渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

平安時代の豆知識

2016年05月25日 | 文学・歴史・文化

町井勲氏が古代文化について言及している。

(以下転載)

2016-05-24 23:46:56

平安時代の豆知識

テーマ:豆知識

今日、二条城での十二単着装実演時のお話をうかがった中で驚いたのが…

平安貴族の女子は、なんと年に一回とか二回しか頭を洗えなかった。

というお話。 

そのため髪に油を塗り、香を焚き込めていたそうです。 

これ、事実なら… 

小野小町も近寄ると… 

臭い!!! 

なのかもしれませんね。 

想像してみてください。 

あなたの愛する女性が年に1〜2回しか髪を洗わない姿を… 

18キロほどある十二単を着た平安貴族の女性は、どうやって用をたしていたのでしょうね…

--------------------------------------------------------

昔の歌詠みねーちゃんについて書かれているが、こういうことは
日本だけではなく西欧においてもそうだったようだ。

日本の宮廷ではトイレがないために殿上から庭に小用を足したために
邸内はとてつもなく臭かったという。
また、西欧においてはどうだったのだろうかというと・・・小学校の音楽の
時間に音楽室にはクラシック
作曲家の絵が何枚も飾ってあるのを観たこと
があると思う。

あれは皆変な髪型していたでしょう?
それはカツラを被っているからです。理由は頭を洗う習慣がなかったから。
まあ、カツラ取っても髪はレゲエおじさんだったでしょうが(^_^;

また、フランスにおいても、宮殿や貴族の館では邸内の庭で大も小も
用を足した。あたり構わず。
それを隠すためにフワリと電灯傘のようなスカートがあったし、その
排泄物を踏まないためにハイヒールが地球上に登場した。


こればっかりは、大昔は万国どこも一緒という気がしやす(笑)。
どうにもばっちい。

それを考えると、中世以降、武士が政権を取ってからの日本は一気に
衛生面で飛躍的に向上していく。
江戸期などは江戸では上下水道も整備されていたし、戦国末期に
来日したカピタンが本国に書きのこしている。
「日本人は質素で着る物もみすぼらしいが、とても綺麗好きで我々の国では
考えられない衛生的な生活をしている」と。

西欧では古代ローマにおいては、水道や風呂も完備されていたのに、
西欧はいつから不衛生な垂れ流し文化になったのだろう。
そういえば、最近日本では「汚ギャル」っていなくなったのか?(^^;
女子高生のあの汚い文化は一体何だったのだろうとか思っていた。

ちなみに、パリでは今でもフランス人は犬の排泄物を始末する習慣はなく、
散歩でも知らんぷりです。パリでは市に犬の排泄物処理専門部門があり、
専用車と専用装置で常にパリ市内を掃除しています。

ま、日本の汚ギャルは、一過性の流行でよかったよ(笑


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落語禁止法 桂米助

2016年05月24日 | 文学・歴史・文化

落語禁止法 桂米助


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八百屋

2016年05月24日 | 文学・歴史・文化

立川梅春ビートたけし 落語「おふくろ&八百屋」



人情八百屋 立川談志



人情八百屋 〜 お言葉 立川談志


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包丁の教科書

2016年05月19日 | 文学・歴史・文化



おすすめです。
コンビニへGO!
ただし、超ウルトラ初心者向けの本です。
研ぎの頁などは私には全く参考にならなかった(^^;

しかも、記載事項に誤謬と思われる記述がある。
同書では室町期に腹の張った包丁が登場したとしている。
それの図としてアゴを持つ菜切り包丁のような図が掲載されている。

これは『酒飯論絵巻』(16世紀)に見られるからとの記載があるが
二重の点で誤りと推認できることが看取できる。
まず、このような「アゴ」が出ている包丁の存在は室町期には確実
には確認されていないという点が指摘できるのが一つ。(下記に示す
ように江戸期版で初出)


そして、同書が根拠としたものは『酒飯論絵巻』としているのだが、
原本ではなく、江戸中期に出版された『僧家風俗図絵』の絵を根拠
にしているようなのだ。
(掲載された江戸期の『僧家風俗図絵』/江戸中期出版/原画は
土佐光本の絵図が参考にされた)


(『僧家風俗図絵』/江戸中期出版/国会図書館デジタルコレクションから)


この国会図書館所蔵の絵は出版された江戸中期に、土佐派
もしくは狩野派の絵師によって、当時の風俗となっていた腹張り
出しの包丁に差し替えて描かれたものだろう。
顔料等を専門家が分析しないと何ともいえないが、色合いの鮮明
さからしても、16世紀の原画原本を巻き物にして江戸中期に発行
したとは考えにくい。

また、この国会図書館蔵の『僧家風俗図絵』に描かれた包丁とて、
アゴは存在していない。マチのようなアゴではなく刃が傾斜して
ナカゴに連なる形状だ。
むしろ、出版時である江戸中期の包丁が、アゴが登場するまでの
過渡期であることが読みとれて、江戸中期当時の風俗が看取できる。
『僧家風俗図絵』の原画は土佐光元(1530〜1569)が描いたもの
とされているが、『酒飯論絵巻』においても土佐光元のみでなく
狩野元信(1476〜1559)の筆によるものとされている物も現存し、
また異本も多いようだ。当然にして狩野元信のほうが土佐光元
よりも生まれは半世紀も早い。

こちらは文化庁所蔵の『酒飯論絵巻』原本。明らかにまだ刀型
の包丁を使っている。


これも絵師による精巧な写しだが、包丁の形は日本刀型である。


日本刀型の包丁のほうが古い時代の物であることは推認できる。
腹が膨らんだアゴ付包丁は江戸時代中期版において初めて見ら
れる
ことから、同じ絵柄なるも腹張り包丁の図のほうは江戸中期
の風俗を原画に投影して描き替えられたもの
と推測できる。

現在の包丁に至る形状が登場したのは江戸時代中期であり(出刃は
やや古く江戸初期)、泉州堺が発祥の地だった。平和な時代に国友
鉄砲鍛冶が包丁打刃物鍛冶に転じたと伝えられる。
堺の包丁は堺名物のお土産品として人気を博し、諸国に行き渡った。
実用性を常に進化させようとしてきた鉄砲鍛冶の気質がそのまま
包丁の飛躍的進化に繋がったとみてよいだろうと思われる。

『日本山海名物図絵 巻之三 堺包丁』(平瀬徹斎著/長谷川
光信画/宝暦4年-1754年)


土産物として新登場の形の堺の包丁は使い勝手の良さから
全国的な人気となり、やがて日本の包丁のスタンダードと
なっていく。

『和泉名所図絵』(寛政7年-1795年)






『名所図絵』は江戸時代の丁度真ん中の時期をやや過ぎた時代
に各地の名所を解説した当時の旅行ガイドだ。堺の打ち刃物屋の
店先では、脚絆を巻いた旅支度の客が連なって堺の包丁を買い
求める姿が描かれている。その人気ぶりが窺い知れる。
この江戸中期に登場したアゴ付の包丁によって、それまでの日本刀
形状の包丁は一気に衰退し、包丁といえばアゴ付が標準となった。
それが現在まで続いているのである。いわば、包丁のスタンダードは
堺において生まれた。
欧米におけるクッキングナイフは、登場から現在まで鋭利ではない
刃物として続いてきたが、日本の場合は鍛冶職が日本刀や鉄砲鍛造
の技術を活かして料理刃物を製作したため、極めて鋭利だった。
だからこそ、日本では当たり前の切れ味が海外では驚愕の目で見ら
れている。古代中世近世近代現代と地球上で金属刃物最先進国
だった日本からすればごく当たり前のことが、西欧においては驚異
に映るらしい。
そもそも、食器においても日本は極めて高度な文化水準を古代から
保持していた。
フランスなどは、中世にイタリアから金属食器が輸入される前は、宮廷
だろうが手づかみで物を食べていた。日本はすでにその一千年以上前
に食器としての箸を使用開始している。
また、日本刀の刀子(とうす)型の包丁は正倉院宝物殿に現存しており、
これは世界最古の金属打ち刃物包丁となっている。
そして、日本の料理用刃物の包丁の原型は鉄器生産の登場と共に
あったことだろう。日本の包丁の原型は刀剣であるのだ。
包丁の原形ともなった刀子は、後世には貴族が左腰にぶら下げて常に
携帯した汎用小型ナイフへと変化した。

正倉院御物刀子-とうす-(複製)

なぜ柄がこのような反りになっているかというと、その用法によると
推察できる。反りのない(あるいは内反り)の刀子で物を切断する
ためには、切先をまな板などに切り立ててやや柄尻を持ち上げて
刀子を引いて切ったのだろう。丁度、現在の身幅の狭い小型の
ペティナイフで料理をする時の方法と近似した刀法で切ったと
思われる。そのために柄の反りは棟側に急角度で反っていたの
であろう。
現在、こうした柄前は、シルキーなどの最新ノコギリなどのように、
柄の角度を可変させられる製品の登場にも見られる。柄尻が手元
に上がり、引き切りの際には柄手がとても楽になるのである。
この貴族の刀子の祖が現在確認できる日本の包丁の最古の形状
といわれている。
やはり、江戸期のアゴ付包丁の登場は、大革命だったと思う。

しかし、アゴ付の堺の包丁が一般化した後の江戸期幕末においても、
日本刀型の包丁も継続して使用されていた形跡がある。

初ガツオをさばく女性
『十二月の内 卯月初時鳥』(三代目歌川豊国作-安政元年-1854年-
/国立国会図書館蔵)




包丁については、こちらのムック本2冊も上掲コンビニ本よりは
まだ深く
切り込んでいるが、それでも専門家向けではない。




ただ、自分の家庭の包丁は自分で研ぐのが日本の
台所文化の伝統であるので、やはり自分の家の包丁
は自分の家の者が研ぐことが望ましい。
私の場合は、「切れ味」よりも要求性能として使用者の
望む「切り味」の実現を目指している研ぎなので、一般的
ではない。早くいえば「やり過ぎ」である(笑
「よく切れる」というのではない、もっとその向こうを求めて
いる。
よく切れるように研ぐのはとても簡単だ。刃先の角度を
一定にして刃を付ければよい。
だが、切れ味ではない「任意の切り味」を実現するのは
使い手と研ぎ手の相互意思疎通と技術の裏付けがないと
実現できないので、簡易ではないが挑戦のし甲斐がある。

しかし、一般家庭では、包丁が「よく切れる」以前に、「まったく
切れない」という状態にされていることが多いので、包丁を
研いで切れ味を復活させてあげるだけで料理が数倍美味しく
なることを多くの人に知ってもらえればいいなと思う。
いや、野菜も肉も魚も、まったく味変わりますよ。これホント。
包丁の刃付けなどは、サッと本当に簡単に10分くらいで
できてしまうのだし、それで料理の素材の味が引き出せて
料理がずっと美味しくなるのだから、これをやらない手は
ありやせんぜ。

私が研いだ包丁。


ティッシュが抵抗なく切れる。






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超古代製鉄と朱 〜雑感〜

2016年05月12日 | 文学・歴史・文化



遣隋使小野妹子の六代孫に小野篁(おののたかむら)という人物が
いる。小野篁の祖は春日氏であり、さらに春日氏の遠祖は和邇(ワニ。
和珥・丸邇・丸・王仁など)氏である。ワニ一族は西暦1世紀〜2世紀
に日本列島に渡来した太陽信仰を持つ集団だ。和邇一族は鍛冶集団
であり、太陽信仰と産鉄技術をもたらしたとされている。ワニは朱を
生産し、製鉄にも深く関与した。ワニが転じて各地でオニとなったか。
また因幡の白兎伝説に登場するワニ=鮫と兎の喩えは、ヤマトよりも
先住先行渡来系製鉄族であったワニと後行渡来系族長ヤマトとの
勢力争いの暗喩であったとも思われる。厳密にはヤマトが出雲から
掌中に収めた「白い鉄=砂鉄製鉄による白い鋼」の白と古式赤土の
ベンガラ製鉄=朱の鉄の赤との対立の図式としてあったかもしれない。
超古代の日本国内の勢力対立は、製鉄方法の違いによる「赤と白」と
してそのまま存在したといえる。出雲大和系神社が白く、古代の対立系
神社が赤いのはその名残であろう。数百年後の世に、源平が紅白を
旗印として国内覇権を争ったのは歴史の皮肉か。今では一千数百年後
の世になっても小学校の運動会での紅白や年末のTV歌合戦での
紅白両軍となっている。
どちらも日本の国土に住した人々の歴史であり、どちらも「日本」という
国号が無かった時代から日本人である。
そして、その統合として、日本の国旗はたまたまの偶然か、「白地に赤い
日の丸」となっている。丸は太陽であり、丸は何を指したか。色は赤だ。
それを白が包み込むように取り囲み、赤と白が合体する。それが日本
である。
私は日の丸に古代から連綿と続くのわれらの血の歴史の証をみる
感慨がある。国旗が緑と黄色だったりブルーだったりしたら、それほど
わが血に迫る訴える何かはなかったことだろう。
赤い丸は太陽であり、太陽信仰を持つ超古代民族の血であり、それが
ヤマトとして白と溶け合い統合成立して行った。
日の丸はわれら日本人の血脈の歴史の象徴なのだ。


大和朝廷成立以前の大和王権登場の更に往古である邪馬台国と
「倭国騒乱」の弥生時代の製鉄が、赤土を原料にしたであろうことは
考古学の世界でも研究されていることであるが、古代の「朱の文化」の
登場は、同時発生的に国内製鉄の登場と重なるものだっただろう。
赤土を加工して生産するものは鉄のみならず、土器製作の土師(はじ)
技術とのつながりもあったはずである。
騒乱時代においては、武器としての鉄器の効率的生産と、国土富国化
を目的とした作物増産のために、鉄器の生産力向上はクニの統治の
必須の条件として存在したことだろう。まさに、鉄の掌握こそが王権存立
の命綱だった。

また、赤土による製鉄は後代の効率のよい砂鉄製鉄と違い、非常に
生産性が悪かったため、赤土を主原料とした小規模製鉄を握る大和
の王族は、極めて効率的な最先端技術である砂鉄製鉄の出雲系の
技術がなんとしても欲しかったはずだ。
結果的には、大和王権は時間をかけて出雲吉備の最先端製鉄技術を
手中にするのであるが。
つまり、古代王権は、赤のみならず白をも手に入れた。

赤土自体は、全国どこでも採れるし、大和地方でも豊富に採れた。
聖域である大和一帯が赤土の宝庫であり、王墓なども赤土に覆われた
土地であった。つまり、ヤマトにおいては「製鉄原料」に覆われて王墓が
建設されていた。

植山古墳。推古天皇の王墓ではないかと目されている。




超古代製鉄に関与したと思われる和邇氏(後の小野一族の遠祖)に
ついては、こちらのサイト記事が興味深く読めた。


赤土。焙焼して製鉄原料となる。「赤い鉄(の素)」。
これを焙焼した物を木炭で加熱還元させ、酸
素をひっぺがしながら
炉内の土の成分を食うことにより化学変化で鉄が産まれる。

こうした赤鉄鉱が採れる地質付近には金などの金属鉱脈があることが
多い。餅鉄・砂鉄などの磁鉄鉱による5〜6世紀の製鉄技術を得る以前
の国内製鉄(弥生時代〜古墳時代)は、すべてこの赤鉄鉱による製鉄
だったと思われる。

砂鉄を原料とした「白い鉄」。
5〜6世紀頃に国内に登場した新方式の砂鉄製鉄により誕生した。


大雑把な製鉄の歴史の分け方をすると、
(1)古代製鉄は赤
(2)古代末期に赤と白の混在
(3)中世以降は白
(4)中世末期から近世に入って白の製鉄内実の変質
といった4段階に大別できる。
厳密には白時代にもいくつかの分岐点が存在するが、それは割愛する。
ただ、白時代における鉄の変質の時期は、その最たる鉄製品である
日本刀の鉄質の歴史的遷移として残された作品の中に観察できる。
白時代の鉄の時代ごとの成分差異は科学的に解明されているが、
なぜそのような成分変化が時代によって起きたのかは完全には解明
されていない。
金属学のみ、考古学のみ、文献史学のみ、民俗学のみ、刀剣鑑定のみ
という別個独立の学術領域がそれぞれ単独で研究を続ける限り、鉄の
歴史の全体像の解明は不可能だろう。


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姓・氏・苗字・通称・諱(いみな=実名)・号・官職名

2016年05月11日 | 文学・歴史・文化

江戸時代の名前に関するうんちく〜庶民にも苗字があった?

他の項目でも「?」なところがあるが、この項目は嘘ばっか(^^;
というか、弁別不十分と混同多し。

江戸期の武士の通称とは官職名のことではなく、通り名のことである。

たとえば、「柳生但馬守宗矩」は、柳生が苗字であり、但馬守は官職名、宗矩が
諱(いみな)と呼ばれる実名だ。
柳生宗矩は
姓は菅原、名=通称を初め新左衛門、のちに又右衛門といった。
「姓は丹下、名は左膳」というのはあり得ないことなのである。姓とは源平藤橘など
の血脈を指し示す名のことだからだ。丹下というのは苗字であり姓ではない。
柳生宗矩は
官位は従五位下から従四位下に進み、但馬守となった。
官位については、四等官というものがあり、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・
主典(さかん)が律令時代に中国を模倣して設置された。
後に武家の間で通称にも使われた「介」や「兵衛」や「衛門」などは官位が
後の時代に
通称名化したものだ。
従って、「柳生但馬守」の「但馬守」を通称であるとするのは明らかな誤謬である。
柳生さんの但馬守は公式官職名であり、彼の通称は又右衛門であるのだ。


現代でも「人を名指しで呼ぶ」ことは無礼非礼にあたるという概念だけは残って
いるが、明治までは人の実名=諱を日常生活で呼ぶことはしなかった。
従って、時代劇などに見られる「家康殿が・・・」などということは天地がひっくり
かえってもあり得ない。
柳生宗矩のことを「宗矩」などとは口頭では決して呼ばなかった。
柳生より上位の者は役名で「但馬」、同格の者は「但馬殿」、下位の者は「但馬様」
と呼んだ。決して実名は呼ばない。実名は公式文書に記載するときのみだ。
現代の会社などで「社長」「部長」「課長」とだけ直に呼びかけ、氏名を呼ばない
ことがある。また「知事」「大臣」などと役職名のみを呼ぶこともある。これらは
直接に相対しての「実名忌避」で「但馬殿」と呼ぶのに通じるものだ。

従って、柳生但馬の子についても柳生但馬守宗矩の長男のことは三厳(みつよし。
尾張柳生からの読みでは「みつとし」)などとは
呼ばず、柳生十兵衛と呼んだ。
官職名を持たない一般武士の場合、「苗字+通称+姓+実名」が名となるが、
一般生活では「苗字+通称」を呼称した。沖田総司は「沖田総司 藤原房良」が
本名であるが、日常では「沖田総司」と呼ばれたし自称し自署した。
諱は元服により髪切り親が名づける。それを名付親と呼んだ。
現代では武士という階級は消滅したが、
血脈として武家の家系の末裔たちの
多くは諱(実名)を持っている。


明治以降、戸籍制度が復活して新戸籍制度となった際に、それまでの通称か
実名かどちらかを登録することが義務付けられた。
そのため、漢字二文字の実名系と「泰之進」などの通称系の名の両者が現在
日本人の男子の名としては混在している。
諱(いみな)には「通字」というものが旧来はあった。これは一族のうちの細かい
家系を表すものであり、源氏ならば「義」などが多用された。
さらに源氏の中でも流と氏族により使う通字が限定される傾向がみられた。
源氏でも村上源氏の支流などでは「義」だけでなく「重」や「時」や「直」や「知」等
が多用された系脈もあるし、小野流村上源氏のみならず、他の姓においても
系統支流により同様の現象がみられる。

(一例)

(小野篁(おののたかむら)の祖は春日氏であり、さらに春日氏の
遠祖は和邇(ワニ。和珥・丸邇・丸・王仁など)氏である。ワニ一族は
西暦1世紀〜2世紀に日本列島に渡来した鍛冶集団とされる。ワニは
太陽信仰と産鉄技術を日本にもたらした。ワニが
朱の生産に深く関与
していたことは明らかとなっており、国内の赤土を原料とする初期古代
製鉄にも深く関与したと思われる。ワニが転じて各地でオニとなったか。
また因幡の白兎伝説に登場するワニ=鮫と兎の喩えは、ヤマトよりも
先住先行渡来系製鉄族であったワニと後行渡来系族長ヤマトとの
初期における勢力争いの暗喩であったと思われる。そうだとすれば、
朱から鉄を生産した赤=ワニに対する白=ヤマトの対立−その後併存
両立−の残滓として、神社における赤系神社と白系神社という二系統
同時存立の背景の説明が類推として成立する)


だが、この通字も中世末期になると大きく崩れ、ばらばらの漢字が使われる
ことが多くなった。江戸期の徳川将軍家当主の諱などはそのよい例だろう。
また、武家・町家に関わらず、通称名を表看板のように歴代襲名する風習も
中世以降定着した。諱の実名は元号のように重なることはなかったが、通称名
は重複することも多かった。浅右衛門の子は代々浅右衛門を名乗ったりした。
また、通称として官職名が名乗られることも多く、それが引き継がれたケースも
見られる。「主計(かずえ)」や「主税(ちから)」、「主水(もんど)」なども官職名
が通称名に転用された例で、これらも代々受け継がれるケースもあった。

号は生存中に自称で名乗った呼び名で、「〜斎」などという号が多い。
また「海舟」「南洲」も号である。


武士以外の階級(江戸期には「武士とそれ以外、それ以外とさらにそれ以外」
という二重階級制度だった)で苗字は存在しなかったかというと、存在した。
武士以外は
公式に苗字を名乗って武器たる大刀+小刀の二つを帯びることが
禁止されていた
だけのことだ。どん百姓だろうがアキンドだろうが苗字は持って
いた。

帯刀御免というのは「大小二口帯刀」が武士とそれに準ずる身分に許可されて
いただけのことであり、小刀である刃の長さ二尺以下の刀については身分の
如何にかかわらず誰でも帯刀できた(厳密には二尺に近い物は時代により
長さ規制がされた)。
この小刀(しょうとう)が大刀の副え差しとして帯刀されると文字通り
「脇差
(わきざし)」となった。脇差は武士が帯び、小刀(しょうとう)は武士以外が持った。
長さと実体は同じであるが、概念表現においては呼び名が違った。
また、小刀・脇差(いずれも実体は同じ物)の長さで外装の仕様を変えた物は
「小さ刀」と呼ばれて武家が江戸城に登城する際の礼装とされた。これは実体は
脇差なのであるが、「大刀の代わり」と概念付与されたので、あくまでも脇差や
小刀(しょうとう)ではなく、「大刀の小さい物」と位置づけられた。それは大刀を
帯びることができるのは武家だけであったので、そのプライドを奪わずに、同時に
武器として長寸有利の牙を抜いた殿中治安維持政策として「小さ刀」などとお為
ごかしの呼称がつけられていたのである。
江戸期の武家のまつりごとの政策はすべてがこのパターンで、「アメとムチ」を
同時に行なうものだった。人をひっぱたいておいて「おまえのためだ、有り難く思え、
ほれ、ぶたれた褒美をやろう」というようなものが武家政治の実像である。褒美は
紙切れ一枚だったり、ただの「有り難きお言葉」だったりする。封建制度においては、
一切の人間的尊厳の保障を求める権利は存在しない。

なお、当然、二尺以下の長さの刀剣は百姓(武士以外の人民)および百姓以外の
賎民階級といえども帯刀できた。


百姓とは読んで字のごとく、「農業・工業・商業・林業・漁業等々」を職業とする
層であり、秀吉の兵農分離以降に「武士とそれ以外」として固定化された階級
のうち武士を除く「それ以外」の階層のことだ。
さらに、「それ以外のさらに外(と)の者」としていわゆる賤民階級が置かれた。
これは中世から続く独占技術集団もしくは独占営利を許可認可された階層で、
主として皮革産業、芸能、神事、医療、慶弔、清掃、手工業などを担ってきた。
戦時においては戦国時代以前から賤民階級は重要な軍事要員であり、武技
についても修練が伝統的に
行なわれ、江戸期には街道沿いの門番兵として
配置されたり、防備のために集団的に特定地域に集住させられたりし、主として
治安維持と城下の消防、
下級警察官吏として捕縛、処刑、埋葬にあたった。
また農村へは一揆鎮圧の
ための監視役として一般農村へ意図的に江戸期には
集団配置された。治安維持のための「横目」として、
あるいは表面だっての農民
蜂起の牽制のための隠れぬ「忍び」として賤民階級は武士に
任用されていた。
江戸市中や都市部城下においては、岡っ引きや下っぴきなどの下級警察人員や
町火消しなどは賤民階級が担っていた。
当然にして、農村部においては、賤民階級は行政執行権力の手先として農民
たちからは敵愾心の標的にされた。農民たちは賤民たちを憎みつくしていたこと
だろう。
権力の実体である武士階級に直接的に憤まんの矛先を向けられなかった農民
たちは、そのハケ口として農村部に権力から集住させられた権力の手先の
賤民階級をターゲットとして侮蔑し差別しぬくことでウサを晴らしたのだろう。
これは、各地の寺に残るいわゆる「差別戒名」からもうかがい知れる。
また、実際に人民支配の構造的配置物として寺が差別的人民支配に一役買って
いた。
選民主義的な仏教思想は武家政権にとっても大いに利用価値があったし、仏教
坊主どもは権力の庇護の下に差別的意識を以って人民支配の手先となっていた。
「神=主の子はみな平等」とするキリスト教などは武家封建体制を根底から崩す
ものであるので禁教としたのは当然だったし、仏教坊主たちは武家政権の庇護
によりこの世の春を謳歌して酒を飲み女や少年男子を慰み者にしていた。
なぜ賤民階級が百姓(武士以外の人民)から差別されたかというと、賤民階級が
生まれもって人的資質がどうとかではなく、「自分らより下の階級のくせに自分ら
を支配する武士の手先となって自分らを取り締まり、時に武力で圧する」という
存在に賤民階級がいたからだろう。
そして、まさに、農村部のガス抜き対象として支配階級である武士は巧妙に
階級制度を利用して「差別」を作り出し利用してきた。
この残滓は明治以降も根強く残り、現在でも特に西日本地方の農村部などに
おいては、今でも農民たちによる旧賤民階級の末裔たちへの敵愾心と排外意識
の心根は強固に強烈な「差別」として残存している。産業的には同地域で同じ農業
に従事していても、血脈としての旧選民階級の人々への敵愾心は、ここでは公開
できないような差別意識として「百姓」たちには残っている。私は東京から地方に
転住してそのありのままのこの国の地方の実態を見て、驚愕した。北関東にも
同じ農民でありながら強烈な差別は残存しているが、西日本の血脈差別の実態は
その比ではない。職業差別ではない。明らかな血筋をネタとする差別が強固に
存在している。
「明治維新」などはまったく完遂していない。
これが「とりもどせ美しい日本」という日本の国の実態である。

江戸期、賤民階級の武技については一般武士とまったく同じ「剣術」「居合術」
「長刀(なぎなた)術」
「鎖」「棒術」「捕縛術」「和(やわら)」等々が賤民階級流派名
と共に錬磨継承
され、目録等も発行されており、武芸錬磨励行が武士階級に
よって奨励されていた。ただし、これらの目録や皆伝書等はいわゆる「河原巻物」
の一種と捉えられており、武家の武芸伝のように詳細に研究はされていない。
「くさいものにフタ」式の国民意識(百姓意識?)が歴史の真実の解明を阻害
している。

各藩で賤民階級尚武励行の傾向は見られたが、広島藩においてもそうであり、
治安維持的側面において、武士階級と密接
不可分な階級としていわゆる「エタ・
非人」は存在していた。(広島藩の場合は
公式呼称はすべて「革田」)
これも実体は百姓たちへの「アメとムチ」であった。名目上、百姓の下に置いた
「下層」である賤民階級の存在を百姓たちの武士への不満のガス抜きの対象とし、
その実、実体は下級警察官吏として権力の先兵として百姓を監視する治安維持に
賤民階級をあたらせていた。史実として各藩において、一揆弾圧の武装部隊として
革田
たちが武士の命により武装出動し、広島藩領においても形勢が逆転し数千名
の農民に一揆鎮圧出動部隊が包囲されるも脇差を駆使して包囲網を突破して帰還
したり、さすまたなどの捕縛器具を用いて罪人捕縛などにあたっている。

現代でいうならば警察機動隊や特殊部隊や消防の役目を江戸期の長吏・エタ・
非人・革田と呼ばれた賤民
階級は担っていた。(興行などを一部担った乞胸=
ごうむねは平民階級だったが、江戸期にはエタ頭浅草弾左衛門支配下に置か
れた。全国の賤民階級筆頭支配の地位を巡っては、江戸期の訴えで非人頭の
家筋と鎌倉長吏頭の家筋とする弾左衛門が争い、幕府は弾左衛門家に賤民
階級支配権を与えている。幕末最後のエタ頭弾左衛門は幕府により目見得以下
だが士分に取り立てられ苗字帯刀が許された。維新後は浅草にて製靴会社を
設立。江戸期には大名並みの屋敷と権勢を持っていた)

また、相撲興行や各種芸能興行、産業の特権利益も江戸期には賤民階級に
独占的に付与されて
いたが、こうした独占が崩れるのは明治以降だった。
資本主義の導入により、職業選択の自由と資本の論理により、旧賤民階級が
有していた産業の独占的既得権は消失し貧困が加速された。公的警察力も
剥奪されたので、残ったのは「差別」だけだった。また、圧倒的多くの旧百姓から
構成された明治新警察組織によって、逆に旧賤民階級は権利主張の際の言動に
おいて彼らから取り締まられる側となった。国家警察と旧賤民階級の子孫の
対立は明治以降に欧米資本主義的経済構造の導入以降開始される。
それ以前においては対立どころか支配階級である武士と密接不可分な関係に
あり、「最下層という身分に置かれながらも支配階級の一部を構成していた」と
いう封建制度の絶体矛盾の現出が江戸期までの賤民階級の存在の構造的
特徴としてあった。

無論、賤民階級にも江戸期に苗字はあった。百姓(農・林・漁・工・商)と同じく
公称が武士により不許可にされていただけである。
逆に明治以降は、国民は誰でも「苗字と名(後に「氏名(ウジナではなくシメイ)」と
された)を持たなければならない」
との旨が法文化された。
これは、封建時代の旧弊を消滅させるためのものではあるが、
階級差別をなくす
ための四民平等の解放政策としてではなく、明治中央集権新国家の
国民皆兵の
徴兵制のためであった。

名前については、明治維新までの時代と異なり、裁判所による名の変更という
特殊なケースを除いては、現在では戸籍に登録した名称以外は正式には名乗れ
ない。また、苗字(現在はそれを氏と法的には規定している)は、婚姻・養子縁組・
帰化による新戸籍編成以外では変えられない。
国会議員は行政府の構成員(国家権力の実体)ではなく、国民から選出されて
国勢に参与する職とされるために私称たる芸名での議員登録が認可されているが、
役務として行政行為を行なう場合には戸籍名で為さなければならない。
扇千景は芸名であり、扇千景で議員活動および大臣職に就いたが、大臣として
発行する公文書はすべて戸籍名である本名の林寛子の名で法律行為を為して
いた。

ただ、日本の明治以降の戸籍法においては音との整合性を担保していないという
欠缺が存する。
それは、日本の戸籍においては、「慎太郎」という名を子につけて「はなこ」という
読みであってもよいとしているのである。戸籍欄には読みの記載欄は存在しない。
従って、ひらがなカタカナの名の場合に間違いはないが(中川翔子のように実名の
「しょうこ」を親が「しようこ」と届け出てしまったためにそれが本名となったという
齟齬のケースはまれにあれ)、戸籍名の表記だけを見た場合、名を正確に発音して
読めるところまでは戸籍は担保していないのである。
これは「勝之進」が「かつのしん」であるのか「しょうのしん」であるのかという問題
とは別に、戸籍の仕組み上、勝之進を「はなこ」と読んでもよいとしてしまっている
漢字文化無視の構造が戸籍名には存在するのである。
これらは、登記や登録などの法律行為において、表示の文字が一致していれば
それを正とする「形式主義」という近代法解釈がもたらしたものである。
こうした特徴は戦後の戸籍においても形式主義的側面の加速として法整備
され、戸籍名に使用できる漢字を指定して限定規定するに至った。
改製原戸籍や除籍において使用されていた氏名における旧字や俗字漢字や
万葉仮名は、新しい戸籍においては排除されている。
だが、「高田馬場」は本当は「たかたのばば」であり「たかだのばば」ではない。
「たかだのばば」はJRの駅名であり地名ではない。
土方歳三においても、土方の「土」は「土」に「、」が右上に入るのが本来の文字
だが、現在は子孫も「土」となっている。
けだし、日本の戸籍の国民の名前に関する法律の不整合というものは甚だしい
ものがある。
現在の日本の戸籍名とは、連綿と続く歴史的な表記を成す正式名ではなく、
国家が人民を統制管理するために法整備された「現世での国家呼称」である
という実体が見えてくる。
日本の国民の氏名のアイデンティティは国家によって保護されているのではなく、
国家統制により決められた文字の限定使用が「許可」されているに過ぎない。
敷衍すれば、江戸時代より自由の精神は後退している。







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愛の惨禍

2016年05月06日 | 文学・歴史・文化

J' irais jusqu' au bout du monde
Je me ferais teindre en blonde
Si tu me le demandais
J' irais décrocher la lune
J' irais voler la fortune
Si tu me le demandais

Je renierais ma patrie
Je renierais mes amis
Si tu me le demandais
On peut bien rire de moi
Je ferais n'importe quoi
Si tu me le demandais

お望みならば このブロンドも泥に染めるわ
お望みならば あの月さえも奪いに行くわ
お望みならば 友も祖国も捨ててみせるわ
あなたが望めば 辱めさえ受けてもいいわ
(訳 渓流詩人)

昨夜、若い自衛隊幹部と話をしていて、ふと気付いた。
この『愛の讃歌』って、「脱柵」のことだろ(笑)。

うむ。脱柵したくなるのわかる。異議なし。


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親父の言葉

2016年05月03日 | 文学・歴史・文化




バイクはメーカーはカワサキが好きで、バイク自体はヤマハが好きだが、
人としては、この親父さんが一番好きだ。
ホンダ。やはり、世界のホンダだ。


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古代山陽道 備後国の名称不明の駅家(うまや)跡地 (関連記事追記)

2016年04月17日 | 文学・歴史・文化

古代山陽道(江戸期近世山陽道とはルートが異なる)には、
約16kmごとに馬家(うまや)が置かれていたとされる。
現在、名前だけが残る日本固有の長距離走破競技の「駅伝」
というものは、この駅家(うまや)間を走る古代物流の名残り
であろう。
物流といっても、現在のような民間経済交易のための流通の
ためにステーションが設置されていたわけではない。すべては
朝廷中央への租税徴収のための物流拠点として駅が設置され
ていたのであり、各駅には馬を何疋ごと常備しておくという細かい
取り決めが中央朝廷によって命じられていた。そのため、駅家と
書いて「うまや」とヤマト言葉で読んだ。

古代山陽道の謎の一つに、古代山陽道ルートで駅名が不明の
地点が
一つだけある。駅と駅の距離の取り決め事項からして、その
地域
に駅家がなければならないだろう場所に明確に駅家があったと
される記録が発見されていないのである。

その場所を「このあたりにあったはずである」とすることは学術界
でも認識上は採用されていた。
私は過去記事において、その場所を「三原市久井地域」として
いたが、地元の方からのご指摘があったので訂正したい。
地元の方の意識では、古代山陽道駅家があった場所は「垣内(かいち)」
というエリアで、どうやら私のように「久井」とすると、もっと別場所を
限定して指し示す意識が旧来地元にはあったようだ。
これはよく解る。地元東京人でない人は、「東京」といえば埼玉県
南部や神奈川県北部までの広域をひっくるめて「東京」と呼ぶが、
東京人は「東京」とは呼ばず、東京人が東京と呼ぶときは「東京駅」
のことになる。また、都内の区域は「新宿」とか「原宿」とか「渋谷」
などと、ピンポイントで呼ぶ。
「生まれはどちら?」と東京人が訊いて東京人が答える場合は、
「生まれは目黒です」と言う。「生まれは東京です」とは答えない。
似たようなことは地方でもあり、私などは「広島」というと広島県の
事を指して使ったりするし、「岡山」というと岡山県全域を指したり
する。私のみならず多くの県外者はそのような認識で地名を呼ぶ。
しかし、地元県人からすると、「広島」とは原爆ドームのある広島市の
ことであり、「岡山」というと倉敷や津山のことではなく、岡山城がある
岡山市のことを指すのである。

これと同じようなよそ者視点で私は言って(書いて)いたようだ。
三原市八幡町の広域のことを「久井」と呼んで(書いて)いたが、
それは地元の方からすると「久井」というのは、久井という場所の
ピンポイント限定意識からは外れるのであり、広域を示すことには
ならなかったらしい。
厳密を期すならば私が書いた「久井」の訂正表現としては、文意の
本旨からすると「現三原市八幡町地域」とすべきだったことであろう。
山陽自動車道久井インターチェンジがある場所なので私は「久井」と
大雑把に呼称していたが、実際には八幡町とすれば間違いもなく、
また地元の人のピンポイント意識からずれることもなかっただろうと
けさ認識した。

さらに、古代山陽道の駅家(うまや)があったであろうと推定できる
場所をさらに絞って呼ぶならば字名である「垣内(かいち)」とするのが
妥当性を有することだろう。
山陽自動車道の「三原久井インターチェンジ」があるために、つい
その地域を「久井」と私は呼んでいたが、公約数的妥当性あるものと
しては「八幡」と呼称するのが適切で、さらに絞り込んでの地名呼称で
あるならば、古代山陽道の駅家があった場所は、久井インターから
ピンポイント地名としては少し東に定点がある「垣内(かいち)」とすべき
だったようだ。
「久井」として表現すると、地域としてはもっと別なエリアを差すことを
地元の方からご指摘いただいた。私は地方の人が言う「東京」と
同じ認識齟齬を犯していたのである。
広域においても久井インター付近まで含めた地域を現在の地名表示の
字名では「垣内」と呼ぶが、ピンポイント地名地点では垣内は久井インター
付近よりも多少東の地点になるようだ。また垣内エリアと呼ぶならば、
当然にして概念としては「久井」をは指さないことになるらしい。
定点ピンポイントとしての地名呼称ならば、古代山陽道の名称不明の
駅家があった場所はピンポイント地点の「久井」ではなく、「垣内」と
いうことであり、また広域呼称で捉える概念においても現在の三原市
八幡町の字名垣内である「垣内」とするのが正確性を得ている、と
いうことになる。
繰り返すが、さらに大きな公約数的な呼称でいうと、古代山陽道の駅名
不明の駅家推定地は、私の過去記事の文意からすると「現在の三原市
八幡町」という呼び方にすればもっと正確になると思われる。




また、現三原市街地から北方に抜ける往来が通るエリアに「恵下谷
(えげだに)」と呼ばれる谷あい(谷津)がある。

そのことに関連して、地元の方から大変貴重なご指摘を頂いたので、
以下に引用して紹介したい。

(以下引用)

初めまして。古代山陽道が三原市内のどの辺りを通っていたかを
調べているうちに渓流詩人さんの日記にたどり着いた者です。
三原市についての見解はさすがだと思いましたが、恵下谷の
県道25号線についてはチョット違うかなと思いました。
あの道は昭和20年代まで谷底の川沿いの道だったのに県土木が
現在の場所に移設してしまい、何度も土砂崩れが起きる県土木の
お荷物と成ってしまった道です。
移設の理由は知りませんが、おそらく真砂土を堰き止めるための
砂防ダムを作る必要があったためだと思われます。
昭和20年代までは谷底の道を木材を積んだ荷馬車や木炭トラック
が行き交い、復員するはずの夫を出迎えるためにトラックの荷台に
乗って恵下谷の谷底の道を下っていたら夫が対向車の荷台に
乗っていたので対向車の荷台に乗り移ったと言う笑い話まであり
ます。細い道ですが、所々で離合できたようです。
御調町の中心部から尾道に向けて石見産出の銀を運んでいた旧道
と恵下谷の旧道を比較すると木材のような体積の大きい物は恵下谷
の旧道のほうが断然楽です。恵下谷は落ちたらすぐに拾えますが、
銀を運んでいた道は材木の端が山肌に当たりやすいうえに落ちたら
拾いに行くのが大変です。今では東城から福山まで良い道が付いて
いるので東城の木材は福山に運ばれることが多いのでしょうが、
県道25号線は昭和20年代までは東城で切り出した木材を三原へ
運ぶための重要な道でした。

三原が人工的に作られた町であると同時に、備後地方の中では比較的
に木材を搬出しやすい道が恵下谷にあったことと、本郷町以東を埋め
立ててしまったため生活に必要な塩や煮干しなどの干物を安価で入手
するためには三原まで買い物に行かなければならなくなった(埋め立て
以前は世羅郡や久井町の人は河内町や本郷町などでも安価で入手
できたはず)という事情も重なって、江戸時代にそれなりに発展したの
だと思います。

ちなみに名称不明のうまやとしてマーキングされている場所は八幡町
垣内(かいち)ですね。仏通寺から崖に造られた道をゆっくりと登って
久井町坂井原トチ谷へ出て隣村の八幡町垣内の御調川で馬に水を
飲ましてねぎらって、もう一踏ん張り尾道市御調町市村まで行って欲しい
場所ですね。
八幡町には豪族の敷地跡や古墳はもちろん龍王山山頂近くに武士の
墓もありますが、地名の由来はたぶん宇佐八幡宮の巫女だった菅原
道真の姉が八幡町宮内に流刑され後年御調八幡宮が建立されて三つ
作られた鳥居の一つが八幡町本庄に建てられ本庄地区が八幡村と
称したことだと思います。
また、久井という地名は元々県道25号線沿いの江木や下津など(吉田
を除いた現在の久井町の北東部)を指していたようで、久井町役場の
近くの大字和草字黒郷の90代の女性は下津から来る車を見ては「久井
から来る車が見える」と言っているようです。
道が狭いことに言及なさっていますが、本町の本通りとか本郷町の
商店街の西国街道など大名行列が通ったはずの道は皆道幅が狭い
です。昭和30年代に皆実町に国道2号線が移設された時母は「大きな
道ができたと思った」と言うのですから、備後地方全体がモータリゼー
ションに適さない道幅だったのだと思います。

全く違う話になりますが、垣内から県道25号を3キロほど南下すると
西に分かれる道があり、この道を川沿いに徒歩で南下するとかつては
西野町小西に行くことができました。昭和20年代まではお腹が減って
いても皆健脚で八幡町民や御調町津蟹の人はよくこの道を往来し
八幡町と西野町はまるで隣村のような状態で八幡町と西野町の村人で
しばしば婚姻関係が結ばれ、昭和60年代までは双方の地区で個人
情報が筒抜け状態でした。

(引用ここまで)

これがご指摘にあった「かつての恵下谷の往来道」である。(撮影私:2014年6月)


現在は往来は谷の底ではなく、山肌部分に無理矢理とって付けた
ように作られた道路県道25号線が
通っている。今でこそ上下一車線
の複線になったが、私が子どもの時分までは、離合困難な嘘のように
狭い道だった。路線バスはそこを通っていて、離合エリアで離合して
いた。この道は昭和20年代に敷設されたようだ。



現在の県道25号線から崖下には上掲画像の古来の往来が通っているが、
谷が深く、見下ろしてもまったく旧道は見えない。


谷は深い。


ご指摘いただいた方の説明に基づくと、この大正15年6月17日と
日付のある石碑は、谷下の
往来道にあった物をこの山間部道路の
県道25号線に戦後移設したということになる。



再び登場してもらうが、ここがかつての三原城下から北方へ抜ける
道である。ここを戦後木炭トラックなどが通ったらしい。
(現在は車両通行不能)



この谷底の道の写真を見たら、古代飛鳥奈良平安、中世鎌倉室町時代から
景色が変っていないかのように
思えるが、それは錯覚で、昭和20年代
までは往来として利用されていたのでもっと栄えた整備された道路状態で
あったはずだと推測できる。

この写真のような状態は、昭和20年代に山間部に道路が敷設されて以降、
使用されなくなり放置され、現在に至り先祖返りのように天然化
した状態
なのだろう。
建造物は「廃墟」となるが、未舗装道路などが自然状態に戻るのはほんの
数十年で自然化するようだ。
この風景を見ていると、人類の痕跡は人がいなくなるとやがてすべて消えて
行く運命にあるようにも思えてくる。



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斬釘截鉄

2016年04月12日 | 文学・歴史・文化


斬釘截鉄(ざんていせってつ)は禅語である。
二代目小林康宏復活刀(游雲会プロジェクト)の第一号刀では、なかごの銘に
この語を切った。
登録の際には、登録審査員が「康宏でなくとも釘くらいは切れるのに何だ
この銘」と言って揶揄した。
無知とは恐ろしいものである。
禅語である斬釘截鉄は、鉄をも断つ強い意志で困難を克服する、その信念を
曲げずに貫く、という意味だ。
第一号刀の注文主から相談を受け、私が復活の証にふさわしい語として提案
し、それが採用された。

さて、キルには斬と切という漢字がある。
漢字辞典を引いて原意を知って欲しいのだが、斬とは斬り割くことで、切
とは二つに切り離すことを意味する。
切断することを切という。
切腹と斬首では漢字の原意が逆転してしまっているが、こうしたことは時々
起こる。甲冑も甲がヨロイで冑がカブトであったところ、いつの間にか逆転
してしまった。

では、斬釘截鉄で使われている「截(せつ)」とはどういう意味か。
この截(せつ)は、「ズバリと断ち切る」という意味がある。
未練なくスパッと切り離すことを意味している。

截(せつ)は禅語であり、仏教用語なのだが、仏語といってもフランス語では
ない(笑)。
しかし、フランス人に説明するならば、さしずめ、フランス語では、
coupe(クゥペ)=切(せつ)、couper(クゥピィ)=截(せつ)となるかも知れない。

浮世の未練を断ち切る時には「截(せつ)」だろうが、間違って「裁(さい)」
としてしまうと、うまくより分けるという意味になるので、世の中を上手
に泳ぐことのようにも思える。
なんだか、「截(せつ)」とは違って俗っぽい(笑


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刀の差し方

2016年04月12日 | 文学・歴史・文化


(ネットから)

大刀の差し方は大別して4種ある。
閂(かんぬき)、鶺鴒(せきれい)、落とし、天神だ。
天神は太刀のように刃を下に向ける差し方で、馬上や甲冑着用の際の固定
方式で、平時や登城時の差し方ではない。

上掲の画像は「正しい」としているが、二つの点で誤り。
一つは、刀の差し方は状況により異なるので、画一的に「これが正しい」
とは括れないこと。
画像の場合、「閂差しはこれが正しい」とすべきだろう。
もう一つは、下げ緒の取り回しが全く正しくない。
大刀のこの下げ緒の取り回しは昭和初期に中山乙吉(号博道)が発明した方法
であり、江戸期の大刀下げ緒のさばき方ではない。
中山博道の大刀下げ緒の前垂らし袴紐への右結束は、昭和10年出版の書籍
に既に見られる。
前に垂らすので、袴紐への結束なくば処理ができない昭和新方式である。
幕末古写真で、大刀下げ緒を前に回して右に絡める侍の姿が一葉のみ残って
いるが、だらんと前に垂らしてはいない。
この中山式の下げ緒さばきは、昭和以前には今のところ絵図にせよ文章に
せよ、史料としては発見されていない。すべて残された史料では、下げ緒は
鞘に掛けて栗形より後方の下に垂らしている。

では、中山式下げ緒さばきならば、戦後昭和30年代から呼称しはじめた夢想
神伝流であれば上掲の写真は正しい
ではないか、と思われる向きもあるだろうが、それも間違い。
夢想神伝流は大刀一口(ひとふり)のみを帯刀する。
居合稽古は古来より一口のみ帯びて行った。剣術の竹刀稽古で竹刀二本を
帯びないのと同じである。
また、歴史的に、江戸期の武士と侍の違い、大小二口差しと一口差しの違い
等の歴史背景もあるのだが、それはここでは割愛する。

要するに、上掲の写真は、二重の意味で整合性がなく、完全に間違い。
全く「正しい差し方」ではない。

中途半端に正しい部分を入れると、辻褄が合わなくなる。
きちんと、「何がどうなのか」と見極めよう。
似たようなちぐはぐな例として、江戸期の様式で下げ緒を鞘掛けにして垂ら
しているのを時々見かけるが、これも下げ緒取り回しだけ江戸期方式を採り
入れているのでおかしなことになる。
昭和時代に袴紐への結束を前提に考案されて登場した現代居合用の長い下げ
緒のまま鞘掛けしているので、床に引きずるほどの下げ緒を下に垂らして
「正式」としているのである。
上掲の写真と同じで、面妖なること甚だしい。
江戸期方式で鞘掛けするならば、江戸期の下げ緒の長さにして掛け垂らさ
ないと珍妙なことになってしまうのである。
上掲の写真のように、かなりちぐはぐでおかしなことをしながら「正しい」
とするのは、自己中心的な自己満足であるだけで、常識的にみるとイタい。
現代において、背広のズボンをはかず
にステテコのまま背広を着て外出した
ら珍妙であることと一緒なのである。

大小二本を差すならば、大刀の下げ緒は鞘に掛ける。これはどの派であって
もだ。流派は関係ない。
剣士が袴をはくことは、流派に関係なく袴をはく。
そのように、二本を帯びるならば大刀の下げ緒は、流派に関係なく江戸期と
同じく鞘に掛ける。刀を差すには流派関係なく袴をはくのと同じだ。
大刀一口のみ帯びての下げ緒取り回しは、流派演武の際には各現代流派の
流儀による。
一番古い系統の鹿島の流派も夢想神伝流方式を真似て改変し、新陰流居合
(柳生厳長が創始)の全剣連所属派新陰流も平成18年から夢想神伝流方式
に変更している。
如何に中山博道派が戦前から戦後70年を過ぎた時代までも強烈な影響力を
持つかが窺い知れる。

だが、夢想神伝流に二刀差しはない。
なので、二刀差しの場合は、すべて流派に関係なく、江戸期様式を踏襲す
べきである。

最近の時代劇の傾向として、江戸期の侍が二刀差しで大刀下げ緒を前垂らし
右結束にしていることが多く見られる。
とてつもなく珍妙である。
うっかり八兵衛の「ご隠居!チャンスです」みたいなものだ。

夢想神伝流の剣士でも、居合指導等の場合に、さっと刀を帯びてすぐに
形を示す場合に、下げ緒をパッと江戸期方式に鞘掛けにすることがある。
これは五六段の中段者だけでなく、神伝流の範士八段でもそのようにして
いることを私は何度も実見している。
これはこれで、意味がよく解る。
下げ緒さばきが素早いからだ。
ここにこそ、江戸期の下げ緒さばきの本当の意味がある。
下げ緒は何に使うのか。
すぐに外せないようでは、下げ緒を鞘に着けている意味がないのだ。
元々下げ緒は戦陣軍装の際に甲冑着用時の刀剣の固定に使用されたが、
その後に長さがどんどん短くなり、江戸初期には二尺二寸ほどになって
しまった。
また、下げ緒は紐であるので、襷になったり、呪縛用にも使える。
さっと外せるようにしておくのが下げ緒を活かすことであり、事実、だから
こそ江戸期の武士は下げ緒を鞘に掛けて下に垂らすことをしていた。
現代の平時におけるフォーマルウエアにおいて、私は首から垂れ下げるネク
タイの意味を知らないが、垂れ下げさせてもネクタイは「だらしない」とは
されない。
それと同じく、江戸期にも鞘掛けして垂れ下げた下げ緒をだらしないと捉え
る発想は江戸期の人々にはなかったのではなかろうか。
武士、侍、剣士は、大刀の下げ緒は鞘に掛けて下に垂らした。一口差しでも
そうした。
それが武家政権時代の標準仕様である。



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シソウシンジョウ?んなもんねーよ。あるのは命だけ。

2016年04月09日 | 文学・歴史・文化

道場の居合仲間のある高校教師が私に言った。
「え?あなた右翼じゃなかったの?てっきり日頃の発言から極右かと思ってた」と。
いえ、あえて云うならば、いわゆるマスコミからかつて喜劇派と呼ばれた極サです(笑
ほんとは主義者でなく協賛趣味者だけどな〜。
協賛趣味者同盟焚火(たきび)派なんだ、おれ(笑



まあ、右も左も本当の真実は同心円でぐるっと回って繋がってるんだけどね。
宙ぶらりんのニセ右翼やノンポリに限って、右だの左だのだけで分けたがる。
真実の奥はもっと深い。そんな単純なものではない。
てか、まじなのは、ぐだぐだめんどっちーんでよく知らんけどね。


あ!
ゼリーがこのメットで登場したのは1988年だが、チクチョー!アウトピンが外周
に露出したのではない
当時のメットの中でもオサレな型式のヘルメットだ。
キヨシローめ、やりやがったな。

ただし、60年代〜70年代型は、インナーの固定には細いロープのような紐が
外周に飛び飛びにめぐらされていた。
学園紛争などの映画を撮影する時には、時代考証は正確に。
このキヨシロー、いやゼリーのつるんとしたタイプで1960年代末期を再現したら、
それは嘘っす。




現行タイプ。なんだかカッチョワリ〜。白嫌いだし(笑)。でも仕事だからしかたない。

お。なんだよ、つるりんタイプも売ってるじゃん。
なになに?
左からチュン、ミン、中大(某学部)、旧アオカイ、べ平連(薄)、アオカイ(70年代)、
四トロ、中大(某学部)、中大(某学部)、明大ブント(not 竹内)でしゅか(笑


なんだよ。ワレワレワァの青空直下の俺様自己主張のPR色ばかりで、
暗黙集団の夜戦戦闘仕様の焦げ茶サンドブラストが
ねぇじゃねーか(苦笑
ありゃあ、きっと忍者装束の柿渋染めにヒントを得てたな(笑

あれ?
一般市販の安全帽って、黒がないね、黒が。知らなかった。

黒ヘル(ノンセクトの色)を被る野坂昭如先生。

「心情三派」とか言ってた頃?1969年12月頃の写真。1969年だとしたら三派
全学連の時代じゃないのになぁ。セクト主導は実質上は崩壊よ。セクトに反する
全共闘の時代だ。野坂もわかってねぇなぁ。(ちょっとマニアックな社会史だけど)
てか、野坂のおっちゃんは「焼跡闇市派」を名乗って左翼も右翼も批判してたよな。
しかし、この姿はどう見ても新左翼(笑
まあ、テキトーな人だからね。心情について信用はできるが、信条については
信頼はできん。
人の事言えないけど(笑

大島渚のパーティーに呼ばれて、発言求められたときに野坂がいきなり大島
監督をぶん殴ったのはよかったよ(笑
監督も負けじとマイクで「クヌヤロ、クヌヤロ!」とぶん殴り返してたけどな。
世の中、そうでなくっちゃいけない。
最近の東京都内の花見、みぃ〜んな牙抜かれた羊みたいに縮こまってよ、
つまんないよ〜!みんな!
収集つかなくなって、機動隊が出てくるくらいの花見をしないとな〜。
在京時代はとにかく花見は面白かったよ。
隣りの一角で仲良くなった元自衛隊員たちなんて(ヘリ団だった)、洗足池
公園入り口にあったウルトラマンのでかい人形とか担いで持ってきちゃって
ドンチャン騒ぎしてたしさぁ。あんなのどうやって持ってきたのさと思ったけど、
肉体派だから苦もなく担いで来たみたい。
意気投合してうちのグループととことん盛り上がったけどさ(笑
酔って肩組んで全員で軍歌とインターナショナル(革命歌)を歌ってた(笑

こういうことやってっから「ただの愚連隊」とか言われちゃうんだよな。

ケーサツは昔から濃紺(機動隊)と権中核納言みたいな白だね。


最近は黒いのもあるみたいだけど。


一度、指揮車の上の機動隊員に指テッポでバーンとやるゼスチャーをしたら、
アウッと撃たれたような反応してくれた機動隊員がいた。
あれ、絶対に大阪出身だな(笑
でも、その直後に向こうが指テッポでバ〜ンとこちらを撃つしぐさをした。
なかなかシャレの解る奴だったよ(笑
(実話)


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生麦事件

2016年04月05日 | 文学・歴史・文化


生麦事件現場

この写真を見て、影の向きからこれが江戸方面から神奈川方面を
向いて撮影されたものだと判る。
写真右手に写る山影は、現在の横浜市鶴見区から神奈川区にかけて
の丘陵地帯である。(花月園競輪があったあたり)


TVドラマでの生麦事件の現場は、実際の生麦事件の現場に
似たオープンセットで撮影されていた。


生麦事件(ドラマ)


だが、劇中のナレーションには以下のようにある。
「八月二十一日、久光は江戸を発って京へ向かった」と。
となると、この映像はおかしい。
影からして画像左側が南方であり、この島津の行列は東海道を
西から東、つまり京から江戸に向けての方角に行進していること
になる。
惜しい(^^;
また、英国人を斬殺した際の描写も現実の事件とは大きく異なるし、
殺害実行者も現実とは異なるのだが、それはドラマ描写だから
割愛する。

どこかの河川敷だろうが、実際の生麦と似た風景の場所をロケハン
したスタッフに拍手を送りたい。行列の向きがまったく逆だけど。
たぶん、スタッフが上掲の幕末古写真を見て探してきてロケ地が確定
したが、古写真の
向きのまま江戸と京の東西南北の位置関係を考え
ずに監督がカメラを
回してしまったのだろうなぁ。
こういうのは監督のドボンだね。
西から昇ったお日様が東に沈むのはバカボンの世界だけなので、
こうしたミスはさすがにアレなわけで(^^;
活劇の表現としては人物がどのような動作でもよいとは思うが、
「江戸を発って京へ向かう」のが、明らかに映像上で西から東に
行列が進んでいたら、明白におかしいことなのである。
現代劇で富士山をバックに左から右に富士川鉄橋を走る新幹線を
南側から映しながら「東京を出発して京都に向かった」とかいうナレー
ションがかぶるのっておかしいでしょう?
もっと極端に言えば、東京駅に入ってきている列車を東京駅のホームで
撮影して、「これに乗り今東京から京都に向う」とするとか。
それ。

さらに突っ込むと、生麦事件があった文久二年八月二十一日はグレゴリオ
暦でいうと1862年9月14日であるから、このドラマ映像のバックで鳴く
蝉の声はおかしいということにもなる。ツクツクホーシ全開ならまだしも。
音声にはツクツクホーシも混ざって鳴いているので、確かに季節的に
大外れではないが、多分現行太陽暦でお盆過ぎ頃に撮影されたのでは
なかろうか。
また、蝉の種類としては東日本と西日本では生態系が逆転し、関東では
関西と逆でミンミンゼミは平地、アブラゼミが山地であり、この映像の蝉の
鳴き声からすると、同時録音だとすると、このシーンは西日本で撮影された
ことが判る。
お笑い芸人の山口智充氏がよくやるモノマネの蝉の鳴き声は、あれは彼が
大坂出身だから蝉の鳴き声がジージーシーシーシャワシャワシャワなので
あって、関東ならばミーンミンでないと市街地では馴染みが薄い。
ただし、山間部とまではいかないちょっとした丘陵地=生麦事件があった
生麦の西北方面の横浜市の総持寺の裏の鶴見区東寺尾中台・北台あたり
ではアブラゼミがシーシー鳴くことはある。(実質は丘というより小高い山
が連なる地形が横浜鶴見の山の手だ)
だが、山の手とは違い、海辺の生麦においてはミンミンゼミの棲息が圧倒的に
多い。

従って、見る者が見れば、このドラマでのシーンがおかしい、似て非なるもので
あることは一発で見抜くことができる。
ただ、映像活劇はドキュメンタリー再現フィルムではないので、それが許され
るし、また克明に時代状況と現場をただ写しとることに主眼はない。
芸術表現とはそういうものだろう。
これは現代日本刀の作刀における表現意思にあっても、まったく同じだと
私は考えている。


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煤竹

2016年04月03日 | 文学・歴史・文化

古民家の解体があったとのことで、日本刀探究苑游雲会の山陰のメンバー
から煤竹をいただいた。感謝!

煤竹(すすだけ/ばいちく)は、一般民家で100年〜200年ほど
煙で燻された竹のことで、茶褐色に変色する。粘りがあり丈夫だ。
最近では人工的に短時間で燻製により煤竹が作られているようだが、
本煤竹は気の遠くなるような年月をかけないと出来上がらない。

こういう民家で親子4世代前後にわたりじっくりと作られるのが本物の
煤竹だ。


囲炉裏の天井にはこのように竹が敷き詰められている。
これが200年後には煤竹になる。気の長い話だ。
だが、こうした長年かけて熟成してはじめて完成する物品という
ものが日本には存在する。


「時間をかけるのはナンセンス」というネット世代の落とし後ホリエモンには
絶対に理解できない世界だろう。
また、「金を出せば何でも手に入る」という彼の感覚も、こうした長い年月の
文化の重みに理解が及ばないことだろう。
彼に代表される一般的現代感覚は、刃物よりも鉛筆削り、鉛筆削りよりも
電動鉛筆削り、という利便性のみが「良質」だと勘違いしているからだ。

囲炉裏の自在鉤のパーツにはなぜ魚が多いのか。


その理由は、日本には古くから「 懸魚(げぎょ) 」を設えるという思想がある
背景があることと関係している。
火に対しては防火上の精神性を表現するものは魚でなくばならない。
日本の伝統的文化であり、もともと外来の風習であるとはいえ、こうした
ことは日本で発展した独自の「日本人らしさ」なのである。
「囲炉裏?エアコンあればいいじゃん」「防火?スプリンクラーねぇのかよ」

済まそうとしても済ますことができない歴史の重みがこの囲炉裏の魚にはある。
日本の文化には和色や文様等、さまざまなものがあるが、国風文化を失うと
いうことは日本の心が消滅するということだ。

西欧型資本主義経済体制下では、企業売却は普通に起きる。資本主義体制下
においては、「金」こそがすべてだからだ。利益が上がらなく負債を抱えたら
技術力含めて会社を売却する。
NEWSにもあったように、国内大手の家電メーカー数社が海外企業に買収された。
パナソニックは2012年に三洋電機から引き継いだ白物家電事業を中国のハイ
アール・グループに売却し、東芝はインドネシアのテレビ工場を中国のスカイワース社
に売却し中国国内販売権を譲渡した。そして今回はシャープが中国の鴻海傘下と
なった。
トラックメーカーでは、三菱ふそうはディムラー傘下となり、日産ディーゼルは日産
系列から離脱してUDトラックスとなりボルボに買収された。乗用車業界でも、日産も
マツダも海外の資本が経営権を握るようになった。

自由主義というものは、そういうものだ。生活に自由がある、思想信条の自由がある
ということではない。「競争の自由」であり、「収益確保の自由」であるのだ。
土地売買も当然自由である。
現在、中国人と韓国人が物凄い勢いで日本の地面を買いまくっている。
あと、100年後には、日本は中華人民共和国の一地方となっているかもしれない。
自由主義というものは、そういうものなのだ。別段、基本的人権の尊重、国民主権、
平和主義という憲法に保障されたものが民主主義体制下の基本事項なのではない
し、ましてそれらが「自由主義世界の一員としての象徴」などというものではない。
資本主義体制は高度に発達すればするほど、自ら崩壊へと突き進まざるを得ない
仕組みであり、そういう体制なのだとたれか知る。

TPP推進により日本の国内第一次産業はこれからじわじわと死滅に向かう。国の
第一次基幹産業(とりわけ酪農を含む農業)は壊滅する。
自民党って、先の総選挙の前には「TPP断固反対!絶対に軸がぶれない自民党」
と選挙公約で明言していたのに、政権に返り咲いたらケロリと掌を返した。
掌返しの無策民主党とどっこい大作というわけだ。
戦後一貫して売国奴たち(社会党含む)が支配する政治社会のまま存在できる国。
残念ながら、それがわれらが愛すべき日本なのである。

関係ないんだよ。国土や国民や邦なんて、そういう資本家とそれに連座する有産
階級の別な顔を持つ政治屋の連中にとってみれば。
知らないうちにポケットにお小遣いが1700万円も毎月入っているような連中ばかり
なのだから。
そゆこと。

やはり日本革命というのは必要なのではなかろうかと思うが、まあ国民の多くが
売国奴を支持しているのだから、そんな国民のための革命など必要ない。
ただ、覚醒を促す前衛=アバンギャルドによるアジテーションは今後も必要かとは
思う。

長い歴史を経て人前にやって来た煤竹を眺めて、ふとそんなことを思ったよ。


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特性の違い 〜映画を観る人、観ない人〜

2016年03月23日 | 文学・歴史・文化

DVDおよびビデオはそれほど大量には所蔵してはいないが、映画好きであるので
そこそこの数は持っている。

ある時、ビリヤード関係の知り合いが、私が店で語った撞球を軸に親子友人
関係を描いた1981年の邦画作品について、「ぜひ観たいからDVD貸して
ほしい」と言った。「絶対に観てみたい」と。
貸した。
人に貸した物を返してくれとはあまり私は言わない。
だが、1年たっても、その貸し出したDVDはお店の棚に置かれたままだった。
「観たの?」と訊いたら、まったく観ていないという。
答えを聞いたその場で即行で回収した。
「え〜っ?持って帰っちゃうのですか?」と言っていたが、神経がよく理解できない。
一方、映画・文学作品好きの別な店のマスターは、私が貸し出した映画はすべて
じっくりと観賞し、彼なりの感想を述べてくれ、いろいろ作品評について語り合う
ことができた。


ある人とバイクのレースの話になった。
日本国内で空前絶後のバイクブームが吹き荒れるきっかけともなった1982年
の角川映画に話題が及ぶと、その人は「観ていない」という。その映画について
触れると「DVD持ってる?まじっすか。観たいから貸して」と言う。
数か月して、「どうだった?」と訊いたら、「自分にとっては古すぎる映画だから
観ていない」と言う。
即、「DVD返してくれ」と頼んだ。
その人は「白黒映画も古すぎるから観ない」という。
なるほど。
白黒フィルムの映画をモノクロゆえ観る対象ではないとするならば、世の
中の
かつての名作やあえてモノクロで撮影された傑作などの世界は一生知らないまま
ということになる。
古今東西の名作を一切知らないままで生きていくということになる。

世界中、特に欧米で「もっとも観るべき外国語映画」と絶賛される『七人の侍』(1954年)。
私は何十回観たかわからない。何度観ても新しい発見がある。テーマも映像も真の名作だ。


名作『ローマの休日』(1953年)。この23才のヘップバーンに私は心を射抜かれた。


傑作『荒野の決闘』(1946年)。今でも私はリンダが演じたクレメンタインのとりこだ。
彼女が心から離れない。



『カサブランカ』(1942年)。私はビアホールでのナチスを黙らせるフランス国家合唱
のシーンに胸が熱くなった。


『駅馬車』(1939年)。史上の傑作だ。


『ハスラー』(1961年)。あえてモノクロで撮影された。同年公開の『ウエストサイド
ストーリー』とオスカーで競ったが、主演のニューマンはオスカーを逃した。
私はビデオは擦り切れるほど観て、DVDも数限りなく観ている。台詞も数十分程
覚えてしまっている。この作品は撞球映画ではなく、深い人間ドラマである。
この映画のテーマから学ぶことは多い。「落後者はいつも言い訳を探している」。



他にも多くの名作映画作品は存在する。
本来映画は劇場で観るものだが、公開後にはメディアで観賞するしか手がない。
ビデオやDVDやブルーレイの発達は、映画ファンにとって光明をもたらした。

ぜひ観たい、貸してくれ、と言われてDVDを貸す。
しかし、まったく観ない。
中には「15分〜30分ごとに区切って時間のあるときに観る」という人も二名いた。
残念すぎる。それは映画観賞ではなく、ながら作業で「眺めている」だけだ。
文芸作品でラブシーンがあり、その場面になったら突然視聴を中止し「こんな
ふしだらな作品を貸すとはどういうつもりなのか」と怒りながら返却してきた人間
もいる。

人それぞれであるので自由にやってもらっていい。自由に生きてくれ。
映画や芸術作品への接触は、人から薦められてではなく、自己の内発に
よるものでなくば、決してその表現された芸術作品そのものに触れることは
できないからだ。人から言われて眺めていても何も表現の世界というものは
解らず、自分から能動的に向かっていかないと芸術の声は自分では聞こえない。
だから、せっかく貸したのにその好意を無にしてはいけないから、とかいう
観点からいやいや映画を観てもらっても、こちらが迷惑だ。甚だ迷惑だ。
そして、彼ら彼女らは自分に正直に「自ら望んで貸し出しを希望した映画を
観ない」という選択をまさに実行してきた。

だが、私は気付いた。そうした人たちには、ある特定の厳然たる共通項があることを。
そうした人たちは、文学という文字の文芸作品を読まない。ほぼ一切読まない。
どうやら、文字が連なっているのに接するというのが苦痛のようだ。

人的特性の問題だと私は理解するに至った。
映画を観る観ないは、本当に映画を観る人、観ない人、その両極に属する人の
単なる個人的な特性でしかない、と。
そして、人には「映画を観る人と観ない人」がいる、ということに気付いた。


ただ、モノクロゆえ古すぎるから観ない、というのは、古今東西の名作映画を一切
知らないまま死を迎えるということだ。
人間が人間ゆえ作った創作映像作品に触れ、その映像描写により感受が生まれ、
人間の事や人間社会の事を考える、また単純に娯楽として楽しむという人としての
思索の思惟活動や情操などの感情の舞踏の開始を放棄するということであり、
これは私個人としては、いかさま
もったいのうござると思う次第にて御座候。


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