渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

小太刀

2016年12月05日 | スポーツ・武道など



本物古流派の方から、抜き即斬のごつい小太刀木刀をいただいた。
かたじけない。

偶然にも、以前私が手作りした小刀木刀と寸法が一緒だ。
これは使い勝手がいい!


流派の紋処らしきものが彫刻されている。


木製食器用グレープシードオイルを塗って丹念に磨くと、


バッチグー!


削りたての白木がようやくイスらしくなった。
武具の手入れ、これ大事。


あ。そういえば、木刀製作作家から頼まれていたサンプルの
二天一流の木刀、まだ貸し出した
道場の人から回収していま
せん。ごめんちゃい。


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土佐居合の教え

2016年11月25日 | スポーツ・武道など


通信講座ではないが、同流剣士からの刀理についての問い合わせに
昨晩返信した。

土佐英信流本伝の教えに「刀の重みで斬る」の段之有候。
また、「切り抜いた刀は止める」と。
何れも力技は使わない。

江戸期から残る居合の伝統流派である土佐の英信流においてはごくごく
常識的なことだ。
というよりも、剣術においてもかくなる操刀は基本なり。
外連まみれの足止め位置からの物切り振り回し競技とは位相が異なる。

ただ、物切り競技を私は否定しない。
それはそれで別ジャンルとして成立すると考えるからだ。
ただし、それを以って古流剣術居合を語るのは滑稽過ぎる噴飯ものにて
笑止。井蛙大海を知らず。

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刀の取り扱い

2016年11月21日 | スポーツ・武道など



伝統武技の刀術としてこういうことを稽古としてやるのと・・・



お笑いネタでこうやって刀の切先を舗装地面に杖がわりに
着けるのでは、まるで位相が違うと思うよ。


馬鹿な悪乗りとして「女体盛り」というのがあるでしょ?
あれを本職の料亭の板前にやってくれと言ったらどう思い
ます?
怒りますよ。
あんなのは、日本料理である以前に、料理でもなんでもない。
また、あれを「料理」のネタとしてやったらどうなる?

それと同じことを、いくら悪乗りお笑いネタといえども、「遊び」
ですからとやっていいのか。
私はやってはいけないことだと思うけどなぁ。

「ごっこ」でも「遊び」でも、なんでも一線というものがある
でしょうに。
例えば、強姦された女性を前に「ヒャッホ~!レイプごっこだ~」
とかやる?
9.11テロごっこだ~、とかやる?
ゲットーのガス室のユダヤ人殺しごっこだ~、とかやる?
それらと同じだと思うよ。「ある一線は絶対に超えない」という
ものは。
「遊び」、「お笑い」、「ネタ」だからと、なんでもやっていい
という道理は絶対にないし、やはり所さんの模擬刀杖がわりという
のは、泥だらけの土足で所さんが作った料理の食器をどけるような
もんだと思うよ。
「刀」についての扱いは、所さんは、かなりいちびりすぎやと思い
ますけどね。
関東弁で言うならば、「調子こいてんじゃねえぞ、ゴルァ」という
ところ。


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ノムさん(笑)

2016年11月19日 | スポーツ・武道など

ノムさん
「大谷、インチキだろ!菊池、ヒゲ剃れ!中田、いいケツだなー(モミモミ)」


ノムさん・・・笑。

日韓戦、大谷無双!
【大谷翔平 vs 韓国】


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球審カメラから見る野球

2016年11月19日 | スポーツ・武道など

球審カメラから見る野球が超ヤバくて興奮するのでまとめてみた


こりゃ面白い!


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畳表の試斬

2016年11月15日 | スポーツ・武道など

日本刀の試斬は主として巻き藁が古来より多く用いられてきた。
だが、戦後、藁(イネ科の稲や麦の茎)は入手しにくくなった
ことと、後始末が大変なので、代替物がないかとなった。
そこで、巻き藁に代わる物として、畳表を巻いて水に漬けて切る
ことが康宏刀試刀家だった小幡利城氏によって考案された。
爾来、国内ではイグサ(イグサ科植物)を織って作られた畳表
が巻き藁の代替物として使用されることが流行した。
そもそも、藁とはイネ科の植物の茎であり、イグサのことは藁とは
呼ばないので、イグサの畳表
巻きのことを「巻き藁」と呼ぶのは、
この日本刀試斬の歴史に
ついて無知蒙昧、あるいは歴史性に無頓着
な者たちが好んで使う呼称なのである。日本語をないがしろに
している時点で、剣技はもとより、日本の伝統から逸脱している。

タイヤはハンドルではない。別物は別物なのだが、日本刀技法
試斬について無頓着な者たち、日本の歴史を軽んじる者たちは

無思慮に現在も畳表巻きのことを「巻き藁」とか「マキワラ」と
呼んでいる。論外である。

さて、そのような畳表なのだが、とりわけ初心者や素人に多く
みられる誤解がある。
それは、「青い新畳のほうが切りにくい」とする誤った認識だ。
これは実に知見が薄っぺらだ。
青畳は青竹のように勝手に裂けるように切れて行ってくれる。
一方、古畳表は、繊維がほぐれており、ショックを吸収しやすい
ので、実はかなり切り難い。
ところが、これらは、刃筋をピシッと立てた、正しい運刀と操刀
ができるレベルの者の話で、刃筋を曲げて、被切断物をぶっ叩く
ような運刀しかできない者は、その誤認しやすい感覚から青畳表
のほうが切りづらいと考えたりする。要するに本質からは乖離
した誤謬を誤認のまま真実だと脳内で思い込んでいる。

畳表に刀身が接触した瞬間に刀身を大きく曲げて「曲がりが戻る
反動で切れ味を増す」などという、日本刀刀法には存在し得ない
キテレツな事を言っている自称「上級者」には、到底この物事
の本質は理解不能だろう。

ケブラー繊維のヘルメットやボディアーマーがなぜ銃弾や砲撃の
金属片を防げるのか。
硬物はスパッと切れるのに、なぜ巻いたトイレットペーパーは
切れないのか。
考えてみても物理的な原理、物事の道理が解りそうなものだが、
どうやら自称宗家や自称上級者や自称達人たちという人たちは、
科学的な検証
や鑑識眼、さらには自分自身を冷徹に見つめる眼を
持っている人が存外少ないのかもしれない。

尤も、動画や雑誌などで見られる、刀身の大曲げ状態で物体に
日本刀を殴りつけている時点で、刀技としては完全にアウト!
なのだが、それさえも自覚せずに横柄に上から目線で人に自慢を
したがる人も多かったりする。
未熟なくせに偉そうぶるのは勝手だが、嘘情報を以て居丈高に
振舞うのはいただけない。初心者の誤認者を増産するからだ。
私は過去に「古い畳のほうが切りやすい」と言ったことはあるが、
それは知見のレベルにおいて、内実が異なるのである。
すべて「刃筋がきちんと立てられて、運刀の刀線と刃波が正確
に決められる者」という私個人の知見における大前提があって
のことなのである。

私がフライフィッシングをこの上なく好むのは、餌やルアーに
比べて一番「釣れない釣り(一般的には)」だからというのも
ある。通常はフライフィッシングは「難しい釣り」とされる。
通常は。
だが、私はフライのみでイワナ職漁師のように数を釣る。
それはなぜか。私にとってはフライが「釣り易い」からだ。
なぜ、一般的には「釣り難い」とされる釣りが私にとっては「釣り
易い」のであるのか。
その答えは、職漁師が餌などを使わずにフライという毛鉤のみで
餌よりも数を釣ることに示されている。
つまり、一般的に流布している情報は明らかな誤認と誤謬を内含
している、ということなのだ。
カチリとラチェットが合わさったように物事の本質に肉迫して
技法が決まった時、一般的に無思慮に流布されている偽情報は
その本質からの乖離性を露わにする。
これはどの分野においても、同質のことがいえる。

畳表は、明らかなことがある。
きちんとした釣りができる人がフライフィッシングを難なくこなす
ように、きちんとした切り方ができる剣士は「青畳表は簡単で、
古畳表こそが実は微細な部分で難しい」ということについて知見を
有している。


どうせならば、刃引きで、刀も曲げず、スパッと切れるように
なってから、せめて試斬については語っていただきたいものだ。

(刃引き康宏刀での試し/超古畳表)


(刃付け康宏での試し/古畳表)


(刃付け康宏での試し/古畳表)


(刃引き則光での試し/古畳表)


(刃付け則光での試し/古畳表)


(刃引き則光での試し/直巻き)




新畳表と古畳表がどう異なるのか。
私は上記のように私自身の知見を述べたが、検証した外国人が
いる。科学的なメスを入れて、実験している。
結果は、私の論の通りである。

⇒ こちら


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女子アスリート

2016年11月04日 | スポーツ・武道など



この女子プロ野球選手がとても可愛い。
プロ野球選手とミュージシャンという二刀流?
ええんちゃう?


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早実優勝 高校野球秋季大会 ~東京都~

2016年11月04日 | スポーツ・武道など



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昨日、固唾を呑んでTVで観戦していたけど、いや~、
まじもんですんごい試合でした。



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反復練習の大事

2016年11月03日 | スポーツ・武道など



私もやっている手の内だが、盗める手の内がここにある。
固着させない、状況により変化させる可変の手の内。
流派によっては「一度柄を握ったら動かさない」というもの
もある。だが、私もそうだが、土佐本伝居合系は居着かせず
自在に可変する。
片手打ちの場合と諸手では手の内の在り様が違うように、
斬る
状況次第によっても最適な効力が発揮できるように握り
や手の内は可変させる。
これは、
刀法における、ごく自然の理(ことわり)であると
私は考えて
いる。

向きが上掲画像とは逆の逆袈裟のために肝心の部分が
見えないという
ライダー1号(改)の変身ポーズ。実は
上の町井宗家と全く同じ
手の内を用いている。



修心流居合術兵法 刃筋確認(2016.10.31)


「僕は反復練習はほとんどしません」と町井宗家はうそぶく。
だが、それを読んで私はニヤリとする。
基礎訓練等、自己メニューをこなさずにあそこまでの
剣技を
身に着けられるはずはない。

現実は、町井宗家にあっても、己の技術の確認検証のため
には、何度も何度も同じ刀技を繰り返し反復して確認する。
事実、この動画でも、陰で日々励行している努力の一旦を
公開している。
これにより何を学び取り、何を見逃すかは、観た人次第だ。


この反復練習や確認行動は、ヒンズースクワットのように
ただやみくもに回数をこな
せば何かが得られるというもの
ではなく、明確な「目的」と「目標」
が「指標」として自己
内部に捉えられていないと真の意味での術技習得の成果は
ない。

脳味噌筋肉愛好者の繰り返し反復訓練などは、術が根幹で
ある
剣の世界では全く意味を成さないが、基礎訓練と確認
作業なくして確かな技の
術が身に着かないのも確かなこと
である。


そのためには、「正しい」ことを知的に脳で理解する必要が
ある。

何も考えない反復訓練に快感を覚える脳味噌筋肉組が得て
いる
快感は、これは医学的にいっても、脳内に発生している
ベータ
エンドルフィンという脳内麻薬によるもので、それに
脳味噌筋肉
組の者たちはラリっているだけのことなのだ。
そして、自分の体をいじめることが「鍛える」ことだと誤信
し、ただ
肉体を酷使して脳内麻薬が出て得られる快感に酔う。
脳筋者は
麻薬中毒者であるともいえる。武術の術者ではない。
「頭を使え」と教えられたら頭突きの訓練を繰り返している
ようなものだ。


武術の術者は、極めて冷徹に自己解析をして、何を採り入れて
何を捨象すべきかという識別能力を有する。
その上での検証過程の反復確認は、極めて有効性を有する稽古
であるといえる。
これは、間違いがないことであると、私は経験則から断言でき
る。



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親子で演武

2016年11月01日 | スポーツ・武道など



親子で演武、いいもんだ。


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引き金には指を掛けない事

2016年10月30日 | スポーツ・武道など



真剣日本刀をきちんと扱えない者は、模型である模擬刀を扱っている
段階から真剣日本刀の取り扱いの準備がまるでできていない。
そのために、真剣を使うと何度も何度も馬鹿であるかのように手を切る。
「危険だからそういうことはやってはいけませんよ」と先生や先達が言っ
てきたことだろうに、人の言うことに聴く耳を持たないからそうなる。
正しくないから正しく安全なことを教え伝えているのに我流のみに拘泥し、
安全対策を実行しない。
そういうのは、自分だけが可愛いくせに、結局我田引水の傲慢高慢が
ゆえに自分の身さえも守れない。自分の身を守れない者は他人に対し
ても無頓着だ。だから、刀の場合、鍔がカチャカチャ鳴るほどに目釘が
緩み傷んだままでも刀を振り回したがるという不届き者が大手を振る。
そういう連中は、本来は武用の世界からは即刻消えるべきだ。

また、真剣日本刀はまだ自分の体を自分で好き好んで傷つけているだけ
からよいが、これがこと「銃」となると、実銃であろうと、エアソフト
ガン
であろうと、完璧に本式に則った扱いをしないと重篤な事故が起きる。
実弾ならば命中すれば中り所が急所ならば死に至るし、エアソフトガン
でも眼球に至近距離
で命中したら眼球破裂による失明はまず免れない。
なので、エアソフトガンの取り扱いについては実銃と同じような厳格な
注意が必要であるし、18歳未満には販売しないという各都道府県での
条例
が定められている。
なぜ18禁なのかというと、社会的に未成熟な判断力が幼稚な「子ども」
にとっては、エアソフトガンの玩具銃は「有害玩具」として指定されて
いる
からである。

ハンドガン(拳銃)であろうと、ライフルタイプであろうと、射撃直前
までは
トリガー=引き金には人差し指は掛けないのが鉄則である。
よく初心者や、素人が指を伸ばしただけで、引き金の横に添えている者が
いるが、それは安全確保のための指外しとはなっていない。

このような状態は非常に危険な状態なのである。


以前、ゲームフィールドの休憩中に、私が連れて行った者が
このような状態で銃をいじっていた。周囲も安全ゴーグルを
外している休息エリアでのことだ。
非常に危険なので、「トリガーに指を掛けるな」と私が注意した。
すると、その者は「指など掛けてないから大丈夫だよ」と言い
返した。
危険な状態だから危険なのでやめろと注意しているのに、人の
言う事をきかない。2度言って2度言い返した。

その3秒後に、そのフルオート・グロックは暴発により連射した。
「うわっ」とその者も叫ぶと同時に、周囲の人間が「わっ」となった。
私は即座に小銃の銃床でそいつのこめかみを殴り倒してやろうか
と思ったが、
ここは軍ではない。なのでこらえた。
だが、きつく叱責した。
「だから言っただろう!俺が危ないからよせ、と言ってるのに真剣に
人の言う事に耳を傾けないからこうなる。これがもし実銃で人に中っ
たらどうする。実銃でなくとも、仮にお前が今暴発させた弾丸で
失明
者が出たらどうするつもりだったのか!」と。

その者は黙ったが、こういうことは真剣日本刀でもそうだが、取り返し
がつかない事故が起きてからでは遅いのだ。「ごめなんなさい」では
済まない。加害者の眼をナイフでえぐり出して差し出しても無意味な
ことなのだ。


これが、実は実銃も触ったことがない人間ではなく、海外旅行で実弾
射撃を何回も経験している奴がやらかしたことだから世の中恐ろしい。
銃(実銃もエアソフトガンも)と真剣日本刀については、これでもかと
いうくらいの真摯で真面目で細心の注意を自分と周囲に払うことが
鉄則だ。
鍔をカチャカチャ鳴らしている刀をたとえ真剣であろうと模擬刀で
あろうと、平気で使用し続ける者に刀を持つ資格はない。某捏造流派
は団体まるごと鍔かちゃかちゃだが、日本刀と人間に対しての配慮が
一切欠落していると断定できる。刀に対する敬意も人に対する分別も
責任感のかけらさえも無い。

銃に関して、「安全のために指を外す」とはこういうことをいう。
引き金には指のどこも触れさせないようにするのである。



もしくはこうだ。銃が壊れていない限り、まずどうやっても弾丸は発射
されない。実銃の世界ではリボルバーなどはこの方法も多用される。


このようなトリガーに指の側面が接触するような状態で、自分で
「安全に指外しをしている」などと思い込んでは絶対にいけない。
サバイバルゲーマーもお座敷シューターも、厳重に自己管理して
ほしい。



そして、必ず、弾倉を抜き、あるいはシリンダーを空にし、オートの
場合はチャンバーに残弾がないか確認する。
その際も、銃口は絶対に覗き込んではならない。
こうした鉄則を守れないのであるならば、たとえ玩具銃であろうとも
持つべきではない。
エアソフトガンが18歳未満所持禁止であるのは、準空気銃(実銃)
に準じる「危険な物」であるからだ。
そして、子どもは社会的に未成熟で判断能力がおぼつかないと
社会機構上認知さえているがゆえ、成人とは別な措置となっている
のである。
いい大人の成人が少年と同じ判断力未達のことをやって事故を起こ
してどうするのか。
銃(実銃も玩具銃も)と刀(真剣も模擬刀も)に関しては、厳格な自己
管理が必須なのである。
「俺が好きなんだからどうでもいいじゃん」では済まないのである。
好きだからとやるのは、妙なお面を被るくらいにしておけ。


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全日本居合道大会 ~全日本剣道連盟~

2016年10月24日 | スポーツ・武道など

さる10月22日(土)、全日本剣道連盟の居合道全国大会が
東京都内で開催された。

結果は以下の通り。(赤枠広島県代表)







神奈川県は団体成績2位で毎年ながら好成績を収めたが、
広島県も五段と六段の2名が準々決勝まで進み、各自ベスト
8進出の
戦績を残した。
今回の大会は、事前情報では「広島県がかなりのところに
行くだろう」との予想がなされていた。出場選手のこれまで
の大会前の試合ぶり稽古ぶりを見ていた首都圏の高段者
の談による。


来年の全日本居合道大会は広島県で開催される。20年ぶり
か。
来年の開催県でもあるので、現在広島県の選手の強化訓練
は徹底的に行なわれている。もちろん、来年の出場者全員
優勝、団体総合での優勝のダブル勝利を狙っている。
今年はチーム監督は尾道居合道研究会(私が通う道場)の
指導の先生が勤めた。
なんだか、来年は広島県はガツンと行きそうな気がする。
そして、それを阻むのに立ちふさがるのが、大会常勝の神奈
川県の選手たち、と(^^;
来年の激戦が楽しみだ。


選手層を俯瞰して見るに、学生居合道連盟出身者が成績上位
を占めている。
大学の体育会というのは、ほとんど学業してないのではという
くらいに毎日稽古(というより訓練)しているので、いわば本職の
プロのようなものでして(^^;
警察官が剣道や柔道が強いのは、毎日警察署の道場で稽古して
いるから、というのと同じような状況が学生の体育会にはある。
野球等であるならば、そのままプロの道に進むことができると
いう環境もあるのだが、居合道のプロなどは存在しない。
また、武道であるのでプロが存在してはおかしいことになる。
かつて武術のプロ集団はいたが、武術は戦闘術であり、人殺し
の実用技を身に着けることだった。
一方、武術が武道となってからは、それは「武門(=武家)の道」
というものでも「殺人技としての武技」というものでもなくなった。
ある種のバーチャルリアリティに近い、あるいはスポーツに近い
ものとなり、「人格の涵養」を研修の要とするものに変化したので、
それのプロなどというものが存在したら大いにおかしいことになる。
人間形成のための道のプロなどは成立し得ない。

そして、そのことは、幕藩体制時代までの武士の規範にも奇しくも
合致する。
なぜならば、旧幕時代の武士の規範は、「芸を売って生活しては
ならない」という小笠原流の厳しい教えがあったからだ。
そのため、道場経営などで収入を得るのは武士ではなくすべて
士分以外の町人であった。
武士は主君から禄を食むのであり、その主君の為に武術を身に
つけるのであるから、それを売り物にして収入を得るのは武士の
存立基盤を否定することになるので厳重に「いけないこと」とされ
たのである。そのため、武技の習得は「武士の心得」として行なわ
れた。
武芸指南番などは、指南番としての職とは別に藩主なり旗本なり
から家禄としての給与が支給されたのであり、武芸指南そのもの
で収入を得ていたのではない。
ゆえに、藩からの禄を離れて(「士(さむらい)」ではなくなる)、一介
の牢人として武芸専一で生きた武人はすべてにおいて生活
が困窮
していた。(武士ではあるが侍ではなくなると、士籍なき帯刀者は
取締り管轄
が町人と同じ町奉行所管轄となった。武家ではあっても
侍ではなくなったため)

そのため、それまで修めた武芸を武術指南という形で売って生活
収入を得ることもあったが、それはそもそもが士(さむらい)の本分
からは大きく外れた行為なのであった。侍の武芸は己のためだけの
私的独占物ではなく、主君のために働くことに活かすことに本旨が
あったからである。


現代は制度上の武士も侍もただの一人もいないので(名ばかりの
「士(さむらい)」がつく職業は多くあるが)、誰でも道場
を開いて私的
利潤を追求することができる。

ただ、「居合道のプロ」というものは存在しない。
存在するとしたら、いくら現代でも、私は大きく道が外れていると
感じる。
もしかしたら、居合道が「IAIDO」とか名称が変わって、使う刀も
すべて試合規定が設定されたりしたら、プロスポーツとして成立
するのかもしれない。
しかし、「試合のためだけ」に居合をやる人ばかりになったら、多分
近い将来は居合道自体が内実的にはそのような商業主義的なプロ
を認める方向に行くの
ではなかろうか。プロスポーツにはスポンサー
ドがつきものだし、スポンサーの商品販売利益に貢献しなければプロ
の実収入の原資が得られない。つまりプロスポーツは、利潤追求の
商業活動の一環に組み込まれるのである。

事実、そのような傾向や指向性は「選手」にはあったりするし、プロ
であることは利潤追求となんら乖離しない。

こうしたプロであるかのような「居合のみをやって生活できる環境」を
求める居合の試合選手は結構いる。
その人たちはあたかも「試合=対戦競技のため」に居合をしている
感が多分にある。
「敵」を隣りで演武する選手だと勘違いしている人が
かなりの割合を占めるからだ。

本質・本義を申し述べると、居合の敵は隣りの「選手」ではない。
敵を業の上での仮想敵ではなく、横で演武する選手であると思う
その
時点で、すでに大きく居合人としての心のありかを踏み外している。

それは、もはや中身において「居合」ではなくなっており、ただの横の
演武者との対戦競技=スポーツ試合になってしまっている。
だが、この心得違いをしている居合人ならぬ試合人は非常に多い。
私自身は遺憾なことであると感じている。

私がこの日記のジャンルカテゴリーにおいて「スポーツ・武道」と両者
を併記しているのは、スポーツと武道は同一ではないと私自身は考え
ているからである。


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結界を越える ~抜刀道と居合剣法の違い並びに試斬と居合斬術の違い~

2016年10月18日 | スポーツ・武道など

私の切りをご覧になった方は、「あれ?何か違う」と思われた
方が多いのではないかと思う。

私は、刀を抜いて、間合いを計って、そして足を止めて、腕の
振りだけで畳表を切ることをしないからだ。


私の場合はここから切る。


居合斬術 -二代目小林康宏-
① 1992年 Samurai Sword Katana Cutting - Iai - 2 dan


水平返しの一例のみを除いて、足を止めて、居着いてから

腕の振りだけで切るということを私は一切しない。


斬術 -二代目小林康宏- ③ 1992年 Katana Cutting - Iai -

つまり、私の切りは、抜刀して、構えて、足を止めてから畳表
を切ることとは別なことをやっている。
「切るため」を目的として「切る」ことをしていない。
先述の弓聖の言葉の教えに繋がる部分があるかと思う。

私が行なっていることの核心は、居合∋居合斬術なのであり、
物切り≠居合なのだ。後者は私の思惟ではなく定理である。
従って、私はすべて一足一刀の敵の間合いの外から、結界を踏み越えて
斬撃しているのである。(諸手水平返しのみは除く)
立ち技においては、剣術的要素を多分に採り入れている。


逆を言うと、私は刀を抜いて、立ち止まって、畳表を切るという
ことはやらない。できないのではなく、やらない。
剣技において意味がないと私は思っているからだ。
畳表はこちらに攻撃して来ることはないが、ただそこに地蔵の
ように居着いている敵などはいない。
足を止めて、静止物体を切るのは、それは後ろ手に縛った捕虜
を首打ちするかの如しだと私自身は思っている。
捕虜斬殺とは異なる居合剣士の「介錯」の業は唯一「敵」を相手
にしていないものだが、それとて、足の踏み出しと同時に(英信流
本伝では)片手で刀を振り、切る瞬間に両手を添えて切り止める。
足を居着かせて腕だけで刀を扱うことはしない。

空気切りのカタチ居合を嘆いて抜刀道という武門を完成させたのは
中村泰三郎氏だが、その後試斬を剣技として採り入れる人たち
がかなり増えた。抜刀道連盟は分裂を繰り返したが、試斬術は
現在も「抜刀道」という居合や剣術とは別のジャンルとして大いに
盛んに行なわれている。居合そのものよりも、人気があるほどだ。

だが、私自身は「居合」をやっている。「抜刀道」はやっていない。
私の物理的な物切りは「居合」のカテゴリーの中の一稽古科目
として位置付けている。
ゆえに、私は私自身の物切りを「居合斬術」と名付けている。
私が捉えている「居合剣法」とは、「居合体術・居合刀術・居合斬術」
のどれが欠けてもだめで、それらが三位一体となり剣技たる「居合
剣法」を構成していると捉えているからだ。
最大の特徴は、「足を止めて被切断物の前に仁王立ちに立ち止まり、
そこから腕の振りだけで切る」ということを一切やらないことである。
私の切りのすべては、敵との結界の外から結界を踏み越えて己の
身を間合いに踏み込みながら切っている。結界の外から結界を
自ら越えて行くのである。心と技を融合させた静から動への
転であり、間合いを体で切るのである。それは当然、敵の刃も
我に届く距離に踏み出すことになる。刃が届く距離は、そこは
安住の地ではなく死界でもある咫尺(しせき)の間であり、そのボーダー
たる死線を越えるところに我が身を入れてそして敵に対することが
私の居合剣法の最大特徴となっている。
つまり、私の物切りは、「結界を超える」、「間合いの外から間合い
の中に入る」という点において、居合そのものなのである。
私の剣法は安全地帯からのロングディスタンスファイトは想定
していない。すべてインファイトだ。
そのことは「抜きながら切るのが居合」という物理的な一側面に
矮小化されるものではない、大きな意味を含む。
結界を越える際にも、私は、「踏み出し」「踏み込み」「踏みきり」を
明確に自分の中で区別している。自己認識に識別があるから区別
と弁別ができる。
こうしたことも、私の「切り」は据え物切りではない「居合」であるからだ。
剣技なのである。
当然「居合の抜きつけ」「居合の抜き打ち」でも切りつけるし、諸手
からの剣術操刀法でも、居合剣法としての武技の一環として術技
の根幹から外れないようにしている。
理由は、私がやること、やろうとしていることは、抜刀道ではなく「居合」
であるからだ。

これが抜刀道と私がやる居合剣法との大きな違いである。
私の物体の「切り」を見て「何か抜刀道と違う」と思った方は多いかと
思う。何かしらの違和感も感じることだろう。
だが、要点はそこだ。
立ち止まって仁王立ちから静止物体を切っても、私がやる居合剣法
としては剣技として得るものは無いと私は考えているので、私はそう
した物切りはやらないのである。

斬術 -二代目小林康宏- ⑧ 1993年 Katana Cutting - Iai -


普段の斬術稽古には軽く刃引きをした「切れない刀」を使用して

斬術を剣技の稽古として行なうが、キンキンに刃を立てた刀での
試斬の「刃味の確認」のためのゆっくりとした「物切り」においても、
一足一刀の間合いからの「結界を越える」動作を基本に置いている。

(上掲の複数動画から20年後の切り動画)
刀の刃味を確かめながら斬ってみた 2013


ただし、こうした私のコンセプトで巻き畳表に向かう人は、国内では
私以外に見たことがない。実に多くの物切りをする人たちと接したが、
まず見たことがない。私の仲間内の試斬稽古グループの中でも、
私のように捉えて畳表を切る人は皆無であった。皆が足を止めて
据え物切りをしていた。
どの連盟であろうと、連盟に属していなかろうと、居合をやっている
人でさえも、畳表を切る際には、足を止めてそこから刀を構えて
畳表を切っている。
唯一、林邦史朗先生が存命の頃の全日本刀道連盟の林最高師範
の切りと、曽我師範代の切りの設定が私自身の切りの
コンセプトに
近いものだった。

しかし、基本的に私のような設定と視座で畳表を切る人はまず見かけ
ない。
ゆえに、私の方法は圧倒的なマイノリティであり、今ウケはしない。
しかし、それでいい。
私は「居合」をやるのであるから。
畳表を切断できることを第一義として切るための特殊刃物を製造させ
て使用したり、足を居着かせて、畳表を据え物切りすることをやろう
とは私は寸毫たりとも考えていないし、望んでいないからだ。
私は「居合剣法」をやるのである。すべてはかつての武士の時代の
対敵武技の稽古の一環として捉えて研鑚を続けている。

そして、よく「そういう形(かた)があるのですか」と訊かれるが、私の
切りに形(かた)はない。
何故ならば、畳表を「切る」ことが目的ではないからだ。
そこが弓聖が言う「
的に中てようと思うな」、「自分を離れて弓を射よ」、
「貴方の矢が的まで届かないのは、貴方の精神が的まで届いていない
からです。弓道の奥義は、的のことを関知しません」ということに合致
する。

切ることを目的にしない。だが、切ること一点に己のすべては集約
されている。
禅問答のようだが、この核心部分の実体を私は掴みたいと思って
私は剣を取る。




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先達の言

2016年10月18日 | スポーツ・武道など



まるで、「その足は悪しゅう御座る」と足を師の高弟にぶっ刺さ
れた江戸時代の逸話みたいだ(^^;


ただし、言われたことを素直にやらない時点でそもそもが駄目な
ような気が私にはする。
「日に500本抜け」と言われたら、私はそれを信じてその通りに
居合を抜いた。何も考えなかったし、迷いもなかった。

時間を作るには、睡眠時間を削ればいい。私はそれを実行した。

「年間100万円を撞球代に使え。それほど撞き込めば拓ける」
と撞球の師匠に言われた。
月に17万円ほど撞き込んだ。年間365日のうち360日くらい
撞いた。
剣道の立ちきり稽古と同じで、撞ききり稽古では30時間不眠
で撞ききった。
気付くとマスワリがポンポン出ていた。手玉も自在に操れる
キューさばきになっていた。
いつしか「キュー切れの鋭い撞球者」と呼ばれるようになって
いた。

居合に関しては、当時の貯金を切り崩してどうにか今生きて
いるようなものだ。

ただ、居合の「500本抜け」は、それはそれでいとわないし、
寝る間を惜しんでその通りに稽古した。
だが、その後に言った人間の実体が判明した時にはよくなかった。
曰く「1日500本抜いた?そんなことできる訳ないじゃないか。
嘘つくな」
言った本人の言である。
その瞬間、「これは詐欺師の手口だ」と見破った。
その後様子を見ていたが、やはり門下生に対しひどいことを
連続してやっているので、私はスパリと脱会し、斎戒沐浴後に
墨を磨り現在の師匠に生まれて初めて書く誓詞をしたためて
入門した。幸いにして師匠は私を直門に取り立ててくださった。
また、最初の段階で、最初の人には師弟関係という形を結んで
いなかったのも幸いだった。
一度師弟関係を結んだら、破門にならない限り、関係は死ぬ
まで続く。師弟とはそういうものだろう。関係は親子夫婦より
濃い。


居合において、私は真剣を使うことを否定しない。
なぜならば、上掲の青森の方のツイートのような稽古者ばかり
になると居合の本道から外れると私個人は思うからだ。
真剣に真剣日本刀を抜くから本物に近づける。真剣という言葉
の意味が本物になる。

きっちりとできている人が模擬刀を使うのならばなんの問題も
ないのだが、「切れない日本刀形の模型」として模擬刀を使う
ことは私は否定する。
模擬刀は大いに利用価値がある。形稽古に真剣は必要ない。
しかし、真剣日本刀を使用した際に手を切ったり、おぼつかな
かったりしたのでは、まったく居合どころか居合以前の話であり、
換言すれば、話にならない。


なので、私は、「真剣日本刀と模擬刀を適宜稽古内容によって
使用するのが妥当性がある」と考えるものである。
これまでの居合歴28年から思うに、個人的にはどちらか一辺倒
はよくないと思っている。

ちなみに、私は真剣日本刀の抜刀・納刀において、手を切った
ことはただの一度もない。
それは、わずかの期間の模擬刀時代だったが、その時に正しい
操刀法を徹底的にマスターしたからだ。真剣日本刀は初段審査
直前から使用している。
数をこなせばよいというものではないが、こればかりは基礎訓練
なので、絶対に数だ。数なくば練りは生まれない。

現在、抜刀道や最近派手に宣伝している嘘流派などの人たちを
見ると、まともに抜刀納刀ができていない。まともどころかまったく
刀の操作ができていない。まるでド素人と同列なのに宗家等を
名乗っている人たちが大勢いる。これは現実にそうなのだから
悪口でもなんでもなく、現実を私は述べている。
たぶん、地道な基礎訓練をまったく経てこなかったのだろうと思う。
そして勝手に宗家などを名乗り出したものだから、実力のないまま
お山の大将になったので、今さら数をこなす基礎訓練などやれない
のだろう。世間体やくだらないプライドなどで。
悪循環でどんどんごまかしの嘘の上塗りが開始される。
いくら写真で強面作ってポーズ決めたつもりになっても駄目なのだ。
中身が無いのは中身が無いので、中身が無いという現実は覆らず、
どんなに格好つけようとも、真実は中身がすっからかんであるのだ
から。

土台の基礎工事がきちんとしていない建物は、ちょっとした揺れで
すぐに倒壊する。
自明の理である。


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炎の体育会TV 2015年10月17日 弓道部

2016年10月18日 | スポーツ・武道など

炎の体育会TV 2015年10月17日
 6位以内に入らなければ即敗退、弓道部に最強美女アナウンサー

対戦者は大学団体日本一、個人戦日本一。
稽古量は、年間50,000射。




自ら向かう人は、それなりの稽古をしている。
かつて私は居合を半年で70,000本抜いた。
数頼りは駄目だが、数さえないのはもっと駄目だ。


美人度も日本一のような気がする(^^;


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