渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

諸君! 畳表巻きは巻き藁ではない!

2017年01月15日 | 文学・歴史・文化

巻き藁ではない物のことを巻き藁と呼ぶのは、そろそろやめに
しようではないか。

藁(ワラ)とは、これのこと。稲・麦・小麦のイネ科の植物の乾燥
した
茎のことを藁と呼ぶ。


巻き藁とは藁を束ねて巻いた物のことである。


巻き藁切りとはこの巻いた藁=「巻き藁」を切ることをいう。




巻き藁の作り方。


畳表はヤツリグサ科のシチトウもしくはイグサ科のイグサ
織って畳(藁製)の
表にマットとして張る日本固有の物である。
畳(藁)の上に
畳表としてイネ科の藁を敷いたり張ったりはしない。
そういう日本文化は存在しない。畳の畳表はシチトウもしくは
イグサなので
ある。
まったくイネ科の植物とは別種の植物
で織り込んだ物が畳表で
あるのだ。

イグサ


シチトウ


これは巻き藁ではなく巻きイグサの巻き畳表である。
備後イグサを使用している畳表だ。



かつて日本刀の試斬は巻き藁で行なわれた。
だが、都市部(厳密には横浜市鶴見区)で藁の入手が困難になってきた
ことと、巻き藁は切った後片付けに手間が
かかることから、刀工初代
小林康宏新作日本刀の試刀家でもあった武術家の小幡利城氏が
畳表を巻いた物を巻き藁の代用品として使用することを戦後の高度
経済成長期に発案した。

以降、簡便さと適度な硬度から、畳表巻きが巻き藁使用率を超えて、
試斬の世界では畳表が切断物として斯界を席巻して現在に至っている。

しかし、畳表は藁ではない。
私が試刀や試斬を始めた平成ごく初期には、まだ畳表は「畳表」と
正確に試斬者は呼称していた。
それが、いつの間にか、試斬人口が増えるにつれ、巻き藁ではない
畳表を「巻き藁」などと呼ぶ不見識が世間で一般化してしまった。
裾野が広がれば不明が広がるのは人の世の常だが、現在はほとんど
の人が巻き藁ではない畳表巻きのことを「巻き藁」などと不見識のまま
呼称している。

だが、ドアはドアであり、天井ではない。タイヤはタイヤであり、ハンドル
ではない。
藁ではない物をなぜ藁と呼ぼうとするのか。
誤謬に気付いた心ある剣士たちはすでに畳表を「巻き藁」と呼ぶことを
改めて、
きちんと正しい日本語で「畳表」と呼び始めている。
もともとは、そのようにきちんと呼称されていた。


諸君!
日本文化を剣技を以て云々するのである日本人であるのならば、きちんと
した日本語を使用しようではないか。
畳表はイグサであり藁ではない。畳表巻きは巻き藁ではないのだ。
歴史文化をないがしろにして、いい加減な対応で適当に呼ぶという姿勢から
まず改めてほしいと、切に願う。
日本人ならば、正しい日本語を使おう。
まして、伝統を口にするのであるならば、そうした人間自身が畳表巻きの
ことを巻き藁などというのは、実に珍妙で誤りで恥ずかしいことだと認識して
ほしい。
誤謬に気づいたら、それは改めればよいだけのことだ。
明らかな誤りを「正しいのだ」と押し通すことは、それは捏造であり、伝統文化
の破壊だ。


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居合雑感 ~武家の習慣と土佐の居合術~

2017年01月12日 | 文学・歴史・文化

そもそもが、わが流派の祖である長谷川英信はどこのだれで
どのような来歴だったのかは確定的なことは何一つ判明して
いない。林崎系の居合伝承者であろうとはされているが、
現在のところは人物像は史料不足の為によく判らないという
のが実情である。

菱川師宣「北楼及び演劇図巻」


これは菱川師宣の肉筆画で、寛文末から元禄までの年紀を持つ吉原遊郭と
歌舞伎の光景を集めたものである。当時の風俗、装束、人々の様子が描か
れているので、非常に参考になる。時代的には長谷川英信が生きた同時代
の江戸ということになる。
縁台で遊興している武士二名の脇差が非常に長い。これは貞享(じょうきょう)
二年の年紀が記載されているので元禄の前、1684年という事になる。
まさに長谷川英信の時代を描写した絵である。



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菱川師宣というと、現在ではそのままでは公共の場に出せない
モザイク入りになりそうな風俗画も多く描いた。極端に局部を
デフォルメして誇張するような彼のタッチは後の浮世絵師たち
にかなりのインパクトを与えたようだ。また、ゴッホもモネも
驚愕したともいわれている。
当時をタイムリーに描いた絵というのはかなり貴重である。
その時代の風俗や人々の在り方が分かるからだ。現代でも、写真
や映像などが残っていなければ、「ルーズソックスって何?」と
か「フロントホック・ブラって何?」とか「ハマトラ?はぁ?」
ということになるだろう。人は存外すぐ前のことにさえ興味は
薄い。自分が今いる場所・時代以外には興味がないから、ほんの
10年20年前の事柄についても興味を示さない。
こうして人の世の「失伝」はどんどん広がって行く。これは文化
面においても。
私は「失伝」を加速させる立ち位置、内実として「失伝こそが文化
だ」とすることになる発想はすべて否定し、拒否する。
過去を知り、歴史に学ばぬ者に未来など創れる筈がない。


当時の人々の風俗としての武士の様子を見ると、大刀も小刀も
非常に長い。
幕府の規制は時代が下るごとにどんどん強化されて、大刀二尺
三寸五分を定寸としたことは幕末の記録等でみられるが、
江戸前期にはやはりかなり長い大小を武士は腰にしていたの
であろう。それは当時を描いた絵画を見ても明らかだ。
上掲トップの画において、縁台にて飲酒する武士と若衆の脇差
はまるで短めの大刀のように長い。
これならば、正座居合でも十分に武器として使用可能だろうと
は思うが、残念ながら長谷川英信の時代に英信流には正座居合
は草案されていない。坐する居合はすべて戦国甲冑作法の立て
膝である。もしかしたら、まだ正座そのものが、殿中だけで励行
され、武家礼法としては一般的に下々までは普及していなかった
時代であるのかもしれない。日本正座協会によると、足を折り
曲げる坐し方が「正座」として普及してからまだ100年ほどで
ある、とのことだ。江戸期には危坐(きざ)」または「跪坐」と
呼ばれる立て膝が当時における「正座」だった。完全に現代式
の正座が日本人の礼法として正式であるかのように普及したの
は大正時代のことであるらしい。剣道という新単語が創造された
のもその頃だ。

幕末の武士の写真などを見ると、現代式正座をしている将軍や
旗本もいるので、一部上級武士においては現代式の膝を折る正座
が幕末には普及していたのだろうことが読み取れる。
また、多くの大名旗本を描いた肖像画においても、江戸中期まで
は胡坐(あぐら)が一般的であり、これはとりもなおさず、胡坐
が武家においても公家においても正式な「正座」であったことを
示している。現代式の膝折り式の坐し方は幕末頃に登場している
ことが当時の時代を描いた史料から読み取れるのである。

土佐藩に伝承した武術である長谷川英信流は、居合の部において
やがて現代式の膝折り「正座」から居合業を遣う業を採用する。
これは江戸後期幕末近くのこととされているが、その正座居合に
ついては、武家礼法の伊勢流もしくは小笠原流を参考にした等
諸説あり、これも定かではない。

(現在確認されている長谷川英信流居合の最古の伝書)


私が思うに、現代の膝折り式の坐し方が「正座」とされたのは、
元和偃武思想の徹底化の中にある武士の武装解除の一端を担う
ために導入されたものであると見ている。
つまり、刀剣のたびかさなる長さ規制と同じ軸線にあるもので、
「武装した武士をすぐに立てなくする」のが主目的であったで
あろうと推測している。殿中における長裃と同じ規制の思想が
導入されたのが膝折り式の「正座」であろう。
しかし、武士などという武装戦闘者は厄介なもので、正座で
動きを封じられても、そこから抜刀戦闘できるようなことを
武術業で考案したりするのだから始末が悪い。
千代田の殿中においては、一般的な平素の刀の差し方とは違い、
小さ刀(脇差の長さの刀剣が大刀として扱われた)の袴紐への
通し方も細かく決められていた。それは鞘を後ろに引っ張って
抜刀し、そのまま袴紐を切れば瞬時に長袴を脱げるような袴紐
への鞘の通し方は禁じられていた。やがてその様式は平素の武士
の帯刀法としても一般化していく。

とにかく、土佐英信流=無双直伝英信流においては、流祖の来歴
その他についてはよく判っていはいない。すべて失伝しているのだ。
また、大江正路(まさじ)17代宗家が大編集した現在に繋がる英信流
居合以前の明治中期頃までの土佐の英信流については、ほぼ全域が
失伝している。現在行なわれている無双直伝英信流は実は土佐の
英信流の流れにある大江流である、ということが現実問題としては
いえるのである。
しかし、不思議な事に、どこの誰だか分からない人物である長谷川
英信を流派の祖としている。実は居合部門の伝系は英信ではなく
その次の荒井清哲から発祥しているかも知れないのにである。
これは、現実的な今の無双直伝英信流を大江流とは呼ばないこととも
ある種似た現象なのかも知れない。
土佐に伝承してからは、土佐藩料理人であった林家や谷村家や下村家
という藩籍明らかな人物が免許を受けているので確かだが、いかんせん
流祖である長谷川英信なる人物の詳細が一切不明という武術流派も
珍しいと思う。聖徳太子やその頃の人物を流の祖とする流派もあるに
はあるが、それは明らかに後世の創作であると判別がつくにしろ、
長谷川英信は近世の時代の人物なので、史料の少なさに謎が謎を呼んで
いるのが現実なのである。いたことは確かだろうが、どこの誰だか
よく判りません、というのが本当のところなのだ。

私は無双直伝英信流における正座居合は好きではない。
なぜならば、正座大刀一刀差しというものが、いかにも練習業として、
小さ刀もしくは脇差を使用せずにあえて大刀で正座という設定に少々
疑問があるからだ。しかも正座で居合は膝が痛いし膝を傷める。
そもそもは畳の上での想定だったのではなかろうか。これも畳の普及
の時代的流れと正座居合がどう合致しているかを詳細に検証しないと
確かな事はいえないが、とにかく正座居合は膝を傷めることは必定で
ある。
明治期の古老の書き物を読むと、現在は膝当てを当てたりしているが、
昔は板の間で素膝をぐりぐりやってまで鍛えたものだ、今の人間はなっと
らん、などと精神論を述べている。
これこそ、膝を故障させて武士が戦闘できないように牙を抜く詭弁では
なかろうかと疑う程に、士を本当に育てる実利性に乏しいくだらない
精神論であり、明治以降~昭和敗戦までに培われた日本の歴史の中で
のごくほんの一時期の「異端」の時代の落とし児のような観念論だと
私は断言したい。板の間に膝ぐりぐりやってなにが鍛錬か。身体を壊す
ことを強制して、そして膝を傷めたら「たるんどる」とか言うのは
理不尽に過ぎるし、かつての暴走族愚連隊の板橋極悪あたりの
意味のないヤキ入れフッボッコとなんら変わらない。


ただ、正座居合は自流の「初伝」として編入されているので正座居合は
私はやる。だが、本当の直伝英信流居合は私は中伝より先にあると考え
ている。「大森」流を英信流初伝として編入組み込みはしたが、「大森」
流は「大森」流である。それは他流だ。極言すれば土佐英信流ではない。
ただし、英信流正座の部はよく考えられていて、身体操作や操刀法の
基本動作を効率よく学べる。
だが、あの初伝業が実際に武士の世界の生活の中で、殿中であろうと
邸内であろうと、あのままあると考えるとしたら、それは武士の歴史を
知らぬ現代妄想だと断定できる。脇差を帯びずに大刀一刀差しでの
膝折り正座で控えるなどということは、武士にはあり得ないからだ。
二刀差しで屋外で主の下城待機や切腹立会での大小差しでの正座控え
などは存在したが、一般邸内あるいは殿中で大刀一刀のみを帯に差して
正座で坐するということは、現在のところそうした武家文化は発見され
ていない。土佐英信流の正座業は、新興礼法である膝折りの坐し方を
採り入れての新規練習業として存在していたことだろう。

では、立て膝の大刀一刀差しはどうであるのか。
これも殿中においては、想定しにくい。脇差を帯びていないからだ。
こちらも「対応業」として林崎流太刀遣いから派生して来た業だろう。
むつかしい問題だが、居合の本旨はではなんぞや、となると、私は
立居合
であろうと思っている。
では、坐しての居合とはなんぞや、となると、それは完全にそのまま
のカタチ
での想定はあり難いが、あくまで「応じ技」というタクティ
カル
部分での身体操作、操刀メソッドである、と私は考えている。
屁理屈は要らない。何でも出来るに越したことはない。
一番よろしくないのが、発想が固定的に居着くことだと私個人は思う。





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イクサ仕度

2017年01月06日 | 文学・歴史・文化



結局、剣を頼りに生きた武士であろうとも、時代と共に
軍事における装備はこうなるよなぁ・・・。
刀剣は軍陣刀仕立てになり、着装は洋装となる。手には
火器だ。

その事実は幕臣側にも見られる。典型例がこれ。髷の髻
(もとどり)を落とすということは、かなりのルビコン
を渡る決意がいったことだろうと思うが、現実的な事柄
に身を置かないと机上論理想論空想論ではイクサは戦え
ない。新選組の土方歳三も腰にはリボルバーを装備して
いる。



土方歳三の血脈の子孫にはこういう人もいる。
なかなかイケメンのレーシングドライバーだが、それ
一族の血なるか。(というかデコ、眉、頬、鼻、顎が歳三
にそっくり)
イクサ仕度はレーシングウェアだ。

レブスピードCMに番場琢選手登場!


かく言う私は、イクサの仕度ではなく、イグサの仕度を
またしないとならない。


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江戸時代生まれの人の面構え

2017年01月02日 | 文学・歴史・文化



江戸時代生まれの剣客の顔というのはこういうもんかねえ。
本人は剣客というよりも、維新後は沖仲仕を取り仕切る
侠客みたいなこともやってたけど。
まあ、典型的な一族の面構えをしている。昭和初期撮影。

四代孫。極楽とんぼである。


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歴史散歩 ~江戸東京~

2017年01月02日 | 文学・歴史・文化



かなり昔のことだが、さる藩の末裔の人の個人的な願いで、その人と共に
都内歴史散歩をしたことがある。
それは、その人が取得可能な明治期までの戸籍を取り寄せ、先祖が住んだ
場所を一緒に訪ね歩くというものだった。

人のえにしというものは不思議なもので、いろいろな場所で思わぬ接点
あったりした。

「思わぬところで数百年前に私の先祖とも何かしらの繋がりがあるかもよ」と
その時には冗談で言ったが、30年近く経った今、おぼろげながらごくごく個人
に見えてきたことがあり、人の縁はわからぬものだと驚いている。

その人の先祖の居住地は、手掛かりとなる明治戸籍(19年式)では現港区
の某所まで辿れた。
なぜそこであったかというと、理由はそこが某藩邸だったからだろう。江戸表
では上屋敷住まいであることは当然だったからだ。維新後もそこに住したと
思われる。下屋敷は現在の港区の某大学所在地あたりで、また、その人の
ご両親もその大学出身で、これとて縁を感じた。
さらには、今その藩の歴史を調べると、紆余曲折あったが、ある事件で10
万石近くあった石高が大幅に召し上げとなっている。その際に処分された
藩士も多かったのだが、一部は備後三原領内に・・・(以下割愛)。
こんな奇縁があったのかとごくごく個人的な話ではあるが驚かざるを得ない。
「え?目黒生まれなの?」というのが縁を感じるごく最初の出来事だったが、
実は思わぬところで数百年の時を超えて繋がっていたりもしたようだ。それを
30年近く経った今知った。


江戸期の切絵図の地図と現代地図を片手に、かつて先祖が住した江戸
東京
の街並を二人で時間をかけて訪ね歩くのはとても楽しかった。
そして、その足で付近にある史料館に赴いた時、その人の先祖も描かれて
いたある明治期の戦争条約調印式の絵画を観て、二人でしばし感動した。

私も生まれて初めて訪れた都内の場所だが、驚いたのは、江戸期の大名
屋敷エリアのままではなかろうかと思われるような空気が漂うエリアだった
ことだ。「東京にもこういう所があるんだね」と思った。政治屋あたりが好み
そうな目白や渋谷区南平台のような田舎の在の戦後成り上がりの高級
住宅街とは異なる、名状しがたいどっしりとした空気が満ちていた。そこは、
昭和大戦の空襲をも免れてそのままの江戸の武家屋敷街の威風を保った
ような
雰囲気だったのだ。
私もその人も目黒生まれだが、江戸の端っこのごちゃごちゃっとした目黒
あたりともその江戸の中心地はかなり雰囲気が異なった。
東京タワーのすぐ下界隈にそうした地区があるとは思いもよらなかった。
付近は各国の大使館も多い。

現在のその場所。まるで大名屋敷街のようだ。これらはマンションではなく
すべて戸建住宅である。








表通りに出ると、かろうじて集合住宅もあった。新宿区の加賀甲良屋敷跡
界隈(試衛館道場があった柳町、二十騎町あたり)にも似ている。


広い宅地と一戸建ての住宅。東京タワーのすぐそばだ。ビルに囲まれた
街に、こうした超高級住宅街が今も存在している。ここら一帯は、かつて
は大名屋敷、大身旗本屋敷街だった。小高い丘の上にある。


東京は戦災空襲で焼け野原になったとはいえ、幸いにして多少道幅
が広くなっただけで、江戸時代の道割りがそのまま残されている。
歴史散歩というと、歴史的名勝名跡を訪ねることが多いだろうが、江戸
期の地図を片手に、時空を超えて往時を偲ぶ徒歩の旅も面白いかと
私は思う。
東京の江戸エリアはそうした時間を与えてくれる。
残念なことは、人々の暮らしの息遣いが伝わる下町が戦災により丸焼け
になってしまったことだ。もうそこには江戸の風景はない。
ただ、それでも東京に人は住んでいる。
「東京など人が住むところではない」と、よく田舎者は言いたがるが、では
東京に住んでいるのは人ではないのかと問いたい。
人が暮らすから町がある。そこには人の今の息遣いが聴こえる。


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時代劇の誤認と誤謬

2017年01月01日 | 文学・歴史・文化

多くの時代劇は史実と異なる描写が多く安易に使われる。
その最大のものがこれだ。
姫路城天守を江戸城として登場させる。実に多い。

(『忠臣蔵~その男、大石内蔵助』から)

江戸城は天守が三度築城された。
慶長(1607年)、元和(1623年)、寛永(1638年)にそれぞれ将軍就任ごとに
建築されたが、三度目の寛永天守は明暦3年(1657年)の明暦の大火=振袖
火事により消失している。それ以降は現在に至るまで天守は再建されていない。
この赤穂浪士討ち入り事件の時代の元禄時代に、江戸千代田城の天守がある
わけがないのだが、時代劇ではよく姫路城天守を江戸城として使っている。
ダブルの虚構がそこにある。

また、最近時代劇で多く見られるのが、妙な刀の掛け方であり、これはNHKの
大河などでも多用されている。


(『忠臣蔵~その男、大石内蔵助』から)

これは歴史研究家名和弓雄の時代考証の著作である『時代考証百科』等
にも記載されている主張に基づくものだ。(私は大河製作サイドスタッフの
裏事情を知る)

ただし、この描写表現は歴史事実とは合致していないという注意が必要だ。
名和弓雄の時代考証に関する著作は、よく研究されているのだが、かなりの
部分で近代合理主義的な
判断軸に基づいて推定をしているページもあり、
これについては冷徹に分析するに、いかがな
ものかと思われる部分が散見
されるのが事実だからだ。

たとえば、時代劇等でここ20年程で登場し始めた刀の掛け方については、
いろいろ理由を述べて以下の方法が正しいと名和は論じて
いる。

(『時代考証百科』名和弓雄)


また、別例としては下図を示している。

(同)


名和氏の説によると、大が上-小が下という掛け方は誤りであるとしているのである。
その理由はいろいろ書かれているが、要約すると、武士が刀を差す際に順番が便利
で合理的だから「小が上、大が下」としているのだ。

名和弓雄は全編を通じていろいろな第一次史料なども示しながら記述したりしている
が、ここの刀懸けの部分だけは文章表現からも想像で書いて
いるということが確定的
に指摘できるのである。
しかも、近代合理主義に基づいて、「取り易さ」を主眼に置いて「想像」としてあくまで
「私見」を披露しているに過ぎない。
だが、
江戸期などは実際には最幕末を除いて「近代合理主義」は存在せず、不合理
なことが「しきたり」としてまかり
通っていた時代だった。それが現実だ。
名和氏は左右逆掛けに限り大-上の小-下でも「間違いではない」としているが、これも
「取り易さ」を理由としているので、この解釈は確たる史料なりの証拠から検証した
という実証主義的な歴史検証の視点が皆無であるということから、名和説は想像の
空説に過ぎない誤謬である可能性が限りなく高い


奇しくも、江戸期の絵画に当時の武士の習慣を裏付ける画がある。
それは江戸の高級料亭「八百膳」を描いた江戸期の絵だ。


武士二名の大小が刀掛けに掛けられている。

刀懸に掛けられた上の大小一腰は黒呂に蒔絵塗鞘、下の大小は鮫巻き鞘の
拵である。
これらの刀装具はかなりの上級武士で
あることを示している。
これが正しく江戸武家文化の一端を克明に描写しているとするならば、「刀懸
には大刀が上および小刀が下」が江戸期の武士の方式であるとほぼ確定的に
推認できる。

私は確定事項に限りなく近いところで論じたい。
刀を刀懸に掛ける場合は、取り易さという合理主義よりも、江戸期特有の儀礼的
慣習を重んじるほうが優先されたであろう、と。
それゆえ、神聖なる鳥居と近似に形どる鳥居掛け(仮称)のような大刀が上、
小刀が下という方法が武士には採られたであろうと。上掲の江戸期の絵画が
文化を伝え残しているその内実は、まさにごく自然な態様を描いたものであろう。
そして、いくら歴史考証の権威であろうとも、その著述において、なんら文献史料
等をソースとせずに、私的憶測で書かれている文意の部分(今回の例がまさに
これ)においては、厳格に著者の記述表現の行間を読み切ることが大切である、
と私は述べたい。
刀懸(とうか)への武士の刀の掛け方は、大が上、小が下、である。

こうしたことは誤伝や歴史をよく検証しない思い込みの主張により誤認を招く
事案を多く惹起させるので注意を要する。
よく現代剣士などに誤認の表れとして見られるのが下げ緒のさばき方に関する
認識で、江戸期に一般的礼法であった「鞘掛け垂らし」を無視して、「前垂らし
右袴紐結束」や「鞘掛け左袴紐結束」が江戸期からの伝統であるかのように
誤認しているケースがかなりある。
大刀下げ緒の袴紐への結束は、昭和初頭に昭和剣士によって「発案」された
ものであり、その嚆矢は戦後に夢想神伝流という新興流派を起ち上げた中山
博道である。(昭和10年にすでに前垂らし右前袴紐結束を実行。写真あり)
また、無双直伝英信流などが鞘掛け垂らしではなく鞘掛け左袴紐結束にした
のは、これも昭和時代のことである。
このあたりの経緯は政岡壹實著『無双直伝英信流 地の巻』に詳しい。

思い込みや想像で歴史的事実を断じるのは危険である。
まして、ありもしない「口伝」を理由に、新規創作活動をさも歴史的伝承事項で
あるかのように万民を欺罔(ぎもう)する武術界にみられる悪徳商人の所業に
至っては、もはや論外。人を騙して集客して集金する。これは犯罪的行為で
あると断じることができる。
多くの良識人は、騙されないようにご注意されたい。


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仕事師の横顔 ~ねぶた師~

2016年12月26日 | 文学・歴史・文化


(青森市役所ねぶた実行委員会「津軽鬼神伝 名刀鬼王丸」)

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ねぶたもねぷたもまだ実際に見たことが無いという
馬鹿な俺。

このままでは死ねないと本気で思っている。

仕事師の横顔はとても男前に見える。


外崎白鴻(とのさき はくこう)氏。1980年生。
居合の達人である。


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武士の本懐

2016年12月26日 | 文学・歴史・文化



本来、武家に私闘は禁じられている。

では武士はなぜ剣技を学んだか。
結局、武士の場合、主君の為に働くわけで、敵に斬り倒されて
しまってはいけないので、術が達者でないとならず、やはり、
職人技的な刀術に長けた者が主命をまっとうできる。
そのためには、軍略としての大の兵法のみならず、小の兵法
も身に着けねばならず、己の身を守ることは主君の命を守る
ことにも繋がったからだと私は思っている。

主君なき今、剣士は何のために剣技を学ぶのか。
端的にいうと、現代において、主従も無く武士も無く、刀剣を用いる
争闘
も時代遅れとなった今、直截には剣技を学ぶ意味は掴みにくい。
それゆえ、かつての武士の立ち位置、武士の精神そのものから
どんどん乖離していく。
武家社会は、たとえ従たる士であろうとも、知行取りの場合は、
小領主であり君である。
従って、自ら君子たるべき心の備えが無ければならなかった。
また、蔵米取りにあっても、内実は同然であった。

今の時代、「人を斬ってみたい」などと思う人間がいたとしたら、
また、仮にそれが心の奥底に微塵たりとも存在するとしたら、
それはかつての武士の立ち位置、存在意義とはまったく異なる
のであり、刀剣刀槍の類は持つべきではない。武士は人殺しを
目的として存在したのではないからだ。「鎮め治める」のが武士の
根底的な存立基盤だったからだ。
ゆえに「君子の剣たれ」との教えが、武家の武芸流派にはどの
流派でも精神的根幹として存在した。
いにしえの武士の心を訪ねることをせずして、現代において剣技を
学ぶことは適わないと私は思料する次第にて。

現代における剣技学習の意義の要は、「温故知新」。これしかない

のではなかろうか。
無論、価値観の多様化が認容される現代においては、人それぞれ
で学ぶ意義が異なるだろう。
体操健康でもなんでもよい。本人にとっての意義が見いだせるなら。
ただし、人斬りがご法度(江戸期もそうであるが、日常帯刀者として
その武具を使えないということでは武士として成り立たなかった)の
中にあって、何ゆえ刀を用いて人斬りの稽古をしているのか。
このことは、常に剣技履修者は自問する必要があると私は考えている。

一つだけはっきりしていることがある。
現代は、命がかかっていない。
私個人は、居合を一業抜く時にも、背筋が凍るような緊張感がある
(それを出さないように面持ちは能面のように殺気を消すが)ので
あるが、常に「死ぬか生きるか」ということを意識しながら抜いている。
本当のあることをやってきたら、その「現場」での緊張感は筆舌に
尽くせないのが分かる。存外、対峙ではなく乱戦となると、意外と
人間は冷静であり、精神的な緊張が惹起されるのは、事前と事後で
あることは知悉している。とりわけ事後には生き残ったとしても精神的
ストレスはかなりのものになるがゆえ、現代戦においてもPTSDなど
の問題が生じたりする。
けだし、やはり、現代戦ではあり得ない刀剣による刀技の一瞬に
おいても、とてつもなく背筋が冷たくなるような緊張感が私にはある。
切るのは空気でも畳表でも竹でもないからだ。敵と命のやり取りを
するのである。たまたまそこに実際には敵がおらず、「仮想敵」と
なっているだけのことで。
精神病理学的には、ほとんど長生きや健康のためにはひとつもよく
ないような事であるとは思うが、常に過度のストレスが柄に手をかける
前には私には生じている。

人間でない想定で考えてみればいい。
一人瞑目して坐している。脇差のみを帯刀して。森の中で。
周りには熊や獣がいる。熊はツキノワではなく腹を空かしたヒグマだ。
姿はまだ見えぬがヒグマが藪を踏み、その鼻息が聴こえる。こちらに
近づいて来ている。確実に待つのは死か生か、だ。
さて、どうする。
実銃所持のハンター諸氏ならば、その際の緊張感は理解できること
だろう。
また、実戦経験のある兵士諸士においても然りであろう。
外地だけでなく、内地においても、確実に自分を殺しに来る襲撃者が
身に迫ることを察知した経験がある者は、自覚的にこのことを理解
できるだろう。

居合の一抜きというのは、こういうことだと私は思っている。
たまたま想定は刀を使った仮想敵に対する処し方というだけで。
少なくとも、精神領域においては、私の場合は健康体操にはなり得ない。
心身の健康のためには、刀など帯びずに、リビングで茶でもすすって
いるほうがずっと実利がある。


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傑作紹介 『立喰師列伝』

2016年12月24日 | 文学・歴史・文化

立喰師列伝 予告編


ぶわははは!押井守節全開!
なんだか小説家高橋源一郎に通じるものがあるよな。
二人ともケルンの白で同じセクトだったけど(笑
昔の白は感性が豊かだったよ。糸井重里もそうだけど。
今は見る影もない。

動画のこいつはサーシャ重信房子(明大の時のあだ名はフー)が
モデルだろ?(苦笑


サブカルの神髄ここに見たり!
つか、もろかつての新左翼(今のではない)ウケするこのパロ。
60年代末期の同時代性を獲得した「層」が持つ空気がこれだ。
あの喪失感は、まさに敗北の歴史性を如何に無意識下においても
主体的に認識せざるを得ないかという問題が横たわっていたのだった。
中島みゆきなんてのは、全方位的にその敗北感そのものが曲になって
いた。『時代』や『世情』なんてモロだよね。『糸』だってそうだ。(中島
みゆきは中核ではなく元革マルシンパ)
特に『時代』をただの時間軸としての時代ととらえて、今自衛隊が歌ったり
しているのは、まったく真の時代性と歴史性をまるっきり理解しておらず、
お笑い草にもならない。権力に立ち向かって打ちのめされても起ち上がり
また打ちのめされて傷つき敗れて行った若者たちは、反権力という
アウトサイダーであったのに、国家権力の暴力装置がさも「美しい歌」
であるかのように誤認して合唱団で『時代』を歌い上げるなどというのは、
もうほとんどギャグに近い。どうせなら自衛隊は『世情』を歌ってくれ(笑)。
警視庁合唱団が歌ったらもっとウケるぞ。新宿西口広場騒乱事件で
フォークゲリラの学生が茶化しで作って歌った『機動隊ブルース』よりも
ウケる。
ただ、新左翼の時代、つまり1960年代~70年代は、右と左の激突
ではなく、総体としての「敗北」と「喪失」を共有していた時代世相が
あった。60年安保はまさにそうしたことを背景として、敗北感の連鎖
を断つものとして安保闘争があったし、その敗北後は、学園闘争と
ベトナム反戦と70年安保の街頭闘争で、若者たちは、さらなる劇的な
「日本は変わらない」という決定的な敗北をこれでもかというほどに思い
知らされることになる。
その流れの中の地平において、右も左もなかった。むしろ新左翼こそが
純日本的でさえあったという歴史の真実がある。
この映像作品は、すっげおもろい。
新左翼の感性とはまさにこれであった。いや、まさに新左翼がこれで
あった。これは、数十年ぶりにみる傑作!シナリオの台詞回しも最高!
タモリさんあたりは絶対に好きそうな作品だ。所ジョージは理解できない
だろう。
        ↓

立喰師列伝 お銀抜粋編


おう きみの喪失の感覚は
全世界的なものだ
きみはそのちひさな腕でひとりの女をではなく
ほんたうは屈辱に沈んだ風景を抱くことができるか
きみは火山のやうに噴きだす全世界の革命と
それをとりまくおもたい気圧や温度を
ひとつの加担のうつにとらへることができるか
                         (吉本隆明)

そうだ。
そして僕らは、今でも、死魚の腐肉を食らっている。
睡余に蒼ざめた馬が放つ一縷の光さえ
見ようともせぬままに。


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全餅連

2016年12月23日 | 文学・歴史・文化







游雲会の友人から、今、全餅連やってると連絡あり。
全餅連とは、全国餅つき文化保存会連合のことだ。(委員長、おれ)
我々は、最後の最後まで餅食うぞー!
じじいになって死ぬまで餅をついて餅を食う。


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仲本工事、東尾修邸を訪ねる (1984年)

2016年12月20日 | 文学・歴史・文化

仲本工事、東尾修邸を訪ねる (1984年)


人に歴史あり。
東尾理子ちゃん。

この時には、遠い将来に、「不倫は文化だなどとは言ってない」
というニヤけた裸足靴履きオヤジの嫁はんになろうとは、ついぞ
思わなかったことだろう。


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牡蠣の歴史

2016年12月19日 | 文学・歴史・文化



「広島湾では古くから天然のかきがとれ、人々は、岩や石に

ついているかきを自由にとって食べていました。このことは、
縄文時代や弥生時代の貝塚からかきの殻がでてくることから
わかります。

注:弥生式貝塚:矢野、牛田、祇園などにあります。

人々は長い間天然のかきをとって食べていましたが、室町時代
の終わり頃(天文年間:1532~‘55年)に初めてかきの
養殖が始まりました。このことは、大正13年に草津村役場
が発行した草津案内に「天文年間、安芸国において養殖の法
を発明せり」と書かれています。

しかし今となっては安芸国がどのあたりか、どのような養殖
方法だったのかよくわかりません。もっともそのころのこと
ですから原始的な方法で、生産量もわずかなものであったと
思われます。

その後長い間、人々は良いかきをたくさん作るために、色々な
工夫や努力を続けてきました。養殖方法を見ても、最初の石蒔
き式養殖法や地蒔き式養殖法からひび建て養殖法へ、そして
現在の垂下式養殖法(杭打ち式→筏式)へと大きく進歩し、
それにつれて、生産量も飛躍的に伸びてきました。」
広島市水産振興センター「かき その歴史」より)

-----------------------------

う~む。♪知らなかったよ~。縄文時代からうちらの先祖のうち
海辺にいた人たちは牡蠣を食べてたんだね。
そういえば、今でも天然牡蠣が岩にへばりついていることがある
けど、それってとても美味しいのよ。

個人的にこの説明で注目したいのは、「安芸国がどのあたりか」
わからない
というくだりだ。
備後国「三原」についてもそうで、室町時代末期以前に三原と
呼ばれた場所が現在の三原でない事だけは確かだ。理由は三原
は海であったから。
草津村役場が何の第一次史料に基づいて安芸国で養殖が始まった
とするかは不明であるが、ここでいう安芸とは単純に現在の安芸
津(津とは湾を表す)のことである可能性もある。安芸津は今も
牡蠣の名産地だ。

(安芸津。三原と呉の中間地点にある湾)





広島牡蠣の特徴としては、海流と栄養分の違いからか、
圏内の各産地によって、味が異なることだ。
これは差異としては一般のサバと関サバくらいの差が
ある。
そして、面白いのが、広島県内在住の人にどこの牡蠣が
美味であるかを尋ねると、それぞれが自分のファン地域
を認識しているのだろうか、「広島牡蠣は○○に限る」と
いうようにそれぞれがバラバラの産地を推すのである。
どの地域も美味であることは確かなのだが、まるで地酒
のように味が違うことも確かだ。
宮島の牡蠣は大粒で安芸津の牡蠣は小さい。味もかなり
異なる。また江田島の牡蠣と他の場所の牡蠣も味が違う。
瀬戸内海では牡蠣生産地でも清浄指定海域の澄んだ海で
養殖された牡蠣が特別に味
が異なるのは確かだ。これは
いろいろ食してみればすぐ
に判る。
総体的に東京の高級料亭などでは東北三陸の味の濃い牡蠣
が生食用として出されるが、
広島産は生食よりも料理に適
していると一般的には云われてはいても、
実際には広島牡蠣
は幅が広く、生食こそが素材の味がよく
分かり、かつ三陸
牡蠣をも味で凌駕する産地も多い。広島牡蠣
は奥が深い。

ただ、広島県は牡蠣の名産地とはいえ、地元産ソースその
ものにも
オイスターを入れてしまってそれを一般的である
とするとしたら
、食文化ファンとしてはいかがなものかと
私個人は思って
いる。
だが、牡蠣エキス入りではない一般地元ソースでも、カープ
ソースや三原の天狗ソースなどはかなり美味い。(「びんご
ソース」は私はイマイチだった)
しかし、広島では広島カープ嫌いは町を歩けないような、
そういう
広島カープ・ファシズムのような地元唯一絶対主義
は私はとてもじゃないが好きになれない。東京ではヤクルト
ファンだろうがベイスターズファンだろうが千葉ロッテファン
だろうが西武ファンだろうが、いがみ合うことは無い。しかし、
この広島独特のカープ・ファシズムのような空気にはどうして
もなじめない。ローカルテレビ局もすべてカープの応援一色だ。
そしてCMでも「カープを応援せにゃいけんじゃろう!」と
視聴者に無言ではない音声で強要をしている。そして、観る
者が「ほうよね。そうじゃ、そうじゃ!」となっている。
これは私からすると、なんだかとても恐ろしいことのように
思えるのである。

日本の在り方を考え疑問を呈したら何でも即座に「反日」と
意味不明のレッテル貼りをして喜ぶ思考停止種族たちのように、
地元食文化を守ったり、地元スポーツチームを応援することが、
そうした短絡的で救いようがない反日
連呼の低劣意識のような
ものとして集団動員されないことを祈るばかりだ。


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12月8日

2016年12月08日 | 文学・歴史・文化



真珠湾攻撃のきょうの日、ジョン・レノンは殺された。


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ちゃぶ台

2016年12月08日 | 文学・歴史・文化



ちゃぶ台欲しいと言ったらかみさんに怒られた。
「どこに置くの!」と。

ちゃぶ台って置き場いらないのに。


ちゃぶ台は日本固有の折り畳みテーブルです。
昭和時代には、ほぼ全国民(一部超富裕層を除く)の家庭に
この木製折り畳みテーブルがありました。
椅子の生活が一般的になった現在も、メインではないにせよ
便利な折り畳み座敷テーブルとして使われています。


昭和30年代当時に内風呂とダイニングキッチンを備えた近代
文化住宅として大人気となり、都市部の庶民の高値の華だった
公団住宅団地においても、畳の間にはちゃぶ台があった。

団地の西欧式ダイニングキッチンは庶民の垂涎の的だった。
賃貸物件の抽選倍率が100倍を優に超える物件もあった。
ダイニングには椅子とテーブルがあったが、和室にはちゃぶ
台が定番だった。


まさにうちもこのようなダイニングキッチンだった。そっくり(笑)。
昭和30年代だが、トイレは洋式水洗だった。当時は洋式水洗は最先端
で、一般一戸建てのほうが都内でも古い戦前からの様式だった。つまり、
江戸時代と同じトイレ事情。うちは3DKだったが、よくポコンと抽選に
当たったと思う。そして都内目黒から湘南に引っ越した。(都内物件
は超倍率で、なかなか当選しなかったという)


私と同世代の当時の子どもたち。
この子たちは私の5歳ほど年上。現在還暦あたり。


その少し前、日本初のキャブバックのバスの設計図面には
これが使用された。設計者本人から私が貰った。それまでは
日本のバスはすべてボンネットバスだった。バスといっても
風呂ではなく人が乗るバスのほう。


公団団地を訪問する今上陛下と美智子妃殿下(当時皇太子ご夫妻)。

下着が干してある庶民の住宅に皇太子殿下ご夫妻が訪問するなど、
今では考えられない(当時も考えられない)ことを陛下はなさって
いた。
戦後昭和は、各方面で社会の垣根をなくす試みが実行されたよい
時代だった。あらゆる意味で「可能性の時代」だったといえる。

昭和30年代当時、大学進学率は15%程だったが、高等教育の普遍化
により、現在の大学進学率は50%を超えている。


だが、新たな格差社会が現在日本では深刻な問題となっている。
それの一端は、この国際進学率のグラフを見れば、よく見えて
くる。超絶格差社会の典型例が現在の韓国であり、学歴社会で
人が差別されることが当たり前の国に変質したのが韓国だ。
韓国の進学率の急上昇は、「学校教育の普及による国民の全体的
な教育水準の向上」とは別なベクトルの結果を生むことになって
いる。数が増えれば過当競争が激化する原理をも凌駕する推進力
として、国策としての教育の機会均等の普及政策は、本来の目的
遂行を完遂する力を持ち得ていないのである。
「水準を上げる」ということは単に数を増やして機会を広げると
いうマスプロ化だけでは成し得ない。日本の昭和時代の学園紛争
などは、まさにそうした教育の現場の荒廃が学生たちの危機感と
改革意識を育成して爆発したという歴史性があった。
こうしたことから、「国民の生活水準を上げる」ということは、
どのような部分に軸足を置くかで大きく結果が異なることが読み
とれる。


とりあえず、「飯が食えて」「学びたい者が学べる」という世の中の
実現は、口八丁では実現できない。
そして、一番の卵が先か鶏が先かの問題として、国策の舵取りをする
者を選ぶのは国民であるという現実がある。
だが、国民が愚策に同意する愚民であったならば、選ぶのは愚策を
立てる者しか選べない。
しかし、これは選ばれた者たちが権力と蜜月となってあえて愚民政策
を執ったことにより生まれた国民だったとしたら、まさに卵か鶏かの
話が現実に起きていることになる。
日本においても、リーマンショックの頃には、「勝ち組、負け組」と
いう認識が社会全般に「意図的に」流布されて、その意識に乗せら
れて他者を蹴落として生き残ることが美徳であるかのような傾向が
醸造された。列に並んで商品を買うのではなく、バーゲンセールの
早い者勝ちのように、他人を突き飛ばして自分がそれにありつくこと
がまるで美であり勝ち組ステータスであるかのような感性を教育を
含めたありとあらゆる現場意識において醸造させることに支配者たち
は成功した。
国民の意識性の中で秩序の崩壊を支配者は成功させたのである。
本質的には秩序を崩壊させていることが、さも「競争原理」で自由
主義の原則であり正道であるかのようなまやかしをやってのけた
のであった。
真実としては、共生ではなく断裂へ、共存ではなく専有へ、共和では
なく個別的独占を求める意識が意図的に国民の中に普及させられた。
国民同士がいがみ合い、ねたみ合い、憎しみ合うことを支配者はあえて
政策として支配圏周辺機関や人材を駆使して巧妙に推進してきた。
そして、昭和時代に見直されて来ていた、いわゆる差別や格差社会
というものの解消を希求する国民意識は完全に途絶し、「いい学校」
「いい会社」「いい家柄(=血脈ではなく資産保有の多寡)」という
ものを求めることが正道であるかのような人間性の意識が、点火爆発
しそうな圧縮空気として注入されたのである。それに乗った(現実は
生活はよけい苦しくなる)意識の国民は多い。「うちだけは」と思い
つつ、大局から見れば決して裕福でもない生活であるのに、上下意識
のみを軸足とする国民が経済危機とともに大醸造された。
すべては、国策経済危機の中で、御用経済アナリストたちによって
発信して国民操作されたことだった。
特に識別能力が未熟なゆとり若年層にそうした他者排撃意識は多く
無批判に受け入れられ、それを狙った大人たちに「将来的戦果」を
もたらすこととなった。

さしあたっては、自分の頭で世間をよく見て自分で考えて自分で判断
できるという最低限のところに国民が立たないと、国民が権力者に
よって手玉に取られるということになりかねない。
重税あたりはまだ回避できる対抗打開策はあるとしても、国民のあら
ゆる自由意思や生命の殺生与奪の権利まで国が自由にできるように
なってしまったら、もうどうしようもなくなる。その後に突き進む
道は見えている。
国民が忘れてならないのは、今は「戦後」ではなく、「戦前」である、
ということだろう。


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貨幣

2016年12月06日 | 文学・歴史・文化


(額面が分かりやすいようにコインの裏側を表示)

日本国発行の貨幣をすべて足すと 666 
ダミア~~~ン!
になる。

全然脈絡のないオハナシですが。

ちなみに、紙幣は国ではなく日本銀行が発行する
銀行券ですので、同じカネでも扱いがまったく
コインとは異なります。
って、ここまでは当たり前のことで知られているが、
なぜそうなったかはよく知られてはいないようだ。
おいらもさわりしか知らない(笑)。
まあ、薩長新政府がやった多くの泥縄策で起きた国内
混乱の一つをどう始末付けるかみたいなものだろう。



この映画、結構面白かった。


まるで、「ルパン三世」誕生のネタ元となった『黄金の七人』
のニセ札(実は本物)を印刷、みたいな面白さ。
ただ、物語ではどちらも成功していない。
成功した例は・・・現行では某共和国のニセ札と、戦時中に
某アジアの軍事大国が国家ぐるみで行なったニセ札作りだけ
だろう。
とはいっても、今でも米ドルなどの現行紙幣のニセ札はかなり
出回っているのではなかろうか。


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