渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

『オイディプスの刃(やいば)』 雑感

2011年01月01日 | open


小説『オイディプスの刃(やいば)』
(角川文庫/1979.5)

映画レビューは2007年1月28日
に書いたが、今読んでいるのは
赤江瀑の原作だ。
福永武彦を彷彿とさせる。
福永作品と似ていると感じるの
は、きっと赤江の手法が、人の
心の内面を描く際に、淡々と状
況を描写するからだ。
そこにサブリミナルのように登
場人物の逡巡と回顧を絡める。
なぜだろう。妙に懐かしい。

読んでいて気づいた。
私が属した同人誌には載せなかっ
たが、高3の1978年に私が書いた
小説の文体が、この作品に酷似し
ている。

赤江の作品『オイディプスの刃』
の一部を抜粋してみよう。

 それは最初の年に、すでに感じ
とれたことであった。母の香子を
見る泰邦の視線にふとさわやかな
勁い輝きが揺曳するのを、駿介は
知っていた。しかし、泰邦になら、
ふしぎにそれが赦せるのだった。
母がもし恋をするようなことがあ
れば・・・・・・と言うより、母
を恋していい人物は・・・・・・
と言いかえたほうがよかったが、
それは、泰邦のような男だとさえ
駿介は思っていた。母と泰邦の間
には、なぜかそんなひそかな空想
をはぐくませる、危うい、だがひ
どく心たのしい想いをそそる世界
があった。すがすがしい含羞と、
研ぎ澄ませた刀剣の地肌の上を
まっすぐに走る光の矢のように
青々としたたじろぎのなさを母へ
向けて放つ泰邦の視線を見ること
は、むしろ駿介はひどく好きであ
った。泰邦の視線を浴びるとき、
母は母にいちばんふさわしい落ち
着いた華やぎをとり戻すようにさ
え見えた。泰邦の視線で、母も青々
と染まり、洗いあげられる感じが
した。そんなとき、駿介は、奇妙
に父の存在を忘れきっていた。母が、
まるで泰邦のためだけにある女の
ような気にさえさせられてしまう
のだった。

(中略)

 駿介が目を醒ましたのは、太陽
のせいだった。西向きの窓から、
陽がベッドいちめんに射し込んで
いた。何か夢を見ていたんだと、
駿介はそのとき思った。けだるい
醒めぎわの不快な感じが、体の節
ぶしに鉛をおとすようにぶらさが
っていた。夢は浅く、何か恐ろし
いものででもあったのか、咽もと
近くまで名残りがまだ尾を曳いて
いて、想い出せそうで出てこない。
夢のなかで駿介は走っていたよう
な気がし、走りたくても足が運ば
ず、必死に歩いていたような気も
する。歩いて、この部屋のベッド
へたどりついた途端に夢の醒めぎわ
がやってきた・・・・・・そんな
感じの、目醒めであった。


(抜粋を続けよう)

 南フランスはいま夏である・・・・・・
と、いう書き出しではじまる航空便
の入った封筒は、カウンターの上で、
なかば水びたしになっていた。傍に
コップが一つ転がっている。いま一
つのコップには、まだ飲み残しのウ
イスキーが底にあった。その横に、
栓をとばしたジャック・ダニエルの
黒い角壜が立っていた。
(中略)
 大迫駿介が、その日、その航空便
の封を切ったのは、京都市紫野にあ
る高桐院の庭でだった。
 駿介はよく、この大徳寺のなかの
塔頭に立ち寄った。楓の木だけが十
数本、ただの平庭に植わっている。
石灯籠が一基あるほかは何もないこ
の庭が、彼は好きだった。街のなか
を歩いていても、ふと急に思い出し、
立ち寄ってぼんやりしてみたくなる
庭であった。
 夏の楓の高桐院は、青水の底にい
るようで、その青々とした水底に身
をひそめてしずめる感じが好きだっ
た。たいていやってきて思うのだが、
やってきたときは、いつもひどく疲
れていた。疲れの底で、ぼんやりし
てる庭であった。
 マッチの軸でぶ厚い封の糊紙をそ
いで開いたとき、大迫駿介は、不意
に軽いめまいを感じた。
 かすかに、エステル性の芳香を嗅
いだと、一瞬思ったからである。鼻
先に近づけると、その航空便はやは
り、うっすらと香りを放った。
 ラベンダーの匂いであった。
 南フランスはいま夏である・・・・・・
当り前だ。日本だっていま夏だ、と、
駿介は不快げに独りごちて、音をた
てて便箋紙を開いた。

---------------------------------------------------------------------

好きなはずである。
赤江の『オイディプスの刃』は、
読んでいて、軽い自己陶酔に似た
危険な知覚を私に呼び起こさせる。
私が1978年の高3の夏に書いた
『泥流』という作品は、「永遠の
命は存在しない」というテーマで、
登場人物の高校生と年上の恋人、
友人、家族が尾道を舞台に複雑な
精神世界の関係を織り成し、「存
在」に懐疑的になった登場人物は
死を選択していく、という作品だ
った。
どこにも発表していない。
同じ18歳(正確には学年がひとつ
上)の中沢けいが、『海を感じる
時』で文学新人賞を同年に受賞し
たときには、「そうか・・・」と
思った。
私は18才で小説を書く筆を置い
た。
原稿用紙400枚にわたる私の作品
は、現在原稿がどこにあるのか、
その行方は知れない。

「追体験は読む人を辛くする。
残念ながら、君にはその筆力が、
ある」
大学時代の友人の言葉だ。
私の作品などは、うずもれている
のがふさわしい。


映画『オイディプスの刃』

2011年01月01日 | open



主演:古尾谷雅人、清水健太郎、
京本政樹、北詰友樹、佐藤友美、
五月みどり、田村高廣
製作:角川春樹
原作:赤江 瀑
脚本:中村 努
成島東一郎
監督:成島東一郎
音楽監督:山本邦山
1986年角川映画

<あらすじ>
瀬戸内に面したある旧家に一口
(ひとふり)の太刀がやって来た。
資産家である主は刀剣収集家と
しても著名な人物で、若く美し
い妻は調香師として香水の研究
を続けていた。旧家に来た南北
朝時代の太刀をめぐり、ラベン
ダーの香りのする邸宅の中で、
様々な惨劇が繰り広げられる。
そして長い時が過ぎ、生き残って
大人になった3人の兄弟たちに
この妖刀はまたも惨劇をもたら
すのだった。

1986年に観て以来、すぐにビデオ
を買った作品だ。
何度も観て来たが、また観た。
原作者の赤江瀑は1933年下関生ま
れ。1970年、『二ジンスキーの手』
を小説現代に発表し、小説現代新人
賞を受賞した。1973年に『罪喰い』
で直木賞候補、1974年『オイディ
プスの刃』で角川小説賞を受賞、
1975年『金環食の影飾り』で直木
賞候補、1983年には『海峡』、
『八雲が殺した』の両作品で泉鏡花
文学賞受賞という経歴だ。
赤江作品は、触れていてどうにも
気持ちが悪くなるのだがやめられ
ない。
言い知れない不快感を伴うのに赤江
の世界から読者は抜け出せない。
瀬戸内晴美は赤江を指して「泉
鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎、
岡本かの子、三島由紀夫といった
系列の文学の系譜のつづき」として
「中井英夫についで、この系譜に
書き込まれるのはまさしく赤江瀑
であらねばならぬ」としている。
(講談社文庫『罪喰い』解説)
ある意味、三島よりもじわじわと
人知れぬうちに進行する病魔の
ように赤江の作品は読者を蝕む
ように魅了する。
彼の作品は、悪魔の筆だ。
そして、この映画作品はその赤江
の世界をよく表現している。
映画『オイディプスの刃(やいば)』
は、角川作品の第一回作となる
筈だったらしい。
しかし、製作されたのは別な角川
第一回作品から10年の時を待たね
ばならなかった。

オイディプスとは、エディプス
とも呼ばれるギリシア神話の登場
人物だ。
テーバイの王ライオスとその妻
イオカステの間の子で、実の父
をそれと知らず殺し、実の母と
それと知らず交わった。
オイディプスの名は「エディプス
コンプレックス」の語源となって
いる。
私は小3の時、この神話を知り
ショックを覚えた。
本作はこのギリシア神話を極端
に日本美学の螺旋として強引に
描いて、ねじった先端を針のよう
に尖らして何かに向けて突き出し
ている。
外国人に果たしてこの作品が理解
できるのだろうか。

瞠目するのは、刀を研ぐシーンが
実にリアルに考証されて再現され
ていることである。
時代劇でさえ多くは研ぎのシーン
が出鱈目で、それだけで興ざめだ
が、この映画はかなりリアルだ。


しかも登場する刀剣はすべて
真剣実物である。(一部模擬刀)
研ぎ師の役で出演した渡辺裕之
は今でも自己紹介で「得意な
ことは日本刀の研ぎ」とする。
この映画で研ぎ師に数ヶ月師事
し日本刀が研げるようになった、
と公言する。
しかし、リアルな研ぎシーンと
はいえ、よく見ればまったくの
素人が刀を押していることは
一目瞭然で、あれ位の技量で
「刀が研げる」とは言うべきで
はない。
また、日本刀の研ぎはただの研ぎ
とは異なる高度な特殊技術で、
研ぎ如何で刀は生きも死にもする
のだ。
生と死をつかさどる刀の生と死を
握るのが、刀剣の研ぎなのだ。

映画『オイディプスの刃』での
ラストシーンの不条理は、カミュ
が『異邦人』で描く実存主義的な
不条理観とも異なる。
まさに「三島」的なのだ。
なぜ、ラストがああならねばなら
ないのか。
ただし、三島の場合、「終わらす
ことによって終えること」に酔う
人間を見る時の不快感が伴うのだ
が、赤江の場合は不条理のまま突
き進む。
三島が「強制的終了=デリート」
によって「永遠性の完結」を保全
しようとする徹底したナルシズム、
換言すれば、ただ自己の欲望に
だけ忠実な強烈なエゴイズムと
いうものに立脚しているのに対し、
赤江の場合は、最後の場面を越え
てもなおその不条理が不条理と
して独立して進行するのである。
赤江作品の読後は、三島作品の
後味の悪さと別な意味で極めて
後味が悪い。
「映画は原作を超えない」とは
巷間、人口に膾炙されてきた事
柄だが、この映画作品は、その
赤江の世界を実によく表現した
作品となっている点において、
大変評価できるものであると私は
感じる。