渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

渓流詩人の徒然日記

2014年12月31日 | 内的独白



本年の訪問ヒット数は約9,220,000ヒットでした。
ありがとうございます。

今年は多くの出会いも別れもあり、揺れ動いた一年でした。
しかし、未来を見つめる確かな足取りを感じられた年でもありました。

また、来年もよろしくお願いいたします。
皆様も、よいお年をお迎えください。


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うるし ~日本刀の鞘~

2014年12月31日 | 日本刀

状態が良くはないが、江戸時代の拵をいくつか持っている。
江戸期の漆仕上げを見ていて、気付くことは、黒が真っ黒では
なく潤みがちの深い茶色であることだ。
これを称して、現代塗料塗りでは「時代黒」とか「うるみ」と呼んで
いるが、遠目から見たらこの鞘は黒に見える。中と右は、伝統的な
日本刀鞘の塗りと
しては「黒呂」とも呼ばれている。
本漆の黒呂は実際に見ると塗料塗とはかなり違う深い艶を放つ。



私が小学生の時の書だが、『日本刀工作便覧』(光芸出版編/1972年発行)
の中に日本刀の拵鞘の塗について記載されている部分があるので引用紹介
する。現代の武用簡易拵ではない本手筋の日本刀拵に関する記述なので、
参考になるかと思う。

塗鞘は立派なうるし工芸品(71頁)

 塗鞘はそれこそ数えきれないほどのいろいろの種類がある。漆芸で有名な松田権六氏の
「うるしの話」(岩波新書)の中にも加賀前田家の鞘塗の見本を見るのに何日間も費やした
-とある。
 鞘塗りは大別すると、黒呂色塗、黒の塗りっぱなし、赤その他の変り塗などで、塗り
の上にいろいろの蒔絵を施したものも少なくない。蒔絵の手法も、平蒔絵、高蒔絵、肉
合研出蒔絵、研出蒔絵、梨子地研出蒔絵などさまざまである。
 白鞘師のほうから拵下地がくると、まず木地の凹凸や、フシなどをコクソを使って修正
する。つづいて、刃と棟の合わせ目に布着せをする。麻のような丈夫な布を、糊の中に生
うるしをまぜたもので貼りつける。鞘全部に布を着せる場合もある。つぎに砥の粉と生う
るしをまぜた「錆」を檜のヘラでつける。一晩おいて乾いたところで砥石で水研ぎをする。
この錆付けを全体に最低二回は行ない、さらにむらのあるところに付ける。錆付けのとき
は栗形ははずしておく。つづいて下塗りをする。下塗りのうるしは呂色うるしに花うるし
をまぜたものを用いる。
 うるしは湿度が高くないと乾燥しないという特殊な塗料であるから、水をうった室(む
ろ)に入れる。季節にもよるが、だいたい一晩で乾く。乾いたら桐炭で研ぐ。このあと上
塗りをするわけだが、これは中塗り以上にたっぷりとうるしをかける。上塗りうるしはふ
つう呂色うるしなどの上等の品を用いる。塗りっぱなしのものはこれで作業が終わるが、
呂色塗は、上塗りの上を、さらに桐炭で研ぎ、ふきうるしをかけ、鹿の角を粉末にした
もので磨く。この作業を二回以上くりかえす。
 朱塗とか根来風な変わり塗、また青貝塗なども下地の工程はかわらない。
 青貝は下地塗りを塗ったあと貝(アワビ)を嵌め込み、乾いたところで、さらに上塗り
をして研ぎ出す。
 鞘塗りのポイントは小柄櫃、笄櫃などの角と隅をぴしゃりときめることである。角が、
だあらしなく丸みがでたり、スミのほうが鋭角でないものはよい塗りとはいえない。
 木地そのものに細工がしてあるもの、たとえば一分きざみとか、段きざみとか、印籠き
ざみなどというものは、そのきざみに合わしたヘラを作ったりするため、かなり手間がか
かる。


他にも、柄巻きの技法をはじめ、他の刀職の仕事内容について細かく解説
しているが、読み進めるほどに刀装具は素人には作り得ないということが
理解できる。
長い歴史の伝統技法というものは、本手筋の師匠について学んだ者しか
為し得ないことは確定事項だろう。仮に外見上似た物が出来たとしても、
それは「似て非なる物」でしかない。まして、刀剣研磨と同じで素人は絶対に
作れない。
そのことは、日本刀の刀装具の本歌(ほんか)と呼ばれる本物を見れば見る
ほど、痛感する。

鞘塗見本(江戸時代)



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着物

2014年12月31日 | 風情・季節・地球

「正月にでも着なよ」と、東京の居合の先輩から着物が届いた。
高級刀袋と新品正絹帯と襦袢と着物と羽織と和装コートだった。



ぶひゃ~。大島だ。亀甲織りの。ワンコも何?とばかり寄って来た。
マルキと聞いて機動隊を思い浮かべるあたしはパカでつか?



襦袢の外柄がすごいぜ。喧嘩屋右近みたい(笑
これを外側に着たいくらいだ(>v<)
お、猫も寄ってきた。


かみさんが買い物ついでに新品の足袋を買ってきてくれました。サンクス。


居合の先輩に感謝だす。
電話でお礼言ったら、「袴はブルー系で合わせてくれよ。ダサいのは
やめてくれろ」なんて言ってた。
そして、「外に出る時には袴を着けろというのは昔からお前が言って
たよな。あの頃から俺も着流しはやめている」とも(苦笑

袴はこれで合わせようと思っている。

ちょっと見は青鼠系の単色、だけど近寄ると模様がある。
これは、そういう作りの発想が江戸小紋風味で気に入ってるぜ!

明日の正月は着物だな。
街着で一番楽なのは、下が戦闘服のトラウザースなんざんすけどね(笑
英軍のはスリムタイプなのであまりいくない。米軍のがゆったりしていて
最高!
アチョ~!の時もよく足動くし(違
まあ、米軍パンツは日本でいえば野袴(たっつけ袴)みたいなもんよ。
蹴りには持って来い(笑


先の出張で泊まったホテルで映画『探偵はBarにいる 2』を観た。
優作の息子演じる北大助手の空手マン探偵のはいてるパンツが
結構よかった。なかなか凝った演出だ。



松田さん、歩き方一つもできる男のように、つま先大外向きの歩き方
してないのよ~、この作品の中で。細やかな演技に感動した。
このスチール用のさりげない立ちポーズでも、彼なりに役柄を計算し
尽したポーズなんだよね。俺、彼は良い役者だと思う。

なにが良いかというと、できる男はダボッとしたパンツを選ぶのよね。
できるというのは勉強ではなく「おぬし、できるな」というやつね。
それは和服にも通じる。


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ミサゴ

2014年12月30日 | アウトドア



三原の海にはミサゴが多い。きょうも宙を舞っていた。


何年か前、備後と安芸の国境の三原市中を流れる沼田川(ぬたがわ)
の河口で海を見ていたら、スーッと空を旋回していた鳥が
弾丸のように
急降下してバシッと大きな魚を捕まえて飛んで行った。

めちゃくちゃかっこよかった。
ミサゴである。

かっこいいーーー!俺は鷹よりも好き。




知れば知るほど、ミサゴが好きになる。
雄が押した餌食でオスプレイ、なんてのはブークラでのオヤジネタ
なので言わないように。(赤坂限定。銀座ではドン引きされる)


う~む。ハンター!


ボラだけじゃない。ヘラブナもいくぜ。


長物だって狙ったら外さない。


渓流の最強王者レインボートラウトだって狙い撃ちだ。


つくづくカッコいいよ、ミサゴくん。
この誇らしげな頭の冠が目印だぜ。ちょっとギャオスみたい。
なんかね~。俺は鷹や鷲より賢そうに見えるのよ。賢いというか、
なんとも言えない憂いというか、そんな気高い孤高の面持ちを
俺は感じるのさ。実際にハンティングするところを目の前で見ると
ちょっと感動ものだよ。


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淡路→四国→岡山

2014年12月30日 | 外出・旅

坂出の街です。




岡山に向かいます。瀬戸大橋。






岡山県倉敷市内をまわって、帰還。

三原に到着。まあ、鎌倉・南北朝・戦国末期までは、今の三原城周辺を
はじめ、現三原市街地のほぼ全域がこんな感じだったことだろう。


海に面したコンビニで休憩。あと数キロで帰宅だす。




三原市街。この市街地のほぼ全域が戦国末期までは海ですね。


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外周路

2014年12月29日 | 外出・旅

神戸は都会だね~(笑



明石大橋



神戸から淡路を抜け四国をまわり岡山を抜けて帰る。
今夜は高松泊まりだ。

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年末刃物研ぎ

2014年12月29日 | 刃物



上の肥後守(小型)を研いだ。これは尾道の刀屋で購入した物だ。
ポロポロ刃こぼれする個体だったので、私が間(あい)を取り直した
やつだ。

その後は粘りも良好でよく切れる。
上も下も、ブレードは私が削りこんでノーマルから笹葉型の戦前仕様に
変更している。
下の肥後守(中型)は三原の金物屋で地元の友人と一緒に購入した。
会った時、肥後守の話題となり、「今から買いに行こう」となって、二人で
買いに行った物だ。
偶然だが、その金物屋は江戸時代のうちの家があった場所にある。


特に下の個体は好みのシルエットに仕上げている。髪の毛1本の幅でも
造形が変わるということが外形変更を自分でやるとよく解る。特にカーブ
のRをどう取るかというのは、かなりこだわった。



こちら購入時。


ブレード成形後。(私の肥後守)


友人も「その形がいい」というので、私のと同じように笹葉型に削ってあげた。
砥石だけでの成形はまず無理で、サンダーがないと削れないだろう。
モーターツールを使用する際は、焼きが戻らないように加熱に注意して
水に浸けながら少しずつ削りこんでいく。


小の個体は真鍮ハンドルがくすんで銅色に変化していたので、研磨剤で磨いた。


ピッカピカ。ピカールの威力はすごい。ビリヤードのキューの先角もピカールで綺麗になるよ。


包丁も研ぐ。
使用状況を見たら、メインの西勘、越之一刀、出刃、ビクトリノックスと
使用されていた。特に西勘の刃が丸くなっていた。
前回刃付を変えてみた。刃コボレが起きにくくしかも切れる刃付にしたが、
微細刃こぼれは一切なく、刃先がすこし丸まる形で変化していた。
メイン包丁の刃付は今後これにするかな。
使用者の「好みの切り味」を実現しつつ刃こぼれし難い刃付を探している
ので、なかなかむつかしい。

すべて完全研ぎ上げ完了。
ビクトリノックス以外は炭素鋼だが、それぞれ砥当たりがまるで異なる。
鋼って面白い。
包丁はもとより、ハサミに至るまで、家じゅうの刃物を研ぎ上げたので
何も研ぐものがもうない。

と思ったらあった。
使い倒したカッターを研いだ。


めっさ切れる。


カッターまで研ぐなんて、アホか俺(笑

娘が帰省(という語句が当たってるかどうか分らないが)するので、研ぐから
包丁を持って帰れと言おうとしたら、飛行機利用での帰省だそうだ。
それは機内持ち込みでなくとも何かと面倒だから駄目だね。
今は長い棒状の物も機内には持ち込めない。
14年前までは、ビリヤードのキューなどは普通に持ちこめていたが今は×だ。
もっと嘘のような話では、ナイフも預け荷物ではなく受付で専用の黄色の
備え付けのパッケージに入れて受付で頼めば機内に持ち込めていた。
私は常に銃刀法取締り適用外の小型ナイフを携帯していたので、いつも
そうしていた。搭乗員が預かる形での機内持ち込みができたが、今はアウト。
というか、ナイフ携帯していたら刃長に関係なく警官が飛んできて検挙される。
うちの会社の地方の支店長が筆箱にカッターナイフを入れていて、手荷物
預けをしようとしたら、空港警備の警察官が飛んできて銃刀法違反で検挙
されそうになった。固定装置がある刃物は6センチ以上、固定装置がない
物は8センチ以上の刃渡りだと「正当な理由なく」携帯していたら銃刀法違反
となる。
正当な理由とは、料理人が仕事のために移動で包丁を携帯する場合等限られ
ている。今は文房具のカッターも銃刀法違反で摘発対象になる時代だ。両刃
ダガー新規制はできたが、他は法律は変更されていない。現場の取締り側の
判断が変わったのだ。
さらに刃渡りに関係なく、刃物そのものを持ち歩くと軽犯罪法で検挙される。
20数年前、都内赤坂見附で職質受けた際、ポケットの中にあった5.4センチの
バックのナイフについて「開封用の文具」と説明したら「ああ。文具ね」と警官は
言って検挙しなかったが、今では考えられない。背広の右ポケットの中にある
小さなポケットは小銭用ではない。あれは本来小型ナイフを入れるためのものだ。
英国の背広を真似た日本の背広も仕立ての基本はそうなっていたのだが、
いつの間にかナイフ入れとしての機能は消滅させられた。
世の中、車や家の玄関の鍵のキーホルダーにミニナイフを付けている人も
多くいた。咎められることはなかった。今は携帯していないが、私の家内も
ビクトリノックスの小さいナイフをキーホルダーに付けていた。
ダガー規制により、両刃ダイバーズナイフは消滅し、貝剥きの漁業関係の
生産業者は大迷惑を蒙った。「特例」は認められない。
世の中変わりました。

29年間にわたり刊行されていた『ナイフマガジン』が10月に廃刊になった。
刃物の専門誌は日本から消滅した。
つい10年ほど前までは、釣り具屋だけでなくホームセンターにもウインドウ
の中にカスタムナイフやファクトリーナイフがずらりと並んでいた。
今は一切ない。
ある店舗で「ナイフはないですか」と尋ねたら、「そんなものは置きません!」と
胸を張るように店員に言われた。
日本の刃物文化は確実に退化している。


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茶杓

2014年12月28日 | アート


天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が、
自らこの茶杓を削り、最期の茶会に用い、古田織部に与えた。
その後、織部はこの茶杓用に長方形の窓をあけた筒をつくり、
その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。
茶杓は白竹で樋が深く通り、有腰で、利休の茶杓の中でもとくに
薄作りにできている。(徳川美術館)

煤竹の目釘を削っていてふと思った。
茶杓を一心に削る心境というものは、如何なるものか、と。
戦国末期から江戸初期の武将上田佐太郎(1563~1650)は、
元和元年(1615)大阪夏の陣の緒戦の泉州樫井の戦で味方全軍が
撤退し敵が迫ってくる中、竹藪に名竹を見つけたので小刀で茶杓を
一心不乱に作った。包囲した敵が呆れて手を出さなかったという。
私は茶の湯は嗜まないが、竹選びと茶杓作りというのはそれほど茶人を
して没頭せしめるものなのか。
関ヶ原で西軍だった上田佐太郎は、その後の戦功により徳川将軍家
からも出仕を促されたが、子を旗本にし、自身は後に浅野家に仕え、
広島藩家老として1万2000石(大名格)を拝領し、88歳で没した。
上田佐太郎重安が開いた茶道は武家茶道として現代まで命脈を
保ち、上田宗箇流として伝承されている。

茶の道の大家は千利休であるが、利休も茶杓を多く作っている。
ただ、権威を否定した利休が、己の手がけた茶杓1本が6000万円で
取引される現代を見たらどう思うだろうか。

このような茶杓が4500万円~6000万円の値がする。

茶杓とは、言ってみれば大きな耳かき、できそこないの竹製の匙で
あるのだが、ここに桃山期に開花した「ゆがみ」の美意識が働き、
なんともいえない日本固有の美を形成している。
だが、竹のスプーン1本が6000万円である(笑
いくら美術的な製作物とはいえ、焼き物や日本刀より、比較にならない
ほど手はかかっていないただの竹の匙だ。
「芸術品」というものは、本来売買対象となり得ないのだが、欲する人
がいるためそこに利益が絡み、美的要素や出来栄えとは別次元での
付加価値を強制的に与えられる。だからこそ、ゴッホの絵が1枚数十億円
で落札されたりする。

ただ、芸術家で大富豪になった人間はいない。彼らはそんなことは
望んではいないし、富を得たいならば商人となっていただろう。
芸術家は
富を得る手段として己の創作意欲や意識の発露を作品に乗せる
ことは
しない。だから芸術家なのであり、美術に深くかかわる主体であり得る
のだ。職人と芸術家の違いがここにある。山下清などは典型的な芸術家
だったといえるだろう。


茶杓として、上掲の最期の作を「泪」と利休は名付けたが、桃山期に
開花した「歪みの文化」
を代表する「ゆがみ」という銘を冠された茶杓も
利休は作っている。


銘「ゆがみ」(千利休作/細川三斎所持/永青文庫所蔵)


細川殿の御大将も茶人であったが、その三斎自身の手による茶杓の
銘が面白い。

銘「ケツリそこなひ」(細川三斎作/永青文庫所蔵)


全然削りそこないではない出来なのに「ケツリそこなひ」という銘を
冠している。
本当に削りそこないだったら銘など書くな!と、外連味のある計算
づくというかあざとさがみられる三斎の遊び心に苦笑する。
一見とぼけた洒落というか洒脱のように感じる
が、それは三斎の
術中に既にハメられている。

銘に惑わされず、作として純粋に見ないと芸術は観られない。
外皮などどうでもよいのだ。作の心肝に心をこちらが迫らせないと
見えるもの
が見えてこない。作品との対話が成立しないからだ。

茶の湯を嗜まない私だが、茶器については非常に惹かれる。
焼き物も解さない、茶道具も素人ゆえまったく解らないのではあるが、
茶道具そのものが持つ何とも名状しがたい観る者に迫る世界という
のは、一体なんなのだろう。
素人なのでよく解らないが、茶杓も節上の出来よりも、雉股の造形に
こそ妙があって、それが折だめや櫂先や露の造形美と一体化して
一つの世界を醸し出しているように私は感じる。
それを感じる時、茶杓は単に茶杓としての単品の造形物ではなく、
人によって空気と一体化する息を吹き込まれた世界観の体現物と
なっているように思えるのだ。


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目釘交換

2014年12月28日 | 日本刀


上:竹目釘 下:鉄目釘

目釘を交換する。
目釘の素材は竹を筆頭として、鉄目釘等いろいろある。
素材の善し悪しについては諸説あるので、根拠について熟考しない
決めつけはよくない。(故事を知らない知識も経験も乏しい俄か仕込み
の剣術屋に決めつけによる他者排撃が実に多い)

諸説があるのは諸説の根拠があるからで、それぞれ一長一短が
ある。
竹目釘が適切度では高いが、折れの心配がある。
鉄目釘は折れはしないが、刀身の目釘穴が広がり外れやすくなる
可能性がある。
また、刀身のなかごについては一つ目釘穴と二つ目釘(控え穴)の
両説があるが、これもそれぞれの根拠がある。
私自身は一つ目釘穴でも充分だと思うが、二つ目釘の控え穴を
開けている刀は戦国期や幕末期の実戦刀に多い。目釘脱落の保険
だろう。
刀の刀身は柄にハメ込まれているので、目釘を抜いて振っただけで
刀身が飛び出すようなことがよく劇画等で描かれる(『子連れ狼』等)が、
これは現実の日本刀拵ではあり得ない。柄に刀身はガチガチにハメ
込まれているからだ。目釘は位置決めのためや固定のためにあるの
ではなく、あくまで刀身の緩みを押さえる役目しかない。ただし、大事な
パーツで、刀装具の要でもある。


鉄目釘。脱落防止のために鏨枕を立てて、刀のなかご穴に食い込む
ような造りにしてある。だが、刀身は傷む。現代刀武用専用だ。

ただし、康宏作のように硬いのに超ねばりんこという鋼にまとめた刀では
ないただ硬いだけの現代作だと刃切れや折損を惹起しかねない。

一般刀に鉄目釘はおすすめできない。刀工康宏自身も「竹目釘が良いと思う」
と先月末に飲んだ時に言っていた。
この鉄目釘は旧第二工房でもある
墨田区千歳にかつてあった日本刀探求舎
鍛人(かぬち)製の康宏刀
試斬会=鍛人会用の特殊鉄目釘であり、刀工の
意図とは別に製作されて一時期の新作
康宏刀のみに装着されていたものだ。
私の康宏刀では何千本と畳表と竹と硬物を切ったが、まったく柄に緩み無し
だった。柄と刀身は微動だに緩まなかった。普通の作りの鉄目釘では
ない
ことと康宏刀であることに起因するだろうが、この鉄目釘は鉄目釘で
意味は
それなりにある。だが、一般刀では竹目釘が適切だろう。なんでも
画一的には
判断できない。適材適所だ。だが、私も刀工康宏と同じく、康宏刀でさえ竹目釘
のほうが実際の
剣戟においては適しているだろうと思われる。日本刀による
剣戟がないので、推定判断しかできないのだが。

(今後受付の康宏刀新作拵の目釘は、竹目釘仕様となります)

鉄目釘と竹目釘。


削り始めて気付いて急きょ撮影した。古刀に打ちこんでいた鉄目釘を外し、
取って置きの煤竹目釘を使う。



少しずつ薄く削って行く。ノギスで適性直径を確認しながら。真円に
近くするが、
目釘穴よりもコンマ大きめに削るのが大切だ。叩きこんで
テンションを
かけるためだ。5.2ミリ穴だったならば5.5~5.7程度に
適宜仕上げる。



削りかす。削り過ぎたら戻らないので、径をノギスで計りながらゆっくり
丁寧に削る。


目釘を打ち込む。打撃面の柔らかいプラハンマーで丁寧に叩き込む。
竹は外皮部分を刀身の刃側と逆に持ってくる。


完了。完全に向こう側にも抜けるようにする。片持ちにはさせない。


目釘交換や柄脱着に必要な道具。私は目釘を抜く際には、目釘頭を
傷めないように、一般的な小鎚付属の目釘抜きではなく、実銃の撃針
を使用している。これと同様の物は、ボール盤のドリルを加工してでも
製作できると思う。先が細い目釘抜きでは竹の頭にめり込んでしまう
ことがある。なるべく幅の広い治具によって、点ではなく面で打撃して
目釘を抜いてあげたほうが目釘は傷まない。目釘を入れる時も同様で
打撃面の柔らかいハンマーで軽く徐々に叩きこんで行く。



白鞘に納まっている観賞刀は目釘抜きで押すだけで目釘が抜ける
こともある
のだが、武用刀は斬ったり振ったりすることが前提なので、
極めて固く
目釘が打ち込まれている。また、居合や試斬の稽古・演武
前には目釘
の緩みがないか十分に点検することが大切だ。振った刀
の刀身が飛ん
で行き、観客の胸に刺さっての死亡事故が過去に起き
ている。武用で
刀を使用する者は、十分に安全管理をする必要がある。
柄返しで鐔が
カチャカチャ鳴るような刀は絶対に使ってはならない。
ほぼ目釘に何らかの
トラブルを抱えているからだ。変形した目釘、ヒビ
が入った目釘、緩い
目釘は即交換するべきで、そのまま稽古などを
続けてはならない。


20年前に剣友五十嵐ケイジから貰った煤竹の大刀用目釘もいよいよ
底を
突いた。早期に目釘のストックを確保しないと、大刀用の手持ちが
もうない。
竹刀の竹を削って油を含浸させて乾燥、さらに含浸を繰り返しても
程よい目釘は造れるが、煤竹には及ばない。
古来、竹目釘は煤竹が最良とされてきた。強度と粘りがあるからだ。
煤竹は煙で100年~200年いぶされ続けた竹だ。ススダケとも読むが
一般的にはバイチクと読む。
ウィキによると以下。
 古い藁葺き屋根民家の屋根裏や天井からとれる竹のこと。100年
 から200年以上という永い年月をかけ、囲炉裏の煙で燻されて自然
 についた独特の茶褐色や飴色に変色しているのが特徴。煙が直接
 当たっている部分は色濃く変色しているが、縄などが巻かれて直接
 煙が当たらなかった部分は変色が薄く、ゆえに1本の竹に濃淡が出て
 美しい表情をもつ。昨今は煤竹そのものの数が希少傾向にあり、価格
 は1本で数十万円以上することも普通である。

日本刀という物に触れるにあたっては、「最新のものが最良である」と
いう現代感覚を捨てる必要がある。
人が持ち得た技術も素材も、現代人や現代物では遥かに及ばないことが
実に多い。
時代という年月の積み重ねのみが持ち得た高度な素材とそこで培われた
人の知恵と技術。
それはほんの小さな目釘一本にも及ぶのだ。
今から煤竹を作ろうと思っても、出来上がるのは200年後なのである。
煤竹から作られる一本の目釘。その小さな物にも時の流れのみが具有
する良質性が詰め込まれている。
たとえ新作の現代刀でもいい。目釘一本にでも200年前の日本人の息吹
があり、それが今に活かされていると感じることができたら、なんだか楽しい
ではないか。

今から15年ほど前、広島県芸北の山間部の釣り友だちの家によく泊めて
もらっていた。近所に住む幕末の広島藩の名工正光の子孫と幼馴染の
友人だった。
彼の家の吹き抜けのような屋根裏には多くの竹が横に並んでいた。
「何のために?」と訊くと、煤竹を造るために友人が生まれるもう何十年も
前から竹を寝かせているのだという。
「煤竹が出来るのはあと60年後くらいかなぁ」と友人はごく普通のことで
あるかのように話す。その時、初めて煤竹の実態を知ってカルチャーショック
を受けた。藁葺きの農家に泊まること自体貴重な体験だったが、「玄関開け
たら2分でご飯」の地下鉄通勤の都市部とは隔絶したかつての日本の姿が
そこにあった。きっと、ついこの前までは、日本の各地がこのような兎追いし
の風景だったのだろう。
だが、こうした農家の人々によって煤竹はこれまでも歴史的に造られてきた。
現在でも、ごくわずかながらも、そうした文化を継承している家があると
いうことに私は少なからぬ感動を覚えたのだった。
遊びに行った帰りの土産にはいつも米をもらった。この米がまた格別に
美味かった。
私は収穫物が何もないのであげるものがなかった。庭のレモンと自分で作った
ナイフと親父から貰った淡水魚用の竹竿を友人に進呈した。ヘラやマブナなど
県北のイワナ・ヤマメ地域にはいないのに、友はいたく喜んでくれた。私の
親父も彼がうちに泊まりに来ると歓迎して、芸北に親父と一緒に行った時には
よくその友人や釣り仲間と釣行後に温泉に浸かった。温泉で走り回ろうとする
娘を叱ったのも今では遠い思い出だ。
あの頃は人と心で触れ合う良い時間が流れていた。


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猫を枕に眠る犬

2014年12月27日 | ポチたま


12月はせわしない。
西日本各地を走りわまり、内勤では深夜まで事務処理をこなす。
師走のきょう、久しぶりに一日家でゆっくりした。
一日家にいてよくわかったが、こやつら、一日中こうやって寝てるよ。
犬も猫もよく眠るが、きょう観察していたら、日中はほぼずっと寝てた。
猫は両手を投げ出して、犬はその猫を枕にして腹を見せて、いびきかいて
熟睡している。
こいつらに、警戒心というか野性はないのか?(笑
生涯のうち、4/5位は眠ってるのではなかろうか(≧∇≦)

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中世製鉄ロード

2014年12月27日 | 外出・旅



播州姫路から鳥取に向かう。
こちらは鳥取市内にある観光城で、「河原城(かわはらじょう)」という。
現在は展望台兼資料館となっており、かなり楽しめるので、お近くに
行かれた方は立ち寄ってみたらいかがだろう。
この展望台から見る鳥取平野の美しさは心を奪われる。
また、近隣は河川が非常に綺麗で、中流域では鮎が獲れ、上流
域にはヤマメが生息する。ヤマメやアマゴやイワナなどのサケ科の
魚は、エラが原始的で発達しておらず、清水が流れる酸素の多い
河川上流部にしか生息できない。ヤマメとアマゴは元々はサケと同様
河川上流に海から溯上して産卵していたが、氷河期の終焉とともに
陸封されて河川上流部に閉じ込められた。サクラマスとサツキマスの
陸封型をヤマメ・アマゴと呼ぶがもともとはサクラマス・サツキマスと
同種である。
→河原城 (この周辺一帯の風景は戦国時代と同じと思われる)


観光城といっても、河原城は秀吉の鳥取攻めの時に陣を張った
山頂に
平成初期のふるさと創生補助金で建設された。外見上の
建築
様式は江戸時代初期の築城天守形式を模倣している。

鳥取城攻めの際には、秀吉はここでもかなりエグい作戦を
取った。
秀吉はいわゆる「中国攻め」で毛利一門と激しく戦っていた。
鳥取城はそれまで城主がたびたび入れ替わっていた。
鳥取城は天文年間に築城されたが、城を盗った来歴を見ると
因幡山名氏(但馬山名氏とも)→武田氏→山名尼子同盟→
吉川氏→毛利氏→山名氏
といったように武力による血で血を洗うような戦いでの激しい
奪還戦が繰り広げられている。最後の決め打ちは織田信長方の
将、羽柴秀吉の中国攻めでの鳥取城攻撃だった。
秀吉は播磨三木城での兵糧攻めに味をしめ、ここ鳥取でも兵糧
攻めをする。
籠城する城兵の補給路を断つために海上封鎖で兵站を遮断し、
物量に勝る軍事力で圧倒して包囲し、
同時に米買占めによる市場
価格操作を強行して流通を完全掌握、
さらに近隣農民たちを買収し、
城兵に支援するものは厳重に罰する
という作戦に出た。
これにより、鳥取城籠城将兵は、死亡した人肉
を食うところまで追い
詰められた。「武士は食わねど高楊枝」などは後世の人間が作り上げ
た虚像だ。武士とて人間、霞を食っては生きられぬ。鳥取城内のあら
ゆる家畜、植物は食い
つくされ、最後は人肉を食ってまで防戦しようと
したが、このあまりの
惨状に城主吉川経家は秀吉軍に降伏し、自分の
首を差し出すことで将兵
の助命を嘆願した。
つい69年前にも似たようなことを我ら日本人は経験したが、この
痛み、たれが知る。
連合国総司令官マッカーサー元帥の下に参じた昭和天皇が、我は
どうなっても構わぬが、どうか国民だけは助命してほしいと自らの
言葉で語り、これに感銘を受けたマ元帥が天皇制存続を即時決意
したということをどれほどの人が知っているのだろうか。

戦国時代。まさに、何事にも一切の妥協が許されない、一寸先は
死よりも凄惨な地獄の苦しみが待つような時代だった。その戦国の
世と同じようなことが現代においても地球上で世界戦として繰り広げ
られていた。

ただし、鎌倉から続くこの戦国末期までが、実は武士が良くも悪くも
一番武士らしい時代だった。
武士とは、蛮族であり、侵略者であり、殺戮者であるのだ。
武士に教養と統治者としての「遵法」意識が発生したのは江戸期の
武から吏への政策および教育の一大転換によってだった。
そもそもからして、己の主の寝首を掻いても自分が上に上がろうとする
ドラスティックなことを体現していたのが武士だった。
武士は俘囚と地方降下の貴種が合体して発生した武力体現を専門職
とする階級的血脈だったが、朝廷の暴力装置であった武士は、やがて
朝廷の指図を無視して自己権力化してきた。
そのとどのつまりが、戦国期にみられる下剋上のような信義則なき
謀略行為だった。
江戸期に国内を平定した徳川家も、朝廷から征夷大将軍宣下という
形で天皇の下僕という見せかけの態度を取りながらも、実質的には
暴力と武力と専制によって全国の武士のみならず日本の人民を実質
統治する権力の体現者というのが実体だった。
だが、武士は独自の武家倫理や武士概念を江戸期においても残存
保有していたので、結局のところは蛮族の成れの果てでしかない。
そうした特異性は、明治新政においても大いに利用された。
武家政権時代の武士の旧習を一掃して文明を開化するという美名の下に、
その特異性は、戊辰戦争の一派に強大な権力を集中して他を徹底弾圧
するという方式で敢行された。
だから、武士が不在となった時代においても、武士時代のすべてを
否定しながらも、武士の「武」の面のみが「素養」や「品」を外皮として美化
され、昭和大戦終結までそれは特定グループによって天下の概念として
「利用」された。
冷静に見れば矛盾と欺瞞性はスカスカに透けて見えるのだが、武士を
盲目的に賛美する戦後人によっても、歪んだ武士美化は続けられている。
そうした人々は、本来の戦闘者としての武士の武の面を評価するのではなく、
あたかも「良い人」、「羨望を受けるべき人」、「尊敬を集める人」として武士を
脚色化しようとする。それは虚飾だ。
現代において、寸分たりとも人民を苦しめることに寄与する人的ベクトルは
捨象されるべきであり、その力に後の世にでっちあげられた「武士道」なる
ものが積極的に人民にとって負のベクトルとして関与するのであるならば、
武士および武士に関する力学はそのように「人民統治」「我慢の強要」として
「利用」されているのだという真の現実を人民は個人の自主性において見抜く
必要があると私個人は思っている。
独立自尊の精神は武士の精神世界の中心幹をなしたが、武士なき現代に
おいても、人は人であるという点において、この武士と同様の独立自立の
精神を克ち取るのは、決して武士の模倣でも慣習の簒奪でもないと感じる。
武士か武士でないかなど、現代には存在しない。
人としての独立した「個」を貴ぶという尊厳の尊重は、たまたま昔の武士も
そうした精神特性を有していたという偶然にしか過ぎない。

こうした私の論とは別に、肌で感じることが多々ある。
それは「武士だ武士だという奴にろくな奴はいない」という定理だ。
これは人生半百も生きていれば、世の中を見渡せばよく実態が見えてくる。
武士語り(および騙り)をする人間に限って、他者を貶め、排撃し、人を差別し、
足蹴にしたがる。そうした連中がそこで得たいのは、自己を己自身で寵愛する
優越感だけだ。おぞましく、気持ちが悪いにもほどがある。


ヒョウが振ってきた。
私が鳥取に訪れる時にはヒョウが振ることが多い。


絵柄として面白く感じたので撮影した空の顔。


さて、鳥取から和鋼である千種鋼(宍粟鋼)の生産地付近を走り抜けると
気付くことがある。
それは、植生として現在でも山間部に松(人為的な第二次林)が存在する
ことだ。特に山頂部に松が残存している。


それが、千種鋼産出地中央に近づけば近づくほど、松の植生から植樹された
杉に変化する。このことは製鉄に要した木炭生産のためのかつての動向と
なんからの関係があったと推測できる。


かつての流通鋼の日本刀の材料の産地で著名なのは、石州出羽(いずは/うずわ)
と播州千種で、それぞれ出羽鋼、千種鋼と呼ばれた。
出羽鋼はたたら吹きで出来た(けら)を水中で冷却することから水鋼と呼ばれ、
千種鋼は自然に冷却させたため火鋼と呼ばれた。
「玉鋼」の名称は明治末年から大正にかけて命名された新呼称であり、明治末期
以前には玉鋼という名称は存在しなかった。
島根県の安来製鋼が陸軍工廠および海軍工廠にるつぼ製鋼の原料として納入した
鋼のうち、小割りのものを玉鋼、大きめのものを頃鋼と呼んだ。名付けたのは同社
の小塚寿吉、工藤治人博士であり、いずれも商品名であり科学的な意味はなかった
ことを長谷川熊彦博士が指摘している点を
大野正は『技法と作品 刀工編』の中で
明記している。




一路転じて、帰路は播磨・因幡から美作へと向かう。
空色が小竜景光の地刃のようで面白い。



こちらは兼光の牡丹映りか。


吉備高原に沈む夕日。


朝日は気持ちがよいが、大気が水気で煙らぬ夕刻に射す日のほうが
景色を彩る。すがすがしい朝日より、よどむ夕日射す時刻のほうが
空気の色は美しいと私は感じる。





まがね吹く吉備に沈む平成26年12月26日の夕日。吉備も古代製鉄の王国だ。


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国宝を眺める

2014年12月26日 | 外出・旅




国宝姫路城。
平成の大補修が終わり、威容を現した。
市内で一番の高層建築が城ではないかという(笑

遠方から眺める城も、またよし。

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左袈裟

2014年12月25日 | スポーツ・武道など

袈裟切り。
刀を右から左に、相手の左から右に袈裟に斬るのを「左袈裟」、
その逆を「右袈裟」という。
ビギナーは左袈裟で刀の刃筋が立たない人が多い。
そのまま物斬りなどやると、大抵刀を曲げる。試斬で刀を曲げるのは、
これまで東京時代に周辺を観察していたら、大抵は右からの左袈裟だ。


では、刃筋が立たないのはなぜか。
現象面は自分でも把握できる。
しからば、解決法は?
これは結論から言うと、兵法全般にいえることで、「自得」しかないので
あるが、解決のための解析の方法論はある。

工夫されたし。

私などに尋ねてもお役には立てないが、各都道府県の各流派の高段者
の先生に教えを請うことも大切です。


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刀のなかごの錆色

2014年12月24日 | 日本刀



日本刀の新品のなかごというのはこういう感じだ。平成7年製。
19年が過ぎた。

これが何百年も経つと、濃いチョコレート色の良い錆がつく(とされて
いる)。
しかし、なかごの錆については、私と研究会同人は別な仮説を
持っている。刀剣は拵にあるが常だったので、腐食防止のために
最初から錆を着けたのではなかろうか、という仮説だ。
新新刀時代にはそうした慣習が失伝して自然錆が一般化したの
ではなかろうか、という説である。

しかし、立証が限りなく困難な仮説なので、整理して発表する
ことはしていない。

天分年間(1532~1555)の刀のウブなかごの錆色。チョコ色である。
刀に真黒のなかご錆があるとしたら、それはおそらく後代の人為的
な錆着けだろう。(例=江戸期の鉄鍔)



天正年間(1580年)の刀のウブなかごの錆色。
これもチョコレート色だ。



なかごの銘を潰して加工する偽物だけでなく、磨り上げ物なども
腐食防錆加工として後錆が着けられたと、私と研究同人は推測
している。


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三船十段と有段者の乱取り

2014年12月23日 | スポーツ・武道など

失われた柔道?!圧巻!三船十段の秘技「空気投げ」と現役の有段者との乱取り!


むう。
唸るわ、これは。
何事も力押しはダメある。


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