渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

武士が刀の鞘を地面に着けることについて

2017年07月20日 | 文学・歴史・文化



武士が刀の鐺(こじり)を地面あるいは床に着けることについて。

幕末の撮影用ポーズ写真をそのまま武家文化だと思い込んで
それを基に設え事をする愚の骨頂を地で行く連中のことなどは
どうでもいいの
だが、游雲会の会員が私に幕末資料写真として
何点かを図示
し、解説を送信してくれた。歴史研究者でもあり、
TV番組での
鑑定も担当する識者である人だ。

これがその方の手持ち資料。


実は私の資料はこれ。


その方の解説の趣旨は以下だ。

「『蘇る幕末』という本は朝日新聞社の出版で、オランダのライデン
博物館に保管されている幕末の日本を写した膨大な写真の一部
がまとめられております。
もう一つの本は『写された幕末』という本でビゲローという慶応年間
に横浜に在住していた写真師によって写されたものです。その後
アルバムは別の横浜居留の外国人から横浜市に寄付をされました。

オランダのライデン博物館の写真はヨーロッパの人々へ日本という
全く文化の異なる国について知らせるための写真で、ポーズをとった
物が多いです。
こちらは外国人に分かり易く、ことごとく刀が目立つ位置に持ってこら
れ、地面についているものばかりです。
外国人写真家の求めに応じたポーズです。
当時の写真技術ですから息を止めてぶれないようにしたでしょうし、
刀が腰に差されていては左右に揺れてぶれてしまうので下に着けた
がったのかも知れません。

一方、スナップの多いビゲローの写真では刀を地に着けて立てている
写真は一枚もありません。
最後のページに『江戸の残侠』という題名で博打打ちが文中では長脇差
とされる刀を抜き身で地面に突き立てている写真があるのみです。

複数の資料の比較で真実が見えてくると思います。」

実は私も版は違えど同じ資料が手元に昔からあり、この方とまったく
同意見で、ずっと以前から私の中では同様の所見が織り込み済みだった。
だから、珍妙な仮装珍劇団がおかしなことを作り上げて言い出した時も
相手にはしなかったし、つい数日前までこの日記に取り上げもしなかった。
馬鹿馬鹿し過ぎて話にならないからだ。
しかし、世の中にはみんみん蝉のように忖度なき人種(というか頭が回ら
ない回転の鈍すぎる種族)もいて、ネット上で私のことを無知だ何だと
書き連ねていい気になるのも出てくる始末なのである。
ホントにすべてスト
リッパーのように何もかも見せて曝さないと感知識別
どころか類推さえもできないのかね、チミ
たちバカチンは、という思いが
するのである。そのくせ、的外れな決めつけばかりを繰り返す。私は2ch
天心スレなど書いてないし、書くこと不能な期間についても私の書き込み
だとか決めつけてお門違いの人違いで人定して揶揄してるし、完璧に
おまいらアホやろ?と。思い込みの妄想族というのは始末悪い。
しかし、ほんとにとことん頭が宜しくないなぁ。


あまり笑わさないでくれ。


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刀の鞘のこじりを地面に着けるということ

2017年07月19日 | 文学・歴史・文化


この座っている写真の武士、おいらの親父にソックリ(笑)。
ソックリというか生き写し。どちらも死んでるけど(^^;
これは毛利御家中の一葉なりしや。

これはスタジオ撮影の撮影用だからちょと別物だけど、いくら
鐺(こじり)が着いた刀の外装であっても、床はともかく地面には
着けないほうがいいと私は思うよ。
私個人としては、刀装具を精査するに、イクサ用の太刀あるいは
半太刀拵の尻金具はそこで槍の石突のようにドン!と敵に対して
やることも想定
した形式の金具だと思う。
だからといって、不必要に地面につっかえ棒のようにするために
あの金具があったわけではないだろう。
武具なのだから、「保持」はあくまで「保持」としてあって、それに
手を乗っけてつっかえ棒にする「作法」なるものがあったとする
捏造ぶりを言うような者が仮に世の中にいるとしたら、呆れて物が
言えない。

というか、今まで沈黙していたのは、あまりに馬鹿馬鹿しいからだ。
「腕組みする作法や教え」とか「洋式椅子に腰かけた時の脚の
組み方」とか「テーブルで立て肘の仕方」とか、はたまた「突っ込み
箸のやり方」とか「ねぶり箸の技法と伝統」とか、そういった物まで
今後飛び出しそうだ。我が流には残っていますとか風呂屋で思い
出したりして。

馬鹿馬鹿しくて話にならないのだが、真顔で嘘を100回言えば
それが真実であるかのように伝播する人の世というのは実に
危険なもので、やはり馬鹿馬鹿しいと一笑に伏すだけでは真面目な
話、駄目
なのだろう。

普段から何から何まで論説に全面同意ということではないが(自分とは
別人なのだから当たり前)、この鞘尻の床着け問題については、
修心流の町井先生のおっしゃりたい
趣旨に私は全面賛同する。
⇒ こちら

ふつーに考えて刀傷むから、尻を床に着けたりそこに手を乗っける
のはやめたほうがいいんじゃない?
「立て肘」じゃねーんだから。
ましてドヤ顔、イタ過ぎる。

鍔ガチャガチャ緩みっぱなし、刃こぼれしまくりの模擬刀、道場に
入る時に礼もなしでガムくちゃくちゃ食いながら入ってくるのが宗家
で、そういう埒外な連中がやってることは、歴史性や日本の伝統など
とは無縁なただのコスプレパフォーマンスなのだから、万が一にも
そういうトンチキはこの日本には存在しないだろうから、事細かに
目くじら立てることも無いとは思うが、それでもよくないことはよくない。
だから言う。
道場に入る前には一礼、先生にも互いにも礼、終りの礼、刀へ礼、
こういうのは当たり前のことであり、武術という伝統武芸を行なう者
が励行するのは日本人としてごく適切で常識的な事である。
なので、武具保護の観点からも、刀の尻は床や屋外地面には特殊
なケースを除いて極力接地させないほうが良いと考える。
刀を跨いだり、ガムくちゃくちゃ食いながら入室とか、鍔ガタガタとかは
武人として以前に論外。そんなのが世の中にいるとしたら話にならん。
伝統武芸の世界以外の事だろう。ゆえに不知だし、私がいる世界
とは関係がない。


「演武の時に誰々さんは床に鐺をガンガン当てているじゃないか」とか
その手の類の言を弄して反論したがっているのがいるようだが、これ
また話にならない。というか、幼稚園児か?
識別、弁別能力のあまりの拙劣さに、脳の健全な機能を疑う。
もうね、こんなんばっかで、程度低すぎて仮装珍劇団周辺はオハナシ
にならんのす。


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すごいぞ!amazon!

2017年07月17日 | 文学・歴史・文化



amazon先生でこれを買った。
書籍代1円。送料実費257円(笑)。
なんというか・・・。


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日本刀の刀身における光学迷彩効果

2017年07月15日 | 文学・歴史・文化

日本刀が美しい理由

プレデターかっ!(≧▽≦)



刀は確かに風景に溶ける。これは常識的な現象として刀を扱う者は
知悉している。
ただし、そうした効能も物理的にはたまたま生じている、というだけで、
それを主目的として日本刀が造形されているのではない。
そこのところをどうきちんと読むかが大切かと。
テレビ番組には企画の台本があり、それにすべてドボンと乗っかると
視聴者は墓穴掘りますよ、と。
出演者の東大教授も町井先生も、果たして自分の真意がきちんと
番組内で表現されて放送されたかどうかというのは、ご本人たちに
実情を伺わないと分かりえない部分というものが必ずある。
なので、テレビの番組はあくまで企画物として視聴して楽しむために
あるのだと思ったほうが無難だろう。

真面目な話をすると、刀身は光学迷彩のように「景色と一体化
して
見えなくなる事もある」というだけで、それを主目的として背景を
反射
させるために研がれてきた訳ではない。

実際のところは、現代のような拭い(ぬぐい)をしっかり差し込んで
光らせた
研ぎは桃山期に完成をみており、それまでの実用刀剣
時代は
いわゆる中砥石までの白研ぎが主だった。(ポリッシュである
研磨をしない切れ味追求の研ぎのみ)

さらに、美術品として高度な研磨技術を駆使した現代様式の金肌
拭いでテカテカに黒光りする研ぎは、明治以降の本阿弥の
発明だ。
戦国期や江戸初期の刀身は皆白かった。白刃という言葉
がある
ように。

徳川実記には拭いは光って敵に悟られるので宜しくないとの旨が
記されて
あり、現代に通じる「見るための光る研ぎ」が必ずしも歓迎
された
訳ではないことを物語る。

それでも、鎌倉期から刀剣の太刀は観賞することも行なわれて
きたのは歴史の事実であり、鑑賞するということは、ただのこすり
線しか出ていない研ぎでは成し得ないので、それなりに地肌と刃
の素顔が見える研ぎの技術が「切る事」とは別に発達したのだろう。
これはやはり、北山文化のあたりで世界で唯一京都に仕上げ砥石
の莫大な量が埋蔵されていることが発見されたことが大きいように
思える。
京都の仕上げ砥石なくば、現代に繋がる日本刀の研磨の技術は
成立しなかった。
日本刀のみがなぜ世界で稀有な刀剣、美術品としても後世まで
残っていられる存在であるかというと、日本固有の砥石の存在と
それを駆使した研磨技術の発達という厳然たる真実の歴史が
あったからである。
韓国や中国にはそうした歴史が不存在であるので、韓国などが
いくら刀が自国の起源だと嘘を並べても、事実として一切韓国には
和刀のような反りのある刀剣は民族刀として残存していない。と
いうよりも、そもそも朝鮮刀は直刀であり、現代において、韓国人
が袴をはいて日本刀(に酷似した刀剣)をクルクル回しているのは、
完璧に日本文化からの盗用である。
しかし、まあ、日本でも、日本人なのかどうかは不明だが、よそ様
の技や歴史を盗んできて自分の流派に元からあったと大嘘をつく
捏造マンがネット時代の今跋扈しているくらいだから、韓国人の
ことをどうのとはいえない。(自称古流武術の仮装珍劇団はやり口が
韓国人の捏造
剣道や捏造剣技を行なう連中と全く同一なのだが、
彼らは本当
に日本人なのだろうか?)

プレデターに話を戻すと、映画『プレデター』でのヘリでジャングルに
向かうシーンは、実に多くの映画でそのヘリシーンが使い回しされ
ている。それらは盗用ではなくきちんと正式にロイヤリティを支払って
映像を使っていることだろう。

ただ、この映画『プレデター』はあくまで「オハナシ」であるのは当然
だが、撮影上もいろいろな齟齬もある。サソリを踏みつぶして足を
上げたら、サソリが前後ろ逆になっていたりとか(笑)。
それに、「大佐」が戦闘部隊の指揮官で現場に赴いて自ら戦闘を
率先して行うなんてことは、現実世界ではまずない。

「大佐」シュワちゃん。現実世界ではジャングルで無帽は命取りだが、
これは撮影用であり、主役の顔をよく見せる為にこうしている。


(使っているのは完全に撮影用のプロップガン。実在の銃に似せて
いる。銃に少しだけ詳しい者ならば、どこがどうで何がどう違うか
瞬時に判る)

しかも、シュワちゃんは、最終的には肉弾戦で強敵の宇宙人の
プレデターに勝利している。いかにもアメリカ式の強引な力技。
さらに、核爆発(らしき爆発)から走って逃げて助かっている。
日本とヒロシマとナガサキを馬鹿にしているのか?アメリカは?
とか思える作りになっている。(他にもシュワちゃん映画で似た
ようなラストがあったが)

何がどうであるのかを「見抜く」ことは大切だ。


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英文表記と和製英語表記

2017年07月14日 | 文学・歴史・文化

ロナルド・レーガン大統領は当初日本のマスコミでも「リーガン」という
表記も併用されて統一されていなかった。いつの間にかレーガンと
記すことが一般化していた。
MacDonald's は英語発音だと「マックダナーズ」になるが、それでは
日本人には発音しづらいということで「マクドナルド」と決定された。
米国で「マクドナルド」と言っても一切通じない。マックは通じるが、
大阪の「マクド」だとなおさら通じない。マクドというのはまるでオイド
みたいだ。


こうした通じない和製英語は沢山ある。
ナイフでいえば、ボウイナイフというものは英語ではブーイナイフと
発音するからボウイと言っても通じない。ではデビット・ボウイはどう
なるという気もするが、ブーイはブーイなのでブーイと言わなければ
通用しない。
アルコールはアルクホールだし、シンナーはスィンナーだ。
こういうことは
外国語はその国の原音を発することが大原則なので、
日本人が
日本的な手前勝手な発音で英語を英語圏の人に言うと
いうのは、
実に尊大で無礼で横柄を極める態度であるのだ。
(こういう意識はたぶん武術馬鹿の連中たちは自覚できないことだろう。
自分に刃が向かないのが武術馬鹿の典型で、無礼千万の極みを
行ってる。ネットで匿名の陰に隠れて揶揄中傷を書き連ねることに
生き甲斐を感じているみんみん蝉などはある意味天スカよりも下の
下であり、
スカよりスカとはこれ如何に。スカとはアスカのスカであり
古代朝鮮語
で村を意味するので、村意識のお仲間はお仲間同士で
仮装珍劇団にとてもよく似ているということか)




このナイフには「G・SAKAI」と刻印されている。
アルファベットの英文表記であるならば、G.SAKAIと刻印する
のが本来の英語の表記であろう。
「.」ではなく「・」を用いるのは日本語独特の表記法で、片仮名で
外来語や英文表記をする場合に用いられる。
これは日本語の場合ならばたとえ外来語や英語文でも「日本語で」
表記しているのであるから「.」でなく「・」であっても問題はないだろう。
たとえば、「ロナルド・ウィルソン・レーガン」のように。
だが、英文表記の場合は、"Ronald Wilson Reagan" であり、
「・」などは付かない。固有名詞や人名にドットやカンマ
を付ける
場合は、Reagan,R.W. のように記載する。

英文アルファベットでの表記の場合は、英文の文法に沿った表記
方法をすることが、その言語を使用する国と国民への礼儀では

なかろうかと私は思うのである。

このサカイ製のナイフの打刻が「.」ではなく「・」となっている意味に
ついては、よく分からない。
ただ、文化人類学的には、いただけない宜しくない日本人の一側面
の現出であることだけは確かなように思える。

このサカイ製キャンプスタッグは、シースはどうかというと・・・




/(スラッシュ)になっており、かなりテケトン(´0`)


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三原城の夜 ~三原城跡歴史公園~

2017年07月10日 | 文学・歴史・文化



三原城の本丸城址公園の夜の風景。正式名「三原城跡歴史公園」。
向こうに見える灯りはJR三原駅だ。三原城は海の上に築城されていて
三原には土地がないゆえ、三原駅は三原城の真上に敷設された。
この広場のような公園は、江戸時代の山陽道=西国街道を復元した
ものである。

真砂を打ち固めた地面となっており、復元は極めて正しいだろう。
過日、ここで休んでいたら、「公園なのに地面を土にしたのはいけん
じゃろう」と言う訪問者の声が聴こえたが、ただの土地面ではなく、
かなり打ち固めた路面であり、また、江戸期の様子もよく復元され
ていると私は感じる。ここを舗装にしてしまっては復元公園の意味
がない。

復元された後東門石垣側から西を見る。


緑線部分が今年の三原城築城450周年記念事業で復元整備
された本丸城址公園である。


赤線部分が復元公園。


復元された後東門。西国街道の本丸前にある高低差のある道
に設置された門だが、ここを通るには大手門と西惣門で検問を
受けてから城下に入城せねばならず、素通り御免ではなかった。
日常平時も、武家しかここは通らなかったことだろう。


復元図(作図私)


ふと気づいた。
今の時代でこそ、駅を降りて、広島大附属校や桜山のほうに道がある
ので普通になに不自由なく行けるが、江戸時代には東側の大手門、
もしくは西側の西之築出(にしのつきだし)にある酉ノ御門あるいは作事
西門を通るしか城内に入ることはできなかった。
我が家は酉ノ御門内にあったが、西町や東町の方面に行く場合、築出
からは通路は二方向あるとはいえ、通路は現在のように道がどこにでも
通じて
いるのではなく二か所限定なので、非常に不便だったのではなか
ろうか。

もっとも、城下町というものは通行の利便性を捨象して、敵軍が攻めて
来た際にシャットアウトできる町割りになっている軍事都市であるので、
濠がめぐらされ、道はカクカクッと何か所もクランク状にされており、橋を
封鎖すれば一切前進できないような設計になっているのが常である。
城下町とは、現在のような開かれた開放都市ではなく、閉鎖都市でも
あったということが、江戸期の地図を手に町を歩けば見えてくる。
城下町は、江戸もそうだが、町自体が要塞であるのだ。



私は1972年に横浜から埼玉県の大宮市に引っ越したことがある。
大宮は中山道(現国道17号)で江戸から京に向かう途中の武蔵国
一宮がある大きな
宿場町・門前町だった。私が引っ越した当時で、
大宮市の人口は30万人以上いた。

現在はさいたま市となり県庁所在地が浦和から移ってきた。
だが、江戸期から武蔵国一の宿場町・門前町として栄えていたという
そんな大宮も、天保14年(1843年)時点で人口は1,508人という
記録が残っている。
大宮は明治2年に大宮県ができた(県庁は東京府の馬喰町にあった)
のだが、後に浦和県と合併して埼玉県になった。
大宮に人口が1,508人しかいなかった同じ江戸時代、備後国三原
城下の人口
は武士と町人合わせて1万人である。
広島藩の維新時の武士
の人口は広島と三原合わせて約二万数千人。
城下町には武士人口
と町人人口が半々程度だった。これは世界一
の大都市だった江戸においても同様の比率であり、全国の城下が
同じような人口比率だった。武士と町人がほぼ半数というのが城下町
の特徴だ。

一方、宿場町などはどんなに栄えていても、江戸期には武蔵国一の
宿場である大宮でも人口が1,500人である。

どれほど「城下町」というものが、都市で都会であったかということだ。
城下町というものは武士だらけであると同時に、商人と工人たる職人
が集住した産業都市であったのだ。

これは中央・地方の隔てなく、城下というものが現代に繋がる人間が
集住した都市部
であったということである。農村部とは人の住む形態
が大きく異なっており、このことは意図的に江戸期開始で平城が築か
れて城下町を人工的に作って人を集住させた時から全国的に開始さ
れた。
それの先鞭をつけて初めて戦国末期にそうした計画都市建設を実行
したのは織田信長だった。
信長の安土城は半山城だが、信長は城下町という概念と実質的な
市政を執り、城下の住人には課税免除と自由通商御免(楽市楽座)と
いう特権を与え町に人が住みやすいようにして経済交易エリアを国内
で初めて意図的に作って町を活性化させたのが信長だったのだ。
それまでの市が新たに建設された計画都市部において日常的に設置
されるような仕組みを信長が考案した。
織田信長は、ただのウツケでも暴君でもなかった。
味方に首を掻かれて突然没したが、織田信長の功績は、現代にまで
続くその後の日本の都市計画の在り方を決定したといっていいだろう。
叛旗を翻して信長を討った明智光秀は国家百年の計たる国策に何の
貢献もしていない。
光秀はただ自分が天下を盗りたかっただけなのか。
天下取りとは、それなりの器量のある者しかできない。
ただ戦闘が強いだけの粗野な武装暴力集団である武士という立場
だけしか持ち合わせておらず、国を統治する政治的手腕と人的器量が
無い者は、所詮はどんなに俺様大将でも戦時の使い走り=軍事要員
の駒でしかない、ということだ。
だが、得てして、武のみしか得意でない者は、『猿の惑星』のゴリラ
のようなもので、戦国期から脳味噌筋肉で人の暮らしや国家を治める
能力などは無い。そういう人間はいくら天下の武士だと威張っていても、
猿の惑星のゴリラでしかないのだから、戦闘にしか使えないのだ。
統治し治政を成すのは知性ある人間たちであり、武力を占有する層
ではない。
武にのみ専らとなるとゴリラになるのは昔からの定番だったようで、
江戸期には武から吏に変化させる元和偃武によって、武士たちを
ゴリラから知性ある人間に変化させようと学問の学習も必須とした。
だが、武士は血脈であるので、そうそう知的で高度な知性を持った
子孫が生まれるとは限らない。身分固定の江戸期には、国を治める
根本的な部分で無理が原初から生じていたといえる。現に有益な人材
登用は幕末に多く開始されている。それが本当の姿、国家安寧の健全
な姿だろう。血脈的独占から血脈主義を超える全方位人材登用でなくば
国を治めることなどはできない。
結局は、人類史においては、主権在民の民権第一主義的統治システム
が人類の「国」の最終統治形態であることだろう。
さらにそれは進んで、未来においては、「地球連邦政府」となり、やがて
は地球が一つの共同体となり、現在の概念でいうところの「国家」は
完全に消滅するだろう。
何を馬鹿な絵空事をと思うなかれ。信長が城下町構想を打ち出した時は、
当時の人々はぶったまげて想像もイメージ化もできなかったに違いない。
だが、信長の知見はけだし正しかった。

この日本国内の人口配置の現象は信長が安土城と城下を作り上げた
時から始まり、それは昭和時代まで続いた。

大正時代から昭和時代にかけて大都市部に「ベッドタウン化」が
現れ、戦後世界になって都市部集住が崩れて通勤圏住宅街が発生
するまで江戸期の人口配置の現象は継続していた。
現在の県庁所在地のほとんどが旧幕藩体制時代の城下町であった
のだが、埼玉県内の城下は北の忍藩、西部の河越藩しか城下は
存在せず、中山道沿いの要衝としては浦和か大宮という地点しか
なかった。浦和も大宮もどちらも幕府領から維新後に県となったが、
その県庁のあった大宮の江戸末期の人口が1,508人である。
どれほどのド田舎であったか窺い知れよう。
現在のさいたま市の人口は1,289,054人となっている。横浜市なみ
になった。現在、三原の人口は10万人を超えたが、城周辺の人口は
江戸期とほとんど変化はない(笑)。
ただ、江戸期には三原は1万の人が住み、大宮は1,500人の人しか
住んでいなかったのである。
時空において隔絶の感、これあり(笑 


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賤民階級と葵の紋

2017年07月08日 | 文学・歴史・文化

私のこのウェブ日記にトラックバックされている方のブログの
過去記事に、
浅草弾左右衛門と葵の紋」という記事がある。

なるほどそういうことだったかと、得心が行くこと多し。


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不明の歴史事実を断定する行政 ~鳥取県倉吉市~

2017年07月07日 | 文学・歴史・文化



こういうまだ学術的にも定まっていない事を断定的に行政が公の
場で断言するという非常識は厳格にに指弾されるべきだろう。
県議会でも「それは本当なのか」と問題になったというのに、市は
断定公言
を断行。何考えてるのか。

何でもおらがとこ起源説をなりふり構わず主張していい気になる
のは朝鮮半島だけのお家芸ではなかった。
日本人も似たような体質だ。
元々がそういうことが好きなのかもしれない。

元ソースはこちら ⇒ 鳥取県倉吉市の行政サイト「資料」から

意識の程度が低すぎて話にならない。
邪馬台国おらが村主張やカッパ伝説と同じレベルのことを行政が
真顔でやっている。
いつから伯耆国が日本刀発祥の地と学術的に日本の歴史の中で
比定されたのだろうか。
鳥取県倉吉市は、俺様ルールでアカデミックな事象を馬鹿にする
のも大概にしていただきたい。
これでは「邪馬台国は〇〇にあったことが確定」と言っているのと
同じだ。


村おこしならば、もっと別な事柄を探してくれ。
地方のイナカに行けば行くほど、こういうような俺様自慢のおらが
とこ何でも起源説が全国にある。あちこちにある。広島県三原にも
歴史的な史跡の説明看板など(ライオンズクラブなどの私設)にその
意識がプンプン噴出していて、文字通りの噴飯ものだりする。
毎度田舎者のそのトンチキぶりの自己中心意識にはうんざりするの
だが、行政が公式見解で日本刀の発祥地は伯耆国であると断定する
という、非学術的のみならず、これまでの先人たちの学術研究を一蹴
するが如き独断的な態度での学術的知見への冒涜は暴挙と言わざる
を得ず、さすがに看過することはできない。
鳥取県倉吉市は、即時、自己見識を再検証すべきである。

なお、伯耆国安綱に関しては、安綱の鍛冶場の場所は完全に不明で
あるのに、やったもん勝ちで、安綱造刀の碑の建立設置を鳥取県の
岸本町が断行したらしい。
ひどい所業にも程があるのだが、奥出雲町も負けてはいない。
こうだ。


いつから永代たたらが風土記の時代から受け継がれたのか。
嘘を嘘で固めるにも程がある。
しかもやっていることはたたら製鉄ではなくたたら吹きではないか。
本当にふざけている。
というか、世の中の人々を舐めきっている。
この岸本町と奥出雲町のほうは完全に捏造である。
「捏造と証明された訳ではないから捏造であるとは言えない」とか
オツムが弱いくせに他人の事は揶揄しまくる蝉あたりが直接物言い
してくる度胸も無いくせに裏ネットだけで匿名の陰に隠れてみんみん
騒ぎそうだが、さんざん騒いでコテンキューの蝉が何を言おうが
捏造は捏造である。
特に奥出雲町のはひどい。行政サイドがこういうことをやるという
のは常軌を逸している。

私設では広島県廿日市在住の元尾道市民がひどいことをウェブ
サイトで公言している。
己の先祖は刀鍛冶三原正家であり、正家は天平年間=奈良時代
の誉れ高き刀工で、天皇の覚えめでたく、尾道の地に下り、そして
連綿と家系が我が家に続いたもので、我が家の先祖は尾道の町を
肩で風切って歩いていたのだ、とするものである。それは史実だ、と。
そして、日本刀発生の地の石碑を私的に勝手に尾道市内に建てて
しまった。また、三原正家は奈良時代の先祖とする石碑も建立した。
行政である尾道市はさすがに冷静で、「学術的には一切証明は
されていません」と明言している。偉いぞ、尾道市!!
その正家の子孫と称する人の自費出版の書籍を何冊か図書館で
私は読んだ。まあ、なんというか、テニヲハもまともではない作文
だったが、終始一貫我が家自慢で徹頭徹尾貫かれているのには
感心した。そういうことできるんだぁ、と。
よほど家系に何か虐げられた不幸でもあったのだろうか。何か今の
恵まれない環境への憤怒をぶちまけるかのような回顧的自慢話が
延々と続くというまったく学術的でも何でもない書籍だった。
まあ、その手の傾向は田舎には多いが、三原正家なるサイトも記述者
の度が過ぎている。
(画像等はすべて宮内庁?からの許可を得て著作権により転載禁止
とか、訳の分からぬことを表示している)
東北と関西に二人いるマロの親戚だろうか?
遠祖の刀鍛冶から江戸期に金工師に転じた尾道其(五)阿弥の子孫
であることは確かなようだ。
江戸期に広島藩の藩庁が其阿弥の家に「家の由緒書きを提出する
ように」と命じた。
すると、当時の当主である安某は「三代前より先は分かりません」と
正直に申し述べている。
それがいつの間にか奈良時代まで判明していて、尾道の名家であり
江戸期には尾道の町を風切って歩いていたと自家自慢をするのである。
そうなのか?
尾道を統治した藩庁である三原城の侍の前でも風切って歩いたのか?
尾道代官所の侍の前でもそっくり返って肩で風切っていたのか?
つまらん威張り散らしなどをネットでやること自体が恥ずかしいこと
である。

どうして自己自慢愛好者は、捏造ごとを常とするのだろう。
そして、共通の特徴として先祖系統をすごく古い時代に持って行き
たがる。
マロは正五位を賜った先祖が云々とかいろいろそういうの。
古い時代の人間が自分の関係者にいるということがまるで権威で
あるかと勘違いしているのだろうか。しかも嘘ついてだし。
本当は三代前より先は不明であるのに、家系や流派の系譜を捏造
して古い時代に持って行こうとする。
そのうち、「当家はアマテラスオオミカミの末裔である。当家にはそう
伝わっており、これは史実だ」とか言い出しそうだ。
そういえば、仮装珍劇団も同じような手口で系譜を設えていた。
おかしかったのが、サイトを見るたびに、どんどん流祖が古くなって
行っていた。
いっそこのと、聖徳太子とかも飛び越えて、ヤマトタケルあたりを
流祖としたらハクがつくし、仮装にも勢いがつくのではなかろうか。

戦後の法律では官位は消滅したが、戦前までは普通に本当に
官位を下賜されていた人たちは沢山いるんだよね。つまり本物が。
キテレツのマロについては、よく戦後の現代に官位があるとか、
戦後昭和40年代生まれなのに陸軍士官学校卒業であるとか、
そういう頭爆裂しているような大嘘がつけるなと(笑)。
そういうのが英信流宗家(ニセ)を名乗っているのだけど、その手の
自称の捏造宗家というのは結構大勢いる。
大抵は系譜も大嘘だったりする。
でもって、決定的なことが、やっている本人がしょぼすぎるチャンバラ
を披露していたりする。それがせめて瞠目するくらいに凄い技前
だとよかったのに、大抵は「何?これ」と素人さんたちが見てもシド
すぎる全く1億%武術的ではないミョウチクリンな動きをしていたり
する。
まあ、きちんとした本物の古流武術を習ったことがないでっち上げ
で固めた嘘マンなのだから当然の帰結なのだが、とにかくしょぼくて
ひどい。絶対に受けられない動きであるのに自流に伝わると称して
ネットで嘘宣伝をする。仮に私が一太刀振り下ろしたら、頭蓋まで
叩き切ってしまうようなしょぼい受けを伝統としょうして宣伝。
自流のことだからそれはどうでもよいのだけど、あのようなことを
教えたら、実際の斬り合いは現代ではないとはいえ、ひどきにすぎる。
剣道で「相手の撃ち込みを防ぐには呪文を唱えるのだ」とかでも
教えるのに等しいくらい実効性のないことを「武術」としてやっている。
この手の類が結構というかかなり多いので、自称古流武術界という
のはどうにも出鱈目の詐欺師のような連中ばかりなのが珍妙で
笑えるのだ。

まあ、さしあたって、嘘はいけない、嘘は。嘘ついて人を騙して
人集めして金集めするというのは、それは良い事ではない。



 


 

 


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ウィンチェスター・ライフル

2017年07月06日 | 文学・歴史・文化

家内に「ウィンチェスターって知ってる?」と尋ねたら、「何?お城?」
と言われた。
そりゃ、確かにそれはお城だけどさあ(´-`)

ウィンチェスターとはアメリカ合衆国の銃器メーカーで、各社を買収
して巨大メーカーに膨れ上がった会社だ。
弾薬製造でも高シェアを誇るが、特に西部開拓時代のレバー・アク
ション・ライフルが有名だ。
これは1860年製のヘンリー社を買収したことが大きい。ヘンリー・
ライフルのレバー・アクション・システムは、改良を加えられ、1873年
に不朽の名銃ウィンチェスターM1873となる。
その後M1876で強力実包用に改良され、さらにジョン.F.ブローニング
によってM1886とM1892が開発され、最終バージョンとしてM1894
が発売されて軍用銃として各国に売り込みがかけられたが、安全性等
多くの理由から成功しなかった。(唯一ロシアが弾薬を変更して採用)

西部劇、というか西部開拓時代末期(1860~1890年)によく登場
するのはウィンチェスターのM73モデルだろう。
だが、多くは、M92を1880年代の物語に登場させてしまっている
というハリウッド特有の時代考証のいい加減さがある。


ジョン・ウェインが西部劇で使用するウィンチェスターはほぼM92。これは
第二次世界大戦の戦争映画の空戦にファントムが出てくるようなもの。



ウィンチェスターの兄弟ライフル(西部開拓時代)


そして、ウィンチェスター・ライフルと並んで「西部を征服した銃」とまで呼ばれて
圧倒的な生産量とシェアを誇ったのが、コルト社のシングル・アクション・アーミー
だ。こちらも、ウィンチェスターと同じく1873年に発売が開始された。
なぜコルトSAAが爆発的に売れたかというと、ウィンチェスターM73と同じ
.44-40という弾薬を使用するシックス・シューターというモデルがあったからだ。
コルトSAAというと.45ロングコルト弾のモデルが有名でポピュラーだったが、
ライフル銃と同じ.44口径40グレイン(2.59グラム)の火薬の弾薬が使用できる
拳銃はそれはもう西部開拓者にとっては願ったりかなったりだったのである。
ヘンリーライフルは連発式ライフルとして非常に画期的であり、そのヘンリーを
買収したウィンチェスターのM1866イエローボーイは同じ.44リムファイア弾
を使用する人気ライフルだった。だが、M1866は7万丁の販売実績であるの
だが、.44リムファイアより強力で高速弾であるセンターファイア・カートリッヂ
.44-40弾を使用するM73に至っては72万丁も売れている。もう西部に行く
者は全員がウィンチェスターM73を持つのが定番、といったほどにM73ライ
フルと使用弾薬の.44-40は爆発的に売れていたのだった。

当然にして、拳銃のコルトSAAは実質的な人気も、ウィンチェスターM73弾が
使用できる.44口径にこそあったという現象が発生している。
.45口径の
弾薬がコルトSAAの代表選手だが、1873年にウィンチェスター・
リピーター
アームズ社が初めて発表したセンターファイア弾の.44-40弾は、
発売後すぐに
全米でトップ人気の弾薬となっている。
拳銃とライフルに共用できるこの弾薬があったからこそ、コルトSAAもウィン
チェスターM73も "The gun that won the West." =邦訳意訳で「西部
を征服した銃」
と呼称されるようになったのだ。
つまり、SAAにおいても、売れ筋は代表選手のキャリバー.45ではなく、.44
口径だったのである。
レミントンが.44口径の強力バージョンである.44スペシャルを更にチューン
ナップした.44マグナム弾を販売したが、最初はエルマー・キースが個人的に
ハンドロードでチューンナップした弾薬が.44マグナムだった。
なぜ.45ロングコルト弾ではなく.44スペシャル弾を選択したかというと、.44
スペシャルのほうが.45ロングコルト弾よりもカートリッヂが頑丈であり、かつ、
シリンダーが小口径のため肉厚となりこれも堅牢さが確保できたためだった。

かくして、アメリカ人は.45弾と「45」という数字に一種の聖域的な感覚を持って
いるが、歴史の実像としては、西部開拓時代に実際に圧倒的に普及していた
のは.44-40弾であり、その後ハイパワーな一発倒しの本来ならば米国人が
.45口径に抱くようなイメージを真実体現していたのは.44マグナムだったので
ある。.45口径リボルバー弾が本当の主役にはなっていないのだ。リボルバー
弾丸での主役は.44-40(フォーティーフォー・フォーティー)であり、それの強装
弾の.44マグナムだ。警察弾ならば.38スペシャルであり、それの強装弾の.357
マグナム(.38と全く同口径で安全のためケースが長い)である。
.45口径が実質的にシェアを持つのは、半自動拳銃であるコルトガバメントに
使用された.45ACP弾が唯一メジャーでポピュラーとなった弾薬といえる。

西部を征服した弾丸は.45口径ではなかった。
この事実は結構深いところではショッキングだが、もし、仮に私が西部開拓時代
の合衆国に生まれていて、西部に生きる男であったとしたら、弾丸は迷わずに
.44-40を選択する。理由は他の西部開拓時代の人たちと同じく、拳銃弾と
ライフル弾が共用できるからだ。このことの実効性はとてつもなく大きい。
なお、.44口径と.45口径では、銃身の口径はたった0.01インチしか違わない
が、弾薬は0.01違っただけで、.44口径の銃のシリンダーにはまったく.45口径
弾は入らない。だが、.45口径用銃に.44口径弾は装填できてしまうので、プライ
マーのセンターを叩ければ撃発は可能なの
ではなかろうか。シリンダー内でカート
がぐらぐら揺れて危険だが。ブレット=弾頭のセンターが銃膣の中心線と合致
せず、銃身フレーム基部のフォーシングコーンを横削りしながら弾頭が発射
されることになるので、極めて危険だ。暴発に近い現象になることだろう。


コルト.45SAAは西部を征服した銃=ピース・メーカーとはよくいうが、実は
.44-40弾を使用する
フロンティア・シックス・シューターのほうが実体として
は普及していたという
驚愕の事実(苦笑
コルトは専用弾として.45ロングコルト(略称LC)をSAAと同時発売したが、
結局はウィンチェスター弾.44-40のほうがシェアが強すぎたのだろう。
ということは、それからあることが類推できる。
それは、SAAまずありきではなく、ウィンチェスターM73ライフルが爆発的
人気があったということだ。72万丁販売実績は伊達ではない。
西部劇や西部開拓時代というと、どうしても腰に吊るした拳銃のイメージが
先行するが、実はライフルこそが狩猟や自衛のためにも必要不可欠な大
西部の
道具だったのだろう。さもありなん、という感じがする。
拳銃よりもライフル。これも本当のワイルドウエスト、西部開拓の真の姿
だったのではなかろうか。
なんだか「刀が合戦の主力武器」と大きな勘違いが今でも広くなされている
日本刀の姿にも重なる。日本の歴史の中で腰の刀が戦闘に広く使われた
のは幕末の京都でのごく一時期のごく限定的な場所においてのみであり、
合戦の主要武器は薙刀、槍、弓、鉄砲だった。そして、実は最も多く使わ
れて広まっていた最大の殺戮武器は石つぶてだったのである。
真実の歴史というものは、普段思い込んでいることとはかなりかけ離れた
実像であることが結構あるものだ。

コルトSAA




 


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山本八重のスペンサー・カービン銃

2017年07月05日 | 文学・歴史・文化



大河ドラマの『八重の桜』は江戸期までの話はとても
面白ろかったのでよく観ていた。
明治以降はちょっと・・・(^^;

中でも、やはり、スペンサー・カービン銃を撃つ八重役の
綾瀬はるかさんが良かった。

ネット百科によると以下だ。

日本のスペンサー銃

南北戦争後、アメリカで余剰となったスペンサー銃、スペンサー騎兵銃が、
幕末の日本に輸入された。当時の日本では英語の「スペンサー・カービン
よりも、蘭語読みの「スペンセル・カーバイン」と呼称される方が多い。総督
府の発注で慶応4年(1868年)に大村益次郎が横浜で入手した際の価格
は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナ
イドル銃の価格(一挺9ドル30セント)に比べると四倍近くも高価であった。
幕府歩兵隊(後の大鳥圭介配下含む)と主に佐賀藩・黒羽藩が購入して
装備し、戊辰戦争で使用したが、高価さに加えて専用弾薬の入手難易度
が高い(内製化されておらず、全て輸入に頼っていた)ため、弾薬補給の
観点から他の輸入銃に比べて数は多くはない。この他に、郡山藩の凌雲
隊(同藩の佐幕派から成る諸隊の一つ)も装備していたとみられ、少数と
はいえ討幕・佐幕双方で使用していたといわれる。
会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー騎兵銃を購入し、会津に居た
妹の八重に送った。彼女が戊辰戦争の会津若松城籠城戦で城に入り、
この銃で奮戦したエピソードが知られている。『八重の桜』で八重を演じた
綾瀬はるかは、戦闘のシーンで、実物と同じおよそ5キログラムあるこの
銃のステージガンを抱えて走り回る必要上、腕立て伏せをして腕力を鍛え
撮影に臨んだという。

綾瀬さん、連射操作はめちゃくちゃ上手かった。
ただの女優さん
ではない。
反動の表現も甘いとはいえ、どうにか表現する演技を
している。
『ホワイトアウト』での松嶋奈々子などは、AK47をフル
オートで撃つシーンで、光線銃のような無反動で撃って
おり、絶対に地球が逆転してもあり得ないことを平気で
やっていた。
比較はよくないが、松嶋と綾瀬では、役者としての魂の
在り方がまるで異なる。
当然、綾瀬さんのほうが本当の俳優として役に肉迫して
我が物としている。

八重の桜 (スペンサー銃の連射シーン10:22~)

実銃スペンサー・カービンの射撃
Spencer Carbine


そういえば、今週、眼科の待合室でこんな本を見つけた。


お~。と思ってぱらぱらとめくると、こんなページが。



いや、確かにウィンチェスターで合ってはいるんですけどね(^^;
元々はスペンサー社の銃で、フォーガティ・ライフル社に売却後、
ウィンチェスター社が会社ごと買い取ったのでウィンチェスター
が製造販売を続けたけど、元々はスペンサー社の銃であるので
名称も通称もスペンサー・ライフルと呼ぶのが普通なのよね。
なぜウィンチェスター連発銃とこの書籍で呼ぶのか、意味と意図
がよく
分からない。
よもや、ウィンチェスターでは「西部を征服した銃」とも米国で
呼称された(原文は「西部に勝った銃」)M1873ライフルが
有名でウィンチェスターの代名詞なので、それで安直に連発
ライフルといえばウィンチェスターとかのあたりでウィンチェスター
を持ち出したのではないだろうな。
というか、そもそも八重のスペンサーライフルは、ウィンチェスター
時代の生産ロットの個体なのか?スペンサー時代やフォーガティ
ライフル時代の生産ロットではなく?裏を取ったのか?
な~んか、テケトン大魔王のような文章タッチの風味がぷんぷん
するんだよね、この本。

いろいろ全般を通読すると、かなり思い込みの強い作者であり、
同時に権威主義的なことが好きな人間であることが読み取れた。
洗礼を受けたクリスチャンであり、先祖は武士であるから八重と
も近しいのだ、というトンデモ斜め方向のことを当たり前のように
書いていた(^^;
まあ、キリスト教の中のセクトが八重のセクトとごく近しい珍しい
少数派(組合派)であるので、先祖が近しい信仰であったことは
確かだろうが、同志社と聞くとワクワクしてしまうとか、本書とは
関係のないことを書き連ねている。なんというか、チラシの裏か
個人ブログでどうぞ、というような調子の文章群が並んでいて
書籍が出版できてしまうのだから、お手軽なものだ。
それとクリスチャンであることを自慢げに書いているが、クリス
チャンだとしたら偉いのか?
俺も町井勲氏もクリスチャンだぞ(苦笑
プロテスタントとカトリックの違いはあるが、町井氏は洗礼を受けて
いてクリスチャンネームまであるぞ(笑)。
だから二人とも十字剣の二刀を使うんだ(嘘
ま、冗談与太はともかく、な~んか偉そう大将で、自分は清廉潔白
正義の
味方というような心根が文章の節々から見える。
あ、それとイラストは奥方が描いているようだが、まえがきで「奥さん
に感謝」とか書いているので、てんで駄目だね。自分の妻を人に
言う時に「奥さん」やて。それ、あかんて(苦笑


ガンオタの私としては、スペンサー・カービンを「ウィンチェスター
連発銃」と表記している時点で、すっぱりと即アウトだ。
そして、やはり、徹底的に手前味噌というか、自分がファンである
八重のことを盲目的に褒めあげて持ち上げている論調で、その
文章タッチが非常に気持ちが悪い。
全然クールなハンサムガールである八重のことを扱うような文章
文体、切り込みの視点ではないのだ。きもいわぁ・・・。
八重が「幕末のジャンヌ・ダルク」とか「ナイチンゲール」とどこで
誰に呼ばれたというのよ・・・教えてほしい。
全般がこの調子で、アイドルファンのオタ風味で、とにかくキモい
のだ。
なんというか、自分の流派の者を褒め上げて外に向けて自派の
先代のことを敬称をつけて呼んだり、他派を口汚く非難する悪口
雑言についても「おちゃめなところがある先生」と自堕落に身内
褒めしたりと、そういうだらしのないことをするエセ古流武術珍劇団
のような感覚の文章群に見えるのである。

見たくもないのに、眼医者で嫌なもん見たよ(笑
まあ、素敵なサン・マルコ寺院の水彩画を見つけたので、よしと
しとこう。
世の中、嫌なことだらけではない。


スペンサー銃は、米軍騎兵隊も制式採用していた軍用銃だった。






「スペンサー・カービン」には、.45口径と同じく特別な感情を
米国人は抱いているように思える。
それは「冷徹に人を倒す」というシーンでよくスペンサー銃が
登場するのだ。
「スペンサー銃を持っている」ということは、コーチガンを持って
いるのと同じ、ある種の恐怖感のようなものを人に与える存在
なのではなかろうか。北米では。




アカデミー賞映画『許されざる者』の中で、殺人を目的として
スペンサー・カービンで狙撃するクリント・イーストウッド。


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テーブルナイフと食事作法と礼儀

2017年07月05日 | 文学・歴史・文化


ナイフなんて危険な物!と眉をひそめたりするPTAあたりの
ビービーエーさまたちは、すべての食生活において和食一辺倒
なのでございましょうかと思ったりする。パーティーなどにお呼
ばれがあって洋食であってもナイフをお手になさらないとでも?
それにパンにバターを何でおつけ遊ばされていらっしゃるので
しょうか、と。


テーブルマナーと同時に、ナイフとフォークの使い方はローティーン
前の就学前頃までにはにきちんと覚えておいたほうがいい。これは
ごく
普通の常識として。箸と同じように。





全部きちんと覚えてそれをできるのは和食の作法でも社会人
ならば当たり前の
ことだが、さしあたって、洋食でもこれだけは
覚えておいたほうがいい。




それと、和食では手で受け皿をやる人がかなり多い。(どうして?)
これは物を知らない芸能人(自分の父をお父さんとか他人によく
言ったりする種族)に多いのだが、あれは和食では迷い箸や刺し箸や
ねぶり箸と同じく重大な御法度である。だめっす、あれは。
こうした基本的な作法・マナーを知らない人は結構多い。
成人までは親の責任で親の恥だが、成人以降は本人の自覚の問題
だ。

住宅訪問の番組でも、人様の家を訪ねる長寿番組で、ずっとある
男性俳優は玄関でくるりと廻って人様の家に尻から上ることをやり
続けていた。

靴を後ろ向きにしてそのまま脱ぐのが作法だととんでもない勘違い
をしているのだろうが、それをスタッフも誰も注意しないで何十年
も番組が続いていたのが恐ろしい。
もっとも、「日本人の正しいおじぎ」などと称して、どこの大馬鹿が
始めたのか、朝鮮式に腹の前で手を組んでそのままおじぎする
ことが日本式の正しいマナーなどとして新入社員教育や就職活動
マナー教室や企業の挨拶教室で行なわれており、その朝鮮式おじぎ
が今や日本中を席巻しまくっている。
間違いである。大きな間違いである。
間違いは間違いであると認めて、正しいおじぎ、正しい礼儀作法を
心掛け、後世に伝えなければならない。

まあ、でも、そういう誤ったマナーが横行する妙な世の中だから、
道場にガムをくちゃくちゃ食いながら宗家が礼も無く入ってきて、
そして師弟の礼や相互の礼、開始の礼と終礼もない節だらな
流派が「伝統古流武術」だなどと大嘘をついて多くの人を騙す
ような所業を為しても黙認されるような状態なのだろう。
大嘘デタラメこんこんちきがさも本物のような顔をする。ガムくちゃ
くちゃがですよ?
おかしいと思いませんか?
正式な洋食には天カスは出て来ませんし、天カスはキツネでなく
タヌキの化かし具材なのでしょうけど、一応食事マナーと日常の
礼儀作法は外国人であろうとも、日本人としても、人として一番
大切なことではなかろうかと。
特に日本人というのは、礼儀正しいのが伝統美の一つだと私は
思っていましたが、どうやら最近はそうではないようでして。

私、何か間違った事言ってますでしょうか?


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小早川隆景と黒田の関係 ~刀工国重をめぐって~

2017年07月05日 | 文学・歴史・文化



何か書こうとしてメモを取っていたが、何を書こうとしていたのか
忘れた(笑
さーせん。トリ頭なもんで。


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城内の住宅 ~備後三原城~

2017年07月05日 | 文学・歴史・文化









三原城大手門より城内の場所にある住宅。
明治以降の建築だろうが、昔の武家屋敷もこのような佇まいでは
なかったろうか。
江戸期の図にある武家屋敷に非常に似ている。

この後東門右手の住宅などは、上の画像の住宅によく似ている。


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文字

2017年06月29日 | 文学・歴史・文化

レプリカガンと坂本龍馬の手紙の本格的復元書簡と私の真剣

う〜む。自由奔放さはよく出ているが、幼い頃から勉強が苦手だったと
いうのはよく分かる。龍馬は上下左右めちゃくちゃな字を書いている。
形よりも中身ぜよ、といったところか。

これが正式な武士の文字。将軍直筆ではなく祐筆の筆だろうが、典型的
な武家の公事方フォントである。
よく江戸期の文書が同じように見えるのは、それは祐筆という専門家
が、お家流という青蓮院流の筆致で公式文書を記していたからだ。



私も筆を執って書くときには、正式な青蓮院流とまではいかなくとも、
丁寧に書こうと心掛けてはいる。





誰にも書は習っていない。小学生と中学生の時に授業で習っただけだ。
ただ、投げ遣りではなく、丁寧に書こうと努力はしている。
投げ遣りは速記メモくらいだ(議事録下書きなど、私はペン書きでの
記録取りは異様に速い。書くのが速くて正確だから学生の時は学連の
書記長を何度も再任だったのかと思う。←違)。

書は、見て見てまた見てさらに見て見抜いてもう一度見てずっと見る。
すると、頭の中に像が浮かんでくる。
習うより慣れろとは人口に膾炙されるところだが、まず見て見て
見続けることが大切だと私は思う。

刀が見えるようになるのもそれだ。
得能先生は友人に「錵(にえ)の一粒まで写し取れ」と訓示された。
そうしたことは、刀を見て見て見続けてまた見て見抜かないと不可能だ。
刀を見抜くことと、書を書くに筆を持つことは、ある種似たものが
とてもあると思える。
刀を粗雑に粗見しかできない人は、毛筆の書が醸し出す美術性など
到底見えはしないのではなかろうか。
漢字文化はアルファベットのような単なる記号ではないところが
独自文化であり、そこから広がる頭脳の働きは無限大だ。
韓国は漢字を外国文字だからと完全に捨て去ったが、中国や日本と同じ
漢字文化圏だったのに、とても惜しいことをしたと私は思う。
仮に、日本語がすべて平仮名若しくは片仮名だったら、漢字と仮名
交じりの特有の複雑な思索や思考力や創造性をどんどん捨象して単純
脳になりそうな気がする。いつもヒステリックに他者攻撃だけに精神力
を使うような民族になってしまうように思える。
まあ、若いネット民を俯瞰するに、すでに日本人なのに日本人らしからぬ
連中がわんさかと湧いているのだが。
存外、同じアジア人、中国や韓国の人間と日本人はそっくりクリソツ
瓜二つなのかも知れない。
特に、ネット民特有のネトウヨなどを見ていると、あれは韓国人や
中国人が日本人に対してやっていることと全く同質だ。
同じ穴の狐、いや、ムジナで、ナカーマナカーマ!ヒャッハー!!
なのだろう、きっと。



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「これからはこれぜよ」は何だったか

2017年06月19日 | 文学・歴史・文化



よく本当のような嘘のようなエピソードとして、土佐の坂本龍馬と
出会った陸奥宗光が龍馬に「これからはこれぜよ」と拳銃を見せ
られて陸奥が度肝を抜かれたという話がある。
次に陸奥が出会った時には、「銃はもう古い。これからはこれぜよ」
と万国工法の本を見せられたという。
どこまで実話であるのかは不明だが、坂本龍馬には先見の明が
ある傑物であったとの趣旨の逸話として語られることが多い。

実際のところ、坂本は高杉晋作が上海で購入してきたアメリカ製の
S&W Model No.2(.32口径6連発)を所持していた。
カートリッジのパテントを取得したS&W社は、最初にモデル1を製作
した。
これは1857年に発表された.22口径リムファイア弾7連発であった。
そして、威力増しの軍用採用を狙って口径をボアアップした.32口
径用のモデルナンバー2が1861年に発表された。これは後の名銃
スコフィールドの土台となったモデルだ。
そして、このモデル1とモデル2の間に、通称モデル1.5バージョンと
いうモデルが存在する。
それは、モデル1を改良して1857年から製造が開始された.32口径
の5連発である。
龍馬の土佐への手紙には「六連炮を取りて」「銃ハ元ヨリ六丸込ミな礼
ども、其時ハ五丸のミ込てあれば実に跡一発限りとなり」とある。
龍馬の銃は6連発のモデルナンバー2であることが確定的だが、「手紙
の写しを乙女姉に見せよ」と指示しており、その写しを書く際に、六連
発のシリンダーの図が誤って5連発に描かれてしまったようだ。
かくして、「龍馬の銃はS&Wモデル1.5バージョン」という説が出てきた
のだが、龍馬自身が「六連炮」「元ヨリ六丸」と二度に亘り明記している
のであるから、6連発のモデル2であることは確定的だ。



このマルシン製モデルガンは、龍馬が所持していて、慶應慶応2年1月
24日(1866年3月10日)の寺田屋事件で龍馬が使用した銃のモデル
アップレプリカガンだ。
龍馬の銃は同年2月6日付桂小五郎宛ての手紙にて「彼高杉より被送候
ピストールを以て打払、一人を打たをし候」と記しており、高杉晋作から
贈呈されたS&W Model Namber 2 で龍馬は幕吏1名を射殺している。

連合赤軍はあさま山荘に立て籠もった際の警察機動隊との銃撃戦に
おいて、機動隊指揮官2名を狙撃によるスナイピングの狙い撃ちで射殺、
投稿を迫りに説得に来た民間人1名を.38口径拳銃で射殺している。
坂本龍馬は寺田屋に潜伏中に踏み込んできた幕府警察隊と激しい攻防で、
親指の付け根を斬られてS&Wのシリンダーを外して弾丸を詰め替える
最中にシリンダーが転がり、銃を廃棄した。しかし、それまでに幕府警察隊
の捕縛隊士1名を.32口径で射殺した。
連合赤軍が結成されるずっと前、まだ連合赤軍という組織が存在しなかった
頃のある日、共産同赤軍派の議長塩見は同派幹部の花園に「これからは
これだ」と言って、指で引鉄を引く仕草をしてみせた(同人から私が職務に
おいて取材録取)。
最初、花園は「泥棒でもするのか?」と思って問うと「アホ。これからは銃や」
と塩見は言ったのだった。

龍馬は暗殺された。
龍馬暗殺の実行犯は、百数十年後の今においても誰だかは判明していない。
ブント赤軍派も日共革命左派も連合赤軍も日本赤軍も、国家権力からは
暗殺はされていない。唯一連合赤軍のみが、同志殺しという絶対に赦されない
ソ連や中国や北朝鮮と同じことを「正しい事」としてやらかした。
14の墓標は、「これからはこれぜよ」という、事の善し悪しよりも、とにかく
鮮烈で先駆的で先進的で過激なことがあたかも正義であるかのような
大きな落とし穴に気付かない時代感覚の行きつくところのなれの果てだったの
かもしれない。
その誤謬は、坂本龍馬に始まるように私には思えるのである。
よど号で北朝鮮に渡った共産同赤軍派のメンバーたちの多くは言う。
「自分たちは革命戦士というよりも、幕末の志士のつもりだった」と。



龍馬が使って闘争現場で廃棄したS&W モデルNo.2(1861年モデル)と
「西部を征服した銃」と呼ばれたコルトSAA(1875年以降モデル)。

果たして本当に「西部を征服」したのは、銃器による力だったのだろうか。
決して明かせない大逆を犯して新国家を作った日本は、今でも続く謀略
国家アメリカと、実は幕末から蜜月関係を続けている。昭和大戦で戦争
状態になったのも、互いに本意ではなかったことだろう。
3.11テロの嘘ぶりといい、まるで謀略捏造体質の日米和親密約条約が
あるかのようだ。
「これからはこれぜよ」ならば、選んでほしいのは、やはり銃よりも法だろう
と私は思う。












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