渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

昔のビリヤード教本

2017年03月25日 | 文学・歴史・文化



昔のビリヤード教本に出てくるこの店。東京の杉並区の阿佐ヶ谷に
あった店で、最高のロケーションだった。阿佐ヶ谷のケヤキ並木の
ドン突きのビルにあり、青梅街道に面した壁一面が総ガラス張り
というバブリー時代の建物だ。
ものすごい開放感がある店舗だった。
ただ、ミニスカの女性が玉を撞いていたら、外の通りからパンツが
丸見えになっちゃう(笑
地下鉄丸ノ内線の南阿佐ヶ谷の駅の真上、杉並区役所の向かいに
あった。




1987年頃はスッキリとしてガラス張りのオシャレなビルだったのに、
その後所有権が移転されたとのことで、なんとも中華系の落ち着き
のないごてごてしたビル外装にされてしまっている。以前は張り出し
出窓のようなガラス張りと薄茶色のイタリアンタイルのような外装
だけが落ち着いた佇まいを見せる新築ビルだった。現在はさらに
屋上にまでどぎつい中華韓国系?の看板が立てられている。
まるっきりアチラ
のセンスである(苦笑)。これは現在の画像。


これは少し前の現地の画像だが、隣りのビルともども同じ者に
地上げにあっているのが分かるだろうか。ビルの使い方でそれと
知れる。右側の隣りのビルも、かつてはこんなにごてごてとはして
おらず、町の景観がヨーロッパのような雰囲気であるのに溶け込ん
でいたのだが、これではまるで上野アメヨコか横浜中華街だ。
ここは道頓堀ともちゃうねんで、というやつね。これはあかん。


杉並区はかつては非常に住みやすい落ち着いた区だった。
この欅並木の通りの両側や路地裏はとてもおしゃれな佇まいだった
のだが、果たして今はどうであるのか。


この欅通りドン突きの並区役所真向いの青梅街道沿いにあるビルの
三階にあった「阿佐ヶ谷ビリヤード」で、私は試合中の
ブレイクでキュー
を折ったのであった。

そしてマスターの口利きで、リングを再利用したまま千代田区の神田
川沿いにある淡路亭で質の良いシャフトを作ってもらったの
である。
それが今から30年前の1987年(笑)。それを今でもメインで愛用して
いる。

ちょうど↓この1番台の右横の2番台でシャフトを折った。


この台はこちらのビリヤード教本にカラー写真として出てくる。
        ↓



さて、さらに古い教本がある。
それはこちら。↓


この中には、見開きでこのような写真が出てくる。


「1987年度全関東女子四ツ玉優勝大会」という看板があるので、
この週の日曜日にでも大会が開かれたのだろう。
場所はJR高田馬場の駅前のBIGBOXビリヤード場だ。
玉台が50台くらいある広いフロアのビリヤード場で、かなりの
人気を博した撞球場だった。
おりからの空前絶後のビリヤードブームで、このような大型店
でも、3~4時間待ちというのがザラだった。受付で予約をして、
その間によそで時間を潰すというのが普通だった。携帯電話も
無い(あったが一般的に普及していない。携帯電話の契約には
当時で30万円位必要で、通話料もとんでもなく高かった)時代
なので、時々店に外から電話を入れて、順番待ち時間の確認を
するのが常だった。

で!
このビリヤード教本にたまたま写ってる奥の台でマッセしてる
奴の横で台に両手ついて見ている奴、それは・・・・


(笑)。

当時は虎ノ門の法律事務所勤めだったが、仕事帰りに同期入所の
同学年のKという同僚と玉撞きに来ていたところをたまたま撮影され
たらしい。
こういうことって時々ある。『釣りバカ日誌 5』に映り込んだり、『痴漢
日記 2』に映り込んだり(笑)。他にもある。

このビリヤード教本に映り込んだ写真にもあるが、私は1987年時点
ではまだポケット専門ではなく四つ玉も撞いていたということだ。というか、
私は四つ玉から撞球の世界に入った。関東では四つ玉が主流だった
からだ。

この同僚のKもかなり撞球にはまり、私とはしょっちゅう撞きに行って
いた。夏季休暇中に東京から広島県の私の親の家に一緒に泊まりに
行ったことがあるが、二人で県内のあちこちの撞球場を撞いて回って、
二人で玉代を使いすぎて金すっからかんになったりして困ったことも
あった。

外大出で英語と中国語がネイティブみたいに話せる奴だったな。
事務所からの海外研修支援で半年ほどオーストラリアの法律事務所
に留学したが、帰国後は外資系の一般企業に転職してしまった。
なかなかいろんなとこで気の合う奴で、根がいい奴だった。
見た目は武豊にそっくりな感じだった。
事務所の女性が同時期に一人やめたが、どうやら奴と結婚したようだ。
人に歴史あり。人生いろいろありますね。

阿佐ヶ谷ビリヤードもビッグボックスビリヤード場も、すでにもう存在
しない。
寂しいかぎりだ。


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達人の手に名刀

2017年03月24日 | 文学・歴史・文化


Joseph Balsis ジョセフ・バルシス(1921~1995)である。
通称ジョー・バルシス。Balsisは米語発音ではボーシスとなる。
西部劇に出てくる典型的な悪役ギャンブラー顔なのだが、彼は
1966年と1968年に2度プールの世界チャンピオンになって
いる。10代の頃からジュニアタイトルを総なめにした彼が戦後
に選んだキューはTADコハラのキューだった。





チャンピオン獲得の時に使ったジョーのTADコハラ作。


いわゆるTAD荒ネジと呼ばれる物だ。


私のTADコハラ作のキューは、このジョー・バルシスがチャンピオンを
取った時の作り込みの近似模写版となっている。バット側のジョイント
リングの象牙とエンドリングの組木模様は使っていない。それ以外は
ジョイントネジがブラスからステンレスに変更された程度で、あとは
まんまバルシスの仕様だ。日本国内でまったく私と同じ仕様のTADは
見たことがない。



リフィニッシュから返って来た時のマイTADこの画像は7年前の物だが、
ラッカー
ではなくウレタンの極薄塗りのため現在も黄化は起きていない。




綺麗になり過ぎたので撞かないで重要保存刀剣モードなのである(笑)。
ただし、このTADのプレーアビリディはかなり高い。「使えるキュー」
どころか、実際に使いまくったし、20世紀末の製作2年後にこれを入手
したが、今世紀に入ってからの私はリフィニッシュに出す前まではこの
TAD一本だった。私にとっては最高のキューだ。
ジョー・バルシスが世界チャンピオンをもぎ取った時のTADの復元モデル
でありながら、TADキューの中で一番価格が安い作品というところが非常
に渋い。ピカピカな飾り立てたファンシーモデルではなく、実力一点勝負
のいぶし銀の強さを感じる。
まさに、実戦的な真実の名刀。それがTAD。

ただね、ファンシーTADは金額が高くなり過ぎた。
1990年頃はTADストレートの中古は3~5万くらいだった。(現在17万程)
3倍~4倍程に値段が跳ね上がったということは、現在80万円するファンシー
TADの金額がいくらかというと、単純計算でも27万円ほどだ。実際には30
万円位だった。私の大学の後輩でさえ持っていた位で。バイクよりずっと
安かった。
今、当時より所得が3倍や4倍になっていますか?
ところがTADの金額は3~4倍になっている。というか販売者によってそう
させられている。
ということは、やはり物価が異様に上がっているということ。
デフレ?
んなもん経済的な分析での現象を語っているだけで、バブル時代よりも
所得比率的に高額になっている物品は身の回りに渦巻いている。
ところが、販売者も消費者も生活は一向に豊かにならない。
なぜか?
それは、別場所で間接的にとことん搾り取られているからなんだよ。
馬鹿な有権者が選んだ連中の政策によって。
ポッケに知らないうちに毎月1700万のお小遣いというアホではなく、意図的
にずる賢く搾り上げる奴らによってね。

TADをまるでニッケルメッキのコルト.45ピースメーカーのように手にして
サロンでのギャンブルに臨んだようなジョー・バルシスは、TADで世界王者
となった。
若い時は当然別なキューを使っていた。TADコハラさんがキューを作り始め
たのは1963年からだから。

映画『許されざるもの』でリチャード・ハリスが演じたイングリッシュ・
ボブを彷彿させる。

にしても、悪人顔だよな(笑)。
絶対に2丁拳銃で、チョッキのポケットには銀ピカのデリンジャーを
隠していそう(笑


ここでの面持ちは佐藤慶さんのような悪人顔(^^;


佐藤慶さんごめんなさい。でも、映画『野獣死すべし』では

ほんとに悪役がピッタリだったので(^^;
あの役どころのような企業家の人知ってます、あたくし(笑
元祖地上げ屋とか呼ばれていた人。防弾ベンツリムジンに
乗っていたよ。


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ニューヨークの撞球場(1960年)

2017年03月23日 | 文学・歴史・文化



これは映画『ハスラー』(1961年公開、1960年撮影)の勝負シーンの
ロケで使われたニューヨークに存在した当時の本物のプール・ホール
=ビリヤード場である。
米語では、ポケットビリヤードのことをプールと呼び、穴無し台で撞く
キャロムビリヤードのことをビリヤードと呼ぶ。日本では玉撞きはすべて
ビリヤードと呼称しているが、英語ではビリヤードとはスリークッション
や三つ玉、四つ玉(日本と占領統治時代に発生した台湾と韓国のみに
存在)、ボークライン、曲玉=アーティスティックのことのみをビリヤード
と呼ぶのだ。
いわゆる、アメリカン・ポケット・ビリヤードの正式名は「プール」である。
日本ではプール=ポケット・ビリヤードのことを「ローテーション」や
「ロ式」などと呼ばれた時期もあったが、それは京都を中心とした
和式種目「ローテーション」という日本人が発明した競技名から来た
ものだ。フィリピンなどでは日本からの競技輸出によりローテーションも
行なわれているが、本国アメリカではほとんど行われない。
ローテーションでのファールの際の手玉と的玉の置き場所の選択は
後に日本国内独自の掛け玉競技である「5-9(ゴック)」という種目で
採用されるようになった。ゴックは1980年代に洋式めいた呼称である
「ジャパン」という呼び名がいつしか普及した。なぜか関西方面に多か
ったのだが、私などからすると「何がジャパンだ。ゴックだろが」とは
思う。バタくさい大阪や気取り屋の京都あたりがジャパンと口にする
のがおかしくてしかたなかった。マックでないマクド語圏が何がジャパン
か、と。
まあ、マックにしても、米国人からしたらマクドナルドなどという何を
言ってるのかわっけわからない発音を日本人はしているのだが。
いっそマックダナーとしたほうがよかったろうにとは思うのだが、日本名
をマクドナルドとしたのは、ドナルドという発音の物体(生体名)が定着
していたからではないかと思う。



さて、このニューヨークのビリヤード場は、シカゴの街中にあるプール
ホールとして登場するが、壁にはビリヤードの表示もある。
実は「プール」の呼称が大流行したのは、この映画『ハスラー』の後で
あり、しかも、詐欺の八百長勝負で人から金をかすめ取る者をハスラー
と言うのはこの映画以降に定着したらしい。これらはDVDのボーナス
トラックを観て初めて私も知った。
歴史的な事実というものは、確かな証人の証言等が最重要になる。
このビリヤード呼称が1960年代の米国のビリヤード場ではまだ使わ
れていたのは、映像や写真からも判断できる。キャロム台が置かれて
おらず、プール台しかない店でも「ビリヤード」とか「スヌーカー」の看板
が出ているからだ。









しかし、アメリカンポケットが主流と思われるUSAにおいて、実は戦中、
戦前にはキャロムビリヤードこそが主として盛んであり、ポケットは
ギャンブルゲーム用のお遊び、みたいな雰囲気だったことは意外と
知られていない。
戦前には、世界の中で撞球が盛んだった日本では撞球といえば
キャロムのことであったし、上級者の選手が米国選手権などにも
出場していた。選手権はすべてキャロムで行なわれていたのである。
日本でも「ポケットはお遊びの賭け玉用」という雰囲気が濃厚にかつて
はあった。それは1980年代中期までは東京でも根強く存在し、撞球場
というと四つ玉台が主流だった。10台店でもポケット台は2台程度と
いうことが多かった。
逆に関西ではローテーションと呼んでポケット台が多かった。
日本のポケット・ビリヤードの発祥の地は京都である。日本初のポケット
のプロも京都から出ている。
日本のプールは、京都の「京都ローテーション倶楽部」が牽引した。
ここで言われる「ローテーション」とは、プールのことであり、ローテー
ション競技のことを限定的に指すのではないだろう。

いにしえの日本の玉屋店内のポスター。いかにも昭和だ。プールが
ローテーションと呼ばれていたことの証拠でもある。
キューをかっぱらう客がいたのだろう。注意書きが貼ってある。


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ワオン

2017年03月22日 | 文学・歴史・文化



三原市内限定の商業組合的な店舗ポイントカードができたらしい。

御多聞に漏れず萌え系キャラである。このキャラ自体が実は
危うい系だと解っているのかなぁ(^^;


にしても、犬に対して最悪の行政区において、ワオンてのもねぇ・・・。
「尾道ラーメン」みたいに、存在しないことを取って着けたように創作
して根付かせようとしてもなぁ。
それがいい証拠には、三原市内には行政側が勝手に着けた道路の
通りの名があるが、一切市民には定着していない。
おいらの家の前なんて「学園南通り」だものね。誰がそんな呼び方
使うかっての(笑
タクシー乗って「学園南通りを通って・・・」とか言っても通用するかっ
つー
の(笑)。
ただ、駅前の「マリンロード」というのは市民には定着している。
これは結構昔から呼ばれていたから。駅前にデパートが出来た頃に
着けた名称だね。おいらが大学生の頃だ。今はそのデパートは解体
されて存在しない(笑)。
「ていじんサンロード」というのはまったく定着していない。これは旧来
の戦前からの呼び名である「帝人通り」で市民は呼んでいる。


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廃止案26府県

2017年03月15日 | 文学・歴史・文化



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戦前廃止となった26府県案が案外いいじゃん、とネットで
話題になっているという。
広島県でけーな。というか、神奈川県が静岡県を喰ってる(笑

俺なんて、こっち↓でもいいのではくらいに思ってる。


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俺の故郷、まるでクズが集まる競輪場みたいだけど(笑
東京が「なぎら」というのは最高だ。埼玉は当然「ださい」で
完璧である。
福島と三重が抜けているのは何かヤバいこと書いてたのだろう。
茨城は「だっぺ」のほうがいいように思える。
宮城も山形も「いもに」とするこのセンス。これ作った奴はかなり
のものだ。京都なんか「どすえ」だぜ。完璧にバカにしまくって
いて面白い。
山口県などは「そうり」であり、史上最悪の大逆を以って明治維新
となして以降、この国を実効支配している長州族の陰謀と謀略を
さらりと暴いており、これはなかなかシュールだ。
新潟はやはり「おこめ」か。「全国おこめ券」というのを読み間違え
そうになったのを思い出させる。


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蒸気機関車の旅

2017年03月08日 | 文学・歴史・文化



埼玉県の秩父を走る蒸気機関車C58、個体ナンバー363号。
何とも風情がある。
一度このSLに乗ったことがあるが、発射前の汽笛がたまら
ない
音だった。ものすごく耳に心地よい音質だったのである。
そして、最初に一度ガチャンとショックがあって、それから
動輪が回る感触も客室に伝わって、力強くゆっくりと走り出し
て行く。



SLでの旅はノスタルジックでとても気持ちが穏やかになる。


でも、こんなのは嫌だ!
何考えてるんだ、これ。観光用としてもひどすぎる。
牛や豚運んでるのとちゃうねんど!これはあかんて。


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昔の給料なんぼ?

2017年03月07日 | 文学・歴史・文化


(いにしえの勤務地古写真)

以下は仮の話である。



家禄70俵5人扶持、役扶持400俵の武士がいたとする。
まあ、あくまでも仮の話だ。
何人扶持というのは除くとする。400俵は単純計算で160石、
70俵は28石となる。
蔵米取りだとするとまるまる収入となるが、あえて知行取
石高に換算すると188石。さすれば、四公六民で112.8石。
1石が大雑把に計算して約1両だから、1両6.6万円計算で
112.8×6.6=744万4,800円が年収ということになる。
江戸期の税金関係がよく分からないが、現代収入で福利厚生
費および国税地方税こみこみの年収約800万円世帯が江戸期
の188石取りの武士の収入と同等と考えて当たらずとも遠か
らずだろう。
現在の大卒男子50才代の勤め人の平均年収とさして変わら
ないといえる。
武士の場合は、150石取あたりは、これに下男下女と武役の
際の侍・若頭・中間等を雇う必要があるので、現今換算の
年収800万円世帯よりも江戸期の188石取り武士はかなり
生活がきつかったことだろうと思う。
私の友人の先祖は5050石の旗本だったが、武役だけで
124人の侍をその収入のうちから雇用しなければならな
かったので、実質的には決して裕福ではなかったと言って
いた。
ドラマ『仁 -JIN-』で出て来た橘咲さんの家は150石取の
旗本だったが、生活の苦しさを食事の際にはお米のご飯のみ
というシーンで表現していた。江戸時代に江戸の人は住民税
免除待遇で、白米も多く食していた。というか、白米しか
食さなかったので、ビタミンB1不足でカッケが大流行し、
江戸患いなどと呼ばれた。とにかく、米のみを江戸人は町人
も武士も大量に食した。結果としてカッケが大流行した。
地方武士は玄米を食していたので、そうでもなかったようだ。
その当時、沢庵(高級品)がもっと流行っていたら、江戸患い
も軽減されただろう。いや、豆類や魚類をもっと食せばよかった
のだろうが、そうもいかない経済事情があったのだろう。

150石取の武士の家などはきつい生活というのはよく分かる。
それでも5石や8石などという武士も大勢いたのだから、
一体どうやって生活を成り立たせていたのだろうか。
一節に「江戸の手工業産業を支えたのは下級幕臣」という説が
あり、実際に多くの手工業や養殖が下級御家人の手で担われて
きた。地方でも大方同様の様相だったようだ。
江戸などの大都市では、町人のほうがはるかに裕福な暮らし
をしていて、圧倒的大多数の下級武士たちが町人たちから
「サンピン」と呼ばれて馬鹿にされたのも痛々しい程分かる。
サンピンとは三両一分=3.25両=21万4,500円の年収しか
なかった圧倒的大多数の武士たちに対する蔑称である。
超ウルトラ貧乏であったのに態度は武士然としていたから、
なおさら町人たちの反発を買ったのだろう。
ある江戸期の調査によると、町方の女性たちは、武士の奥方
などには憧れておらず、また男衆も武士などは鼻にもかけな
かった。人気職業は役者である。それは現代も同じか。

現代において、江戸期の武士階級の実情を知らないまま、武士が
カッコいいとか、侍に憧れたりするといった風潮が蔓延して、
世間で侍や日本刀ブームになるというのは、それは武家が何たる
かとは無縁のところ=安全地帯にいる裕福な何不自由ない現代人
の「余暇」「娯楽」感覚の成せる業なのだろう。
戦後平和ボケが生んだブームが今現在の武士や日本刀ブームで
あるような気が私はするのである。
現在の日本刀ブームはやや沈静化しつつあるようだが、今のブーム
はネット時代になって一挙的に爆発的に広まったブームで、発信源
はネットゲームである。コスプレブームとそれが連動した。
その潮流に漁夫の利を狙う抜け目ない者たちも多くいるようだ。
これが地に足のついた日本刀人気や武芸人気ではないことは言わ
ずもがなだろう。

よく、刀職の中には、現今のブームから一人でも多く日本刀の
本当の愛好者が出ればよいと言う人もいるが、私個人はそうは
思わない。
ファン層というものの身勝手さは、アイドルファンの実相を見て
いるとよく分かるし、サッカーや野球ファンとは現今の新規日本刀
ファンは異なることが見えるからだ。
ジャイアンツファンやタイガースファンのような層を形成すること
は日本刀の世界では無いことだろうし、また、位相が異なるので
多くの愛好者を獲得することは、現今のネットゲームブームに
便乗するような他人の褌での相撲路線では無理だろうと思う。
ただ、出版界の便乗商法でやたらと日本刀に関するムック本等が
出版され続けていることはよいことのように思える。
まず「知る」ことから始めないと始まらないからだ。

そう思うと、今の日本刀擬人化ネットゲームを起因とするブームも、
かつての「天下五剣」と同じようなパッションに訴えるものとする
のであるのならば、あながち一概に否定はできない。
ただ、読みとしては、今のままでは根付かないことは確かだろう。
なぜなら、どんどん妄想傾向路線と本物志向路線に二分化して乖離
していくだろうことが予想されるからだ。
どちらも高次に融合させることなどできない。まったく本質において
別物だからだ。
本式路線へ傾斜した人々は、日本刀をそれこそ神器、武士の魂として
扱おうとすることだろう。その武技においても然り。
また、コスプレのナンチャッテ路線に傾倒した人々は、どんどん本質
から遊離して、ますます脳内妄想を病的領域まで拡大して行くこと
だろう。そのチャンバラ体操においても然り。
今ちょうど流れは分岐点に差し掛かったあたりか。

こちらも参考になる ⇒ 江戸期の物価


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昨年度 広島県公立高校入試問題 英語

2017年03月06日 | 文学・歴史・文化

英語の問題 ⇒ 2016年

私が受けた高校入試は広島県ではない。埼玉県だった。
ただ、全国どこでも似たような問題だったと思う。
私の時代と明らかに異なるのは、「考える問題」である
ということだ。
私の頃のようなバカバカしい英語授業ではなく、英文を
読んで「考える」という方式に替わっているように思える。
自分の意見を英文で書きなさい、などという問題は私の
時代には無かったように思う。とにかく私の時代は長文を
読んで読解するだけだった。
ディスカッションを例文として、時事問題を英文思考で
考えさせるなどという問題は無かった。
こういう英語の試験問題ならば面白いよね。
おいらの頃の学校英語は、いくら習っても、あれではしゃ
べれません。

ただね~。埼玉県の中学英語の教科書と広島県の英語教科書
俺の時代まったく同じ教科書だったよ(笑
冬休みとか親せきの家に泊まりに行ったら、同じ教科書
だったしよ~。


広島県の公立高校て、「入試」という言葉使わないんだね。
初めて知ったよ。「公立高等学校選抜学力検査」というらしい。
なんだかピンとこない。

あす、あさってが広島県公立高校の入学試験です。


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勝負師のキューケース

2017年03月05日 | 文学・歴史・文化



サラ「何が入っているの?」
エディ「機関銃さ。都会じゃこれが要るって聞いたんでね」
(映画『ハスラー』1961年)

かつて、18年程前までは、国内線航空機では、ビリヤードの
キューも機内持ち込みができた。
空港の検査の際に女性係員に「何が入っているんですか?」
と私のキューケースを指して訊かれた。
私は「機関銃さ。都会ではこれが要るって聞いたんでね」と
答えたら、すぐに広島空港の警備員と警察官がすっとんできた。
洒落の利かぬ野郎どもだ。
と、いう実話をかつてネットに書いたら、テロ対策がどうのこうの
とか、人に迷惑をかけてどうのこうのとかうっせーことをゴタゴタ
ぬかすユトリ野郎どもがピーチクと五月蠅いのがうざかった。
ゆとりのガキどもは大嫌いである。自分が言われたからとかでは
なく(という風にしか捉えられないのもユトリ連中。2ちゃんを支える
層がユトリたちであるというのは一つの定理を示している)。

私の娘は「ゆとり世代は自分たちの責任でその世代になったの
ではないからゆとりで括るな」と私に訴えたが、自問自答と自省
自戒自己検証なきユトリ世代の馬鹿たちは全員同列だ。馬鹿なの
である。


ということで、俺はキューケースは、1961年に映画『ハスラー』で
ポール・ニューマンが使っていたこの革製キューケースが一番
カッコいいと思っている。金太郎飴世代ではないし、自立的な強固
な個を持っているから、あくまでも「俺は」ということである。人がどうか
などは知らない。自分が選ぶことは自分で決める。

よく世代論となると、「今の若い者は」的なところでまとめようとする
連中が多い。そんなことはいつの時代も繰り返しだ。
私は違う。そんな自分の世代だけ特別扱いをすることはしない。私は
「ゆとり世代が全歴史の中で確定的に駄目」と言っている。
私自身は私の上の世代も下の世代もグローバル的に同世代論的
視点やあるいは世代を超える意思疎通を持つ視野で「対話」ができる。
ゆとり世代はできないでしょ?自分中心だから。しかも一切、自立的
な自己切開や自己分析や自己の客観化ができないでしょ?
その世代をそのような金太郎飴にしたのは私の少し上の世代が
仕込んだ仕掛けの結果であるのだが、そう言われ続けているのだ
から自覚して自立しろよ、いい加減精神的に。
とんでもなくちょろい若ハゲ野郎みたいなのばっかりだし。
男も女も超つまんねー奴らばっか。頭悪いし、自分で何もできないし。
こいつらの世代がいずれ国の政権担うのかぁと思うと、終わったねとか
本気で思う。
うちの会社でもゆとり連中はすべて金太郎飴だから。
不手際とか不始末あってきつく注意すると会社を辞めちゃうんだよね。
そういうのがフツーみたい。だからアホコスプレ(あれをガチやりの
レイヤーはほぼ全員がメンヘラ)みたいな感覚でしか社会活動もでき
ない。
民間とは別なところの自衛隊や警察組織も、結構同じような感じなの
ではなかろうか。

社会自体が閉塞しているのはすごくよくわかる。
松本伊予ちゃんと早見優ちゃんが線路で写真撮ったからと書類送検だろ。
おまえ、だったら1970年代のフォークのジャケットやなんかどうなるの
だと。線路撮影大集合だぞ。
有名なビートルズの横断歩道の図だって、日本国内で真似している人
は多くいるけど、あれ、写真撮っている人はどの位置にいるの?
撮ってる連中は全員道路交通法違反だからね。
何をつまらんこと言ってるのかと。
今までに歩道で歩行中に立ち止った奴いないの?
本当ならばそれは全員道交法違反、法律を犯した犯罪者となるのだよ。
だけどならないだろ?というか、犯罪者にはしないだろ?
それが世の中の便法、援用というものなのに、何を世の中全体がゆとり
世代のノータリンの知恵足らずのようなこと言ってやがるのかと思うよ。
くっだらねえハナシだ。

例えば、この1961年の映画『ハスラー』においてビリヤード場エイムス
に主人公が乗り込んだこの画像のシーン。
受け付けカウンターで手玉を貰い、主人公は受け付けの大男に訊く。
「バーはないのか?」
すると、受付の男ビッグ・ジョンは答える。
「バーはない。ピンボールマシンも、ボウリングもない。玉撞きだけだ。
他に何もない。これがエイムスなんだ、ミスター」
そのビッグ・ジョンが立つ受付カウンターには「賭け事お断り」の札が
ご丁寧に掛っている。「マッセお断り」の札もだ。
まるで、西部開拓時代にアウトローの手配書が町のサロンの外の壁に
貼ってあって、その手配書の下のデッキ廊下に手配されている自分が
座って巻きたばこを吸っているような感じがする。
だが、ここエイムスでは、全米始まって以来の世紀の撞球大勝負の大
博打が行なわれようとしているのであり、それがなくとも、この撞球場は
全米一と裏社会で名高いミネソタのデブが毎晩夜8時に来ている場所で、
表のビリヤードの世界で15回も世界チャンピオンを獲得した不世出の
天才撞球選手であるウイリー・モスコーニをミネソタ・ファッツは顎で使う
ような存在として描かれている。

こうした映像作品の機微と表現描写は、ゆとり世代には絶対にその
オツムで理解することは不能であることだろう。
こうした1961年に『ウエストサイド物語』とアカデミー賞を競い分けた
映画作品を観ても、「だから何すかぁ~?」てなところが関の山だろう。
そもそも、「色がついてない映画は、古過ぎてなんだか」とか言うの
ばっかだからね、ゆとり連中は。本当に話にならない。
泣く子と円周率3連中には誰も勝てない。


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3分で100年分のアメリカンカジュアルが分かる動画

2017年03月04日 | 文学・歴史・文化

100 Years of Fashion: Men ★ Mode.com


考えたら、戦後の日本人はアメリカのファッションの真似
をしている。
私の世代の場合、1973年~1978年の中学高校の時代は、
1955年頃のアメカジが国内で大流行だった。
私もそのような感じだった。米国本国では20年前のファッ
ションがなぜか日本では流行していた。



中坊の頃から革ジャンにTシャツ。これ、キャロルの
影響だと思う。ヤザワは偉大だった。

(高校の時)

まあ、高校時分は英国トラッドの時もあったけど、
基本アメリカンスタイル(笑)。和服は正月だけ。

大抵の男がバイクに乗っていた1970~1990年代
というのは良い時代だったよ。
明菜かわいい~~!


ちょうど先程、モノカキやっている大学時代の友人が
「整理していたら古いのが出て来た」と画像をくれた。


後ろの畑は三里塚北総台地。俺のRZ350と親友のFX400
だなこれは。
三里塚に援農合宿か何かに行った時の写真だろうね。
農家の農作業を泊まりがけで学生さんがやりに行くんだよ。
レース活動は休止していた期間で、別な活動していた(笑)。
いわゆる、スット、カットのムスケルの毎日、みたいな。
業界用語知ってる奴はまず業界人だ(笑)。
つか、本職さんだったこのバイク2名の私たち。
カンパニアよりもカンパネラだ。鐘を鳴らせ。街中の鐘を
もっと鳴らせ。先駆的な突出した感性で警鐘を乱打せよ!
というやつだったね。
アジは俺のほうが巧かったが、相方こいつは求心力があった。
なんというか、奴はギッチギチにやらないところがいいみたい
ね。俺はこの方面では結構ゴリゴリな面が強かった。
でも二人の共通項は、「なんとかなるだろ」路線だった
ところだ。
嗚呼、壮大なゼロの後なのに亡霊のようなブントコトン
気質がまだ抜けていない1980年代初頭の我々なのであった。
気分はクロポトキンよりもロケンローなのだが、あの業界
の人間は結構実は浪花節。自分をあしたのジョーになぞらえ
る奴も多かった。

俺、本職さんで一番それっぽかったのはこの人だと思う。


大学の時、学内に潜入した私服公安をゴルフクラブで
しっぱたいちゃったのはこの人ではなかったか。
ゴッリゴリのニューレフト暴力学生の親分格だった(笑

その数年後の1976年時の根津さん。冥福を祈る。


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薬師丸さん

2017年03月03日 | 文学・歴史・文化



中学生の時の薬師丸さんは、やはり可愛かったと思う。
今はおばちゃんになっちゃったけどそれは時代なり。
演技力は、最近の女優さんならば宮﨑あおいさんの
ように頭抜けていた。
しかし、『Wの悲劇』では薬師丸さんよりも三田佳子
さんに圧倒された。あれは恐ろしかった。




まあ、それでも薬師丸さんは昔は可愛かった。
すごく顔を作る人だけど。



薬師丸ひろ子 紳士同盟


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貝三原

2017年03月03日 | 文学・歴史・文化



刀剣界でも何を意味するのかが不明である貝三原の刀工群。
「貝」の意味するところが一切解明されていない。
天文年間には三原城は無く、辺りは一面海だったので、三原と銘する
場所が今の三原城がある三原でなかったことは確かだ。
この天文時代に「三原」と呼ばれた場所がどこであるのかは学術的
にも明らかになっていない。

空想的な推測だが、もしかしたら、貝三原の貝とは蝦夷(カイ)のことでは
なかろうか。
同時期の西隣り鍛冶の安芸国大山住仁宗重が住人ではなく住仁とした
のが、仮にさらに西隣りの二王=仁王との関連性を示す符号として仁
を使ったのと同質であるならば、周辺一帯で同時代的に関係者にしか
分からない符丁なりを銘に残して用いた可能性もある。
尾道の辰房さえも、何と読み、何の意味であるのかは解明されて
いない。

貝三原の貝が蝦夷を意味する暗号であるならば、ヤマトに征圧された
まつろわぬ出雲系のオロチョンの末裔の矜持とも念とも取れる。
ヤマタノオロチの意味はマウリ語では赤い鉄の人を表す。
となると、辰房は赤い丹の意味なりしか。
それならば、辰はタツではなくシンと読むことになる。
辰房は「シンノボウ」と読み、赤い物=鉄を扱う廠という意味であった
のかも知れない。
この地区の砂鉄は出雲真砂砂鉄ではなく、赤目(アコメ)と呼ばれる
砂鉄であった。

こうなると、一気に赤と白の神社の古代対立の構造とそれの複雑な変化
に連鎖するように思えてくる。
日本の製鉄の材料の歴史は、赤土→岩→砂と変化してきたことだろう。
これは同時に赤から白への転換変遷と符合する。
その歴史の中で、熾烈で血に塗られた権力争いが行われてきた。

・二王→仁王。逆転で王仁=ワニ。和邇。
・貝→蝦夷(カイ)。
・辰房→辰砂、褐鉄鉱、赤目砂鉄。

という秘められた古代製鉄と己の鍛人(カヌチ)としてのルーツを示す
暗号が隠されているのではなかろうか。

う〜ん。これで一冊本書けそう。
梅原猛『水底の歌 -柿本人麻呂論-』のような(笑


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教えの真なることを知れ

2017年03月01日 | 文学・歴史・文化



ある有名な伝統剣術流派にはこのような教えがある。
「伝書の図の手の内は虚なり。真は口伝の中にあり」

これは私が現在学ぶ流派にもある。
口伝こそが真を伝える。
師が師の師から伝えられた師伝においてもいろいろある。
一例を出すと「丸太」と云っても、口伝を授けられていなければ何の
事だかは解らないことだろう。
鳥刺などは広く知られるようになったが、特に剣法の刀法で根幹と
なる柄手の在り方については、真髄は口伝に負うところが多い。
伝統武技というものは、そうしたところに如実に現れるので、見ていれば
その派がどうであるのかは判る。
ただし、「解る」とはならない。
伝書の件もそうだが、私の師などは、演武においても虚を遣うこともある。
一度だけ、高知において、英信流「前」で物凄い瞬速で抜いたことが
あったが、以降はあえて別方法で演武では「見せて」いるようだ。
しかし、世の中面白いもので、その仕掛けを見抜けない者たちが、その
後のある意図を以っての演武を見て、我が師を非難したりする。さも、
自分は分かったような口調で。
私は可笑しくて仕方がない。
ははあ、こうやって仕掛けに絡め取られる人たちもいるのだな、と。
兵法を理解していない人たち、特にものが見抜けない自称達人の人たち
というのは本当にいるのだな、と分かって私は兵法の仕組みに得心が行く。

なお、「天狗」とは自然のことである。
天狗を本当に天狗だと思ったり、あるいは狐を狐だとしたりして体を成す
のは、浅はかで陳腐に過ぎる。
真の伝授の有無がそうした一挙手一投足に思考性の那辺として顕れる。

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日本刀の魅力

2017年03月01日 | 文学・歴史・文化



日本刀の魅力とは何だろう。
私は思うに「不朽性」が一つ挙げられると思う。
物体としての不朽性ではない。
日本刀は鉄なので、放置すれば朽ち果てる。
日本刀における不朽性とは、すでに源平の時代に構造が完成され、それが
現在まで続いているということだ。
日本刀の新製品と称して、日本刀から弾丸が出たりレーザービームが
出ることはない。

日本刀を単なる刃物武器とした場合、現代特殊合金を材料に使用した
ほうが確実にすべての面において旧式よりも優れることになるのは分かり
きっている。
だが、それに規制をかけることによって日本刀が銃剣とは別目的にある
物として存在できている。

資本主義の世の中は、独占金融資本と大量消費経済を基盤としている。
その中にあって、日本刀は「製品」ではなく「作品」にあたるものであり、
次から次に新規格の新商品が出てくる類のものではない。
かといって、本来の武器としてどうかというと、一千年前の刀剣でも十分
に武器として通用する。
だが、基本構造は不変だ。

そうしたところに、日本刀のどしっとした魅力があるように私には思える。
大量消費の使い捨てではないところ。
カッターナイフの究極の位置にあるのが、同じ刃物でも日本刀なのでは
と思う。

だからかもしれない。
何でも新し物好きの日本人の多くが日本刀に興味がないのは。
実際に、日本人は日本刀に興味がないから、刀のことを全く知らない。
本当ならば、父のことを父と呼び、母のことを母と呼ぶくらいに知って
いてもおかしくはない筈なのに。
まあ、もっとも、最近の人で芸能人やスポーツ選手の殆どが人様に
対して自分の父親のことを「お父さん」と言ってるからね。父を父と呼ぶ
日本語そのものを知らないのだから、日本刀のことなんて(笑)。
推して知るべし、というものだよね、と。
若くはない人たちでも、「切羽詰まる」「反りが合わない」「恋の鞘当て」
「抜き打ち」「肝に銘じる」「手の内」なんて、意味が解って使って
いるのかなぁ。

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古地図との符号 ~備後国三原城~

2017年02月28日 | 文学・歴史・文化


慶應年間の備後三原城(浅野家支城、46万5千石のうち3万石)

この江戸期の古地図を見ても分かるように、三原城は、長崎の
出島のように、海の上に浮いていたというか、完全に人口島の
集合体だったんだよなぁ。なんかすげ・・・・。
この町の形状は、慶長年間にはすでに完成していた。この形に
整備し、22機もの二重櫓を建築したのは、小早川隆景ではなく、
安芸備後両国に入府した福島正則だったのではとは私は思う。
城作りの名人だったし。
今でも私などが東京のお台場界隈を見ると未来都市のように見え
るが、たぶん、この海上に都市が出来た戦国末期~江戸初期の頃
は、とんでもない見たことも無い未来都市のような景観に当時の
人々は感じたと思う。

仕事で郵便局に行くたびに、「これ何だか違うよなぁ」と感じる
地図がある。
それはこれ。私が引いた赤線のところが本当の鉄道のラインだと思う。

郵便局の鉄道線だと江戸期のうちの敷地もこれだと鉄道の下に
なってしまう。実際には陸地として全部今も残っているからね。
今は店舗が建ち並んでいるけど。

明治36年撮影の写真。城の北側から南側を望む。
う~ん。私が以前引いた赤線よりも若干やや南よりに鉄道かなぁ。
ということは緑線のあたりですかね。
赤丸部分は、今年2017年に一部が再建された後東門のあたり。
しかし、沖合の埋立地の塩田が壮観だなぁ。今はすべて地固め
して住宅地になっている。手前の建物は高等女子師範、現在の
広島大学附属三原学園幼小中学と市立三原小学校です。



こちらは、三原城本丸北端の残存部に上る階段の横に設置してある図。
これはかなり正確だと思う。「本丸石垣」「わくはら川」「JR三原駅」
「三原港」の文字は私が画像に書き足しました。赤◎の場所は、城内
の「鍛冶屋敷」があった場所。ここに江戸期の三原の刀鍛冶が住して
鎚を振るっていた。(とされる。だが江戸期の地図に記載があるので
戦国末期~新刀期の三原鍛冶はここで鍛刀したのではなかろうか)


こちらも併せてご覧いただければ幸いです。
⇒ 備後三原城 後藤門


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