渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

日本には存在しない物 ~日本にはまだない欧米文化~

2017年04月25日 | 文学・歴史・文化






ビリヤード観戦用のスペクテイター・チェアは日本には存在しない。
海外サイトを検索していて「これは代用品としても◎」と思った
これら「ハイ・ディレクターズ・チェア」さえも日本には存在しない。
そうした状況を見るに、完全に日本の椅子文化の未成熟さを感じる。
西洋式文化導入から来年で150年
になる日本だが、米国にはごく当たり
前に存在するのに国内には一切
存在しない、輸入さえしていない種類の
椅子がいくつもあるという、俄かには信じ難い現実
がある。

まれに輸入したりしている場合もある。


欧米で1万円ほどのこの椅子を8万円近くする価格で北欧
輸入家具として販売している(笑)。

アメリカで数十ドル、高くとも百ドル台の折り畳み椅子が
8倍近い値段で販売。

輸入家具の世界ってそうなの?
それと、目黒通りや代官山あたりは何故アンティーク輸入
家具屋が多いのだろう。謎。


高さが違う折り畳みディレクターチェアがごく普通に米国
では揃っている。


それは、椅子についての文化がしっかりと日常生活の中で
ごく普通に根付いているからだろう。日本の畳の大きさ

京間・江戸間とあるように、椅子とテーブルについて
不動
の文化的な素地が欧米にはある。



日本の椅子の種類はせいぜいこのくらい。


ここでいう「肘掛け椅子」の背高版などという発想は
日本人には微塵も無く、また使い方を知らないので作り
もしないし、そうした椅子を見ても輸入さえもしてこな
かったのだろう。「普及度が未成熟」というのではなく、
存在その
ものが生じていないという現実あり。
これは欧米から見たら、「料理はするが、塩の存在を
知らない人種」のようなものに映るのではなかろうか。

これが本家本元の「観戦者椅子(直訳)」のスペクテイター・
チェアだ。さらに、老舗ブランズウィック社のこの椅子は、
座の下部は抽斗になっていてボールその他小物を収納可能。



日本国内でもこういうガーデンチェアは1万円ほどで
販売されている。まあ適正価格だろう。


ところが、これの背を少しだけ高くした日本のビリヤード専門業者
が販売しているツイン観戦椅子となると、8万円になる(笑)。

意味するところをご理解いただきたい。
本家ブランズウィックの重厚な観戦椅子は米ドルでも1脚8万円程
するが、それなりのしっかりとした作りだ。
だが、国内販売されているビリヤード用の椅子は・・・(^^;
画像はここでは出しません。
国産観戦椅子の欠陥としては、キューを立て掛けるえぐれ部分が
弱く、すぐに割れます。米国製の物を見るに、角にはキュー立てを
設置していないが、国内販売(中国製)されている物は、コーナー
部分にキュー立てのえぐれを設けています。
実際にこのダブルチェアを置いているビリヤード場に行くと、しば
らく使った物は軒並みこの部分が折れている。
日本はまだまだだなぁ、と感じる次第。本場物をよく見ろ、と。
やはり、何事も本物を見ないと駄目だよね、ということでして。

(日本国内で販売されているダブル観戦椅子。肘掛けのキュー立て
部分が欠損します。構造的欠点があるばかりか、非常に作りが安っ
ぽい。これはアダムからリリースされている中国産の観戦椅子)


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時代

2017年04月24日 | 文学・歴史・文化



花谷勝さん。
全米トッププロを招待した1973年全日本選手権大会において、マシンガン
の異名をとるルー・ビューテラーをストレートプールで破った伝説の男。
この写真はその当時のものである。
プールにおいてアメリカ人トップクラスのプレーヤーを公式戦で下した
日本人は花谷プロが歴史上初めてではなかろうか。
その後、花谷プロは藤間プロと世界最大のビッグタイトルであるU.S
オープンに出場した。

日本の撞球界の世界的先駆者は戦前に何人もいて、渡米してスリー
クッションや三つ球で名を馳せたが、ポケット・ビリヤードが日本に
おいて知られるようになったのは1970年代からだった。ポケット
自体は戦前から存在はしたが、四つ球の添え物的な時間待ちのお遊び台
と考えられていて、ビリヤードといえば主流はキャロムのことだった。
ポケットは1960年代に国内ではいち早く京都のプレーヤーが競技
種目として広めたが、ポケット・ビリヤードのことは「ローテーション」
「ロ式」と呼ばれており、米語であるポケット・ビリヤードという言葉
さえ多くの日本人には知られていなかった。
そのため、1961年の映画『ハスラー』公開による日本における
1960年代初期の大ビリヤードブームにおいても、日本人は日本が
明治時代に輸入して大正時代に大流行した四つ球に夢中になっていた。
1974年発行の藤間一男氏(日本のポケット・ビリヤードのプロ1号)
の著書の『ポケット・ビリヤード入門』には、ポケット・ビリヤードと
いう聞きなれない言葉が、実は台に穴のあるビリヤードであることを
紹介している。普段ローテーションと呼ばれるそのビリヤードが
「ポケット・ビリヤード」という新しい言葉で呼ぶことを働きかけ
たのは、藤間氏や花谷氏の日本のポケット・ビリヤード第1期生
たちだったのである。
こうした正しい歴史は、競技者としてはきちんと知っておく必要が
ある。パイオニアである先人たちに敬意を払わないという競技者は、
スポーツマンシップにおいても、日本の伝統的な社会人としての慣習
や資質にそぐわないからである。
そして、その藤間氏たちが広めたポケット・ビリヤードという
ビリヤードの一種目が「プール」という米語で呼ばれるのがアメリカ
では標準であることを日本人が初めて知ったのは1986年に公開された
映画『ハスラー2』によってだった。
また建設会社が黒字減らしのために新方式のバーを考案して登録商標で
登録して直営店をオープンし、映画公開とともに空前絶後の大ブーム
となったことも、ポケット・ビリヤード=プールである認識を広めた。
その新様式のバー名称は「プール・バー」といった。
1987年には、一般ビリヤード場もプール・バーも、テーブルの空き
待ちは5時間待ちというのも当たり前だった。また、赤坂などの
都心では、1時間1000円のプレー代でも、数時間待ちという状態
だった。それほど、戦後第二次ビリヤード・ブームは爆発的な
ブームだったのである。
日本人は1986年に「プール」という呼び名を初めて知ったのである。


また、現在においては、14.1ラック・コンティニューという種目の
正式名称もそれを通称「ストレートプール」と呼ぶことを日本国内
のビリヤードをやる人間たちでさえよく知らないとう現状がある。
14.1のことを14-1と日本では多く誤って書かれ、また14.1の呼び方を
「フォーティーワン」などと呼ぶ。ポケット・ビリヤードのプロでさえ
そのように呼ぶ。

プロのプレーヤーはただ玉を入れればそれで良いということではない。
きちんとした文化、正しい呼称や形態をちゃんと伝承させ世に広める
ことを視界の普及と発展の言動を花谷さんの時代のプロはやっていた。
今はどうか。
14.1ラックは略称でも、きちんと「フォーティーンワン」と音声では
呼ぶべきであるし、常識的な語学としても14を41などと呼ぶ頭の
マズさは晒さないでほしい。
そして、ストレートプールという俗称でアメリカでは広く呼ばれる
ことも知ってほしい。
ポケット・ビリヤードという米語の正式名称が、プールという俗称で
多くは呼ばれるのがアメリカを始めとする世界標準であるように、
14.ラック・コンティニューもストレートプールと呼ばれている
ことをきちんと知ってほしい。


現在の花谷プロ。キューエンドのデルリンは長い。日本のプール界の
黎明期の達人であることが即座に読み取れる。


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アンティーク物

2017年04月22日 | 文学・歴史・文化



うおおお~!
売りに出されているこの1916年製のプールテーブルがめちゃくちゃ
欲しい!ロシア革命よりも前のテーブルじゃないか!!
あれ?今年ロシア革命100周年?ほげ~~~。プチびっくり。

リターン式だぜ。こりゃすごい。




こういうのがアンティーク物として売買されているアメリカってのは
いいなぁ・・・。
まあ、日本には無いので無い物ねだりなのだろうが、米国人が
日本刀に対して抱く気持ちのようなものか。

プールテーブルときたら、当然にして撞球専門観戦椅子=スペク
テイター・チェアというものが付き物だ。
これはビリヤードの必須アイテムなのだが、日本には椅子文化が
定着しなかった頃にビリヤードテーブルだけが鹿鳴館はじめ東京
の飲食店(精養軒などの洋食店)にビリヤードテーブルが明治時代
に置かれはじめ、椅子は通常の椅子が使われた。

しかし。
ビリヤードといえばこの観戦椅子が必須なのだ。プレーヤーもこれに
座るが、観客もこれに座って観戦する。


当然一脚のみでは駄目で、最低二脚でセットだ。


この観戦椅子についても、米国ではアンティーク物が格安で手に入る。
この文化の違いは決定的で、日本においては21世紀16年過ぎた今
現在においても、このスペクテイター・チェアーを製造販売している
家具屋もビリヤードメーカーも一切存在しない。
この椅子自体が日本には存在しない。
そんな馬鹿な?と思われるかも知れないが、個人的な輸入はいざ知
らず、日本国内のビリヤード場においては、この米国の専門椅子は
まったく存在していない。
まさに、んな馬鹿な?だよね(^^;

たぶん・・・値段が高いから輸入してまで買わない、というだけのことだ
と思う。
それって、本当は「日本刀は拵付を買ったけど、鍔は高いから買わない」
ということに等しいんだよね、ほんとは(^^;

ビリヤードテーブルに観戦椅子。これはセットなんです、ほんとは。




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広島弁

2017年04月22日 | 文学・歴史・文化

ムサコ(※)のボスが「これが広島弁」と紹介していた広島弁。
広島県在住の私だが、ヒヤリングはできても一切この方言を
話せない。一時期、地元に馴染もうと話そうとしたことがあった
が、無茶はやらないに限る。おいらは東京言葉しか話せない。

大阪弁のほうが簡単なのではと思ったりするが、これも大阪人
から「その変な大阪弁はなんやねん」と言われたのでタバコと
同じくスパリとやめた。
私は意志が固いので禁煙などは何度でもできる、わっはっは(わ
というのは私の居合の師匠の台詞なので、相伝で頂いている。


これが広島弁。
「達川光男のすべらない話」

 

ムサコとは目黒区東急目黒線武蔵小山駅界隈のこと。東京人
の呼称法。

ボスとはBOSSであり、広島県福山から都内に転住した撞球人。
たまたま偶然、私がポケット・ビリヤードを覚えたナモシの店
私が都内を去った後に根城にしていた。

ナモシ(あだ名)とはスリーの世界の都内の人間はほぼ知って
いる人で、住吉師の弟子のスリークッションの選手で、ベルギー
撞球渡航の経験あるもポケットに転向。西小山のペンギン
カフェという
玉屋のマスターとなったが、後行方知れずとなった。
あたしらは
本名の下の名前で呼んでいた。武蔵小山「ポケット」
の雇われ
マスターだったが、スリー台1台、ポケット台(1.6穴)
1台の
その武蔵小山「ポケット」がかつて1986年~の私の「毎日
行く店」
だった。毎日とは毎日のことであり、365日のうち365日
という
ことである。これビリ玉界の常識。人生初のマスワリを出し
たのもムサコの「ポケット」だった。ポケットを初めて2ヶ月の頃の
ことであった。マスワリ出すと瓶コーラ1本がサービスで出たのが
「ポケット」のシステムだった。隣りにはカラオケスナックがあり、
何度か、ジョーかのと行ったが、歌うと玉屋のほうまで響き渡ると
いうありさまのまるで戦後のバラックのような造りの建物だった。
だが、1980年代後半の思い出は、ムサコ「ポケット」に凝縮されて
いたのである。


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オンリーワン

2017年04月20日 | 文学・歴史・文化


地球上に存在するすべてのキューの中で私が一番好きな
キューのコンセプトはこれ。

これはバリー・ザンボッティのキューなのだが、ブランズ
ウイックのタイトリストというキューを改造してバラブシュカ
のタイプにしている。


いわゆるハウスキューのようなシバキュー(しばき倒すキュー)
をカスタムしたもので、コンバージョンと呼ばれている。
雷管式(パーカッション)の南北戦争時代のリボルバーを
カートリッヂ式の新方式にコンバージョンすることを米国人
の多くが行なった歴史があるが、アメリカ人はコンビにする
改造がかなり好きだ。
だが、戦後におけるこのタイトリストの改造から現在の
二本ツナギのカスタムキューの歴史が始まった。
バラブシュカも、ガス・ザンボッティもTADコハラも、この
ブランズウィック社の普及版キューのハギのみ使ってキューを
作るところからキュー・ビルダーの仕事をスタートさせている。


ブランズウィック社のタイトリストとは、1900年頃から開発
されて1930年代には一般的に普及していた、ワンピースの
キューで、ビリヤード場に備えつけられたハウスキューなど
にも使用された。
曲がり防止のために本ハギ構造が導入され、化粧のために色付
べニアがハギに組み込まれた。
ワンピース一本物なので、持ち運びが非常に面倒だった。


それを二分割に改造するコンバージョン化が戦時中から
始まり、戦後には完全に「個人的職人カスタム」として
定着した。
それでも、映画『ハスラー』の頃の1960年代にはまだ
一般的に普及はしておらず、ウィリー・ホッペやハーマン・
ランボウなどがビルドする二分割キューは完全なるカスタム・
メイドとして高級キューに属した。
しかし、撞球場を渡り歩く撞球師にとっては、二分割キュー
は必須アイテムだったのである。
そのため、綺麗なハギが標準で入ったブランズウィック社
のタイトリストキューが改造ベースモデルとして多用され
たのである。
これを3乃至4の円柱パーツに分け、それを合体させた物が
コンバージョンキューとして登場した。
バットエンドにはデュポン社が構造軸受材としてリリース
しはじめた新素材デルリン®を使用するのが定番だった。
ただし、デルリン®は接着が利かないので、ボルトでとめる
方式が考案され、そのボルトは重量調整用も兼ねるという
一石二鳥の狙いが定められたのであった。

撞球者でブランズウィックタイトリストを知らない人はいない
とは思うが、一応一般の人向けにもこのような解説のさわり
だけ書いておく。

このジョイント構造のパイロッテッドジョイントを完成させ
たのはロシア移民のジョージ・バラブシュカだった。
金属ネジで締めるだけではなく、シャフトのネジ外周デコポン
凸部がバットジョイントカラー内壁に密着するという二重の
締め付け構造であり、何よりもキューの一体化、ワンピース
時代の撞き味の復元を得ようとして工夫された構造だった。
この結合方法は、現在でもキューの結合法として採用されて
いる。


タイトリストコンバージョンは、そのコンセプト自体に
私は凄く惹かれる。

ベースとなったタイトリストは決して銘木をふんだんに
使った高級キューではない。たまにローズウッドもあったが、
当時はそれほど高級銘木ではなかったし、主としては軍用銃
の銃床などに使われる
普及廉価木材のナトーを使用していた。
しかし、それがカスタム・ビルダーの手にかかってリビルド
されると、仕様はまさに高級カスタムとなる。
偏心が加工により除去されて芯がきちっと出され、更には
完全にハギ部分のみがブランクとして使用されるのだ。
金額ではない。戦闘能力において高級カスタムとなる。
(金額もとんでもなく高くはなるが、高いから高級なの
ではなく、高度な戦闘力を持つから高級であるのだ)

そういうまとめの方向性に私は魅力を感じるのである。
日本刀の作る方向性に少し似ている気がする。
日本刀本体というよりも、いろいろ金具を選んで外装を
作るいわゆる「作り」という拵ね。日本刀の拵を構想して
それを実行するのなどは、まさにコンバージョンモデル
の製作そのものだ。吊るしの背広ではない、合わせ着の
洗練されたセンスが試される楽しくもタフなアクション
である。


ベスト・オブ・ベスト。ブランズウィック・タイトリスト・
コンバージョン。ザンボッティ作なので高すぎてとても
買えないけれど(笑



米国ブランズウイック社は1845年創業の合衆国イリノイ州
シカゴ郊外にある老舗メーカーで、家具調度品やボウリング
やビリヤードの用品を製造する企業である。
バーカウンターなどはブランズウィック社が世界をリード
してきた。

西部ではまだ西部劇のようにドンパチやっていた西部開拓の
時代に大都会シカゴではこれなんだから、都会と西部の田舎
の格差たるや物凄いものがあったと思う。それは当然、当時の
東京と地方の辺境の地の差以上にあったと思う。
1888年の西部開拓時代に、シカゴではこのビル群だ。

(1888年、シカゴのブランズウイック社のファクトリー)

ワイルド・ウエストと呼ばれた西部ではこういう状態。


やっとこさ街ができてきてもこんな感じ。




それがですよ。数十年でこんなになっちゃうのだから、アメリカ
人の開拓魂というか根性ってすごいものがあると思うよ。
(カリフォルニア州サクラメント)


(西部開拓時代のサクラメント)





たぶんこれ↓は、これ↑と同じ位置から100年後ほどに撮影。


ニューヨークの高層ビルのエンパイアステイトビルなんて
完成が1931年だからね。日本の昭和だと昭和6年。日本
なんてのはせいぜい浅草十二階くらいだったが、地震で
簡単に崩壊した。


西部開拓のフロントラインの消滅は1890年とされている。
1890年を以って、野蛮な西部劇の時代は一応幕を閉じるのだ。
だが、西部劇の時代からアメリカ人はポケット・ビリヤードを
愛好していた。当時の球は焼き物でできていた。
非常に割れやすかったため、懸賞金をかけて新素材の開発を
よびかけた。
そこでビリヤードボールのために生まれたのが、史上発の
プラスティックだった。これは人類史に光をもたらした。
さらにブランズウィック社は、木製ボールだったボウリングの
ボールに高圧ゴム製のボールを採用し、これも人類史的に産業
界に大きな影響を与えた。

人類が初めて手にしたプラスティックが誕生したのは、それは
ビリヤードのボールのためであったことはほとんど知られて
いない。

このバーカウンターは、ブランズウィック製かも。


まあ、アメリカの国土もでっかいけど、アメリカ人はやることが
ドカンとでかいよな。こせこせしていないところは良い。
国土もまだまだ美しいしね。


そして、アメリカン・プール・キューの良品は、やっぱり
アメリカ製なのかというと、答えはイエスだ。
ただ、日本の職人さんも負けてはいない。
大昔、日本人プレーヤーが渡米して、アメリカで良いキュー
を見つけて持ち帰り、日本のアダムに「これと同じキューを
作ってくれないか」と持ちかけたら、それは実は日本のアダム
製だったという落語のような実話がある。
1970年代当時のアダムは米国への輸出専門メーカーであり、
二本国内で広く販売されるようになったのは1986年頃からで
ある。社名も86年当時は設立当初のまま「アダムカスタムキュー
ジャパン」だった。社長にはゴルフクラブのトップブランドで
ある「キャラウェイ」の元副社長のリチャード・ヘルムステッ
ターが就任していた。
1986年に「有限会社アダム」と社名変更して国内販売に乗り
出して数々の名品を世に送り出し、1999年に社名を「株式会社
アダムジャパン」と変更して現在に至っている。
アダムのキューはファクトリー・メイドの量産ラインであっても
「カスタム」だったのである。最初「え?」とか思ったけどね(笑
厳密な意味ではカスタムではないけれども、社名でカスタムキュー
と謳っているので、カスタム(^^;

本当のカスタムとは、タイトリスト・コンバージョンのような
改造物のことを指す。
コンバージョン自体はアメリカ人は本当に好きだった。
これは雷管式を薬きょう式に改造したコンバージョンリボルバー。






コルトSAAは「西部を征服した銃」などと呼ばれていたが、
実は圧倒的大多数の開拓民たちは、旧式の雷管式リボルバー
をカートリッジ式に改造して1890年代まで使用していたと
いう合衆国の歴史の実像がある。

この当時最新型のコルト・シングル・アクションはよほど
金周りが良い者でなければ買えなかった。


ゆえに、コンバージョンで中継ぎ的に急場をしのいでいた
のが西部開拓時代の拳銃事情だった。
実際の使用法としては、拳銃を携帯していたのはガラガラ
ヘビを撃ったりの護身用であって、対人用に武装していた
訳ではなかった。実際にはそれほど撃ち合いが頻繁にあった
訳ではない。それは日本の時代劇の嘘と同じである。
桃太郎侍などは、一度計算した事があるが、年間2,000人程
の人間を斬り殺しているからね(笑

アメリカ人はコンバージョンが好き。
そして、日本のなんてったってアイドルは赤いコンバーチブル
から飛び下りてくる。


小泉今日子さんのアイドル時代を知らない今の若い人が、
昔の動画を動画サイトか何かで見て「あまちゃんのお母
さんて可愛かったんだ」とか言うのをどこかで見た。
何を言ってるのか。
なんてったってアイドルだったんだど。
自分のほんの目の前の今しか見えない視野狭窄ではなく、
頼むから広く目を開いて、人の世の歴史を知ってくれ。


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レース

2017年04月15日 | 文学・歴史・文化



♪そして私はレースを編むのよ 私の横には貴方・・・

この曲はヒットして1973年レコ大を獲得した。
中学校の昼休み放送では、毎日リクエストでこの曲が教室に
放送されていた。放送部のしょもないDJはいいからさっさと
この曲かけてくれ、という感じだった(笑
私と歳があまり変わらないお姉さんが歌って人々に広まった
曲だった。

あなた/小坂明子


それまでまったくレースの編み物というものに気付かなかった。
考えてみたら、我が家にはレースの敷物の上に玉鋼が燦然と
鎮座していたのにだ。

レースでの編み物というものは、なんだか私などからすると
超絶技法のように思える。


この小坂明子さんの曲が流行った頃の少し後、手編みのマフラーや
セーターをバスケ部の先輩からもらった。うれしかった。そのセーター
はずっと着ていた(笑

遊びで編み物を自分でやってみたことがある。
面白かった。ただ、女の子たちがやるように恐ろしい速度ではできな
かった。


これはビリヤードのキューキャップというものだ。
1980年代に職場にバイトで来ていた女性がレースで編んでくれた。
本職はブライダルでのピアノ奏者だった。オルガンは四肢を駆使して
信じがたい演奏をしていた。よく私に自分の演奏を録音したテープを
くれて、まるでサントラのようなその音色がとても心地よかった。
その人は私が風邪で数日寝こんだ時に、私の部屋に来て手料理を
サッと作って帰った
ことがあった。「いい?これを食べるのよ」と言い
残して。年下なのに母親みたいな口ぶりだった。
その人が私がプールホールに預け置きするキューの
キューキャップを
レースで編んでくれたのだった。



これは1987年からずっと大切にしている。
先ごろ福山の店に預け置きしてあったキューを1本引き上げて来た
ので、このキューキャップも
洗濯した。
このキューキャップは在京時代にはずっと使っていた。
ビリヤード場の煙草の煙と誇りでしばらくするとかなり汚れるので、
東京時代も広島県に引っ越してからも
都度持ち帰っては洗って使って
きた。

頂き物ではこれが一番ありがたかった。預けキューは煙草のヤニと
誇りでかなりすすけ汚れるからだ。それ
からシャフト部分を守るのが
キューキャップで、1980年代当時は、
既製品が売られていないので、
皆ラシャの切れ端や布で袋を作って
壁のキューラックの立て置きキュー
に被せていた。

私のように手編みのキューキャップの人もいたが、ほとんどが毛糸で
あり、私の物のようにレース編みの人はいなかった。

ほんのりとした思い出のあるキューキャップだが、置きキューをしない
限り活躍の場面はない。
でも、かなり(というか物凄く)気に入っている。
物そのものもそうだが、その心遣いに今でも感謝している。割いてくれた
時間にも。

鈴はなんだろうね。俺に鈴着けようとしたのかね。毎日の平日夜と土日
は、私は必ずプールホールにいたので。

『ハスラー』の原作と映画で大きく違うところ。
それはエディの恋人のサラは原作では死なないことだ。
たとえ別れてもいい。恋人が死ぬなんてことだけは避けたい。
たとえ別れて遠くに離れても、同じ空の下できっと元気に暮らしている
のだろうと思えるほうが互いに幸せだ。

キューのグリップは、糸を巻くならばアイリッシュリネンが最適だとされて
いる。
だが、自作キューはレース糸を巻いてみた。巻いてからコーティングする。
これがことのほかしっとりとした手触りで心地よい。
キューの糸巻に、レース糸というのもよいかもしれない。

レースの糸は色がいい。
なんだか食べたくならない?(笑
おいらはトロピカルフルーツみたいな感じがするよ。


ただ、レース糸の世界もいろいろあるようで、同じグラデーションのタイプ
でもブランドによって具合が異なるし、何より廃版物というのが結構ある
ようで、なかなか時代を継続しての柄と色あいを保てないようだ。
ビリヤードのグリップ用に特化された細いアイリッシュリネン糸はレース糸
でいくと30番位の細さなのだが、色は伝統色とも呼べる色合い数種が
固定的にラインナップされている。
レースものとなると、産業製品というよりも手芸の領域だが、糸の世界も
奥が深くなかなか面白そうだ。

レースで編んだブローチって・・・、こりゃアジサイかよっ!
まあ、あたしが一番好きな色あいなのだけど・・・。
こうなると本当に職人技だよね。



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回転寿司

2017年04月12日 | 文学・歴史・文化


なんか私が注文した物が届かないなあと思っていたら、私の何席か
上手に座るおじさんが全部取っていた。
回転寿司は目の前に廻って来る皿を自由に取るとはいえ、おいさん、
それは違うから(≧∇≦)

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アメリカンクラッカー

2017年04月12日 | 文学・歴史・文化



アメリカンクラッカーである。
横浜では「カチカチ」などとも呼ばれていた。
むちゃくちゃ面白かったが、ほんの3カ月ほどで消滅した。
発売は1971年の3月で、私は小学校4年の時だ。
この写真の子どもたちは間違いなく私と同学年あたりだろう。
消滅した理由は、音がうるさいということとボールが割れる
事故が続いて、学校等で禁止になり、一気に消えて行った。

私や友人たちは、学校帰りにいつも寄って遊ぶ横浜ドリーム
ランドの敷地内などでこれをカチカチやっていた。
かなりの大音量で音が響く。


横浜ドリームランドはアメリカのディズニーランドを模した
テーマパーク型の遊園地で、私は本当によく行った。
当時は徒歩もしくはバス通学だったのだが、帰りのバスがこの
ドリームランド経由だったのだ。
まあ、仲間内はそのまま真っ直ぐ帰りはしないよな(笑
大抵はドリームランドで降りて、広場で遊びまくってから帰宅
した。
私は生まれて
初めてボウリングをやったのがここランドのドリー
ムボウルだった
し、ビリヤードのキューを生まれて初めて握った
のもここ
だった。
水が流れるドーナツ型の大プールは夏には入り浸りだし、冬には
ずっとスケートをやっていた。

アイススケートを初めてやったのは、5歳の時の品川スケート
リンクが初めてだったが、子ども時分はかなりスケートが好き
だった。選手スケートではなく遊びの滑りだが、ドリームスケート
には冬の間は土曜の午後と日曜にはまず滑りに行っていた。


夏はこれ。


冬はこれ。




横浜ドリームランドは、今のディズニーランドよりも
インパクトがあった。普通の遊園地ではなく、テーマ
パークとしての趣が強かったし、それまでの遊園地とは
まったく質が違ったからだ。今でいうところのディズニー
ランドやシーが初登場した時のようなインパクトがあった
のである。今こうやって見ると、閉園した倉敷チボリ
公園のちょっと大型版程度に感じるが、当時はかなりの
盛況だったことは確かだ。TVドラマのロケでも多く使わ
れたりしていた。キィハンターなんてのは定番だったし、
沖雅也のデビューはここドリームランドでのロケ回から
だった。

東洋一の大きさを誇る観覧車のゴンドラも魅力的だった。


ただ、開園当初から国鉄大船駅乗り入れの直通モノレールに
欠陥が見つかって廃線になったり、1970年にすでに広大な
敷地のうちの広い範囲をマンション建設会社に売却したりと、
決して順風満帆な娯楽施設経営ではなかった。
日本古式建築のようなホテルエンパイアは1970年当時で1泊
5万円(現在の28万円ほど)の部屋が多くあったりと、庶民
とはかけ離れた層を集客として狙った部分もあったりした。

今、ビリヤードをやるたびに、1971年3月当時のアメリカン・
クラッカーを思い出す。
たぶんビリヤードのボールと同じ材質かとは思うのだが、便乗
商売で乗り出した製品はよく割れて事故が起きていた。
ビリヤードのボールは硬そうに思えて、案外粘りがある材質だ。
友人の職人がボールでキューの先角を作ってみたが、撞いた時
にぼやけるような感触で芳しくなかったとのことだった(笑

登場して、ほんの2~3カ月で消えて行った玩具というのも
珍しいのではないかと思う。

おもろい人めっけ(笑)
ビリヤードの球でアメリカンクラッカーやってみた


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袴の長さと武家礼法

2017年04月11日 | 文学・歴史・文化



「日本の正しい礼法」から)

武家には武家の礼法・作法がある。師も私も、とりわけ帯刀時
には特に武家の振舞いから外れないようにそれを墨守
している。
私にはこの書の先代の小笠原先生の書がバイブルであった。
日常一般作法は私の場合は躾として父から習ったが、私の父は
某旧大名家の人から直伝で武家作法と洋式テーブルマナーを
仕込まれた。国費で大正時代に仏米に渡航留学した人だった。
父が受けたものを更に私が習った。

この小笠原先生の新版を拝読するに、私の愛蔵していた旧書で
示された正しい作法とは異なる乱れた
ニセ作法が現在日本国に
蔓延しきっており、現小笠原家当主の
先生にも苦渋の色が新版
には伺える。

新版本書では、「立ったときに手を前に組む」「畳の縁は踏ま
ない」といった
誤った作法についても、なぜそれが間違いか
合理的に解説
。」とのことである。

全日本剣道連盟などは立った時につま先を近代軍隊式に60度に
開く
ことは禁じている。全日本剣道連盟の立ち方の足の向きは、
小笠原流に準じて、つま先を真っ直ぐに前に向けて
いる。
(上掲画像参照)


袴の裾の長さについての着付けは、くるぶしが目安となる。
(師)


(私)



(カイラギ一枚鮫皮の眠狂四郎と同じ鞘で
あるが、正式にはこの拵は幕法としては×)


なお、袴のはき方には、厳密な武家の礼法しきたりで、今でも
日本人の常識とされている事がある。
以下にご注意されたい。

(真横から見て)
裾が後ろ上がり=〇
裾が床と水平=〇
裾が後ろ下がり=×

ここで、私の師の着装法を再び見てみる。

武家様式に則っている。

武術での袴はやや短めの袴をはく傾向が武家政権時代
~明治期
にはあったが、現在は通常の登城様式の長さにしていることが
多い。居合稽古で使用する居合用真剣も、江戸期には考えられ
ないほど高級な登城様式の外装で行なうことが一般化している。
一概にそれを間違いであると偏狭な視野で決めつけることは
できない。

だが、礼法として捏造された韓国式組手おじぎ等を日本式とする
のは、それ自体がニセモノで誤ったことであるので、それは確実
に誤謬であると指摘することは大切なことだ。
こうしたことは、自分の父母のことは他人に対しては「父、母」
と言うのであり、他人に「お父さん、お母さん」と両親のことを
言わないという、日本人としての常識に通じるものである。
(父母のことを「お父さん、お母さん」と言うスポーツ選手や
芸能人や一般人は非常に多い。TVなどではほぼそれしかない。
日本人とは思えないほど母国語が崩壊している)


居合などは一般生活とは乖離した伝統武芸ではあるが、そこには
古の武家礼法と現代所作の高次な融合がみられる。立ち居振る舞い、
歩き方一つとっても見習うべきことは多くある。

居合における帯刀正座の姿勢はこれ。(居合大刀帯刀の場合)


殿中ではこうなる。(半裃の場合)


今一般的に日本人がはく袴はこのような旗本大名が
千代田城に登城した時の長裃ではないので、通常の
袴は
長すぎてはならない。長くともくるぶし付近程。


それが武術用のいわゆる居合膝や膝の「抜き」という
技を使うと
足が隠れるこの長さになる。(ただの膝曲げ
ではない)



私は身長173.7cm(今は縮んでいる)なので二尺五寸長
袴を着用している。紐下表示なのだが、現在は25号という
表示が成されている事が多い。

ただ、既製品なのでメーカーにより同じ号数でも長い場合
があるので、その場合は、仕立て直し屋さんに出して裾上
げをしてもらっている。
裾上げは大体1回で1,500円位です。上手にやってくれます。


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『忍者の末裔』

2017年04月10日 | 文学・歴史・文化



今読んでいる本がとんでもなく面白い。
幕臣の家で、探索方等の役務にあった家系について
歴史史料と照らし合わせながら検証している書だ。
こうした書をヒントにして、またぞろ捏造自称古流
武術流派が新手の詐欺を考え出さないことを希望
するが、
これを読んでいて良いなぁと思えるのは、
伝書や
伝聞をそのまま「歴史事実」とするような
稚拙な
愚はもちろん犯さずに、史伝としての後世の
付会や創作も
客観的にきちんと指摘している点だ。
無論、そうした公正妥当な視点がなければ歴史に
関する書物などは書けない。たとえオハナシ物と
してもだ。
さらに、学術研究的な方面となると、私的脳内妄想
創作を史実であるとする視点などは一切介入する
ことは許されない。
「私は卑弥呼の末裔である」などと言い出すと頭が
おかしいと思われるのが実社会ではオチなのだが、
学術界とは無縁の私的世界である古武術界などは、
遠祖を歴史上の人物に勝手に設えたり、剽窃したり
創作したり、やりたい放題というのが実情なのだ。
それはまさに、「私の先祖は卑弥呼なり」と言って
いるようなことが大真面目の本気モードでまかり
通っているのであるから、武術界というものは、
いかに頭がイカレタ連中が大手を振っている尋常
ならざる異常者の世界、ということが断言できる。
そうした明らかな荒唐無稽な虚言に対して、「ははぁ~」
とひれ伏すような傾向も武術界大衆には存在するので、
私からすると、「この人らも頭おかしくない?」とか
思ったりするのである。実に滑稽な風景をそこに見る
ことができるので、お笑いネタとしては暇つぶしには
なるのであるが。

自称古流武術を名乗る捏造贋物大道芸が日本では
跋扈できるユルユルの甘さが社会にあるが、真実の
世界では当然にしてそうした詐欺師たちは、正真
詐欺(犯罪)師も詐欺師まがいも、生存が赦されて
いない。否、人間社会という社会において、詐欺師
は存在が法律的に許されてはいないのである。
人をして欺網(ぎもう)せしむる所業は悪であり、
人を騙して集客して集金するのは犯罪なのだ。
ただの嘘やパクリや捏造では済まされないことなの
である。
ほそぼそやっていた大道芸人やレイヤーが、大風呂敷を
広げ過ぎて、最初は小さな嘘だったのが、今や取り返し
のつかないことになってるやも知れぬが、やっている
本人たちには犯罪を犯しているという意識は寸毫もない。
だが、はっきり言う。嘘は嘘であり、でたらめな思いつき
の創作事を基に、それが確かな歴史であったと人を騙して
金員を得るのは犯罪であり悪なのである。
悪は悪であり、善ではない。
これは法的観点と公序良俗に反するという社会規範の
両面において悪なのであるからして、悪人は取り締まら
れて裁かれるべきなのだ。

おもしろい共通項がある。
嘘偽りの捏造派のほとんどが、「国際的」と称して外国人を
積極的に相手にしたがる。
さすがに、日本人もそうそう馬鹿ではないので、荒唐無稽な
捏造が怪しいと見抜かれてしまうからだろう。無知な外国人
相手に市場を確保しようとしてのことは見え透いている。
それなのに、海外での演踊の刀剣踊りや外国人を入門させる
ことでハクが付いたような気になって、またふんぞり返るのが、
これら捏造流派の典型的な特徴であり、それを軒並み捏造派ら
は金太郎飴のように判で押したようにやっているのである。
海外活動をPRしたり、「国際ナントカかんとか」と団体名に
名がつくところは、まず慎重に接しないと、大贋物であること
が非常に多い。
まして、他流の名を自流の肩書PRに使用したりするところは
まず100%贋物詐欺派と思って間違いがない。


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三原城ー浮城ーは、海の上に浮かぶという事

2017年04月09日 | 文学・歴史・文化



三原市内東部、和久原川の河口。
夜明け前には川底が完全露出していたが、朝8時半にはこうである。


上流側をのぞむ。橋は旧国道2号線の現国道185号線。


この川は城の外堀の役目を果たしたが、この部分は人造河川である
ことがよく分かる。
なぜならば、埋め立てにより城は作れても、潮位は操れないからだ。
つまり、河口堰の水門を持たない河川は、潮が上りきった地点が
本来の海岸線なのである。赤矢印が上の画像の撮影場所。


そのため、海の潮が満ちると、三原赤十字病院の更に北の山沿い
まで海水が上って行く。
三原市内の最西端にある沼田川も河口から上流10数キロまでは
人造であり、河口から10数キロ奥域まで潮が満ちたら海水が押し
寄せる。

和久原川の河口付近に立つと、まるで川が逆流するような勢いで潮
が満ちてくる光景が見られる。
ここは、武家政権時代には城郭の外堀と軍船の船入があった場所で、
幕末にはこのすぐ北に講武所と練兵場が造られた。幕末に広島藩は
武士を全員銃士に編成したので、洋式練兵のための場所は必須で
あった。

幕末、慶應年間の三原城図。赤丸が上掲画像の撮影場所。



江戸時代初期、正保年間(宮本武蔵が死んだ頃)の三原城図に
現在の道路を重ねる。国道2号とあるは現在の国道185号線。
この図を描いた数年前は国道2号線だった。赤丸が上掲画像の
撮影場所。


話は逸れるが、行政という部門は実に現実性とは乖離しているかという
ことで、杓子定規にただ「決められた事」を実行するのみだ。明治政府
以降の馬鹿馬鹿しい頭の悪さが日本の政府には骨の髄まで染み込んでいる。
国道2号線は山間部を通る元バイパスを2号線とし(2号線である。国道
1号線に次ぐ最古の重要幹線道路である)、それまでの国道2号線を同じ
道であるのに市内で国道185号線と県道二つに分けた。一直線の道が
ある地点から国道と二つの県道に名称が変わるという馬鹿馬鹿しい事を
国はやってのけている。バイパスはあくまで国道の渋滞緩和のための
バイパス路線であるので、別呼称を付与すれば済むところ、国道2号線の
バイパスを本線としたのだ。これは中山道大宮バイパスにも見られる。
国道17号は国道17号ではなくなり、副え物対策道路であるバイパスが
バイパスではなくなって本線となったのである。くだらない行政措置だ。
そのために、どれだけの土建財政が必要だったことか。日本の土建屋
政治の象徴でもある。昨年2016年4月から道の呼び名が変わった。


三原城は浮城と呼ばれたが、水軍を手下に置いた毛利一門小早川家が
築いた軍事要塞都市である。
今年で築城着工450年となる。
それまでは、ただの海。
その当時の沼田川の河口付近に突き出した二つの山沿いに高山城と
新高山があり、それが小早川家の城であったが、戦国末期に湾内の
入り口海洋部の小島をつないで海を埋め立てて築城されたのが備後国
三原城である。
城主は小早川家→福島家→浅野家と替わった。福島時代にかなり整備
されたようだ。

童謡「カモメの水兵さん」は三原の人が作った曲だ。
これは鴨だが、三原にはカモメも多かったのだろう。今ではカモメは
あまり見ない。


三原には東京でも有名になった八天堂のクリームパンがあるが、
三原銘菓としては、やっさ饅頭というものがあり、これは結構うま
かったりする。モミジ饅頭(通称モミまん)よりもずっと美味しい。
そして、「かもめの水兵さん」がある。
これ、結構いけるだす。たとえるなら、東京自由が丘亀屋万年堂
のナボナによく似ている感じ(笑)。




うまし!
八天堂は品川駅構内での販売権を得たのが最大の戦果で、その後
珍しいナボナ系クリームパンとしてテレビで紹介されて事業拡大した
のだが、この超マイナーな「かもめの水兵さん」は、結構うまいと思う。
東京方面に売り込みかけたりしない地元ならではの地方の菓子なん
ですけどね(^^;
モミジ饅頭が売れたのは37年前の大坂の漫才師による「コマネチ」の
パターンをパクッたネタだったのだが、広島県人からはあまり美味しい
お菓子としては認容されていないという現実が実はあったりする。
「広島といえばモミジ饅頭」みたいなイメージは明らかに造られたもの
であり、イメージ戦略というのは恐ろしいなぁと思ったりする。
もみまんってね、いわゆる東京の縁日の出見世の人形焼きと同じもん
だから(笑
ことさら買って食うほど、うめーもんじゃねっす(^^;

ただの海だった所に町ができてから今年で450年。
明治以降は工業都市として非常に栄えたが、戦後の高度経済成長終焉
と共に三原市は加速度的に衰退して来た。まるで炭鉱町やニシンの町の
ような様相を呈している。
大企業の工場誘致型で市街地区を発展させようとする戦略は、その肝心
の企業が自己都合により撤退を決めたらその町そのものが一気に風化
することになる。
三原市はその道を歩んでいる。
今度市長選があるが、ハコモノ行政をやめると称して、市民の念願だった
幼稚園・小学校新校舎建設や市民総合運動施設・武道館建設中止を
独断で決定したり(のち撤回)、市内の文化施設で剣道連盟の居合道稽古
での使用を突然理由も告げずに禁止したりした市民の利益を踏みにじる
悪政を為す現天満市長が再出馬再選するとしたら、本当に三原市はドツボ
の暗黒市政になることだろう。
市民憲章にもある市民の健康増進のためのスポーツ振興に水を差すような
人間を市長としては選べない。
現市長も再選を目指して立候補するようだが、私は絶対に現市長には投票
しない。
甲子園球児だった経験を持つ前市長は善政を敷いて、市民のスポーツ育成
や健康増進対策にも積極的だった。人気もあり、二期8年務めたが、高齢の
ために勇退した。
今の市長はですね・・・はっきし言って、てんでダメっす。
でもね、三原市民が選んじゃってることだから(^^;
自分で自分の首を絞めているようなもん。現市長が当選してから、前市長の
頃の市議会で決定された市民の願いを反映させた教育施設建設実行等を
ことごとく反故にするようなことを独断専行でやって来た事を冷静にごらんに
なってみてちょ。どーしてそういうのを選ぶのさ?(苦笑
マイナス票というものがあるならば、それを投じたいくらいだ。


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パッと見て見分ける

2017年04月06日 | 文学・歴史・文化



この真ん中のキューと下のキューをビリヤード場に
持って行くと、初めて見た人ほぼ全員が「同じキュー
持ってるんだ」と言う。
でんでんちゃうがな(^^;
なぜ見分けられないのか。

上と真ん中は粕谷ハギで、下は不明。バートン・スペ
インではないとは思うが、思いっきり古い。

雰囲気は同傾向にあるが、なぜハギのべニアの数も
色も異なり、リングやグリップの意図の色も異なる
物体を「同じ」と見る人ばかりなのだろうか。
こういうのって、スナイパーなどの特殊訓練である
「キムのゲーム」での訓練を経た者でなくとも、容易
に見わけがつくだろうに。全然ビリヤードと関係ない
興味ない人ならばともかく。
車の運転をする者は、日産フェアレディとマツダRX8
の見わけはつくだろうし、ホンダN-ONEとスズキハス
ラーの区別はつくだろう。トヨタハイエースとマツダ
ボンゴの区別はつかないかもしれないが。

色と線の数とデザインがまったく異なる物をなぜ同じと
見てしまうのか、とても不思議だ。
おもろいよ。見た人ほぼ10人が10人「同じキュー」とか
いうから。
で、そういう人たちはほぼ全員、カスタムキューは持って
いない。出来あいの量産プロダクトキューを買っている。
つまり、だ。
オリジナリティとか、細かいデザインの違いとか、そう
いうことはあまり気にしない人たちなのかもしれない。
そして、四剣と六剣、八剣の違いなどにも興味がないに
違いない。極端な事言うと、プリントキューでもいいん
じゃね?みたいな。こだわりないのなら。

でもなぁ・・・。
違いの分からない男って・・・・・・。
何食っても、レトルトと同じ味と思うのかなぁ。
よく「腹に入れば一緒」と言うのがいるが、てんで解って
ないね。
調理の段取り、素材の組み和わせ、料理の仕方一つで、
消化吸収においても全くことなるのに。
腹に入れれば何でも一緒てやつは、まさに△も▽も一緒
というやつで、入口と出口の違いも解ってないのだろうなぁ。

とりあえず、違う物は違うのだと、目で見て認識しようよ。


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時代の移り変わりが明確に判る動画

2017年04月06日 | 文学・歴史・文化

町田正選手 四つ球5分間50点チャレンジ


あえてセリーでのレールナースを作らずに5分間で50点を
取りきる町田正プロ。

場所は閉鎖前の高田馬場ビッグボックスだ。2011年。
1980年代と今の時代が大きく変わったことがよく分かる。
周囲で大騒ぎしているバカたれがいるが、こうした客は
店が厳重に注意した。それがビリヤード場であった。
こんなネットカフェのような状態にビッグボックスが変質
してしまっていること自体、すでに撞球場としての機能を
失っている。キューを倒す音まで入っており、最悪の環境
になっている。
(ビリヤードのキューは床に横に倒すとタップの浮き等
何らかの障害が出ます)

玉撞きは紳士のスポーツであり、非常に礼儀
を重んじる。
このことはキャロムビリヤードにおいては徹底されている
が、ポケットビリヤードも同じだ。(フィリピン等には
礼儀は存在しない。博打としかみていないため)
日本でポケット競技などでは、相手へのターン時に意図した
セーフティではなく手玉が偶然
に隠れると「失礼」と口に
出して相手に言うのが
礼儀であるし、スクラッチした玉は
取って相手に渡すことや、初めて相撞きする相手には最大限
の敬語を
用いて接するのが常識となっている世界である。
そして、大手の店で撞く場合は、隣りや後ろの台に注意して、
横の台の人が撞く位置に先に立ったら決して邪魔をしない。
さらには互いに譲り合う。
そうしたことが常識となっているのが、日本の撞球場なので
ある。


この動画で騒いでいるような馬鹿は大抵アミューズメント系
のビリヤード場に多くいる。だが、決してビリヤード専門の
ビリヤード場にはいなかった。理由は撞球場は撞球をする
場所であり、店内はまるで碁会所のように静粛が保たれていて、
ただ玉がぶつかるコツコツという音のみが響く場所だったから
である。ビリヤード場で大声を発するなどということはあり
得ないのだ。
この動画に収録されている大声を出している馬鹿集団は、ビリ
ヤード場にいてはいけない、常識をわきまえないカスである
のだが、現代はそうした常識ではないことが常識となる時代
であり、自撮りアホ画像で食品関係店舗に迷惑をかける連中
が登場するのと同じ傾向・潮流なのだろう。

馬鹿が蔓延するのは時代の流れだからいたしかたないとはいえ、
この動画ではビッグボックスの店員がこの騒いでる連中に注意
をしないという時点で、ビッグボックス館内からビリヤード場が
無くなった理由も分かるような気がする。
このような人間しか来なくなったのであり、また、店側もこの
ような人間さえも客として収益の対象にせざるを得ない状況で
あるということだ。完全に終わってる。

「撞球者」たちが集った頃の高田馬場ビックボックス(1980年代)


こいつなどは携帯なんか見てないで、店内で騒いでる奴らに
騒がないように注意するのが筋だろうに、まったく仕事して
ないよね。職務放棄。このビックボックスは仕事のプロが
勤務する店ではなくなったということだ。


現在のネットカフェなどの玉突き場では、こういう今回の動画
に音声が収まってるような馬鹿者たちがたくさんいる。
大抵は、玉など入らないから、途中から集団でカラーボールを
撞き出し始める。くわえ煙草をしたり、マッセなどできないのに
キューを立てて玉をつっ突いてラシャを破っても知らんぷりして
いる。
ラシャこがしや破りは1センチにつき5万円の罰金なのだが、そう
いうことも監視の目がないからとやりたい放題やっている。
ネットカフェ等はスポーツのビリヤードをやるビリヤード場では
ないので、撞球者はほぼ訪れず、馬鹿騒ぎしたい馬鹿者どもが
集まる場所だ。
ネットカフェに湧いている虫のような馬鹿たちは、玉など撞け
ないので大抵は30分ほどで消えていなくなるからまだよいが、
本格撞球場においてこの動画のような馬鹿が登場できてしまう
というのは、その撞球場がすでに撞球場ではなくなっていると
いうことが現れているのである。
一つの時代の流れの現象をこの動画に見ることができる。
プールバーが流行った時代はまだよかった。大騒ぎする者は他の
客の迷惑となるために店から注意されて、いうことをきかないと
泥酔客と同じく店外へポイされたからだ。飲食店ではない撞球場
も同じであった。
ネットカフェやアミューズメントというのは、その種目そのもの
を行なう事が目的の場所ではないので、客が大騒ぎしようと一切
店員は注意しない。これは都会や地方の隔たりはないようだ。
つまり、馬鹿ちんは全国にいる、ということなのだろう。

姫路のネカフェで見かけた馬鹿たち。全員で台上のカラー
ボールを突き回して
大騒ぎしている。


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雅楽による日本国歌

2017年04月05日 | 文学・歴史・文化

[HD] 日本国国歌 君が代 長野五輪開会式
National Anthem of Japan, 1998 Nagano


これが本当の君が代の演奏だ。
私は偏狭右翼でも何でもないので、ズージャで君が代を
やろうが、ブラスバンドでやろうがとやかく言うつもりは
ない。
しかし、雅楽での君が代こそが元祖のように思える。
本当は明治以降の制定だから元祖も何もないだろうが。

最近、アンデスの民族楽器に触れる機会があり、ふと思うの
だが、日本固有の伝統楽器を演奏できる日本人というものは
かなり少ないのではなかろうかと思う。まして雅楽となると、
それこそごくごく少数となる。
民間に広まった楽器にしても、伝統楽器は洋楽器に比べると
奏者が圧倒的に少ない。
我が家には先祖の誰かが吹いただろう尺八と、津軽三味線の
師匠をしていた伯母の形見分けの三味線があるが、どちらも
私は演奏できない。
三味線のほうは、ただの三味線ではなく、ふつーに高級車買え
る程の値段と聞いているので、おいそれとケースから出すこと
もできない(笑)。素人がいじって駄目にしてもと。
ギターだと平気で300万のギターだろうが弾かせてもらうが、
やはり扱いなれない素人がその方面の楽器を触ることは躊躇
する。

尺八のほうは全くの素人ながら吹いてみたことがある。
結構良い音がした。
フォルクローレ奏者のプロ(現在プロ活動は停止中)が尺八
に興味を持ち、値段を調べてくれというので調べたが、大体
アコースティックギターと同じ位の金額だった。数万円から
数十万円の範囲のようだ。
面白いのが、海外の笛とは違って、内面を漆で塗り固めて
あるんだよね、尺八は。
それと脇差の長さの基準が一尺八寸で尺八と同じ寸法になって
いる。このあたりのいわれも興味深い。

うちの家に尺八が残っているのは、先祖が裏柳生だったから
などということは万が一にもない(笑)。
ただ、主命を帯びたか詳細は詳らかではないが、天明年間に
三原城内から四国に出たまま帰らぬ当主がいたことが記録に
残っている。しかし家は断絶せずに存続している。その謎に
ついては現在に至るも不明である。


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ベレーのかぶり方 〜違いの分からぬ日本人〜

2017年04月04日 | 文学・歴史・文化

日本のサバゲシーンをリサーチすると、未だにベレーがちゃんとかぶれて
いない人たちがわんさかといる。
たまにかぶれていても、英系装備に米軍式着用法だったりとか、てんで
ダメダメ。
なんでも米軍の真似して、米軍装備が大人気のチビハゲメガネの短足
出っ歯日本人なのだが、ベレーのかぶり方もひとつも研究もせずに米軍の
真似をしたがる。

この図は上が米軍指導のかぶり方。下は駄目出しのかぶり方。
だが、上段はあくまで米軍式のかぶり方である。英・西欧系はこのように
サロンの店先の天井看板のように前盾を立てるようなかぶり方はしない。
前から見て徽章側のサイドを膨らませることもしない。




英系のかぶり方はこれである。日本人は「違い」をよく研究してほしい。
本当に着装については、日本人は無頓着で横着な感覚の人が多くて、
びっくりする。俺も純然たる日本人だけどよ~。ちっとは物事の違いを
調べたり見抜こうとしたり努力はしている。


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