渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

関東方言 ~東京の訛り~

2016年07月30日 | 文学・歴史・文化

【お笑い】ザ・ドリフターズ ドリフ大爆笑 いかりや長介VS伊東四朗
一休さんとトンチ比べ


伊藤四朗さん、セリフ回しがとても巧い。驚き。
ただ、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)
出身の伊藤さんは両親は静岡県出身とはいえ、東京
生まれの東京育ちのため、「ひ」と「し」の発音の区別
がつけられない。江戸東京訛り
は「ひ」を「し」と発音
するの
ではなく両者の中間音なのであるが、聴きなれない
者が聴と「ひびや」が「しびや」に聴こえ、「ひも」
「しも」に聴こえる。

伊藤四朗さんも、「見事このシモでふん縛ってみい」と
言ってる
ように聴こえる(3分14秒)。

刀工小林康宏二代目直紀も新橋生まれの江戸弁のため、
「ひ」と「し」の区別がつきにくい。てかつかない。
本人刀工銘の
「やすひろ」と自分で発音できず、はたから
聞いていると「やっちろ」に聴こえる。

これは上野界隈で店を持つ人も同じで、康宏のことを
「やっちろさん」と呼んでいる。

この江戸弁の方言訛りについて話していたら、二代目
康宏は他の人に向かって私を指し、「ほら。人を馬鹿に
してるってのはこういうことだよね」と言っていた。
いや、馬鹿にはしてません(^^;
「自分だって東京生まれのくせに」と康宏さんが言うので、
「いえ、私は山の手の生まれなので」と言うと「ほらね。ね?
ちょっと聞いた?いやなやつだね~」と横の人に言ってた(笑
ところが育ちはごまかせず、あたしは小石川界隈の高校に
通っていて親友たちが下町の人間が多かったからか、はた
また目黒あたりにも実は方言が残っていたからか、ある
いは神奈川でも江戸訛りが蔓延していたのかは知らないが、
「引っ張って来る」という言いまわしや「広島」という
のを言う時には一呼吸置いて気合を入れて発音しないと
「しっぱってくる」「しろしま」というように発音して
いたらしく、これは西日本に転住して岡山県の人に指摘され
て初めて自分で
気づいた。「広い道」が「しろいみち」に
聴こえるのだと
言う。そんなはずはないのだけど・・・。
そういえば、地元の奴らと撞球している時に「しだりした
しねり」とボソッと言われて笑われていたが、あれはあたし
本人は
自分では「左下ヒネリ」と言ってるつもりだったのを
きっと
ネタにされていたのだろう。
馬鹿にしてるよな(苦笑

でも、俺ははっきしと「ヒロシマ」とか「ひっぱる」とか
言えるかんね。
ただ、西日本で「ここをまっつぐ行く」と言ったら通じな
かったのはこちらがハテナとなったけど。
でも、埼玉のやつらのように、押すことを「おっぺす」
なんて
こたぁ言わねぇよ、おれは(笑
魚屋うを新の言ってることは時々わかんねーからね。
「そいじゃあ、そいつは、はぁ、ぼっこしちゃうやね」って、
どこのもんじゃい!(笑
ということで、東京・埼玉・神奈川・千葉の人は「標準語」
がしゃべれません(笑)。

でもね、広島県の人も、一所懸命に「標準語」を話している
つもりでも、すぐに「あ、広島県出身」というのが判るよ。
だって「二千円」「五百円」という発音のイントネーションが
まるっきり標準語の発音イントネーションとは違うもの。
あと、「文法」という言葉のイントネーションね。
こういうのは、よほど自己改造しないと、ほぼ一生変わりま
せん(^^;
それと、九州出身者もすぐに判る。
二三言話したら九州出身とすぐに判る。
これもイントネーションに独特の訛りがあるから。傾向的
には九州弁は東北弁に非常によく似ている。
あと、この傾向は愛媛県松山地方と山陰の一部にみられる。

私は仕事上では、意思疎通のツールとしてはつとめて全国で
通じる「標準語」を使おうとしているが、感情的になったり
するとついつい東京言葉が出てきてしまう。
でも、「ってやんでぇ、べらぼーめ」とは言わないすから、
東京の人間(^^;
あと、寅さんは江戸っ子じゃないからね。
葛飾柴又なんてところが江戸であった試しは金輪際ない。
嘘はいけねえよ、寅さん。


 


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三角乗り ~昭和の時代~

2016年07月28日 | 文学・歴史・文化



「三角乗り」という。
大人用の自転車に子どもが乗る時の必須テクニックだった。
この自転車は「重荷(じゅうか)用」と呼ばれる自転車だ。
この三角乗りは私の世代頃までは知っているのではなかろうか。
この画像の少年は多分私の15~18歳くらい年上かと思われる。

私の世代頃までが「昭和」の戦後を知っていた世代ではなか
ろうかと思う。
戦後のまだ貧しかった時代から高度経済成長が開始した頃と
いう時代は、毎日がめぐるましくどんどん変化した。町も人も
世の中の仕組みも。
高度経済成長が終焉した1973年オイルショック以降は、現在
の21世紀の今とさほど変化はしていない。せいぜい電子機器類
が高度に発達した低度だ。
とりわけ、芸能人の現在の形態は1970年代中期~1980年代に
作られたので、現在もそれが踏襲されている。アイドルなどは
1980年代の「作り方」と現在もまったく同じである。

ただ、今のような「出来上がった後の世界」と、「出来上がる
過程」を見てきたのとでは、世界観そのものが大きく異なると
いうことが現実にある。
「歴史に学ぶ」ことの大切さというものは、空虚な絵空事では
なく、現実に人の生き死にに関わることであり、未来をどう
作るかのことであると私は思うのだが、なんだか変なことに
なりつつある。
「戦後世界」があたかも「悪」であるような風潮が作られつつ
あることに私は非常に危機感を持つ。
「戦後日本」は決して悪い世界ではなかった。
日本の現行憲法は米国主導で「作られた」ものであるとはいえ、
日本に多くの平和で人を大切にすることについての光明をもたら
したことは確かだ。
主権在民、平和主義、基本的人権の尊重という日本国憲法の
三原則は「戦後世代」は学校の授業で習ったはずだ。だが、
その三原則さえも「悪」であるかのように捉えようとしている、
あるいは捉えさせようとしている勢力が現在力を持ちつつある。
戦後の昭和20年代から昭和40年代まで「世の中をもっと良く
しよう」として自ら動いた国民がいた時代とは真逆の方向に
日本を持って行こうとしている力が、「社会風潮」として
この国を支配しつつある。
国民の生活をもっと良くしようとしてかつて国民が動いた時代
とは異なり、この国をどういう方向に持って行くか、という
支配者の意図の下に国民が動員されることに従う人々が増えると
いう戦後日本の大きな変化が今来ている。ある方向に国民が総動員
されつつある。
私は、今現在を「暗黒時代の前夜」だと思っている。

戦争とは、たんに武器兵器を用いた戦闘のことだけを意味しない。
あらゆる自由や人間的尊厳がはく奪されて、それを「正義」と
する国造りから戦争準備は着手される。事実されてきた。
現在、その国内再編洗脳教育が学校教育機関だけでなく、社会の
全領域で開始され始めた段階だ。
国内の文化などは1980年代とほとんど変わらないが、権力者が
この国をどのように持って行こうとしているかの意図の実行
段階が1980年代までとは大きく変化している。
そして、集団ヒステリーのように、軍国主義・帝国主義時代の
復活を求める人たちが増えている。
戦前てね、女性などは法的にも「無能力者」だったのよ。選挙も
「選ばれた人」しか国政選挙の選挙権さえ与えられてなかった
のよ。思想も信条も宗教も一切の自由はない。それらは敗戦により
初めて日本国内に登場したのよね。日本の今の自由は、苦々しくも
戦争に負けたことによって日本に初登場した訳。
そうした日本の体制の画期的な大変革の歴史を知らない世代が
まさに「出来上がった後」から生まれてきて、せっかく得た自由
の世界を捨て去ろうとしている。
たとえ他国から与えられたものであっても、自由は自由だし、国民
主権だし、基本的人権の尊重が不存在だった時代の日本より戦後の
日本のほうが100倍も1万倍も良いに決まってる。
戦争のためには国民を「ある方向」に総動員することが必要で、
そこではあらゆる「人間性」は否定され、それを正義とする世の中
が作られる。

国家総動員体制というものはそういうもので、ありとあらゆる
人間性や個人の人格はことごとく踏みにじられる。
今の流れのままだと行きつくところはそういうところだということで
あるのに、それをなぜ好き好んで多くの人が望むのか私は不思議で
ならない。
現行の流れに反対している世代が高年齢層に多いというのは私には
理解できる。過去の現実を知っているからだ。絵空事やバーチャル
ゲームではない現実世界をその身で味わって知っているからだ。
現行の潮流の方向を諸手を挙げて歓迎しているネトウヨやゲーム
オタクや刀剣ファンタジーオタクたちは、彼らが望む世の中が到来
したら、真っ先に自分たちが保安処分対象になるというのに、その
ことが分かっていないのだろうか。
「ちょっと待ってくれ。そういうつもりじゃなかった」と、体制が
「完成」した後から言ってももう取り返しがつかない。気づくのは
今しかない。

「昭和」という時代は、日本の他国への進出と侵略、世界大戦、
日本の壊滅的打撃と敗戦、戦後の民主主義と戦災復興、高度成長、
超平和な1980年代という激動の歴史だった。
「平成」という元号は私は好きだ。響きも字の原意も好きだ。
だが、平成に入り、世の中の動きはその元号の願いとは別に、
「戦後」を否定する動きに大きくシフトした。
今上陛下が即位されたときの御言葉を忘れてしまった人が多い
のではなかろうか。
今上陛下が即位されたときの御言葉は次のようなものだった。
「国民と共に憲法を守っていきたい」

陛下は戦前、戦中、戦後、そして21世紀の現在と、すべての
時代をご覧になっている。
その今上陛下の御言葉がそのような御言葉である。
この深さをどれほどの国民が真摯に噛みしめているのだろう。


昭和大戦の戦災後に復興しつつある日本国内で遊ぶ子どもたち。
昭和20年代か。
刀工小林直紀康宏と同世代と思われる。


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シキミとサカキ

2016年07月28日 | 文学・歴史・文化

墓参りに行くのに、シキミと間違えてサカキを買って来て
しまった俺(≧∇≦)

途中で気づいてすぐに返品して交換してもらった(笑





さて、どちらがどうなのでしょうか。

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生きるスタンス

2016年07月22日 | 文学・歴史・文化

この人のツイートは最高である!
ツイートとは、かくありたい。
(ってことは本人まったく考えないだろうが)

こちら → 阿蘇カラクリ研究所

このすっとぼけ方、江戸風味を感じるが、熊本にも
こういう人がいたのか。世の中広い。
私が知ってる熊本の人は親族身内含めてドがつく真面目
な人ばかりなので。いや、この方が不真面目ということ
ではなく。
発想や各発言から推察するに、たぶん私と同世代か少し下。




メインサイトはこちら → 
阿蘇カラクリ研究所



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たくろう大先生の女性の好みに関する若干の考察

2016年07月21日 | 文学・歴史・文化

吉田たくろう(大先生)と私の女性の好みはとてもよく似ている
と私は思う。


最初のたくろう(大先生)の奥さん。四角佳子さん。通称おけい。
六文銭に入る前はこの名前でデビューしていた。
おけいこの時17歳頃か。おいらは好きだったわぁ。私の8歳年上。


二人目の奥さん。言わずと知れた浅田美代子さん。
かーいかったす。私の四つ年上。


たくろう(大先生)は、女性を好きになると歌を作っちゃう
癖がある。
斎藤眞理さん(芸名天地真理)ともいろいろあったんだよなぁ。
本人とおいらが何度も会ってた頃、たくろう(大先生)との
ことを訊こうかと思ったが、さすがにそれは訊けなかった。

ただ、シンシア=南沙織さんだけは落とせなかったようだ(笑

三人目の奥さん。森下愛子さん。この人も私は好きでした。
映画『サード』がよかった。私の二つ年上。



共通項がおわかりだろうか。
たくろう(大先生)の好みは離れ目系ということでガチ(笑)。
この系統タイプを好むことを私は全面同意する。
そうそうそう、異議な~し!(異議ある場合はナンセンス!と
ここで入る)


ただ、たくろう(大先生)がおけいと歌った『春の風が吹いていたら』
(1973年)は
とても個人的にも好きな曲だったし、二人のサラリと
歌うさわやかさがすごく
よかった。
たくろう(大先生)が1975年におけいと離婚したとき、ばっかじゃ
ねえのかこの御大将は、とか思った。
あの頃のおけいの歌声は、同時期に活躍していた高木麻早さんが
とてもおけいによくにた声質で印象に残る名曲を歌っていた。


春の風が吹いていたら♪(たくろう&おけい)

最近のおけい=四角圭子さんの『春の風が吹いていたら』。
なんだか切ない感じがする。
春の風が吹いていたら(四角佳子)



オマケ。
想い出が多すぎて 高木麻早(1974年3月25日)
作詞:北山 修・杉田二郎 作曲:高木麻早 編曲:萩田光雄


昔、この高木麻早さんのこの曲の歌声にとてもよく似た人がいた。


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火垂るの墓 「映画批評家 ロジャー・イーバート インタビュー映像」 (1999年)

2016年07月21日 | 文学・歴史・文化

火垂るの墓 「映画批評家 ロジャー・イーバート インタビュー映像」 (1999年)



海外「史上最も悲しい作品」 『火垂るの墓』に外国人が涙・涙・涙....


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パナマ帽の被り方

2016年07月20日 | 文学・歴史・文化

日本人というのはベレーもしっかり被れなかった。
私が金字塔と呼ばれたベレーのかぶり方解説サイトを公開して
からはだいぶ世の中は変わったが。(自惚れとかでなく事実として)
自衛隊幹部教育テキスト「将校のたしなみ」では、まるまる私の
解説サイトの画像図示と方法が参考利用され、私の発表数カ月後に
改訂版でそれがモロに教育テキストに掲載された。

しかし!
ベレーもだらしない被り方ばかりだったが、どうしてこうして
間の抜けたようにハットを被る?
これ、広告のモデルがやっているのだから、頭痛くなる。
大正~昭和初期の日本人のほうがずっと垢ぬけていた。


パナマ帽というのはこうやって被るんだよ!


こう。


こう。


これ。


え?白人だからカッコ良く被れるのだって?
馬鹿こくでねえ。言いわけすてどうすっだよ。
日本人だってフッツ~に決めて被れるよ。

こう。


こう。


こう。


こう。これは先月、全剣連所属の東京の居合の高段者たちの装い。


女性も。

この「カシラ」はキムタクも愛用してたメーカーだよね。

それが、どうしたらこのような虫取り少年のようなダサダサに
なってしまうのだ?


(パナマ帽の広告から)


ここまで自分の世界に入れとは言わないが、きちんと帽子は被れよなぁ。


しかも、パナマ帽を売る販売店の広告でそういうのがあるのってのが
信じられない。きちんとしたメーカーさんは店員さんもビシッと
被っているのだが(かつてはベレーだけは×だった)、どうにも間の
抜けた蝉取り少年被りだけは勘弁してもらいたいと思ったりするのよね。
そう思いますよ。

日本人だろうと、きちんとキメて被ることは簡単なことなんですよ。


ということで、1984年の俺。

暑いから水鉄砲で武装してるんだぜっ。
冗談抜きにすると、俺は高校生の頃からパナマ帽のストロー
ハットを被っていた。高校時代の赤坂でのパーティーなどでは
フエルトのハットも被っていた。

日本人というのは中世まで烏帽子が必須だったので誰もが
きちんと被り物を被れて、だらしなくはなかった。(江戸時代が
始まるまでは人前に出る時に烏帽子を被らないのは、庶民から貴人
に至るまで失礼にあたることだった。人前で被り物を取るのは
江戸期に始まった礼式である)

明治維新後も洋式化の波の中でも、日本人はスマートに洋装
着こなしていた。

カンカン帽と呼ばれたボーダーハットに至っては、大正~
昭和初期に大流行して、多くの日本人がハットを被りこなして
いた。

(昭和初期の東京の通勤風景)

(昭和初期の銀座。左二人がカンカン帽、右がパナマ帽)


東京だから垢ぬけているということではない。
江戸時代生まれの
おらのひいじいさんでさえ昭和時代には
ハットを被りこなしていた。和服にハットなどといういで
たちだったが、帽子はだらしなく後ろ下がりでデロ~ンと
被ったりはしていなかった。


ほんまに頼むわぁ。日本人は被り物をダサく被る歴史はない。
新たに変なの作らないでくれ。


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次世代ホログラフ機器

2016年07月16日 | 文学・歴史・文化

Microsoft HoloLens - Transform your world with holograms





とてもタイプです(違


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1-2-5の男 斎藤一(さいとう はじめ)

2016年07月16日 | 文学・歴史・文化




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幕末の死線をくぐり生還し、大正時代まで生き延びた男がいた。
京都守護職会津中将御預りの新選組三番隊組長だった。
出自は謎が多いとされる。明石浪人、会津藩士、幕臣等。
誰が書いているのか不明の例のネット百科によると以下だ。

斎藤 一(さいとう はじめ、1844年2月18日(天保15年1月1日)-
1915年(大正4年)9月28日は、日本の武士(新選組隊士)、警察官。
階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。
幕末期に新選組で副長助務、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時御陵
衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新後
警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。
退職後、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の
守衛、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を
務める。出自、経歴は不明な点も多い。

斎藤一は、戊辰戦争時は会津藩に属し名を山口二郎と改め、さらに
明治新政府成立後には藤田五郎と改めた。
名前は判明しているだけで1(ワン)→2(ツー)→5(ファイブ)と改名
している。もしかしたら3と4もあったのかも知れない。

一説には元々会津藩士であり、新選組に隠れ目付として派遣された
との説もあるが定かではない。
ただ、斎藤一の行動は不可解な点も多い。
新選組に途中から入隊して、後に新選組を分裂させて尊王派として集団
脱退した伊藤甲子(かし/きね)太郎に同行して斎藤は行動を共にして
いる。近藤勇・土方歳三の間者として潜入したとされている。スパイだ。
こうしたことは並大抵のことでは実行できない。意図が判明すれば処刑
されるからだ。
こうした任務をすんなりとやってのけたことからも、斎藤一は元々は
会津藩から新選組に密かに派遣された目付の山口二郎だったという説も
出たのかもしれない。
ただ、新選組結成以前の会津藩士の人名録に斎藤一の名も山口二郎の名も
ないのだが、戊辰戦争時には会津藩士として山口二郎の名がみえる。
東軍の戊辰戦争敗北後は、会津藩は現青森県の斗南藩として3万石に減ら
されて強制移動させされたが、山口二郎も随行した。
そして、斎藤一は旧会津藩の名家篠田家の娘である「やそ」と婚姻する。
篠田家は会津藩の大身の家柄だった。さらに明治「維新」後の明治7年に
元会津藩大目付高木小十郎の娘時尾と再婚するのであるが、このときの
媒酌人たちの顔ぶれが尋常ではない。元藩主の松平容保が上仲人となり、
元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めて
いる。
この通常では考えられない顔ぶれは一体何であるのか。いくら会津藩に
忠誠を尽くして尽力した士といえども、藩主までもが名を連ねるという
のは普通のことではない。
ここからも、斎藤一は元々は山口二郎であり、松平容保の命を受けて
新選組監視役として隊内に派遣されたのではとする憶測が飛んだの
だろうが、憶測を憶測とするにはあまりにも不自然なまるで「事実」を
裏付けるかのような斎藤一に対する会津藩の扱いがある。
年齢は新選組幹部内では一番若いとされる。かつては若手の年の順は
若い順から藤堂平助>沖田総司>斎藤一とされていたが、最近はなぜか
三名は同年生まれとされているようだ。
今回歴史上初めて公開された斎藤一の写真ではもう壮年なので頭髪が
かなり薄くなっているが、若い頃の斎藤一を見知っていた新選組屯所
として家屋を提供していた八木家の人が後年子母澤寛に語ったところに
よると、斎藤一は豊かな漆黒の髪が目を見張るように美しく、原田左之助
と並んで隊内で一二を争う美男子だったと伝えている。

斎藤一は剣は相当に遣えたようだ。流派は不明である。無外流ともいわ
れているが、明らかなことは、明治に警視庁の警察官となってからは
いわゆる警視流だったことだろう。江戸期の流派は確たる証拠がない。

斎藤一の本物写真はきっと遺族が持っているだろうなぁと私は思っていた。
いつか世に出るだろうか、あるいはこのまま非公開で歴史が流れるか、と。
そして、ニセモノ写真が「これが斎藤一である」とされて世に出回って
いるのを見るに見かねて今回遺族が本物の写真を歴史上初めて公表した
とのことだ。
なぜ公表しなかったのか。それは多分「遺言(いごん/ゆいごん)」だった
のではなかろうか。決して人に見せるな、との。
こうしたことは、いくら明治以降は新政府に奉職して叙勲までされていても、
戊辰戦争で東軍側に属した者たちの心底に思いが至らないと理解できない
のではなかろうか。
歴史は勝者によっていいように書き替えられる。
「国家」(薩長が作った明治新政府のこと)のために尽くした者を靖国神社
に奉じ、薩長西軍に抵抗した勢力は「朝敵」として虫以下の扱いを明治新政府
側=西軍は為した。
これは今でも継続している。明治から現在に至るも日本国は長州人によって
権力が掌握されて制圧されている。安倍もルーツは長州の「ある地域」だ。
明治以降、昭和大戦の際も、東北出身者の部隊は死傷率の高い作戦の先頭に
立たされた。そうした扱いを東北出身者は国家によって受けてきた。
明治「維新」の際の長州と一部公家による語るも恐ろしい大逆の大陰謀
についてはここでは触れないが、「歴史は勝者によって書き替えられる」
という事実を目の当たりにタイムリーに見た人たちは現実にあの戊辰戦争
の前後に存在した。権力の謀略の恐ろしさを心底知ったことだろう。
なにしろ尽忠報国の将であり天皇の信任のあつかった天皇の親衛隊長とも
いえる会津中将を「賊軍の長」として一方的に断定するようなことを
強行したのが幕末の西軍政治勢力が実行したことだった。何でもアリだ。
天皇もなにもすべて私(わたくし)して己らの意向にお墨付き(これも
「利用」目的以外にはない)を与えてありとあらゆる謀略と暴虐を断行
している。あたかもそれが「美しく神聖で正当である」かのように装って。
幕末のあの動乱は、知るに堪えないどす黒い陰謀まみれの「造られた歴史」
だったが、後年には日本には存在しなかった「皇紀」なるものも捏造されて
国威高揚のプロパガンダとして利用された。
そして、現在も自派の政治的策動のために天皇を「利用」しようとしている
勢力が確実にいる。

日本の闇。触れてはならない暗黒の闇。
天皇陛下にご自身の「意思」は認められていない。否、認めようとしない
強大な闇の力の存在がある。それは幕末の時から現在も継続している。
私は、それこそ真の大逆だと思っている。
「天皇」は自らのグループの政治主張のために持ちあげる神輿ではない。
国家を私(わたくし)するそうした一見天皇崇拝を掲げるようないわゆる
「反 反日」を声高に叫び、あるいは寡黙ながらも天皇陛下万歳を唱える
勢力こそ、真の幕末大逆一派の流れに与するものだと私自身は確信している。

斉藤一は、明治時代は明治新政府に出仕したとはいえ、なぜ藤田五郎となった
後の家から藤田五郎=斉藤一の真実の肖像写真を非公開とし続けたのか。
藤田五郎は本当の歴史の真実を時代ごとに見知っていたからではなかろうか。

こうした歴史の流れは長く生きていると、「流れ」として見えてくるものも
ある。
昭和大戦の戦後生まれの私でさえ、世の中の遷移に驚く。
私が高校に入学するあたりまでは、まったく他人の戸籍簿が誰でも勝手に
法務局で閲覧することができた。明治新政府が唱えた「四民平等」などは
あれは嘘だ。嘘であるという現実が私が高校の頃まで実際に存在していた。
閲覧者は主として部落差別の結婚差別に利用するために他人の戸籍簿を
閲覧した。
戸籍簿の「族称欄(華族、士族、平民の記載)」は戦後すでに法規により
「と抹」処理がなされていたが、結婚前に戸籍簿を閲覧する興信所などの
者はそうしたところを見るのではない。閲覧可能な除籍、改正原戸籍、
つまり差別的階級名が明記されている故閲覧不可の壬申戸籍の次の明治
19年式戸籍まで辿って「出身地区」を特定するために法務局や役所で
戸籍の閲覧をし写しを取った。出身地区が被差別部落地域かどうかを知る
ためだ。
理由は「差別に利用するため」の一つしかない。
こうしたことがごくあたりまえのことであるかのようにこの日本国内で
行なわれていたのが1970年代中期までの日本だったのである。
今の若い人たちは思うだろう。「そんなまさかぁ」と。だが、「そんな
まさかぁ」が法的にも保護されてまかり通っていたのが、つい40年ほど
前までの日本だったのだ。

昭和23年までは戸籍簿の族称欄および記載事項欄に「士族」や「平民」の
記載表記がなされていた。族称欄自体は大正新戸籍の際に大正デモクラシー
の影響を受けて一時消滅していたが昭和新戸籍で族称記載は復活している。
それが戦後昭和23年まで継続した。戸籍に法律的にはまったく意味のない
「華族」(これは貴族院議員となる権利として一定程度の法的意味を有した)、
「士族」(この記載は法律的効力は全く存在しなかったにも拘わらず継続
された。「法の不整合」というあってはならないことを継続させていた)、
「平民」(これもまったく法的に意味がない旧出身階級表記)という国内の
江戸期の階級表記が戦後昭和23年まで存在したのである。つまり、明治は
昭和大戦で敗戦するまで制度的に継続させられていた。その後、第二次世界
大戦の戦勝国による日本の民主化政策により日本の階級は法的にも消滅させ
られたのであるが、もし仮に日本が戦争に参加しなかったり、敗戦国となら
なければ、現在も法規上も日本には江戸期からの旧出自階級を国民にレッテル
貼りしたままの世の中になっていたことだろう。
戦後の法規改正による「と抹」処理が指示された後も戸籍簿には旧族称の
消し漏れがかなりあり、それは私が前職で法律業務として相続人確定を
行なう際に弁護士の事務業務として合法的に多く取り寄せた戸籍簿におい
ても平成の時代に入っても存在した。族称欄は目立つのでと抹処理は
完璧になされていたが、氏名の上の記載事項欄には族称記載が消されずに
残っていることも平成時代に入っても散見された。(21世紀に入り、現在
は完全デジタル化により戸籍簿が再編され、古い手書き時代の戸籍簿の
写しは閲覧謄写不可となっている。戸籍簿の原本は法務局と役所で各一通
厳重保管している)
そして、新選組の斎藤一については、昭和23年以前に戸籍簿を取り寄せた
研究家がいた。藤田五郎の戸籍簿である。それは1970年代に出版された
新選組研究の書籍に掲載されていた。一切合切家族関係も住所も隠さずにだ。
士族藤田五郎(藩に士籍があるため明治以降は士族)だけでなく、平民山田
浅衛門(将軍家御様-ためし-役の武士だったが、正式幕臣ではなく浪人扱い
のため明治以降は平民)の戸籍の写真も書籍に掲載されていたりした。
おおよそ、つい1970年代中期あたりまでは日本人の人権意識の低さがその
程度だったことが窺い知れる。
当然、絶対に再販はされないし、するべきものではない。

人間、生還後も長く生きてみるものだ。
いろいろなことが見えてくる。
やはり、「もはやこれまで」とは思ってみても、血気に走る若死にはよくない。
とにかく生き延びることだ。
死んではならない。君よ死ぬたまふことなかれ。


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お祭り

2016年07月15日 | 文学・歴史・文化



ハイ!エブリバディ!リスン!
埼玉県桶川市の「魚屋うを新」からナウでイカしたヤングに向けて
とっても
ホットでゴキゲンな情報がたった今届いたぜ!

とのことだ!イエ~イ。

・・・これだからネットでうを新は「ちょっとエッチな刀屋さん」とか
書かれ
たりするんだよな(^^;



旧中山道は本日は閉鎖だ。お祭りだから。




うを新の店前などは駐車場を飲食場に提供している。


しゃっちょこばった神事ではないこういうカーニバル系
の祭りってのは
おいらは好きだな。

三原城下にもここまで盛大ではないけど、夏には地元の子ども
たちが楽しみにしている祭りがある。
それは「土曜夜市(どようよいち)」と呼ばれている。
毎週週末に旧山陽道を閉鎖して露天の夜店が出る。
私の娘も小学生の頃はとても楽しみにしていて、友だちと
連れだってよく行っていた。

三原土曜夜市。(先週土曜の様子)


なんだか昭和時代の「三丁目の夕日」みたいな感じだよね(笑

この城の前を通るのが旧山陽道(江戸期山陽道。別名西国海道)で
今の時期毎週土曜に夜店が出ます。夜店は専門家のテキ屋さんでは
なく、地元の商店街の人たちが出店(でみせ)を出してます。
地元の子どもたちはとても楽しみにしている。
こういうのってなんだか、とてもいいよ♪




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下げ緒

2016年07月15日 | 文学・歴史・文化



本日、東京の居合の先輩(元うちの家主さん)から電話が
あった。

近い将来に来るだろう吉報についてお祝いは何がよいかと
いう話になった時、「じゃあ道明の下げ緒でも?(笑)」と
私が冗談半分に
言ったら、先輩は、昔居合仲間たちで池之端
道明に下げ緒を買いに
行った時の話を始めた。懐かしい。
そして先輩は「道明の下げ緒なんてもったいなさすぎて俺は
貰っても使えないよぉ。○○さんじゃないんだから」と笑って
いた。そんなことないのですけどね。先輩の差料はフツーに
金無垢時代物の目貫などを着けていますし。
それにそんなン十万もする特別な染めと組みの特注物を薄給の
私が買えると思ってか。いつもピーヒャラピーピーなのに(^^;
我が身すでに鉄なり、我が心すでに空(くう)なり、我が財布
すでに空(から)なり、なのに。

○○さんというのも私たちの仲間で、差料の鍔がいいのを着けて
たので私が「それ、いいですね~」と言うと、「いいだろ?
気に入ってるんだ。○○○万円だった」と・・・(^^;
え~と、完璧にガラスケースに入っているべきというような
美術品ですね(笑)。
私の給料の三カ月分(^^;
先輩二人は、
成り金主義ではなく、浪費癖もなく、二人とも
かなり金銭管理がシビア
な会社社長ですが、フツーに高額な
物でも、気に入った物には
惜しげもなく突っ込みます。
金にシビアではあるけれど、まったくケチ臭いことは一切ない。
私にも大島をくれたり武具をくれたり、決定打は刀をくれたり
しました。「他のやつにぁやらないよ、おまえさんだからだよ」
とは言ってくれてますが(^^;
○○さんの先輩は
私が家に忘れ物したら、「俺の車使え」とか
言って、こすると
やばいよ系の超高級車のキーをポンと渡して
くれたりとか、
鍔を「これはあの時の御礼な」とか言って下さっ
たり
とか・・・。
大家さんの先輩も、山手線内の地下鉄駅から徒歩2分の物件の
45,000円の駐車場代をただにしてくれたり、いろいろ本当に
よくしてくれた。
きょう電話があったその元家主の先輩も、また○○さんという先輩
も、武具に関してはビシッととても良い時代物金具とハイセンス
なまとめ方で決めています。無論吊るし物(出来合い物)などの
拵造りにはしていません。ごてごてとした六方者のようなことでは
なく、あくまでさりげなく、かつ自己主張として自分の好みを武具
に反映させている。二人とも刀身も厳選して選んでいます。
そういうセンスはやはり「江戸の粋」を体現しているなぁと
私は強く感じる。二人とも生粋の江戸者ですが、普段着る服も
また身のこなしも、決してキザではないのにスマートでさらりと
していてとても粋です。東京人というよりも、江戸のイキ。
そもそも気風(きっぷ)が二人とも典型的な江戸者だし。
二人の共通項は、何事につけて「本物志向」であることかなぁ。
そこらあたりは、私もすごく先輩二人の嗜好は感覚的に理解できる。
パチもの、ニセモノ、ギブツ、贋物、嘘つき、卑怯をあらゆる領域で
とても嫌っています。


道明の下げ緒は池之端不忍池界隈に長曽祢虎徹興里が住んでいた
頃からある有名な組み紐屋の下げ緒ですので、本格本式本物です。

帯締めは既成品で3万円前後から店頭に用意されています。
ただし、特注品となると10万円代~とかが普通になる。
刀の
下げ緒も単色で4万円前後からとなるので、なかなか気軽には
買えませんが、皇室御用達でもある道明の組み紐は、本物中の
本物であり、帯締めにしても「道明でなくては」というご婦人の
方々は多くいらっしゃるようです。
道明のすごいところは、見た目の技巧だけではなく、実用的な
ところが本物であること。
元々武具としての組み紐屋さんなので、手抜かりはありません。

ただし、江戸期までは、現在居合の世界等で多用される七寸や
八寸長の下げ緒などは大刀用としては世の中に存在しませんでした。
下げ緒は長くて「ヒトヒロ」が最長の長さです。
そして、糸も途中で途切れないように長い糸を使用するには
特注物でないとなりません。
だから、昭和の戦後に登場した現代居合用の八寸長の長い刀の
下げ緒などは、糸からして特別な糸を準備しないとなりません。
通常の手組み=手打ちの組み紐では長大下げ緒用の糸は用意
していません。江戸期にはそういう長さの文化が無かったし、
そういう伝統が刀の下げ緒には無かったからです。
一般的に市販されている人絹(化繊)の廉価な刀の下げ緒は一つ
1,000円程ですが、正絹の手打ち組み紐だとその50倍程の金額と
なりますし、今流行っている八寸の長尺物だとさらに割り増しに
なります。
機械での大量生産の布物ではないので、こうした金額は致し方ない
ことだと思います。

居合では、普段の稽古用は廉価なもので、試合や公開演武など
の晴れの舞台では道明の下げ緒を着けて臨むという高段者の
先生方も何人もいらっしゃいます。
私も道明の組み紐のファンです。

道明の歴史的な功績としては数々ありますが、印象的だったのは、
昭和時代だったでしょうか、亀甲組みを再現したことが挙げられる
かと思います。
単なる老舗ではなく、本気で日本文化を後世に伝えるべく今も
組み紐屋さんとして上野池之端の道明は店を構えています。
私は道明の刀用の下げ緒は2本しか持っていませんが、昔母に
帯締めをプレゼントしたことがあります。
「道明でなくては」
これは、男女の垣根を越えて聞くことができる、本物の日本の
伝統文化を求め、それに親しみたいという人の声のように思え
ます。



クリックで拡大

道明の打ち方=組み方にはほんの一部を紹介すると以下があります。
・冠組(かんむりぐみ。ゆるぎぐみとは呼ばない)
・笹波組(ささなみぐみ)
・貝の口組(かいのくちぐみ)
・変わり貝の口組(かわりかいのくちぐみ)
・唐組(からくみ)
・畝組(うねぐみ)
・奈良組(ならぐみ)
・御嵩組(みたけぐみ)
・亀甲組(きっこうぐみ)
・鎌倉組(かまくらぐみ)
・駿河組(するがぐみ)
・丸源氏組(まるげんじぐみ)
・厳島組(いつくしまぐみ)
・綾出し(あやだし)
・二間組(にけんぐみ)
・一間組(いっけんぐみ)
 e.t.c.

道明にはそれぞれ別名が付けられていて、
私が好きな笹浪打ち=
笹波組みには「西海」という名が付けられているのよね。
そこんとこよろしく。西海ちゃん(^0^)


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刀の下げ緒

2016年07月14日 | 文学・歴史・文化



私のこの刀に今漬けている下げ緒は矢羽根模様の笹浪打ちだ。
道明においては西海という名がつけられている。
さらりとしていて気に入っている。
縹(はなだ)色は会津藩の剣術指南役の指定色だった。




組み紐という日本の伝統技術を身に着けられることが嬉しい。
組み紐の組み方=打ち方には以下のようなさまざまな技法がある。
・冠組(かんむりぐみ。ゆるぎぐみとは呼ばない)
・笹波組(ささなみぐみ)
・貝の口組(かいのくちぐみ)
・変わり貝の口組(かわりかいのくちぐみ)
・唐組(からくみ)
・畝組(うねぐみ)
・奈良組(ならぐみ)
・御嵩組(みたけぐみ)
・亀甲組(きっこうぐみ)
・鎌倉組(かまくらぐみ)
・駿河組(するがぐみ)
・丸源氏組(まるげんじぐみ)
・厳島組(いつくしまぐみ)
・綾出し(あやだし)
・二間組(にけんぐみ)
・一間組(いっけんぐみ)
 e.t.c.

実用品の世界に芸術的技法を採り入れた日本独自の組み紐
という技術は、紐を単なるロープとはしない。
紐自体に高度な技法が投入され、実用的丈夫さだけでなく、
組み紐自体の組み方=打ち方に美術的な要素が採り入れられ、
さらに染色技術と合体して世界稀有の美術品兼実用品となって
いる。
茶道の世界での箱紐などは、その彩色によってどなたの作の
道具であるのかまでを表現している。
単なる実用品の域を遥かに超えた日本の伝統美が息づいている。
そうした文化は、長い歴史を経た今も残し伝えられているので
ある。

私は居合において、刀剣のみならず、そうした高度な日本の
美術的伝統工芸の技術の粋に身近に寄りそえることをとても
嬉しく思っている。
だからこそ、刀装具の下げ緒には意識的にこだわる。
梱包用のナイロン紐を刀に着ける人はいない。

刀の下げ緒には非常に多くの打ち方があるが、下げ緒にこだ
わることは、武士にとって一つのダンディズムの体現だった。
色は役職や家格によって規制があったが、許容される範囲で
士たちは下げ緒にこだわった。

江戸初期から続く池之端道明の下げ緒(私の差し料)


なお、日本の歴史において、打ち刀拵用に現代の八寸長の下げ
緒が採用されたのは昭和時代に土佐居合のあるグループが
袴紐に下げ緒の端を結束することを考案してから登場した。
袴紐に結束すること自体は昭和10年に中山博道氏が新方式として
「考案」して前垂らし右袴紐結束を案出したが、当時はまだ
さほど長い下げ緒ではなかったことが残された各種史料から
読み取れる。
八寸長の打ち刀用下げ緒はその後、土佐居合派によって現代
居合用に新たに考案されたものである。
根拠として室町および江戸期の文献を出典として示せばいくら
でも出せるが、あえて私は出さない。インターネットでの情報
収集だけをしている限りはそのようなところまでは精査・網羅
できないだろう。
しかるに、あたかも八寸長の下げ緒が江戸期からあったかの
ような自己流派ねつ造もまかり通ると勘違いしてしまうケース
もあるのだろう。
八寸長さは結束用の昭和新時代の「発明」なのである。
これの採用の歴史的いきさつは英信流○○氏の著作に詳しい。

現代は、幕府や諸藩の規制がないので、自由に下げ緒の色や
長さを自分の好みで選ぶことができる。
同時に、数多く存在する伝統技法の組み紐の打ち方をも楽しむ
ことができる。
女性の場合などは帯締めが下げ緒と同じく色合いや組み方を
楽しむことができるだろう。

みなさんも、刀の下げ緒や和服において日本の伝統技法を
大いに堪能してくだされば。
実用性と美意識の融合、それが日本の美だと私は感じている。
実際のところ、下げ緒選びは、選択だけでも構想段階から楽しい。











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廃神社

2016年07月14日 | 文学・歴史・文化

うちの近所にとんでもない廃寺ならぬ廃神社がある。
金毘羅さんとのことだが、こうなるまで放置というのも珍しいように
思える。
時代劇のロケができそうだが、崩落の危険から敷地内立ち入り禁止
になっている。
目の前に行くと、もっとすごいっすよ(≧∇≦)


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時代劇の間違い

2016年07月13日 | 文学・歴史・文化


劇画『黄昏流星群』で時代劇シリーズが始まった。
かつて、私が元学生運動闘士の医師として登場させられた
本作だが、時代劇物がどのような展開になるのか楽しみだ。
だが、映画ドラマの時代劇にもよく出てくるこうした手配書
は間違い。
現実世界の手配書には人相書きは存在しなかった。
これ、以外と知られていない。

漫画に出てくる手配書のシーンで私が一番カッコいいと思うのはこれだ。

『荒野の少年イサム』(1972年)

物語のオープニングシーンで、アウトローのお尋ね者が自分の
手配書の前でシガレットをふかしている。
これはしびれた。
このオープニングカットですぐにこの劇画のファンになった。
また、物語が進むうちに大ファンになった。
本作は少年向けの劇画だったのに、超ハードボイルドな内容で、
当時大人気となり爆発的ヒットとなった。

だが、再販はされない。
現代では再販不可能な内容が多く含まれているからだ。
黒人差別撤廃を訴えながらも、ネイティブアメリカンを「この
インディアン野郎!」と主人公たちは撃ち殺す。
だが、まだそれが通った時代のことであり、アメリカの矛盾と
欺瞞を歴史的に読み解く資料にはなるが、これをそのまま再販
することはできないだろう。
事実、コミックスは廃版のままだ。
ただし、ガンエフェクトとして深いツッコミをすると、川崎のぼる先生の
この作では、すべて1890年代中期以降のコルトSAAの5.5インチ
バレルしか登場しない。舞台は無煙火薬ではなく黒色火薬のSAAの
時代なのにだ。
このあたりはハリウッド西部劇の安直さと一緒だ。
ハリウッド西部劇は、実在しなかったガンベルト=リグを登場させ、
それが西部開拓時代から存在したかのような錯覚を全世界に印象
づけた。
西部劇映画において、リアリズムが追求されるようになったのは
1990年代だからだ。
ただ、クリント・イーストウッドだけは非常に銃の時代考証に
こだわり、細部まで徹底させていた。
だが、総体として、リアリズムの流れを作るところまでは行か
なかった。
西部劇映画ブームが斜陽して後に全世界にマグナムブームを
引き起こしたのは間違いなく彼だが、大げさな銃の反動を表現
したのも彼が最初だった。
日本では、銃の反動を表現したのは、松田優作や石原軍団が最初
だった。
それ以外は、役者のくせに松嶋菜々子のように『ホワイトアウト』
でAK47を光線銃のように無反動でフルオート射撃するような、
その程度のものだ。
よく監督があれでOK出すなと思うが、まあ、日本人の銃の感覚は
バキューンだから。
やってるほうがドキュンの間違いかと思うけどね。

映像表現は、リアルではないことをさもリアルに思わせるところが
演出の技ありなのであって、あまりにも非現実的というのは果た
して如何なものか。
『ドーベルマン刑事』でシングルアクションのスタームルガーの
ブラックホークがスイングアウトしたりとかね。
正直いってドッチラケ。
刑事がケツに大型銃を隠して丸裸で犯人に近づいて行ったとか、
そういう荒唐無稽はよしとしよう。
だが、シングルアクションのリボルバーのシリンダーが横にスイング
アウトしたりとかは、アカンて(≧∇≦)
そういうのは、絶対に現実ではあり得ない風車の弥七の風車が飛ぶ
ような演出とは違うから。
そういうのは、武士が股間に刀を差してる程にあり得ない。
『ハレンチ学園』のマカロニ先生じゃないんだから。
そういう意味では、リボルバーなのにボックスマガジン装着!
みたいな類の裏技をやってのけて人気を博したるろ剣の逆刃刀は
すごいと思う。
ただ、あれ以来、ファンタジーを現実と勘違いする人間が大量生産
された。
これまたすごい。

そうした流れで現実をわきまえずに、興味本位で人を殺めたりする
人間もどんどん増えている。
ファンタジーや脳内妄想や物語と人間社会の現実の境目が見えない
人たちが大勢発生している。
危うい世の中だよ。
漫画のシリンダーの横出しは漫画の中のお笑いで済むが、現実との
違いは見極めないと。
以前も書いたが、劇画『乾いて候』の「かいなげもんど」が実在する
と信じて疑わない人が知人にいて、とても疲れた。
というか、危ないなあ、と思っただすよ。


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居合の稽古着

2016年07月11日 | 文学・歴史・文化


化繊の反物からオーダーメイドした私の居合稽古着上下。
複数の稽古着をローテーションさせながら使っている
だが、さすがに27年目になるとこの初号機はボロボロで
みじめな
ことになってきている。
紋付用・試合用の居合着はまだピンピンだが、それらを
除く現用稽古着6着のうち、
初期物はそろそろちょっと
残念な状態だ。
しっかりした物だからまだもっているようなもので、既成
品の稽古着はこれまで何着もサヨウナラ~(* ̄▽ ̄)ノ~~♪
になった。


ちなみに、居合の稽古で絽の稽古着(筒袖)を着たのは
1990年の私が国内で初めてだろう(と思う)。
国内初ということは世界初
だったことだろう(と思う)。

これも反物からフルオーダーした
絽の居合着(筒袖)。正確には紗。

別に私が広めた訳ではないが、今では夏には居合稽古で絽を
着る人も
増えたようだ。無論私の絽も「洗えるきもの」で
あり、正絹ではない。洗うのはネットに入れて、そして陰干
しする。


着装は身だしなみをパリッと
清潔に決めて、かつ押し出しが
大切だと私は今でも思っている
。不潔感があったりするのは
駄目だし、何よりもダサいのは論外だ。こういうのは武士の
時代からあった士という種族たちの心意気だと思う。
寡黙なるも、そこにいるだけでハッと香り立つように人の目を
釘付けにする佇まいで、かつ見かけ倒しではなく槍剣の技は
「できる」。戦国の世から「我こそは」を地で生きた武士と
いうものは、多分そうしたものではなかったか。いくら閉塞感
に包まれた江戸時代にあっても。


近年、私の居合の先輩が下さった新品仕立て物の駒絽の
居合着。
こちらは損耗防止であまり着ていない(^^;)


私の師匠や先輩たちは仕立て物を居合着としていたが、
そうした事とは別に、
着付けにおいてきっちりと居合着を
着ていた。

これは高段者になると地域関係なくそのようであり、私が
広島県の高段者の方の着替えを失礼ながら拝見していたら、
ものすごく「丁寧に」着付けをされていることに気づいた。
乱雑に素早くパッパと着るのではなく、一締め一巻きを
とても
丁寧にこなされていた。
居合というものは、ただ単に剣技を学ぶだけでなく、そう
した先達の姿も学ぶものだなあと、その時にはひとりごちた
であった。


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