渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

送付物の礼儀

2016年06月27日 | 文学・歴史・文化



宅配便等で物を人様に送る時、業者さん任せの印刷で記入される場合は
そのままですが、私は自書の場合には自分の氏名欄の「様」には斜線を
入れるようにしています。

結婚式や式典の出席案内状には返信用はがきが同封されていて、それに
予め送付先の住所氏名が記入されていることが多いのですが、その際には
送り先の相手様には「様」を記入します。
また出席の可否を〇で囲む欄に「御出席・御欠席」とあった場合は「御」は
斜線で消します。

私はそれが礼儀と親から小学生の時に習ったのですが、こうしたことは
別段法律で決まっていることではなく、日本文化の中での社会的な常識
に類することだと思っています。

さらに、年賀状は、印刷しただけの物を先様に送るのは失礼にあたると
私個人は考え、必ず手書き直筆で一筆近況や先様の安否を気遣う短い
一文を
書き添えるようにしています。年賀状が100枚あろうが200枚
あろうが書き添えます。(会社業務としての賀状は別)
また、自筆手紙の中で「私」という単語を書く場合は一番下に、先様の
お名前を記す場合には行を変えて文の一番先頭に先方のお名前を記す
ようにしています。


日本の手紙文の「背景-敬具」「前略-草々」等についても、何も法律で
決まっていることではありません。社会的常識としての慣習かと思います。
時々誤った使い方としては、返信の際に自分の名の後に「拝」を付ける時に
氏だけ記してその後に「拝」を付けることがみられますが、これはフルネーム
で記さないと失礼であると私は習いました。
そうしたことの多くは小学校でも習いましたが、親から教えられたことが
多かったように思えます。

私のこれらの行ないが現代社会で間違っているか適合しているのかどうかは
解りませんが、戦後15年
後の昭和生まれの私が幼い頃はそうしたことが
常識的な礼儀であるとして
教えられましたので、私はそのようにしております。

ただし、これはあくまでも対人という場面の礼儀作法に分類される事柄であって、
一般的な仕事での文章作成やウェブの記載事項においては横書きの文章記述
の場合は縦書きの日本語表記と異なり、文頭一マス空けをしない等、適宜場面
により用法を使い分けています。(手書きでは手紙文に限りすべて行頭を揃えます)
世間一般では論文などでは横書きでも縦書き表記に準じて文頭一マス目空けで
表記されていますが、ウェブ日記やメールや仕事での事務文章などでは英文表記
と同じ自由改行による一行の長短任意設定や文頭マス詰め記述を私はしています。

なお、余談ですが、インターネットが普及して、誰でも自作文書を公開するツール
としてのネット環境が整備された世の中となりましたが、「論文」というものは
学術研究機関に提出された「世界初」の「オリジナル」の研究についての発表
論術を「論文」というのであり、広義における試験問題の論述(便宜上論文と
呼ぶこともある)や、ネット上のブログなどの作文を「論文」とは呼びません。
結構自作ブログ文章を「論文」と自称している人が多いのですが、それは
一般常識的には違うように思えます。
「論文」とは、厳密には学会に発表された学術研究論文のことを指します。


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youtubeサムネイルに私の差料の刀が使われている件

2016年06月27日 | 文学・歴史・文化

Japanese sword celebrated Samurai Katana muramasa masamune


このyoutube動画のサムネイルには、私がピアノの上に自分の差料を
置いて撮影し、この徒然日記にアップした画像が無断で使用されています。



原本

上:「則光」(天文年間-1532~1555-/備前国長船)
下:「安芸国大山住仁宗重作 天正八年二月吉日」(天正八年-1580-/安芸国大山)

←クリックで拡大

しかし、日本刀を紹介するためでしたら、私のサイト画像は連絡なしで使用
してもらっても構いません。
著作権がどうの版権がどうのなどということは私は言いません。
故桑名正博さんが「自分の曲を歌ってくれていることに著作権がどうとか
そういうのは僕は言わない。ええんちゃう。著作権を否定するわけやない
けど」と言ってましたが、私はそれに似た感覚があります。
厳密には現行法には抵触しますが、使用により業として利益を得たりしな
ければ、私個人は私のサイト画像や文章は使用してもらって結構です。
リンク貼って伝統文化の説明に使用してくれたりとかは返って有難い。
ただし、私の日記の画像や記述内容を流用(二次使用であろうが三次使用
であろうが)していたり無断使用したりしていながら「当流に昔から伝わった物」
というような嘘ねつ造を為して自分たちに利益を誘導するために流用し、それ
を指摘したら逆切れで当該案件とは無関係な私の周辺者に訴訟するぞと
ねじ込むようなことでは、まったくもってお門違いです。心得違いと言ったほうが
適切かな。
そのようなことはお控えください。

この私の戦国時代の宗重は貴重な史料刀でもあり、旧山陽道の芸州大山鍛冶
の鍛刀地に私のこの作が写真入りで史跡案内看板となり、郷土史料として公開
されています。これは郷土の歴史解説のために、私が史料データを提供しました。


クリックで拡大

この私の刀を撮影してくださったのは、美術刀剣刀心
町井勲氏(修心流居合術兵法創始者町井勲先生同人)でした。
驚くことに「日本刀を多くの方に広く知って頂くためでしたら」と無償で
刀身全身の写真撮影を引き受けてくれました。

安藝國大山住仁宗重作 天正八年二月吉日

(撮影者:修心流居合術兵法宗家 町井勲氏)

←クリックで拡大

私が居合の先輩の御厚意により先輩から贈呈され所有しているこの戦国時代の
大山宗重は、天正八年(1580)、織田信長が本能寺で滅する2年前に、芸州大山
の地で延道彦三郎さんという方が作った刀です。長さ約二尺三寸四分。





この刀は私を可愛がってくれた居合の先輩からの頂き物です。
私は有り難く頂戴し、人の世の歴史の中で私が生きているほんのいっとき
の間だけ私が御預かりするという気持ちで法的に所有させてもらっています。

日本刀に限らず、他者の物を盗んでいながら元から自分の物であると
言い張って私物化し、盗まれた側を悪者にしたりする不届きな者たちは
人の世にはいるものです。
そういうのを世間では何とか猛々しいと言うのですが、そういう邪(よこしま)
な事とは無縁であり、日本刀について純粋に刀のことを多くの人に広めたい、
日本の伝統文化について多くの人に知ってもらいたいということであるならば、
私は私のサイトの画像等を引用してもらっても一向に構いません。
法律というものは権利と義務の連鎖ですが、こうしたことは法律論ではなく、
心の問題だと私は考えています。


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襷(たすき)がけ

2016年06月24日 | 文学・歴史・文化



坂妻さんですね。田村正和さんのお父様。
これは歴史的金字塔といえる映画『血煙高田の馬場』
(1937年公開/監督:マキノ正博)の名シーンです。

高田(たかた)の馬場の決闘は史実です。
元禄7年2月11日(1694年3月6日)の春の日、江戸郊外の高田
(たかた)の馬場(現在の新宿区西早稲田)で起きた決闘でした。
うちの先祖のトモさんが死ぬ5年前ですがそれはどうでもよい。
史実は武士同士のいざこざの一対一の決闘で、対決者の一方と
一緒に同行した中山安兵衛が一対一で行なわれた決闘で不意に
加勢しようとした二人を斬り倒したのですが、これが江戸市中で
評判になり、大きく脚色・ねつ造されて行きます。
安兵衛が斬り倒した人数が最初は瓦版で18人とされ、その後に
どんどん加算されて、酔いつぶれて寝ていたところ助太刀に
酒を煽って韋駄天走りをして23人斬り伏せたなどと講談では
講釈師がパンパンと噺をまくしたてるようになりました。
創作ねつ造が多く登場し、学習院大学の敷地内には安兵衛が
決闘後に刀を洗った「血洗いの池」と呼ばれている池があります
が、これは大正時代の学習院高等科生徒による創作であるといわれ
ています。
また、馬場下町には今でも「うちが堀部安兵衛が酒を煽って
決闘に行った店」と自称している酒屋があります。
私は西早稲田馬場下町界隈の住人でしたのでよく知っていますが、
ものすごい態度の店で、一切「いらっしゃいませ」「ありがとう
ございます」は言いません。そして「ふん」という態度で客を
睥睨する一般小売酒屋です。あれ、なんだかすごい(笑

で、モノガタリというのは史実とは大きくかけ離れているという
典型がこの「高田の馬場の決闘」や「四十七士の討ち入り」なの
ですが、ここでは映像作品等に観られる「襷(たすき)がけ」に
ついてみてみます。

「高田の馬場の決闘」では多くの創作モノガタリでは中山安兵衛
(後の堀部安兵衛)は堀部氏の娘から襷を貰ってそれを巻く、ある
いは別人から襷をもらう等々なのですが、その襷の掛け方に注目
してみます。

こうした左内脇に結び目を作る方式は、俗に「女中結び」や
「お手伝いさん結び」(戦後か?)などと呼ばれた方式でした。


実際の武芸者に多かった結び方は、このように左脇で結び目を
作ってから背中に回すいわゆる応援団のような方式が多かった
とも云われています。実際に江戸期の絵図などではこうした
結び方
も見られます。





(これは観劇したかった)


ただし、あくまで私見としては、迅速性を重んじる場合は、武士の
襷がけにおいても左脇結びはあったのではなかろうかと思います。
というものも、後ろ結びでは、もし結び目がほどけたら一気に状態悪化
になり
ますし、襷を解いて捕縛等に使用する場合の迅速性に欠けること
が考えられるからです。

しかし、固く結んだ場合は、やはり背中に回すほうが邪魔な結び目が
腕の動作を妨げないので、後ろ結びのほうが実用的かとも思います。
これは、熾烈な迅速性が求められる現代のカルタ取りなどの競技でも、
選手は応援団結びをして一切腕の邪魔になる部分を背後に持って行って
いることからも類推できます。すごいのは袴の結び目さえもやや左
に配置して右手の動きの妨げにならないようにしている。まさに競技上
における実戦的な様式にしている訳です。

歴史事象については、明らかな証拠や確定事項ではない限り、断定的に
21世紀の現代人が決め付けるものではないと私は思います。
まあ、それでも、盗人と同じく、人の世はねつ造や創作詐称の種は尽き
まじなので、あたかも江戸期から直伝されているかのように主張し出す
カタリを始める人たちもいることでしょう。
それは、「血洗いの池」と同じことだろうと思います。
新選組のダンダラ羽織が常用されていなかったのは、知っている人は
知っていますが、映像表現物語では、あれは一つのシンボルですので、
映像作品においては多用されています。
でもそれは「創作世界」での出来事です。
創作映像表現と現実の史実を同一視するのは時代考証以前に、論外です。
論外というか、かなり危険です。そのうち「ねずみ人間」の声が聴こえて
きそうな感じで。
私の知り合いに劇画『乾いて候』の御毒味役の「腕下主水(かいなげ
もんど
)」が実在したと信じて疑わない人がいて、本人は確信している
だけに、その想像力と現実と妄想の境界のなさにかなり興味深くお噺を
拝聴したことがあります。(実話)


-江戸名所図による高田(たかた)の馬場-




なんとなく横浜鶴見の生麦のあたりに似てますね。

創作やねつ造ではない事実の実話として、私は刀の下げ緒を襷に
かけた
ある武術人にとんでもない技を見せてもらったことがあります。
それは、下げ緒を襷にかけていて、それをパッと解いて、こちらに
投げる。彼は「打つ」と表現していました。
最初は試しに私は素手で拳法の構えでした。いわゆる徒手格闘技の
構えです。
すると、ムチのように伸びて飛来してきた下げ緒で手が絡め捕られて
しまいました。西部劇のカウボーイのように輪っかなど作っていません。
ところががっちりと縛られていて完全に自由を奪われている。
次には飛来した下げ緒を掴みました。すると刹那、ヒュルヒュルと
下げ緒の波が飛んできて手がガッチガチに絡め捕られる。

きょとんとしていたら、今度は刀を持って構えてみろとのことで
やってみました。
刀という長い物があるのに、手が飛来した下げ緒で絡め捕られる。
何度やっても捕られてしまう。
片手だから柄頭側からの飛来で捕られるのだろうと思って両手で
正眼に構えても捕られてしまう。
まるでマジックでした。
世の中には恐ろしい技というものがあるものです。
その状態で手裏剣でも打たれたら一発でアウトです。
世の中には、ネットで表などには出てきていない恐ろしい技を持った
人たちはごちゃまんといるよなと、その時のことを思い出すたびに
天狗になっては命取りだなと思う次第です。
予定調和の約束稽古でキツネとタヌキの化かし合いをやっている
うちはよいのですが、現代戦は刀槍を用いた対決はありえないとは
いえ、本物の武術というのは実に本質部分が恐ろしい。

そもそも決闘自体が「決闘ニ関スル件」という明治の法律で禁止され
ていますので、腕試しの直接対決などはありませんし、現代では
あっては
ならないことですが、本物の伝統武技というのはやはり「術」
である
だけに、想像で脳内に創作した妄想「技」とは雲泥の差があり
ます。
一言でいうと、「次元が異なる」。


帰宅後、私は脳裏に焼き付けた下げ緒打ちを何度も練習しましたが、
まったくサッパリで今に至っています。
手裏剣もサッパリだし、居合もてんで丸で駄目夫くんで、つくづく
武術的な才能がないのだなぁ~、なんて思っています。
「ならば頭で勝負だっ!」とか言ったらいきなしチョーパンくれそう
だし、俺(笑)。「頭使ったぜ」みたいな。
私は
喧嘩もしたことないし、仮にしても弱いだろうし、人をぶった
ことも人にも親父にもぶたれたこともない。
とことん気の弱い一般ピーポーの小市民
なのだなぁ、と自分で思います。




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葉隠(はがくれ)

2016年06月19日 | 文学・歴史・文化


葉隠(はがくれ)って、これのことだよね?

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字の癖

2016年06月19日 | 文学・歴史・文化


刀屋うを新の文字が刀工小林康宏にクリソツな件(笑









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備後福山城

2016年06月16日 | 文学・歴史・文化




おれ、この藩にあんまし縁がないんだよね。

ここは縁があるけどねー。



とか思ってたら、大ありだった。
おふくろの高校の前身が藩校だった。
忘れてたよ(≧∇≦)

しかも、うちとも縁があった備中水田国重の末裔は、福山藩にても駐鎚
してたんだった。
水田国重の江戸期の作刀地は現在の岡山県井原市だが、明治維新の直後は
備後福山ともども深津県になった。
その後、井原は岡山県に編入され、福山は広島県に組み込まれた。

そういえば、今の東京都品川区は江戸ではなく、品川宿だった。
維新後は品川県てのがあったっけ。
あと、今の東京都特別区よりも、戦前の東京市の区のほうが何だか俺は
好きだな。
麹町区とかさ。
それも戦前35区時代よりも明治の15区時代のほうがいい。
漱石の時代ね(笑

にしても、東京都民、特に山手線内の区民は最大の城下町に住んでるという
ことだよな。
江戸期にはパリを抜いていたんだから、世界一の都市だった。
パリはきちゃない街だが、江戸は上下水道完備だったからねー。
江戸市民は綺麗好きだったし。
もてようなんて歯がすり減るほど磨いてたなんてのは馬鹿だけどな(笑

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歴史教科書の記載の変遷

2016年06月09日 | 文学・歴史・文化






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これはもう古いのか(笑

ワンナイ ぐっさん 吉イクゾウ先生


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礼法 ~座礼~

2016年06月09日 | 文学・歴史・文化


(私が道場で上席の先生に対し、あるいは日常生活で
行なう座礼は一番下。両手は同時に床に着ける)

私が通う居合道場では、稽古始めと稽古終了時に整列して
黙想し、その後上席の先生に礼、お互いに礼をする。
その際に行なわれる座例は、武家礼法に基づいて行なって
いる。
先生に対する礼の方法は広島県も神奈川県も同じだ。
その際には全剣連演武方式ではなく、日本古式の伝統的な
礼法を重んじてそれを行なう。


かしこまった日本人の正式な座礼において、片手を残して手を
床に手をつける方法は相手に
対して大変無礼にあたる。
利き手をあとから床に着けるのは
刀の鯉口を切ってからおざなり
の礼をするようなものだからだ。

したがって、本来の日本の礼にはそういう礼は存在しない。
全剣連居合の演武用の座礼は戦後創作されたものだ。

しかし、そうした正しい歴史性を知っていて「全剣連居合の礼」
として全剣連の者が全剣連の礼法行使を義務付けられた場面で
行なうならば
差し障りないだろうが、それの歴史性を知らない
と誤ったことが正しいと信じ込んで伝えられることがあるので
注意が必要だろう。

小笠原礼法と土佐居合での礼法は「両手は同時に着く」のである。
のだと思う。
少なくとも、手前どもは先達の方々から口伝で教えられてそのように
しております。

躾というよりも作法なのですよね。
以前、神奈川県川崎の師匠の道場に通っていた頃、屋内に入って
帽子を取るのが遅れたことがあった。
即座に師匠に怒鳴りつけられた。
脱帽する、被り物を取るという当たり前の礼義作法を私がすぐに取らな
かったからだ。
こうした礼儀作法は、なにも武道を行なう局面だけでなく、日常的に
励行されてしかるべきで、子どもを叱るように私をどやしつけて叱責した
という師匠の行動は正しかったと私は思っている。有難いことだ。
私は師匠からは単に武道武術剣術居合の技を習うだけでなく、身の処し
方や物事の考え方など、生活全般に亘って多くのことを教わった。「心得
違いをするなよ」とよく諭してもくれた。
また、同じ法曹界に身を置いていたので、公私においては私を超えて
公の部分でもなにかと指導を仰いだ。
師匠はなにも押しつけがましく「こうである」ということはことさらに
説かない。誤っている部分を軌道修正してくれた。私にとっては親以上に
親のような、今でもそんな存在である。
人生の師、本当の恩師という存在というものはあるのだなぁと、強く
感じる。
伝承や伝統の継承というものは、こうした人間関係構築の中から私たち
日本人はごく自然に身の周りのことを身に着けていたのではなかろうか。
「悪貨は良貨を駆逐する」とは言われるが、そうではない核心のコアの
日本における人の社会の良質な部分というのは、ことさらに表面に出して
PRせずとも、ごく自然に静かに行なわれているものではなかろうかと
感じる。


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武術 11 会津藩秘伝の剣術「溝口派一刀流」

2016年06月07日 | 文学・歴史・文化

武術 11 会津藩秘伝の剣術「溝口派一刀流」


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日清「どん兵衛」 東西味の比較

2016年06月07日 | 文学・歴史・文化

友人の刀屋うを新とカップ麺のことについて話をしていた。
私が「どん兵衛は、東日本と西日本で発売されている製品の味が
違う。西日本の物は東にくらべて数段美味い」と言ったら、「いや、
どん兵衛といえば関東でしょう」をうを新が言う。
東日本では一般的には西日本地域向けのどん兵衛は売っていない。
いくつかみつくろって埼玉に送った。

以下、うを新から届いた、「どん兵衛 東西食べ比べ」のレポートである。

















以下本人からのレポート。

「今日は先日いただきましたどんべぇを食べくらべてみました。
結論から言いますと、渓流さんが言ってた通り広島で売ってた方が美味しいです。
関東のほうが美味しいと思ってましたが、何かショックです(◎-◎;)
関東の方は、スープに雑味があるというか、なんか色んな味が混ざり過ぎていて不味い。

広島の方は味がスッキリまとまっており、こたちらが昔ながらの味のような感じでした。
関東のはこんなに不味かったのかぁ~、とショックです(´Д`|||) 」

そこで、うを新と電話で直に話をして意見交換をした。
うを新は私に謝っていた。
「いや、関東のほうがぜってーうめーよとか思ってました。『あれ?西日本に引っ越して
なんだか地元の身贔屓みたいになっちゃって、渓流さん味覚が鈍っちゃったのかな』
なんてちと思ったりしてました。食べてみて本当にびっくり。ごめんなさい。どうぉ、さーせん」
と。
そして、互いに気づいたことがある。
どん兵衛は私が高校1年の時の1976年に発売されて爆発的人気となった。
マルちゃんの「カップうどんきつね」の製法が特許申請されていなかったからパクって
大ヒットを飛ばした商品だった。
どん兵衛は美味かった。カップ麺のうどんの嚆矢は東洋水産のマルちゃんだったが
日清食品のどん兵衛は美味すぎて衝撃的だった。(余談だが東洋水産のサバ味噌缶詰
は当時最高に美味かった)
うを新と話をしていて二人が思ったことは、「どん兵衛登場当時の味は、今の西日本
地区で発売されているどん兵衛の味だったのではなかろうか」ということだ。
そういえば、どん兵衛のアゲが変わった頃にどん兵衛の味が変わったという記憶が
私にはある。これは東京の大学に通っていた頃のことだ。
日清に照会して確認した訳ではないので確かなことは言えないが、「ある時から関東で
食べられるどん兵衛の味が変わったこと」、「首都圏で発売当初のどん兵衛は今の関西
バージョンの味だったという味覚の記憶があること」という私とうを新の二人の共通認識
がある。

ここで私とうを新が電話をしているのを横で聞いていた妻が言う。
要約するとこうだ。
「日清というのは大阪が本社ではなかったか。なので、発売当初は関東でも関西でも
関西味の一種しかなかったところ、その後の販売戦略で関東向けの味を作ったのでは
ないか」
なるほど、説得力ある。

そしてですね・・・。
関東の味について「ただ濃いだけ」と勘違いしている大阪人が手掛けたどん兵衛の
味の改変という可能性も大いにある。
関西はこんぶ出汁、関東はカツオ出汁が基本だが、なにかと関西人は関東の味付け
を「ただ濃い」とだけ捉えがちであることは否定できない事実として存在する。
(ほんとだよ。解ってないよ、関西人!)
関東の味は濃いのではない。そこが解ってないフシが大いに関西人にはある。
そもそも、味覚についても、関西では「しょっぱい」という単語自体が存在しない。
しょっぱい味も辛い味もすべて「辛い」と関西では言うのである。関東のほうが味覚に
関して細かい表現分けをしているというのが真実なのだ。
(これが九州に行くともっと大雑把で、唐辛子もペッパーもどちらも「コショウ」と言う)

確かに、関西では京料理は抜群に美味い。繊細な機微を表現した料理となっている。
しかし、大阪は「喰い倒れ」とは言うが、どのような繊細な料理があるというのだろう。
和食の本場は大阪でも東京でもなく京都であることは間違いないのだが、大阪は
東京でいうところのもんじゃのような食べ物が主体ではなかろうか。串カツなんて
大阪ジモチーは食わへんしぃ(^^;
二度漬け禁止やで!というのも、あれは「尾道ラーメン」のように取ってつけた新規
創作であって、本当の大阪の伝統的な味の代表選手ではないだろう。

味の濃い薄いの話でいえば、関西で多用される「薄口醤油」は、実はあれは濃口
醤油よりも塩分過多で味が濃いのである。
これも「うすくち」「こいくち」と売り分けられた時から私は気づいていた。「薄口という
ほうが味が濃いじゃん」と。

握り鮨につける醤油は関西で多用される「刺身乗せ酢飯の握り鮨風食べ物」用の
タマリよりも東京で使われているムラサキのサラッとした醤油が絶対に合うとは思うが、
これは「ネタに仕事をする」という江戸前独自の握り鮨だからというのもある。
江戸前でさえ、本来はムラサキさえもつけない。保存未発達だった時世が加工文化
を反映させた。それが職人技の域に行ったのが江戸前の握り鮨だ。
地方によっては寿司のシャリに砂糖を大量にまぜたりする。地元ではそれが普通
なのだというが、それで江戸前寿司と看板を出していたりする。正直いって、東京の
本場の味を知っている者からすると、熊本の「江戸前」握り寿司などは食えたものでは
ない。

さて、日清のどん兵衛である。
私と刀屋うを新の仮説が正しければ、1976年に発売された当初の味は現行の西日本
バージョンの味に近かった筈だ。
そして、関東の人間は関東の味を愛して非常に関東味に愛着があるが、どん兵衛に
関しては、関東もんが食しても西日本バージョンの味に軍配があがると賛辞できる。

ただし、なぜ関東バージョンがこんなに関東人をして「まずい」と言わしめる味である
のかというと、これは前述したように「よく関東の味が何かを知らない者が作った関東味」
ゆえではなかろうかという推測がある。
典型的な「関東知らずが作る関東味」という物がある。例を挙げれば、兵庫県明石地区
中心に関西近畿圏に多く存在する「関東だき」「関東煮」というものだ。
いわゆる「おでん」なのであるが、醤油ベースのドロドロの真っ黒な得体の知れない液体
におでんの具が煮込み切られて入っている。不味い。
関東で誰があんな物食うか!ってんだ。第一、関東にはそんなもんねーし(^^;

(おでんに命を賭けている江戸っ子のチビ太)

寿司もおでんも関西から江戸・東京に入って来た物だが、江戸・東京で
独自の食文化として発展した。関西に存在する「関東煮」のような正体
不明の物体は本当の関東には存在しない。

チビ太が愛するおでんは赤塚先生によると関西風味とのことであるが、
元々関東風おでんであろうと関西風の味付けであるのが一般だった。
チビ太は多くの赤塚作品に登場するキャラだ。

<チビ太登場の赤塚作品>
おそ松くん
・カン太郎
・チビ太
・$ちゃんとチビ太
・チビ太くん
・ひみつのアッコちゃん
・天才バカボン
・天才バカボンのおやじ
・もーれつア太郎
・チビ太モミモミ物語
・カタキウチでやんす
・レッツラゴン
・はくち小五郎
・ウンコールワット
・少年フライデー
・のらガキ
・ワルワルワールド
・不二夫のワルワルワールド
・シェー教の崩壊
・赤塚不二夫のさわる絵本よーいどん!

1980年代初期に日本国内に物流ルートが開かれて、トラック物流が主流となり
情報と物流が開かれるまでは、日本国内は「東日本」と「西日本」では隔絶していた。
いや、これホントの話。
1972年にぶちあげた田中角栄の日本列島改造論は、その後の日本の歴史に
大きな足跡を残した。
「日本から田舎をなくす」。
親父の列島改造論は、単に都心と地方の生活水準の格差是正だけでなく、首都と
分離して独自展開をしていた地方大都市と都市同士を、あるいは都市と僻地を動脈
のような交通手段というパイプで繋いで、政治・経済・文化の全領域において「国内
統一」を目指すものだったからだ。
まさに石原慎太郎が言うところの「天才」であり、田中角栄によって、日本はようやく
物理的側面においては「国内統一」が成される一歩を踏み出したという歴史的事実が
厳然としてある。(国内電力などはまだ周波数が東と西で分離したままだが)

1980年以前、東京で大阪弁などはまずほとんど耳にしなかった。聞くのはせいぜい
アニメの中だけで、「あしたのジョー」でのマンモス西や「いなかっぺ大将」での西はじめ
などがしゃべる大阪弁くらいしか耳にしなかった。そもそも彼ら二人の名が「西」として
いることがすでにステレオ判断の象徴となっているほど、東京と大阪は隔絶していた。
アイドル歌手なども、関西弁を話すことは厳禁されて、全員が「標準語」を話していた。
大坂出身の藤本真一などはなにかと「東京ではこうだが大阪ではこう」ということを必ず
口にしてそれを「売り」にしていた。武村健一の大阪弁などは東京では冷ややかな目で
見られていた。(人柄にもよるとは思うが)
また、そうした東京中心風潮に反抗して、やしきたかじんのように、関西を愛するがゆえ
に絶対に東京では仕事をしない、という大坂人もいた。
逆に関東というか東京人からすると、大阪人特有の「何でも損得ゼニカネ勘定」を自分
の思考軸とするところがどうしても馴染めなかった。(今では東京でも損得勘定のみを
基軸とする人間は爆発的に増えている)
関東では「値下げ品」であるが、関西では「お買い得」・「お値打ち価格」と表現される。
安く買う・買えること自体に付加価値があるような損得勘定イメージ戦略が関西の商売
では昔から多く展開される。
仕入れ値原価に利益を乗せて販売するのは商売の常であるので、いくら値引きしようが
売り手は不良在庫処分以外では赤字売りはしない。赤字売りということは、商品を客に
渡してさらに負い金を付けてやるようなものだからだ。
だから、いくら「お買い得」「お値打ち価格」と銘打っていても、それは利益がきちんと
出ている範囲での売り文句であるのだから、単なる「値下げ品」として購入者は捉え
ないと足元をすくわれる。
ところが、関西では、関東では存在しない文化として、「徹底的に値切り倒す」という
ことがあたかも「良いこと」であるかのような文化がある。
そして、人より安く物を購入したら「勝利した」かのように思う感覚を関西人は持って
いる。
以前島田紳介がTVで以下のような趣旨のことを言っていた。
「Tシャツを1500円で買ったと自慢する奴に、『わしのは500円』と勝ち誇ったように
ドヤ顔で言うのが大阪人」と。
これは厳然として存在する「そこにある文化」なので、それについて良否の評価など
できない。良かろが悪かろうが、そうしたものが関西には風土文化として厳として
あるからだ。
だからだろう。関西人は武具を購う時さえも「負けろ」と言って値切り倒したりする。
そうしたことは武士は絶対に口にしなかったということなどは完全に丸無視する。
事実としては武士も値切る。それは一見関西人と同じだ。
だが、武士がやるのは「値を切る値切り」であり、値を「負けろ」「引け」とは決して言わ
ない。
中身は低姿勢の値切り倒しと同じで高圧的に「値はいくらだ。それが言い値か」とか
言うだけで、暗黙のうちに相手から値下げを口にさせることを武士はしているのだが、
値引きを懇請したり拝み倒して「もっと負けて」とか「もっと安くしてくれ」とかは言わない。
武士は「購うので値を申せ」と言うだけである。関西人は自分から相手に負けてくれ、
引いてくれと頼むのである。時には「安うせんのやったら他で買うたるで」とまで言う。
私などからすると「なら他で買いな」と思ったりする。
ところが関西人は「売ってナンボ。儲けてナンボ」であるので、「そない殺生な。ほな
これで」と客の値踏みに対して逆に客を値踏みしてやりくりして売りさばく。

さて、1970年代末期頃までは物流が開かれていなかった事例として、東京には
博多の辛子明太子が入ってきていなかった。私が辛子明太子を生まれて初めて
食したのは大学生の時に福岡の友人が持ってきたお土産によってである。
福岡より東京に近い大阪でさえ、大坂文化が東京に入って来ることは1970年代
末期まではほとんど無かった。

それが崩れたのは1980年の漫才ブームからだった。
逆に関西に東京の文化も広く流入した。
島田紳介はかつて言っていた。
「自分のこと『俺』とか言うのは映画の中だけの世界やと思ってたわ」と。
東京神奈川では「俺」は普通だし「行こうぜ」の「ぜ」は何も気障を気どって言っている
のではなく普通に使う。

そうそう。首都圏に住む若き陸自幹部にも関西バージョンどん兵衛を送って試食して
もらった。
ウマさに驚いていた。
関東の人たちは関西バージョンのどん兵衛を食したら衝撃を受けるだろう。
掛け値なしで(こういう表現自体ナニワアキンド気質の反映だが)、ウマイのだから。

どん兵衛の関東バージョンの味が「実は関東の味ではない」ということに日清の人は
気づいているのだろうか。
関東の味をよう知らん人が「これが関東の味や」と勝手に作ったんちゃいますのん?



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生活の知恵

2016年06月05日 | 文学・歴史・文化



昭和30年代生まれあたりまでの人にとっては当たり前田のクラッカー
の常識だろうが、若い人向けに昭和世代から一つ生活の知恵を。

瓶の蓋などが硬くて開かない時には叩いたり温めたりせずに、輪ゴム
を巻いてその上から濡れタオルで押さえて回すと回ります。
要するに車のオイルフィルターの交換と同じ理屈なのですが、回転の
摩擦係数を増やしてやることで手の力がダイレクトに伝わるので蓋が
簡単に回るのです。


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錆びない鉄 ~ツタンカーメンの剣~

2016年06月04日 | 文学・歴史・文化








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「鉄器時代の幕開け(紀元前8世紀)」以前の紀元前14世紀に
隕鉄を加工して鉄剣を製作する技術があったとしている。
そうなの?
というか、紀元前14世紀のエジプトでは精錬技術もすでに持っていた
のではない?

少なくとも隕鉄をそのまま叩いて剣にすることはできない。隕鉄を溶解
させるなりの「炉」がないと加工は無理だ。
炉があるということは、沸かす技術と設備があったということを類推させる。
人類史上、
製鉄技術そのものは紀元前15世紀より前に一般的に普及した
とされている
のであるから、製鉄技術普及から100年後世の紀元前14
世紀
のエジプトでは製鉄技術もあったとみるのが順当なのではなかろうか。
まあ、ヒッタイトが滅びてから秘伝の拡散というのもあるだろうが。


こういうことは考古学的確証がないとよくわからない。
日本で製鉄が始まったのは6世紀からなどと教科書には書かれている。
それまでは鉄素材を輸入して、「加工」していたのだとされている。
まるでエジプトの説明みたい(苦笑
日本での製鉄は縄文時代から存在したのではなかろうか。
そうでなくとも、弥生時代の遺跡には「製鉄もしくは精錬炉」が見られる。
最新の科学的解析により、弥生時代の年代比定がどんどん遡っているが、
日本国内の製鉄技術がかなり早い時期から存在したことが証明される
日も近いかもしれない。

ネット百科によると、製鉄の歴史の流れは以下の通りだ。

最初の鉄器文化ヒッタイト

定説では最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろに突如あらわれた
ヒッタイトとされている。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な
武器にし、メソポタミアを征服した。その鉄の製法は秘密にされて
おり、周辺民族に伝わる事が無かったが、ヒッタイトが紀元前1190年
頃に滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、
エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。

中国の鉄器時代

殷代には既に鉄器が発見されている。広く普及し始めたのは春秋時代
であり移行期にあたる。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、
武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、
秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。

日本の鉄器時代

日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』
などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で
純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄
の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと
考えられていた。しかし、鉄器の普及とのギャップなどから紀元1~2世紀
頃には既に山陰地方を主として、大掛かりな製鉄が行われていたのでは
ないかと考える説も有力である。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州
から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方
にまで普及する。


そうなんだよ。
実は西暦1世紀にうちの先祖が太陽信仰と共に製鉄技術を日本に持って
来たん
だよ(嘘
本当のことを言えば、私にも弥生時代があったことは歴史上の事実で
ある(笑)。今は、とよあしはらのみずほの国でジャパ~ン!の時代だ。
(すまん。一部知り合いしか解らないだろう楽屋ネタで)
しかし、製鉄技術は「突如現れた」というところがとても引っかかる。
まあ、発見というものはどのようなものであれ、「突如」現れるものである
のだが。

真面目な話をすると、ツタンカーメンの隕鉄剣が「区(まち)」を持っている
ことに個人的には驚いている。
柄に差し込む形状が原始的であるならば角をつける区(まち)などは取らず
にヌルリとした連続曲線形状になっていたはずだ。ツタンカーメンの剣は
区ひとつとってみても、高度な加工技術と造形意識が当時のエジプトに
あったことが窺える。

日本の「古代」などはエジプトの時代に比べると「つい最近」のことのように
思える。
しかし、正倉院に残されている日本の古代ナイフである「刀子(とうす)」は
雅やかだ。


水牛の角が美しいという以前に、数百年後の「小柄小刀」の
原形を見るかのような造形的完成度をすでに有している。
金属加工技術も高い。
しかし、三合刀子などと、ナイフを3本もなぜ同時に持ったのか。

三合で驚いていてはいけない。こちらは十合である。
なんで10本もナイフを腰にぶら下げていたのか。
この古代の貴族の役職って、一体なぁに?(^^;
もしかして、貴族ではなく、貴族に仕えた料理人だったりして。




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平安時代の豆知識

2016年05月25日 | 文学・歴史・文化

町井勲氏が古代文化について言及している。

(以下転載)

2016-05-24 23:46:56

平安時代の豆知識

テーマ:豆知識

今日、二条城での十二単着装実演時のお話をうかがった中で驚いたのが…

平安貴族の女子は、なんと年に一回とか二回しか頭を洗えなかった。

というお話。 

そのため髪に油を塗り、香を焚き込めていたそうです。 

これ、事実なら… 

小野小町も近寄ると… 

臭い!!! 

なのかもしれませんね。 

想像してみてください。 

あなたの愛する女性が年に1~2回しか髪を洗わない姿を… 

18キロほどある十二単を着た平安貴族の女性は、どうやって用をたしていたのでしょうね…

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昔の歌詠みねーちゃんについて書かれているが、こういうことは
日本だけではなく西欧においてもそうだったようだ。

日本の宮廷ではトイレがないために殿上から庭に小用を足したために
邸内はとてつもなく臭かったという。
また、西欧においてはどうだったのだろうかというと・・・小学校の音楽の
時間に音楽室にはクラシック
作曲家の絵が何枚も飾ってあるのを観たこと
があると思う。

あれは皆変な髪型していたでしょう?
それはカツラを被っているからです。理由は頭を洗う習慣がなかったから。
まあ、カツラ取っても髪はレゲエおじさんだったでしょうが(^_^;

また、フランスにおいても、宮殿や貴族の館では邸内の庭で大も小も
用を足した。あたり構わず。
それを隠すためにフワリと電灯傘のようなスカートがあったし、その
排泄物を踏まないためにハイヒールが地球上に登場した。


こればっかりは、大昔は万国どこも一緒という気がしやす(笑)。
どうにもばっちい。

それを考えると、中世以降、武士が政権を取ってからの日本は一気に
衛生面で飛躍的に向上していく。
江戸期などは江戸では上下水道も整備されていたし、戦国末期に
来日したカピタンが本国に書きのこしている。
「日本人は質素で着る物もみすぼらしいが、とても綺麗好きで我々の国では
考えられない衛生的な生活をしている」と。

西欧では古代ローマにおいては、水道や風呂も完備されていたのに、
西欧はいつから不衛生な垂れ流し文化になったのだろう。
そういえば、最近日本では「汚ギャル」っていなくなったのか?(^^;
女子高生のあの汚い文化は一体何だったのだろうとか思っていた。

ちなみに、パリでは今でもフランス人は犬の排泄物を始末する習慣はなく、
散歩でも知らんぷりです。パリでは市に犬の排泄物処理専門部門があり、
専用車と専用装置で常にパリ市内を掃除しています。

ま、日本の汚ギャルは、一過性の流行でよかったよ(笑


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落語禁止法 桂米助

2016年05月24日 | 文学・歴史・文化

落語禁止法 桂米助


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八百屋

2016年05月24日 | 文学・歴史・文化

立川梅春ビートたけし 落語「おふくろ&八百屋」



人情八百屋 立川談志



人情八百屋 ~ お言葉 立川談志


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