渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀の変遷 ~鐵と鉄を探す旅 その2~

2014年12月21日 | open

旧山陽道である。
この区間は古代山陽道とも同一で、
安芸国大山峠を下った地点、
旧大山
駅家(うまや)の付近からさらに西
に数キロ進んだ地点だ。

江戸期に開けた広島城下から東に向
かうと最初の峠が大山峠だ。

しかし「大山」という山はない。
このことは地元の人にこの度初めて

教えてもらった。大山という固有の
山はなく、大山峠という峠の周辺
界隈を「大山」というのだ
そうだ。

この道を大名が通った。幅員は自動
車1台が通れるのみ。離合は
できない。






すぐ脇をJR山陽本線が通る。
クハ111系か。横須賀線や湘南
電車で子どもの頃から見慣れた
型だ。



鉄道マニアではないので詳しくは
ないが、山陽本線はいろいろな色と

機種が走っているのでよくわからな
い。色だけ見ると昔の赤羽線とも
少し異なるような・・・。





この田んぼの場所が鍛冶屋敷跡。
鍛刀場であったとのことだ。


Googleストリートマップは→ここ


個人が私費で石碑を建てている。




明治中期に鉄道が敷設された際に、
大山鍛冶の居住地近隣の山が
崩さ
れて、鉄道の土盛りに使用された。
それにより、墓所が屋敷跡の
東側
に移設された。その小山を登って
みる。



地元瀬野川郷土史懇話会の方の案内
で大山鍛冶の室町時代からの
墓所を
訪ねる。先行するのは広島大学の元
教授の先生だ。



ここが、大山鍛冶一族の墓所。
1884年(明治27年)の鉄道敷設
工事のために数十メートル
西から
移設された。



鉄道の右に見える田が二代目以降の
大山宗重鍛刀場跡地。



線路南側から見ると近隣はこんな
感じの風景だ。
大山を超えて東方の八本松駅へ向
かう列車(新明和工業付近)。


後補機のEF67を連結して「瀬野八
(瀬野-八本松間地域の通称)」を
行く貨物列車。
後ろから押して画面右方向の東へ
向かう上り線。広島市から東広島市
に入ってすぐのあたり。瀬野の大山
地区を超えて、八の八本松地区に
入ってすぐの風景。
国道2号線を走っても判るが、急な
峠を上り下りするのではなく、東
広島市八本松から広島市瀬野まで
で、全体の土地がかなりの高低差
があることがわかる。広島側がズン
と長く下る感じだ。
高原地帯から湾岸部めがけて下り
降りるような地形である。広島は
名の通り湾のデルタ地帯なので土地
は低い。この大山付近の国道は勾配
差のあるワインディングが連続する。


ウィキペディアによると、この地区
は、「山陽本線は山陽鉄道の時代か
ら、なるべく
路線の勾配を抑える
ことに重点を置いて建設されたが、
三原駅以西の
ルートを決めるにあた
り、工費のかかるトンネルを避けつ
つ、最も経済的
な最短経路を選んだ
結果、広島県内の八本松駅 - 瀬野駅
間に「瀬野八
と呼ばれる22.6‰の
急勾配区間が生じた。上り貨物列車
は広島駅-
西条駅間で、最後尾に
補助機関車(補機)を連結して後押し
してもらって
いる」とのことだ。

瀬野川郷土史懇話会の方に旧山陽道
を案内してもらったが、万葉歌碑が
ある付近の勾配は非常にきつい。
いわゆる大山である。

上瀬野信号所跡

また広島に一つ好きな場所ができた。
この付近の雰囲気がたまらなく良い。

これは古代街道を歩いてみれば実感
できる。



この鍛刀場跡地の田からは多くの鉄滓
(てっさい/かなくそ)が出土した。

これは、非常に興味深い事実を物語る。
砂鉄および鉄鉱石の産地は近隣の大山
(大山という山はないが連山と
して
の大山)で採取されたが、それを用
いての製鉄はこの場で行なわれ
てい
た可能性が非常に高いということだ。
つまり、大鍛冶と小鍛冶が
分業して
いなかった。ここが一大工房として、
小型製鉄炉で鉄を作り、
それを大山
鍛冶が小鍛冶の刀鍛冶として鍛刀に
向かった可能性が
高い。
加熱燃料と製鉄還元のための木炭は、
近隣の松を用いたこと
だろう。
となると、炭焼き遺跡もどこかに
埋もれている筈だ。この付近
一帯は
幕末の江戸期にあっても松の多い
場所で、吉田松陰が萩から江戸に
向かう護送の際に、この
瀬野川の松
を即興で詠った漢詩が現代に伝わっ
ている。


山あいから流れる水を見て判然と
する。これは鍛冶場跡地の田の横を
流れる農業用水路だ。鉄気の多い水、
そしてソブが
滞留している。
磁鉄鉱の鉄鉱石もそれが風化した
砂鉄も容易に近隣
から採取できた
ことだろう。
さらに、中世以前の赤土還元製鉄も
可能
だったに違いない。


この大山鍛冶の鍛刀跡地から
山陽道を挟んだ南側の大山を
超えた向こう
には別所という
場所があり、大昔、東北地方
から製鉄技術者を連れてきて
そこに
集団居住させて製鉄に
従事させたとの伝承がある、
と郷土史懇話会の方
から聞か
された。

東北で鉄というと、日本刀の原初
形態である舞草刀や蕨手刀を想起
させる。

さらに地名が「別所」である。これ
は民俗学的にも、王権と古代製鉄を
担った産鉄民をめぐる
歴史的統治
関係=支配・被支配関係と、それら
為政者の鉄資源独占を
めぐるこの地
の鉱脈との因果関係に目を向けざる
を得ない。
鉄あるところに
王権の触手あり。
王権の支配あるところに被支配あり。
そして、古代産鉄民は、その
技術を
ヤマト権力者に盗取されると同時に、
被差別階級へと貶められた。出雲族
のような産鉄技術掌握者たちが
「神」として中央王権より懐柔策と
して崇められたのは特例といえる。
吉備族も「鬼」として韓鍛人(から
かぬち)の技術と製鉄原料採取権を
中央王権に簒奪された後に中央権力
の構成員として政権算入することで
懐柔されたが、結局は中央政権から
段階的に排除させられるに至った。
結局は、ヤマタノオロチや『出雲国
風土記』に描かれた悪鹿や山をひと
またぎするダイタラボッチなどの
「民と異なるもの」として畏怖と
ともに排除対象とされたのが古代
産鉄民だったことだろう。
「異」は殺戮もしくは徹底排除の
対象でしかなかったのは、日本の
古代神話や民俗学的風習を紐解け
ば見えてくる。
柳田國男はダイタラボッチのことを
大太郎法師とし、一寸法師の対極と
したが、
大国主命がスクナヒコの
助力で国造りをしたことは、オロチ
伝説の後日譚としても製鉄技術掌握
の流れとは切り離せない。

だが、古代において、権力者を支え
たのは日本の製鉄を確実に担ってき
たその
特殊技術を有する産鉄民たち
だった。彼らなくして日本の鉄文化
の発展は存在しなかった。
そして、「日本刀」の原初は、
「俘囚の剣」であり、武士そのもの
の集団的位相も、原初形態において
狩りと乗馬という特殊技術をこなす
専武集団の俘囚だった。
やがてこれが国司などの中央からの
貴種派遣と合流して、在地の武装自
衛集団である武士団を形成していっ
た。武蔵七党などはその典型だろう。
武蔵七党などは、牧(むまき)と
呼ばれた馬の牧場の管理者が武士化
していったとされている。

(安芸国大山付近)


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この瀬野川流域に中世の時代に
住した大山鍛冶が、大山から砂鉄
もしくは鉄鉱石(餅鉄等)
を得て、
この現田んぼのある場所で大鍛冶
-小鍛冶をこなしたことはほぼ
確実視できる。
このことへの着目は、かなり学術
的には重要なことと思量する。


この地に、金属製案内板が建てら
れた。

樹脂コーティングなので、この先
相当年数、この案内板は生き残る
ことだろうと
思われる。
掲示されている刀身は私の蔵刀で
ある「安芸国住仁(じゅうにん)
大山宗重作 天正八年二月吉日」
銘の刀だ。この看板に私の名と刀
身撮影で協力してくださった修心
流居合術兵法宗家の町井勲氏の名
が残された。





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安藝國大山住仁宗重作 天正八年二月吉日

(撮影者:修心流居合術兵法宗家 町井勲氏)

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まさに私のこの刀は、天正8年(1580年)
の春にこの場所で延道彦三郎さんによっ
て造られた。





場所は旧山陽道の下大山集会所の
すぐそばである。



鍛冶場跡と案内板。案内板の右上
に現在の中世からの墓所がある。

画像中央の民家の右の小高い丘が、
山陽本線の鉄道敷設(旧山陽
鉄道)
の際に鉄道土盛りのために削られ
た山跡だ。元はここに墓所
が存在
した。
敷地の広さから、一介の鍛冶屋の
家ではなく、やはり小規模な工房
だったのではなかろうかと思われ
る。鉄滓の出土と地形状況(江戸
期からこの地形)から見て、小規
模たたら場を設置しての自家製鋼
を行なっていただろう。まるで小
説『いっしん虎徹』の中で、虎徹
興里が江戸へ向かう最中に出会っ
た良質の青い晴れた鉄(かね)を
吹く、小規模野だたらの鍛冶がい
た場所のような印象を私はこの土地
に強く抱いた。
あの小説のあのシーンの舞台にまさ
にドンピシャなのだ。大山鍛冶の
打つ刀剣の鉄味はとても良い。



旧山陽道沿いには、大山鍛冶(天正
八年製作の刀鍛冶の名は延道
彦三郎。
読みが「えんどう」なのか「のぶ
みち」なのかは現在不明。)

子孫は苗字を「大田」とされている。
由来が「大山の田」であるのか
どう
かは不明。現在は別場所にお住まい
だそうだ。墓には花がたむけられて
いた。



源氏系の佐々木四つ目結い家紋。


この墓碑は大正9年に建てられたが、
「先祖大山鍛冶市左衛門之碑」

ある。この市左衛門なる鍛冶が何代
目の大山鍛冶であるのかは、
目下の
ところ不明。寺の過去帳は整備が元
禄以降であるケースが
多いので、戦
国室町期の鍛冶であるとしたら血族
末裔でも追跡は困難だろう。



地元郷土史懇話会の方も指摘して
いたが、この「没後千六百四十五年」
という年数計算はかなり後世の創作
ものといえる。


この石碑が建立された大正9年は
1920年であり、その大正9年から
1,645
年前というと西暦275年に
あたる。
それは、和暦では応神天皇6年に
比定
され、邪馬台国の卑弥呼が
没して(248年頃没)から約30年
ほどしか経って
いない頃のことに
なる。
その時代に「刀鍛冶」などという
ものはまず存在しない。
鉄剣・鉄刀を作る鍛人(かぬち)
はいただろう。いなければ鉄製
刀剣は存在しない。大陸輸入で
あれ、倭国製であれ、刀剣を製造
する鍛冶職はいた。

「杖刀人」という言葉が埼玉県の
稲荷山古墳から出土した鉄剣の金
象嵌にみら
れるが、その古墳が造
られたのは5世紀後半であり、鉄剣
製造年代もその頃
と考えられる。
鉄剣だけでなく片刃刀も古墳時代
にも存在したが湾刀である
「日本
刀」が登場するのは平将門の時代だ。
つまり平安時代末期である。
まだ全国的に広まっていなかった
反りのあるこの新兵器を積極的に
採用して
馬上戦闘術と合体させて
武装蜂起後に破竹の勢いで朝廷軍
を撃破したのが
平将門だった。
軍事的勝利は圧倒的だったが、政治
戦で敗北して朝廷軍に斬首されて
首が京にさらされた。
将門が反りのある新兵器「日本刀」
を普及させたことは歴史学上の学術
定説となっているが、将門から
700年も昔の邪馬台国の卑弥呼の時代
から
たった30年後の時代に自分の
先祖を持って行ってしまうというの
は、いくら
大風呂敷としてもやり過ぎ
の大捏造だろう。


(映画『卑弥呼』から。岩下志麻

「市左衛門」という名も戦国~江戸期
という新しい名である。
刀鍛冶で市左衛門というと、私などは
越前康継=下坂市左衛門を思い浮かべ
てしまう。


戦国時代の刀工(のちに鐔工)の
尾道の其阿弥(ごあみ)の子孫も、

「先祖は正家、天平年間の人」と
して公言しているが、捏造である。
天平年間は西暦700
年代初期~中期
だ。奈良時代の刀鍛冶の個銘など
日本の歴史
では何一つ判明していな
い。
それどころか、当時刀剣類はすべて
官製で
あったはずである。
年代繰り上げのサバ読みはこうし
た石碑に日本全国で散見されるので、
単に彫られた数字を真に受けては
いけない。
「当流にはそう伝わっている」と
いう類の身勝手な捏造は学術的視点
からは許されない犯罪的行為だ。

旧山陽道を大山峠めざして大山鍛冶
屋敷跡地から上ってみる。

これは旧山陽道と瀬野川。古代山陽
道の大山駅家があったあたり。



江戸期に設置されただろう一里塚
の跡地に道標が建てられている。



こちらは古い。どこかの基点からの
距離だろうか「二十七町」との
彫り
文字がある。



しばらく上ると、幕末に吉田松陰が
ここで松を見て読んだとされる瀬野
謳った漢詩の案内板がある。これ
も郷土史懇話会が設置した。



詩でも詠みたくなる風光明媚な場所だ。
川の向こうは現国道2号。
昭和大戦後
に開通した。


日本国内の陸路交通手段は戦後まで
鉄道一本であった。鉄道駅周辺は

となるが、現代のように町相互の交
流も極度に低かったことだろう。

広島県に住んでみてすぐに気づくが、
隣り町(本当に町単位だ)になると

話す言葉が異なり、発想や人間性や
生活習慣も異なる。つまり文化が

小規模コミュニティごとに異なる
ことが21世紀の現在でも存在する
こと
は、こうした交通手段の人的
交流性の希薄さと情報伝達の未発
達に
よるものと私は読んでいる。
とにかく、東京・首都圏とはまっ
たく異なる、
まるで異質の人間性
や文化的空間が存するのが地方な
のである。

これは厳然として、ある。「日本
人だからどこも同じ」と思ったら
大違いだ。

そこに山があるように、それはある
のだ。

そうした現象は、残念ながら、
「人的開明性の不在」として、しば
しば
現出する。多くは妬みややっ
かみや陥れや閉鎖性等々、人の心の

ダークゾーンとして顕著に表れる。
単に「田舎もん」としてのみ片付け

られない。なぜならば、同じ「田舎」
であったとしても、地域性による

人間的特徴が種々雑多だからだ。
地域により人間性の公約数が存在

することも確かで、こうした人の心
の態様などは、数値に換算すること

はできないのでデータ化もできず、
知るには現実を見るしかない。
実際に
暮らして歩いて密接に接して
みればよく判る。なぜかしら吉備~
安芸にかけて
は、「誰がどうだ」と
いう他人をとやかく言う人間が異様
に多い。まさに
異様に、だ。ほとんど
誰もが誰かをどうだと陰で悪く語っ
ているのが常だ。

私には一種異様な世界に思えるが、
その土地から抜け出したことがない

人たちはなかなかその土地柄という
か精神的土着性に気づかないようだ。
こうした傾向は中国地区だけでなく、
九州にも広範に存在する。都市部と
過疎地での人心の開明性の差異は、
たぶん中世から連綿と続く現象なの
ではなかろうか。
21世紀になってもそれが存続してい
るのは、かなり「強烈な」伝統性を
有しているといえる(善し悪しと
いう次元ではなく)。
世の中、エトランゼだからかえって
よく見えるということもある。椿
三十郎の台詞を借りれば、「岡目
八目。危なねえ、危ねえ」という
ものかもしれない。


旧山陽道を更に上ると万葉歌碑が
建っている。


借字である万葉仮名で深く彫られ
てる。
この歌の原文は「万葉集3-291小田事
(をだのつかふ)」にある一首だ。


 真木葉乃 之奈布勢能山之努波受而 吾超去者 木葉知利家武

訓読みすると、

 真木の葉の しなふ背の山偲はずて 我が越え行けば 木の葉知りけむ

となる。
この場所の万葉歌碑は瀬野を指す
と解しているが、万葉和歌の勢能
山は背の山であり、和歌山=紀伊
国のことであるという説もある(有力)。



さて、さらに進み、いよいよ大山峠
へとさしかかる。大山峠の小渓流は

瀬野川へと注ぐ支流だ。


大山峠を西方広島(瀬野川)方面
から来ると、最初の難所「代官下し」

に着く。代官さえも籠から下りない
と上れない峠という意味だ。実際に
ここで籠を下された。
ここから未舗装峠道となる。車両
通行不能である。
ここにも、瀬野川
郷土史懇話会の説明案内板がある。





画像では判りにくいが、急な坂が
上にずっと延びている。

ここを見て「延道」(大山鍛冶の
苗字か?とされる)という言葉の

印象を強く受けた。




渓流が流れる。水は美しい。





そう。渓流は危険なのである。
渓流は危険。

安芸国大山鍛冶場の案内板新設の
報が中国新聞に掲載された。

私のコメントも載っている。

たたら製鉄等の研究が進む広島
大学の研究者の方々も、大山鍛冶
について、考古学、歴史学、民俗
学、
金属学等々の各分野からも、
もっと注目してもらってもよいか
と思うのだが、大山鍛冶は
現在ま
ではほとんど手つかずの研究ノー
タッチの無名状態ともいえる。

学部の大学生、院生などはこの大山
鍛冶周辺は十分に学術研究の対象に
なると思うのだが。
中世の刀工集団である安芸国大山
鍛冶の現品史料である在銘
刀剣が
極端に少ない(現在まで確認21口)
のは、以下の理由が
想定できる。

1.磨り上げ後に無名の刀工群ゆえ
 大山鍛冶の作と認定されなく
 なった。

2.戦国期の実用刀剣であるため、
 損耗して廃棄された。

3.製作本数が常識外であるほどに
 極度に寡作。


しかし、南北朝時代から安土桃山
時代末期まで連綿と続く刀工集団
の製作本数が、20数口しか作刀し
ていなかったというのは
考えにくく、
やはり上記1.乃至2.が妥当性がある
のではなかろうか。
そして、磨り上げられた大山鍛冶
の刀剣は、無銘となって他の刀工
の作と極められたと推定される。
周防国二王派、備後国末三原派の
無銘物極め(鑑定)の多くに、この
安芸国大山一派の刀剣が含まれて
いるのではないかと思われる。
この私の仮説に対しては、実際に
天正宗重を実見した町井勲氏も賛同
しており、「無銘となって別物に極
められた可能性が非常に高い」とし
ていた。
南北朝から安土桃山末期までの
スパンでの大山鍛冶刀剣現存数が
現在までたったの21本しかない。
しかも、すべて最末期の延道彦三郎
通称天正宗重の作のみとなっている。
これは最末の天正宗重が、寸の長い
太刀ではなく、刀を最初から作った
ためになかごがウブで残った、とい
う当時の戦国末期の武器の様式の
変遷という時代背景の流れを勘案
した仮説として、整合性において
妥当性を欠くことはないと私には
思われる。
なかごが短いのは、備前刀の影響
であろう。
これは奇しくも、大山鍛冶の初代
が筑州から備前に刀剣修行に赴い
たが、備前の鍛冶たちに邪険に
されて追い返され、失意のどん底
で大山峠に住みついた、という伝
説とすくなからぬ因縁を感じる。
そして、二代目からは峠を下り、
この現瀬野の地(字名下大山)に
定住し、子孫は江戸末期までここ
に住した。
ただし、江戸時代の新刀期以降、
大山において天正宗重の子孫が
刀鍛冶を続けたという記録は残さ
れていない。