後、源氏は一気に平家を西方へと追い詰めていく新展開
となる起点ともいえる戦いだった。

拝見した御刀の金具は、その「藤戸」の悲嘆を心にとどめるべく
縁、頭、目抜裏表、鐔の
五品で一つの題となった構成だった。
こうした金具類のまとめというのは、非常に機微に通じたもので、
日本人独特の細やかな情愛を感じざるを得ない。
それぞれの部位が集まって一つの物語を織りなす。
私も、刀の金具選びについては、このような一つになる心の流れを
大切にしたいと強く思った。よいものを見せてもらった。

遠い日に争った源平の諸氏も、いまは一つの国の民としてとこしえに
共に生きている。
昨日の敵は今日の友。何れの者も、驕れる者は久しからずの条理の
下にある。

遠き源平の戦いも、今は児童の運動会の紅白にその名残をとどめる
だけだ。(歌合戦があるが)

そして、運動会では、勝った側にも負けた側にも、観衆は拍手を送る。
どちらも、はらからとしてかいなむすびゆく。これが我らの国の姿だ。

日本の伝統演劇である能、狂言、舞、歌舞伎等は、観劇していると、
悲譚のかなたにある行きつくところは、やはりどうしても「和」を以て尊しと
なす我々日本人の日本人としての琴線なのだと静かに感じ入る。
どうぞ、一人でも多くの方々に、日本の伝統芸能に触れてほしいと願う。


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デング熱で代々木公園封鎖

2014年08月29日 | 時事放談



あの広大な代々木公園を封鎖とは!
代々木公園とは原宿駅と明治神宮に隣接している公園で、かなり広い。
個人的にもいろいろ思い入れのある公園だ。
う〜む。

しかし、デング熱も怖いけど、もっと恐ろしいのはマラリヤ蚊なんだよね。
あれは、危険だす(><)
まじで、罹患3度目には死ぬし。

つい先ごろ、蚊を絶滅させる蚊を英国で遺伝子組み換えで作出したよね。
蚊と蝿とゴキブリと南京虫とダニとシラミ等は、彼らには悪いけど、地球上から
絶滅させたほうがいいように思える。
蝿の仲間の蚊って歴史古いけどさぁ。ジュラ紀からいるんだから、生物と
したら人間のずっと先輩だけど、絶滅してもらいたい。
あと生物としては害ある細菌もだなぁ。役立つ細菌もいるけど。
やはり、人間社会を守るためには、防疫は大切だすよ。
蚊を殺したら罰せられたという笑えない綱吉時代(まじです)は、とんでもねぇ
世相だったと思うよ。


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萬屋錦之介の癖

2014年08月28日 | スポーツ・武道など



萬屋錦之介には癖がある。
それは、殺陣において、真向から切下げて刀が停止した時、
頭(かしら)が左に傾くのだ。
このような癖は、居合道をやる現代人でも時たま見られる。
不思議なことに右側に傾く人はあまりいない。体の構造上の
問題だろう。

しかし、錦之介さんは殺陣なのだからさして問題にはならない。
しかし、武術としての剣法であるならば、気づいたならばこれは直した
方がよい。

剣法の教えにあるなら別だが、ないのならば、ないことをやるというのは、
意味がない「無駄な動き」の範疇に入る事柄となるからである。


錦之介さんの場合は、本当にしみついた癖かも。
殺陣の説明途中で、構えを見せたらすでに頭が傾いている(^^;
しかし、指はきちんと「龍の口」になっている。


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差し料を選ぶ剣士の特徴 〜小林康宏の刀〜

2014年08月28日 | 日本刀



以前から疑問に思っていたことがある。
小林康宏作を好んで所有する人にはある種の特徴がある。
それは、自衛官、警察官、消防官を職業とする方々の比率が
相対的に非常に高いことだ。
これはなぜだろうと思う。
次は自営業や芸術関係の人が多い。一般サラリーマンという
のが存外少ない。

そして、二代目康宏作刀再開に向けて、製作希望の方々から
ご連絡を頂いて、作刀再開に向けての前段階としてご要望や
連絡先をまとめているが、ここでも一つの特徴的なことがある。
それは、現在までの作刀希望の方々の居住地が、圧倒的に
東日本、とりわけ東北出身の方たちが多いのだ。
これはなぜだろう。
次に多いのが神奈川だ。
関西在住の方は打診してきた剣士の方一名を除いて他はまったく
ない。
これも不思議な現象のように思える。

このことを友人に伝えて、「なぜだろう」と尋ねたら、東国者の
気風が康宏作を好むのではないかとの見解だった。
そういえば、日本では大昔から「兵は東国」と云われてきた。
古代、武士がまだ発生する以前、百済支援で数万の日本兵が
斉明朝の時代に派遣され、白村江で大敗を喫したが、その時の
多くは九州の兵だった。
その後、天智朝の時代、大陸・半島からの防備に備えて防人が
九州に置かれたが、それには全国から人員が集められた。
徴兵期間は3年間だった。
さらに下って、天平年間には、全国から招集した兵を出身地に
帰し、防人の主軸を東国からの招集にシフトした。
しかし、人員不足で農村部の疲弊等が深刻になったため、数年で
防人を故郷に帰すことにした。
数十年後には防人制度が復活して、東国の人員が再び九州に
派遣された。
しかし、やはり経済的基盤の農村生産率の低下が著しく、再び
東国兵士を故郷に返し、以降西国からの徴用によって防備に
あたらせた。
防人が東国の兵によって構成されていたことは和歌によっても
見ることができる。
万葉集の防人の歌は東国出身者に限られている。
徴兵であったのだが、東日本から九州までの旅費その他経費は
すべて自費だったので、とてつもない負担だったと考えられる。

研究不足だが、私の印象としては、東北の武人もそうではあるが、
九州の武人がかなり屈強なようなイメージがある。
武士発生以降は「東国武士」などと言われるが、これは一体何に
基づいているのだろう。
源頼朝が鎌倉に初の武家政権の幕府を開いた。
しかし、頼朝自身は尾張の生まれであるし、遠祖を清和天皇としな
がらも、一族は東国に覇権を有したとはいえ、根幹は河内源氏で
あって、畿内に根付いた武士だった。

東国武士団で思い出すのが武蔵七党だが、これはかなり後年の
呼び名で、南北朝以降の名称とされている。
実際に武蔵七党が積極的に活動した平安時代末期には武蔵七党
の呼び名は存在しなかった。
元々は産出する駒が優秀だったのだろう。武蔵は馬の産地であり、
多くの牛馬生産管理地である牧(むまき)が武蔵には存在した。
現在のような地形ではなく、現在でいうと富士山近隣のような豊潤な
草原地帯が広がっていたのだろう。だからこそ牧場での牛馬放牧
生産が可能だった。
そうした駒生産管理地の管理者と朝廷から派遣された軍事貴族が
一体化して関東武士団を形成して行ったと思われる。これがいわゆる
「坂東武者」といわれるのだが、関東のみならず、南部東北諸地方に
まで勢力は及んだ。
そういう意味では、原初的な武士団の発生に関しては「武者は東国」と
いえるかもしれない。
関東武士団は血族的社会性を強く持ち、中小の各武士団を結成して
自治的な社会集団性を有していた。そして自主権の中で秩序を構成
していた。

一族血族同族の社会を守るためには武装して命を賭すことから「一所
懸命」という日本語が生まれた。「一生懸命」は誤用であり、正確には
「一所懸命」である。同族集団が治めるクニである一所を護るのだ。
思うに、朝廷中央の中央政府によって設定された愛国観とは別個の
独自の土地に根付いた国土防衛精神、愛国心の源は、この平安期
武士団の「一所懸命」にあるように思える。
それまでの中央政府の徴用という徴兵で招集された兵たちに「愛国心」
という概念が果たしてあっただろうか。史料でもある万葉集を見ても、
嘆きの歌、望郷の歌、悲哀の歌ばかりである。早く国に帰りたい、と。
それは郷愁であって愛国心に燃える心情の吐露ではない。
武装して命懸けで自ら率先して国土(一所)と己らの社会共同体を防衛
するという能動性は、坂東武者、つまり関東武士団によって初めてこの
日本に登場したのではなかろうか。
朝廷中央からの強制徴用ではなく、独自に独立的に自主武装して一族
の生命を守るために己の生命をかけた。愛国精神の源は関東武士団に
あったのではないか。
「兵は東国」という概念は、外力ではなくそうした自ら志願してそこに身を
投げるという歴史を持った関東武士団の主体的能動性にこそ、概念発生
の遠因があるように思われる。

そう考えると、「兵は東国」とは簡単には言うが、「兵(へい)」と捉えず、
「兵(つわもの)」とすれば得心が行く。
幕末、近藤勇が書簡にあえて記した「兵は東国に限る」とした内実が、
どこまで坂東武者の歴史的特異性を意識していたかは不明だが、坂東
武者=関東武士団の独立心が、やがて朝廷から政権を奪取して武家政権
を打ち立てた鎌倉方に自ら望んで参集したことと連動するのは、それとなく
意識の筋道としては見えるような気がする。
「いざ鎌倉」という言葉は800年の時を超えて現在でも残るが、そこには
掘り下げると、自主的武装と自治意識という日本の独自の武士意識の
形成と密接不可分な関係性が存することが解ってくる。
だからこそ、武士は発生原初から消滅する江戸幕末まで、「自裁」という
独立心を持っていた。たとえ主でも不適切と己自身が感じたら諫言し、
いざとなったら「死ね」と言われずとも己の判断如何で腹を切る。
すべては、自分の「個」が深層部分では決定を下す。
ここにこそ、武士の武士たる存在の真相がある。独立・個性・自主・自裁、
こうした強烈な「自分」という精神が存在して、それを体現していたのが
武士そのものだったのである。従順にただ上からの命令に従うのが武士
では決してなかった。

さらに、武装だ。
江戸幕府は武士の反乱を事前に制するために武士の完全武装解除は
行なわなかった。
独立性と自主武装権を温存させたまま、飴と鞭政策で全国の武家を
統治していた。
法規的制限下にあったとはいえ、江戸幕府が消滅するまでは、武士には
武装権と自裁権が認められていた。
己の独立的自主性に立脚して決裁することは「自決権」と呼ばれる。
奇しくも、自ら生命を断つことも「自決」と呼ぶ。自殺ではない。自殺をする
武士などは一人もいない。自決なのである。
武士というと勇ましいことばかりイメージしがちだが、こうした武士の本当の
意味での根幹部分は結構見落とされがちだ。
独立心と抵抗心が必ず武士には存在した。江戸期にあってもだ。
これは江戸期には藩ごとに存在した。時には政治向きな方面で藩論が
二分三分することもあったが、いずれも「独立心」に立脚する武士ならでは
の精神世界を背景としていた。
間違ってはいけない。「物言わない」のは武士の精神ではないのだ。
武士の根本は「一所懸命」であり、家族一族血族のために命を懸け、
そして、独立、自主、自衛、自決(権)を有する武装せる者たちが武士
なのである。刀を差していたら武士なのではない。それは単なる戦闘員だ。

そうした日本の武士に代表される独自性の歴史が大転換して、ことごとく
独立武装集団である武士の存在を壊滅させて中央集権が完成するのは
平安期から遠く時代が下った明治になってからだった。
日本人から一切の自主独立武装権を剥奪することによってそれは貫徹された。
ただ、昭和期に入っても、中央集権的に徹底的に組織された近代軍隊の
軍装備のうち短銃と軍刀を自弁としたのは、古代徴兵制の名残りのようで
なんだか皮肉にも思える。
ただいえていることは、明治政権成立は「維新」では決してない。
「王政復古」と「大政奉還」なのであるから、「復古」なのであって、革命
でも維新でもない。古きに戻す、ということであった。
やはり近代化の中で、西欧列強との関係上立憲君主制を導入したとは
いえ、いろいろと無理があったと思う。
とりあえず、確固たる事実としては、明治になって日本から武士は消滅した。
武士がいなくなれば、人々から武士の性根も消滅する。
これは当たり前のことだ。いまさら嘆いても詮無きことである。
明治以降、下手に利用されて「考えない人」造りのために「武士」を冠する
あらゆるものが利用されてきた。武士の本旨とは真逆のものとして。
そして、そうした「利用」は現在でも継続して行なわれている。

私個人の感想としては、自衛隊は広報において「現代の防人」として
いるが、本質としては大きく異なると私は思う。
防人は徴用された兵=徴兵であったからだ。
自衛隊員は全員が志願によるものだ。徴用されての兵ではない。
そうした意味合いでは、警察官も海上保安官も消防官も、すべて志願して
自ら身を投じた人たちだ。
日本における武士というのは血族的同族性に基づいた血筋であったが、
武士消滅以降の現在、旧来の武士とは全面的に合致はしないが、極めて
「武士的」な特徴を備えるのは、そうした職に就いている人たちだけだと私は
思っている。
そして、彼らにのみ、職務として武器の携行(消防士を除く)が許されている。
消防士には「士(さむらい)」という字が冠されているが体を表している。
代議士などのニセサムライとは大違いだ。任務とはいえ自ら危険の中に
飛び込んで国民を守る。
「士」がつく職業で「先生」と同時に呼ばれる職業は、まず名ばかりの「士」で
あると思って間違いないだろう。消防士は先生とは呼ばれない。「士」である
ことが内実だからだ。それ以外の賛辞的修飾語など不必要だ。国民を盾に
する代議士などとは根本からして存在そのものが異なる。
さらに、法執行官は法規によって武装の権利が認められている。
現代において、「武士」というのは(というよりも「武士的」な存在というのは)、
武装が許された法執行官のみであると私は思っている。(武器携行はしないが、
消防士は大名が抱える武家火消のそれに近似と思う)
そして、彼らの任務は武士よりも広い。武士は同族を守るだけだったが、彼らは
日本全国の国民を守るために身を挺する。
武士よりも武士らしい武士のように思える。
左翼的言辞ではなく、構造的に武装公務員は「権力の暴力装置」であることは
事実としてあるが、彼ら法執行官とて国民である。国民が国民を守る。一部の
為政者のためだけには決して存在していない。為政者の私兵ではないし、その
ような職務ではない。
これは、武装と秩序のあるべき姿なのではなかろうかと私は思うのだ。


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弁当を見て思う

2014年08月27日 | 内的独白



関東の生産工場では、現場従業員たちと一緒に大食堂で業者弁当を
食べる。広島の職場でも内勤の時には弁当を手配することが多い。

この弁当でたった300円代とかで市内の企業各社に個別配送までして、
どうやって採算取れるのだろう・・・。
市内の弁当業者もどんどん廃業している。
かといって、採算ベースの金額にすると客が外に流れる。
流れないためにさらに単価を下げる。するとシェアは獲れても経営は悪化
する。

食産業だけでなく、この悪循環はどうにかならないものか。
単価を落として価格のみで競争力を得ようとしたならば、当然品質を
下げることにもなる。仕入れ元が安価な物を選択せざるを得なくなる
からだ。当然食品の多くは中国産を選んでいくことになる。
食の安全性に大いに不安が残る。

利益優先主義、というよりもシェア優先主義を生み出しているのは、買い手の
安物指向によるのでは
ないか。
一般消費者の収入が過酷であるので、そうした選択はやむなしの感も
一般論としてはあるだろうが、「安ければよい」、「安く値切って叩けばよい」
という精神構造は、決して「お得」なことではなく、それによって物品は
安価で入手できても、あまりにも多くの目に見えない物を失い、それが
じわじわと全体的にやがては己自身の首を絞めることになると思う。
「安ければよい」式は、結局は大局で見れば、消費者自身のためにならない
方向性だろう。
企業側も利潤第一義のみに立つとモラルもへったくれもなくなるが、企業の
利益が確保できなければ、すべての国民生活が成り立たない。
企業は儲けていいのだ。企業が儲かると従業員の賃金も向上する。
社会全員が公務員ではない社会体制では、企業の利益は大切なことだと
思う。あくまで社会的モラルハザードを有しているならば。


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新メンバー

2014年08月27日 | スポーツ・武道など


夕やみ迫る国道2号線。遠くの灯りは三原市街。

尾道道場に新メンバー加わる。(期間限定賞味期限付)
片道120kmを走って来て稽古に通う。熱意に圧倒される。

全日本居合道大会の広島県代表選手は五段の部、七段の部の選手が
尾道道場からということになった。
全日本出場予定の選手2名は特別強化訓練で、別枠講習となる。
他は昇段試験に向けて高段者が受験者をみる稽古となった。
試験は9月。
全日本剣道連盟の六段からは全国審査なので全国各地の試験会場まで
受験しに行かなければならないが、五段までは地方審査による段位授与
なので、地元の都道府県で受験できる。地方発行免状の最高位が五段で、
それ以降全国区となる。
言ってみれば、全剣連の場合は、六段以上がはじめて本格居合開始とも
いえる。六段以降は「称号」審査もある。錬士、教士、範士の称号は段位
よりも階位が高いとされている。五段まではあくまで一般生徒のようなものだ。
ただし、五段からは公開演武での紋付着用が許されていて、人から「先生」と
呼ばれることもある。

しかし、五段であっても何段であっても、常に学ぶ身であると自戒したほうが
よいだろうと
私は思う。
あたしを先生と呼ばないで(^^;


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コカコーラ

2014年08月27日 | 内的独白



何気なく自動販売機でコーラを買った。
気にもとめずに飲むと味が違う。
「これ、アメリカの・・・?」
懐かしい味がした。
缶を見たら、一切日本語が書かれていない。輸入物だ。
缶の仕様が異なる。
日本コカコーラのコーラは日本人向けに味が違うのではなかろうか。

子どもの時はコーラをあまり飲まなかった。
あまり美味しいと感じなかったからだ。
だが、横浜の米軍基地のすぐそばに住んでいた時、基地に勤める
友人の父親が持ち帰ってくれるコーラが嬉しかった。
当時日本国内で販売されている炭酸飲料の缶は、すべて細い缶
だったが、米軍のコーラを見て、その缶の太さにびっくりした。
1970年のことである。
味が違った。これは今でもよく覚えている。

数年前、岩国基地祭に行った知人が大量に米軍基地内で販売されて
いるコカコーラを持って来て、フィールドゲームの仲間に振る舞った。
「これこれ、この味だよ」と一気に40年の時を超えた。
味覚や聴覚というものは、案外鮮明に記憶に残る。あと視覚もね。
実際に、毎日聴いていた担任の教師の声は記憶にあるし、クラスの
中でも仲が良かった友人たちの当時の顔や声は今でも覚えている。
私が育った時代、学校の中で今のようなイジメは一つもなかった。
一切なかった。
何か問題が起きたら、ホームルームを開き、すべて全員で真剣に
考えて解決するようにしていた。藤沢や横浜の小学校も大宮の
小学校や中学校も、時代が違ったゆえか、非常に人間的な教育内容
だった。
その一つの要因は、教師が絶対に逃げずに問題に取り組む、生徒と
共に考えて取り組む、ということがごく普通に行なわれていたからだと
思う。学年の1組から7組まで、担任教師は全員が金八先生のような
教師たちだった。いや、金八先生よりももっと熱かった。村野武範や
中村雅俊の演じた先生のような人たちが大勢・・・ではなく普通にみんな
があのような先生たちだった。中にはそれこそ学園ドラマに出てくるような
イヤ〜な教師もいたが(笑
野島が描いた『高校教師』は、すでに時代と人の心が変わってしまった
1990年代そのものだったと思う。

人が人を貶めたりいじめたり差別したり独善的に振る舞ったり、そういう
空気は、1960年代70年代の私の周りでは皆無だった。

教育現場の荒廃が叫ばれて久しいが、娘が通っていた幼稚園から中学
までの国立一貫校での様子を見ていると、今時珍しいと思われるのびのび
とした教育環境に懐かしさを覚えた。かつては、そのような姿はごく一般的
な公立小中でみられたことだった。今は一般公立小中では見られない。
今は、一般公立小などでは、生徒を席に着かせて授業を始めるまでに
最低15分を要するという。生徒が教師を無視して好き勝手やっていて
まったく言う事をきかない。幼稚園児以下だ。乳幼児のそれに近い。
これは私の親族の小学校教師からの話だったので、他の教師たちにも訊いて
みた。どこも同じと言う。
叱りつけたりしたら、生徒は親に泣き込むように告げ口して、親は学校や
教育委員会に怒鳴りこんでねじこんでくるという。
教師たちが教育放棄に近い生徒との関係作りを断念したのは、教師たち
だけの責任ではないと思える。
ねじこみペアレンツを擁護して顔色をうかがい、教師側のみの責とする
教育機関中枢の態度が何かを狂わせてきたのだと私は思う。
極度なストレスによる教師の精神科への通院歴も多い。
私の親族もノイローゼになり、半年休職した。
一般公立校は一つのモデルケースになると思う。特殊教育ではなく、そこが
日本国内の大多数の「一般」の代表だからだ。そこが荒廃しきっている。
国立校のほうが独自方針で私学のようなスクールカラーを実行していると
いう現象があるようだ。

娘が通った一貫校は、当然のように国旗が掲揚されている。


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運営指針

2014年08月27日 | 内的独白




訪問者は1500名超、閲覧数7300〜9000超/1日と表示されているが、
これは検索ロボット、
クローラーによるカウントが占める割合が多く、実質的な
人間の閲覧訪問者数としては、各種情報を整理すると
5〜600名位/1日
だろうと思う。(サービス解析期間において、訪問1500IP/1日に対して
ロボット訪問が約170=他は生身の人間とのデータが出たが、俄かには
信じがたい)

それでも、1日数百名の方が来訪して読んでくれているというのは、
有難いことである。

多くの人が訪れるということは、そこにはいろいろな人がいる。
すべてがすべて私の書くことに同意したりする人ではない。
また、訪問者全員に同意など求めないし、どんな意見でも人は一人一人
個別に持てばいいと私は思っている。

ただし、「為にする」態度、ただ攻撃だけを目的とする人間の言動=接触
については、すべて私は実力排除します。対話不能の人間は文字通り
オハナシにならないからです。
基本的に言論統制はしませんが、ゆとり全開の脊髄反応のネット脳のような
攻撃性に関しては、相手にしません。
相手にしないということは、スルーで放置ということではありません。排除します。

ここは内的独白の場です。コメント欄を設置してあるブログではない。
たまたまブログ形式のレンタル機能を貸借しているだけであり、このコンテンツは
渓流詩人のカフェテラスの一コンテンツである「日記」です。
「その表現はさすがにどうでしょう」というご指摘には真摯に応えます。事実、
そうしたことは何度もありました。
しかし、2ちゃんねらー(私は大嫌いです)の行動形態そのままで登場して
ねじこみ、掲示板等の炎上を狙う者に対しては、徹底的に排除を行使します。
本来ウェブサイトの管理とはそうしたものです。御諒解ください。
不適当と管理人が判断したら、有無を言わせず書き込み等については削除する
のが当たり前で当然のことなのです。私的サイトは公開フォーラムではないの
ですから。
よくブログにコメント欄がない等を以て「卑怯」と罵る者もいますが、まるでネット
運営のことが解っていない、というか心得違いも甚だしい。サイト運営の原則
とは、管理者が絶対なのです。これは、商業ベースサイトであるなし関係ありま
せん。
でないとウェブサイトの管理はできないからです。


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国防訓練中に殴り合い

2014年08月26日 | 時事放談




中華人民大帝国で起きたことだからと、私は馬鹿にはしない。
どこの国でも自国を守る国防は大切なことだ。
ただ、女子をからかう軍人に抗議した人は、良心がある人だったのだろう。
殴り合いだけでよかった。同国人が銃で殺し合うことにならずに。
といっても、89年天安門があるからなぁ・・・。
しかし、この軍事教官の態度はなんだか70年前のどこかの国みたいだ。
その国の国民は従順は美であると教え込まれたので、逆らいはしなかったが。

聞きとり日本史ではないが、私は父からこんな話を聞いたことがある。
国防思想に燃えていたある少年(父)は、国民軍事教練を見学していた。
その時、ある年配者が直立不動の状態で何かもじもじしていた。
そうしたら年若い教練教官の軍人がすっ飛んできて「きさま!▼■×●△#!」と
怒鳴ってその年配者の男性を殴りつけた。殴られても年配者は直立不動だった。
でも、どうしてももじもじする。
また、教官が飛んできて、今度は思い切り何度も殴りつけた。
その時、耐えられなくなった年配者が帽子を取った。
すると、一匹の蜂が年配者の頭から飛び去った。
年配者は蜂に刺されていたのだ。
その時、国防少年は、非常に違和感に包まれたという。
なぜならば、普段、年上を敬え、お父さんお母さん老人たちを敬えと
学校では厳しく大人たちから教わってきた。
しかし、自分の親ほども年の離れた老人を軍人教官は怒鳴りながら殴っていた。
そして、参加していた学校の教師も軍人に同調して年配者を叱りつけていた。
なぜだろう。何かが変だ。これはなにか得体の知れないことが起きている。
とにかく何かがおかしい。
少年が初めて今やっている戦争の正義について、深く疑問を抱いた瞬間だった。
そして、戦争に負けて、教師たちはこれまでの態度を一変させて、ケロッと
した顔で今度は平和と民主主義を同じ口で言い出した。ほんのつい一カ月前
まで戦争を賛美していたのに。
少年はその時以来、教師も大人も信じられなくなった。

国防は必要だろう。
しかし、戦争などはしないにこしたことはない。
戦争の悲劇は単なる生命財産の消滅だけではない。
生きている者、あるいは、生き残った者たち、もしくは銃後の者たちの「何か」を
戦争は意図的に狂わせる。否、戦争のためにあえて意図的に狂わせる。
戦争の準備の開始は、まずその狂いが狂いではなく正義である、美であると洗脳
されるところから始まる。
もしかすると、今は「戦後」ではなく、「戦前」なのかも知れない。


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