渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

日本が大変ですよ~

2011年07月28日 | 内的独白

居合動画を探して「つべサーフィン」していたら、なぜか剣術関連にUFO動画が。
そこから更にたどったら、面白い動画があったので紹介。

新宿の上空でUFOの大群 2011年5月8日


「朝日新聞に電話して!UFOだよっ!ほら、UFO。読売新聞・・・
日本が大変ですよ~」

(^○^)

コメント欄でも、この時のUFOを別な地点から目撃した人たちが
多くコメントしている。
http://www.youtube.com/watch?v=MUiXUrXkQKU

未確認飛行物体がエイリアンズクラフトであるかどうかは確証が得られないが
(たぶん地球外生命体の乗り物だろうが)、UFOというのはなぜか
広島県の芸北の山の中に行けば、いやという程見ることができたりする。
10年位前のこと、いつものように行きつけのフライフィッシング・ポンドで
夜釣りをやっていた。
すると、そのポンドのオーナーの息子さん(当時高校生)が空を指して言う。
「あれ、何なのですかね」
見ると、星よりも強い光の物体がゆっくり遠くの夜空に落下してきたと思ったら、
Uターンで反転して上に上がる。そして横に移動する。
「あ~、人工衛星だろ。よくあるこったい」
とその晩は適当に応えたが、人工衛星がUターンするかっての(笑)
「今の時期、しょっちゅう出るんですよ」と彼は言う。
「あら、そう」と答えたが、そのポンドに泊まりがけで行くたびに東の方角に
そうした飛行物体が見られた。横移動の時はスッとかなりの速度で移動し、
ピタリと止まる。これは珍しいねぇ、と感激した。
まあ、なんというか、未確認飛行物体そのものだよな(苦笑)。
エイリアンズクラフトかもしれない。
UFOを見たのは、1970年横浜(日中に米軍通信隊の上空をジグザグ飛行)と
1970年山中湖(キャンプ中で、夜の上空でUターンというか「⇔」←このように
移動する発光飛行物体を数百名が目撃して大騒ぎになった)、1972年埼玉(後に
中学の生徒会長となるY田君と一緒に夜間見た。自衛隊のヘリ編隊を追尾していた。
空中停止→超速度移動→停止を繰り返していた)だけだったが、こう頻繁に
広島で見られるとは思わなかった。
地元の人は「何じゃろね?ありゃあ」という程度で、別段驚いてもいない。
私なんて、それにあやかって、芸北で私が作ったメンバー80名位のフライ・
フィッシング・クラブの名を「UFO(アナイデンティファイド・フライング・オラクル)」
としちまった位だ(笑)。
「♪ウィスパー ワーズ オブ ウィズダム レットイットビー」てやつだな。

動画の新宿の女性の人の「日本が大変ですよ~」というのは、逆に
かえってほのぼのしていて笑えた(^^;
でも、大群で来たのを見たら、やはり、ぶったまげるだろうなぁ。

なにも、こんなに大勢で来なくても(^^;)

全学連のデモじゃないんだから(笑)

そりゃあ、稚拙なわれら地球人がロケットで月まで行って帰って来る時代だ。
(ロケットさえなかった戦前には突拍子もないこととして考えられなかった
ことらしく、母はそれをよく言う)
いまの時代、異星人の乗り物くらい、地球上に普通に飛んでいるだろう。
NASAのタイムリーなカメラで地球の周りに集合している飛行物体などは
よく映っているし。
「いるかいないか」という頭にカビの生えた議論ではなく、「今後どう対処するか」
という議論が大切だろうと思う。昨年、国連でも異星人折衝役が選出された
くらいだし。
実際に、地球のまわりには1機や2機ではなく、銀座の目貫通りみたいに
うじゃうじゃとUFOが飛び回っているのを地球人のスペースクラフトである
スペースシャトル・コロンビアからNASAが撮影しているし。

UFO NASA's unexplained tether overload incident

宇宙空間で見るUFOはクラゲみたいだね(^^;


フクシマの原発事故以降、再三にわたり、エイリアンズ・スペースシップと思しき
UFOがフクシマ上空と富士山付近に飛来して多くの人間に目撃されている。
飛行機が出来る前の羽根を手につけて崖から飛び降りる昔の映像とかを
「馬鹿で~」とか今の我々はオモシロお笑い映像として笑って見ている。
しかし、300年後の人類に、今の私たちは同じように笑われるような
気がする。
「馬鹿でぇ、こいつら。核なんて人間の手に負えないものを使ってやがったの」と。

謎の飛行物体は、チェルノブイリの時もそうだったが、紛争地帯や原発事故、
その他、人類の苦難の時に事実としてなぜか多く飛来する。
じっと我々の動向を見守っているかのようだ。

【凄いUFO! 福島上空、2011年4月(字幕解説付)】










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めがね

2011年07月27日 | 内的独白

先月の免許の書き換え後の違反者講習に行って来ました。
ゴールド免許だったのが、ブルーに戻った(笑)
3か月以内直近の違反だから消えんとです。
違反事項は「携帯電話保持」。保持でっせ保持。
運転中、携帯電話が鳴ったので、走行中モードに入れようと
携帯持ったら、そこにたまたまネズミ捕り。
速度超過はなかったのですが、「携帯電話保持を警察官が現認」
とのことで違反キップ切られました。神戸警察チビシー(笑)
でも、違反は違反です。
運転講習に行ったら、最近道交法変わって、携帯電話は「使用」と
「保持」に分かれて違反とされているみたい。
「電源切るために持っても駄目なのか」と警察官に問うと
「現場の警察官の判断によりますが、基本、保持はすべてアウトです」
とのこと。では、車のラックにくっつけて、ボタン押すのはいいのか
というと、これが法的にはOKなんだから、なんだかなぁ。
まあ、携帯使用で事故が多いから法改正はしかたないのでしょう。

私は運転免許証の条件ではここ10数年は眼鏡使用でした。
元々視力はめっちゃよくて(たぶん3.0以上?)、子どもの頃から
視力検査はずっと2.0でした。
ところが、中学の時に、スウェーしたのですが不覚にも右目に
直撃パンチもらいまして、しばらくしたら黒板の文字がずれだした。
それでも、高校大学とずっと視力はそれほど落ちなかった。
16歳でバイクの免許取った時も、その後もずっと免許は眼鏡なし
でした。

しかし、パソコンてよくないよね。
ワープロを使い始めたのが1984年から、社会人になってPCを使い
始めたのが1986年(25歳)から。
86年から11年間ず~~~っと画面に向って書面を作る仕事していた
ものだから、視力が異様に下がりました。でもって、インターネットは
Windows95が出た時からもう16年もやってるでしょう?
目にいいわきゃない。
「あれ?見えない」と気づいたのが90年代の初め。
今のかみさん(後にも先にも今のかみさんしかいないが)と映画を観に
行って「あら。俺字幕が見えない」と、一端映画館を出て、新宿駅前で
眼鏡を即作りました。
ですので、それ以降は運転の時と映画見る時や譜面を見る時のみ眼鏡を
使用していました。(PC使用時は基本的には使わない)
でもどんどん視力が下がる。
2.0オーバーだった視力は0.3位まで下がりました。
以後免許は当然「眼鏡使用」。

ところが、今回の免許書き換えの時、「眼鏡使用」がなぜか外れた(笑)。
前日に睡眠タップリとったら、適性検査の時に異様に見えた、という嘘
みたいな話。
私は齢50を過ぎても、老眼がほとんど出ていません。
めっちゃ細かい字までよく見える。
ところが、近眼用の眼鏡をかけて近くを見るとぼやけるようになってきた。
これは聴くところによると老眼らしい。
でも、まだ細かい字は見えています。というか、目を近づけんと見えんばい。

で、事務所にもどって、普段使う運転用の眼鏡をいじくっていたら、鼻にかかる
部分(名前知らない)をこわしちゃった。
すぐに眼鏡のパリ三木さんに行って直してもらうことに。
そうしたら工場送りです、とのことで、その場で新しい眼鏡を買うことにしました。
視力検査をしたら、ややわずかばかり老眼が出始めているとのことで、
遠近両用レンズというのを注文することにしたのね。
そうしたら、それも工場取り寄せですって(^^;)
即買いの意味ないじゃん(笑)。

すると、近視用レンズのついた「レンタル眼鏡」というのを貸してくれました。


こんな細いフレーム見たことない。
そして、めちゃくちゃ軽い!
「このフレームで作りたいのですが」と尋ねたら、これはレンタル専用のフレームで、
一般商品にはないとのこと。いや~ん、うっそ~ん。
これ、物凄くかけ心地良好というか、メガネかけている感じがしない。
フレームのツルなんて1mm以下の径ですぜ。
レンズの下を支えているフチなんて、髪の毛より少し太いくらいの細さ。

今回、メガネ屋さんでの視力検査では0.5(乱視あり)だったので、
免許の適性検査では、やはり調子が良くて両眼0.7以上になったの
でしょう。

それにしても、このレンタル眼鏡がとてもいいよ。
これ、すごく欲しい(^^;

めがねをかけるとこんな感じ。


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火床(ほど)がないっ!

2011年07月25日 | 日本刀

秋口に向けて炉を整備しようとしたら、三原工場に置いていた
お手製の移動用簡易炉がないっ!
工場の人間に訊いたら、「レンガだけならありますけど」だって。
いつも整理整頓片づけ癖がついているのはメカニックの基本では
あるけれど、構造物を勝手に解体収容するのはどうかと思うぞ。
また一から造らなければならない。トホホ。おら悲し・・・。
幸い金床(かなしき)は捨てられていなかった。
これは私の父が遠い昔に手に入れたものだ。
箸と槌は父がだれかから譲り受けたものだ。

「炉をまた造らないとなぁ」などと思いながら、ぷらぷらネットを見ていたら、
私が2000年に三原で造った第二期の移動可能な火床にソックリな炉を
2年後に造っている人がいた。(1990年代に使用した炉はもっと簡易な炉)
↓こんなの

http://www5e.biglobe.ne.jp/~kumakoh/kajisagyokiroku066.html#lcn007
良くできてますね。(音注意)

耐火レンガの外枠構造までソックリ。私は軽量化のため鉄骨構造にした。



これが炉の中身。この人の火口(ほぐち、=羽口)はダブルになって
いる。ブロアーを使うのだろう。相当な火力が得られるだろう。
実はこの火口の材質はとても大切で、水道管などの銅や亜鉛が
入っているパイプを使うと、焼く刀にてきめんに悪影響が出る。
本来土で焼いた筒のような物が好ましい。(ただし、その土も
厳選する必要がある)。ステンレス管ならば大丈夫という誂え
刃物鍛冶の報告もあるが、SUS材の中にあるクロームなどが
どのように炉内で焼く刀身に影響するか未知の段階では、私は
採用に踏み切れない。
記事中に以下の記載がある。
火床を冒涜することになるかも知れませんが、新火床は、
大好きな「やきとり」を1度に20~25本くらい焼けそうです。
鍛冶作業以外にこういった使い方も可能かも知れません。
鍛冶作業後は「やきとり」焼いて1杯・・・・。たまりません!!

実は、私が平成7年に作ったオープン炉の火床では、数日かけて
キンキンに乾燥させて「よしっ」と思って別作業をしている時に、
振り向くと父が網乗せてニンマリと餅を焼いていたのでガックシきた。
「ホド良い」なんて駄洒落言われて、なおさら脱力。
けれども、気を取り直し、餅食ってから、二人でいくつかの小刀と
ナイフを打ち上げましたとさ。


いやはや、それにしても世の中同じようなことを考える人はいるもの
である。面白いね。
しかも、サイト主が現住所が板橋なので田舎の伯父上の家の庭先で
鍛造焼き入れしていたらしく、これも新宿区西早稲田住まいで
広島県三原でたびたび焼き入れしていた私に環境が似ている。
第一弾の炉は小型の為、あらかじめセンがけしておいた小刀と
焼き刃土と炉を川崎や埼玉に持って行って焼き入れ会をしたことも
ある。焼き刃土は無農薬農法の三原の田んぼの土を濾した物、炭は楢炭
を「ぷぅ」と吹いたら中に舞うくらいの細かさに(ミキサーを使うとよい)、
砥石は大村砥を微粉末になるまで卸し、その三種を鋼に見合った特別な
調合ですり卸した。この焼き刃土を作るのが一番時間がかかっている。
まあ、私は素人の真似ごとなんで、基本は教えられた通りに、根詰めて
やるだけ。

この乳鉢にてただひたすらするべし。するべし。

ただし、このサイトの簡易炉とは大きく違うところがある。
私の第二段は密封炉なのだ。この画像のコの字型のレンガの上にレンガを
横に渡して隙間なく並べて屋根部を完全に閉じる。
どうしてそうなの?というと、家内の熊本の実家のごく近所で、かつ私の
以前の職場の弁護士のイトコだった源盛吉、実子の延寿宣次刀工の
仕事場を見学した時に密封炉だったのと、小林康宏刀工が密封炉
を使っていたから。
そして、私の炉は、一般的な火床(ほど)のように左側からのみ
送風する仕組みにはなっていない。必要な時にのみ炉内の温度を
上げればよいとしているので、極端な話、このような大きな火口(ほぐち)は
ないに等しい。炉のイメージは炉というよりも窯に近い。
一般的にはオープン炉が主流のようだ。

熊本の若手刀工赤松太郎兼光さんの炉。
火床(ほど)とは、鋼を産み出す場所であることから
古来より女性器に例えられる。だが、形状からも
そうした謂れが起きたことが推察される。

しかし、刀でもデンガク炉(焼き鳥用の炉みたいな細長い風呂型の炉)
にして団扇での送風のみでじっくり焼く方法がある。高名な刀匠も、両刃
の剣などはこれで仕上げたりした。
旧来のように火口が左だけにあると、送風の際に刀身の左右で温度が
微妙に異なり、焼き入れで左右に別な働きが出たりねじれたりするからだ。
手フイゴは技術によって微妙な送風のコントロールができるので、
大変便利な発明だが、火口を左にしか持って来ないのはどういう
ことだろうと思う。両側とか下部に回したらまんべんなく送風できるのに。
水を張った舟に入れる直前、手フイゴの往復を小刻みにさせて
風を制御しながら炭に火を回してまんべんなく刀身の焼き温度を
保持するのは刀鍛冶の技術の基本のようだが、いくら刀身の左右をひっくり
返しても左からのみの送風という構造では、刀身の左右の炭の温度にムラが
できるのは必定なような気がする。

一般的な刀工は鍛錬用と焼き入れ用をひとつの炉で済ませるが、
谷川盛吉刀工の鍛冶場にお邪魔して見学した時、焼き入れは専用の密封炉
を使っていた。
焼き入れ用の密封炉は絶え間ない送風による火力保持ではなく、
炉内を高温に保つことによりじんわりと刀身を焼く。炉内雰囲気の問題もある
のだろう。谷川刀工が言うように「ゆっくりとタバコでも吸って待つ」というような。
炉内での滞在時間はオープン炉よりも長いと思う。高温で保持時間が長いと
残留オーステナイトが多くなりひずみや割れが出やすいので、刀工によっては
α1変態点を超えた可能な限りの低温で一定に30分くらい保つ。高温にし過ぎ
ないことも大切だが、ゆっくりと加熱することも大切だ。頃合いを見計らって一気に
水冷(ぬるま湯)させる。デンガク焼きなどもこれに近い。マルテンサイトの二次
析出で安定化を図るため、焼き戻しには細心の注意を払うようだ。
このあたりは、小林康宏刀工と似ていると思う。谷川盛吉刀工と小林康宏刀工の
共通点は焼き入れは専用の密封炉であることと、大型たたらで生産された玉鋼を
使わない、ということだ。自家製鋼の作とたたら鋼の作を谷川刀工宅でじっくりと
見比べさせてもらったが、まるきり鉄(かね)が違っていた。
(盛吉刀工の遺族から私が直に聴いた話では、実子の宣次刀工(すでに故人)
は、ほぼ全作品に日刀保のたたら鋼を使っている)

さて、私の炉は破壊されているので、再度造らなければならない。
本来、鍛冶場を持っているならば設置炉が拵えられるのだが、
本職でもないし、環境的になかなかそうはいかない。


上に紹介した画像の炉を造った人は、趣味が転じてプロになったのかな?
自分で鍛冶屋と名乗る位だから。小柄小刀も作っているようだ。
サイズと刀姿を見ていると幕末に水心子が残した寸法手本を基準に
しているように思える。焼き刃の刃文をつけるのに金属製定規をあてて
いるのは新工夫か。
「鍛冶屋の部屋」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kumakoh/kajiyanoheya.html

ところで、今月のナイフマガジンを見ていたら、本家本職の刀工の目黒碑文谷
の加藤兼国氏が「水心子」と自分で名乗って、包丁にその銘を切ってしまっている。
いいのか?そういうの。
まあ、兼元とはまったく関係ない包丁鍛冶が「関孫六」とか包丁に銘を切る
から(私も一本持っている。笑)、包丁の世界ではいいのかもしれないけど、
水心子だよ?
プロの野球選手がユニフォームの背中の名前を OH とすることみたいに
感じる。理由は「好きだから」とか「憧れる歴史的名手だったから」とか。
自分も同じ土俵に立つプロなのに、野球少年のレプリカじゃないんだから
それをやっちゃあいかんだろ、と私は思ったりする。素人さんじゃないの
だから。しかも美濃加藤家から続く刀工家の名門なのに。
なんだかなぁ。
刀鍛冶ナイフとして玉鋼で造ったナイフをじゃんじゃんと刀が買えるすごい価格で
リリースしているけど、それもなんだかなぁ。
う~む。きっと、プロにはプロの事情があるのだろう。

それにしても、鋼の道はむつかしい。
ちょっと気になるサイト記事をご紹介。
東京工業大学広報誌


最初、画像を見た時に、「え?スウェーデン鋼で刀作ったの?」
なんて思ってしまった。肌具合もスウェーデン鋼に似ているし。
でも「永田(ながた)」という先生が作った鋼で刀を拵えたそうです(^^;
しかし、記事中の「たたら製鉄を研究するうちに、製銑に粉鉄鉱石を
使ったらどうかと思い付きました。反応が速いため、一度に大量生産
できるように溶鉱炉を大型化しなくてもいいし、熱が全体に行きわたり
やすく炉内の酸素濃度が高いので、不純物濃度も小さくて済みます

という教授の観点と、「
粉鉄鉱石とマイクロ波を用いてつくった銑鉄中
にはシリコンは0.01%、リンや硫黄も高炉の10分の1程度しか含ま
れていなかった
」という結果は非常に気になる。
砂鉄ではなく鉄鉱石(粉状)からの銑鉄だ。
電子レンジによるマイクロ波というのを除けば、餅鉄(鉄鉱石)などを用いた
山浦一門の復古刀の要素がこの方向性に見出せる。
う~む。非常に興味深い。
て、よく読み返すと、砂鉄のことを粉鉄鉱石と言ってるだけだった。しょぼん。
でも、教授の目的はマイクロ波による銑鉄作りの効率化であり、「実現すれば
工業化への道も開けると思います」というところにある。
まさに「生きた学問」として人の為世の為に研究されているのだから、それは
それで賞賛すべきことだと思う。刀を作るために鉄冶金の研究をしているの
ではないから。人間、目的を見誤ると、自分の狭い枠内のこと以外は認めない
という埒外な評価を人につけがちなので、注意が必要。そして閑居して不善を為す。
これ小人なり。

電子レンジといえばね~。
火力の弱いガスレンジで野菜炒め作るとベシャ~ッとなって食えたもん
じゃないけど、野菜炒めをシャキシャキにするには、素材の野菜を電子
レンジでチンしてから痛めるとシャキッと本場中華みたいになるよ~。
野菜炒めが得意だったおいらは学生の時からやってた。
電子レンジがない時は、「油通し」の技ね(^^)
結構、仲間内では、俺の作る野菜炒めとチャーハンは受けがよかったよ。
でも、料理も刀もハイクオリティを求めるなら、素材だよ素材!
素材をどう料理するかで・・・(あれ?

 


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玉鋼を使わない ~日本刀の深淵~

2011年07月21日 | 日本刀

何気なくネットで波乗りしていたら、ある刀工の作に出会った。
(「何気に」という言葉は誤った日本語であり、正しい日本語の
言語体系崩壊を促進するため、日本人として私は使用しません)

実用に適した定寸の二尺三寸二分(70.3cm)

あら?と思った。
やたら鉄(かね)が古く見えるのだ。


古刀に見える大和伝。

刀工のサイトを詳細に見ると、卸し鉄を主原料にしているとのこと。

卸し鉄

どうりで、鉄が古く見えると思った。
刀工によると、自家製鉄で造り出した鉄の滓=鉄滓も大切に扱っている
様子がわかった。

(以下抜粋)
刀鍛冶が鋼を鍛錬(産み出す)時に鋼に含まれる
介在物が熔け出し、炉の中に溜まった介在物のことを
鉄滓(てっさい)といいます。刀鍛冶が使用する炉の
ことを火床(ホド)と呼ばれております。

女性陰部とお互い「産み出す」という意味で同義と
されており、女性が出産したあとに排出される後産は、
再び子供を授かるための表徴として、家の出入口や
土間などに埋められて大切に扱われています。
鉄滓も後産と同じく再生のため祭祀品として使用されて
おり、古墳や中世の民家の遺構からもしばしば鉄滓が
出土しております。先人の製鉄、鍛冶に対する考えには、
頭が下がる思いです。

鍛錬後、炉の底から出てきた鉄滓

火はすべてを清める。
故に、鍛冶職の仕事場にあっては、炉こそが一番清廉で神聖な場所である。

このように、協会から与えられた「たたら玉鋼」に甘んじることなく、自ら産み出す
鉄と真剣に向き合う若い刀工を見ると頼もしくなる。
ご本人は合気道もされるようだ。
上に紹介した刀は目くぎ穴が二つあいている。
ということは、何が何して何に使えるということ?この刀は。
サイトで他の作品例を見ても、外見上はとても古雅で好感が持てる。
綾杉肌に直刃の大和伝を基調としながら、清麿のような豪壮な造りも
難なくこなしているようだ。

ただ、月山貞一の系統だということが非常に気になる。
先代直系の高弟一族の作が、ことごとく刃がボロボロ欠けて実用には
まったく適さないことを私は知悉しているからだ。その系列一族の作刀で
同じような悲惨な状態を示したのは2~3口の話ではない。その親子の刀では
空気は斬れても、危険すぎて物は切れない。当然、「守り刀」としても、名ばかりの
中身の伴わない鋼の焼き物ということになる。
刀は外見上どれほど素晴らしくても、試さないとわからない。
現代では試せばわかるので、刀の本質を具備していない作者の作は
持つのをやめればよいだけだが、侍の時代には命にかかわる一大事だ。
現代でも、飛べない欠陥飛行機に乗って墜落したり、沈没確実の船に
乗って沈んだのでは、文字通り浮かばれない。
当然、日本刀は現代刀であっても、そんな内実の伴わない形ばかり、
見てくれだけの模擬刀のような刀に、守り刀として家族の願いをかけたり、
娘の将来を託したりすることはできない。真剣日本刀は模型ではないからだ。

この貞豊刀工は、(外見上の)技量はかなりのものだ。

この見事な映りなんてのは、一体なんなのだ。
波のような映りの谷の部分に玉のような淡い映りが浮かんでいる。見事と言うしかない。
(焼き刃のようにも見えるが、本人は「直刃」としているので、刃文に見えるのは
映りということになるだろう。当然、刃の部分とは硬度が異なる)

若い職方が鉄と向き合って、古刀再現を真剣に目指しているのを
見るのは心地よい。とても清々しい気持ちになる。
変に秘密主義にならず、作刀の工程から鍛冶道具や材料まですべて公開して
いるのは、たしかな自信の裏付けがあるからだろう。
平成6年に人間国宝故月山貞一刀匠に入門したそうだ。

(外部リンク)
田中貞豊鍛刀場



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写真の撮影方法 ~日本刀の謎~

2011年07月20日 | 日本刀

日本全国、刀屋さんは数々あれど、刀の地の部分の焼きを写真で
しっかりと撮影に成功しているのは、大阪の明倫堂だけと見受けられる。
たぶん、特殊な技術があるのだろう。他の刀剣商の写真は、どんなに
鮮明に撮影されていても、この刀の地金の熱変態までは撮影に
成功していない。

大阪明倫堂のサイト掲載の短刀

焼き入れによる地の部分の「映り」のような
熱変態後の状態の撮影に成功している。
これは肉眼で刀剣を鑑賞すれば見ることが
できるが、写真での撮影が困難だった。
ここまで、鮮明に鋼の組織変化を撮影している
のは類を見ない。

刀身部アップ。

地の部分が明暗のマダラ模様になっているのが確認できる。
これは古刀の「映り」と同じ熱変態による鋼の組織変化の
状態を表している。一種の焼き入れであり、これと同じ熱変態
を利用して意図的に境目を作ったのが刃文(刃と地の縁)である。
このように刀剣を撮影してくれると、地刃の働きがよく判って非常に
助かるし、刀剣書に掲載される写真も、今後はこの明倫堂の特殊
撮影技術が採用されて行くだろう。
しかし、いかなる技法でこうした刀剣撮影ができるのか、謎である。
このような写真は、ここ1~2年のうちに登場したものであり、ゆえに
今のところ、他の業者や刀剣書の刀剣画像ではこの撮影技術を
発揮している画像は見受けられない。

それにしても、この刀、いい銘ぶりだなぁ。

鏨の走りがのびのびしていて、この字体を観ているだけでも
心がほのぼのとしてくる。

↓一般的な刀屋が撮影した刀身の写真はこんな感じである。

一関士源宗明。
これもうっすらとは地の鋼の変化が撮影されており、
目をぼやかして遠目で見れば明暗のマダラが見えるが、
鮮明な地の熱変化の働きの撮影には成功しておらず、
明倫堂の刀剣写真撮影技術には遠く及ばない。

一口目に紹介した短刀につけられた拵え。

かわい(^^)

短刀を造った刀工はこの人。

南紀国悦、本名清田次郎。
若いね~~(@@)
いい笑顔してます。
銘ぶりの字体が朗らかでとても好感持てる。国悦刀工、疵ごころある作り手癖ではあるが、
上手(うわて)の作だと思う。紹介した短刀は、備中青江写しの逆丁子とのことだが、私には
青江には見えない。ちょっと沸(にえ)が強いかな。
国悦刀工の作は、販売サイトによると「国悦刀匠の作品はまず世の中に売りに出されない」との
ことだ。上手だから所有者は手放さないということだろうか。
これまた、刀剣愛好者たちにとっては痛し痒しの人気に伴う現象ということになるのだろう。
一般市場に出て来ない刀工の作ってあるもんなぁ。
個人的には、地がもっと詰んで、逆丁子は匂い出来のもっとフンワリした刃が好きだ。
(一番好きなのは小龍景光)


国宝 小龍景光


私が日本刀は書籍で見る写真と全然違うということを知ったのは、実際に真剣を
目の前で見た小学校低学年の時だった。昭和40年代のことだ。
その時には今思うと差し込み研ぎされた刀剣だったので、幸いにして白い刃取り
という明治以降の新式の研ぎに惑わされることなく、地刃を素で見ることができた。
刃文のことを「透き通っている」と感じた。地は机の模様みたいだった。
そして、不思議なことに地に暗い部分と少し明るい部分があることに気づいた。
作者については覚えていない。ただ、地蔵の頭を並べたような刃文だったのは
覚えている。これが私が噛みつける近さで日本刀を見た最初だった。
当時の写真撮影技術は、現在からするととてもオソマツなもので、新聞掲載の
写真とさして変わらない程度だった。
カラー写真が一般化して大衆的広がりを見せたのは東京オリンピックあたり
からで、テレビでカラーアニメが放映され始めたのもその頃からだった。
しかし、雑誌や書籍の写真撮影技術、印刷技術は稚拙なもので、これが
大体1970年代初期まで続いた。

刀剣書掲載の写真はこんな程度(国宝小龍景光)

ようやく1970年代後半頃から見られる写真が雑誌や書籍でも出回り
はじめたが、その後デジタルカメラの登場にもかかわらず、刀剣写真は
1970年代後半の技術を著しく凌駕したものとはいえなかった。
たしかに、画素数の多さから鮮明度や、デジタル処理によって調質されて
格段に判り易い画像にはなったが、それは単に「画質がハッキリした」という
だけで、資料写真として飛躍的な進歩を遂げたという感じではなかった。
従って、刀剣写真における、この「地の暗帯」の撮影成功は瞠目に値する。



ということで、全国の刀剣商の皆さんは、日々素晴らしい写真を撮影
されているとは思いますが、今現在の自分方の撮影技術に慢心せずに、
更に今よりも一歩でも進んだ写真のご掲示を宜しくお願いいたします。
斯界の研究発展のためにも、また、刀剣愛好家の購入意欲向上の
ためにも、ぜひとも。


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日本刀の構造 -造り込み-

2011年07月19日 | 日本刀

日本刀の構造はこうなっている。
(クリックで拡大)

非常に多くの種類の組み合わせ方がある。

ただし、基本的に押さえてほしいのは、
日本刀は『硬軟の鉄を組み合わせた構造のため折れず曲がらず
よく切れる』ということでは決してない
」ということ。
さらに『日本刀古来の伝統的構造は心金(しんがね)を入れた組み
合わせ構造である』というのは誤りである
」ということ。

上記の図にある様々な硬軟鋼の組み合わせは、ある時期から
刀剣の材料である鋼の質が変化して折損しやすくなったために、
やむ無く積層組み合わせにしたのである。
積層構造になったのは、砂鉄還元のたたら製鉄による鉄の量産化により、
製造された鋼が非常に硬く、脆いことが主な要因である。
時代的には、応永頃を境に、日本刀の材質は大きな変化がみられる。

しかし、積層構造になったのは、国産和鋼が硬質に過ぎるので折損回避
のため心金(芯鉄)構造になったということよりも更に大きな理由がある。
それは「鋼の節約」という問題だ。

鋼を節約しなければならない理由の歴史的背景はいくつかあるが、
一つに、国内で大量の数の刀剣が必要とされた軍事的国内情勢が
あり、もう一つは対明貿易などでの物資として大量生産が求められた
ことが挙げられる。
日本刀の伝統的な古式鍛造方法は無垢鍛え(丸鍛え)であり、
良質な鋼を用いて、平安期から南北朝、室町応永時代までの
日本刀の多くは無垢鍛えで作られていた。
硬軟の鋼を積層にしたのは、さまざまな理由から、鋼の質が変質
して以降の対策構造としてあるのであり、「日本の古式鍛錬」「日本刀の
基本的な構造」とは言えない。平安の時代から、日本刀の基本は無垢である。
ただし、その古い鋼の作り方、鍛錬の仕方は、現在完全に失伝している。
現在の日本刀の製造方法の多くは、戦国以降、とりわけ新刀、幕末新新刀の
製造方法なのであり、国宝の刀剣類の製法である古式鍛錬ではない。

日本刀の材料に硬い鋼を使用しだしてからは、折損防止のために
心金を使わざるを得なくなった。硬い鋼のまま古式のように無垢で作ったら
折れやすくなってしまい、しかたなく積層という「新構造」を発明する
しかなかったのである。
だが、積層にしても、新しい硬い鋼(玉鋼という名称は昭和に作られた)
を使用して作った日本刀は、いとも簡単に折れた。新刀・新新刀が折れ
やすいのは江戸初期から有名で、荒木又衛門などは日本の鍛冶棟梁
新刀の伊賀守金道の刀を使って決闘中に折損したことをもって、
「新身(あらみ)を持つとは武士として不心得」とまで侍の間で批判された。
それ程、旧来の日本刀に比べて、硬い鋼(玉鋼)で造られた刀は脆い。
さらに天秤ふいご登場以降のたたら鋼は、初析炭化物の分布がまばら
なため、練り材のような均質化を図るために何度も折り返し鍛錬する
必要があった。日本刀の強靭性の裏付けとして折り返しによる積層が
よく挙げられるが、折り返しの積層と強靭性の因果関係は証明されて
いない。折り返し回数が極度に低い日本刀が強靭性において折り返し
鍛錬回数の多い日本刀よりも優れている実例は枚挙に暇がないからだ。
(私は、炭素の均一化を図る工程において鍛圧により鉄が延びるので、
やむなく折り返して塊状にしないと次の鍛圧が物理的にできないから
折り返し鍛錬が発生したと考えている。鋼は餅ではないのだから、つけば
つくほど粘りがでるというものではない。工程の中で鍛圧の狙いは炭素配置
の均等化のためであり、鉄を揉むのが目的ではない。最初から良質な
炭素分布の鋼材=練り材であるならば、折り返しさえも極言すれば必要
ない。たたら鋼はその条件を満たさないから鍛圧で炭素配置を整え
さらに小鍛冶が吸炭させたり脱炭させたりして鋼を作っていかなければ
ならない。仮に舶載鉄が初析炭化物の配置が良好であるならば、折り
返し回数も極度に低く、無垢鍛えで強靭な状態を作出できたろうと推理する)

福永酔剣という熊本大学の医師は刀剣研究者としても有名で、日本刀に
関する知識と情報収集力は古今東西第一級といえ、多くの名著を残して
いる。
ただ、この福永先生は、幕末の水心子と同じく、あたら話をややこしく
した感がなきにしもあらずなのだ。
というのも、この先生は基本的には美術刀剣論者であり、「無垢鍛え=
脆く折れやすい、手抜き工法」という概念で著述していたかと思うと、
刀剣実用論的出版物に寄稿したりして実用論を展開したりする。
そして、刀鍛冶の実態について書かれた名著『刀鍛冶の生活』(生活史叢書16/
雄山閣
)によると、名工非人清光の作例を指して、「清光 (裏)於笠舞丸鍛作之
(”非人清光”の作。丸鍛えとは心ガネを入れないもので、入念作の証拠)
」(68ページ)
などと書いたりする。
無垢は手抜きと思っているのかあるいは入念作と思っているのか、もうどちら
なのかと先生に問いたい気もするが、このような大家でさえ、定見がなく揺れて
いたのだろう。まだ、「無垢=駄目構造」とする無知な自称日本刀研究者や
蟷螂の斧のような定説に固執する「権威筋」よりはマシだろう。

だが、福永先生の見解はどちらにころんでも、実は的を射るものではないと
いえる。
それは無垢というのは、「手抜きか入念か」というステレオ的問題などではなく、
極めて性能面での実利的な背景に規定されて選択された工法という物理的側面
の表出であったからだ。
良質な鋼で全てを作る場合、贅を尽くしたものとなり、到底手抜きとはいえない。
また、入念作かというと、無垢というのは構造の態様を表しただけのことであり、
入念か入念でないかという情念的な次元の問題ではない。
福永先生の所見の振幅は、ある場面では物理的な材料面を判断軸として
語り、ある局面では材料如何をすっ飛ばして「手間=入魂」という物理的実体の
ない概念上のことを判断軸とする。それゆえ、その都度判断が背反して揺れるの
である。
物理的な歴史的事実や事柄と、そこに関与する職人の思いという感性や情念の
問題は弁別して捉えないと、論理的な整合性は保全できない。

さて、私のこんにちまでの記述でも、「新刀=折れやすい=たたら鋼使用による」
として、ともすれば、そのような刀を作るのは道に外れるという風に聞こえる書き方を
してきたかもしれない。
これは実に言葉足らずだったので、大慶直胤はじめ鬼籍に入られた過去の刀工
たちにお詫びをしたい。

というのも、前述した福永酔剣『刀鍛冶の生活』(昭和43年初版、平成7年再刊)には
刀鍛冶の実態をこと細かに調べて江戸期の資料等から解析して紹介されているのだが、
この書は平成7年に読んでいたにも拘わらず、肝心なことを忘れていたからだ。
昨夜、パラパラと調べ物でページをめくっていて、嗚呼と至らぬ自分に気づいた。
この書には、もう生きて行くのが出来ない程の貧乏な状態に置かれる刀鍛冶という
職業の現実をとくとくと紹介している。
各藩の抱え工でさえ、極貧状態で、刀を打つ炭を買うどころか、自分が生きて行くのも
ままならないため、どうにか材料だけでも供給してほしいという嘆願書を多くの刀鍛冶が
したためて上申している。
刀工には官職名たる受領(ずろう。守-かみ・介-すけ・掾(大掾)-じょう・目-さかん)を
許されたが、京に上り、宮城にて担当公家に受領をもらうまでに、現在の金額で数百万~
数千万程の経費が必要だった。現在の米相場で年収7万5000円位の刀鍛冶がどうやって
そんな大金を作れるというのか。だがどうにか工面して受領を得ようとした。
受領を得ても、物価高騰や刀剣価格の際限ない下落により、刀鍛冶は刀を作るどころか
生きて行くのも精一杯だった。
もうどうしても暮らしていけないと、自ら加賀前田藩の救援村である非人小屋に
転居した刀工が備前の流れを汲む非人清光だ。当然身分も無宿人扱いで非人に
落とされた。だが、末代も代々非人小屋に自ら望んで住んでいる。御救い小屋でないと
暮らしがなりたたなかったからだ。

「鍛冶屋の貧乏」と昔からいわれる。これは、つい最近のことではなく、室町時代から
全国でそう呼ばれた。
鍛冶職の祭事として「ふいご祭」というものがある。毎年11月8日に行なわれる。
これは神道(天皇家の宗教)とも密接な関係にあるのだが、鍛冶職は鍛冶の神である
金山神(金屋子神)を祀る。この神はアマテラスが岩戸に隠れた際に照らして
呼んだ時の鏡を作った神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一神といわれている。
また、天目一箇神という鍛冶神は一つ目の神であり、民俗学者の柳田国男は一つ目のことを
「メッカチ」と呼ぶのは「目鍛冶(カヌチ)」のことであろうとしている。私は、製鉄や小鍛冶職
が、長年火を見続けて「目を盗られる=白内障により失明する」ことから一つ目伝承が
生じたのではないかと考えているが、とにかく鍛冶の神様は一つ目であるとされている。
また、鍛冶神の天目一箇神は紀記によると天津真浦(あまつまうら)とも呼ばれ、
炉である火床(ほど=女性器と似た形をしている)と同様に、男性器を象徴している。
男性器のマラという単語は真浦(=麻呂、麿)から来ている。神奈川県川崎市の大師には
金屋子神を祀る小さな神社があり、そこにはリアルな男性器を形どった金床(かなしき)
が祀られている。
天津真浦は『旧事記』に、ニギハヤヒノミコトが天からナガスネヒコのもとに降りる時の
随員で同行したとして名がみられる。高天ヶ原とは朝鮮半島のことであろうし、天津真浦
は明らかに製鉄もしくは鍛冶技術を有した半島系渡来人であろう。

それらの鍛冶神を祀る祭事としてふいご祭があるのだが、京都では11月1日になると、
稲荷の氏子の子どもたちが小さな神輿を担いで町内を練り歩き、米や銭を貰って8日の
祭りの費用に充てていた。江戸では8日の未明に町内の子どもたちが鍛冶屋の前に
集まり、「鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏」とはやし立てた。
すると、鍛冶は二階からミカンや餅をまくのが習わしになっていた。俳句にも「餅みかん
ふいごまつりやつかみ取り」(下風)の句がある。
そして、ふいごにしめ縄を張り、灯明、ミカン、餅、神酒のお供えをする。次に鍛冶場に
神官を呼んでお祓いをし、供えたミカンは風の薬にと親類近辺の子どもがいる家に
配ってまわるのである。
ふいご祭の祭神は金山神だけではなく、このような画幅を掲げてその前で祭事を行なう。

  (クリックで拡大)

刀鍛冶の末裔の家にはこのような画幅が保存されていたりする。

ここで、注目したいのは、これら三宝荒神が降臨して鍛冶仕事を
指示しているその鍛冶の先手向こう槌は鬼が務めていることだ。
2月3日の節分の際にも鬼は重要な役割を果たすが、節分の文句は
「鬼は外、フクは内」である。
フクのフクとは「吹く」であり、「真金吹く」の吹くであろう。(『鬼の日本史』沢史生)
豆とは製鉄の際に出るジャミ、鳩目の類のことだろうと、私は各種民俗学的
物証から推察している。

小学校の小たたら製鉄実験で採れた玉のような鋼
(ピッケル鍛冶職人二村善則さんのサイトから)

また、「鬼」は全国各地に地名として残っており、大抵は古代製鉄の遺跡付近
であり、韓鍛冶の技術と古代製鉄を巡る中央政権の各地武力制覇の痕跡が伺える。
敗北した先住産鉄民は『出雲国風土記』にみられるように「鬼」や「鹿」や「蛇」や
「龍」として名を貶められて、大王(おおきみ)の臣民たるオホミタカラのど百姓たちに
蔑まれて排除されてきた。それが一千数百年の時を越え、現在では地名に
その名残を残している。

広島県三原は南北朝から室町末期まで一大刀剣生産地として栄えた。
三原に今でも残る奇祭がある。
それは、節分の時に、町の子どもたちが「鬼の豆ちょうだい」と叫びながら
連なって民家を軒並み訪問するのだ。
この三原の祭について、地元の人は謂れを知らない。
私は、これはトンド焼きとも関係のあるフイゴ祭と密接不可分の関係があると
見ている。
三原のこの奇祭は、三原市内全域で行なわれる風習ではなく、三原正家という
三原鍛冶の井戸があった場所の周辺というごく限られた町内のさらにごく
狭い地域でのみ伝わっていることがそれを裏付けているように思われる。
「鬼の豆ちょうだい」というのは「鍛冶屋の貧乏」とはやし立てて餅(鍛造の象徴)
をもらい歩く姿に似てはいないだろうか。
そして、ふいご祭では、鍛冶職の向こう槌を鬼が務めた画幅を祀り掲げる。

鍛冶屋の貧乏。
江戸期の刀工が心金アンコ構造の刀を作ったからといって、単純に現在
何不自由なく暮らせる我々が材料や歴史考察の面からのみ断じるのは
あまりにもむごいことだ。
旧来よりの貧乏(抱え工でも5石程度である。年収約75000円!)に加えて、
物価高騰、そして幕府による武器値下げの令により、刀工は幕末あたりには
にっちもさっちも行かなくなった。侍も貧窮の極みだったが、侍の武器を作る
刀工も侍によって「死ね」といわんばかりの政治が執り行なわれ、経済的には
完全に崩壊していた。
幕末著名刀工で研究者として高名な水心子正秀でさえ、困窮を極め、弟子筋
に借金を無心したりしている。水心子の刀が7両2歩(幕末レートで22万円程度)
なのだから、暮らしが成り立つどころか、材料費を引いたら生きて行くのもやっと
だったろう。
そして、そのような経済状態では、良質な鋼を大量に使うことなど夢のまた夢で
あり、事実、水心子の高弟である大慶直胤は『名将言行録』の著者である
岡谷繁実に対して泣きを入れている。
「正宗は最上の卸し鉄を惜しげもなく使っているが、あんなことを今時したら、
卸し鉄だけでも五十両(現在価格で150万円。幕末1両3万円計算)はかかります。
藩中の刀はわずか五両(15万円)ですから、いい刀の出来るはずがありません」
直胤の刀は、他藩の武士には九両から十両で販売されていたが、自藩の士には
半額の5両だった。
これを読まれた方は、現在、モーターツールやエアハンマーを使って省力化しても、
15万円で1本の刀が作れるとお思いか?
逆立ちしても不可能である。
もっとひどい例は、現在価格で1本5000円程度で作らされていた。
刀鍛冶に「死ね」と言っているのと同じである。

そんな刀剣の価格、物価上昇を勘案しない八方塞がりの経済自滅型の武家政治では、
良い刀など作れる道理がない。
当然、刀工たちは質の悪い鋼を使わざるを得ない。
従って、現在の我々が、昔の刀鍛冶の経済状態、国内の経済状態を照査せずに、
簡単に「良質な鋼を使わずアンコ構造にしたから折れやすいのだ、けしからん」などとは
言えないのである。
源清麿などは、悪質の鋼を使っての鍛造などできなかったから、窪田清音の
武器講で1本3両(9万円)で100本の受注を受けたが、やりきれなくなって
江戸から長州に出奔した。(長州までの通行手形が必要なので、何者かが手形を
発行して手引きしたとの説もあり)
旗本窪田は激怒して清麿成敗をわめいたというが、わめく前に、なぜ清麿ほどの
一本気の男が逃げ出さざるを得なかったのか、もそっと考えよ、と言いたい。
ったく、侍というやつぁ・・・。
いくらなんでも、炭も鋼も買えない金額しか渡さないで「名刀を作れ」と言っても、
そんなことは無茶である。日本刀1口(ふり)を作るのに、炭だけでも15~20俵くらい
必要なのに、物理的に不能領域に深く入っている。
無茶は無茶苦茶の無茶であり、体に鞭打って「無理」はできても、人間、人が言う
「無茶」を聞き届けて実現することなどできようがない。できないものはできない。
清麿は逃げた。(とされる)
逃げるだろう、それは。自分が作る刀には命がけの保証書をつけるくらいの男だ。
あるいは、明確な意思により、西に向かった。
数年後、江戸に帰って窪田に詫びて、四谷にて再度作刀しはじめて四谷正宗と
謳われた源清麿山浦環(たまき)だったが、結局は43歳で便所で腹を切って死んだ。
大きな借金が残ったという。清麿の借金は弟子の清人が懸命にこつこつと明治の声が
聞こえる間際までかかって完済した。
清人を称して「立派な人」と今の人は簡単に言うが、刀鍛冶は赤貧洗うがごとき
生活である。現代人が言うのは簡単だが、清人にどれ程の苦労があったかと思うと、
いたたまれない。

貧すれば鈍すると人の世はいう。
現在も武術家で金持ちというのは聞いたことがない。
そして、私の経験則では、武術で生活している人間に清貧な者はいない。
知っている人間、全員が全員、カネに汚い。
シビアという問題ではない。
カネに汚いのだ。そして、いかがわしい。
武芸は売り物ではないのに、それを以って生活の糧としているのだから、
自ずとカネに汚くもなるだろう。
昔の刀鍛冶は果たしてどうだったのだろうか。
藩に召し抱えられた武術師範は、武士としての禄高役高というものがあるので、
武術という芸を売り物にしていたわけではない。武芸者は芸人ではないからだ。
小笠原流の教えに「芸を売ってはならない」というものがあり、これは現在でも
頑なに守られ、武術宗家といえども、本業をもって生活基盤を立てることを
必須としている。浪人や町人や商人ならともかく、武芸で収入を得るのは侍ではない。
まして、そくしゅうや恩やお礼の品々を自分から求めるのは武士の本道から
果てしなく外れる。サムライらしくあろうとするならば、別な職業を持つべきである。
普通の会社員でも、夜の仕事でも、コンビニのバイトでも、警備員でも、道路工事でも
あるいは学者でも、教師でも、医者でも看護師でも、何でもいいではないか。
職業に就いて、武芸売りからは生活費としての収入を得るべきではない。
私は、時代が変われど、これが侍の道だと思う。
例えば、学校の剣道教師として公的機関から教師の収入を得るという形と、自営で
武術道場を経営して弟子からの吸い上げによって生活を成り立たせているのとでは、
まったく両者位相が異なるということに気づいてない武術家は多い。だから、カネに汚く
なるのかも知れない。
現今では、厳密には、侍と呼べるのは、自衛官と警察官等、つまり、法執行機関で公に
「武器」を携帯できる者のみが幕藩時代の「侍」に当たると思う。あとはどんなに
息ばってみても、みんな町人だ。血筋のルーツに関わりなく。
法執行官の武器と、てめえが勝手にやってるクレー射撃の銃や居合の刀を一緒にしては
いけない。まったく立ち位置が異なるのだ。公儀なくして侍の存在はあり得ない。
だが、侍らしく生きることはできる。
それは、自らの武術という技を金銭に変換する行為をしないことだ。

江戸時代、刀工のほとんどは町人だったが、抱え工となって武士の階級を付与
された刀工は、生活苦の八方塞がりで、さぞや生きて行くことだけでも苦しかったろうと
思う。
でも、ある意味、現代刀工も同じなのかも知れない。
決められた鋼(和鋼)以外で作った刀は日本刀とは認められないのであるから。
現在も、刀工で一大財産を築いた人というのは聞いたことがない。
経済的に裕福になりたいならば、刀鍛冶ではなく、商人になるべきなのだろう。


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書籍 『邪馬台国と狗奴国と鉄』

2011年07月18日 | 文学・歴史・文化


邪馬台国と狗奴国と鉄』(菊池秀夫/彩流社/2010年2月発行)

日本刀研究者の方と古代製鉄の話をしていて、私がまだ未読の書籍を
ご紹介いただいた。
まだ読んでないと私が言うと、貸して下さった。
その日本刀研究者の方のサイトはこちら↓
              「
旧日本帝国陸海軍 軍刀

主宰の方のご厚意によりお借りした書籍を貸してくださるときの言が
「在野の研究者の着目点の鋭さ」と「御用学者の傲慢さ」というような
ものだった。
確かに書籍の内容は非常に興味深く、大変面白い。とりわけ、古代製鉄
の項(わざわざ付箋を貼ってくださった)に唸らされる。
今、むさぼり読んでいる。


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海の日 ~今年は7月18日~

2011年07月18日 | 時事放談

ほげほげほ~。
わしじゃ。

わしじゃ!の画像がネット上に
ないので、普通の顔した木ノ葉のこ
でお茶を濁す。好きだったぁ~、この人。
カトちゃんカツラにちょび髭で、自虐ネタ
言っては「日大、日大」と扇子で自分の
頭ペシペシ叩いていた元祖バラドル。
(当時日大はポン大と呼ばれて、バカ
大学の代名詞だった。しかし、おつむが
馬鹿なのではなくお馬鹿なことをする
奇才が多かったことで有名だ。
ボクシング部などは「フルチン合宿」として
下着着用ご法度で風に揺られる合宿を
伝統としている)
日大生でおバカやってる頃ののこちゃんは
かわいかったよぉ~。

数年後に漫画『バリバリ伝説』が出たとき、
伊藤歩惟(あい)ちゃんのモデルは木ノ葉のこ
かと思った。もしかしたら、しげの先生、
のこちゃん好きだったりして。


いつのものように朝起きて、仕事に行く支度してたら
どうも世間の様子が違う。
本日は祭日でござった(^^;
海の日だって。
土日さえ客先御用で仕事でカレンダー通りじゃないから
わかんなかったぜ。世間では3連休なんですと。

過去の7月18日のきょうにあったことを調べてみた。
気になったのをピックアップすると・・・

・660(顕慶5年6月6日)-百済が唐・新羅連合軍(羅唐同盟)により滅ぼされる。(マジか?)
・1866年(慶応2年6月7日)-幕府艦隊が周防大島を砲撃、第二次長州征伐が始まる。
・1871年-文部省創設。
・1936年-二・二六事件により2月27日に出された東京市の戒厳令を解除。
・1950年-GHQが日本共産党機関紙『アカハタ』の無期限停刊を指令。
・1970年-東京都杉並区で日本発の光化学スモッグ公害。
・1976年-モントリオールオリンピックの体操競技でルーマニアのナディア・コマネチが史上初の10点満点。
・1977年-ベトナムが国際連合に加盟。
・1993年-第40回衆議院議員総選挙。新党が躍進して自民党・社会党が大敗し、55年体制が崩壊。

私が生れてからの記憶としては、光化学スモッグがまずある。
学校の校庭で体育の授業のときに「光化学スモッグ警報」が出されたら
全員すぐに校舎内に避難して窓を閉めた。夏などはクーラーなんて
学校にはないから地獄だった。
日本は先進国を気取っていても、環境問題や福祉では圧倒的な後進国で、
公害や薬害などだだ漏れというか野放図の状態で、大企業のやりたい放題
だった。公害や薬害では全国で多くの不幸を呼んだ。
まだ日本には環境庁などは存在しておらず、政府の対応は後手後手に
回っていた、というよりも戦後の自民党政権は米国との軍事同盟ばかりに
力を入れ、国内産業では企業と癒着して黙認状態だった。今の右傾化した
若い世代は自民党政権がよい世の中であるかのように脳内錯覚しているが、
戦後~1955年以降、高度経済成長終焉までの自民党単独政権時代は、
それはひどい世の中だった。国内で準内戦状態の反政府行動が起きるのも
起こるべくして起こった。
「企業の成長のため」「経済活動のため」などという名目で、国民の生命と
安全は危機にさらされていて、現実的に多くの不幸が生れたのは歴史的
事実だ。後年、私はたまたま仕事で多くの薬害訴訟と公害訴訟に関わったが、
その被害者の悲惨な現実を多く知り(職務だから感情を差し挟むのは
よくないこととはいえ)個人的には涙を禁じえなかった。
現在の原発行政などもその延長線上にあり、「経済のため必要だ」とか
自分が安全地帯にいてタワケタことを言う過去を知らない若い連中は、
全員福島第一原発の中に入って作業して来い。特定地域の国民の生命
財産を危険にさらして得るのが何が繁栄か。

コマネチ。
これはすごかった。力強く華麗で完璧な演技。この世のものとも思えなかった。
かわいかったし。
後年、コマネチ本人に「コマネチ!」のギャグをやらせたたけしも凄いけど。

55年体制の崩壊。
これは、自民党の自壊(自浄能力ないから当然。崩壊まで40年かかった)と
社会党の無力を指し示した。
いわゆる社会党などは自民党政権との「城内平和」の予定調和でシャンシャンの
反対政党の域を出ず、もともと政権政党としての力量はない。共産党などは
論外。
国民が「新たな時代」を求めてそれの胎動が開始されたのが1993年だった。
自民党は社会党との連立政権などという史上最大の茶番を繰り広げたが、
もはや政治劇が劇場公演である様相を呈しだしたのもこの頃から。
劇場型政治としてその後小泉がトンデモ政治で安定政権を得たのは、
なんとも笑えた(笑えないけど)。
ただし、自民党を支持したのも、現在の民主党を支持しているのも国民である。
民主党政権を指して「民意を反映していない」と在日朝鮮人差別と部落差別が
大好きなネトウヨはよく言うが、民主主義のルールを知らないのか?
民意の反映だから得票して政権取ったに決まってるだろに。こんばかふともんが。
自民党の得票が上がることに対しては「民意の反映」「国民の良心」とし、
自民党が選挙によって野党になると「民意を反映していない」とか言うのは
愚かを通り越して、現在の法治国家日本を否定する思想なので、きわめて
看過しがたい反日思想なのである。
てか、おまいらネトウヨが望む世の中になったら、まずおまいらが速攻で
保安処分でタイーホだよ(ストロー


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武器ではない刀  ~小柄小刀~

2011年07月17日 | 日本刀

江戸時代の小柄小刀(こづかこがたな)を小柄から外し、数日前から水に
漬けていた砥石で少し研磨してみた。
銘は磨り減りながらも「近江守源久道」と見えるが、裏表とも黒錆まみれで
地肌はもとより、刃文もまったく見えなかったから、錆を軽く切る程度に
天然砥石を3つ程使って軽く磨いた。
本職の研ぎ師が小柄小刀を研ぐ場合は、専用の様物(ためしもの)の試斬で
使うような切り柄みたいな形の硬木に刀身の幅に薄く溝が彫られた用具に
小刀の刀身をはめて研ぐのだが、持っていないので、一般刃物のように生身
で研いだ。

研ぐ前の表側。光線の関係で光って見えるが、実際には黒錆で真っ黒
である。こちら側は銘があるので一切研がない。だが、過去の持ち主は
研磨してしまったらしく、鑢目も消え、銘が磨り減ってしまっている。

裏側。つるつると砥石の上を滑るような砥あたりだ。しかし、ある程度行くと
妙に砥石に吸い付く。
研ぎ減らさないように、しばらく研磨してみたら、とんでもない刃文が
出てきた。


見事な濤乱刃(とうらんば)。砕ける波しぶきに散る雫の玉を焼いている。
かなりの出来だ。
(軽い窓明け程度のつもりなので錆は完全に落としていない)

しかも、焼き刃には刀工の独特の手癖がある。
最初、錆身を見たときは、小刀専門鍛冶の作で、銘はよくある土産物的
似せ銘だろうと思った。
銘はしっかりしていたので、「巧く銘切るね~」なんて思っていた。
しかし、出来を見る限り、この小刀、近江守源久道の正真?

こちら↓は、ネット上から拝借した久道の正真小刀の画像。

左:洛陽住近江守源久道     右:近江守源久道(私の小刀)

私の小刀の銘ぶりの鏨運びはこの正真とソックリ。
刃文も飛び焼きの中抜きの手癖がソックリ。
ソックリなのではなく、右の私の小刀はたぶん正真だろう。

(以下『刀工大鑑』得能一男・光芸出版・初版第5刷1984年
から抜粋。価格は上作大刀の例)

【久道(ひさみち)】延宝-山城 450万円
「近江大掾源久道」「近江守源久道」「近江守久道」、三品。
堀太郎兵衛。寛永三年江州野洲郡野村の堀勘左衛門の弟として
生れ、上京して二代目伊賀守金道門人となり、三品姓を許されて
久道と銘す。近江大掾を受領、のち守に転ず。茎に菊紋を切り添え
る。正徳元年、八十五歳にて没す。寛文五年より元禄の末年ころ
までの作刀を見る。作風は師の金道に似るが、互の目の肩が角張っ
たり、矢筈がかるものがあり、互の目と互の目の間隔が離れて谷
が短い直刃になった箇所がある。またのたれごころがあtって、濤乱
風で飛焼のあるものも見る。元禄になると嫡子久次(二代目久道)
との合作が多くなっている。良業物。(『三品系図』では久道の初代は
兼道五男あるいは門人で、慶長二年九月十二日近江守を受領。
二代久道は元和八年七月十六日近江守受領というが、初、二代
という久道の作刀を見ないので、堀六郎兵衛久道をもって初代に
あてる)

【久道 二代(ひさみち)】正徳-山城 380万円
「(枝菊紋)近江守源久道嫡子源久次、以南蛮鉄造之」「近江守
嫡子源金四郎」「(枝菊紋)近江守源久道」三品金四郎。寛文三年
栄泉来金道の三男として生れ、近江守久道の養子となる。初名
「久次」元禄十五年十二月七日、近江守を受領。初代久道との
合作多し。享保七年幕府の命によって江戸にて鍛刀する。元禄
二年ころより正徳にかけての昨刀がある。作風は初代久道に似た
ものと、互の目に丁子まじりで足が入って砂流しがかかり、沸、匂
のふかいものとがある。帽子は直ぐでややたるみごころの三品
帽子になる。業物。

私の久道は二代目金四郎久道だろう。初代と二代目は銘の
鏨運びがぜんぜん違う。私の小刀は、二代目久道の鏨の癖と
同じ運び、同じ書体である。
どうりで砥石の上で滑る感じがすると思った。
私の小柄小刀も南蛮鉄でできているのかも知れない。
研ぎ減って美術的価値はないから錆身短刀の拵えに付属して
きたのだろうが、その錆身短刀が舶載鉄の祐定だとしたら、
舶来鉄コンビで、私にとっては値千金だ。
これは思わぬ掘り出し物でござった。
贖った値は、キープ入ってる高級店での夜の倶楽部活動1回分(^^;
元文(八代将軍吉宗の時代)の頃の半両=2分程度だった。(幕末の
頃の物価レートじゃないよ)
江戸期の通貨単位は1両=4分=16朱=4000文で、そば料金
換算では、1文が今の30円(元文年間、日銀サイトによる)。
給料全部飲んでいた独身時代と違って、手持ちは少ないが、
お小遣いを貯めてじっと待って探せばこのような掘り出し物に
出会える。
まさに刀は一期一会だ。
見ていると、縁ある刀は、刀の方が話しかけてくるんだよね。
いや、ほんとに。
小柄小刀はもともとは貫級刀といって共柄(刀身と柄が一体)で、
戦国時代の討ち取った首級の目印に突き刺すものだった。
それがその後、完全に刀や脇差の共添えとして独立して
書状開封や汎用小型ナイフとして使われるようになった。
よく時代劇で手裏剣代わりに投げるのは、あれは嘘。
小刀は薄いので折れやすい。
でも、この小刀、南蛮鉄だとしたら折れにくいかも知れない。
いずれにしても、小柄小刀は江戸期には完全に武器ではない刀
となった。
侍は正式礼装では三本の刀を差すが、そのうちのひとつのこの
小柄小刀だけは、武器としての用途が主ではない。
面白いね。


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にぎり寿司 ~江戸にあって広島にないもの~

2011年07月16日 | 外出・旅

実は江戸前にぎり寿司評論家になれる程、江戸前にぎりについては
うるさかったりする。
華屋与兵衛にはじまる江戸前にぎりこそが本物のにぎり寿司であり、
最近では都内でも本物の江戸前のにぎりが少ない。
江戸前にぎりの最大の特徴は、すべてのネタに加工が施してあると
いうところだ。この加工にこそ、その店の職人の腕が発揮され、つけ場で
にぎることでさらに技が発揮される。はじめにコハダを頼むと、一発で
その店の職人の腕がわかる。また、にぎりは店の味というより職人の味
なので、どの職人ににぎってもらうかで味がかなり違う。
そして、江戸前にぎり以外は、本式にはにぎり寿司とは呼べない。にぎり
寿司を真似た疑似である。つまり、東京の限りある江戸前にぎりをにぎる
店以外はにぎり寿司もどきなのである。全国に寿司屋はあり、にぎりを
出すが、そのほぼ100%が刺身のネタをシャリに乗せただけの「刺身寿司」
であり、それをにぎり寿司だと思っていたら大きな間違いだ。モドキである。
しかし、本物に接する機会がないのだから、モドキに甘んじるしかない。
本物のにぎり寿司は、東京の江戸前寿司店でしか食べられないのだから
仕方ない。

本式の江戸前にぎり寿司とは別に、30年ほど前から回転寿司が登場して、
これが全国に普及して、刺身寿司ながらにぎり寿司(に似た物)が一般的
にも親しまれるようになってきた。
本格的寿司ではないにしろ、寿司っぽい雰囲気は楽しめるし、何よりも
スピーディーに腹を膨らますだけの目的にはよいシステムだと思ったりする。
(ただし、寿司の本質といえる職人の技というものは一切ない)
回転寿司屋にもいろいろなチェーン店があり、店により味が異なる。私も
寿司ではないと知りつつも、出張先などの出先でよく利用する。回転寿司
だけでなく、店舗の寿司屋にもよく行く。

広島に引っ越してきて驚いたことがある。
まず、コハダが存在しない。
東京の人間が聴いたら「ええっ?」と思うだろう。ところがない。
あの酢絞めの手の込んだ加工がないのでなく、ネタそのものがない。
これには面喰ったが、もっと面喰うことがある。
のり巻きがないのである。
東京のああた、「うっそ!?」と思うでしょ?
ところが、ないものはない。
のり巻きと聴いて「のりまき、広島にもあるじゃない」と思うあなた、
あなたは寿司を知らない。
のり巻きとはかんぴょう巻きのことをいうのだ。
西日本ではかんぴょう巻きが存在しないのだ。かんぴょう自体がないのか
というとそうでもなく、太巻きには入ってたりする。
ただ、のり巻きといえばかんぴょう巻きであり、よく昔のアニメや漫画などで、
よっぱらいのサラリーマンがお土産に持っているのはあれは大抵のり巻きだ。
(よく波平さんが持ってるやつ)
のり巻きというのは、回転寿司屋でも一軒店でも西日本では存在しない。
存在しないから食べることができなかった。
ということは、西日本の人たちは、東京に行かない限り、生まれてこのかた、
のり巻きとコハダを食べたことがないことになる。

三原には回転寿司屋が軒並み潰れて店がなかった。
まずい上に、三原の人たちが驚くほど外食をしない市民なので、潰れるのも
よくわかる。ラーメン屋なども、出店してはよく潰れる。
三原で外食産業を成り立たせるのは、よほど適正ニーズにマッチしていないと
かなり難しいと思う。とにかく、人が外食をしない。

最近、市内の住宅街に回転寿司ができたので、昨日行ってみた。


あれ?
以前、別な場所に出店していて、1年ほどでつぶれた店だ。
期待しないでおこうと思った。

すると、カウンターに座って、かなり驚いた。
こんなのがあるのだ。


江戸前にぎりはネタに加工がしてあるので、何もつけないで食べる
のが基本で、まあ、好みによって醤油をつけてもよい。醤油は一般的な
サラッとした醤油で、いわゆるムラサキというやつだ。
ところが、地方の刺身寿司では、ネタに加工がしてない刺身を乗せた
だけなので、刺身醤油を使う。また、そのドロッとした醤油を使わないと
ナマでにぎりは食えない。でも、にぎりといったらムラサキだ。ところが
西日本では寿司屋にムラサキを置いてなかったりするから、刺身寿司なりの
工夫なのだろうとは思ったが、ムラサキ自体を常備していないことには
馴染めなかった。
それが、この店にはあった。「こだわりのしょう油 関東風の辛口 東の味」
として。
「おっ!」と思い、ムラチョコに垂らして、板場の花板がアタリを取るように
少し舐めた。
なんのことはない。ただの醤油である(笑)
辛くも何ともない。普通の醤油。なにをもったいつけて(苦笑)
それほど、東京と西日本では食文化が違うということだ。
それでも、関東風を売りにしてそれを登場させたことは大きな発想の転換だ。

ところが、更に驚いた。
なんとー!!
これがあったのだ。


来たこれ。
これが食えるとは夢にも思わなかった。
味はまあまあ食えないことはない。(それでも本式の江戸前よりはかなり味は
落ちるが。巻物をあなどってはいけない。煮方もさることながら、巻き方ひとつ、
切り方ひとつで味がまるで変わってしまう)
のり巻き=かんぴょう巻きを西日本で食ったのは初めてである。
ということは、三原の人(東京に行って寿司を食べたことがない人)は、この物体
に出会うのは生まれて初めてではないだろうか。少なくとも、娘は新宿生まれ
だが三原育ちなので、こののり巻きという物は未知の物体として映るだろう。
店内混んでいたので、それとなく注文状況を観察してみると・・・
誰もかんぴょう巻きを頼まない(^^;
この独特の巻物の味を知らないというのは、なんとも申し上げにくいのだが、
もったいのうござる(←意味違うだろ>おれ)。
にぎり寿司というものの最後の締めはこれが定番なので、というか、東京では
子どもたちはこれが大好きで、おやつでこれ食えるのは贅沢だけど、とにかく
のり巻きが大好きだ。だから煎餅と併せて東京の名物から名を取ってアラレちゃんを
製造したDr.スランプは「のりまきせんべえ」という名前になったくらい。
アラレもせんべいも名の由来は、いわゆるおせんべ。そういやぁ、広島つーか
西日本の人はおせんべあんまし食べないなぁ。東京ってか関東ではガキの
おやつったらおせんべが定番。よく食うよぉ~。最近はそうでもないのだろうけど、
昔のガキは大抵ハナ垂らしながら駄菓子屋の前でおせんべポリポリやってた。
友だちんちに遊びに行っても出てくるのはおせんべだった。

さて、いよいよ西日本でもかんぴょう巻きが登場した。
当然ネタは甘出汁醤油で煮込んで加工がしてある。
これはですね、かなり画期的なことですよ。
三原でのり巻きが食えるとは、重畳なり。おいらしあわせ♪
ヒデキ感激!てやつだな(古すぎ)。
嬉しくなって、のり巻きだけでも3皿頼むというヤボやっちまったい。
これで茶がほうじ茶だったら言うことねぇんだけど、まあそれは贅沢だ。
贅沢言っちゃあ、おてんと様と観音様に叱られっちまわい。

だが、コハダは未知の物体として、三原はもとより、西日本では
まだ登場していない(^^;


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梅雨明け

2011年07月14日 | 内的独白



梅雨が明けたとたん、ここんとこすんげ~暑いでやんの。
クーラーあまりつけないから、汗だくだく(^^;

雨の広島の街というのは、結構オサレなんだけど、
雨の三原ってのは、あまり似合わない感じだったなぁ。


やあ、こんにちは。久しぶり。こんなところにいたんだね。
懐かしの湘南電車の車両がお下がりで呉線に。
きっと、私は子どもの頃にこの個体の車両に乗っているはず。


夏本番ですね。体調など崩されぬよう。

三原の海。

私が子どもの頃は、夏のイメージはこれだった。
湘南の海。
(クリックで拡大)


ところで、私のこの「渓流詩人の徒然日記」は、現在のところ、
1日大体200人の方が訪問して、1日のべ630回ほどプレビュー
されています。(1人あたり3記事程度読んでくれてるみたい)。
そのアクセス数はgooによると1,607,650ブログ中8,610位なんだって。
のべ160万人以上もgooブログ持ってるんだぁ。
アメーバや他のサービスを合算すると、もう日本中がブロガーだらけ
というような状況だなぁ。。。10年前にブログがまだ存在せず、
さるさる日記が老舗として日記形式の簡易サイトを作った時には
あまり利用者いなかったけどね。
私は1990年代(win95)からインターネットをやっていますが、
2004~2005年頃の爆発的なインターネットの普及というのは
目を見張るものがありますね。
ひとつにはブロードバンドと使い放題定額のフレッツが普及した
ことがネット普及に繋がったのだと思う。だって、私の母親でさえ
インターネットやったり、友人とメールやりとりしたりしているもの。
ただ、ネット普及で裾野が広がるのと同時に、ツールとしての
ネットワークの使い方を間違えている人が増えて来ているのも
事実だと思う。ネットや携帯(含むメール)で、いつも他者と繋がって
いないと精神的に不安になる状態というのは、やはり健康な心の
状態ではないと思う。
TVや新聞は欠かさずとも、ときにはネットを離れることも必要なの
ではないだろうか。どんなことでも、中毒はかならず弊害が起きるから。


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レスポンスあれこれ

2011年07月13日 | 内的独白

九州の剣士の方から連絡をメールをもらった。
小説『いっしん虎徹』について、興味がわいたので
さっそく買ってみた、紹介ありがとう、という内容の
メールだった。
また、別な日本刀研究者の方からも、その小説についての
日記記事に関して興味を引かれるとのメールを頂いた。

こういうのは嬉しいよね~。
元来、気取ったおべんちゃらなんて大嫌いなので、
方々で舌禍事件を起こす私だが、こういうご連絡
をもらえるのは正直いって嬉しい。

また、カテゴリー「悪口」というのを設置したら、「どひゃひゃ」
反応してタイムリーにウケタ連絡してくれた人が数名(^^;

それと、真面目な方面では、最近刀剣関係でのメール問い合わせ
がなぜかかなり多い。
以前には日記の内容について連絡くれる人などは殆ど
いなかった。
ときどき、「なに俺をバカにしてるんだ!」と全然関係ない
記事で怒鳴り込んでくる特定の人はいたけど。
その怒鳴り込みは、私が小説のこと書いていたり、まったく
個人的な感想で作家の表現方法について書いていたり、環境問題に
ついて書いていたりしたら「俺のことバカにするな」とか「なに情けないこと
書いてるんだ」とか「あんたは人のこと悪く言うしか能がないというのは
みんなが知ってる」(すべて発言のママ)とか、他にもいろいろ言ってきた。
俺もよくずっと堪えてたもんだ。
突然そんなことねじ込まれても、こちとら「はぁ?」なのである。

そして、私が日記に書くことはすべて自分のことと勘違いしている
のか、まったく関係ないことを書いていても過剰反応してプッツンする。
「はぁ?」なのである。
勘違いも甚だしい、というか、自意識過剰すぎでない?
でもって、ある時、私の日記を読んで、自分のことだと勝手に
思いこんで、携帯電話から私の登録を削除したり、連絡絶ちを
したりする。
「はぁ?」なのである。
さらに自分でそうしておきながら、「連絡する方法はいくらでもある(のに連絡
よこさない)」「連絡する努力をしていない」とか公言して、こちらの落ち度の
ように言い放って排除に向かう。
褒めちぎっていたかと思うと、突然態度が豹変する。
1日のうちに何度もコロコロ態度が変わる。
5秒前に自分が言ったこと、人から言われたこと、複数人の中で相互に5秒前に
確認したこと等はまったく100%覚えていない。
「はぁ?」なのである。
こういう人が男女含めて日記開始の2003年から4人ほどいた。


結論としては、勝手に脳内でいろいろ作り上げて、勝手に感情の
起伏が訪れて、勝手に自分で地団駄踏んでこちらを憎み関係を絶つ。
なんだかねぇ。。。
近くにいたらいきなり刃物で刺されそうだよな(こちらも素人じゃないから
簡単には刺されないけど)。

でもって、可哀そうだけど、そういう対応する人には共通項があった。
それは、一様に境界例の症状が如実に表面化しているということ。
本人はなりたくてなっている訳ではないから気の毒といえば気の毒
なんだけど、こっちとしてはかなり困惑するのである。
(境界性人格障害についてはこちらをどうぞ)

ちなみに、医学的には以下のうち、5つ以上に該当するならば、この病気に
罹患しているとされます。

1・人に見捨てられる不安がきわめて強い
2・対人関係が理想化と過小評価に揺れて安定しない
3・アイデンティティが混乱していて、一貫した自分のイメージが保てない
4・衝動性が高く、衝動買い・セックス・薬物乱用・過食発作といった衝動性がみら
  れる
5・自殺行為や自殺を思わせる傾向が再三みられる
6・感情がきわめて不安定である(特に抑うつ感と不安が激しい)
7・慢性的な虚無感に悩まされる
8・不適切なほど強い怒りを持ち、それをコントロール出来ない
9・一過性のストレスに関係した妄想観念が生じたり、あるいは強い解離性障害が
  らみれる



まあ、病気だからしょうがないけどね。
しかし、境界例の症例ってのは、なぜああも分かり易い症状が
一様に医者が説明するのと寸分たがわず出るのだろう。
というか、むしろ逆に、罹患者の症状を分類化したら、これとこれとこれ
という具合で、それらが臨床の結果判明したことなんだろうなぁ。
本人も双極性よりも自覚し難いのが境界例で、一般人も気づき難い。
だから、どんどん病状は進行する。
病人には医者と病院が必要なのだ。
必要なのは玩具と玩具遊びではない。
しかし、境界例患者にとっては、自分の思念の成就のために「利用」する人間は
必要なので、人を周りに置きたがるのだが、いろいろと周囲の人と人間関係に
おいて壊滅的な状況を作ってしまうことが多い。
症例のひとつの「見捨てられ恐怖」から、誰かと常に電話で話していないと
精神的に保てず、月の電話代が莫大な金額になり生活を逼迫させても、
それをやめることは周囲との関係が絶たれるかのような恐怖心があるので、
常にメールや電話をかけ続ける。
しかし、自分の都合や気分で、人から来る電話やメールは「自分が必要とする
気分でないとき」には精神的安定の阻害要因としかならないため、電話に
でなかったり無視したり、面倒臭そうに厄介者に触れるように対応したりする。
しかし、何人も自分の脳内で創作したそうした情念に基づいて、電話帳を削除
したり、メールアドレスを削除したりする。そして、自分から連絡が必要になった
ときは、別の者にその削除した者の電話番号やメールアドレスを尋ねたり
する。これが「10年以上の付き合いで、信頼しているの」と自分が言う相手
でさえも気分次第で連絡先データを突如として突発的に削除したりする。
その瞬間の思念の成就のためには、他人の存在をデリートすることで
自分の存在を得ようとするのが境界例の特徴である。
だが、境界例患者の思念の成就というものは、瞬時瞬時で変質するので、
絶対に出来得ないことなのであり、なおさら無限ループとなって解決の出口は
最初から存在しない。周囲の人間の誰かをスケープゴートにしてスポイルしては、
次の誰かにベターッと密着し、また次に同じようにスポイルする攻撃対象を探し続ける。
これを常に繰り返しているのが特徴だ。
他人と接する時はいつも上げたり下げたり甘えたり憤ったり暴れたりする。
それが何の予兆もなく突然やって来る。
周りの人間にとっては奇異なことに映り、驚くが、本人にはその心の振幅の
自覚はまったくない。
自動車走行中に通話中の携帯電話の電波が途切れたりすると心の繋がりが途切れた
と錯覚しパニックになり暴れる。電波が繋がった時には患者は逆上して携帯電話に
対してどなりつけ、叫びながら電話器を殴り続けていたりすることも往々にしてある。
また、健常者には考えられないようなささいなことで、逆上し、どなり散らしての
行動をとることもある。例えば、ちょっとした事務連絡ミスでA地点にあるべき用具が
100メートル離れたB地点にあった場合など、どなり散らしながらわめきまわり、
その用具を運んで来たりする。100メートルの間ずっとどなり散らし続けている。
周囲の人間は「なぜそれくらいのことで」と不思議がるが、患者にとってみれば、
自分の思うようにならないことは「自分が見捨てられる」ということに繋がり、
また強迫観念に襲われるので、それから逃げるために、健常者から見たら
理不尽とも思える態度で暴言を吐きながら暴れまわる。
他にも数えきれないくらいの症例が出ているのを実見している。
周囲の人間では救えない。
必要なのは、友人でも恋人でも親でも子でも配偶者でもなく、医者と病院なのだ。
入院して適切な治療を施されることしか、回復の道はない。




小説紹介感謝の連絡は、まだお会いしたことない人だけど、
こういう連絡は嬉しい限りで、一服の清涼感が残った。

それといろんな方面での問い合わせ等には、誠心誠意私は応えます。
分からないことは知ったかぶらないのではっきりと「わかりません」と
言いますので、よろしく願います。

(メールでの連絡は、以前の日記のように直リンクがないので、
左コンテンツの「ブックマーク」から本家サイトのトップに行って
そこからメールして下さいませ。音注意)

 





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行ってみたい場所 ~柳生の里~

2011年07月12日 | 外出・旅

バイク乗りだった友人と話していて、ツーリングの話になった。
若い時は、峠の膝摺りばかりだったので、あまりツーリングと
いうものはしていない。
ツーリングと呼べるかどうかだが、ハマから神戸までサクッと
コーヒー飲みに行ったりはしていた。
350ccのヤマハに乗っていた時も、横浜から広島県の三原
まで給油以外ノンストップだし、50ccのカワサキの原付を買った
時は、「行って帰ってくればちょうどナラシも終わってるや」と
買った横浜のバイク屋からその足で三原まで走った。
もっと前の高校の時は北関東や東北の方を廻ったりもした。

バイクに限らず、日本国内で行ったことのない県がふたつ程ある。
それは沖縄県と和歌山県だ。
和歌山などは遠い先祖が縁があるのだから、行ってもよさそうなもの
だが、行ったことがない。
友人に話すと「マジか?」と信じられないような感じで言う。
そりゃそうだ。彼は堺育ちで、堺から和歌山というのは60km
くらいしか離れていない。横浜から小田原くらいだ。三原から
広島市内に行くよりも10kmほど近い。
「バイク買ってクジラ食いに行こうぜ、1泊か2泊で」と友人は言う。
いいね~。でも、今、俺のバイクは死んでいる(苦笑)

京都・奈良は関東の中学校の修学旅行の定番だ(小学校は日光)。
よりによって、高校の時も京都・奈良だった。
高校の修学旅行は、2クラスごとに好きな所に行くという企画だったが、
私のクラスと向かいのクラスは私のクラスの担任の押しで、京都・奈良
歴史街道の旅となった(なんじゃそれ。笑)
それでも、案外楽しかった。観光ではなく、ローカルなバスに乗ったり、
降りて奈良路を徒歩で数キロ歩いたり。

奈良だったら行ってみたいところがある。
前々から行きたかったが、どうしても機会を逸していた。
それは、柳生街道・柳生の里
という場所だ。


ただの田舎じゃねーか、なんて思ってはいけない。
田舎なのだが、ただの田舎ではない。
ここは、柳生の本国なのだ。


家老の邸宅跡。いかにも、という感じだよね。


雰囲気バリバリ。


う~む。このような家というのは俺にとっては理想形だ。住みたい!


以前、三原の城下にこのような家が売りに出されていて、マンションなどではなく
そこを買いたかったのだが、家族の猛反対で諦めた。

本当ならばこういう家だとなおさら良(笑)

寺かよ!寺に住みてぇのかよ!(笑)
これは昨夜観た『魔界転生』(2003年版)のワンシーン。

江戸柳生、但馬の邸宅跡は、以前住んでいた早稲田の近くにあった。
町名でいうと、新宿区若松町だ。
たまたま偶然、前職の仕事で、交渉事をすることがあり、土地の登記簿
謄本を明治初期から洗っていたら、そこは柳生家の屋敷だった。
維新後水野殿が購入し、戦後競売(けいばい)で売りに出た。
現地に行くと、「柳生但馬守屋敷跡」という石碑が敷地内にあった。
「へ~」と思った記憶がある。天然理心流の試衛館のあった牛込柳町の
すぐそばだ。


これなどは、背景からして映画用のセットだろうが、こんな家屋と
玉砂利の庭などがあったら最高である。
映画自体は1981年版に比べたら100点満点中20点くらい。ミスキャスト多し。
佐藤浩市さん頑張ってたけど、他の役者の演技がひどい。柳生但馬役は81年版
の萬屋錦之介の弟の中村嘉葎雄さんがやっているが、どうも台詞が弱い。
あと、佐藤さん殺陣はもっと稽古してほしい。宮本武蔵の木刀を受け流す時に
きちんとできてなくて、刀で自分の頭を叩いちゃってる。あれ、真剣なら頭
自分で斬って死んでますがな。それをスローで流されるから、なおさらキツい
ものがあった。でも1996年版の『魔界転生』よりはマシ。あれはシドかった。

柳生家は、江戸詰めの大名として江戸柳生があり、剣術の新陰流の宗家として
尾張徳川家の剣術指南番の尾張柳生家がある。江戸柳生は途中で養子が入って
いるので、直系ではないが、尾張柳生は現在まで柳生石舟斎からの血が脈々と
続いている(昔の画を見ると、今の人も江戸初期の先祖とソックリ)。
ちなみに、俳優の柳生博さんは江戸柳生家の血筋だ。東急目黒線大岡山あたりで
よく見かける。

とにかく、柳生本国の柳生の里を訪ねてみたい。

柳生烈堂が寺、芳徳寺に続く石畳。
タイムスリップして、柳生十兵衛や連也が歩いていそうな雰囲気だ。

こちらは有名な一刀石。

柳生石舟斎宗厳(むねよし。尾張の伝では、むねとし)が天狗と思い
切りつけたらそれが石だったという伝説がある。


剣聖石舟斎どの。ちと下で刃筋が狂ってはおられないか(笑)

柳生石舟斎の愛刀は三原の刀。
この石を切ったのも三原と伝えられている。
その刀は五男の柳生宗矩(むねのり。後の但馬守。幕府大目付)に伝えられて
現在も残っている。
柳生宗矩は、大名柳生家の初代で、4000石程度の小名から万石を超える大名
まで出世した剣豪は、日本の歴史の中で柳生宗矩ただ一人だ。
彼は、将軍家剣術指南役であったが、慶長20年(1615
)の大阪の役に出陣し、
将軍徳川忠秀を襲ってきた
豊臣方の武者7人(5人説もあり)を瞬時に愛刀で
斬り伏せた(『安藤治右衛門家書』)。
この時に、豊臣方のモノノフを瞬殺した刀は三原の刀だったかも知れない。

柳生、正木坂道場。

いまだに、この様式でバリバリの現役の道場であるというところが
なんともすごい。

柳生菖蒲園。



菖蒲は勝負につながり、そして尚武につながる。
昔から剣術家や武士に愛された花だ。
かくいう私も、実は一番好きな花は菖蒲なのである。

なぜか、私は柳生を偲ぶ心は強い。
それにはきっと訳があるのだろう。
しかし、それは、今の段階ではすべては明らかにはなっていない。
 


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ばかり言うのはいくない。

2011年07月12日 | 悪口


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岩に染み入る蝉の声

2011年07月12日 | アウトドア

一昨日から、我が家の窓からは蝉の声が聴こえだした。

蝉といえば、東日本からあるいは西日本から出たことがない人は
たぶんまったく知らないだろうが、東日本と西日本では蝉の分布が異なる。
私は子どもの時に、東京から広島県の三原や福山に夏休みに
遊びに来るたびに、蝉の鳴き声が違うので「あれ~?変なの。おもしれ~」
などと思っていた。

それは、関東で作るドラマや映画の夏の場面を思い出してもらえば
気づくかも知れないが、関東で夏の定番の蝉といえば、いわゆる
ミンミンゼミなのだ。鳴き方はミーンミンと鳴く。

ミンミンゼミ

ところが、西日本ではアブラゼミとクマゼミが主体となる。

アブラゼミ


クマゼミ

鳴き方はシーシーシーとかジーーーッと鳴く。

もちろん関東にも関西にもミンミンゼミもクマゼミもアブラゼミもいるの
だが、面白いのは、関東と関西で分布に逆転がみられることだ。
関東では平野部にミンミンゼミが棲息し、山間部にアブラゼミがいる。
関西では概ね逆なのだ。(広島でもミンミンゼミは山間部に行かないと
ほとんど鳴き声を聴くことができない)
日本列島のどこの地域から棲み分かていれるのかはよく知らない。
こうしたのってとても不思議だ。

同じような現象で、サケ科の淡水魚のヤマメとアマゴがある。

ヤマメ

アマゴ


どちらも同類で、外見上の見分け方は体に赤い点があるのがアマゴだ。
ヤマメは山女、アマゴは雨子とも書かれる。
どちらも氷河期が終わった時に陸封されて渓流に閉じ込められた。
ただし、太古のように海に下ってまた川に戻って来て産卵する魚体もいる。
(サケだもんね)
ヤマメの降海型がサクラマスと呼ばれ、アマゴの降海型がサツキマスと
呼ばれる。幼紋であるパーマークという小判型の斑紋は消えて魚体が銀化(ぎんけ)
して、体長はかなり大型化する。(30~60センチ)

大雑把に別けると、ヤマメは日本海水系、アマゴは太平洋・瀬戸内水系に
棲息している。ただ、厳密にはもっと複雑だが、東日本がヤマメで西日本が
アマゴと考えれば当たりではないが外れでもない。
しかし、この二種が何故棲み分かれているのかは、まだ明らかになっていない。

広島県というのは神奈川県とならんで、全国でも珍しい恵まれた環境にあり、
県内でヤマメとアマゴの両方が釣れる。いてはいけない川にいることもあるが、
生態系をきちんと保っている漁協が管理している河川では、ヤマメの川には
ヤマメが棲み、アマゴの川にはアマゴが棲んでいる。
これが他の県では、ヤマメかアマゴのどちらかしかいない。
以前、四国高知のフライマンを広島の渓流へガイドしたとき、「ヤマメを釣って
みたい」と言っていた。普段地元ではアマゴばかりだからだ。
広島では、芸北の分水嶺を超えて日本海水系に行くとヤマメが釣れ、ほんの
数キロ南の川ではアマゴが釣れる。こんなラッキーなことはない。

フライフィッシングはバス釣りと同じで、私は夏のトップウォーターの釣りが
一番楽しく感じる。いわゆるドライフライの釣り。
春や秋の重装備ではなく、軽装備で軽快に沢を駆けあがる。
狙ったポイントを流すというより叩く感じでテレストリアル(甲虫)の毛鉤を
水面に送ると、ガバッと水面を割って大口開けてヤマメやアマゴは食いついてくる。
時には、フライを空中で浮遊させると、空中にジャンプして食いつく。
夏のマスたちはお腹が好いているようだ。春先の警戒心はあまりない。

そして、広島県の山間部の渓流でフライロッドを振るのを休めて岩に腰掛けて
いると、関東と蝉の分布が違うことに気づく。
最初は広島の平地部でのシーシーシージーーーッという蝉の声に「あれ?あれれ?」
と思った。
親の実家の庭にはセンダンの大木があって、毎年、屋内での会話が聞こえなく
なるくらいにセミが大合唱していた。

センダン

親と同居していた時は、蝉の不完全変態を幼稚園の娘と観察したりして、
いい機会を得たと思っていたが、先年、そのセンダンの樹は枯れてしまった。
二階の屋根より高い枝を伸ばす木だったが、とても残念だ。
そして、セミは以前ほど鳴かなくなった。うちの庭の地中に何年もいたのだろうが、
宿る木がなくなっては蝉さんも困るだろう。次はカナディアンメイプルの木にでも
宿ってほしい。(蝉にも好みの木があるみたい)

ただね~、センダンやサクラは屋敷内に植えるもんじゃないね。
育ちが早くて根を張って大木になるから、屋敷を壊したりする。
植えるなら、大名の上屋敷みたいな、せめて東京ドームくらいの
敷地がないとね(笑)

蝉といえば、三原駅前のうちの近所では蝉が鳴き始めたけど、
まだ平野部の住宅街では鳴いていないという。
これまた不思議。
駅前には広大附属や三原小の樹木が生い茂り、駅から300mほどの
ところに桜山があるからかもしれない。


うちの裏山、桜山から見た瀬戸内海のいわゆる「光る海」。
波がないが海流が早いため、表情を都度変えながら
瀬戸内の海は光る。
この桜山の頂上には、中世戦国期に山名氏が城を築き、
現在、廓跡や井戸の遺跡が残っている。

そろそろ、夏の扉が開いたようだ。

ところで、蝉って、ヤマメと同じで、研究がされていなくて、あまり実態が
分かっていないんだよね。
世の中、学術的にも不明なことは結構多いのです。
最近、知り合いの東大のセンセがウナギの生態の不明だった部分を
解明してNEWSになってたけど、生き物って不思議だよねぇ。
サケやウナギが、自分たちが生まれた川に遠い海から回帰するのはどういう
仕組みなんですかね。
できることなら、私もサンマとなって生まれた目黒に帰りたいが、娘は生まれた
新宿には帰りたいとは思わないらしい。
でも最近「絶対に、行く大学は都内だ」と言いだした。
それがいい。
外の世界を知らないと、ろくでもないのになるのは見えている。
特に地元から出たことないとなると、人間最悪。
東京・大阪・京都は、古くから都が置かれた都市であって、各地から多くの人が集まる。
そういう場所で、人の波に揉まれて来ないと人間駄目だ。本当に駄目だ。
外の世界を知らない井蛙は、自分の独善でお為ごかしの薄っぺらな言葉を
並べるだけで、中身がまるで伴わない。そして人間が限りなく小さい。
いやという程、それを見て来ている。
蝉やヤマメと一緒で、人間やお国柄というものは違うのだ。
でも、人間には少しばかり智慧があるから、蝉よりはまし。考え至ることもある。
ただし、至らないのも多い。
蝉やヤマメではないのだから、人はどんどん狭い地域から海へ漕ぎ出せばよい。
よく、東京を知らない田舎もんが「東京は人が住む所じゃない」とか言うが、
バッキャロと言いたい。東京には1千万から人が住んでるんだ。なら、東京に
住んでるあの人たちは人間じゃねぇとでも言うのか?
これだから田舎もんの世界観の狭さはイヤなんだよ。
てめえの住む田舎の土地だけが楽園だと思ってて、帝都さえも否定する。
そいつぁ、お門違いの心得違いだよってもんだ。


地球人を「下等な動物」とか言ってるけど、こいつぁ、
カメムシ目だろうぜ。それに鳴き方、馬場さんの真似
してんじゃねーよ!
(V)o¥o(V)


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