渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

漢字を読む

2017年02月24日 | 文学・歴史・文化



いや、釣り好きとか土木関係者とかとは関係なく、日本語なのだから
漢字は読めよ。読めなかったら調べろよ。調べたら覚えるから。
書けない漢字は多いかも知れないが、せめて読めるようにはなって
ほしい。
「しゅんせつ」なんていう言葉は、新聞でもよく出てくるだろうに。
浚渫ではなく「どぶさらい」だったら分かるだろうが、これが「溝さらい」と
くると、果たしてドブと読めるかどうか・・・。


私が読めない同系同種の業種で使われる漢字としては「溢水」という
ものがあった。

読めないというよりも、知らない単語だった。厳密にはつくりの読みの
類推で読むことはできたが、知らない単語だったのである。
これは環境問題に関しての裁判に弁護団スタッフとして関与した時の
27歳時。
読めなかったら調べる。それしかない。当然調べた。

私の学生時代にもかなり多かったが、困ってしまうのが、文章が並ぶと
それだけで読む気が失せてしまう種族の人たちだ。もちろん新聞さえも
読まないし、小説などはまったく読まない。
そうした人に、文章解説で居合術義について資料を提供しても、読む
気配もなく、理由を問うと「文章長いからめんどくさい」と言われたり
すると、こちらは脱力甚だしくなる。脱毛までしそうだ。

とりあえず、漢字は書けなくとも読めるようにはなりたい。
私は「薔薇」は、即座に書けと言われたら書けない(笑
でも読めると意味は理解ができる。読み書きは本来同レベルにないと
言語の力の満足としてはなかなかむつかしいところはあるが、現実的な
即戦力的場面では、単語の読みと意味理解ができればコミュニケーション
はとれる。
外国語での会話などもそうで、言ってる単語が聴き取れて意味が解れば、
それを文字に書けなくとも意思疎通はできる。
漢字の場合は、書けなくとも音で聴いたことがあり聴けば意味が解る
言葉も多いので、まず読めるようになることが先決かと。
読めなかったら、調べるしかない。
「これなんて読むの?」と人に訊くとまず覚えられない。
今時はネットというツールがあるのだから、ググればある程度調べられる。
本来はリアルで漢字辞書を引いて、つぶさに確認するのが良いのだが、
ツールを使えば迅速に調べることはできる。
ただし、各種情報については、インターネットは玉石混淆であるので、
ネット情報を鵜呑みにすることは危険を伴う。

17年ほど前、「渓流詩人の渓流ってなんて読むの?淫流とは違うよな?」
と19歳の奴にギターネットコミュで言われたことがある。
いや、確かにそれでも合ってるかもしれないけどさ(笑
同じ当時19歳の奴には馬鹿受けして、爾来、奴は俺のこと「淫流さん」とか
呼んでいた。
ヤメレ(笑

渓流の渓は略漢字であり、本来は溪なんだよね。俺は渓の字を使うけど。
人名とかは困っちゃうよね。自分の苗字(法的には氏)が本当は齋藤さん
なのに略して斉藤にしたほうが通りがよかったりとか。
浜もそうだよね。本当は濱であったり濵であったりするのだけど、濱と濵
ではどちらが略字かも今では知らない人が多い。浜は読み書きできても。
齋藤さんの齋にしても、齋、齊、斎、斉とどんどん表記が変化してきた。
草冠にしても本来真ん中の間が空く四画だったものがいつの間にか三画
で書かれるようになった。
意外なところでは、「鉄」という略漢字が江戸初期から使用されていたことだ。
これは新陰流の目録から、江戸初期から「鉄」が既に使用されていたことが
判明している。
個人的に面白いなと思えるのが、その「鉄」が使用されはじめたのが、丁度
鐵の質性が変化した時期と重なることだ。「鐵」は「金(かね=金属≒てつ)の
王哉(なり)」であるのだが、「鉄」は「金を失う」という表意になっている。
その「鉄」の文字が使われ始めたのが鐵の質が変化した時代であったと
いうのは、単なる偶然なのかどうかは判らないが、なかなか興味深い。
古流剣術史料と日本刀を見ていると、斯界の観点からも漢字一つとっても
思索が広がるので、そうした点が面白いと個人的には思えるのである。

あと、困ってしまうのが、よく漢字について不勉強な武術家たちがさも分別
臭そうに言うことに、「武とは戈(ほこ)を止めることである」とか言う言辞がある。
これはよく目にする。
だが、武とは「戈を止める」ことではない。「止」ではなく「アシ(足の下の部位)」
なのである。つまり漢字の原意は戈を持って勇ましく進軍することを意味した。
漢字の部位をきちんと部位として理解せずに、原意について調べることもせず
に思い込みで物知り顔で分別臭く人に講釈垂れようとするからそのような
間違いをしでかす。武は文字通り武力の武なのであり、武力を止(や・と)める
ことは意味しない。あえて意味するとすれば、武を以って武を制することだろう。
大抵その「武は戈を止めること」ということを言う人たちは、「活人剣」について
も誤解しており、人を殺さないことが「活人剣」だと思い込んでそれを人に聖人
君子の人生訓のように説く。まるで吉川英治が創り上げた武蔵像の人間形成
訓のようにして。
だが、
活人剣とは、強引な一方的圧力ではなく十分に敵を動かせて討ち取る
ことを本来はいう。また殺人(せつにん)刀とは、剛直一点で何の奥もなく猪突
猛進のように馬鹿の一つ覚えで力押しして勝とうとする稚拙なスタンスのことを
いう。
だが、これらは誤認誤用されていることが非常に多いようだ。
そもそも武術家などというのは、剣術居合術家であっても大切な刀剣である
日本刀一つさえ見えないのであるし、脳筋さんが多いから、漢字の原意や教義
の真諦などに理解が及ぶ人種とは思えないのだが、さしあたっては、誤認誤謬
を誤伝のまま人に広めるのは宜しくない。

閑話休題-
別なこととしては、私の予想では、近い将来は、文章表現でも言文一致が
進行して、「私は」という表現は「私わ」になり、「貴方へ」は「貴方え」になり、
「私を」が「私お」になるのではなかろうかと思う。国語表記の定めとして。
すでに仮名文字の「ゐ」と「ゑ」が使われなくなって久しく、「ゐ」と「ゑ」の
使う場面の意味どころか読み方さえも知らない人が大半になっている。
「けふ、てふてふをみた」という表現も戦後には「きょう、ちょうちょうをみた」
に変更された。
たぶん、「~は」「~へ」「~を」も、そのうち変更されそうな気がする。

 


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「今蘇る日本の歴史」 DVD

2017年02月24日 | 文学・歴史・文化



「今蘇る日本の歴史」というDVDを観た。
まあ、解説されているのは中学校の教科書レベルのことなのだが、
なかなか楽しめた。

だが!
非常にまずいよなぁ・・・この編集。
「閑話休題」というコーナーがあって、歴史エピソードを紹介する挿話
コーナーがあるのだが、完璧に「閑話休題」という言葉を「余話」という
意味に誤認して使用している。
たぶん、編集者が言葉の意味を知らないまま企画して、それをチェック
する編集長もそのままそれでOKを出したのだろう。
「閑話休題」とは、「元の話題に戻す」ということである。「余話」のこと
ではない。これでは「永久保存版」と銘打つには問題がある。
「今蘇る正しい日本語」というDVDも続編で出してもらいたいところだ。

というかですね、最近気づくのだけど、こうした物販メディアだけでなく、
放送メディアのテレビでも、テロップで誤字多くない?
なんかそんな気がするのだけどなぁ・・・。
含みのヤラセ演出かとは思えないところで誤字だろう字が使用されて
いたりする。

高校の時に学園祭での上映用に仲間で作ったフェリーニ調の自主製作
映画があった。
最初のテロップで「この物語は実在の人物、団体とは一際関係ありません。」
と演出担当の私が書いて、それを監督と確認して本編で使用した。
試写会を観た担任の国語教師が「『イッサイ』の字が間違ってる」と言った。
そら来た!待ってました。私は教師に言下に言った。
「先生、誰が『イッサイ』などと?これは『ひときわ』ですよ」と。
オープニング字幕スーパーからして人を喰った映画作品だった。
劇中出演した教師は、社会科の授業で教科書を生徒に立って読ませ、
その生徒が読めない漢字があると、生徒に実現不可能な教科書のページ
数を50回来週までに書き写して来い、できなければ丸坊主だ、としてそれを
実行していた社会科の教師だった。柔道部の部室では生活指導の柔道部
顧問の教師がバリカンを持って待ち構えているという手の入れようだった。
私も読めない文字があり、その書き写し・不能ならば坊主の刑をくらった。
私は私と同じような字体を書く友人女子高生数名の多大なる協力を得て
一人では実現不可能な教科書まる写しをクリアした。「なぜ書けたのだ?」
と教師が言ったならば、「実現不可能なことを生徒に強制しているのか」と
反論し、さらに「自分で書いたのか」と追及されたら「いつ単独で書き写せ
との指示をしたのか」と突っ込むつもりだった。
だが、その社会科教師は、苦虫を押しつぶしたような面持ちで提出した
膨大なノートの束を受け取った。
その頃、学内には坊主頭がどんどん増えていた。坊主になった者が再度
漢字が読めなかったら、少し髪が伸びたらまた坊主にするという執行刑
だった。生徒会などは御用生徒会なので動きはしない。
目には目を。暴力を征圧するにはそれなりの実力闘争を。機は満ちていた。
ほどなくして、その社会科教師の自宅に深夜2時半になると電話が鳴り、
奥方が出ると坊主の読経のテープが流れる。それが三か月続いた。
三か月後に、社会科教師は「分かった、分かった。俺の負けだ。坊主強制
はもうしない。かみさんが音を上げて、貴方は学校で生徒たちに何をした
のかと俺が叱られた」と敗北宣言をした。
非合法抵抗戦線を3学年全学に亘って地下組織として組織して、波及的
ゲリラ攻撃を指揮した人間が誰であるのか、私は知らない(笑)。
オープンなところでは、映画に出演させて、生徒が何を言ってもウンウン
頷くだけで全く理解を示さず、その主人公の生徒が落ち込むというシーン
でその社会科教師に登場してもらい、サイレントで撮影した。
作品を試写した担任の現代国語の教師は、「よくあの先生が出演オファーを
承諾したなぁ」と驚いていたが、オープニングテロップの仕掛けトラップに、
まさか親生徒派の担任の現国教師が地雷を踏むとは思わなかった(笑)。
狙いは、出演者本人の社会科教師だったのだ。
「漢字が間違っとる」と我々に言って来たら、読み間違いを指摘して、教科書
の莫大なページ数を写し書きすることを圧倒的大衆的恣意行動によって強制
しようと私と私の仲間たちは企んでいたのだった。監督などは「学園占拠バリ
ケード封鎖と全学バリストによる大衆団交も辞さない」とまで私やスタッフに
宣言していた。バリの作り方を日大の先輩に習わないとなぁ、なんて私は
思っていた。ゲバメットは決起隊の人数分をどこから調達するか、とか。
どうせ封鎖解除で機動隊が導入されて武闘になったらその現場の武闘指揮
は私になる。私は心情右翼だったが、新左翼諸君には好意を持っていた。
新左翼の彼らは口先だけでなく、自ら体を張るからだ。私が入学する6年前
の70年安保闘争の頃には、高校の学内でもメット部隊がジグザグデモを
敢行したりしていたし、私の時代にも四トロや中核や解放派のセクトシンパ
の活動家が私の高校には何人もいた(ブントはいなかった)。当然、バリスト
解除で機動隊導入となると逮捕者続出になるだろうが、そんなことは首謀者
全員が腹を括っていた。
大学入試には内申書は考慮せず、退学処分を受けたら大検を取得してでも
学力試験の受験のみで突破する。そういう気構えで臨んでいた。
難関校の推薦を受けていた奴も推薦は諦める気構えで、これから起きるで
あろう激突の嵐の中に起つつもりでいた。(彼らは全員難関大学に合格
した。私だけ30度ゲレンデ直滑降だった。だが、彼らのうち早稲田に行った
連中はかなりいたが、一人を除き全員が中退している。これは大学なりしか)
我々は、横暴を断行している社会科教師を引きずりだし、学園全体の教育
の在り方を全学的に問うという一点突破の全面展開をするつもりだった。
「一点突破の全面展開」は元早大社学同だった担任現国教師から聞き
かじった戦術だ。(後に退校し、開成高校のお偉いさんになった)
だが、敵もさる者で、その社会科教師はニタァ~ッと笑っただけで、映画の
テロップ演出については沈黙を守った。トラップ完全失敗(笑
社会科教師の自宅に深夜の電話が鳴り響いたのはそのすぐ後からだった。
その映画作品は、「高校生がずいぶんと面白い映画を作る」とのことで、東大
本郷での東大学園祭実行委員会から貸し出しを依頼されて、東大学園祭
にて暫く上映されていた。
我々高校2年17才集団の映画製作者の心の中の同地平的共通認識は
こうだった。
「人生は祭りだ。共に生きよう」(by フェリーニ)
 


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暗殺剣  士の一族

2017年02月22日 | 文学・歴史・文化


居合の剣は如何なる剣か。
一概に括ることはできない。
土佐英信流には、討ち取り対象を人混みの中に発見し、人混みを両手で
押しのけるようにかき分けて突進して斬り伏せる業が今でも残っている。
金正男氏の件もあるので、今これを書くのは生々しいが、あの暗殺と
同じような目的を達するためにその業はある。

日本には「本音と建前」という外国人には理解が及ばない精神文化が
ある。
武術の教義においても、現代武道の場において「この業は殺人目的を
完遂するためにこうやる」などという解説は一切なされない。
そのため、本当のことはオブラートなどという薄い物ではなく、深く
厚く押し包んで隠し、本質については語らずに健全な建前が述べられる。
だが、これを間に受けていたら、大間抜けも甚だしい。武術の根幹は
生きるか死ぬかの戦闘メソッドであり、いわば死闘の技術であることが
中核だからだ。
そして、武家政権時代にあってはそれが兵法の存在意義であった。

ある時、師に禅問答のように問われた。
「抜刀する時は如何なる時ぞ」と。
「己の命を守る時」と私は答えた。
答えは「否」であった。
師曰く、江戸期の武士は喧嘩両成敗であり、抜いた者は、どちらも
ただでは済まなかった。悪くすると切腹である。言いがかりをつけ
られてこちらが抜き受けても「不覚悟」とのそしりを受けることさえ
ある。
理非の問題ではない。現代感覚での現代人には到底理解が困難な、
武家には武家の独特の価値観がある。

昭和初期生まれの士族である師の言は妙に重たかった。
師は主家の家中に伝わる新陰流の目録を得ている。

而して、師の問いの答えとは、如何に。
解答は、「上意討ちなり」である。
主命を帯びた暗殺剣のみが抜刀斬殺の責を問われない。

師は言う。
敵の殺気を感じたら、避けるなり流すなり、外せばよい、と。
対峙状態において害意認知の後にこちらが行動してから殺ら
れる馬鹿な敵などいない、と。
また、「もたもたしていたらこちらが殺られてしまう」と明確に
師は言う。
居合はすべて「先(せん)先の先」であると、師筋の先達も言う。

そこで、師は更に私に問うた。
「こちらから先に仕掛けて相手を討ち取って、それで罪に問われない
士の状況とは如何なるものか」

まさに主命を帯びた上意討ちしかない。
繰り返すが、昭和初期生まれの士族の言は重い。
私は戦後生まれなので士族ではないが、師の言わんとする深いところ
は、痛いほどよく解る。
また、表向きの処世としての発表と、真の真の趣意は必ずしも同一
とはならない。
それを弁えないと、現代感覚のみに捉われた浅はかな武術解析と
なってしまう。

香具師が士族になれることは存在しない。これは、個人の力でどんなに
捏造で作り話を仕立てようとも、どうにもできない絶対事項であるから
だ。
士の流れに無い者は、本質的根幹部分になかなか理解が及ばないので、
詮無き捏造を設えて唯一の自己の拠り所としたいのだろうが、とにかく
よく嘘をつく。嘘をついて己の系脈に高貴性を後付けで付与させようと
する。この傾向性は捏造を専らとする者たちに共通している。それで
自分に箔がついたとでも勘違いしているのだろう。実は真逆であるのに。
士の流れに無きそうした者たちがその士の系脈の中に己がいると創作
したがる傾向が強いゆえに、捏造でっち上げが、士なき現代においては
あちこちでまかり通っているようだ。
江戸期には絶対に許されない(たぶん捕縛される)だろうことも、現代
社会においては武士が消滅したために、適当にでっちあげて私称すること
がまかり通っているのが実情だ。
また、事情を知らない多くの人々が、それに騙されたりする。時代劇の
創作物語が現実の我々日本人の過去であったかのような錯覚に陥って
いたりすることも多い。
だが、真実の士の歴史は、「即座に切腹できるか否か」というところに
こそある。
その心、現代においてコスプレ感覚で武士を騙る者たちにいかほど残って
いようか。残るどころか、真似っこだから、最初から微塵もない。人に対
し偉そうにしたいために過去の武士の存在を利用して集客しているだけ
なので、端から士魂などは一切存在してはいない。根っからのカタリなの
である。

漢字の原意で「吉」はなぜハピネスな文字とされるのか。
それは士が口にすること、つまり先生の教えである、と漢字の原意は
しているからである。
そして、本物の士の一族である私の師の言は、士に関する事柄について
とても重たい。
昨今流行りの、コスプレ感覚や、捏造僭称により自分が偉そうに人の
前で振る舞いたいだけの傾向とは全くの異次元に士の一族の精神性は
立脚している。

だが、こういうことは、ことさらに設えて演技しても致し方ない。
幼少からの親の躾と流れる血が士らしいか否かを大部分において
決定づけるからである。
付け焼刃や泥縄でどんなに武士を装って武士らしく見た目を取り繕おう
とも、ニセモノは贋物でしかないので本物ではなく、必ずチグハグで
頓珍漢な辻褄の合わない事が現出する。
だが、それは、真に士の流れにある者たちにとっては、無関係な縁のない
出来事なのである。


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居合道段位審査と紋付

2017年02月20日 | 文学・歴史・文化


游雲会のメンバーが居合を始め、一級に合格した。
初段かと思っていろいろアドバイスしたら、一級審査だった(≧∇≦)
まあ、私なんて級も持っていない居合開始二週間目で段外の部で
試合の大会に無理矢理当日エントリーさせられたが。あれは戸惑ったが、
勢いで乗り切った。
そこで初戦を勝って、二回戦1-2で負けた。

全剣連の昇段審査の受験資格には修行年限が設けられている。
初段‥‥一級合格から半年以上。
二段‥‥初段合格から1年以上。
三段‥‥二段合格から2年以上。
四段‥‥三段合格から3年以上。
五段‥‥四段合格から4年以上。
ここまでが地方自治体ごとの審査で、ここまでで最短で10年かかる。
六段からは全剣連全国審査となる。受験資格年限は六段以降は、各5年以上、
6年以上、7年以上と加えられる。

私は五段までは全て一発合格だったが、なぜ平成元年1989年の20代
から始めたのに未だに五段かというと、途中、転職、転勤、人事異動、
等々で居合の活動が連盟所属でまるでできなかった期間が長かったから
だ。
自主稽古はしていても、連盟での稽古参加と受験をしていなかったので、
同期の仲間は皆七段位になっているのに、私はまだ五段の段階にいる。
(自分の中では初心者だと思っているが、師匠とからは地方連盟最高位の
自覚を持てと諭されている)

全剣連の場合は、一応五段の地方段位最高位からは紋付着用が許され、
「先生」呼称で呼ばれたりする。
ただ、私個人は、大会の場などの公的場面は別として、私より後輩の
方々から先生呼称するのを勘弁してもらっている。
私よりも人生の大先輩の方々から先生などと呼ばれるのはどうにも(^_^;)
たまたま居合を始めた時期により段位が上であるだけのことで、私は
指導者ではないので先生ではない。
そもそも、安易に先生、先生と誰でも呼ぶの風潮は何だかなあ、とも
思うのである。
以前所属した神奈川の道場では、「先生」は師匠一人なので、全員が
道場内では段位に関係なく「さん」付けで呼ぶのが慣わしだった。
今の広島で稽古している道場は私営道場ではなく、有志の先生方による
無償での教育研究同好会だからか、やはり、「先生」は指導にあたる
方々にのみに付けて皆が呼んでいるし、それが周囲でも自然となって
いるようだ。(試合や公的場面では、五段位以上の方に対しては私も
先生と呼んでいる)

游雲会の友人は「私の間違いでした。一級受けてすぐに初段受けられると
思ってましたが、初段は8月でした」とのこと。
え〜と。(^_^;)
受験審査の決め事はよく把握しておきましょ〜。ぶひゃひゃ〜(≧∇≦)

私は、公式場面ではない私的な追悼演武などでは紋付を着て居合演武
したりしていた。これは師匠の許可を得て人前で着用していた。
ごくプライベートでは、正月には紋付を着用して両親に手をついて挨拶
するのが20才の成人以降はうちでの慣習だった。
その正絹紋付は父から授けられた。
父は祖父から貰ったとのことだ。
各自、自分でも呉服屋に仕立てて貰うので、家では、一人あたり複数
の紋付を持っていることになる。
没するか生前贈与を受ければ、その分も増えることになる。
我が家では、本紋を現在では主として使用し、替え紋二つは殆ど使用
していない。父が幼い頃には幾つか使っていたようだ。
貧しい家だったが、毎年花見の時期には父のきょうだいたちは、花見
に各人用に家で用意された漆塗り蒔絵の重箱を持って花見に出かけるのが
唯一のささやかな楽しみだったという。
各人の持ち物として専用の重箱を与えられたことが、花見の嬉しさに
自分の中で静かに花を添えたと叔父は生前私に語っていた。
(刀しか残ってなくて、重箱ないよ!どこさ行っただ?)

うちの家系は経済的には裕福ではなかったが、近隣都市に出た高祖父の
弟の家系は商才があったのか、子孫はいずれも成功し、起業したり、
議員になったり、私立校の理事長になったりしていた。天皇から文化
勲章まで貰ったりしている。宇宙開発関係で赤門の院でセンセをしたり
しているのもいる。
同じ血脈一族ながら、三原城下のうちとはだいぶ違う(笑
ただ、全国各地に散っても、それぞれが自分の立場で懸命に生きている
ことだろう。

核家族の時代になっても、現代でも家紋だけは残っている。
これだけは、他家の家紋を勝手に使うことは許されない。
許す許されないという法的縛りは現代では存在しないのだが、歴史の中
では他家の家紋を僭称したり利用したり盗用したりすることは許されない
ことなのである。
これは、法的にどうのではなく、人的な日本人としてのモラルの問題。
つまり、人としての心の問題だ。
民主主義国といっても、何でも自由なのではない。法律を超える
守るべき物事は確実に存在する。
落語家や歌舞伎役者の紋ではないのだから、家紋は家の器と血脈を
指し示す紋所としてあるのだから、勝手は本来ならば一切許されない。
そして、家紋は、日本固有のものである。
なので、真実の日本人であるならば、おいそれと家紋をないがしろに
しては非常によろしくない、と私個人は考えているのである。
僭称や流用などというのは論外。
家紋の重みについて理解していない盗用捏造を為す善人を装った悪意
に至っては、論外以前に、まるでオハナシにならない。

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撞球 ~ビリヤード~

2017年02月18日 | 文学・歴史・文化


漢洋長崎居留図巻 (長崎歴史文化博物館蔵)


唐蘭館絵巻「玉突き図」 (長崎歴史文化博物館蔵)

日本人で初めてラーメンを食べたのは徳川家康とされているが、
日本人で初めて撞球をしたのは遠山金四郎ではなかろうかとも
いわれている。

最初はゲートボールのようなものだった撞球が現在のビリヤード
の形になったのは19世紀になってからだが、文明開化の日本に
おいても大流行した。鹿鳴館には撞球室があり、6台のテーブル
が置かれていた。
最初は日本でも貴族の遊戯だった撞球は、明治時代中ごろには
大衆的娯楽となり、洋食屋に撞球台が置かれていることが一般化
したのである。

また、昭和初期頃には、紳士淑女であるならば、撞球くらいできて
当たり前という時代になっていた。
皇族でも撞球は嗜みとして盛んに行なわれてきた歴史がある。
今上陛下をはじめ、高松宮様も撞球好きで有名だった。
現在、ビリヤードは、文科省が推奨する国民生涯スポーツとなって
いる。

撞球は老若男女を問わず、誰でも楽しめる。
私もこのような部屋で、オフタイムにはゆったりと過ごしたい。



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ヤマハ !嗚呼!ヤマハ!

2017年02月18日 | 文学・歴史・文化

メイドイン・ジャパン ヤマハ


ヤマハ発動機 挑戦の軌跡
"Yamaha Motor challenge of trajectory".

【がんばれ日本のヤマハ】 四輪車発売!




う~ん・・・。
家ぢゅう探しまくったけど、ヤマハ製のビリヤードのキューは無かった(笑


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死刑!!

2017年02月17日 | 文学・歴史・文化



何言ってるんだ?こいつ。
死刑!!は死刑!!だろうが。





それと、正確には、オッタマゲーションがふたつだ、間抜け!!(笑)


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ザ・ラット・パック

2017年02月16日 | 文学・歴史・文化



ラット・パックというものがある。
これはまあ、「わるがき仲間」というような意味の「シナトラ一家」
を表したものなのだが、1950年代当時は、その最先端のファッション
やイキさを売りにして、若者たちに大いにウケた。
今見ても決してダサくはないと思える。



その彼らラット・パックで有名な写真が「Shooting Pool」という
写真だ。
これ。


アメリカによくある地下室に設えられたビリヤードルームで撞球に興じる
様子を写したものだ。

別なルームでの撮影では、有名どこがワンサカ。








なんだか、ワル親父たちの間でエグい大勝負が始まりそうな雰囲気を
出している。


ところが!げひょ~~ん!
すべてヤラセである。


なぜならば、これはスタジオで撮影されたものだから(笑)。
壁や屋根までセットだよ(苦笑

日本のエグい撞球映画で『道頓堀川』(1982)という深作監督
作品がある。主演は真田広之と佐藤浩市、松坂慶子に山崎努だ。
原作は宮本輝。戦後の物語だが、深作監督は1981年当時の現代
に話を作り直して撮影した。
実にドロドロした人間ドラマを描いた映画作品となったが、
その劇中に出てくる撞球場がくっそリアルだった。
実は、私はそこをすべて探しまわった。
見つからなかった。あるわけがない。映画で撮影された撞球場は
すべてセットだったのだ。げひょ~~~ん!
これはDVDが発売されて、その撮影裏話が収められたボーナス
トラックで初めて知った。
1980年代からずっと探していたが、あるわきゃないのさそれは(苦笑
私が道頓堀川の大黒橋に赴いた時も、すでに1981年の映画で描かれた
頃とは大きく様変わりしてしまっていた。橋の上に公園もジャングルジム
もない。
それどころか、今世紀に入って、ひっかけ橋さえも近代化されてしまった。
もはや、1980年代=戦後の景色を引きずる道頓堀の景色は無くなって
いた。




「絵描きさん?」「卵や」「大きな卵やね」






これが公開された1982年。主人公役の真田広之と佐藤浩市は
私とも同じ歳であり、真田演じる大学生は、当時の大学生の
ファッションそのもので、後年映画を見ても、自分にとっては
違和感がなかった。髪型も当時の大学生の一般的なスタイルだ。

この映画公開当時の俺(大学生)。真田と同じような髪型している。


映画『道頓堀川』にしてやられたのは、鉄火場のような当時の
ビリヤード場をセットで再現していただけではない。
この「リバー」という喫茶店が舞台の一つなのだが・・・。


喫茶リバーの店内から見た戎橋(通称ヒッカケ橋)。これは実写だ。


だが、このシーンでは、店内もセットで、道頓堀川の対岸の向うの店も
すべてセットなのである。これにはすっかりだまされた。
向こうのセットは、距離感を出すためにわざとすべてテーブル等の室内品
を小ぶりに作った物が使用されたという。


こんなん、わかるかいな!(笑
どう見ても、喫茶店リバーの店内から窓の外に道頓堀川と向こう側の
店が立ち並ぶように見えるがな(^^;
これ、すべてセットだということです。
大道具さん、証明さんの勝利(笑
してやられたわい。
今だとCG使うのでしょうけどね。CGがなかった時代の映画作品の
ほうがいろいろな面で面白かったりもする。
すごいのは西部劇だよね。
何千頭の牛などを移動させるキャトルドライブなどは、本当に牛を
移動させて撮影されたりしている。ジョン・ウェインの作品とかね。
今見ても圧巻だ。
クロサワの戦国映画にしても、本当にエキストラがあれだけの人数
揃って撮影にのぞんでいる。
CG無き時代の映画というのは、結構面白いと思いますよ。


でも、ザ・ラット・パックの有名な撞球シーンがヤラセ撮影という
のは、ちとショック(笑
『道頓堀川』で演出者にしてやられたことを思い出しちまったよ。



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製鉄

2017年02月14日 | 文学・歴史・文化





どこの国でやっても、原理は一緒なので、どこの国でもどの時代でも
同じような傾向性を見せることになる。
時代と共に炉が大型化するのも、これも万国共通の傾向だ。
ただし、日本や亜細亜・西欧・北欧が初期にはそうであったように、
小型炉のままの製鉄を墨守しているエリアも存在した。












やがて炉は大型化され、大量生産となる。





小説『いっしん虎徹』で面白かったシーンがある。
のちの虎徹を名乗る主人公興里が、中国山脈の出雲安芸地域の新鋼
製鉄(たたら吹き)を見て、「面白くない鋼
だ」と思い、新天地を目指して
江戸に向かう。

その途中、備中にて、野鍛冶が自家製鉄をするのに立ち会わせてもらう。
備中の野鍛冶は、たたら吹きではなく、古代様式の小型炉のたたら製鉄で
鉄を
造り出し、それを材料として鉈などを造っていた。
その鋼がすこぶる青く澄んで晴れ晴れとした鋼だったのだ。
興里は瞠目し、そして覚醒した。
このような晴れた刀を造りたい、と。
江戸に入って興里が行なったのは、古鉄の卸鉄(おろしがね)でのリサイクル
製鉄による作刀だった。
焼き戻しをせず、内部応力除去をしていなかったので、一晩経ったら、出来
あがった刀の切先はピキン!という音と共に消し飛んで無くなった。
失意から立ち直り、
その後興里は苦労して作刀を続けるのだが、どうにも
会心の作ができない。

出回り出した売出し中の人気の極上製品鋼であるたたら吹き新鋼では、
どうにも古刀のような鉄味が出せない。新鋼はただ明るいだけで、あの備中
の野鍛冶が使った鋼の
ような青く晴れわたった青空のような清々しい鉄味
とはならないのである。


といった、くだり。
あくまで小説であるのだが、非常に興味深い。
ただし、作者は非常に巧みな展開で、美術刀剣論者をも敵には回さない
手法で作品を書いている。
それは、どうやって虎徹があのような作を造り得たかについては、一切触れ
ていないのだ。初期には卸鉄を試みたことは物語中に入れてはいても。
但し、山の斜面に設置された小だたらによる登窯のような自然通風による
製鉄で出来た鉄が最良であったことは物語の中で表現している。
そこが、なかなかの着眼点で、非常に面白く読めた。
私には、作品の中での虎徹が、ゆらゆらと揺れるもうこの世にはいなくなって
しまった
ヒデヨシの背中の影を追い続けるバリバリ伝説のグンのように見えた
のだ。

『いっしん虎徹』は、私にはここ数十年で一番面白かった小説作品である。
赤江瀑の『オイディプスの刃』もかなり来たが、熊谷達也『邂逅の森』も素晴らし
かった。「作品」としては、私の中では『邂逅の森』が一番だが、ぐいぐい引き
込まれる特化された世界観での魅力という点では『いっしん虎徹』が『邂逅の森』
を大きく上回っていた。
ただ、『いっしん虎徹』では、賞は取れないだろうとは思った。刀鍛冶が主人公
という特殊なジャンルだからだ。中身もなかなか日本刀を知らない人にはとっ
つきにくい深い内容となっていた。スキャンダラスな表現描写で日本刀とその周辺
を題材とした下世話な小説作品などとは比べ物にならない程に丁寧に刀鍛冶の
生き方が描かれていた。俗世間の汚れた価値観にに染まり切った雑言作家が
書く日本刀小説とは作品そのものが天と地の差だった。
だが、『いっしん虎徹』では賞は無理だ。
しかし、作者山本兼一氏は『火天の城』(2004)で松本清張賞を、『利休にたず
ねよ』(2009)で直木三十五賞を受賞した。彼は57歳の若さで2014年に永眠
した。とても悔やまれる。


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ジャックと豆の木

2017年02月14日 | 文学・歴史・文化



英国の寓話に『ジャックと豆の木』がある。

なぜ「豆の木」であるのか。
「金の卵を産む鶏」とは何であるのか。
鬼のような巨人とは何であるのか。
豆の木を切り倒した斧はどうやって作ったのか。






日本でも古代において、同じことが起きていたのではなかろうか。
製鉄に関する日本の古代神話にも『ジャックと豆の木』に通じる
ものを見ることができる。

鉄バクテリアの製鉄原料(国産)。パチンコ玉大。


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見解の相違

2017年02月14日 | 文学・歴史・文化


(餅鉄 東北産)

先日の懇親会で製鉄および鉄器ならびに刀剣製作の話題となり、
私と刀工康宏師と刃物師左久作師との間で意見が分かれた。
概要を記すと以下だ。

私:超古代製鉄は赤色褐鉄鋼、リモナイト系(赤土を原料とする)
  →餅鉄→砂鉄。西暦1世紀頃の原初段階から国内では製鉄
  が行なわれていたが、炉の構造により風化が進行し、遺跡が
  発見されていない。古代製鉄は舶載鉄が主軸ではなく、当初
  から国内製鉄は行なわれていた。餅鉄から砂鉄への原材料
  採取の変化は、大陸半島情勢に起因する政治的要因(白村江
  の敗北)による準鎖国国風文化と国防急務の政治要件が一つ、
  もう一つは鉄鉱石探しよりも土砂流しによる砂鉄採取の簡易性
  が一つ。効率のよい砂鉄製鉄が主軸となった時期が教科書的
  には日本の古代製鉄の開始とする所以はそこにあり、まず砂鉄
  ありきのように設えられたが、本当は赤土→褐鉄鋼→鉄鉱石→
  砂鉄という流れが日本の製鉄の歴史だろう。
  鉄鉱石を使用した作刀例は、砂鉄時代に、失伝したかつての
  鉄鉱石原料からの製作を試みたもの。例:山浦真雄等。

康宏・左久作:餅鉄からの日本刀製作には疑問。実際には砂鉄を
  原料として作刀したのではないか。隕石から実際には作刀は
  不能で、砂鉄を主原料としてごくほんのわずか隕石内部の残
  量鉄部分を混入した物を隕鉄を原料とした刀剣であると言う
  ように、実際には餅鉄を刀剣の主原料とはしなかったのでは

まあ、本当のところは誰も分らないから研究者も現場の鍛冶職も
四苦八苦しているのではあるが、私の場合は製鉄を行なっていない
ので、あくまで民間研究者と
しての耳学問と自己思考の域を出ない。
ただ、実際に餅鉄と砂鉄からの小たたらによる自家製鉄において
鉄の生成の歩止まり具合までデータを取っている備前鍛冶も現に
存在するわけで、餅鉄が刀剣材料になることは私は疑う余地はない
と思っている。餅鉄から刀剣ができないというのであれば、存在
する餅鉄は、ではあれは一体何の為に採取された物であるのか、
ということにもなりかねない。
そして、製鉄の際の歩止まりの問題(製鉄自体は餅鉄のほうが
歩止まりがよいが、原料の量確保としては採算性が悪い)もある
が、そもそもが餅鉄も砂鉄も同じ磁鉄鉱であり、乱暴に言えば、
餅鉄状の物が風化したのが砂鉄、固まったままのが餅鉄とも
いえる。本質的には同じ物だ。

餅鉄はそのまま丸ごとおにぎりのような状態で炉に放り投げても
還元はしない。砂鉄状にサラサラになるまで粉砕してから炉に
入れないと還元して鉄とはならない。
その加工工程を一気に省けるのが砂鉄の存在であり、砂鉄の発見
とその砂鉄製鉄の技術は、効率性において中央権力はどうしても
手中にしたくてしかたなかったことだろう。ゆえに、古代における
日本国内各地での衝突が発生したし、各地で行なわれていた製鉄
技術の争奪戦が繰り広げられたと私自身はみている。
実際のところ、砂鉄製鉄が主軸となり、国内のその技術をほぼ掌中
にした時期が「日本の製鉄のはじまり」と歴史教科書では謳われて
いるのではないか。日本の製鉄の開始が6世紀だなどというのは、
各遺跡等の関連から考えにくい。
また、私自身は輸入鉄主軸で日本の古代鉄器が作られたという説
には否定的だ。刀剣においても、舶載鉄が古刀時代の主軸をなした
という説は完全
に私は否定している。そういう意味では九州の刀剣
研究者の大村氏の説には真向から
対立する。
しかし、従来にない視点で鋭く斯界にメスを入れ、可能性の問題と
して多角的に研究されている立脚点に感服するので、その研究姿勢
に敬服して説の展開に注目している。固定的観念の呪縛に絡め
取られた金太郎飴はもう沢山、という感慨があったからだ。


私自身の所見としては、赤土→褐鉄鋼→餅鉄→砂鉄というものが
日本の国内製鉄の歴史的流れであり、とりわけ磁鉄鉱を主とする
段階で国内製鉄の基礎が固まったというものだ。
また、歴史的民俗学的見識としては、日本における「赤=朱の文化」
という
ものは、南方系文化の移入であり、原初的な系統に属するの
では
と踏んでいる。丹と朱は切っても切り離せず、ベンガラが支えた
超古代文化、というものを私は見ている。日本における、赤系の
神社、白系の神社の違いは、そのまま超古代の赤文化と中央集権
を狙う派の拮抗を引きずったものではないか、と。
それは、とりもなおさず、製鉄の技術を巡る衝突の歴史であった、と。


ただ、こうした論は、きちんと学術的なところで研究資料を添えて
論証しないと、単なる個人的所見にとどまり、「床屋政談」の域を
出ないことは確かである。

話が逸れるが、たたら製鉄ではない現在の酸素を大量に送り込んで
造られた日刀保の永代たたらによるたたら吹きによってできた鋼
でも、充分に丈夫な日本刀は造れる。日刀保鋼のB2からでも、
造り方によっては斬鉄剣を造ることができる。
これは原材料がどうであるかに完成刀剣の抗堪性が起因するの
ではなく、工法が鋼の質を適正に引き出していることになるだろう。
原料を変えれば完成品が変るのは簡単なことだ。難しい鋼よりも、
古鉄の卸鉄を使えば、作品はより一層古色に近づく。そこに現行
方式ではない製法(推測的な中世工法)を投入したらさらに古刀に
近づく。
だが、古刀に肉迫することと刀身の抗堪性を同時に付与させることは
なかなか同一線上には並ばない。どうしても現代刀工が行なうのは
「再現」という領域に属するため、どれが本当の数百年前の材料と
工法なのかは確定されていないからだ。
古刀が新刀よりも抗堪性が高く、さらに見た目も鉄質が新刀と古刀
では違うことはこれは動かし難い事実であり(一部寒冷地での例を除く)、
このことは原材料と製法のダブルの違いによるものであることは明らか
だろう。
現実に慶長期を境に、ガラリと鉄質が異なるのであるから、それは、
原材料が違う、作刀製法が違う、原材料と作刀製法が違う、という
三種のいずれかの理由によるのは確定的だ。
また、製法についても、材料が違うから製法を変えたのか、製法を
時代的な軍需要求によって変化させざるを得ないために変えて、
それに材料の製造法が呼応したのか、これは卵と鶏のようで、どちら
が先かは不明である。
だが、その不明こそが、日本刀の鉄質の変化の理由の根幹を形成
している。
ただ、いえることは、日刀保の現在の鋼からでも抗堪性の高い刀剣を
作出することは可能であるし、現に藤安将平が日刀保鋼から斬鉄剣
を造っている。これは明らかに工法を変えて鋼を別な方法でまとめて
いる系統に属する。

一つの共通する鍵は「温度管理」と「鍛造過程における酸素量」の問題
であることは間違いないないのだが、まだ定式化は誰もできていない。
確定的事項として断定できるのは、「同じことをやっていては同じ物しか
できない」ということだ。
現在の刀工試験等で行なわれる「伝統技法」は、固定的な江戸期幕末
の一時期から発生した技法を「伝統技法」と規定しているので、その
方法で作刀したならば、その時代の刀の再現しかできない。これは
確定的な事柄だ。砂糖を入れれば料理は甘くなる。
だが、砂糖を入れなくとも素材の甘さを引き出すことにより、本来の
料理の甘さを出すことは現実として可能である。可能であるどころか、
それこそがそもそもの料理における甘味=旨みであったことであろう。
しかし、刀工試験は「決められた事」をこなせないとならない。
英語の入試においてフランス語で解答したならば、それは解答とは
ならず単なる回答であり、いくらフランス語が出来ても合否判定としては
不合格だ。刀工試験は試験科目で「決められた事」で合格点を取らなけ
ればならない。
「大学生になる」ということは、まず大学に合格しなければならず、自主
研究で専門分野を学術的に研究者として深めるのは、まず学籍を取得
してからなのである。
日刀保の鋼よりも自家製鉄の鋼のほうがまとめは簡単なのであるが、
扱いが難しい日刀保の鋼を刀剣にまとめることにはとても意味がある。
それは「固定的一時期の工法にしかすぎない」という相対的な所見を
凌駕するほどに意味がある。
刀工になるには、まず刀工試験に合格すること。
そのためには、現在の刀剣界の先達たちの技法をくまなく学び取ること。
その技法を受験者という稚拙さはあるにせよ、合否判定で合格ライン
まで学習して実力をつけること。これしかない。
「守・破・離」なくして創造は生まれないが、まず最初は決められた事を
こなせないとそこから羽根が生えることもできない。

現代刀鍛冶がすべて優れているのは、作刀に関して、そうした基本的な
事柄をすべてクリアした「資格を持つ者」であることだ。
ただし、これは「作刀に関して」のみであり、「作刀できる者(合法的に
許可された者)」としての一面だけにおいて「優れている」のである。
たとえば大卒者がすべてにおいて学術的見識が深いのかというとそう
ではない、というのと同じで、刀工資格を持っていても鉄や作刀について
見識の低い人もいるだろう。
また、変りようがない人柄というものもある。刀工資格は、あくまでも運転
免許と同じであるだけだ。
それを勘違いして、偉そうにふんぞり返っている現代刀工も実に多いの
だが、そういうのは備後弁では「タコのくそが頭にのぼっている」と言われ、
相手にされない。相手にされる狭い世界でしか通用しない。資格の有無
以前に、人格の問題なので、資格の有無は一切関係ない。
人間的に嫌な奴は、一生嫌な奴のままで人生を終えるものだ。
ただ、そうしたスカ人間が造る作品がスカかというと、これは必ずしも連動
しない。ファシストが演奏する曲が素晴らしいこともあるのが人の世だったり
もする。作品は作品として独立して存在している。
だが、見えることもある。
作者のえげつなさが作品に顕れてしまうこともある。
これは料理も同じで、感じ取る人は感じ取っている。


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三原 しんめい市

2017年02月12日 | 文学・歴史・文化





毎年、2月11日前後には「三原しんめい市」が開かれます。
城前のメーンストリートである西国街道=旧山陽道を車両通行止め
にして、テキヤさんが出店(でみせ)を並べます。
ダルマ市なのですが、植木屋さんや食べ物屋がズラ~ッと1kmほど
建ち並ぶのです。
三原城下の人たちは、夏のやっさ祭りも楽しみにしていますが、この
しんめい市は「しんめいさん」と呼ばれて、江戸期から親しまれて
来ました。
子どもたちもこのしんめいさんを心から楽しみにしていて、当日は父兄
同伴や友だち同士で祭りに繰り出します。
テキヤさんは西日本各地から集まりますが、地元の町内会や父兄会も
出店を出したりして賑わいます。
少年剣道大会と重なりますが、参加した小学生たちもこの祭りを楽しみに
していて、試合が終わったら連れだって射的をやりに行ったり、くじ屋さん
に行ったりしています。

かわいいワンコがいたので、許可を貰って撮影。ブルブルとシーズー。





ぶははは。ぶさかわいい。


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帯刀姿勢

2017年02月09日 | 文学・歴史・文化


私は一刀差しの時でも大小差の時のように前半にして、下緒は鞘かけで
垂らすのが本来の姿であると思う。
(各連盟などで差し方の規定がある場合は除く)

前半のせきれい差し(私。鎌倉鶴岡八幡宮)

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夜明け前の福山城

2017年02月09日 | 文学・歴史・文化


夜明け前の福山城。
水野殿のあとに阿部殿が入府。
幕末には老中にて、日米和親条約を締結。
鎖国を終わらせた男。
開明的で人材育成と教育にとてつもない精力を注いだ。
政治家というよりも、教育者としての印象が私には強い。

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備後三原城 後藤門

2017年02月08日 | 文学・歴史・文化



復元された三原城後藤門の一部。






江戸期の図によるとこれ ↓


江戸期の図というのは上面鳥瞰と側面を一次元でベタッと
描くので、かなり
分かり難い。
そこで、私がサクッと描いてみた立体図はこれ ↓

少しはイメージが掴めるかと思う。
ただ、この造りだと、雁木(階段)を上って門を通らずに
向こう側に飛び下りてしまう事ができる。身体能力がある
者であったなら。
だが、通行規制はこの後藤門の東にある大手門で武家地への
通行規制ができるのでこういう作りなのだろうか。
城郭には私は詳しくないので、私には意味不明。
以前、この日記で記載した城門のところは坂であったかも
知れないというのは誤りということになる・・・のか・・・
いや、違う。坂だ。
なぜならば江戸期の図を見ると門の東側のGLは門の西側に
較べると低くなっている。それは堀の水面から露出した石垣
の高さを見ても一目瞭然だ。

となると、この識者が描いた復元図はちぐはぐなことになる。
 ↓

私の立体復元図のほうが正しくはないだろうか。
城郭研究者ではないので、詳しくはないのですが。
江戸期の絵図を読み解く限りにおいては。

いや、これまた早計に過ぎる。
なぜならば、「断面図」と書かれているだけで、グランド・レベル
については記載していないからだ。
GLを描き入れたら、このような図になるだろうと思われる。↓


門の復元想像図は、これを参考にしたと思われる。
城内西築出の作事奉行所の門が城下西町の順勝寺に移築
されて現存している。寺の管理は杜撰の一言。どんどん
朽ちて行き、門扉などは外れたままで放り投げている。






重要文化財であるのに、打ち捨てられたままの状態である。
これが三原市の実態なり(苦笑
この寺の前は通勤路だが、毎日見るたびに「捨てるのなら門扉の
鉄ほしいなぁ」とか思う。でも重要文化財だから私物化は駄目っす。
きちんと保全修理するなり、三原市はなんとかしてほしい。
だが、1567年に三原城杭打ちから450年経った今、ようやく、城
まわりがやっと整備されたに過ぎない。これからだろう。

そもそも、三原の地には環境保全や美観整備の概念が一切無かった。
明治以降、重工業を中心とした工業都市となり、つい数年前までも
列島改造論のようなことを演説する議員が当選したりしていた。
さらに創文化活動や市民の健康増進運動スポーツ推奨についても、
現市長などは偏頗な視点であり、消極的であり、三原
武道館は今世紀初頭に取り壊されて「文化会館ポポロ」なる商業
興業観劇誘致施設に建て替わった。武道館で稽古をする剣道・柔道・
合気道の市民たちは、やむなく廃校となった私立女子高校のボロボロ
の体育館を借りて稽古を継続していた。
体新設備等の整った武道館施設・体育場の建設は三原市民の悲願だった
のだが、現市長は就任直後に建設計画白紙撤回を打ち出して非難を
浴びた。
結果としては、武道館、幼稚園、小学校の新校舎がやっと建設された。
居合については、旧武道館跡地に文化施設ぽぽろが出来たので、そこの
貸し切りトレーニングルームを随時借りて三原市内で私と道場仲間は
稽古をしていたのだが、ある日突然、使用が禁止された。理由を
問いただしても一切回答はなく、頭ごなしに不許可だった。
この頃、尾道市内の公共施設でも、剣道連盟の居合稽古での使用禁止
措置が起きており、何らかの政治的な動きがあったと思われる。
丁度、国が公立の教育課程において武道教育を盛り込んだ頃だ。
政治的反対派政党と議員たちの圧力で、実質的な実力行使で、剣道
連盟の居合道を封じ込めようとした動きだったのかも知れない。
尾道市と三原市は別行政だが、そうした反対派は横つながりの
パイプがあるので、実力で圧力をかけたのかも知れない。妙に
弾圧の時期が三原と尾道で重なった。
「剣道(全日本剣道連盟の居合道部の居合)をやることを禁止」
するというのは、どういうことなのか。
道場の先生方は裁判も辞さないという気持ちもあったが、直交渉を
粘り強く続けたが、尾道のびんご運動公園体育館は話にならなかった。
三原市の文化施設ぽぽろにおいてもそうだ。
模擬刀も木刀も振ってはならない、ということを私は三原市に直に
言われたが、演劇の稽古には施設を大いに貸し出すそうだ。
では、時代劇の舞台演劇の役者さんたちは?
そこでは稽古をさせないということだろう。役者の稽古はシェークス
ピアだけではない。シェークスピアでもリア王などはどうするのだ?
平和・人権・差別のない社会、という謳い文句の美辞麗句をまとい
ながらも、現実的には差別行政が行なわれているのが三原市であり、
尾道市なのである。
これ、実態というか実体ね。現実。とりあえず居合道は市民が合法的
に借りられる貸し切りで扉を閉めた体育施設であってもやっては
いけない、ということらしい。どう考えてもおかしい。
一番おかしいのが、禁止の事由を明確に開示しないこと。
剣道の形稽古で使う木刀や居合の刀は凶器であり、それを持って集合
というのは凶器準備集合くらいに思っているのだろうか。
申請者の立場は関係ないよ。現役高校教師が職業欄も記入して申請
しても使用禁止通告なのだから(苦笑

今回復元された廣嶋海道(江戸期山陽道)の道路は、「三原城跡
歴史公園」と名付けられたらしい。発掘調査は数年前から行なわれ
ていた。いろいろな成果があったようだ。


写真右に見える正面の横長の建物は、明治期の女子師範、
現広島大学教育学部附属三原学園(幼、小、中)である。

広島大学附属は地元では「ふぞく」と呼ばれている。
幼稚園から中学校まで、一緒に運動会を行なう全国でも
珍しい学校で、情操教育に力を入れている国立校だ。
入学試験は時の運だ。3歳時の適性検査と「くじ引き」だ(笑)。
そのくじは、当選確率に変動が生じないようによく考えられた
くじとなっている。

広大附属三原学園には高校は開設されていないので各自独自に
高校受験をして高校に進学する。詰め込みではないのびのび
教育が良いのか、卒業生は後に東大・京大の国立大をはじめ
難関私立大学にも多くの卒業生が合格している。
この広大附属三原校についても「あんなもんはいらんじゃろう」
と潰そうとする動きがある。なんたるちあ!

明治28年(1895年)頃。


ほぼ同方向を見る。平成29年(2017年)。


お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
な~~~あんにも無いところですが。
城の真上に鉄道を敷設して、本丸の真上に駅を造った
という、全国でここだけという明治維新の明治新政府の
破壊行為がつぶさに見学できます(^^;
城の真上が駅。こんなとこ、ほんとに全国でも無い(笑

東京は汐止め(今の新橋)から品川までは、やはり土地が
無いので(というか市街地なので退去不能のため)、何を
やったかというと、ぬぁんと海の上に線路を造ってしまった。
東京は江戸の頃から先進地だったけど、明治維新後もやる
ことがすげーね。


こうして三代目広重あたりが描いてくれてるから百数十年後
の今でも当時の様子を知ることができる。


つい10年ほど前まで日本の坊主以外の男子全員が丁髷で
侍たちも刀差して歩いていたなんてのは信じられないね、
こういうの見た日には。新東京市民も驚いたことだろう。
なんての?1960年代にいきなりスマホが現れたくらいの
感じだったんじゃない?


日本では、風車に突進するドン・キホーテみたいな間抜け
はいなかった。
意外と新し物好きというか、順応性高いみたいね、うちら。
ただ、この明治時代の一挙的な先進国化での列強の仲間入り
がその後大きな勘違いしちゃうんだよな。
この東京は丸焼けになっちまって、焦土と化し、人が10万人
焼け死んだ。人類史上最大の空襲による大虐殺が「正義」の
名の下に行なわれた。

(東京。昭和20年-1945年)


戦争を賛美したり、戦争を推進したりする奴は、こういうこと
も正義にしちゃうんだな。
今も同じだよ。やめれっつーの。
あたしは、この15年後にこの街で生まれたけどさぁ、ほぼ戦後
の復興は完成しつつあったけど、よく15年やそこらで復活した
と思うよ。
今でも都内では、新宿のゴールデン街が、戦後の闇市やバラック
の雰囲気を保っている。


え?と思うかもしれないけど、新宿ゴールデン街やオカマの街
二丁目や歌舞伎町界隈というのは、江戸時代には旗本の御屋敷
町だったんだぜ。これ、意外と知られてないかも。
時代と共に紆余曲折したのが、新宿のあのあたり、という訳。
新宿区でも落合や西早稲田や学習院女子があるあたりだと、
今では閑静な高級住宅街で、歌舞伎町あたりのアングラ的喧噪
とはまるで空気が違う。
あのあたりは長く住んだけど、いい所だすよ。
都内でどこに住みたいかといったら、やはり穴八幡付近の
西早稲田あたりに住みたいな。
理由は景観と町の雰囲気がいいのもあるけど、何よりも、地元の
住人の気質がすごく良い。
これが少し歩いて神楽坂あたりに行くと、少し気質が違ってくる。
地方でもそうかも知れないが、東京山手線内は地区ごとにジモチー
の気質が違うから、生活して触れ合ってみると面白いよ。
これまた意外なところでは、月島というのは東京駅の真向かいの
海の上に明治時代に作った人工島だが、そこでは江戸弁は話され
ない。もしかすると三代続いた江戸っ子は移住しなかったのでは
なかろうか。
その対岸の新橋あたりでは、昭和生まれでもバリバリの江戸弁だ。
刀工の小林康宏さんなんかがそうだね。新橋生まれ。烏森神社の
そばが生家だ。言葉は江戸の下町言葉だが、二代目康宏は実は結構
な坊ちゃんで、200人位従業員がいる会社の社長が初代康宏だった
から、二代目は戦中生まれなのに私立大学に進学さして貰ったり
していた。
でもって、話す言葉は江戸弁だから、日比谷公園が渋谷公園に
なっちゃうのよね(^^;
第一、自分の刀工銘の「康宏」が言えない。どう聴いても「やっちろ」
に聴こえるもの。これは上野育ちの岡安鋼材の社長もそうだ。おいら
と電話で話していると「やっちろさんにあたしも言ったんだよぉ」
とかになってるしぃ(^^;
俺は勿論、明確に「ひ」と「し」は区別できるぜい。「しだりした
しねり」とか「しろしま」なんてことは一度もない(笑

例によって、また話が脱線したけど、勘弁ね(^^;


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