渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

ロードレースの世界にも刀剣旋風吹き荒れる!

2016年09月29日 | スポーツ・武道など



「疾風の刃(やいば)となりて」

きゃ~!
モーターサイクル・ロードレースの世界にも刀剣の風が吹いている。
これは、先日開催された全日本選手権の第8戦岡山国際サーキット
でのロード
レースの広告だ。

ふるってるねぇ~!(埼玉弁)

つか、本当に日本刀ブームなんだねぇ。
だからかな。
刀剣ネタを書く一介のただの名もなき小市民の私のウェブ日記などに
毎日3,000名の訪問者があるというのは。毎日だよ、毎日。
フェイスやツイッターやないねんど、と。芸能人ブログでも
ないんやで、と。どないなってんねん、と。
でもって、刀剣ネタではないことを連続して書くと300名くらいが減る(笑
で、刀剣ネタに振るとまた3,000名程になる(^^;

でも、私、古い人間なんで、どうしてもこの広告は劇画『ワイルド7』に
出てきた悪役の「バイク騎士(ナイト)」に見えてしまう(^^;


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全日本ロードレース 第8戦 岡山

2016年09月29日 | スポーツ・武道など




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ワークスを相手にプライベーター(メーカーチームではない個人参加)が
勝つという事はとてつもない至難の技だ。
だが・・・。
レースデビューからワークスライダーという人はいない。
誰もが初めはプライベーターだった。
そして、山口選手は元々はホンダワークスライダーだ。

ワークスライダーというのは、一般企業での正社員などというイメージとは
全く異なるポジションだ。日本のバイクメーカーの表看板となる選び抜かれ
た人材で、世界戦を戦うための人材なのである。いわばアイルトン・セナと
同位置に立つようなもので、誰でもなれる訳ではない。

レースというものは、完全に実力の世界だ。
あと、金。
プライベーターでも、一人ではできない。チームが必要だ。
どれほどのスポンサードを企業から受けられるかというマネージング能力
がないとライダーは走れない。
地球上で一番金がかかるのがモータースポーツだからだ。
そして、プライベーターのレーシングライダーは、皆ボクサーのような生活
をしている。
ボクサーは減量のために摂生するが、プライベートライダーは食えないから
命を繋ぐだけの食料しか口にできない。餓死寸前の状態で走っていた。
サーキットにはボロボロのツナギを着た亡霊のような人間たちが大勢いた。
そういう世界だ。
プライベートライダーは、一般的な「普通の生活」はできない。
普通の生活をしながら、恵まれた条件でただ車に乗るだけというのは、漫画
の世界だけの話だ。

ただ、時代は変わったのだろう。
今回優勝した山口選手のマシンを見ると、まるでワークスマシンのようだ。
そして、レーシングウェアもまるでワークスみたいだ。
ズタボロの亡霊ではない。
スポンサーになる企業などなく、すべて自費出費(かなり無理がある)で
賄わざるを得なかった1980年代中期までとは、様相がかなり違うのだろう。


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居合道 ~尾道~

2016年09月25日 | スポーツ・武道など



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読売新聞の県民情報欄に載ってました。
広島県、よろしく。




私の紹介で「うを新」から先日後代祐定を差料として購入した居合
仲間の
ヤマちゃん(もっこすの国生まれ。三原在住)に訊いてみた。
「なんで横血ぶりで口開けてるの?」と。
すると、「読者へのチューのサービスです」だって。ばかん(笑)

道場には三原在住者が6人いる。
尾道道場の特徴は、公立中高教師、公務員、看護師が異様に多い
こと。比率がとても高いというかほぼそれ。これ不思議な特徴なり。


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居合斬術 ~今さらながらの納得~

2016年09月22日 | スポーツ・武道など

わかった!
私が「抜刀道」にどうしても違和感を感じていたのは、抜刀道は
足を止めて、そこに居着いて据え物の畳表を切っているから
だ。
そこには、一足一刀の間合いや、間合いを裂いて突入する
足の踏み込みは一切ない。だから違和感をずっと感じていた
し、「なんか根本的に剣法とは違うのでは」と思っていた部分
の核心はそこだったのだ。

私は抜刀道関係の団体には籍を置かなかったが、全日本刀道
連盟には所属していた。
刀道連盟の制定業は、足さばきと体さばきが必ずあった。
だから普段研鑚している古流居合や古流剣術と何の違和感も
なかった。

足を止めて、その場に居着き、そして刀を腕だけで振る・・・。
もちろん、腰なども使うのだろうが、そういうことでの試斬という
のは、はやりどう考えても土壇斬りと同じ部類になるのではなか
ろうか。
踏み込みが存在しない腕振りだけだから、重く極太の刃物を使い
たがる。理由は「切れない」からだ。
言ってみれば山田流試刀で、持ち上げるのもやっとくらいの重い
鉛の鍔を装着して、台の上から飛び降りながら死体を切って、
「三つ胴」などとしたのとまったく同じ発想なのだ。
それは対人剣技ではない。


抜刀道そのものは、私は否定はしない。
ただし、歩きながらだとか、踏み込んでだとか、下がってだとか、
受け流してだとか、あるいは払ったり、敵の刀を抜いたりの体の
さばきが一切ないところでの刀振りというのは、果たしてそれを
「剣法」と呼べるのかどうか。それは剣法ではないだろう。剣術
でもない。武士の対人剣戟の
武術とは全く異なる何か別ジャンル
の事柄であることは間違いない。

だから、曲芸のような斬り方が流行しているのかと思ったりもする。
そして、世間は「切断できたかできないか」だけに一喜一憂している。
無論、残心なども一切無い。やっている人たちを見ると、一切無い。
斬り損じると「ああ~」とか切ろうとした本人も周りも声を出したり、
笑ったり、歓声をあげたりする。厳粛さは一切ない。大会という
「試合」においてさえそのような情景が見られる。
それはそれでいいのだろう。
残心などなくても間違いではないだろう。
なぜならば、それは剣法ではないのだから。そこに「敵」という「相手」
は想定していない。敵なきところ、武術は存在しない。

私は個人的には、自分で行なう斬り稽古は、「居合斬術」と私の
造語で呼んで自己認識している。
攻めては来ない畳表の据え物だが、一応仮想敵とみなし、居合の
体さばきと刀法で斬っている。
いわば、薩摩流儀の打ちまわりのようなものだ。動きながら斬る。
理由は一つ。互いに対峙して止まったままそこで刀だけを振る
剣戟というものはこの世に存在しないからだ。これは武士が生ま
れた時からずっと。
しかも、初太刀は「抜きながら」斬る。それも立ち止まってではなく、
一足一刀の間合いから、間合いの結界の中に身を踏み入れながら
斬る。
なので私の切りは「抜刀道」ではなく、「居合斬術」なのである。
位置づけは、居合術修行の一科目、居合の一環として自分では
自己設定している。
私が考える「居合剣法」とは、「居合体術(含む和)」・「居合刀術」・
「居合斬術」が三位一体となってはじめて「居合」という武術が構成
されるというものである。
どれか一つ欠けても武術居合としては成立しない。
それが、私が目指す「居合剣法」である。
これは、居合を始めた時から、居合とは根源においてそういうものだ
と、ずっとそのように思っている。


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イチロー レーザービーム

2016年09月21日 | スポーツ・武道など

【イチロー、レーザービーム集!!】全米に衝撃を与えたレーザー集!


やっぱ、すげーす。


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鞘はカタパルト

2016年09月19日 | スポーツ・武道など



アーティストのアートの話ではなく、戦闘武技の話である。
「居合において、刀の鞘はカタパルトである」。
私が師匠から口やかましく教えられたことである。
これは厳密には、付言すると、「カーブしたカタパルト」という
ことになる。

私の抜刀と納刀がスムーズなのは、刀身の反り、鞘道と
刃道を合わせているからだ。

これは斬鉄剣康宏の鞘。数十万回の納刀のうち、20回近く
ミスしている。




しかし、納刀ミスは数十万回のうち20回弱程はあれど、抜刀
においては鞘内は削っていない。摩耗により緩くなった
鯉口
は経木で補修してあるが、鞘は刀身では削らない。

なぜか。
刀身の反り、鞘の反り、刃道が合っているからだ。
刀は左手で抜き、左手に納める。道筋に沿ってだ。
だからスムーズな抜刀と納刀が可能になる。


これの訓練としては、鞘ではなく左手で鯉口を握る形を
作って、そこに納めるようにする。通常の納刀の速さでだ。
刃道が合っていないとできない。鞘は帯びずにこれをやる。
また、当然にして、鞘ではなく左手で鯉口を作って抜刀をする。
これも鞘を帯びずに。

これまた刀理にそぐわないと左手を切る。

きちんと抜刀抜きつけ・納刀ができる居合剣士は誰でもできる
ことである。
だが、こうした訓練、基礎稽古をみっちりと積んでいない人は、
ほぼ全員が「回し抜き」をやっていて、反りのある刀の切先で
鞘内の棟側を擦るか、あるいは回し抜きによって鞘内の刃側を
削り
まくるか、さらには鯉口握りができていないから鯉口を刃で
削りながら抜くか、もしくは抜刀において手を切ったりしている。

私は抜刀・納刀において28年間で一度も手を切ったことがない。
鞘内も削らない。
それは、きちんと師匠から教えられた通りの剣の理に合致した
ことを実行しているからだ。
鞘内を削れ、手を切りながら刀を抜け、などという教えは居合
には一切存在しない。
これは居合術でも居合道でも存在しない。

存在しないことを実行しようとするのは誤りである。
誤りは正しいことではないので、結果もそれなりの正しくない
結果しか招かない。鞘内を削りまくり、鯉口をこすり、手を切る。
「真剣には怪我がつきもの」などという自分にぬるい言い訳を
したりして、剣技における正しい道筋にはいない自分を赦したり
する。
本筋での大成はない。



おもしろい話をもう一つ。
数ある球技の中で、バスケットというものは「バスケットを本当に
やったことがあるかどうか」ということはすぐに見て判る。
やったことがない人は正しいドリブルができないし、ボールの保持
方法やパスやシュートも適性さを大きく欠いた仕草をするからだ。

剣技の場合、一見本筋に近いような「のようなもの」がとても多く、
粗見すると形(かたち)になっているように見えたりすることがある。
実は剣技は居合などの場合は極めて高度な技術を要するのだが、
「できている」ように見えてしまうことがある。その実はまったくできて
いなくとも。
バスケットの場合は即断で、てき面に経験と技術の有無が判る。
だが、実は高度である刀を使った操刀というものは、それが瞬時
には判断できないことが時々ある。(見る人が見たら即断だが)
バスケットも居合も、どちらも極めて高度な技術を要するという点
では共通であるのだが、この両者の差異がおもしろい。

似たものに撞球(どうきゅう)=ビリヤードがある。
これもバスケと同じで、キューを握って構えた瞬間に「できる者」か
そうでないかは瞬時に判断できる。
また、フォームができている者でも、ひと撞きすればすぐにどれ程
の技量かが判断できる。

だが、大切なことは、そうした低レベルでの「できるできない」では
なく、「できることは大前提」で、さらにその大分上の「かなりできる者」
たちの中で技量がどうか、ということだ。
例えば、できない者たちの集まりの中での偏差値70であることと、
とてもできる者(例えば全国偏差値としてそれが70の者)の中での
偏差値70では、数値をみるだけでは同じ70だが、中身は雲泥の差
がある。高度な位置でのできる者同士の競い合いと、できない者の
集団での競い合いの中で「できたできた」と喜んでいるのでは、
世界がまったく異なるのである。
鎬を削るとはまさにそれで、高度な腕の者同士の戦いを指す。
箸が持てないと米は食えない。
だが、剣技における技術の巧拙については、箸が持てるか持てない
かというそういうレベルの話ではないのである。
ここ、結構大切。
なぜ大切かというと、見抜けるか見抜けないかという判断力のスキル
のことだけではなく、真の剣技ができるできないは、即、命が無くなる
かどうかに繋がっていたことだから。
居合の試合で負けようが、抜刀がそれほどできていなかろうが、
畳表が切断できたかできないかとか、低レベルの中でできたできな
かったたと一喜一憂していようが、それで命が無くならないでしょう?
そういうところでやってるでしょう?
関係ないんです、そういうのは本当の武闘技術とは。生きるか死ぬか
を分ける武人の武技とは無縁のことなんです、そういうの。
本物の武士がいた時代は、日々がまじもんの真剣勝負なんです。
ぬるかったり、トロかったりしたら、死んじゃうんですから。
居合の試合でもいますよね。特に居合人ではない試合人などに。
隣りの選手が敵だとか勘違いしている奴。まったくもって、てんで
道を外している。発想からして。そういうのは居合などやめたほうが
いいと思う。そもそもがボタンの掛け違え、心得違いしてるのだから。
業の想定での仮想敵を仮想敵としては捉えられずに、心の中で隣りの
選手を仮想敵にしてしまっているのだから、もうそこには居合は成立
していない。

本当の抜刀術を会得していれば、高速飛来する6ミリ程の球体を
抜き打ち斬りで切断することも可能だろう。
できないのは、己の抜刀術が至らないからだ。それだけのことで
ある。
己の未熟に自ら刃を向けて見つめ直すことなく、如何なる言辞で
あろうとも正道の剣技について非難めいたことをなそうとするのは、
それは抜刀術者としてはあまりもそらぞらしいことだ。


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写し

2016年09月18日 | スポーツ・武道など



師伝の継承はまず写しから。
そこそこ似ているとは思う。

師伝とは別次元のこととして、基本的な押さえるところというものは
技術系のものには必ず何かしらある。
たとえば、切りについてはこういうのとか。



そういうのって、あるよね。
射撃では頬付けは確実に押圧(おうあつ)してやれ、とか。
伊良部こまわり君みたいになるほどに押し付けろ、とか(笑





さらに、射撃の時には、頭を横に傾けるのは絶対に駄目というセオリー
がある
(三半規管の機能上、ヘッドは常に垂直を保つ)。
そのように、武術におい
てもスポーツにおいても、そういう、人間の人体
構造からくる常識的な「外すべからずもの」
というのはある。

(マシンをどれほど傾けようとも、ヘッドは垂直を保つ)





現在に至るまで、世界選手の基本的な乗り方を完成させたキング
ことケニー・ロバーツ。「不朽性を持つ走法」という歴史上の金字塔
を打ち立てた不世出の偉大なワールド・マスターである。



師匠。号は剣弘。税理士。居合指導で月謝は取らない。
所蔵する数十口はすべて差料である。
しかも、もしかすると、現代刀は大師匠からの遺品の刀と
康宏作だけかもしれない。普段は忠吉を愛用。


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切り手

2016年09月17日 | スポーツ・武道など











「切り手」である。

切った瞬間に手を内側に絞り込む、などということはやらない。
切った瞬間は軽く小指を締めるだけだ。
パッと両手で構えた時も、片手での柄手も、柄は「切り手」で保持
する。
これが私が師匠から習った剣士の柄手だ。
イメージとしては、切る時は掌は常に敵のほうを向くのである。
ピッチャーの直球の投球と同じ。原理も同じ。慣性力をどのよう
に効果的に伝達するかというベクトルの問題だ。
師匠マスター剣弘の教えに「丸太理論」あり。
両手を頭上に上げ、上から重い丸太が下りてくるので手で支える。
この時の手の形。それをそのまま刀の柄に移行させたのが即ち
「切り手」である、と。



全然ダメダメな握り方。


アメリカの役者はソードを使う剣法を知らないから柄の握り方を知らない。
たとえジェダイでも(笑)。
これはまるでダメ男くんの握り方。




修行が足りぬ。
フォースと共にあらんことを。

細かいマニアックなところでスター・ウォーズについて語れば、
ライト・セーバーは、1977年の公開時には木刀のように断面
が楕円形の光を放っていたが、その後いつの間にかまんまる
になってしまった。
これは、役者が切り手ができぬゆえ刃筋を立てることができず、
映像上に不自然な面が映り込んでしまうために、それを映像
トリックでごまかす目的で刀身を丸形のライトにしてしまったの
だと思われる。特撮の簡便化のためというのも大きいだろう。
だが、残念ながら、これは実相としては進化ではなく、ブレード・
ファイティングとしても武器としても実は退化であることを示す。
ライト・セーバーがセーバー=サーベルではなく、丸い棍棒に
なってしまったからだ。

ライト・セーバーは1977年原板では、切る角度によってブレード
厚みが表現されていたが、リメイク版では完全に丸棒になって
しまっ
た。これは映像上では進化だが、武器・武技としては退化
である。
横打ちだろうがライト・セーバーの刃味頼りの斬りになり、刃筋を立て
ることによる威力あるサーベル・テクニックの発揮が無視されることに
なるからだ。
平打ちでは剣は切れない。だからこそ、技術の習得がある。ジェダイ
はフォースと共にライト・セーバーの剣技も修行していた筈だ。
だが、平打ちでも切れてしまうサーベルとしてしまうと、剣技のうちの
刀法の習得がまったく不必要となり、凡人ならぬジェダイのみがライト・
セーバーを所持できてそれを使いこなせるという設定に無理が生じて
しまう。
剣の操作には技術の習得が必要不可欠であるのだ。その最大たる
ものが「刃筋」であり、刃筋を立てるためには「切り手」は必要不可欠
な習得科目なのである。



「ジェダイ」とは「時代」という日本語からもじったルーカスのクロサワ
への
インスパイアである。だからこそ、「ライト・セーバーの所有が許
された士」としての
ジェダイの騎士がいて、そこに「剣技」が存在する。
ジェダイは武士へのオマージュでもある。日本の武士の存在なくして
『スター・ウォーズ』は地球上には生まれなかった。

刃筋を立てるために必要不可欠な「切り手」は、剣技の要なり。
刃筋を立てるからこそ、剣士は斬切を実現できる。
正確に刃筋を立てるためには、切り手ができていないと適わない。


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右に開く

2016年09月16日 | スポーツ・武道など



刀の清めと納刀前動作として古流英信流には「右に開く」
という動作がある。
全剣連居合道では「横の血ぶり」と呼称される。

この動作は、私は、「切先で布を裂くように切先と手元を
同時に横に開く」ということを実行して(しようとして)
いる
。AとBが同時に動いて横に開くのが本来だと習った。
それを
実行しようとしているが、私の場合に限っては、切先
が遅れ
気味になることがあるのは、未熟だからだと自分で
断言できる。自分の思う事が出来ていないから、それは未熟
未達のことになる。
同時に開くと
いうことはAとBが同時に横に動いて移動する
平行移動の
ようにならないといけない。

英信流所作「右に開く」


高段者でも大きく手元のAから動き出してBの切先を動かさず
に残して、だいぶ後から手元を追いかけるよう
にBが横に移動
する動作をしている人がかなり多いが、あれは
何なのだろうか。
まるで切先がそこに吸いついたように残って右手を大きく移動
させてから後に切先が横に移動している。

あの動きに何の意味があるのか、私には皆目分からない。
なぜならば、全剣連ならば範士八段や教士八段クラスの先生方
も、切先残しで手元が先
に動いて後から切先が追い掛けて横に
開く動作をしている方々がかなり多いか
らである。
また別団体などで直伝英信流を名乗っている方々にも非常に
多い。

私が知っている教えとは違う別な何かがあるのかも知れない。
それは私には分からない。
ただ、動きとしては右手から先に動いていることを多く見る。
かと思うと、手元と切先をほぼ同時に右に開いている高段者の
先生方もいる。
これは一体何なのだろう。

私自身はなかなか「同時に」ができない。やろうとしてできな
いことは、「何か意味があってやっている」こととは大きく
次元が異なる。



(追記)
刀には反りがあるという物理的法則の影響を見落としていました。
私のこの記事を読まれた高段者の練達の先生からタイムリーに
先ほど連絡を頂き、教えてもらいました。技法的な問題解決法も。
早朝出勤前から居合の術技談義(^^;
研究してみます。目からウロコだだ落ち。
感謝いたします。


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修心流居合術兵法 町井館長 刃筋確認稽古

2016年09月15日 | スポーツ・武道など

修心流居合術兵法 町井館長 刃筋確認稽古


個人的な感想だが、この2分34秒からの確認稽古は
とても大切だと思う。
刃筋の確認と同時に、きちんと目的点に刀身を吸い
こませることができるかどうか。
狙った斬撃部位に正確に斬り込めるということは、
敵の隙ある場所、急所等に刀身を持っていけると
いうことで、これは剣戟の争闘では最大脅威となる。

居合の形稽古で空気斬りだけをしていると、実際に
自分がやっていることがどうであるのかを見逃し
がちになる。
斬稽古は、操刀法、刃筋確認だけでなく、刀線や
刃波、身体の使い方等々あらゆることを自己検証
できる最適の稽古となる。
あくまで、「切れたか切れないか」だけに拘泥し
ない自分
を冷静に見つめることができる剣士に
とっては。

ただ切れればそれでよいとするところにマインドが
行くと、青龍刀のようなあり得ない異形の刃物を
持ちだして切断して喜ぶというダークサイドに心が
行ってしまうように思える。
それはモグラ叩きと同じで、剣法の稽古でも演武でも
ない。
演舞ではあるかもしれない。



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切り損じ

2016年09月15日 | スポーツ・武道など



うを新先生は、試斬稽古の際に康宏で一太刀切り損じたらしい。
刃筋が狂い、畳表の途中で刀身が停止したという。
「え?刀曲げなかった?」と私が問うと、「ええ。何でもその
魚屋は渓流先生という人から教わった切り方で、切り損じた
瞬間に▽■△×%&~P-をやったんで、刀身は何ともなかった
みたいですよ」とのことだ。わひひ。

実は、切りに関しては、これは修心流の町井勲先生もそうだ
が、練達者
は「あること」をやっている。
これは多くの公開されている動画を熟視すれば読み取れる。
要は「見る目があるかないか」と、「それの本旨を理解して
工夫して体現できる力があるかどうか」ということだろうと
思う。
私は町井先生に見抜かれたことがある。
「やっぱり渓流さんは据え斬りができるんだぁ・・・」と。
町井先生とのつきあいはかれこれ6年程になるが、なぜあれ程
の腕を持つ町井先生が私などと違和感なく接してくれるのかを
尋ねたことがある。
すると、「僕と同じ斬り方をする人を初めて見たから」との
ことだった。
その時、私は言った。でも、斬り始めた時期は私のほうが先
ですよ~ん、と。だが、開始時期の問題ではない。密度と進化
の問題だ、術の会得というものは。やり始めの時期のみを
言ったら、私などは本当は居合のほうもとうにもっと高段者
の免状を取っていないとならない。居合開始が平成元年なの
だから。だが、たとえどんな理由があるにせよ、稽古を長期
に亘り「停止」したことは、錬度の深化の不在が生じる。
要するにサボっていて進歩はあり得ない、ということだ。

真面目な話をすると、うを新の刃味タッチを掴み取る感性は
かなり鋭敏で、微妙な刃味と切れ味の違いを体感で察知する
能力を持っている。
こういう人とは、包丁や一般刃物の研ぎの話をしていても楽
しい。
「個体差」とそれについての対処や方針を選択する抽斗を
沢山持っているので、やはり「わかる男」との話は面白く
ないはずがない。

私は全剣連だけではなく、別団体や別流派の剣士たちとの
交流も多いが、いろいろな視点やアプローチを知ることで
とても勉強になる。私が自分の流派と所属連盟だけしか知ら
ない狭いところでの判断から脱して視野狭窄を忌避する視点
を持ち得るのは、多くの方々の教えや導きのおかげだ。
そもそも、私の居合の師匠自身が、別団体や別派との交流で
学ぶことを私にも許可してくれていた。これは私は死ぬまで
生涯師匠の直門弟子である、という確固たる部分があっての
ことだろう。
私の師匠も、康宏作を20数年前に注文して差料の一つにして
いる。道場の人たち数名と墨田区の鍛人に行って、直接小林
直紀刀工と面談して仕様を決めたのが懐かしい。
(結構ざっくりした注文だった。「長さはこれで反りは浅めで」
というのみの)
修心流の町井先生については、引退していた康宏の作刀復活
プロジェクトの話が具体化する前に、真っ先に注文の声を
かけてくれたのが町井先生だった。
町井先生の注文も当初はざっくりしすぎていて、「長さ二尺〇
寸から〇寸五分くらい、反りは浅めで」というものだった。
さすがに五分違うと1.5センチ違うので、申し訳ないが細かい
寸法出しをしてもらった。
存外、剣法練達者というのは、差料の長短や寸法等には細か
すぎるこだわりというものは持たないのかもしれない。
よくよく考えれば、私もある面「長さは大体これくらいで」
という程度で、あまりこだわらない部分はある。
もし、戦国のイクサ場だったならば、状況如何では敵の武器
を奪ってでも状況を突破することも問われることになるのだ
から、いくら自分の差料といっても、大切なコレクションの
ように捉えて心が居着くことはよくない事なのかもしれない。
AK-47のようにどんな状況下でも絶対作動を約束するような
刀にはいくら絶大な信頼が置けるとはいえ。
しっちゃかめっちゃかの乱戦では、綺麗事など通じない。
大昔、私がある闘技の訓練を受けている時、「こういうケース
ではどうするか」という出題があった。私は、「たとえ歯が
折れるまで噛みついてでも□△×を%$~する」と答えたら、
教官は「合格」と言った。

刀の切れ味の話に戻すと、うを新が言っていた。

「日記に魚屋からの伝言として書いといてください。『いくら
別次元の切れ味を持つ康宏作といえども、刃筋が狂ったら康宏
でも切れないよ』と」
そりゃそうだ。当たり前だのクラッカー(古過)。

うを with 康宏斬釘截鉄剣




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新作康宏刀での試斬

2016年09月15日 | スポーツ・武道など



某流の鹿児島の方の新作康宏刀による試斬。
真巻き1.5畳らしい。
この方は古刀含めて幾口(ふり)も日本刀をお持ち
だが、この映りが出ている新作小林康宏作については
ことのほか切れる、とのことだ。

実はこの方、私の游雲剣とすべてまったく同じ寸法で
注文した。

私の康宏游雲剣


「もう少しだけ短くてもよかったかも。もう一作欲しい」
とおっしゃるので「磨り上げたらどうでしょう?」と
言ったら「いや。それはしない。これは、これ(笑)」
とのことだった。
国立大学を二校卒業しているという変わり種の人。
康宏作注文者の方には一つの傾向性がある。
それは、発注者が関東、東北と九州に偏っていることと、
それと意外とインテリさんが何故だかとても多いことだ。
あたしが一番パープー系。あ、違った。あたしとポン友
うを藤だ。二人でいい勝負(^^;
あちしと新藤ちゃんの普段の日常会話は人には聞かせられ
ません。「こいつら、アホちゃうか?」と思われるので。

うを新ってこういうやつ↓

でもね、時々うを新の話す言葉がわからないの。あいつ
「俺は浦和の生まれ育ちだっ!」と文教都市で県庁所在地
で埼玉県内で一番地価が高かった浦和市のしかも街中の中の
生まれ育ちを自慢していたが、すっかり浦和には存在しな
かった県北なまりになっちまって、ときどき何言ってるのか
分からない。
「そりぁ、はぁ、はかいくだいね~」なんて意味わかります?
日本語を話してほしいと時々思う(苦笑

きょう話をしたかごんまの人は、かごんまの言葉だからいい
のよ。それはお国言葉というものだから。
でも首都圏を気どってる埼玉県人の話す言葉が通じないっつー
のは、それは、はぁ、どうな~ん?とか埼玉弁で思ったりする
わけ。


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謎が解けた ~刀の振り方~

2016年09月14日 | スポーツ・武道など



私が学ぶ流派と同系で私の流派よりも古い流派の剣友と
刀法について少々議論した。
そして、「どうして刀を止められない人が多いのだろう」
という話題になった。
各流派により刀の扱い方というものはあるようだが、刀法
というものは、古流になればなるほど、どの流派でも似た
ような操刀法になっている。それは、物理的な刀理という
ものが自ずと似通ってくるからだろうという双方の見解の
合致をみた


何故刀を自由自在に止められない人が多いのかについて、
剣友と話していて、ある現象に気づいた。
刀が止められない人は、ゴルフのようなスイング振りをして
いるのだ。




本当によく似ている。
遠心力を使って、定常円旋回で刀を振っているのである。
これでは刀は任意の位置で止めることなどできない。
慣性を抜く「抜重メソッド」以前の問題だ。
私の刀法はまったくこれらとは異なる。
私の刀法というか、私が習い覚え、また自分でも研鑽した
操刀法はまったくこのスイング振りとは異なる。

私が請う人に向けて作成した刀法メソッドの理論解説がある。
これは長文文章が付随するのだが、その部分を読むとたち
どころに初心者でも刀がビタリと止まるし、また切り下ろし
における斬撃力が飛躍的に増す。力は一切使わない。
その解説テキストの図のみを公開しようと思う。
長文解説は削除してある。ほんの一部の図のみ。解説全文は
同好の士にしか情報公開しない。



これは、まま世間で散見する「切先から先に動かして腕を大きく
伸ばして真
円を描くように刀を振る」ということを教えている
流派や道場
の刀法とは全く異なる。すべてが異なる。
だが、概ね古流剣術・居合術はこの図の〇のように刀を操作する。
刀の動きだしは柄頭からで、柄頭で正面の敵の眉間を叩き抜く
ような心持ちにて初動を開始し、肘はパンタグラフのように
頭の上を越したあたりから伸び、敵の頭上に刀を投げるように
鋭く振る。そしてその慣性のまま「真下」に切り下ろす。
これは速く操刀すると一切この図のようには見えない。見抜く
人もいるが。左の×のように振っているように見える。
しかし、遠心力頼りの左の×のスイング振りでは、刀を任意の
位置で止めるなどというのは不可能だ。肘も傷める。
だから、このようにスイング振りをしている人たちは、全員が
全員、振り終わり頃に手首が曲がり、切先が大きく下がり、床を
切ったり、自分の足を切ったり、ひどいのになると勢いが制御
できないので勢い余って刀が大きく回って自分のふくらはぎを
切ってしまったりするのだろう。
自在制御できる道理がない。ゴルフのスイングや陸上のハンマー
投げのような原理で刀を振っているのだから。
ボウリングでもそうだ。プッシュアウェーからダウンスイング、
そしてトップからフォワードスイングに至る過程は肘を伸ばして
遠心力を利用する。

このダウンスイングやフォワードスイングの途中で腕を止める
ことなどできない。無理に止めようとしたら、肘や関節を傷め
る。
しかし、刀でスイング振りをしている人たちは、そうしたことを
無理やり力でやろうとしているのである。
止まるわけがない。

剣友は「切り下ろし以前、刀法以前の問題。まったく刀の扱い方
を知らないド素人」と切り捨てたが、まあ流派によっていろいろ
あるのだろうから、そう一刀両断に切り捨てては、やっている人
たちは身もフタもないようにも思える。
だが、事実としては、確かに刀を止められていないし、任意の位置
で止めることもできていない。大抵は右手も左手も「死に手」と
なって手首が遠心力に力負けして切り終えるあたりで曲がって
しまっている。
それを無理やり止めようとするから肘関節や手首を傷めたりする。

どちらかというと、私がやっている多くの古流剣術・居合術の
剣士たちが実行している切り下ろしの刀の操刀法は、野球の投手
の投球原理に似ている。
野球の投手も、最初から肘を伸ばして頭の上に突き出して、それで
その遠心力だけを頼りに腕を振り下ろしたら、まったくボールに
勢いがつかないでしょう?
そんな投げ方で速球や変化球が投げられるわけがない。火炎瓶や
手りゅう弾の投擲法じゃないんだから。投擲ではなく投球なのだ
から。
刀の操刀法もピッチャー(だけでなく野球選手すべてのポジション
での投球)の投球原理と同じ理論で肘と腕(もちろん下半身も)を
運用する。

そして、正直申し上げて、刀を上段で切先から動き始めて真円運動
の定常円旋回をさせようとする運刀法は、上から下の刀の振りの
場合、切れない。これは断言できる。刀理に適ってないからだ。
土壇切りでもそうで、せいぜいポコンとなるだけだ。
それはそうだ。慣性で勢いがついているかのようだが、遠心力により
どんどん力は外に逃げているのだから刀線に勢いが乗らない。敵を
切る方向に力が作用せず、円の外に逃げる方向にベクトルが向く。
結果として、切れない。刀の刃味頼りに多少パスンと切り込むだけだ。
正しくは、
刀は真上から真下にズドンと落とすように切り下ろす。
重力さえも味方につけて刀に真下方向の慣性を乗せてやる。

ただ遠心力頼りの振り回しはスイング振りで外に力が逃げるのを
柄で押えているだけで、刀法を駆使
した「切り下ろし」ではない、
と私個人は確信している。

ただし、武器として日本にも古来からある振り飄石(ふりずんばい)
のような投石具などは遠心力を利用して投石している。

旧約聖書に出てくるダビデが巨人ゴリアテを倒すのもこの原理を
使った投石による。これは遠心力で外に逃げる力を利用した物だ。
また、ブラックジャックなどの武器も遠心力を利用した物だ。
専用道具などなくとも、靴下に小銭を多く詰めれば簡易ブラック
ジャックとなり、非常に効果ある武器が即製できる。
これらは遠心力を利用した投擲および打撃武器である。
ブラックジャックの場合は、至近距離という特性が意味を持つ。
だが、刀はそうした原理とは別な運用法で操作するところに術理
が存在する武器である。刀身を遠心力で投げるならばともかく、
刀は投擲武器ではないので、刀専用の「操刀法」という技術を使う。
武器にはその武器の専用の使い方がある。弓矢で架橋の代用はでき
ない。
刀剣の唯一の欠点は、槍等の刺突武器に比べて操作に技術を要する
ところだ。なので、軍団同士の合戦場面においては、徴用された
農兵や徒士などが主力戦闘員となる状況下で、太刀・刀が主力武器
とは成り得なかった。太刀・刀のような訓練期間を必要としない
槍がイクサ場での主力武器となったという歴史的事実がある。
剣を取る者誰でも扱えるのが太刀・刀ではなく、効果的に刀剣を
操作するには、それなりの技術習得が必要不可欠だったのである。

ただ、流派によりいろいろな教えがあるのだろうから、それぞれの
流派や指導者のいいつけは守ったほうがよい。
たまたま私が師匠や先達から教えられた刀法の理は、古流剣術や
古流居合、古伝刀法を実行する方々と全く同じ理論と実践だった
ので、私は私自身の剣風としてそれを実行しているだけである。
さしあたっての現実としては、私の切り下ろしはそこそこ鋭く
切れるし、刀も任意の位置で自在に止まる。
修心流の町井宗家が御世辞ではなく「渓流さんの切りは本当に
凄い」とおっしゃるのだから、私は切りだけはそこそこできている
のだろうと思う。自己満足ではなく、客観視してみて。
(一度切り下ろしでスイング振りを試したら、床を叩いてしまった。
しかも試合中にふと思いつきで「やったらどうなるだろう」と試し
たら、思いっきり床に刀身を叩きつけてしまったことがある。あの
刀の使い方では全く任意には止まりませんな→於福山市長杯)

なお、私は刀の振りにおいて一切力技は使っていない。柄も握っ
てなどはいない(それでも「まだ握ってる」とよく先生から注意
を受ける)。柄は指と掌で支えているだけだ。肩も肘も脱力させ
ている。そうでないと運刀に速度が得られない。土佐直伝の英信
流の教えに「力は使わない。速度と刀の重みで切る」というもの
があるが、これは力技ではなく、刀法という術を使って刀を運刀
させて切ることについての教えだと私は心得ている。

野球の投手がギッチギチに力を入れてボールを握りしめて肩にも
腕にも肘にも力を入れてボールを投げたら、速球など
は絶対に投
げられない。それと同じである。しなやかな鞭のような四肢の

き、関節の動きで刀を切り下ろす。

「切り下ろし」は「切り下ろし」と剣術の世界では明記明言されて
いる。
「切り回し」とは呼ばれていない。これの名称こそが、その
刀法の
古来からの理論を名は体を表すで体現しているのである。

ただし、体の構造上の制約があるので、下からの逆袈裟などでは、
スイング刀法を使うこともある。
しかし、古伝の教えの「天井を掃くように」という意味を取り違え
切先から先に動かして、早い段階でボウリングのプッシュアウェー
ように腕を伸ばしてそのまま刀を旋回させて振るのが切り下ろし
だと勘違いしている人が結構見受けられるように思える。
そして、そのような方々は、残念ながら、物切りでも居合でも「切
れて」いない。また、前述のように刀はピッピと自在に任意の位置で
止めたり、任意の位置に切り込んだりの制御ができていない。

もったりとして、よっこらしょ!みたいな刀の動きをしている。
パパーッと動いて、パッ!と切るような機敏な動きは一切できていな
い。


どうしてそうなるのだろうと、ずっと考えていたが、本日、同系居合
の剣友と刀術談義をしていて気づいた次第。


これに付随して、よく居合などでの初太刀の抜きつけで鞘を割ったり
鞘内を切ったりする人は、最初の片手抜刀斬り=抜きつけにおいても
スイング振りをしているからだと思う。まだ、刀が鞘の中にあるのに
刀に円運動をくれては鞘はひとたまりもない。当然の原理だ。
これは刀の長さは関係ない。操刀法が悪いから鞘を割るのである。
英信流の場合にはトリサシという理論があるから、英信流剣士で
鞘を割る人はほとんどいないようだ(英信流の人で鞘を割っていたら、
それは英信流の刀法から離れているということになる。トリサシ抜き
で鞘割りは絶対に起きない)。
トリサシ抜きでなぜ鞘内こすりをしないかというと、上段からの諸手
切り下ろしと同じく、柄頭から敵に向けて軌道ラインは一直線に動き
出すからだ。無論反りまで計算に入れて(柄頭と鯉口後退=鞘引きが
同時初動)。
この鞘割りの事故がどうして起きるのかずっと不思議だったが、それは
抜刀斬りで鞘がカタパルトになっていないからだ。ボウリングでいった
ら、ガターの軌跡に刀身と鞘の向きがなっていて、進行ラインがずれて
いるから鞘削りをしてしまう。つまり横振り回しのスイング抜きになっ
ているのだ。
やはり、こういうのも、刀法が成立していないように思える。
さしあたって、私は口先だけではなく、抜刀でも納刀でも実際に鞘内
は削らない。
たぶん、その結果から帰納法的に考察すると、私の刀法と理論は正しい
と思われる。


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平 忠彦 ~レーシングライダー~

2016年09月12日 | スポーツ・武道など

平 忠彦 1


平 忠彦 2


平 忠彦 3




この人はノービスのイナレーシングの頃から大好きだった。
日本のロードレースの中では特筆すべき人で、かつ努力の
人だった。人柄も実直。
いろいろな思い出深いレースが多いが、私が一番感動した
のは1986年世界グランプリ250ccクラスのサンマリノGP
での優勝だった。
スタートで失敗し、最後尾近くの28位から先を走るライダー
すべてを抜いて優勝した。



平さんご自身は1990年の鈴鹿8耐が印象深いレースなのだ

そうだが、私はスプリントレースでの平さんの走りが好き
だった。
ただ、ヤマハのマシンの始動性の悪さも相まって平さんは
スタートが悪く、重大な事故も起こしたため、平アクシデント
により世界グランプリのスタートが押しがけからエンジン
スタートにレギュレーションが変更されたという経緯がある。
平さんが歴史を変えた(笑)。

それでも、押しがけだろうがエンジンスタートだろうが、スタ
ート直後は常にトップで第一コーナーに突っ込む
ロケット・ロン
ことロン・ハスラムのスタートダッシュは凄かったのだが(笑



気どらず真面目に仕事をこなす。選手を引退しても、本当の
イイ男の代名詞が平さんのような気がする。
彼はスポーツマンだ。



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刀の止め

2016年09月12日 | スポーツ・武道など



刀は任意の位置で止めることができる。
これは実際に物を切っても切らずとも。
まともな剣士であれば、いくらでもどこにでも止められる。
従って、形稽古においては寸止めでビタリと止めることなどは、ごくごく
当たり前のことだ。
無論、私も全剣連初段の頃から出来ていた。それは、当たり前の事だから
である。
なので、形稽古において、木刀や刃引きで相手の身体に刀身を当てた事は
ない。1センチ程の所に止めてもだ。
これは古流太刀打之位においても、詰合においても、日本剣道形において
もである。
当たり前のことは当たり前にやるから当たり前のことなのだ。


これは実際に刀で打ち合う形、英信流「詰合」。基本的に
ここでは止め太刀は使わない。本当に斬るつもりで打ち込む。
画像の打ち込み者の手の状態に注目。真剣刃引きでもボロボロ
になるから普段は木刀で稽古する。木刀が折れることは多い。
また、画像を見るに、刀法としての刀身の「三種の教え」を
私は無意識のうちに実行している



ところが、世の中、そうそう当たり前のことが当たり前にできないのに
大風呂敷を広げているのもいるらしい。
体験見学者の頭に誤ってポコンと当ててしまう自称宗家だか何家だかが
いるそうだが、ポコンのあとに無刀取りを見て、ダブルでこらアカンと
入門をやめた人もいるとのことだ。
剣技の技量無き宗家。そうしたものがあるものかと驚く。
また、そこで使用されている模擬刀はどれもが鍔がカチャカチャに緩んで
いて危険であり、さらに宗家だか何家だかはガムくちゃくちゃで道場入り。
開始の礼も終礼も一切ないらしく、飲食しながら雑談混じりの「稽古(?)」
なのだそうだ。
私はコスプレサークルの事はよく知らないが、大学の飲みサー以下の
ような所なのかなと想像している。
そういう場所は未経験なので、よく分からないが、実体験を経た複数名の
証言では「武術以前のパクリ以下」とのことらしい。
それでも、勝手に古流を名乗れて集客して集金できるのだから、世の中
楽なもんだ。
とりあえずは、動画でも全く刃筋が立っていないことはよく判る。
う〜ん。残念。ただの空威張りの虚勢を張った虚言だったか。

オタクの人たちにはオタクの仲良しクラブのような寄り合い所という
コミュ二ティがあるのだろうが、いや、世の中にはいろんな人たちが
いるものです。
フェイクって、面白いね。


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