渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

優駿

2016年05月29日 | スポーツ・武道など



-----------------------------------

「ダービー見ずに死ねるか!」と言ったのは誰だったか忘れたが、
こんなガッチガチのダービー見たくないっ(^^;
1-2-3人気が3-2-1で入着。3連単でも4,600円だってさ。
馬券買ってないけど(^^;
ああ、アイネスフウジン中野ちゃんが懐かしい。
あの「中野コール」は、ぜってー「汚れた英雄」の北野晶夫コールの
再現だよな。不死鳥のように蘇った中野選手に対しての賞賛という
ところで。あれが競馬界では初めての観客群衆コールだった。

というか、やっぱ、ダービーといえばラッキールーラだな(違





この記事をはてなブックマークに追加

東北日本居合道大会

2016年05月29日 | スポーツ・武道など



本日、新潟で「東北日本居合道大会」が開催されている。
刀工康宏友の会「游雲会」のメンバー数名が参加の模様(^^)v

私は何をする人ぞといえば、本日0530から出勤し、事務処理してる(^^;
先程、息抜きのコーヒーブレイクで、ドリルを削ったタガネを手慰みに走らせてみた。
これは偽銘ではありません。
おいらが切ったおいらの銘だから、これこそ文字通りの正真正銘(^0^)



この記事をはてなブックマークに追加

古流実戦剣術研究会

2016年05月25日 | スポーツ・武道など



時代劇画家のとみ新蔵先生の古流実戦剣術研究会の
ウェブサイトが開設されたそうです。

こちら → 古流実戦剣術研究会

とみ新蔵先生は、1960年代末期の革命と戦争準備の時代の中で
砦の上に我らが世界をと叛乱に生きた新左翼系全学連の当時の
若者たちを「過激派」とは呼ばない。「闘士」と呼ぶ。
その一点だけで、私は個人的に信用している。

そして、先生のこの言葉も。
「『出自を以て他者を蔑視するなど、自身が卑しい人間であるとの公言』
その通りです。
今だに、そがいな人はとっても恥ずかしい事です。
大切なのは「出自」などではなく、その人の「行為」と「精神」のみです。 」


この記事をはてなブックマークに追加

着崩れしない袴のはき方

2016年05月18日 | スポーツ・武道など

全公開は避けるが、私は一部に特殊な着用法を用いて
袴を着用している。
私の袴の着付け方だと、少なくとも私は着崩れしない。

一部公開する。これは知っている人は誰もがやっていること
だからだ。ただし、私のオリジナル部分は非公開。

まず、帯は私は稽古では逆神田に結ぶ。これは私式だ。
神田の逆だから松田とでも名付けるか。いや蒲池か(笑
稽古用では幅が狭い化繊の二寸三分帯にしている。



こちらは絹の角帯、博多献上を一文字巻きしたときの画像。
紋付の演武などの時にはこのように正絹角帯で一文字に結び、
縞袴をつける。「稽古着」で「晴れ」の場で演武するというのは失礼に
あたると私は考えている。「ハレ」と「ケ」については厳格に意識する
必要が日本人ならばあると私個人は考えている。


前紐を後でバッテンにして結ぶのも一般と同じ。
その後は、こうやって、袴の後紐を一旦袴の前紐の最上部に
通して袴板の位置をギチッとキメちゃうの。
献上模様の帯には上下があるが、この帯は作り込みによる刀の
据わりを考えて上下はこの向きにしている。



これは実は剣道の袴のはき方で、私は大昔からこれにしていた。



撮影の為片手だが、両手でピンピンと引っ張ってテンション掛けて
袴板をバシッと帯の結びより上方に乗せて背中に密着させる。たとえ
稽古着の袴だろうと、帯を締めているのだから、袴板の下は小さな太鼓
状になるように着る。これは絹製帯と絹製袴の場合さらに登城着装のように
シャキッと太鼓ができる。袴板から真下にデレンと袴が下がるようには
稽古時でもしない。



太鼓とはこのような袴の後ろの状態。これが武家の袴のつけかた。
そして、殿中小さ刀は大刀の代わりなのでまっすぐに閂に差す。
厳密にいうと、やや閂ぎみの鶺鴒差し。


鶺鴒差しとはこれ。武家の登城時の礼装での刀(小さ刀=大刀の代わり)
の差し方。落とし差しと完全閂差しの中間よりもやや閂ぎみの角度。

セキレイ






セキレイを観察すればすぐに判るが、尾は45度ではない。
やや閂(地面と水平)ぎみの斜めの角度である。
「鶺鴒差し」と呼ばれるからには、45度ではなく、鶺鴒の尾の角度で
差すのが正しい鶺鴒差しだ。
だが、これさえも理解しておらずに、人のところから局面情報だけ剽窃
して、あたかも大昔から知っていたかのように流派ウェブサイトを変更し、
浅い知識のまま誤謬解説をしている流派もある。
鶺鴒といったら鶺鴒なのだ。だから鶺鴒の尾の角度で差す。オナガの
尾ではないのである。物を知らずに表面だけ盗用すると、そういうことが
分別できずに間違いを犯す。

オナガ


また、鶺鴒とは、通常地に下りたり平坦な岩場に下りる水辺に棲息する
鳥であり、地面に下りる時にその尾をクイッと上げて寝かす。それがセキ
レイの特徴で
あり、他の鳥よりもその動作が顕著であることが特徴である。
江戸期に「鶺鴒差し」とするのには、セキレイが他の鳥よりも顕著なセキ
レイたる特徴があるために
鶺鴒とわざわざ名指ししたのであり、45度の
角度で差すならば鶺鴒ではなく別な
鳥の名でもよい。
地に尾先が触れぬようにククイッと尾を上げるのが鶺鴒の特徴であり、
幕末の北辰一刀流の中段「鶺鴒の構え」は、その鶺鴒の尾の独特の
動きのように剣先をクイックイッと動かす動作をする。だから「鶺鴒の構え」
なのである。ただの中段ならば他の鳥の名でもよい。「鷹の構え」あたり
のほうが勇ましいではないか。しかしそれではない。なぜわざわざ鶺鴒と
命名したのか。それは動きが鶺鴒の尾であるからだ。

こうした歴史的な原理原則に無知であり、実際に鶺鴒を観察したことが
ないような創作捏造流派などは、たぶん45度近くに
差した刀を鶺鴒と呼び、
鳥類鶺鴒からなぜ名を取ったかにまで考察が
及ばず、すぐにサラッ
としらばっくれて尾が45度ほどに瞬間的に尾先が
下がったセキレイの画像
をどこからか見つけて来て追加挿画し、「これが鶺鴒」と
サイトページを改変
するに違いない。確実にそういうことをするだろう。

そのように、何気なくサラッと差し替え等をして、さも昔から知っていたかの
ように
捏造するから、それを時系列で見抜けずに騙されてしまう人も多いの
だろう。
ニセモノはほころび隠しが巧みだ。
そういうのを見抜くには、刀の偽名を見抜くような冷静な観察と看破が必要だ。



ここから先が私の(というか私が通った道場の)オリジナルの方法で
袴紐がずれないように特殊な方法で締めるのだが、
それは非公開。

あとは一般着付けと同じく、東京豊島岡女子高(頭良くてかわいい子が
多かった)の制服の通称「コロッケ」を作る。





できあがり。角帯の真下にコロッケが来る感じ。本当は十文字にする。
稽古の時は豊島岡女子クリームコロッケ。(これは強調するために
あえてやや下にコロッケを作った)



なお、袴紐の前紐と後紐は、現在は後紐を前紐の下にくぐらせる
方式が正式かのように着付けることが一部で見られるが、江戸期の
武士の古写真を観察しても、上部に後紐がくるのが幕藩時代の
正式な結び方と思われる。


鍋島家の裃


刀を差すとこうなる。袴紐の一番下段は刀の下になる。(コロッケは正規の位置にした)

これもねつ造流派は、かつては宗家はじめすべてが袴の最下段に位置
する袴紐の下に鞘をくぐらせていた。
しかし、いつのまにか正しい伝統的な日本武士の帯刀法に変更されている。
これはサイトを見るたびに流派の遠祖がどんどん古くなって行ってることと
共通性の行動様式として見られる。
新派であれば「このように改変しました」ということで問題はないだろうが、
スッとよそからかすめ取り、錯誤に気づいたら何気ない顔でそっと変更する。
流としての心のマコトはどこにあるのかと不思議に思う。


二本差しの時にはこんな感じをお手本に。大刀は「前半」に。
そして、これはコロッケを作らないいわゆる剣道のように袴紐の
端を絡めるやり方。袴は「後上がり前下がり」にはく。



脇差は切り合いの際には落とし差しにするが、通常は閂に差す。
これは幕臣旗本の外国人要人警固部隊。当時のSPだな。脇差は
閂に差している。垢ぬけた絽の羽織を着ているので夏ですね。
後ろ右側は斎藤大之進殿ではなかろうか。



脇差とダブル閂だとこんな感じ。幕臣系に多い。


ダブル閂差しの前差しバージョン。


袴は後ろ下がりには絶対にはかないのは一般和服の着付けと同じだ。
私も右横の先輩もここでの刀の差し方は鶺鴒差しの前半(1992年)。



ということで、私の着付けではこうなります。



土佐居合では落とし差しはダメあるよ。(ハタチの時の俺。笑)

 

 




この記事をはてなブックマークに追加

居合の稽古 〜尾道〜

2016年05月18日 | スポーツ・武道など



昨日のリファレンス・ポイント

攻めの無い俺 体操居合

駄目じゃん(^^;


この記事をはてなブックマークに追加

Practice Kendo At Home

2016年05月13日 | スポーツ・武道など

Practice Kendo At Home


      

抜刀はNuke-toでなくBattoだけど・・・。
たぶん、訓読みだと類推では「ぬきがたな」となるが、それも
日本語にはない。
一応音読みで「ばっとう」と読むのが日本語のならわしだ。
抜刀を湯桶読みはしない。
剣術用語というのは音読みが多いよね。
でも、古流業名の場合、音読みは直截にすぎて業の内容を
察知されてしまうことがあるため、訓読みの優雅な名称にあえて
したりすることがある。
例えば居合の土佐英信流では、「勢中刀」だと、それとなく中身
が判ってしまうので、「月影」と別名を付けて意味不明にしたり、
とか。

ただ、習うほうも覚えやすくなくてはならないというのもあり、剣術や
居合においては「何番」という番号だけでの業名は歴史上まず無い。
地名がそうだよね。数字だけで地名まで表わしたら理解しにくい。
明治維新直後に、東京市内の地名と番地を全部ただの数字に
新政府が強制的に変更したことがあったのね。
あれはどこにどう行けばいいのか東京市民はまるで分からなかった
だろうと思う。
あまりに評判が悪かったからか、すぐに元の地名と番地に戻した
けど(^^;
なんでもかんでも新しくすればいいってもんじゃないよね。
人々になじみ深い物を残しつつ、現代(その時代の)にも受け入れ
られるようにしていかないと、人間社会の住人は機械じゃないの
だから。
明治の御一新は、すべての旧世界の物を徹底的に破壊消滅させ
ようとしたけれど、実生活においてはかなり無理があったのでは
なかろうか。



この記事をはてなブックマークに追加

居合稽古 〜尾道〜

2016年05月10日 | スポーツ・武道など


剣ノ理深シ
口伝有之候

可憐金鏡転
庭上玉房馨

この記事をはてなブックマークに追加

スマホ首に注意!

2016年05月10日 | スポーツ・武道など

スマホ首=前傾首にご注意ください。
血行障害のみならず、多くの疾患の遠因ともなりかねません。

また、居合などの武術をやっている人でも、真横から見たら
人体に適切な正しい立ち方をしていない人を多く見かけます。
これは読書時の姿勢や携帯・スマホを使うときの姿勢が悪い
から、癖となって直立の時にも首が異常状態のまま前掲して
しまっているのです。
これでは、厳しい言い方をすれば、
不健康を誘発すること以前に
武術における立ち姿勢の際の一番大切な軸線
さえもまともに
本当は取れていないことになります。


人体骨格構造と医学的に正しい立ち姿勢。武術姿勢も同。





スマホ首などで、自然に立ったつもりでも首の骨が前傾してしまい、
身体機能が正常に機能しない立ち方(左側)。



骨盤の上に背骨を正しく乗せる姿勢、首を正しく脛骨で支える
姿勢というものを体に覚え込ませないと、非常に内臓や筋肉や
脳の働き
に宜しくない。
ここでは掲載しませんが、首の前傾によるヘッドを支える傾斜に
かかる重量はとんでもなく増加します。まっすぐならば数キロの
ところ、傾斜により負担重量は20数キログラムを超える。
首の負担が増えるだけでなく、前傾した頭を支えるために妙な
バランス取りを背骨と腰でするために背骨が正しく伸びず、骨盤も
ずれる。
単なる腰痛を通り越して内臓疾患も誘発しかねません。

今回は肩から上のことだけしか指摘していませんが、人体には
人体の骨格を形づくっている理由があります。直立歩行を常にする
地球上で唯一の生物として、正しい姿勢を保持したほうが
生存の
ためには適していると私は思います。

居合をやっている人たち。
真横から見ると、首が前傾している人たち多くいるよ〜。
立った姿勢の段階で、軸が完全にずれてます。
私は医師でも健康指導員でもありませんが、武術的な観点からは、

自己を正しく認識して、自分から自律的かつ主体的に姿勢を矯正した
ほうがいいと思います。
宮本武蔵は立ち姿勢について言っています。「うなじをのばし」と。
顎を引くとヘッドトップが前傾しますので首が曲がります。武蔵はさらに
「おとがいを出し」と言います。これは首を前に出しての顎出しではなく、
「顎を引いて首を前傾させるな」ということです。
また、新陰流の遠祖は術義の中で説きます。「つったちたる身」と。
人体の頭が首の骨に正しく乗っていることは健康面から医学的にも意味
のあることですが、武術的にも深い意味のあることなのです。




この記事をはてなブックマークに追加

剣法雑感

2016年05月08日 | スポーツ・武道など

以下の文は、推敲を重ねずに徒然と思いつくままに下書き無しで書き
連ねているので、冗長であることを最初にご理解いただきたい。

<前段の所感>

刀の操作である操刀法というものは、刀術を知らない者にとっては

未知の領域であり、刀の柄の握り方(握り締めはしない。「柄の支え方」
としたほうが正確だ)、刀の振り方は、その道に入っていない人には
不知の事柄であるようだ。
私の娘もそうであったが、娘が通った道場での剣道の場合、半年間は
前進、後退の足運びだけを子どもたちに学ばせる。
そこで大抵の子はふるいにかけられ脱落していく。
半年も週に何度も前身と後退ばかり稽古させられるのが嫌になるからだ。
しかし、剣道では、日常生活にはない独特の足運びと体の使い方をする
ので、足さばきの履修は必修なのだ。いきなり防具を着けての打ちこみ
などはさせない。

真剣日本刀を使用する居合術においても、古流などは幕末に発生した
一刀流系の流れをくむ現代剣道とは足さばきが異なる面もあるとはいえ、
基本的な足さばきは絶対に履修する必要がある。これは絶対だ。
また、居合はそうした身体さばきの「体術」と、刀を操作する「刀術」と、
そして実際に斬りを覚える「斬術」の三位一体によって居合術が居合たり
える。

足さばき、腕の関節の使い方等を覚えた後に操刀術に進む。
いきなり刀を持って振ったり、物を斬ったりすることはない。
最初から刀で物斬りしたりすると、まったく身体の使い方をしらないまま
極めて危険で出鱈目な刀振り回しになってしまう。
また、操刀法を知らないから、まともに抜刀したり納刀したりすることも
できない。
抜刀道なるものでは、剣術・居合術のセオリーを無視して、いきなり刀も
持ったことがない人に物を斬らせて客集めをしたりしているようだが、
これらの目的は「金(かね)」であり、武術として剣術・居合術を人に習得して
もらうことではない。
現実は雄弁に真実を物語る。現実的に、抜刀道のみをやっている人は
まったく抜刀や納刀さえもまともにできていない。危険極まりない。
さらに、きちんとした古流剣術なり古流居合なり、あるいは古流をベースに
した現代居合なりを学んでいない者が長になっている団体もあるが、その
長自身が納刀後の鐔かけを親指を鍔の真上に置くようなことをしており、
いかにきちんとした剣法とは無縁であったかがうかがい知れる。

今回、操刀法のうち、「刀の握り方」は既出であるので、刀の振り方について
述べる。刀の軌道、すなわち刀線についてだ。

<刀の軌跡について>
刀(竹刀、木刀、真剣)を振る場合、一刀流系の現代剣道や土佐系古流
居合の基本としてはまず、真向から真っ直ぐに振る。これが基本だ。刀線は
自分の正中線を通る。
刀の軌跡には、真向、左右袈裟、左右逆袈裟、横水平、突き、が基本となる。
そして、最終的には敵に正対して敵の前に大きな時計盤を衝立のように立てた
として、360度どの角度からでも隙があれば斬れるようにする。
現代防具剣道での打突部位の固定化、および現代居合道での斬切部位の
固定化によるカタ居合の固着等に思考が固まってしまっている人は、斬術
などで畳表や竹などの据物(すえもの)を切る場合にも、決められた「カタ」で
しか切ろうとしなかったりする。
形(かた)を錬磨するために形(かた)で切るのは大いに修練に役立つが、
その形(かた)でしか切れないということに陥るとしたら、それは形(かた)の
稽古でもなんでもないただの形(かたち)だけをなぞった刀振りとなり、
形(かた)を型(かた)に貶めることを実行していることになる。
剣道の場合は、一応規則上打突部位が決められてはいるが、本来ならば、
刀は敵のどの部分に中っても有効である。親指を刀のフクラがかすっただけで
戦闘能力は失われる。剣道で面を打ちこまれて首を振ってそれをかわしても、
竹刀が面布団に中っている。一本は取られないが、それは本来ならば肩口を
斬られているのだから。
しかし、「戦闘行為の訓練」であることを剣の道が捨象しはじめた明治以降、
日本剣道はスポーツと化した。
それはそれでもよい。
また、現代居合道は武術ではなく完全に刀に似た道具を使う旗揚げ判定に
一喜一憂する人たちを量産するスポーツとなっている面があるが、まだ剣道
よりは「敵を斬る」ということを仮想として組み立てている。
だが、現代居合道の世界では、前述したように「形(かた)」を「型(かた)」と
固着思考させてしまう危険性が多分にある。

<何を学ぶか>
構造的に剣を取っての「実戦」が明治士族の乱以降存在しなくなったの
で(日中戦争および昭和大戦の特殊事例は除く)、いたしかたないことであり、
また、袴をはいて日本刀を武器としての実戦などは時代錯誤も甚だしいので、
居合道および居合術において「実戦論」を説くのは論外である。あくまでも、
「いにしえの武士が身に着けていた歴史上の伝統武技」の系譜を引くものと
して現代居合術なり現代居合道を捉えないと、見る方向を誤る。
現代はどんなに思考のベクトルを戦闘モードに無理矢理振ろうとも、現代戦
において袴をはいて日本刀を手に戦闘行為に及ぶというケースは不在で
あるので、日本刀を使う武技に実戦史観を持ち込むのは間違いだ。
ではなんのために学ぶかというと、「温故知新」の一点しかない。
先人が踏みしめて歩んで拓かれた道をたどり、古き武人たちがどのように
稽古を通じて、あるいは命がけで何を獲得して行ったのかを学び取ることだ。
そうした精神作業を自分に対して厳格に行なわない限り、剣術や居合術を
剣道や居合道として「人間形成の場」とすることはできない。
また、現代戦においては、日本刀を武器とはしないので、精神的涵養を
目的としない剣技習得は、単なる長い刃物を使っての殺人技法の習得に
なってしまうので、心の修養が伴わない剣技などは学ばないほうがよい。
これは剣術と剣道、居合術と居合道の区別はない。剣技を学ぶ現代人は
どうあるべきかの根幹なので、刀法技術だけをテクノロジーとして得ようとする
者には剣技などは学ばせるべきではない。
特に刀を使っての物斬りのみに特化したエリアに足を踏み入れると、フルコン系
武術の領域に住する人々がつとめて人的品格に問題があったりすることが
残念ながら多いという現象がみられるように、心のないただ戦闘武技だけを
錬磨したハートが不存在の族(やから)となってしまう。
現実的に剣術を標榜する人たちにおいても、極めて品性下劣で己の武技
のみを誇り他者を排撃することのみに躍起になっている危険な精神領域に
入っている人は多くいる。
いくら武技のみを学んでも人間の人格や社会的良識は形成されない。刃物や
身体を使っての人殺しのテクニックが身に着くだけだ。(軍隊におけるマーシャル
アーツは殺人戦闘武技であるので目的が一直線に明確だが、現代武術・武道
はそれを目的とはしない)
そういうのは剣の道でもなく、また剣をかつて帯びた治政を司った武士が目指す
ところでもない。
剣の世界は、たとえそれが術であろうと道であろうと、「人の為になる」という
人間性が作られることに寄与しない限り、現代ではまったく意味がない。
人間形成を無視する剣法などは一切やらないほうがよい。
人は人から学ぶ。そして、賢者はさらに歴史から学ぶ。
今はもう生きていないいにしえの人が残した貴重な訓を学び取る材として、
そうした何ものにも代えがたいものが詰まったタイムカプセルとして、先人が
後の世にまで残し伝えた伝統武技は学ぶべきだろう。

<刀法 −袈裟−>
剣道をやっている人ならばごくごく基本的なことで小学生低学年の頃に
学ぶことだが、剣道にノータッチだった人は未知の領域のことがある。
真っ直ぐに真ん中を切る「真向(まっこう)」の場合にも、体と刀(竹刀、
木刀、真剣)の専門的な使い方がある。
これは、大工さんがノミやカンナの大工道具を使うように、あるいは料理人
が包丁を使うように、お百姓さんがクワやスキを使うように、それぞれの
分野にはそれぞれの専門的な道具の使い方というものがある。
剣法においてもまったく同じであり、刀には刀の使い方がある。
真向切り下ろしは意外と身に着けやすい。これとて、基本を教わらないと
自己流では絶対にまともな切り下ろしはできない。
なぜ先達の士から学ぶことが必要かというと、近道だからだ。
学校になぜ通うか。これは教育水準を上げて国家社会を知的で豊かにする
こともあるが、具体的な内実としては、先人が解いた知を学として学ぶ
ためだ。赤ちゃんが教育を受けずにそのまま育ってピタゴラスの定理を
発見するだろうか。

剣法も同じで、先人が切り拓いた術技を存命中の練達の士から学ぶことで
限られた人生の中で身に着けるために人から学ぶ。自己流のみでやると
したら、歴史上の先人たちが到達して獲得した領域を一からの「発見」から
スタートしなければならなくなる。
そうした無駄を排除し、効率よく、自分の存命中に成果を上げるためにも
先人の「先生」から学ぶのである。
学習には座学と実技が車の両輪で、そこに実践が加わる。書籍や講義だけ
聴講する座学だけでも駄目だし、また理論なき実技も全く意味を成さない。
さらに理論と実技の実践なくば、絶対に大成されない。技術が術技の領域に
さえ至らない。
まず、正しい理論を学び、技術の仕組みを覚え、それを錬磨して習得し、
実践を経て開眼して行く。
剣法の道程はこれしかない。
精神的な心は、実践している人から何かを学びとる。
師は弟子を選べないが弟子は師を選べる。「師を選べ」とは昔から云われる
ことであり、心がない師に就いても得るものは心の「ダークサイド」だけだ。
師と弟子という関係性でいえば、弟子の方が優位性がある。「ろくでもない
人間」を師として選ぶことを拒否できるからだ。存外、武術家という人たちには
人品高潔な人物は少ない。特に、武芸売りを専門職としている者で人格高潔
な人物には私はお目にかかったことがない。多くが狡猾で金に汚く、さもしく
邪(よこしま)な目の光り(=濁り)をしている。残念ながらこれは現実だ。
また、いくら技術のみが突出している人であろうと、あるいは精神面が人格者
であろうと、その両方が両立していない人から学ぶ意味は希薄だ。
真の剣技は、高次の領域に行けば行くほど、人間的な懐の深さが出てくる。
理由は簡単だ。
そうでないと、死んでしまうからだ。権謀術策が人間の社会では張り巡らされて
いる。真の剣技の高次元領域に達した人は、おしなべて温厚である。だが、
いざという時には毅然と事態に立ち向かう。そして、人柄は丸くとも隙は一切
ない。それが剣士だ。

さて、本題に戻る。
袈裟切りにおいては、剣を取ったことがない人は、まるで野球のバット
やゴルフのクラブのようなスイングをしてしまいがちだ。
だが、日本刀の場合、支点と力点と作用点の位置取りと意識的設定が
とても大切なので、「特殊な振り方」をする。
理由は「そうでなくば切れない」からだ。ただこの一点である。
剣法のうち刀技においては、すべて「ただ敵を切るため」の一点に集約
される。それを先人たちは開発して残し伝えてきた。

剣術における袈裟切りの基本は「左拳は常に己の正中線を通る」という
ことだ。

赤線が自分の正中線である。
青線の横面を切る場合も、黄色線の肩口から鎖骨を切断する場合も、
緑線の胴を袈裟に切る場合も、すべて左手の柄手は己の正中線を
通る軌跡で刀を振るのが基本だ。
なぜ「基本」かというと、人体の場合には身幅があるため、あくまで
左拳正中線が基本ではあるが、切り抜くためには多少それが可変
する。
また、己の右からの左袈裟で体を右に(敵の左側に)スッと移動させ
る体転を伴いながらの袈裟切りの場合は、さらに複雑な動きになる。
だが、基本は左拳は己の中心軸からは外れない。

体転を伴う袈裟切り。切り抜いた瞬間から慣性は抜重技法により
完全収束させて剣を静止させる。左拳は己の中心軸から外れず、
切先も敵方向から外さない。


これも同。これは刃引き刀による切断だが、上掲の画像もこれも体面
が被切断物に正対していないのは、それは右方向への体転を伴う業
で切りを行なっているからだ。これは物体と体の位置関係を観察して
読み取れる人には読み取れることだろう。



<袈裟切りの際のエイムポイント>
剣道においては、「切り返し」の稽古を必須とするが、そこでは左拳
が己の中心軸をぶれず、竹刀を担がないことを確認する。
また、初心者のうちは、竹刀での稽古では打ち込み稽古で打突部位を
見たほうがよいだろう。あるいは真剣での物体斬りにおいても、斬切の
入刀ポイントを見た方がよいだろう。
だが、これはあくまで初心者のことであり、錬磨が進むと、打突部位や
斬切部位などは見ていない。遠山の目付のまま、全体の動きやポイント
を察知している。「目付け」とはウォッチの凝視のことではなく、シーの
全体像を捉える方向に目線を向けることである。
このことは300km/h→60km/hに急減速するレ
ースの世界でも同じで、
レースの技術で言えば、コース上のブレーキングポイントである目視点の
標識たる「リファレンスポイント」(これはレーサー全員が各自持っている)
を意識はするが、それを凝視することは決してしない。ふとぼんやりと
眺めるのみでピンポイントを察知できる。例えば昔の筑波サーキットで
あれば、直線で前を見ているがリファレンスポイントであるガードレールの
切れ目が視野を通過した瞬間地点をブレーキ開始に設定する、とかが
それだ。
こうしたことは錬磨によって、「そのもの」に視点を合わせずに全体像を
把握する中でピンポイントをも察知できるという、そういう能力が獲得でき
るのである。
飛行BB弾を抜き打ちで切る修心流居合術兵法の町井勲先生は視力は
それほどよくはない。
だが、武技を知らない人たちは「すごい動体視力だ」などと評したりする。
町井先生は凝視したり目視でピンポイントの捉えなどしていない。
野球においても「球をよく見ろ」と言われるが、見て合わせていては
バットは確実に振り遅れる。
飛行物体や素早く動く物にヒットさせるには、上述の「全体像で捉える能力」
に加えて「予測能力」という特殊能力が先鋭に錬磨されていなければなら
ないのだ。
素早い動きの剣道においても、いちいち相手が打ちこんでくる竹刀を
見ていては後の先(せん)なども取れない。いわゆる「遅れを取る」という
もので、自分が先(さき)に打ちこまれて負ける。
剣道の場合は、小手などの拳や、敵の目の動き(まぶたの開き具合)
などでかかりを察知しておこり以前にこちらから先(せん)を取ることも
可能だが、矢や手裏剣などの飛行物体を切り落としたりかわしたりする
のは、すべて目視によってのみでは不可能だ。「予測する」のである。
しかも左脳で理論的に解析するのではなく、動体能力として反射的に
予測できるように自分の身体をそこに持って行くのである。
それが錬磨だ。

こうした能力は、静止物体である「据え物切り」をしているだけでは
絶対に身につかない。
形(かたち)稽古ばかりしている居合の剣士などは、動的訓練を積んだ
昔の剣士と対峙したら、たちどころに斬り倒されてしまうことだろう。
そうした「暗愚」なカタチ稽古の居合にならないためにも、据え物で
刀の動きの仕組みを理解したら、形(かた)ではない「自由斬り」による
その場での思いつきで斬っていく稽古も必要になってくると思われる。
どんなことでも自由自在に刀を扱え、「切ったり」あるいは「斬ったり」
することが刀法としての静止物体斬術稽古になる。
あらかじめ抜刀して、据え物の前に進み、足を止めて固着させ、
刀を伸ばして間合いを計り「えいやっ」と斬る、というようなことは
武術武道武芸とはまったく一切関係がない。それらは武技とは別ジャンル
のことである。それはあたかも、ゴルフの打ちっぱなしでの練習が
コースを回るゴルフのプレーではないのと似ている。トンカチでいくら
釘打ちができても、物や家を作らないトンカチでの釘打ちは意味がない
のと同じだ。
剣法の剣技であるとせんとするならば、静止物体に抜き身で接近して
足を止めて切るというものは武芸とは無関係な行為だと知ろう。
そして、そうした日本刀使用法は、「動かぬ捕虜の首切り」に似ている
ということにも気づいてほしいと願う。

稽古として静止物体を切る場合も、本来は全体像こそがエイムポイント
であるのだが、巻き畳表の場合も巻き藁の場合も、斬り込む入刀点
ではなく、斬り抜ける点に意識を持って行ったほうがよく斬れる。
また、切断はプリンをスプーンでえぐるような曲線軌跡にはさせずに、
直線的にまっすぐに切断することが大切だ。

土佐居合の古流においては、業によってはえぐるような刀法も存在
するのであるが、それは基本技術を身に着けた剣士が行なう高度な
術の範疇であり、物体斬りの基本は「真っ直ぐに直線軌跡」である。
それを刀身が湾曲し、さらには断面が曲面になっている日本刀を
使って
三次元的な要素をクリアして切り落とすのであるから、基本とは
いえ、これはやはり基本なりの「術」なくば達成できない。
最初から刃を傾けて刃筋を取るなどという刀法は存在しない。敵が
あらかじめそこにいてくれるということは万が一にもないからだ。
それは首切り用法であって、対敵動作たる剣術・居合術ではない。
(首切り用法としてもあらかじめ刃を傾けて刃筋を決めるなどという
ド素人用法は存在しない)

また、操刀法が正しく(剣法における「正しい」とは、適性が最大値で
発揮される効果のこと)、刃で切るのではなく刀法と刀身で切るという
ことができると、刃引刀だろうとある程度の物体は切断できる。
雨傘の先で長く伸びた草の茎をスパリと切断したり、あるいは竹刀で
新聞紙を破くのでなく切断したり、名刺で割り箸を折り切ったりできる
のも、合理的な物理現象を刀法の理によって現出せしめているからだ。
だから、剣法においては「刃味」のみに頼って小手先だけで竹を切ったり
しても、それは剣術の刀技の核心領域には直結しない。
刃を使っての切りも剣技の中には存在するが、刃による切りはあくまでも
コンプリートとしての術の中の「一部分」でしかなく、そうした小手先技術
に固執するのは術の深淵を見ることをしておらず、底が浅い。

剣士諸氏におかれては、よくよく吟味工夫されたし。


−関連事項−

柄の握り方

刀の柄の握り方

刃筋

刀法

切ることと止めること

刀を曲げてしまうということ

剣法についての所感および所見は、「ブログ内検索」で好きな
キーワードを入れて検索していただければ、私の所見がヒット
します。


この記事をはてなブックマークに追加

目が肥えることは見る目ができてきたという事

2016年05月06日 | スポーツ・武道など

斬術 -二代目小林康宏- 1992年 Katana Cutting - Iai -

2011/07/22 にアップロード
刀:小林康宏(二代目)、二尺三寸六分、鞘を払って1200g

無双直伝英信流 全剣連二段時

鞘払い1.2キロの小林康宏刀を使って無双直伝英信流一本目前を
抜く
24年前の私。全日本剣道連盟の二段の時。
細かいところがてんで駄目な点ばかりというのが、今ではよくわかる(笑
0:09からの「あいつったら俺が使えっつったら使っちまえつってる
のにな」
という先輩の呟き音声は無視で(^^;
江戸弁の方言なので、ヒヤリングできない人は意味不明と思います(笑

こちらは三段になったばかりの時。今から22年前の私。
細かいところがてんで駄目な点ばかりというのが、今ではよくわかる(笑
無双直伝英信流 -Muso Jikiden Eishin Ryu Iaido Japan-
2011/07/22 にアップロード
1994年 橋本先生追悼演武会 於:川崎市
 一、初伝 前 syoden-mae
 二、初伝 月影 syoden-tsukikage
 三、中伝 颪(替業) chuden-oroshi
 四、中伝 岩浪 chuden-iwanami
 五、奥伝 信夫 okuden-shinobu
演武:神奈川県剣道連盟所属 全剣連三段時/剣弘会
使用刀:池田法久(新潟)、二尺三寸四分(鞘払い1060g)
This movie was taken when I was 3 dan in 1994.

ただ、細かいとこは駄目だが、良い点としては師匠に姿が
似ている
というところもある。土佐藩伝承居合、無双直伝英信流第17代宗家
大江正路(まさじ)先生からの皆伝者山本晴介先生直系。私は意識は
していないが伝系からいくと私は第17代大江先師の曾孫弟子という
事になる。


私は鞘のこじりを床にコッツーンと当てて音を出すような武術理合無視の
カタチばかりの体操居合のような不心得は決してしないが、師匠のように
きちんと「鞘戻し」で鞘の角度を閂ぎみの鶺鴒に戻すことが
できていない。
これは腹からの気が抜けて緩みがあるからだ。極めて未熟。この時、初段。
気で張ることと力を入れることは次元の異なることである。居合において
「力を入れる」という場面は全場面においてほとんどない。「気をそこに
落として張る」のである。




最近の俺。緩みっぱなし。




 


この記事をはてなブックマークに追加

【再戦】「なぎなたvs剣道 団体戦2」

2016年05月03日 | スポーツ・武道など

【再戦】「なぎなたvs剣道 団体戦2」


え〜っ?最後の面、なんやあれ。
女子高生応援しちゃうな(^^;


この記事をはてなブックマークに追加

失われた柔道?!圧巻!三船十段の秘技「空気投げ」と現役の有段者との乱取り!

2016年05月03日 | スポーツ・武道など

失われた柔道?!圧巻!三船十段の秘技「空気投げ」と現役の有段者との乱取り!


本物のヤワラ。
昔の柔道の素晴らしいところは、新開発の業であろうとも
それを新設だからと拒否したり、古流を盲目的に崇め奉って
権威を利用してハクを付けようとしたりしなかったことだ。
本物の誠の姿がここにある。



この記事をはてなブックマークに追加

【マン島より危険!?】オリバーズ・マウント 激狭農道サーキット

2016年05月03日 | スポーツ・武道など

【マン島より危険!?】オリバーズ・マウント 激狭農道サーキット


わあ。名古屋の東山公園の一通周回コースみたい(笑)
今は廃道になって路面がなくなったから走れないけど、昔はあそこ
は低速コーナー連続なのでバイクは
小排気量が強かったよ。
おいら、カワサキAR-50で走ったす。ARでVT250あたりはカモ。

つか、この動画撮影してるおっさん、インを外し過ぎてるし、
かなりヘタッペなんですけど・・・(^^;
コーナーが速度出せないコースだから、あんまし面白い
コースとはいえないように思えるし。


この記事をはてなブックマークに追加

平成28年京都大会 居合 範士八段庄嶋弘介先生 86歳

2016年05月03日 | スポーツ・武道など

平成28年京都大会 居合 範士八段庄嶋弘介先生 86歳

2016/05/02 に公開
平成28年京都大会 居合 範士八段庄嶋弘介先生
86歳範士による無双直伝英信流居合 中伝「横雲」
於京都武徳殿 (撮影日:2016年5月2日)

Quick Draw Iai-Do Demonstration by my teacher Hanshi 8 dan Kousuke Shoujima 86 years old.
The name of this WAZA(skill and style) is Yokogumo as clouds lie like a wave, but it is not a lie, it is true.
As if, as for it, my teacher does not fall down.
at Kyoto Butoku-den on May 2, 2016.

------------------------------------------------

昨日の私の師匠です。(撮影日2016年5月2日)

中伝、奥伝のファーストドロウでの抜き打ちでは鯉口を完全に塞ぎません。
真向切り下ろしは刀身の真円の円弧運動ではなく、楕円軌道の刀線で、
敵の頭上の真上からは真下方向に切り下ろします。切り下ろしは「切り下ろし」
であって「切り回し」ではありません。これは横抜きつけにも通じる刀法の
剣理で、横抜きつけでも遠心力利用の振り回し切りなどはしません。
正しい刀法でなく振り回し切りで横に抜きつけようとすると、まず鞘を削ったり
割ったり鯉口を切ったり手を切ったりします。
パンタグラフのような効力で刀法によって「刀身で」切ります。(今ここでは
便宜上、「切り」と「斬り」を弁別せずに「切り」で統一して表現します)
また、私の師匠の動画にもあるように真っ向切り下ろしは頭蓋を切り下ろした
直後から慣性モーメントを抜重によって横ベクトルに変換させて刀身をピタリ
と停止しています。一切力では刀を止めていません。
僅か1センチほどベクトルの指向性を手元側に可変させるだけで刀身はピタリと
止まります。力で止めようとすると、肘を傷めたり身体を壊します。それは、
高速で走行する車が壁に激突して停止するのと同じだからです。
また力技で刀身を止めようしても止まらず、刀身が上下もしくは左右にぶれ、
対敵動作としての剣理にも適っていません。
正しい真っ向切り下ろしと刀身の静止ができているかどうかの自己判断は、
ツナギや竹光などの木製軽量刀身を思いっきり振り下ろして止めてみた時
に判ります。しなりやすい軽い木製刀身が一切縦ブレの「お釣り」がきたり
横ブレしたりせずにピタリと止まるかどうかで、正しい刀法を実行できている
かどうかが自己判断できます。
超軽量の刀身よりも重い真剣のほうがぶれずに止まりやすいのですが、
正しい切り下ろしができていないと、重い真剣日本刀を使用しても刀身が
上下左右にぶれて静止ができません。
以上は、物理法則の仕組みと、剣技としての対敵行動の戦技メソッドとして
居合剣法を正確に真正面から真面目に捉えない限り、見えてこない剣理の
一つです。
(切り下ろし抜重メソッドについては、詳細は口伝)

 

 


この記事をはてなブックマークに追加

動作・所作・姿の理由

2016年04月29日 | スポーツ・武道など


(師匠 範士八段)

全剣連の有段者になったばかりの人と居合談義をしていて、「抜重」の理論に
ついて詳しく説明した。
さらに、基本的な抜きつけについて最重要なことを教えた。
こうしたことは「口伝」に関することなのであって、教科書には載っていない。
しかし、昔から武人が伝えた
体術の基本についての事柄だ。
武技というものは、すべて理由があってやっていることで、見世物や殺陣の
ように
カッコよく見せるためなどの目的では構成されていない。

有段者の人にあることを私が実験して見せた。
その人の抜きつけの状態から、ある場所を私がツンと押してみた。
嘘みたいにマンガのように
ガバッと体が一気に崩れ落ちた。「え?」と声に
出している。「なんで?なんで?」とも。

そして、それから正しい体の使い方を教えてそれをやってもらい、同じように
体に触れてみ
るとまったく微動だにしない。相手は一切力を使ってはいない。
その時も「え?なんで?」と言っていた。
刀技においても、誤った身体の使い方をしていると、
ほんの些細な外力が
加わっただけで体がガクッと崩れ落ちるという現象が
起きたりする。
これは大きいよ。知るか知らないか、できているかできていないかで、
世が世なら生死を分ける。できていないことを見抜く敵が近接していたら
即座にやられてしまう。

私も初段〜三段くらいまではその術のその所作の原理の意味が解って
いなかった。

今、初段当時の私の動画を見ると、私も「間違ったこと」をやっている。
現在はそのこと
に関しては間違ったことはやっていない。
しかし、世間を見ると、刀技においても、実に多くの人が「間違った事」を
やっている。意外と(というか、かなり)高段者になっても。「敵がいたら
やられてしまう居合(風)」を抜いている。残念ながら。

この部分的なことに関して言えば、私の師匠は一切間違ったことは
やっていない。
そして、こうしたことの内実については、公開はしない。
間違ったことをしている本人たちは、それが良かれと思いこんでやって
いるのであるし、高段者になってもそれなのだから、言っても今さらジロー
なのである。こういうことは一秒でも早いうちに気付いた方がいいので
あるのだが、世の中、妙なプライドという得体の知れないものがはびこって
いるようで、術技の進展を自ら阻害している。

私は段位経験値に関係なく、正しいことを実行している人からはどんな
些細なことでも吸収したいと考えている。
だが、経験値と成否は比例する場合が多いという悪しき現象があるとこと
が一つ、また一般的には経験値が高く継続年数が長い人は「正しい事」を
やっているかのように思いこむ誤謬が一般的に世間では蔓延していると
いう誤った認識が存在するということ、この二点により、正しいことを正しい
と見抜けない環境があったりする。
高段者だろうが、経験が長かろうが、間違っていることは間違っている。
ただ、それを指摘したり、それを「悪い例」として実直に捉えて改善を図ろう
とする姿勢が武術界には希薄である、という負の性質が存在している。
私個人はそれらの傾向性を一切否定する。
正しい物は経験や年数などは一切関係なく採り入れようと思っているし、
段位経験の上下関係なく指摘はすべて受けて、それを吟味咀嚼する。
取捨選択して見極めるのは私自身であり、情報収集そのものをくだらぬ
プライドというものなどで拒否することは私は一切しない。そういうプライド
なるものこそが「心の弱さ」であり「技の弱さ」に直結すると確信しているから
だ。
人から指摘されたり教えられたりするのは幸いで、人からの指摘を拒否
するシステムの中にいる人は、自己検証して自問して覚醒するしか手立て
はない。もしかしたら、一生気づかぬまま終わるかもしれない。
だが、平和な時代だからそれでよいのかもしれない。それによる「死」は
訪れないのだから。
私は、「死」については、日常的に死はそこらに転がっているものだと思って
いるし、己が死することそのものについては何とも思わない。どうせかつて
死んで当然だったところをたまたま拾った命だし、その後の絶体絶命の状況下
でも運よく命は何度か拾って生還している。だからこそ、生死に関しての己の
スタンスは他の一般人よりはこだわりたいと思っている。
「決死」を覚悟しても、死ぬか生きるかは時の運でしかない。
ただ、己の不用意な野放図な無知により、状況下でも死を不必要に身近に
引き寄せる愚は犯したくはない。


刀術の武技については、「きちんとできている人」の画像でも動画でも
ちゃんと見抜いていれば把握できる。
「何が違うのか」「何がどう違うのか」「なぜ違うのか」ということを見抜けるか
見抜けないかで
武技系の上達進度は著しく異なって来る。
刀を使った健康体操のように剣技を捉えていては、到底武技の要諦には
到達できない。


居合は体術。
この定理は揺るぎない。
ただし、集団乱戦の白兵戦には一切使えない。


この記事をはてなブックマークに追加