渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

日本刀の焼き入れ

2013年01月31日 | 日本刀

仕事で岡山からの帰り、車のテールランプを見ていて、
教わった
刀の焼き入れの時の刀身の色に似ているなぁと
思った。


こちらは少し温度が高い(笑)。

焼き入れの時は火を見続けるな、と私は二代目小林康宏から
教わった。目を盗られるからだ。

横を見ていて、時々パッと見る。そうしないと、目を傷めるし、
見続けると温度が上がりすぎているのに、それを目が錯覚して
低い色に感じ取ってしまうからだ。
鍛冶職の職業病として白内障と肺病がある。
目を傷めることを「目が盗られる」と鍛冶の世界では呼ばれる。
天目一箇神が
片目であるのも「目が盗られた」からではなかろうか。
差別的な
表現であった「めっかち(片目のこと)」は「目 鍛冶(め かぬち)」
から来ていると思われる。
本職鍛冶の方は、ぜひとも目を労わって、大事にしてほしい。
少しでも長く、良い物を世に出してくれるように。


帰宅後、焼き刃土の置き方引き方について、自分で半紙に描いてみた。
左側が土置き(&引き)、右が焼き入れ後の状態なり。





本当は鍛えによって土の配分を変えるのだそうだ。
各刀工や伝法によって土の配合具合は異なるという。
私は基本1:1:1から少しずつ調節する。
原料は大村砥の砥石粉末、松炭粉、土(いろんな場所の土)だ。
砥石の粉も松炭粉もフーッと吹いたらパアーッと舞うほどに
微細にする。
その三種を乳鉢で擂る。ただひたすら擂る。何十時間も擂る。
大根おろしと同じなのか、勢いよく擂るのではなく、同じ速度で
ゆっくりと(といっても茶筅のように)擂る。
水を注すのだが、この水によって適切な粘度を合わせて行く。
引き土は置き土と配分を変える。

何が大変って、この土作りと鍛冶押しの研ぎが一番大変な
ような気がする。ただただ根気が必要な作業だ。
土については、「おばあちゃんがこたつでテレビでも見ながら
ゆっくりと、ずっと擂る」のがいいと教わったが、大抵の鍛冶屋
さんは「鍛冶屋の女房」持ち以外は自分でやっているのでは
なかろうか。とにかく土作りは大変だ。かなり重要なブツなので(笑)
なんというか、一種のモルタルですね。でも、刀を入湯させたときに
適切な土落ちするような物になっていないといけない。

いや、大変なのは炭切りかな(笑)
俺なんて、下手糞だから、どうにか切れるけど、マスクしていても
鼻の中真っ黒になるもんな(^^;)
三年以上やってもプロのようには切れないような気がする。

それだけ切味よく切っておらず、粉が舞っているということだろう。
結構テンポよく切ってはいるけど・・・。
正直言って、畳表や竹を刀で切るほうがず~っと簡単だ(笑)。
焼き入れ用は私は消し炭を使う。火を通した炭を消し壷に入れて作る。
切った炭の大きさは親指の
関節から先くらい。焼くのが小物だからね。
切先が溶けないように素人ながら
いろいろ注意している。
あと、他の方たちはどうするのか分からないけど、鍛錬後、火造りの後に
焼きなまして応力を除去した後、カラ打ちをかなりやる。かなりひっぱたく。
こうして、「のようなもの」が出来ていく。
あくまで本職の仕事ではなく、素人の「のようなもの」だ。
「俺は小刀が造れる」などと公言するほど身の程知らずではないつもりだ。
本職と我には天と地程の差がある。
自作小刀の研ぎもできない。あくまで、研ぎも「のようなもの」でしかない。
自作小刀を売ったことは一度もない。プロではないからだ。
ただ、素人でも自作してみて感じることがある。
地肌の目は折り返しの鍛接面だけではなく、焼き入れによる変化ではなかろうか、と。

絵は売ったことがある。
だいぶ昔のことだが、パソコンも普及していなかった頃、メニューの挿絵を
描いた。今はPCで画像加工で誰でもできるが、まだそうした技術が
世の中になかった頃の話。依頼主は1枚描いて5000円くれた。
10枚で5万円。20枚で10万円。これは結構小遣いになった。
すべて原画は鉛筆画と水彩だった。
ある時期、どこかの店で使われていたのだろう。
描いた作品が使われることは嬉しかったが、締め切り守るのが鉄則で、
ああなると、もう「生産」だよね。芸術的パッションとは別次元の回路で
描かないと描けない。プロの小説家や漫画家はすごいなぁと思うよ。
知り合いにゲームの音楽を作曲している女性がいたけど、あれなんかは
やりがいがあったろうなぁ。
自分の作が世に残るというのはいいね。
だからこそ、創作者は華麗ではなくとも綺麗には生きたいと私は思う。


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『學的に見た日本刀』(昭和19年発行)

2013年01月31日 | 日本刀

昨日、倉敷の古書店にて購入した。
内容を読むと極めて近代合理主義に基づいて研究している
ことがよく判る。











近代科学者の視点というものは、西洋合理主義が基幹にあると
いうことが見て取れる。英語やドイツ語も織り交ぜて学術的に
研究しており、偏頗な敵性外語を排撃する姿勢は一切ない。
もっとも、そんな稚拙で幼稚な観念では本気で英米と一戦を
交える国家の科学者たり得ない。
攘夷とは幕末の時点ですでに「敵を知りてはじめて為せる」と
いうことはわかりきっていたことだ。
だからこそ、佐久間象山はじめ吉田松蔭なども敵国の先進学問と
テクノロジーを学ぼうとした。
安政の大獄で弾圧されてしまい、その後攘夷を叫んで暴力的に
内戦を起こした西軍派は「官」軍となってからは攘夷どこ吹く風で
明治になってからもどんどん西洋化を推し進めたのだが。(なんの
ための武力倒幕だったのか。なぜ東日本の諸士は死ななければ
ならなかったのか)
そして、『戊辰役全戦没者名簿』を見ると、西軍戦没者はすべて「靖国」
だが、東軍側は「斬」「戦死」とのみの記載で、一切靖国には祀られて
いない。靖国神社なるものが、「官」軍新政府側のためにのみ存在する
ことが如実に現れている。東日本幕府軍側の戦死した人は今でも
「犯罪者」扱いなのである。

本書は、本文中の「南北朝時代」という記載部分には「吉野時代」という
シールが
貼られて塗抹されていた。薩長閥の残滓たる軍国政権が
強いた検閲だろう。


私は刀剣書の蔵書はそれほど数がない。せいぜい60冊程度だ。
この書はボロボロだが、戦時中の日本刀研究の様相を知る貴重な
一冊を手に入れたと感じる。
傷まないように読み進めたいと思う。


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犬のわるさ

2013年01月31日 | ポチたま



枕元でガシガシ音がしてると思ったら、
1979年初版本かじりやがった。
なんてことするんだ。
あんぽんたん!



叱ったら、いじけて寝たふり。
タヌキか(笑
背中の鶴が笑ってる。



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あて所に尋ねあたりません

2013年01月29日 | 内的独白



知人に宛てた書類の郵便物が返送されてきた。
住所、郵便番号、氏名、いずれも誤記はない。
念のために送り先本人に再確認するも誤りは全くなし。
届け先管轄郵便局担当者二名の印鑑が押印されて「あて所に尋ね
あたりません」とスタンプされて私の自宅に返送された。

差出受付元である三原郵便局本局に持ち込み、事情を説明して
あて先に送り届けてもらうように依頼した。

その時に窓口(たらい回しの上)に出てきた女性の正社員が言う。
「宛先が間違っているのではないか」
私は再三確認した旨を告げる。(穏やかに)
すると女性社員は
「番号が『○○-○○』という表示はおかしい。住居番号がない」
と不審そうな表情をあらわにして言ってきた。まるで私の記載こそが
誤っていると言わんばかりだ。
私は「住居表示実施区域かどうかは判りませんが、記載に誤りは一切
ありません」と穏やかに答える。

私が以前住んでいた横浜市鶴見区東寺尾○台でも、住居番号は例えば
「12-34」というような表示である。「~町一丁目2
番3号」などというような
住居表示ではない。(住居表示の場合、「~町一丁目」までが地名となる
ので番号は漢字表記が正しい。それ以降の番地表記の○番と住居表記の
○号は算用数字でもよい。郵便物に関する「地番」表示はこの限りにあらず。
これ法的な表記なり)

(あやふやな自分のその感覚だけが正しいと思い込んでるのか、この女は!)
その女性従業員の態度にイラッとしたが、あくまで表情を変えずに、冷静に
私は繰り返して言った。

「宛て先に間違いはありませんので、よくご確認の上、送達願います」
女性従業員はそれでも
「宛て先に間違いないのですか」
と言ってくる。
(間違いねぇってさっきから言ってんだろ!人の話聴いてないのか!)
と切れそうになったが、さらに冷静に私は続ける。
「住居表示実施区域であるかどうかは私は知りません。それに、
宛て先の記載に誤りは一切ありません。表示がどうのということに関しては
私が与り知るところではありません。確認するのはあなたの会社の仕事
ではないのですか」

すると、「ちょっとお待ちくだい」と言ってプイッと奥に引っ込んだ。
(「ちょっとお待ちください」でなく「少々お待ちください」だろが。接客の
言葉も知らないのか)とは思ったが、私は努めて表情も変えずに
冷静に
穏やかに振舞う。


別な年配の男性従業員が窓口に来た。
同じ対応で同じ説明を私はした。
「『尋ねあたりません』のスタンプは送付先管轄局でしょうが、三原の
郵便局も同じ日本郵便という会社ですよね」と申し添えた。
男性職員は平謝りに謝ってちゃんと確認して送達することを表明し受理した。

件の女性従業員はいつまで郵政省職員のつもりで上から目線でいるのか。
役所の公務員に多かったけどね、ああいう態度の職員は。

それにしても、三原の郵便局、従業員の教育どうなってますの?(苦笑)
尤も、郵便局だけでなく、飲食店に行っても、三原はてんで駄目だけどね。
どこもかしこも偉そうにしてから、なんだろね(笑)
そういうのが通用するのは地元だけ。日本全国どこ行っても通じる
わけがない。
うちの子は本人の希望もあるが、絶対に外に出す。
狭い世界に閉じこもってそれが世界のすべてだとする視野狭窄の感性は
いらない。必要なし。

言葉についてもそうだ。
日常仲間内の会話は方言でもいいだろう。また、別な土地の者でも気心知れた
者同士ならそれぞれのお国言葉でもいいだろう。
だが、ことさらに自分の使う方言しか話そうとしない者もいる。コミュニケーション
を取る意思が希薄であるとしか思えない。何が何でも共通語を話せとは言わ
ないが、あえて自分の方言でしか話そうとしない者の感覚は、自己中心的な
感性の発露としか言い様がない。
私とて東京近圏の方言ばかりを会話で使っているのではない。「おっぺす(押圧す)」
や「じょうろう(女郎)」などは通じないのであえてことさらには使わない。「は行」も
「さ行」にならないように正確に発音するように気をつけている。
しかし、地方において、ことさらにあえて方言しか使おうとしないのは如何なものか。
地元の友人の中でも、私と会話する時に、気を遣ってか、あるいはその人の
人柄というか資質の問題としてか、共通語で分かりやすい言葉で話してくれる
人たちもいる。得てして会話の中身も深く突っ込めて「会話」から「対話」へと
発展する。その人となりの資質だろうか無意識の成せることなのかも知れないが、
あえて意図的に垣根や殻を作らないから、対話が成立してコミュニケーションが
とれる。
こうしたことをごく自然にできる人の共通項は、学生のときや若い頃に地元から
出て外の空気を吸ってきた人たちばかりだ。言語が人と人をつなぐコミュニケーション
のツールであることを無意識のうちに体現している。狭い世界に留まらない。
そうした感性は使う言語ひとつにも現れている。
何も日本全国の日本人が共通語を常に使用すべしと言っているのではない。
要はどこまで互いに意思疎通を取ろうとする意思があるかどうかだ。
「自分こそが正しい」という感性に凝り固まっていると、件の郵便局の女性の
ような態度で人と接してしまう。
よくよく己を吟味すべし、だろう。

手紙やメールや掲示板での書き込みは全国の誰もが全国の誰にでも
分かる共通語で書いている。やればできるのだ。それを話し言葉に
くだすだけだ。
だが、あえてそれをやろうとしない人もかなりいる。
全国区では通用しないで孤立するだけだ。
「なんど?」などと書いても、そんな言葉は四国東部しか通用しない。
本人は全国共通語だと思っているのかも知れないが、「何度?」なのか
「納戸?」なのか「難度?」なのかさえ判然としない。「なんですか?」
の意味だと解するのはごく限られた一部の地方の人たちのみだ。
明治以降は国家も苦労して国民の国語を学校で教育しているのだから
(明治の徴兵制による命令伝達の円滑性確保という中央集権的な軍事性
の歴史があるにせよ)、大通りでは日本国民は日本の国民に通じる言葉を
使うべきだろう。

これは昨夜、娘と妻が娘の受験先を話しているときにも感じた。
「成蹊大学」の抑揚を「せ ̄ い- け_ い_」と発音していたので、最初
どこの大学のことか判らなかった。正しくは「せ- い- け- い-」である。
「先生」を「せ- ん- せ ̄ い-」ではなく「せ ̄ ん- せ_ い_」と
発音するイントネーションは広島弁だからしかたないとしても、せめて
固有名詞は固有のイントネーションを正確に発するべきだろう。
似たようなことに横浜の俗語の「ハマ」がある。
これは正確なイントネーションは「ハ- マ-」なのであるが、「ハ ̄ マ_」と
発音する人がいる。アメ車のハマーじゃないんだから、それはない。
イミナ式の漢字2文字の名前は広島県内でもちゃんと発音される。例えば
「正則」なんかでも、「ま- さ- の ̄ り-」などと「木曾のなかのりさん」
のような発音をせずに、「ま- さ ̄ の- り ̄」と正確に発音される。
固有名詞は正確な抑揚にて四露死苦(`´)

これね、結構大切なことで、音楽でも、曲に歌詞をつける場合、
イントネーションを混乱させないような歌詞が大切なのよ。
有名どこでは『有楽町で逢いましょう』が、「あなたを待てば雨が降る」
のところで「雨が降る」が「飴が降る」に近いイントネーションになってしまい
(共通標準語→「雨:あ ̄ め-」「飴:あ- め-」)、そのような抑揚の
歌詞は日本で初めてだったので、「最悪の下作歌詞」と当時評価された
(曲は正確には「あ_ め- が ̄」の音階ではあったが)。
同じように、大阪弁の歌詞も東京弁のような音階につけたらおかしいこと
になる。曲の作曲は歌詞後付が多いけど、作詞家はかなり練っていないと
やらかしてしまう。最近のJ-POPは、突拍子もなく一音だけオクターブ上がって
声を裏返して歌うような曲が多いから、なおさら作詞家は大変だろうね。
作詞をなさる皆様、抑揚のご利用は計画的に。


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鞘書き

2013年01月29日 | 日本刀

先日、剣友と小刀造りの話をしていて、今秋にでも焼き入れ会を
やろうという話になった。
今手元に残ってる私の作は
全部無銘のままなのよと言ったら、
「鞘書きすれば?」と言われた。


鞘書きはですね、自分で作った鞘には書いている。
(鞘というか「入れ物」。本職
ではないので、いくら真似事しても
「鞘」とは呼べない。しいて
言うならば、朴の木とソクイで造った
保管のための「休め鞘」だ)


こんな感じで書いてるのよ~(^^;)

花押は私の花押。

自分で鍔造ったり、ハバキ造ったりしても、それはあくまで
「のようなもの」でしかない。
ド素人が鍔造れたり、ハバキ造れたりする筈がない。
あくまでも「似て非なる物」でしかなし。勿論、研ぎなども
素人は絶対にできない。できると公言するとしたら、とても
おこがましいことで、刀職を侮辱する不遜なことである。
「できる」と称して素人が人様の作品(刀剣)に手を下すなどと
いうことはとんでもないことだと私は思う。

ただ、私が自分で作る小刀(こがたな)だけは・・・ほんの少しだけ
本物に近いかな(^^;)




  
以康宏鍛錬鋼康清作之


以備中水田国重鋼康清造之



上手な物ではなく、良い物を作りたい。

 穏やかに ともに生きたし 安き世に (渓流)

 


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刀の手入れ

2013年01月28日 | 日本刀

刀の手入れは帰宅後になるので、どうしても夜半の手入れとなる。
昨日は3時間ほど居合を抜いたので、本日は入念に手入れをする。
居合で真剣を使用した場合、いずれ薄錆の発生が不可避だが、
錆の広がりを最小限に留めるように手入れは欠かせない。

手入れ後、自室で刀を鑑賞する。

う~む。見えない。


場所を替えてみる。
地鉄の色はよく判るが、働きは見えない。


光源を求めて、さらに場所を替えてみる。
見えた。
欠点までよく見える。
チリ部分は結構錆びているし、地にヒケ瑕もある。


しかし、このような光の色だとよく見える。
スマホ写真ではきちんと写っていないが、肉眼で見ると、
いやというほどに地刃の働きも、地の板目流れの中に沈む
小杢目もよく見えている。写真中央の荒沸(あらにえ)のように黒く
ポツポツ見える部分は光線の関係で画像のドットが荒れた部分だ。
刀にそれはない。

刀がよく見えるここは台所(笑)

入念に手入れして白鞘に納めた。
20年研いでいないが、近いうちに仕上げ研ぎにだけでも出してあげたい。


今宵の寒月。住まいの外から撮影。


昨夜は満月。
今夜は十六夜(いざよい)である。
「いざよい」とは、月がためらっていると見立ててのこと。
上代には「いさよい」と清音であった。
平安の時代の月は現在の月よりも30メートルほど地球に
近かった。
毎年月は地球から離れて行っている。
月が地球の軌道からサヨナラする時、その時、人類はすでに
地球にはいない。


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けさの風景

2013年01月28日 | 内的独白





雪に御座る。
下の写真の右側に写るは三原城。


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居合道講習会 ~県剣道連盟~

2013年01月27日 | 日本刀



本日は福山市武道館で広島県剣道連盟の講習会。
午前中は杖道の講習会で、午後からは居合道の講習会だった。
午後、準備体操後、段位ごとに分かれて講師より講習を受ける。
私の段位は尾道の先生二名が指導にあたった(^^)
普段の尾道での稽古とは別な形での講義だった。
普段の稽古とは別な切り口で、いろいろ自分の欠点も判った。
実りある講習会だった。

休憩時間に、私の古刀と尾道道場の剣友の刀を武者控えの
段の上に置いて比較してみた。

上:末古刀 二尺三寸三分六厘
下:現代刀 二尺六寸五分

私の刀の元幅はそれほど細くはない。3センチ以上は有にある。
だが、こうやっていわゆる大段平の刀と並べると、私の刀はまるで
細身造りの古太刀のように見えてしまう。
剣友の刀は
まるで南北朝か幕末の刀剣のようだ。

段別講習の後、最後は参加者全員で全剣連居合12本を抜いた。
試合形式の「正面への礼」から終わりの礼まで行なった。
私は個人的に試してみたいことがあったので、この制定居合演武の
時に試してみた。できた。よどみなくできた。一つの獲得目標が
克ち得たので、この12本演武では成果アリ。次の段階へとつなぐ
持ち帰るものを、見つけた。
なにを?
永遠を。
海と溶け合う太陽を。(ランボオ)


講習会後、武道館の裏の神社に「宮本武蔵が腰をかけた石」
なるものがあるとのことで、尾道道場の三名で見学した。




ほんとに武蔵が腰掛けたのかなぁ(^^;)
でも、由緒の来歴は確かなような感じがする。

神社の上から階段下を見る。


正面は福山城だ。というか、この境内も福山城内だ。
午後、雪が降って吹雪いていたのに、夕方には陽が差してきた。

帰り、尾道のファミレスで尾道道場の剣友とお茶タイム。
またもや外は吹雪いてきた。


刀剣談義で盛り上がる。
ココアが美味い。暖かいココアが飲みたかったのよ。
どこで?「コゥコゥ」なんちて。
気づいたら、20:00を回っていたので家に帰ることにしました。
刀の話をし始めたら話が尽きない(笑)
尾道道場の剣友も結構刀好きだからね~(^^)
むう。居合の話はほとんどしなかった。ほぼ99%ずっと刀の話だった(笑)
剣友は後代三原正家の太刀を持っていたらしい。既に手放したとの
ことだが、見たかったなぁ。

それと、本日は尾道の先生に「三原鍛冶」の「貝三原」の比定地について、
私の知らない場所を教えていただいた。
こういう説、地元の研究者じゃないと詳しくないのではないかなぁ。
刀剣好きでも関東の人は知らないのではないだろうか。
十分現地調査や検証の価値ありとみた。
わくわくする情報だった。
今後の地の利を生かしたフィールドワークに期待がふくらむ。


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音のつながり

2013年01月26日 | 音楽

Char meets Jake Shimabukuro


カコイイ!


桑名さんとBOROのセッションもカコイイ!

小室等のアコギな奏談 ゲスト:桑名正博 (1/2)



時が経つと悲しみは薄れていくというけれど、
時が経つにつれ、じわじわと悲しみが増してくる。

因幡晃 思いで・・・ 桑名正博に捧げる 2012/10/26


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そこはヨコハマ

2013年01月26日 | 音楽



なぜヨコハマに惹かれるのか。
それは育ったから。
それはそこに住んでいたから。

横浜をうたった歌はたくさんある。
その中でも、この曲が一番好きだ。
とくに出だしからサビまでが好きなのである。

Yokohama Rainy Blue(美山絢子)


もともとはペドロ&カプリシャスのために書かれた曲だ。

ヨコハマ・レイニー・ブルー(ペドロ&カプリシャス)



家族自慢、恋人自慢、身内自慢をするのは
とても間抜けなことだと俺は思っている。
自分の女房を「奥さん」と人に言ったりするのは
子どもが父親を「お父さん」と人に言うのに似ていて、

とても無様なことだと感じている。
そして、自分の子どもや兄弟姉妹の自慢をしたり、
自分の親を他人に褒めたりするのは恥ずかしいことと
感じている。
だが、自慢ではなく、自分が惚れた部分を明かすのは
別な意味で恥ずかしいが、無様な無作法ではないと
思う。

横浜で一緒に暮らし始めた妻は歌が上手い。
俺が聴いていて上手いと思う。

そこそこ聴かせる。

どんな感じかというと、こんな感じの歌い方だ。
ヨコハマ・レイニー・ブルー(松平直子)
 

これは1978年にペドロ&カプリシャスの三代目ボーカル
なった松平直子さんがソロとして2012年にセルフカバー
した
ものだが、
妻がうたうヨコハマ・レイニー・ブルーは、松平さんの
声と歌い方
によく似ている。高音の伸びのところがもっと太くて
声量がある感じかな。

そして、少し演歌っぽくなる(笑)。
妻の「ヨコハマ・レイニー・ブルー」はかなり聴かせるのだが、
本人は好んで人前でうたいたがらない。
ただなにかの機会で人前でうたうと、はっと人の気を引かせる
うたいをする。
飾らないからだろう。
そこらへんのカラオケ自慢のねーちゃんあたりとは
次元がまったく違う「うたうたい」の歌だった。
一番の歌詞が、一度横浜で俺と別れた実体験と重なるから
感情が込められている、というのはないと思う(苦笑)。
いや、二番の歌詞もまんまじゃんか(笑)。
俺は妻と出会い、一緒にヨコハマで暮らし、ヨコハマで別れ、
そして7年後に再会した。

愛し合っていても別れることもあるさ。
でも生きていれば、またいつかは会えるのに。

リンダ / 桑名正博


これは死んじまった桑名兄さんが横浜育ちの
佐分利元子(さぶりもとこ)
という名の女性を
想ってうたっている曲だ。

その女性の名は、別名アン・リンダ・ルイス。


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ヨコハマ

2013年01月26日 | 内的独白

MOON LIGHT BLUES /CHAGE & ASKA


我が心のヨコハマ。
ガキの頃に住んだヨコハマ。
ハタチ過ぎて戻って来たヨコハマ。
出会いと別れがあったヨコハマ。
一緒に暮らし始めたヨコハマ。
振り向けばいつもヨコハマ。

この動画、映像の編集がすごくいいな。


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女性鍛冶師

2013年01月25日 | 日本刀



女性鍛冶師。カッコイイ!
大阪堺打ち刃物「水野鍛錬所」は明治5年に水野寅吉が創業し、約140年の歴史を持つ。
ここでは日本刀も製作できる。
刀工銘は「堺 源昭忠」 



炉はオバQ型密封炉だ。
基本は包丁鍛冶だが、ブロアでなくフイゴを使っている。

いや~、女性鍛冶師カッコイイ。

 


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形(かた)はスケール ~居合~

2013年01月25日 | スポーツ・武道など

私は居合術は無双直伝英信流谷村派を学んでいる。
私の師匠は、さらにその師匠(私の大師匠)と共に高知の
土佐英信流皆伝者山本晴介先生に入門した。
昭和30年代のことだ。
師匠は元々は福岡の新影流に属し目録だったが、
晴介先生の居合と出会い、新影流の先生に許可をもらい、
土佐英信流に流派替えをして
自分の兄弟子筋である佐賀の
日浦眞蔵先生とともに入門した。

故範士日浦眞蔵先生は戦前から唐津で旅館を経営しており
包丁人でもあった。漫画『包丁人味平』の主人公味平の
父は
日浦先生がモデルである。魚をさばき、頭と骨だけにして
生簀
に戻すと魚が泳いだ。戦前には銃後の備えとして女工さん
たち
に軍刀の機械研ぎなどを指導したりもした。

私も直接日浦先生から山本晴介直伝の英信流をマンツーマンで
習っており、大切なところはビデオに納めている。

だが、21世紀になり、英信流を演武される人たちの中で全国
各地でだんだんと「かたち」が変わって来た。「形(かた)」は
そのままであるが、形(かた)の中の細かい所作、動きなどが
変化してきているのである。
私はこれは仕方ないことではなかろうかと思っている。
古流居合剣術の「形(かた)」とは、例えばギター奏法でいえば
運指のスケールであり、基本だと思うからだ。本来は形(かた)
あって形(かたち)無しというのが本旨なのではなかろうか。
形(かた)は型ではなく形(かた)であるのだが、英語に訳す場合
「フォーム」となる。しかし、フォームでは形(かた)の外皮を表現
しているだけで、本来は奏法におけるスケール理論と同じ概念を
あてはめたほうがしっくりくると思われる。

居合での形(かたち)だけを墨守していても、実際の対敵斬り合い
では
敵は形通りに動いてはくれないので対応できなくなる。
ギター演奏で
いえば、いくらブルーノートやペンタトニックを知って
いても、それ
だけでは自由即興演奏のJazzのジャムセッションは
できない、
ということと同じである。
また、居合の演武にしても、ただ形(かたち)をなぞるだけの
居合は居合術ではない。音楽で、五線譜の音符通りに機械的に
演奏した音色が人々の心に響かないように、機械的に形(かたち)
だけを模写した居合は剣技の妙がまったく存在しない。

古流剣術流派の数が数百派に及んだというのは、大元の流派に
習熟者が創意工夫を加えて独立したためで、剣術程の分派では
ないにせよ、これは林崎系居合でも同様の傾向がある。
土佐英信流においても、流祖を林崎甚助に定めているし、その後に
続く道統宗家も独立一派を成した人たちを流派の継承者として
掲げている。英信流の祖である林崎流居合七代目長谷川英信
までと土佐への流れは以下になる。

∴初代 林崎甚助 重信
  二代 田宮平兵衛 業正(田宮流開祖)
  三代 長野無楽入道
  四代 百々軍兵衛 光重
  五代 蟻川正左衛門 宗統
  六代 萬野団右衛門 信定
  七代 長谷川主税助 英信(長谷川英信流開祖)
  八代 荒井勢哲
  九代 林六太夫 守正(土佐に伝わる)

林崎流の居合は、本邦居合の根源とも呼ばれ、流祖出羽の人
林崎甚助(天文11年1542~元和3年1621)が太刀の長剣を
抜刀して居合う術を編纂したものだ。

多くの剣士が林崎居合の影響を受けている。
別派では総合武術である水鴎流(すいおうりゅう)の居合も
林崎の弟子であった桜井五郎左衛門直光が三間与一左衛門
景延(天正5年1577生)18才の時に林崎流居合
の妙諦を
直伝している。三間はその後さまざまな武芸者に
学び、居合だけ
ではなく総合武術の一派である「水鴎流」を
成した。現在は
「水鴎流居合剣法」として静岡県清水市に正伝が伝わっている。


土佐英信流(長谷川英信流)の開闢伝系については、現在も
不明な点が多く、
開祖長谷川主税助自身が何者であるのかも
よく判っていない。

讃岐生まれで紀州徳川家もしくは尾張徳川家に仕えたという
伝承はあるが、どこまで歴史的確証が得られるものであるかは
流派伝承者においても詳らかではなく、また歴史学の学術的解明
も検証研究段階のようだ。
実際に、今でこそ多少解明がされているが、私が習い始めた
約四半世紀前には長谷川英信についても「土佐の人」などと
いう伝承さえ流派の中に存在した。
土佐で英信流居合が定着したのは、土佐山内家の御料理人頭の
林政右衛門の子である林六太夫(寛文2年1663~享保17年1732)
の時代からである。林六太夫は後に百五十石まで加増された。
以降幕末まで長谷川英信流は土佐山内家の御留流として門外
不出の流儀として伝わるのである。

江戸期の英信流居合術の伝書を見ると、現在とは所作動作が
大きく異なることがすぐに判る。
これは、従来小具足から和(やわら)まで含めて200以上あった
英信流の形(かた)を明治期に英信流17代宗家の大江正路が
概ね70本ほどに再編集したことによることも大きい。
武士がいなくなった時代、文明開化の新文化の時代、居合の
火さえ消えようとしていた明治にあって、いたしかたないことだと
私は思う。多分、第二次世界大戦直後の国内状況のようだった
のではなかろうか。「剣道」という言葉が発明されるのは大正時代
だが、竹刀剣術も明治初期には忌避された。それが西南戦争
以降見直されて官人の武技として奨励されていくのである。

江戸期の英信流居合には、闇夜での居合や屋内への侵入方法、
その他様々な現在は失伝している業があった。
さて、私の師匠は土佐英信流皆伝者山本晴介先生に師事したのだが、
稽古会で解説書を貰っている。これは昭和37年(1962)に山本先生
寄稿して大阪の八重垣会が記したもので、全剣連・全居連と分裂
していた状況の中で、連盟を
超えて土佐英信流の奥伝までを伝達する
研修稽古会で配布した冊子だ。

実は土佐英信流下村派の流れである夢想神伝流は、中山博道範士
の弟子が中山先生逝去後の昭和33年に「夢想神伝流」という名称で
新派を立ち上げたのだが、
なぜだか中山先生は生前に弟子たちに
英信流奥伝を一切教えていなかった。

下村派の免許皆伝であるのだから中山先生は奥伝を知らぬ筈は
ないのだが、弟子に教えもしないし、御自身でも抜かないので、
「中山博道は初伝大森流しか習っていない」説が流布したくらい
だった。確かに当初高知に赴いて土佐人に「おまん東京もんやき
おせえん」と一蹴されて別な先生に助け舟だされてメモ書きした
時には英信流初伝だっただろう。だが、その後、細川子爵から
下村派を皆伝しているので奥伝を知らぬ筈がない。
だが、中山先生が一切奥伝を弟子たちに伝授しなかったので、
夢想神伝流の門弟たちは一切奥伝を知らなかった。中山先生は
ご自身の稽古の際も弟子が見学することを厳しく禁じていた。
このため、神伝流の人たちは奥居合を知らず、英信流の人が
奥居合を抜くと無知ゆえ「自作」と陰口をきいたりもした。流派を
超えた居合同好の研究会の大組織(150名ほど)である東京の
「東日本居合道研究会」では活発な居合道振興の交流が行なわ
れていたが、全剣連・全居連、流派別と分かれていながらも仲が
良かった昭和30年代の東京の居合界にあっても、業を知らない
がゆえに古流奥伝を抜く他者を揶揄する雰囲気ができつつあった。
後にこのような気風は後年の居合界の決定的な分裂、連盟と
英信流宗家乱立という現象に連なっていく。東京で和気あいあいと
流派を超えて現在も居合を研鑽している「東日本居合道研究会」
のような集合体は希有な存在となっている。

これを早くに感じ取り、案じた土佐英信流の大田次吉先生が昭和
34年に土佐居合奥伝の公開講習会を開いて英信流奥伝を神伝流
人たちに初めて伝達したのである。(私の実際の東京での伝聞
だけでは信が置けない方はこちらを参照請う。歴史の生き証人、
大田先生の直門の方が貴重な記録をつづっている)


一方英信流谷村派においても、英信流宗家が高知から大阪へ出て、
そして代が重なるうちに、現在では大阪以外のあちこちで自称宗家
乱立の状態となってしまい、各々が
勝手な所作で勝手に英信流を抜く
ようになってしまった。

昭和37年に山本晴介先生が大阪の八重垣会での英信流伝達講習に
おいて案じたのは、このような後世の事態を懸念して広く伝えようとした
もの
だったろうが、裾野が広がればいろいろな人も入ってくる。
現在は実は
英信流を名乗る人々の道統は散々なものがある。中には
同門別系を
口汚く揶揄中傷する文章をネットで公開している「宗家」もおり、
そんなことは大江先生も長谷川英信も
望んではいなかっただろう。
大阪八重垣会の方々は正しい英信流が伝わるようにとの願いを込めて
この昭和37年伝書を昭和40年に図はそのままで字体を鮮明に書き
なおすことで再版した。昭和37年版は当時の英信流・神伝流の土佐系
居合人は貪るように読み、他の関連各団体からも問い合わせが殺到し、
またたくまに品切れとなったという。まだ居合術の書籍など多くは出版
されていない時代のことであり、土佐居合研究修練者のために作られた
手書き原稿ガリ版刷りの解説伝書である。

私は師匠から昭和37年版と40年版の両版とも譲り受けた。

昭和37年版



気づくのは、現在一般的に教えられている無双直伝英信流の
形(かた)と名称は同じだが、所作が大きく違う業が多い。
これは普通に考えると、この昭和37年の時点の方が古伝
オリジナルに近く、現在私を含めた諸士に演武されている
英信流の業の方が「新式」であると判断するのが妥当だろう。
詳細は避けるが、この解説書では、初伝「月影」などは、正面に
向かって左斜め後ろを向いて座し、正面から来る敵に135度も
旋回して正対して抜刀抜き付けすることが記されている。
他の業も現行の動きや向きとはかなり異なる部分も存在する。



気になるのは、土佐の皆伝者三谷義里先生の解説書や土佐英信流
山内派に伝えられている奥伝立ち業「袖摺返」が、この書ではいわゆる
群衆を
押し分けて進み出て一名に対して抜刀斬撃する業ではなく、
我と連れ
だって歩いている複数の者に対し抜刀斬撃して倒す業と
なっている
ことだ。「行連」に近い想定業となっている。
これについては、昭和43年、同44年の伝達講習において、高知の
皆伝者澤田友信先生により解説が加えられている。それは大阪
八重垣会昭和40年版解説書を教科書として土佐人に就いて習った
者しか知らない。

昭和40年版(昭和43年、44年他、後年の英信流研修会にも使われた)


「袖摺込」という業は、現在伝わる「袖摺返」とはまったく異なる
動作想定であり、これは山本晴介先生と八重垣会の誤謬である
のか、
あるいはなにかの意図があって「袖摺込」を「袖摺返」と
あえて記載したのかは
私には判らない。
だが、この解説伝書では現行の群衆かき分けの「袖摺返」は
一切記載されておらず、「袖摺返」の名称で「袖摺込」が記載
されている。
また、英信流奥伝立ち業は11本であるところ、10本になっている。
これは前述した故大田次吉先生の大田(区)居合道研究会では
奥伝立ち業11本とされていたので、17代大江正路正伝は当然
にして「袖摺込」を入れた11本だろうと思われる。

口伝においては、私は「袖摺込」を故澤田友信先生および
日浦眞蔵先生、そして存命の師匠(82歳)から習っている。
この「袖摺込」にも足運びで替業が
ある。替業はよくよく修練
しないと抜刀して歩行しながらの左足前で左後方の敵を瞬時に
抜刀刺突するので危険を伴う。歩行は前に、上半身のみが左後ろ
の敵に向いて開いていないと剣先で自分の左手首甲を突き刺す
こともある。全剣連制定居合のように刺突と同時にへそ前に鯉口
鞘送りをしたら刀線の軌道上を左手が通過するのでなおさら危ない。
万が一、刀がこの動きの中で左手甲に触れたら、道場は血の海、
確実に救急車に搭乗となる。(保証します)

さらに、いろいろあるのだが、一部紹介すると、奥伝立ち業の
「行連」でも現行の一般的なものとは大きく所作が異なる。

中伝でも「稲妻」は立て膝から正面の敵の腕に抜刀斬りつけ
際に左足を引く(表)のであるが、この引く動作も「右後ろに
引く」
となっている。虎走りの時のような足さばきで、「真後ろ」
ではなく
「右後ろ」つまり右足の後ろに引くのである。当然、
体はひねりを
使って一気に「虎之一足」のように半身になって
抜刀斬りをする
ことになる。この業のこのような所作は山内派にも古伝として
残っているようだ。
だが、英信流谷村派では、現在は神伝流ぽく真後ろに引く人が多い。
谷村派古伝や藩主山内派のように「稲妻」で私が右後ろに
引いたら
「なんだあの英信流は」とか言われそうなくらいに
現在は別な形で
抜く高段者が多い。

それでなくとも、古流英信流を私が抜いていて、振りかぶりで
切先を後ろに思いきり下げていたら注意を受けたりする。
別な流派の先生や全剣連居合の際にそのような動作をして注意を
受けるのはもっともなことであるが、古流英信流を抜いてそれを
英信流の
方から注意を受けるのは、いささか腑に落ちない。

だが、こうした傾向、つまり「時代と共にカタチが変わる」という
傾向は伝統芸能や伝統武技ではよくあることで、いたしかたない
ことなのかもしれない。
前述したように、形(かた)はスケールであり、そこから大切な
要諦を学ぶことこそが大切で、その習得によって自由自在、
変幻自在に敵の動きに合わせての「居合術」が発揮できるの
であって、形(かたち)通りにやるのは武技ではないからだ。
ただし、そうした観点に立つのではなく、「それは英信流では
ないからおかしい」として実は逆におかしいことを言われても
こちらとしては困惑
するのである。
形(かた)はスケールだ。あくまでも想定動作
の目安である。
多くのパターンを抽斗に持っておくために、
多くの業の形(かた)が
先人によって案出されて伝承されて
来たのだ。それが時代や
習得者諸個人で微妙に、あるいは
大胆に変化していくのは
当然のことだろう。制定居合ではないのだから。
しかし、古い形(かたち)を抜いたら「誤っている」とされるのには
どうにも納得がいかないものである。

古流居合の形(かた)は狭義にには運指のスケールであり、
広義には音域を系統だてたコード(CやDやGの業ごとの区分け)
である。五線譜に音符を記載
してある制定居合ではないので、
自在に即興ジャムセッション
=変幻自在の業の繰り出し=ができる
ようになることが
術技の最終目標だ。従って、「なにがなんでもこう
あるべし」というものは、最終的には
解除されていく。それは否定
しない。だが、古い形(かた)は守るべきことでもあるのではないか。
これこそが「形(かた)あって形(かたち)無し」の
内実であり、
「構えあって構え無し」という居合を含む剣術に
おける高等領域
の中身であると私は思量する次第なのである。

過日記した「鞘引き」については、山内派では鞘引きに対する
考察が伝承されている模様だ。古伝の正流伝承だと感ずる。
ただですね・・・。歴史事実というのは裏の裏があるから(苦笑)。
我々谷村派が「表」と思っていることが実は裏だったり、正伝は
実は下村派に秘して伝えられていたかも知れませんよ。正統で
あると自認していた谷村派が実は歴史上英信流の真の姿を
ベールに包ませるための幕末のフロント・フェイクだったのかも
知れません。歴史の中での政策ではよくあることです。兵法ですから。
真実はアッと驚くようなことが隠されているかもしれない。
ですので、私も自戒しますが、武術研鑽者はあまり「自派こそ正当」
などというカタチに囚われないことが肝要かと思います。武技の
物理的目的は自派の正当性を述べたてまくることではなく、
「敵に勝つ」というただ一点ですから。
斬り倒されてしまうのも、敵に斬り勝つのも、流派など関係
ありません。長じている者が勝ち、未熟な者が敗れるのです。
ただそれだけのこと。
居合術というのも何もたいそうなものでもない。
「抜いて、斬って、納める」、ただそれだけのことです。ただし、そこ
には命がかかっている。どんな一刀にも命がけで抜いているか
どうかが重要な軸になってくる。
この深淵の意味を理解できるかどうかが古流居合を学ぶ上での鍵と
なってくると思われます。

私も土佐居合を学んで約四半世紀。
そろそろ奥居合を抜いてもいいかなと思っている。形(かたち)だけ
知っているのは居合ではないし、稽古を詰まないと技は錬れないから。


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すずめの兄弟

2013年01月25日 | 内的独白



♪すずめの兄妹が 電線で
 大きくなったら 何になる
 大きくなったら タカになる
 大きくなったら ペンギンに
 チュンチュン チュンチュン チュンチュン チュンチュン
 チュンチュン チュンチュン チュンチュン チュンチュン
 だけど 大きくなっても
 すずめはすずめ チュンチュン

てな歌がありましたね。80年代には。

鷹にならなくてもいいべ~。

色が似てるからいいじゃん(笑)

歌ってたこの人可愛かったけどな。


でもなんといいましょうか、髪型が80年代ですね(笑)
当時のアイドルってなぜ皆さんこんな髪型に?(^^;
聖子ちゃんカットとか呼ばれているけど、本家聖子ちゃんは
あの髪型にしていたのは短期間なんですよね、実は。
アイドルたちは多少バリエーションをもたせても、結局は同じ
ようなヘアスタイルでありやした。

菊池の桃ちゃんでさえ


感じがデビュー当時の中森明菜みたいだったし(笑)


こういう髪型ばかりでしたね~。キョンキョンが刈上げくんやらかすまでは。
キャラもポワ~ンとした感じの人が多かったよね。途中から明菜はなぜか
引退前の百恵路線になったけど。

それにしても、ボム全盛の頃の菊池さんはかわいかったですね~。



法政大学の大学院を出て、今では大学の先生になってしまったモモちゃん。
カワイ!昔の写真だけど(笑)

ま、康宏刀のオーナーでもあるし、いいっす!(^0^)



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サツキと渓と剣の岳

2013年01月24日 | 内的独白



サツキである。広島県三原市の花となっている。

サツキは旧暦の五月、夏に咲く。

私が個人でやる流派は早月(さつき)流。
でもまだ名乗らない。
一生名乗らず、自分の内だけにするかも知れない。


なぜ「早月(さつき)」という名であるのか。
すぐに判った人、それは植物と自然をよく知っている。
夏の渓(たに)川を歩くとこういう花をよく見る。

この淡い薄紅の色の花はサツキである。

渓流に自然発生しているサツキはこのような色をしている。

小麦色に焼けた夏の女の子に似合うルージュの色のようだ。

本来は渓流に自然繁殖していたのがサツキだ。
増水した濁流に呑みこまれても力強く生き残る。

サツキは学術的にも「渓流植物」と呼ばれる。


従って、渓流ゆえに早月(さつき)。(^^)
早月の流れというのは渓流そのものなのです。

ということのようです(苦笑


こちらは「さつき」とは読まず、「はやつき」と読む早月川。
大昔には延槻川(はいつきがわ)と呼ばれたらしい。
大伴家持(おおとものやかもち:718~785)が万葉集の
中で歌っている。

早月川は富山県を流れるヤマメなどのマス類がいる綺麗な川だ。
この絵、最高。遠くには白い残雪の剣岳が見える。(以下ネッターY興業による無断拝借)


夏の剣岳山頂付近はこんな感じ。どひ~。あびゅなっしゅ。
遠くに早月川が見える。

空の色違うし・・・・。剣岳は標高2999メートル。


こちら冬の剣岳。げひょ~ん。斬り合いよりも命がけのような気がする。

剣岳は遭難が多く、別名「魔の山」と呼ばれている。


と思っていたら、もっと凄い人がいた。どっしぇ~~!


え~と。まじっすか?(・_・)
登頂時、「滑落したらまずアウト」と書いているけど、まさに命がけの真剣勝負だ。



すべて自力、自分の足だけで登り、スキーで高低差2900mを滑り下りる。
「剣山頂から滑降する事は珍しくない。しかしすべて自分の足で山頂に登り上げて
ワンディで滑降する人はまずいないだろう。」とさりげなく言う。
そして、帰りは「転けたらまず助かる事は無い。」・・・・・(・_・)


レポートは→こちら


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