渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

鬼平犯科帳

2016年12月03日 | 映画・ドラマ


最後の鬼平犯科帳を観た。
ラストシーンで江戸城の天守遠景が出てきた。
こいつぁいけねえぜ。(≧∇≦)

<長谷川平蔵宣以>
生年 1745年。歿年 1795年6月26日。

<江戸城三度目の再建天守の消失>
1657年。以降、再建されず。

せめて、この櫓を写すくらいにしてほしかった。


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Top 10 Akira Kurosawa Films

2016年11月30日 | 映画・ドラマ

Top 10 Akira Kurosawa Films


これはいいぜ!(´▽`)

こっちもね ↓

Top 10 Samurai Movies


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人狼

2016年11月18日 | 映画・ドラマ



元中核派のケルンパーにしては良い作品を描いていると思う。


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映画名シーン 『椿三十郎』

2016年11月14日 | 映画・ドラマ







どれほどの仕込みで血が噴き出すか、事前に俳優には一切
伝えられていなかったため、本当に周囲がパニック状態に
なったというこのシーン。
加山雄三さんなどは「本当に仲代さんが斬られたと思った」
と言うし、斬られ役の仲代達矢氏も、どんだけ血がでるのか
とびっくりしたという。
当日は冷え込んでいて、人工血液が凝固してしまうので、
本番前に温めたら、仕掛けポンプから勢いよく噴出したと
いうのが真相のようだが、それにしても凄すぎる(笑)。

ハリウッド映画『ボディガード』の主人公は、『用心棒』を
何度も観たという設定だったが、外国人向けには、リメイク
されて『荒野の用心棒』となったりした黒澤『用心棒』の
ほうが『椿三十郎』より馴染み易いのかもしれない。
私としては両作を比較すると、断然『椿三十郎』のほうが
面白く感じる。
多分、外国人には、「お家騒動」とか「藩内での論の対立
による政争」いうことがよく理解できないのではなかろう
か。

リメイクといえば、この『椿三十郎』も2007年に織田裕二
主演でリメイクされたが、なんともトホホ過ぎる出来だった。
肝心の最後の三十郎と室戸半兵衛の対決のシーンは、一瞬で
勝負が決するというクロサワシナリオを改変しており、すべ
てを台無しにしていた。
私の読みでは、これは、実は役者があの殺陣をできなかった
からでは、と踏んでいる。
それまで、台詞やシーンはすべてクロサワ脚本に基づいて
撮影されていたからだ。ラストだけがトンデモ大改変に
なっている。
あんな間延びした何手もやりあう決闘では『椿三十郎』が
無茶苦茶なことになってしまう。

また、鈴木杏は良作『ジュブナイル』や『リターナー』では
かなり巧い少女役を演じ切っていたが、このリメイク『椿
三十郎』では1万%アウトの演技となっている。
お姫様やお嬢様役をやる場合のセリフ回しとしては、「ゆっ
くりとしゃべる」ということが鉄則としてあるのだが、鈴木
杏はそこら辺の意味が分かっておらず、多分監督から無機的
に指示されたのであろう、「ただゆっくりしゃべる棒読み」
を実行しているのだ。15歳の頃のあの味のある演技力が全く
発揮されていない。
こういうのは、役者の力量というよりも監督の腕一つだろう。
簡単にOKテイクを出してしまったのではなかろうか。
とにかく「これがあの鈴木杏?」というほどにひどいお姫様
役なのだ。

もしかすると、そういう役柄が鈴木杏はこなせないのかも
しれない。
似たような女優に石原さとみがいる。
下町ねーちゃんのような配役では力量を発揮するが、清楚で
上品な深窓の令嬢のような役、控えめに耐え忍ぶ薄倖の女性、
というような役どころはまったくこなせない。大河での静役
などはひどいものだった。
途中で指導されたのか、やはり台詞をゆっくりとしゃべる
ようにスイッチしたのが明らかに見て取れたが、やはり鈴木
杏が後年犯した失敗と同じく、「棒読み」になってしまって
いる。
令嬢がゆっくりしゃべるのは、日常の中で自己に定着して
いるので違和感はない。
例えば、皇室皇族が物を話す時の超ゆっくりした話し方と
違和感のなさを想起してほしい。

原本『椿三十郎』では、家老の奥方とその娘の姫が馬小屋で
のんびりと話すシーンがある。
その浮世離れした上品さに主人公三十郎は「あー。まどろっこ
しい。やってらんねーよ」というような無言の態度を見せる
のだが、そのときの女性二人のセリフ回しと三船敏郎の無言
の演技が絶品なのだ。
『椿三十郎』は原本とリメイク版では役者の演技や監督の手法
に雲泥の差がある。

というか・・・北野たけしさんやダウンタウンの松本さんが
よく言ってるが、「よくクロサワ映画をリメイクしようという
気になるな」と。
いや、私もそう思う。
無謀というか・・・結果はかく如し、というようなことになる。
クロサワ映画のリメイクを作るというのであれば、当然、監督
は、黒澤明を全領域において超えなければならない。
はたして、そういう人が日本にいると思っているのだろうか。
自分の持ち味で勝負したほうがいいと思えるのだが。


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サイボーグ009

2016年11月06日 | 映画・ドラマ



スカパーで79年版サイボーグ009をやっている。



原作漫画も68年も反戦が完全にテーマだった。
だが、79年版は「戦い忘れた人のため」に戦うというようなことに
なってしまい、さらに平成版では「テロリスト」が敵となり、完全に
アメリカ合衆帝国のポチ化してしまった。

時代なりとはいえ、随分と様変わりしてしまったものだ。



原作では人種問題なども扱い、また、「異端」として排斥される者たちの
悲哀と独立をも描いていた。
人のために、サイボーグたちは平和を求めて闘った。
だが、やがて、「戦い忘れた人のため」に戦うということになり、
やがては「正義のために」戦うということにされた。
だいたい79年版では、009島村ジョーは金髪になってしまっている。
彼は日本人で黒髪だった。
この金髪バージョンから、作品がアメリカポチ化してきたことが象徴的に
見て取れる。
そして作品は、ルパン三世のようなただの娯楽アクションになって
しまっている。中身は陳腐だ。
1960年代の『遊星仮面』、『スーパージェッター』、『鉄腕アトム』
等で流れていたテーマはもはやない。
それらの系譜の中に、明らかに「社会とは同化できない外(と)の者」と
しての悲哀と願いというテーマを織り込んで描かれたのが『サイボーグ009』
であり、その後の作者の不朽の名作漫画『仮面ライダー』に繋がるのだ。
更に009やライダーのテーマを一歩押し進めて、完全に人間とは切り
離した機械という設定で、アトムのテーマに還るように『人造人間キカイダー』
が同作者によって描かれた。
『デビルマン』が実は人間の愚かさを知らせるテーマであったように、
『サイボーグ009』も人間の「不完全さ」と「原罪」を捉え直すことが
中心の骨としてあった。
だが、79版以降は、一切それらが無い。
しかも79年版は話が極めて幼稚だ。幼稚過ぎる。
そして、やがてその無機質な人間不在のアニメの作風は、エヴァンゲリオン
で完結を得る。
一切の人間自身の自省なき作品は、現在も続くが、唯一、そうした時代の
中にあっては、『人狼』が気を吐いたのが救いか。

フランソワーズは限りなく好きである(笑


しかし、やっぱし、この心が大切だよな。
赤塚魂よ、永遠に!
何度叩きのめされても立ち上がるニャロメ魂に未来あれ!(草



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腐女子

2016年11月02日 | 映画・ドラマ



ぶひ~(><)
こんなホラー映画観たくないよ~。

てか、まるっきり意味違うんですけど、監督解ってるのかなぁ(笑


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『七人の侍』 ~クロサワに見る侍設定のカラクリ~

2016年10月26日 | 映画・ドラマ

以前にも触れたネタだが、世界のクロサワ=黒澤明監督の作品
ついて。(黒澤明は私の高校の先輩)


クロサワの作品で不朽の名作とされるのは『七人の侍』だ。
現代人で武士と同じ装束で何かをやっている方々には是非一度
ご覧になってもらいたい映画作品だ。
この作があったからルーカスやスピルバーグが映画の道に進んだ
のだし、シュワルツネッガーをはじめとする多くのハリウッド俳優が
役者になろうと決意した。
『七人の侍』は、野伏せりの野党から農民を守る七人の剣士の傭兵
物語である。

その『七人の侍』の中では「薪割り流を少々」と言ってた林田平八が
なかなか味がある。七人の侍の旗を造ったのも彼だし、傭兵チーム
のムードメーカー的な存在だった。


ところで、名作映画『七人の侍』(1954年)は世界初の傭兵映画
作品
なのだが、登場する七人の傭兵はリーダー以外全員名前が
数字と
関係してるというのはご存じだろうか。
これはクロサワの作戦のような気がする。
4から命名したのも、三船敏郎が3だからのような気がする。
そしてその三船の役名に千を持って来たのは千秋実(平八役)から
だった
りして。
それくらいのカラクリはクロサワならば組み込みそうだ。
平八は作品の中で、百姓出身の菊千代(三船)を最初は一番から
かっていたが、やがて半分農民半分侍として認めて旗に描いたの
だった。そして、七人の傭兵の中で、一番最初にムードメーカーだ
った平八が死亡する。
だが、落胆するメンバーを鼓舞して今度はムードメーカーになった
のは菊千代だった。そして、菊千代が最後に死ぬ。
この人的相関性は、脚本の中で描いたクロサワの心の絆のバトン
とチームワークというロジックとしてのトリックだったろうと私は読ん
でいる。

<七人の侍たちの数>

・島田勘兵衛・・・・・リーダー
・菊千代(三船敏郎)・・・・・・・・・1000
・岡本勝四郎・・・・・4
・片山五郎兵衛・・・5
・七郎次・・・・・・・・・7
・林田平八(千秋実)・・・・・・・8
・久蔵・・・・・・・・・・・9


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これが原点 ~ルパン三世劇場版第1作~

2016年10月21日 | 映画・ドラマ



しまった!
録画し忘れた(^^;
途中から録画だよ(笑

ところで、このバイクすげ~な。
ハンドルどうなってるんだ?(笑


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映画『天地明察』

2016年10月20日 | 映画・ドラマ

『天地明察』(2012)

私は面白かった。
松本幸四郎の脇差の差し方が萬屋錦之介ばりに見事である、というところ
ではなく(笑

「映画」として観たら、出演者の演技力によって助けられているという
感はあるが、私は本作は面白かった。

宮﨑あおいさんのいいこと(≧∇≦)


ただし、文字が出るシーンでは、刀剣の代銘を見抜く私は見てしまった。
主人公安井算哲と算術者関孝和の文字は、どなたか毛筆指導の同一人物
が書いたものであることを。

やはり、書き手を特定されないためには、数種類の筆致と運筆強弱を使い
分けられないとならない。
とはいっても、そのような技術を身につけているのは、公安当局や対立
党派からの狙い討ちを回避する必要があるような者だけだろうが(笑
しかし、写楽はしてやったりだった。
現在は写楽が誰であるかはほぼ判明しているが、つい先ごろまでは写楽は
一体誰であるのか不明だった。
まさに「お主、役者よのう」なのであった。

本映画作品は、その役者の演技が差し出がましく前には出ず、しかしながら
演技の粒立ちが星の如く煌めく点が、私には好感が持てた。
星は仄かに瞬くから美しい。



この作品は私はおすすめです。
夫婦、恋人、何かに打ち込む人に観てもらいたい良作と私は思う。


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クロサワ映画名作三部作のうちの二作

2016年10月04日 | 映画・ドラマ


三十郎が出てくるクロサワ映画では、クワ畑のこちらより、やはり
椿のほうが私はいい。(なんか妙に名の由来ナルホドと納得したり
して。あ、そ~か、と。笑)


こういう与太者を斬るよりも、




刀で斬るには、やはり相手は武士に限ると思うからだ。
与太者成敗は刀などではなく、こん棒あたりでよい。


いくら相手が刀を持っていきがっているからと、与太者を斬っては
刀の錆もすたれる。



武士同士の対決はこうなる。


本来武士は、武士しか相手にせぬもの。


与太者叩くにゃ刀はいらない。刀でやたら叩きたがるのは
自分が与太だから。刀を叩き道具だとか思ってる。
たぶん鍔に足かけて崖登ったり、遠い物を引き寄せるのに
使ったり、刀の鍔で背中掻いたりするのもへいちゃらなの
だろう。
そもそもが、根底から、「斬る者、向かう者への敬意」など
皆無だ。ただの争闘器具用具としか刀を感じ取っていない。
だから、刀を帯びる帯刀本分者に対する敬意など微塵もない。
つまり、それを解せぬのは、武士ではないからだ。形だけ
袴をはいて両刀を差して武士の真似をし剽窃して僭称しても、
本性の馬脚はすぐに顕れる。
刀は刺又や袖絡のような用具ではない。
だが、武士でない者はそのことを永久に理解できない。

与太者叩くにゃ刀はいらない。これの一本あれば済む。


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ドリフの大爆笑 刀鍛冶

2016年10月02日 | 映画・ドラマ



ドリフの大爆笑 刀鍛冶


ちゃんと「素延べ」と言っている件(笑)


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映画『尻啖え孫市』

2016年09月29日 | 映画・ドラマ

予告「尻啖え孫市」


これはかなり面白うござった。
『北の零年』などというスカスカ台本の超駄目映画を観た後
だったので、痛快でござった。


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Top 10 Samurai Movies

2016年09月23日 | 映画・ドラマ

Top 10 Samurai Movies


いいね。これは。
外国人も好きだね~。

というか、日本人よりも良い映画をきっかりと選んでいる。
作品鑑識眼は欧米人にはきちんとあるように思える。

日本人では「映画識者」を自称する人で『七人の侍』を観て
いない人が結構いたりして・・・。
それって、箸使わずに手づかみで米食って「食事作法を
私は知悉している」とか言っくてるようなもの。
あまり、物は言わないほうがいい。

まあ、もっとも、日本人はきちんとしたお辞儀さえも忘れてしまったけどな。

 


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映画 『たたら侍』

2016年09月17日 | 映画・ドラマ



この映画は俺は観に行くね。
どの役をやっても同じキャラしか演じられないクソ大根のくせに
偉そう大将ぶっこいてる日本一嫌いな俳優津川雅彦が出ている
のだけはゲボが
出そうだが、とりあえず劇場に作品は観に行く。

公式サイト⇒ たたら侍



非常に巧い「嘘がない」ような書き方をしている。
これが、「1300年前から連綿と続いて古より奥出雲に伝わる
『たたら吹き』という日本独自の製鉄技術で・・・」と記載して
いたら、それは嘘になる。
古代たたら製鉄とたたら吹きは異なる物だからだ。
ただ、前段で「1300年、奥出雲に継承される日本独自の製鉄技術。」
と記載しているところは、限りなくきわどい表現だ。1300年前は
716年(霊亀2年)の時代だ。この時代から出雲で製鉄があったと
しても、高殿や永代たたらは存在しない。たたら吹きという直接製鋼
が1300年前に果たして出雲に存在していたのか。(時期的には
砂鉄原料による直接製鋼の鉧(ケラ)押しはあったかもしれない)
ただし、716年頃は野だたらの時代であり、そこで行なわれたのは
鉧(けら)押しであったかどうか。出雲がどうしても欲しかったヤマト
の動きから見て、出雲において革命的な新技術=砂鉄を原料とする
直接製鋼法があっただろうことは疑う余地がないが、仮に新工法が
出雲に定着していたとしても、後世の永代たたらや高殿のような施設
はまだない。

鉄を作り出すのは製鉄炉で鉄原料を還元させるしか方法はない
ので、それがたたらであろうと、近世の反射炉であろうと、炉は炉
である。炉なくば鉄はできない。
ただ、高殿のある永代たたらと呼ばれる物ではない方法で作られ
た鉄(銑=ズクや鋼も含む)も古代にはある訳で、出雲の砂鉄製
のみが日本刀の唯一絶対の材料であるとするのは明らかな
間違い
である。真砂砂鉄を原料とする出雲鉄以外で造られた日本の刀剣
は確固たるものとして全国各地に存在しているからだ。備前などは
赤目砂鉄(主としてズク押し製鉄に使われる)を原料とする備中鉄で
出来ている。
また、東北や九州は地場製鉄で刀剣が製作されていたことは論を
俟たない。しかも、原料は砂鉄のみとは限らない。
鉄生成比率が高かった餅鉄などは東北では多く使われたことだろう。
(ただし、大量土砂から採取する大規模創業でガバッと得られる砂鉄
と違い、餅鉄は生産量に見合った原料の採取確保が困難だったこと
だろう)

砂鉄製鉄のたたら吹きの前に、岩鉄、餅鉄を用いたたたら製鉄
あり。
そして、
出雲以前にわが国に製鉄あり。
とりわけ、北においても鉄はあり。
とてつもない殺傷力を持つ刀剣は北にあり。
だが日本の「公式」歴史はそれらを抹殺しようとしたがっている。
有力武器と武装勢力が存在したが
ゆえに、坂上田村麻呂は東北
攻撃で難渋したし、また平将門を
攻撃した軍は将門が地場生産
した新兵器=湾刀(日本刀の出現)
により苦労した。
また、さらに古い時代には、王権あるところには必ず鉄ありで、武器
や農具を含む国内鉄器すべてが海外からの輸入でまかなって
いた
とは考え難い。

「出雲たたらが日本の鉄のすべて」としたがる視点は、大和朝廷
以前にはこの国無し、とするが如き視点であり、こうした皇国史観
に基づいて、日本の歴史教科書などでは「日本の製鉄は5世紀頃
から」とされてしまっている。では5世紀以前には日本では鉄を製造
していなかったのか。

それは学術的にも、多角的にみて限りなく可能性が低い。
ただ、5世紀以前には遺跡が良好状態で残存し難い形状の小型製鉄
炉、あるいは砂鉄や鉄鉱石ではない原料を用いる小型製鉄炉、という
視点は学術は一部の研究者を除いてあまり持たないようで、そこに出土
がすべてという考古学の実証主義の限界がある。

ただ、「出雲製鉄絶体主義」というものは、科学的立証不能(今のところ)
の事柄を根拠に一部にはびこっているのは確かだ。
そもそも、「玉鋼」という明治新政府成立以降に登場した新語があたか
も古代からの我が国のたたら吹きやたたら製鉄から生まれた鋼の代
名詞であるかのように喧伝していること自体が極めて恣意的だ。
これは明治新政府以降の国策に準じた発想を体現していることに外
ならない。

出雲を下し、地方王権を中央政権に取り込んだことを積極支持する
勢力は、「勝者
が歴史を書き換える」ということを地で行ってる感が
現在もある。

出雲以外にも、東北にも鉄あり、なのにだ。
その出雲でさえ、「出雲王権などは存在しなかった」と、つい先ごろ
まで中央勢力の「公式見解」としては言われ続けてきたのである。
だが、歴史の真実は異なった。出雲からの巨大支柱の出土がそれまで
の恣意的な学説を覆した。


ただ、最終的に砂鉄製鉄技術を独占支配したのは、古代王権連合政権
から朝廷として成立した頃のヤマトであったことだけは確かだろう。
ヤマトを愛する人々は、ヤマト中央以外の国内地方や部族を「外敵」と
して
今でも扱う心根が残っている。
外国人に向けては「大和魂」なる架空の情念をねつ造して排外主義に
走るが、実は内に向けても同じ日本人なのに地方や出身地域により
中央以外には不利益を与えてもよしとする心根が強く今も日本人には
存在している。

それは直截に東北や沖縄に危険負担を負わせたり、不利益を与えたり
すること(これは現状もやられている)だけではなく、性根の奥底にも
ヤマト中心主義=中央集権的排外主義=日本版中華思想が日本人には
根強く
定着していることの表れだ。
中央権力に抗して敗れて支配されたまつろわぬ古代の列島の倭国各地
の地元勢力をマツる
祭りは、現在も日本全国各地に多く残っている。
弘前のねぷたや青森のねぶた、また九州地方にも同種同系のルーツを
持つ祭りが多くある。
大和政権の直近勢力圏内だった近畿地区には征圧した部民の反抗を
恐れての「鎮め」の祭りが多く今でも残っている。
すべては、中央権力とそれに抗して圧殺された人の血の歴史、中央権力
に恭順した人の歴史の形骸化した伝承譚としてマツリはある。チマキは
血巻きであり、流し雛や、とんど、恵方巻き、豆まき等々もすべて製鉄に
関与した産鉄民および地方地場勢力と古代中央権力との血の歴史の
産物であるといえる。
祭りはただの大騒ぎカーニバルではないのだ(カーニバル的祭りは中世
~近世に登場した祭りに多い。阿波踊り等)。
祭りの際の各戸を結ぶ白い紙ひらひらの縄は、あれは中央王権への
恭順を示す家であるという標識の意思表示だったのである。

定理は、王がいるから最下層までの階級社会が存在する。
これは人類世界共通の定理である。
王制は、「王とそれ以外の平等な民全員」という世界にはならない。
最下層までの階級制を構成するのが王政だ。「一人と他の平等な人たち」
という神と人間との関係のようにはならない。王は人間であり、人間は
人間の下に人間を作りだすことで己の安寧を図ろうとする社会構造に頼り
たがる悪弊がある。これは原罪とは別に、悪癖として。
日本人もそうだ。
「人権なき人と家」を設えることにより、心の安寧を得たような気になる。
自分自身の意思さえも自分のものではないという「存在」を作っておき
ながら、日本人はその「存在」に敬愛を装って神輿として利用しつくして
きた。
それこそ大逆だろうに。

皇室カレンダーというものがある。
あれを多くの(一部かもしれない)日本人はありがたがって購入する。
暦が過ぎた月の御真影はどうしていますか?
破り捨てたり、メモ紙にしたりしていませんか?
どうしているのですか?
多くの人々は皇室に対し賛辞を表するようなことを装いながら、
天皇陛下と皇室の方々の写真が印刷された暦を月が過ぎたら破り、
そして捨てていることだろう。ただの紙として。
そこに皇室を敬うと自ら言う心に嘘はないのですか?

また、皇室を賛美すると自認する人々に限って、陛下の意思や皇室の
方々の意思などは無視して、皇位継承についても自論を述べたがる。
中にはデヴィのように親王妃に対しても「妃をやめるべき」などという
とんでもないことを勝手に言い出して正論ぶっている族もいる。
皇室賛美を口にしていながら彼らがやることは一民間人のくせに勝手
に皇室をいじくりたおそうとする発言をする。
こういうのは彼らのモノサシからしても「不遜」にはあたらないのか。
いわゆる右翼や保守などと呼ばれる人たちは、実は天皇を自分の主張
のために利用したいだけで、天皇に対する真の敬意は私には一切感じ
られない。

嘘ものたちが言うことは嘘ものであるとしか私には思えない。
「出雲に 本物あり。」というキャンペーンが現在島根県で行われている。
一体、どんな本物がそこにあるのだろうか。
ネット情報だけでは分らないので、私は見てくる。


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名作と駄作の違い

2016年09月13日 | 映画・ドラマ

椿三十郎(1961年)



椿三十郎 (2007年)






コピーのカバー映画のほうは、この配置とキャメラワーク
観ただけでダメダメであることがよく判る。
クロサワのような計算されつくした配置ではなく、真似
の劣化版であること明白。
親指を出してんなよ、織田裕二(^^;
クロサワ映画の場合は、映像トリックで、椿三十郎と室戸
半兵衛を正対させておらず、カメラのほうにほんの少しだけ
軸線を向けて撮影されているのがおわかりになるだろうか。
これはクロサワの指示である。それとは分からずに、しかし
カメラ効果が最大限出せる配置に黒澤明は持って行く。
後ろの若侍たちの配置をクロサワが「2-4-3」としたのも、
緊張感を出すための変則配置を計算してのことであり、単純に
「3-3-3」の安定配置にした劣化版はクロサワ映画の意味が
解っておらず、スカ。
しかも、クロサワ作品のほうは、肉薄感を出すために、遠近
がつかないように超望遠で撮影して、対峙する二人の後ろの
若侍たちも大写しになるように計算して撮影している。
ところが、劣化版ではそこを理解していないから、普通の
カメラワークで撮影してしまい、かなり後ろの若侍たちが
遠方に写ってしまっている。実際の距離が問題なのではない。
カメラによる撮影技法をどのように緻密に計算して監督して
いるかの違いがこのクライマックスシーンで如実に出ている
のである。一言で言うと、腕の違い、映画監督としての技量
の圧倒的な、絶望的なほどの違いが映像に現れているのである。
世界中の映画監督が影響を受けたのは、そうしたクロサワの
緻密な撮影計算と映像表現手腕だ。
スピルバーグもルーカスも、クロサワがいたから映画監督に
なったと明言している。
こうしたことの実相は、実際にクロサワ映画を実見しないと
見えてこない。

超望遠を使うと、新宿のすぐ向こうに富士山があるような
迫力ある絵となる。


また、リメイク真似物のほうのシナリオは黒澤明オリジナル
を使っている筈だが、細かいところのセリフを三十郎
役の
織田がアドリブなのかセリフを覚えられないのか変更
して
しまっている。一方豊川悦司は原作に忠実で、よく
室戸半
兵衛の味を出している。

このリメイク劣化版は織田裕二の役者史上まれにみる演技
の下手ぶりが際立った作となっている。
どの役をやっても同じキャラしか演じられない役者を大根
という。大根は白い⇒ド素人、ということだが、この作品
の織田がまさにそれだ。どう見ても湾岸署の青島である。
とてつもなく残念というか、実力なき役者の限界を記録に
とどめる映画となっている。

また、リメイク劣化版の最大の大外しは、ラストシーンの
決闘描写のシナリオを大幅変更してしまったことだ。
あんなにもつれる決闘は原作シナリオには存在しない。
台無し。文字通りの台本無しの台無しである。
さらに、黒澤明は、出演者に刀を軽く扱わないように、
実際の重みと使い方を体感させるために、俳優たちに
巻き藁(畳表巻きはまだ存在していない。すべて本物の
藁束を巻いた物)斬りを真剣を用いて体験させた。
すべては映画作品作りのためだ。
これは名作『七人の侍』でも、黒澤明は真剣を用いての
刀法を指導者をつけて役者たちに稽古させたのだが、ただ
の映像殺陣では越えられない一線を飛び越えて、黒澤明
は映像とリアルを高次に融合させようとしていた。
ただ単純にリアル映像を撮るのは映画ではない。それは
ドキュメンタリーだ。活劇映像である映画の世界で、どう
やって非現実を現実と感じさせるかに表現手腕がかかって
くる。
それには、小国英雄と菊島隆三という共同シナリオ執筆者
と黒澤が旅館に缶詰で熾烈な口論をしながらも台本を共同
で書き上げることにはじまり、映像描写においても撮影に
一切の妥協を許さない監督黒澤明の姿勢があったからこそ、
世界中から「不朽の名作」と評価を受ける作品を作り得た
のである。
ゆえに黒澤明は「世界のクロサワ」となった。
一切のヌルさは存在しないのがクロサワ作品なのである。
一挙手一投足の動き、配置、セリフ、セリフ回しに至る
まで、すべて計算されつくしたものとして撮影が続けられ
るのがクロサワ作品だ。当然役者にも、それをこなすプロ
としての技量を要求する。
妥協なき作品として撮影されるからこそ、黒澤映画はクロ
サワ映画となるのである。(失敗作もある)

さて、椿三十郎がラストで見せた逆手片手抜き打ちは、西南
戦争
後に工夫して発生した弧刀影裡流(ことえりりゅう)
居合
術の「逆抜き不意打ち斬り」という技を改造した抜刀
斬り
を使っている。
これは同流からヒントを得た殺陣師久世龍
が発案した技で、
抜刀しやすいように三船敏郎は15センチ
短い殺陣刀を使用
したという。




左腰にある剣を左手で抜く業は新陰流居合(柳生厳長の
創作居合。上泉柳生新陰流に残る抜刀術ではない昭和
新派居合)には「左剣(ひだりけん)」という業名で
存在する。
これは純手で左手で左腰の大刀を抜いて純手のまま斬る
業であり、厳長新陰流居合においても奥域の部類に入る。
ただ左手で左腰にある刀を抜くのは、長い刀では物理的
に無理で、創作新陰流居合といえども、「定寸二尺二寸」
の定めがあるので可能な業と思える。

この映画三船版『椿三十郎』は、明治以降に発生した新流派
の業を参考にして発案した創作業であるが、クロサワによる
過剰演出によって全世界に深い印象を残した。
まさに出血大サービスだった(^^;
斬られ役を演じた仲大達也が、その血液の噴出量にびっくら
したくらいで。
あれは実は演出ではなく、撮影当時の気温が関係して、ポンプ
から大量疑似血液が一気に噴出した実は「失敗」だったのだが、
あまりの迫力にそのままOKテイクとなったようだ。
ビデオだけでは知り得ない当時の関係者談話などが収められて
いるから、DVDやブルーレイというのは、映像作品を納める
メディアとしては非常に良い面があると思える。
実際、劇場での映画鑑賞とは別な面がDVDやブルーレイでは
楽しめる。ボーナストラックが入っているDVD・ブルーレイ
は映画ファンにはたまらない特典だと私は思う。


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