渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

運転取りやめですぜぃ ~台風17号~

2012年09月30日 | 外出・旅

台風の影響で停車した新幹線の中で2時間ほど待ったけど、
結局、新大阪から先の運転取りやめとなり、新大阪で降りる。
ホテルをソッコーで列車内から探して予約しておいたので
どうにか宿を確保できた。

大阪駅構内は払い戻しの乗客で長蛇の列だった。


ここでもやはり自分のことしか見えない客(そんなのは客ではないが)はいるもので、
「今日中に東京に行かなければならない。どうしてくれるんだ。どうにかしろ」と
JR職員に食って掛かったりしている。
どうやったらどうにかなるの?おせーてほしい。自分のために戦車でも出せと言うのか?
俺ね、こういう人間すんごくイヤなんす。
風速35mの中をてめえで東京まで歩いて行けよ、とか言いたくなる。
よくパニック映画などで、天変地異に際して、公務員や企業の人間に食って掛かる
「市民」がいるが、現実世界でもホントにいるんだなぁ、と思った。


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台風あはは

2012年09月30日 | 映画・ドラマ

現在、東海地区は風速30m。
鉄道、空路運行停止。
あたしゃ大阪手前で新幹線の中に缶詰めNOW!
ははは。
こりゃ今夜中に都内入りは無理だすね( ̄▽ ̄)
列車内でPC開いて仕事でもすっかな♪( ´▽`)

というか、駅の中で止まってるけど、ホーム側を後から来た新幹線がゆっくりと追い越していった。
それに怒り降ろせと言う乗客(笑
アホか、きさ~ん。
乗ってる線路が違うから、降りられる訳ないでしょ(笑
世の中、自分の事だけしか考えない奴多いなあ~。
地震、雷、火事、オヤジ。
どれも、どげんもならんが、一番どげんもならんのがオヤジかもなあ(笑
カルシウム足りないんじゃない?( ̄ー ̄)


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Japan, the country, and I know well.

2012年09月30日 | 内的独白



のんびりしていて暮らしやすいだろうなぁなんて思うけど、
人の心はそれほど朗らかにのんびりとはしていない。

やっぱ、俺はシティーがいいな。

ということで、今からおら東京さ行ぐだ。
滞在は一週間の予定なり。

刀剣柴田で新しい油買ってこようっと。
ダボダボと新しい油使うからね、おら。
刀に着けるのは常に新品の油。毎回新品。
あたしぁそうしている。
てやんでい!こちとら目黒生まれの秋刀魚よぉ、古い油なんて使えっかい、
ニョーボと畳と油は新しいのに限るぜ!てな感じなのだが、自分でも
どういうつもりなのかよくわからん。
まあ、初物好きということで。

あ、古ニョーボは十分に気に入ってます(笑)。
互いに十代からの知り合いだからね、空気みたいなもんだけど。
見た目はですねぇ・・・そうですねぇ、大福みたいな感じです。
若い時は本人は薬師丸ひろ子に似ているつもりだったようですが、
似ているのは髪型だけで、若い時からどう見ても樹木希林でしたよ、と。
 

最近では娘からは「おでんくん」にそっくりと言われたりしている模様なり。




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妖刀伝説

2012年09月30日 | 日本刀

私は妖刀伝説を信じない。
幽霊をそもそも信じない。
厳密には妖刀伝説や霊魂の存在を信じないというのではない。
「そういうこともあるだろう」くらいの感じなのだ。
いてもおかしくはない。不思議な体験も多くしてきた。
しかし、「だからなんなのだ?」なのである。
よく、日本刀について、「人を斬ったことがあるかも」ということで嫌う人が
いるが、私にとってみれば「はぁ?」なのである。

そんなこといちいち気にしてたら我々日本人の先祖たちは侍なんて
やってられないよぉ(笑
まして、刀屋さんなんて刀にとりついた呪いだらけで、刀屋なんて
やってられないよ(苦笑

では「なぜお前は毎年刀を神社でお祓いするのか」と訊かれたら、
それは「リセット」のためであると明瞭に答える。
本来の祓いのお清めは幽気を払い
除けるためでもあるが、私の場合、
刀のお祓いを他人に委託するので
はなく自分で持って行く。そして刀と
共に自分自身の邪気を祓う。
そして、本来は祝(はふる)は屠る(はふる)である。
私の場合、神社で刀をお清めしてもらうのは、刀に邪霊がついていたなら、
その邪霊に対して思い知らせるため、てなくらいの感覚だ。とりついていて
もいいよ、でも確実にあんた俺に呑まれちゃうよ、というような。
私自身の毎年元日の神社での日本刀のお清めは、そうした駄目出しの
節目としてリセットと位置付けて私は清めの儀式として設定している。
ただし、日本刀に御神酒はかけない。御神酒は私がありがたく頂く(笑


つきあいきれないなぁと思ったりするのは、日本刀について異様に
霊的な意味で怖がったり、「人を斬ったことがないから新作刀を」と
刀を
求めたりする人でして・・・正直私自身としてはつきあいきれん。
日本刀に対する思いは人それぞれでかまわないと思うのであるが、
それほど「人の死」について畏怖してそれに日本刀を絡めて捉える
のであれば、いっそ刀など持たない触れない見ないということにしとけ
ばいいのにと思うのだが、なぜ刀に接近したがるか不思議だ。刀が
かつては斬ったり斬られたり殺したり殺されたりの中心にいたことは
当たり前のことじゃないか。
その当たり前のことを当たり前のこととして捉えて受け入れることが
できず、自分の脳内で禁忌をこしらえて日本刀を精神的に排除しても、
それは現実の歴史とは関係のないことであって、まったく意味がない
ことだろうに。
そういうのは、何だか「武器があるから戦争が起きる」とか頓珍漢な
ことを言っている人たちみたいで気持ちが悪い。
武器が戦争を起こすのではない。人間が起こすのだ。武器は武器で
しかない。石でさえ殺傷力のある武器になる。ならば石に罪があるのか。

思うに、日本刀と幽霊を関係づけて考えるのは、やはり死霊としての
霊魂の存在や生霊としての「念」が人の生死を司った武器である日本刀
と密接な関係にあると日本人が夢想しちまったからだろう。日本刀にまつわる
霊的な伝説は枚挙に暇がない。
私の親戚の家でも、伝来の刀を売りに出したらその買い取り先で不幸が
起き刀が舞い戻る。さらにこれを何度か繰り返しているうちに、「この刀は
この家から出てはいけないというお告げが出た」とか言いだす拝み屋に
報酬払ってお祓いしてもらったりする。もうね、バカか、と。
買い取り先の家が倒産したり、病人が出たりしたのは日本刀とはまったく
関係ないだろっちゅーの(苦笑
それこそ、そんなこと言ってたら、先に言ったように刀屋なんてのは年中
倒産したり病気になったりしていなくてはならなくなる。不都合や不具合が
起きた
のを日本刀のせいにするなっての(笑

ちなみにこれは私の居合用の愛刀二口(ふり)。


上が天文年間の打刀、下が天正8年(1580年)製作の打刀だ。
天文年間とは鉄砲とキリスト教が伝来した頃、天正8年は織田信長
本能寺で死ぬ2年前、宮本武蔵が生まれる4年前だ。

いずれの刀も100%合戦で使用している。棟や鎬筋に切り込み疵が
あったり、矢を受けた矢目とよばれる食い込み疵が平地にあったり
する。たぶん人を斬っただろうし持ち主が斬られたかもしれない。
だけど、それがどうした?という感覚しか私にはない。
それに名だたる名刀などは、江戸期には必ず人体で様(ためし)を
していた。様(ためし)をして実用性に問題がないことを確かめて初めて
日本刀は武家の差し料としてふさわしいものとされたのだ。
武器たる日本刀はその本質において身を守るため、逆説的には
敵を「ほふる」ための利器である。人命が日本刀によって左右される。
それをいちいち刀という物体に対して禁忌を持ちだして忌避していたの
では身を
守ることさえもできない。
供養とか追悼の精神的行動は人に対して行われるべきであって、
物体はきれいに清めればよい、と私個人は強く思うのである。

誰だ?「日本刀は霊器である」などと初めに言いだしたのは。
「大切にすること」をそういう観点に持って行こうとするから、日本刀
に対して妙な感覚を持つ人たち(特に刀を帯刀していなかった人たちに
多くみられる)
が増殖したのだろうに・・・。
それが進むと妙なことになって、日本刀で銃器に勝てるとか思い込んだり
思い込ませたりして、更にそれが進むと竹槍で爆撃機に勝てると思い
込んだり思い込ませたりしはじめる。
武器は武器であり武器以上の何ものでもない、という現実から逃避して
何かそれ以上の存在であるように思い込もうとするのって・・・心が弱くね?
争闘者として自分の武器に信頼を託すという本来あるべき姿とは違った
妙な霊的なものを武器に求めたら、その武器が手から離れたら
どうする
のさ?(^^; 一発でアウト?

精神的屈強さと武器の効能は弁別して考えないと、負けちゃうよ。

悪霊が刀にとりついていたとしたら、その悪霊まで含めて引き受けて
我こそが呑み込んでやる、というくらいの気概でいないと、古い日本刀
なんて持てないよ。
そして、昔、刀を常に帯びた人たちは小さい頃からそういう精神的に強靭に
なるような教育を受けて来たのだから、ごく自然にそうした精神的頑強さが
素養として身についている。だから刀を持つにふさわしい資質が備わって
いる。ごく自然に。別名それらの人たちはサムライと呼ばれていた。
別に斬り合いするのがサムライではない。常備している精神構造が非帯刀者
とはまったく異なるのだ。強烈な独立心と自我がないサムライなど一人も
いない。歴史的にはサムライとはすべて己一人で決済したものである。
ただ、侍が消滅した現代においてことさらサムライを前面に出す人たちは、
そこに別な目的(売名や収益の見積)があるので、私個人はあまりサムライ論
を言いたくはない。本来武士のありざまなどはそれを飯のネタにするべきもの
では到底ないのだし、侍の血の流れの人は、現代においてことさらにサムライ
サムライとは言わないという現実も知っているからだ。侍とは無縁だった人
ほど何故かしゃっちょこばってサムライぶりたがったりする現実もよく見たり
している。
ただ、
日本刀にことさら霊的なことを求めたり、あるいは霊的なことを絡めて
畏怖したり禁忌とする人は、刀などには接触しないほうがよい。
精神衛生上よくないから。お花畑でも眺めていた方がよい。


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マン島レース

2012年09月30日 | バイク・車

HELL-YEAH-TT-RACE ★Streets~200mph★ . Isle of Man TT


これが早送りではないというところが凄い。
俺の高校の時の同級生、よくこんなレースに出たなぁ・・・。
直線で300km/h以上は出ているけど、200km/hコーナリング
走行の時に街中の建物や街路樹沿いというのがとんでもなく
怖い。
これじゃあ、広いエスケープゾーンと救急施設完備(含ヘリ)の
クローズトサーキットがいかに安全かということが我ながらよく
わかるよ。

動画のうち、転んで谷に落ちた人、助かったのかなぁ・・・。


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体内時計

2012年09月29日 | スポーツ・武道など



体内時計というと、既日リズムのことが思い浮かぶ。
生物は微生物に至るまで、生命活動における特定のリズムという時間を計る
システムが存在するという。神のいたずらか。

だが、人間の体内時計は25時間なので、そのずれを朝日を見ることでリセット
できるともいわれている。体内時計の研究は日本が先進国だ。

広義の意味の体内時計とは別に、狭義の意味の体内時計はスポーツなどの
メンタル面でも必要になってくる。
レーシングスポーツにおけるイメージトレーニングなどもそれで、私も昔よく
コース以外の場所で「筑波」「富士」などを走行するのを目をつぶってイメトレ
したりした。直線を走り抜けるところから開始し、すべての操縦操作を実際と
同じようにするイメージでコースを頭の中で周回する。
最終コーナーを抜けて、計測地点を過ぎるところまででタイムを計る。
すると、イメージが鮮明になってくると、現実に周回して走っているタイムと
ほぼ同じになる。長かったり短かったりした場合は、どこかにミスがあるので
そのミスをひとつひとつ探って消していく。実はこれだけで、現実の走行に
おいてもタイムが上がる。

居合道の場合、試合や審査では時間制限がある。
「始め」の開始の合図から最後に正面に礼をして携刀姿勢になるまでが
6分以内という規定がある。終了が短すぎてもいけない。また、6分を1秒でも
超過した場合は失格となる。
演武する業ごとにひとつの業の所要時間は異なるので、総合的なタイムとしては
演武者は時間を調節しなければならない。
私が通う尾道の道場でも、審査前や試合前には先生がストップウォッチでタイムを
計ってくれ、試合もしくは審査形式で練習をする。
演武後にその時のタイムを教えてくれ、それをもとに自分の中で規定時間内で
どれだけ冴えを出すかを修練する。
大体終了で5分45秒~50秒あたりにまとめるのが理想だろう。

この訓練が不思議なもので、繰り返して演武稽古をしていると、最初は5分30秒
で終わったり6分5秒で終わったりしていたのが、だんだんと5分45秒程度に
収まってくる。狭義の意味での体内時計が活性化してくることが自分でもわかる。

江戸期を想定した武術としては時間経過などは関係がないのだが、競技の進行上
現代武道の演武や試合のために時間制は導入された。スポーツ医学的にもこの時間
感覚の練磨という側面は私はとても面白いと思える。
規定時間を自分の体感で計るというのは、一見武術とは無関係のように思えるが、
実はある面で武術体系の何かと繋がっているような気もする。
それは、「拍子」や「間」との関係においてなんらかの接点がありそうな気がする。
確証はない。なんとなく、ぼんやりと感覚的にそのような感じがするのだ。

だが、その関係性が何であるのか、私個人はまだ解明できていない。

毎日、居合のことばかり考えていると、脳みそがパラパラ踊りそう(苦笑

おお。私はツイッターはやらないのだけど、検索で、九州のある先生のツイートを
読むことができた。拙日記をお読みいただきありがとうございます。
ブログの件は残念でしたが、いつも応援してますよ♪


 


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実践刀術研究同志会

2012年09月29日 | スポーツ・武道など

漫画家のとみ新蔵さんのブログから転載。

実践刀術研究同志会


う~ん。
合撃打(がっしうち)については、ちょっと違うと思うけど・・・。
まあ、私は遠方に出向いて新陰流の師範の先生から習っただけで、
私自身は新陰流の正式門下生ではないから
なんとも言えないけど。

だけど面白い動画です。
使っている道具に結構興味が引かれた。


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深度 ~居合道~

2012年09月29日 | スポーツ・武道など



古流居合の稽古において、居合を始めてからの年数や、あるいは練度によって
「この業を抜くのはまだ時期が早い」というのは私はないと思っている。
例えば、全剣連制定居合の場合はどうか。
初段だから七本目の業を覚えるのは早いとか、五段以上だから十二本目の業を
稽古してもよいとかいうことはあり得ない。
古流にしても同じで、初心者でも奥伝のすべての業まで知っていたり稽古して
もよいと私は考える。但し、練度が低いならば人前で演武したり試合では抜く
べきではないとも私は思う。

ただ、稽古においては、自ずと学習の内実の深度がビギナーと熟練者ではかなり
異なるという
ことが生じるだけで、他には何ら支障は出ない。
言ってみれば、同じ海の中にいて、海の中から水面を見上げた時に見える景色
色が深度によって違って見えるようなものだ。
それでも、居合剣士は互いに同じ海の中を泳いでいる。

ただし、古流の場合は、奥伝に行くほど、業自体の難易度が上がるという傾向が
あるので、初伝よりは身につく時間がかかるということは確かにある。
これは全剣連制定居合でも同じで、全剣連十二本目「抜き打ち」について「ただ
抜いて切るだけだから一番簡単」と思ったら大間違いだ。十二本目が一番難しくて
高度な業だと私は思う。
全剣連十二本目「抜き打ち」の要義は「相対して直立している前方の敵が、突然、
切りかかってくるのを、刀を抜き上げながら退いて敵の刀に空を切らせ、さらに
真っ向から切り下ろして勝つ」というものだ。居合の真髄がここにある。だからこそ
連盟居合の一番最後に位置づけられているのだろう。簡単なわけがないし、抜刀
だけ
でなく、「抜きながら体さばきしながら切る」というかなり剣術的体さばきの要素も
強く、単なる抜き面ではない。土佐英信流や日本剣道形にも似たような業があるが、
一見単純簡単そうな動作で実に奥が深い。

古流の形すべては、連盟段位二段~三段までの初心者のうちにすべて覚えて
おきたい。全剣連制定居合の全十二本は初段までにすべて覚えておきたい。
三段では確認→固め段階に入り、五段あたりからは審判もせねばならぬ高段者
として練り→完成域の入り口に踏み込む。
三段といえば、全剣連では取得までに最短で3年かかる。五段は最短で10年の
修行年限がないと受験資格がない。だから、剣道連盟においては、中学から始めた
としても、大学生の最高段位は四段までということになる。
ただし、練度としては「初段が抜く一本目」「三段が抜く一本目」「五段が抜く一本目」
といったような差異はどの連盟でも出るが、これは練度が演武に反映されるという
正しい現象でもある。否、正しいも正しくないもない。稽古の深度と内実の充実度は
確実に演武者の業に出るものだ。仮に同段位で差がでるとしたら、それは修練の
「密度」が異なるといえるだろう。同じ1ヶ月でも、週1回道場通いと毎日稽古では
当然密度が異なる。さらに学習の中身如何によっても密度が異なる。
だが、剣道連盟は基準として年限で区切って受験資格を付与している(ただし、例外
として飛び段の規定はある)。
俯瞰するに、時間をどれだけ有効に活用して稽古をするかが上達のカギとなってくる。


最近、全剣連所属修練者において高段者になっても自流派の古流の業を殆ど知ら
ないという剣士も
増えていると聞く。俄かには措信しがたいが、古流の業は3本くらい
しか知らないまま五段や六段を受験する人もいるという。あとは制定居合だけ稽古
するらしい。制定居合が本来の趣旨を外れて受験段位のためだけになっている。

全剣連制定居合は警視流ではない。全剣連流などという居合流派はない。
居合は古流こそが中心幹であり、全剣連制定居合はその制定趣旨においても
「剣道人のための入門的なもの」、「剣居一体」、「古来の流派も併せて研修が必要」
との趣旨を謳っている。古流修練をないがしろにすることは、全剣連制定居合設立
の精神にも反するのだ。
そして、制定居合の精神と業には古流の術技と理合が柱として貫かれている。

大いに自流派の古流そのものを深く学んでほしいと思う。

古流で自習したことについては、同流の先生を質問攻めにするのがいいと思う。
中山博道先生は、人からの質問に答えられなかったことは何一つもなかったという。
博道先生ほどまでは行かなくても、高段者はかなり自分の中で理論についても
「整理」ができていないとならないだろう。当然、制定居合を知っているだけでは道は
開けない。
居合人は古流を学ぼう。

(全剣連制定居合は中身がかなり完成度が高いから、制定居合も大切ですよ)




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日本の伝統

2012年09月28日 | 文学・歴史・文化



先日、居合で備後福山城に行った時、居合仲間が「再建前の福山城は
一部が黒い城だった」と教えてくれた。
その時は、「へ~。岡山城や熊本城みたいな感じだったのかぁ~」なんて
思ってた。

古い資料を見てみたら・・・

福山城(維新直後)



こんなん出ました~。


ネットでこの古写真を見つけたとき、脳内では、あの青い三角定規の
イントロとともに次のシーンが浮かんだ。

生徒「先生よぉ。違うじゃねぇかよぉ」
河野先生(村野)「柴田、片桐、おまえたちの気持ちはよくわかる。だがな・・・」
教頭先生(穂積)「ま~ぁまぁ、こーの先生」
という『飛び出せ!青春』のシーンが蘇った。
そう、彼は高校教師。
センセ、ちゃいまっせ(^^;)

(後日談。「全部黒とは言ってない」とのことだそうです。確かに)


『飛び出せ!青春』はじめ、学園ドラマの動画はyoutubeではつい
最近まで大量に観られたのですが、ことごとく削除されていて今は
観る事ができません。

『飛び出せ!青春』、『われら青春!』の日テレ青春ドラマの金字塔は
タイムリーに見ていて、同級生たちはこのドラマの影響で教師に
なった人たちが結構います(笑)。
その後に続く『金八・・・』はNHKの『中学生日記』のようなシリアスな
面もあり、あまり個人的には好きではありませんでしたが、この『青春』
シリーズはラグビー or サッカーを通じて落ちこぼれの生徒たちが
懸命に若い時代を生きていくという根っから明るいドラマで好きでした。
村野武範さんと中村雅俊さんはこの「太陽学園」が舞台のドラマでメジャー
になりました。

私も中学の時は、将来は上野国立博物館の刀剣室に勤務するか教師に、
なんて思っていましたが、結局高校でバイクとギターと可愛い彼女♪
三昧のロケンローな青春を過ごして全く勉強しなかったので(ひとつも
しなかった)、ドボンでやした。大学でも途中で教職課程捨てちゃったし。
だけど、学生時代はM越の百貨店や夜の世界などでもバイトいろいろ
やったけど、一番実入りが良かったのが家庭教師という・・・(^^;
う~ん、う~ん・・・。そんでも、教えた子が学校でベンキョできるように
なったり、希望校に合格したりした時は、やっぱしウレピ♪てな感じでね。
銭金ではなく、ささやかな小市民的な幸せを感じたりもするわけです。
ところが、世の中別人生を歩む奴もいるもので、幼稚園の時からの大親友
がいるのだが、そいつはやはりバイクと可愛い彼女♪三昧の高校生活
だったが、気がつきゃ防衛庁背広組でそこそこになってた。北に攻められる
前にこちらからミサイル撃っちまえなんて公式発言したりして、おいおい
大丈夫か?なんて思っていたが、PKO法案可決の前に中心で動いていた
こやつ(PKOはこいつの国内外での活動が大きな研究資料となっている)
は、例の数年前のナンジャラモンジャラ問題で政務次官と共に更迭でドボン
した(苦笑
最近連絡とってないが、ネット情報では離婚もしちゃったみたい(^^;
こいつは4~5歳の時から「将来は総理大臣になる」と言ってたやつだったが、
例の一件で目はなくなったよな(苦笑
こいつ、高校の時、スズキのGT380乗ってたよ。一度そのサンパチで
やつと2ケツで湘南流したけど、めっちゃ早いマシンだった。やっぱ2ストは
いいね。大学の時もやつはそのサンパチをまだ持ってたなぁ。


それはそうと、先ほど、金スマで熊本のイグサ農家のことについて
放送されていました。
現在の日本の畳表は80%が中国からの輸入なんですって。
熊本のイグサ農家は現在激減して、633軒しかないのだそうで。
うちのかみさんの実家はそのうちの一軒で貴重な農家なのだなぁと
思ったどす。かみさんちの近所の農家が出ていた(^^)
広島東部-岡山西部の備後地域も、かつては「備後イグサ」が有名でしたが、
実は備後イグサの晩期にはその
ほとんどが熊本からの「国内輸入」だった
そうです。

亡くなった妻の父が私に伝えたところによると、熊本イグサを極めて安く
買い叩いて「備後物」と称して販売していて熊本の農家は泣かされていた
そうで、義父は備後に対して良い印象を持っていませんでした。もっともだ
なぁ、と思います。国策で
生産地を保護する等の計画を立てずに金権主義
だけで経済活動を続ける
と国内生産者はやがて死滅する、とも義父は言って
いました。

ああ、資本主義の悪しき第三世界搾取構造が国内で起きているんだなぁと
90年代初期に私は感じていましたが、その後、やはり「銭金、儲け」が
優先される日本の国内状況はさらに進行して、日本のイグサは現在死滅
しつつあります。

日本伝統の畳というものはそのうち存在しなくなって、100%中国からの
輸入に頼るようになるのではないでしょうか。
国産の畳表と中国産の畳表では、質がまったく異なることが金スマの番組
で紹介
されていました。
国産の熊本イグサなどは、イグサ自体が細いので、織ったときの目が細かく、
品質がとても良いそうです。それに比べて中国産はイグサからして違うので
目が粗いらしい。

さて、イグサといえば、私などは畳だけでなく、20年ほど前に試斬で古
畳表を
散々切ったのですが、それは畳屋さんから貰い受けた国産の物
でした。当時
は国産畳表が主流でしたから。
最近見つけたアメリカの日本刀試斬愛好家のサイトで、日本産イグサと
中国産イグサを切り比べているページがありました。
日本産は目が詰まっていてとても切り応えのあるものですが、中国産は
スカスカで、硬く巻いても簡単に切れてしまうそうです。
そのサイトでは「畳表は日本産に限る」とのことで、アメリカ国内では
入手しにくい日本産の古畳表をとてつもなく大量に輸入していました。
試し斬りのためだけに(^^; やることがでかいね、アメリカン。

そういえば、最近の動画サイトなどで試斬愛好家が切断している畳表は、
見ていて妙にスパスパ
軽く切れています。私は「?」と思っていましたが、
どうやら畳表自体が
80%中国産という現実に沿ってほとんどが中国産の
スカスカの畳表なのではない
でしょうか。
また、薬品漬けにして畳表を柔らかくするという裏技もあると
聞き、「そうまで
して切り易くして何を得ようとしているのか」と私などは
疑問に思ってしまい
ます。
多分「切断できたらOK」とする風潮、20年前
あたりから出始めて抜刀道の
団体がその捉え方をめぐって分裂した時代から続いた
現在蔓延する風潮が、
「切り易い畳表」を求めているのかもしれません。

横並びに沢山畳表を立ててそれを切断したり(しかも青龍刀のような6センチ
もある身幅の「日本刀らしき刃物」を使う)、横に畳を並べて
土壇斬と称して
やはり中華包丁のような身幅の日本刀ぽい刃物で
ズドンとやって「何本切れ
たか」をやったりするのを好む人たちには
柔らかい畳表が好かれるのでしょう。
「どれだけ切断できたか」が価値基準の中心になるから、日本の武士が帯刀
したような尋常の体配の日本刀ではなく、日本の歴史ではあり得なかった
形状の刃物を刀工に作らせて使用したり、柔らかくて切断し易い
ように畳表を
加工したりするのでしょう。

私は中国畳表を切った事がないのでなんとも言えませんが、最近流行の
安畳表(樹脂製?)は数年前に斬ったことがあります。これは硬すぎて切れた
もんじゃない(笑)。私は斬術を少々切り覚えてはいますが、それでも硬い樹脂畳
を切る意味は見出せませんでした。切れて「どうだ~」という価値観を持つことに
意味が見つけられなかったからです。

何事も、獲物や対象物を特化させ過ぎるのはどうかと思います。
先ごろ、競泳用の水着が規制されましたよね。
私個人はあれには賛成です。物を科学力で進化させて着用して競技する
ならば、その物を手に入れられる人だけが圧倒的に優位に立つからです。

こうなるとスポーツの公正妥当性を著しく欠く。
日本刀の場合、大切れする(=切断だけを目的とする)ためだけに
身幅が尋常ならざる刀を使用するのは、それはもう居合や抜刀道とは
別ジャンルの「物切り合戦」になると私個人は思うのです。
そういうジャンルを否定はしませんが、何も袴はいて日本刀のような外装を
つけて侍の真似してやらなくてもいいじゃない?とか思ったりもする。

なぜならば、絶対にそういうのは侍ぽくないのですから。

試刀についても、実は江戸時代からすでにそれが言えていて、専用の
堅固な「切り柄」を
はめて、鉛の重たい鍔を着けて、そして台の上から
飛び降りざまに
死体を切ったりして刀の切味に「ハク」をつけたりしました。
それでないと、
脇差あたりで死体3人分を重ねた人間の胴を切断して
土壇払い(下の
砂の土台まで刀が達すること)など、ただの一振りで
できるわけがあり
ません。
これが進むと、現在残存している銘で最高の胴体の数は七つ胴で、人間
七人分の死体を重ねて一刀で切断した、というものですが、これも当然
高い台の上から飛び降りざまに切断しています。
こうなると、もう刀の切味というよりも、そういう曲芸のようなことができる
山田浅右衛門氏の技こそ注目すべきになってくる。
ただ、刀には錘をつけて重くしているので、ノーマル状態での切味の
検査にはなってません。ひとつの別ジャンルと見るべきでしょう。

金スマの番組で、畳表需要の減少について生産者が言っていたのは、
「最近の若い人が畳の香りを『変な匂いがする』と感じて嫌う」ということ。
私などは、試斬とは別に畳とは切っても切れない(駄洒落でなく)関係に
ある日本人ですので、幼い時から畳と共に生活していました。
畳のない部屋に居住したのは、いままでの人生では都心フローリング住宅
での最後の4年間だけ
です。やはり、畳の部屋がないと落ち着きません。

このままだと、残された20%ばかりの国産の畳も近い将来に全滅するのでは
ないかと私は思います。
歴代政府の無策(というか意図的にやってると実は思うが)が招いた結果で、
それは現政府ではなく、戦後からずっと続いている日本政府の国策がどんどん
国内の生産力を奪ってきたものです。政財界は「企業の儲け」優先ですから。
次の総選挙では自民党が与党に返り咲くでしょうが、今度の自民党総裁は・・・
統一協会ですか・・・(苦笑
自民党総裁に「あなたは『美しい日本』とか言ってましたが、霊感と称して日本の
老人騙して壺を数千万円で売りつけまくったり、信者の若い女性に『血分けの
聖なる儀式』と称して教祖や幹部との肉体関係を公式に組織として迫ったり、
全世界を韓国語で統一しようとしてるあなたの極めて親しい洗脳団体のことは
どうお考えですか」と尋ねてみたい気がする(笑)。

国民の意思ではなく、永田町が選んだ永田町政治の再来。
そういう世の中なんですね、この国は。
畳と共に国も滅んで行くような気がする。

日中問題が国連でも沸騰しています。
石破氏が先日「現政権の弱腰外交を批判するむきもあるが、中国にそうさせて
きたこれまでの私ども自民党政権も同じ事をしていたのだ、ということを私たち
自民党は肝に銘ずる必要がある」との趣旨の発言をあるTV番組でしていて、
自民党の中にも自分に刃を向けて自省できる人がいるんだなと期待していたの
ですが、「やんぴ」と総理を自分都合で辞めちゃう人が選挙システムを巧みに
利用して返り咲くのですね、この国は。なんだかなぁ、ですが、やはり「民主主義」
というものが日本には育っていないのでしょう。石破氏は「軍事政権、軍事力を
背景にした勢力が政権を握るという社会は、日本に限らず絶対によくない」とも
言ってましたが、彼は総裁選で敗北しました。
これも「日本型政治」の伝統なのでしょうね。
「伝統」というものがすべて良いものではない、という見本を見た気がしました。


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タマの食事

2012年09月27日 | ポチたま

タマの食事。


ポチは相手にされない。

妙にアメリカのアニメ風。

 


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あまたさぶらいたまひける御方の来訪深謝(笑)

2012年09月27日 | 内的独白



ありゃ。
毎日平均600人台の来訪なのだが、昨日はいつもより300名ほど
増えてる。

ま~たどこかにURL貼られたな(笑)
どうせヱヴァ展の時のように、「痛い」とか「ワロタ」とか「キモヲタ」とか
「小並感」とか
書いてニュー速あたりに貼られているに違いない(苦笑)。
そういうの抜きで
記事に興味持って来てくださる一般閲覧者は毎日平均
500名程かなと思う
。あと150名は検索ヒットではなかろうか。わがんねすが。

だけど、昔、パレスチナ問題を書いた時に1日4700人が来訪した
のには少し驚いたですよ、と。
検索ヒットだろうね、あれは。


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鍛造刃物 ~焼き入れについて~

2012年09月26日 | 刃物

ここ10年ほどで気づいたこと。
ナイフマガジンなどで鍛造刃物特集が組まれたりしたせいか、
趣味で炭素鋼を使って鍛造刃物を作ることが流行っているようだ。
炭素鋼は簡易炉ともいえる七輪でも焼入れが可能だ。
ただし、然るべき冶金の専門書籍を熟読したり、確かな鍛冶職
から直接情報を得たりすることをせずに、インターネットだけの
情報で鍛造刃物の製作に手を出す人が多いように見受けられる。
私は専門職の鍛冶屋ではないので偉そうなことは言えないが、
ネットだけで情報を得た人たちに共通することは、絶対に外しては
ならないコトガラに対して無頓着で、思いつきや無知のまま熱処理
の作業などをしている。
そして、そのような方々はどの方も熱処理作業工程で失敗している。
冶金学を専門的に学ばなくとも、きちんと「法則」について知悉して
いないと、必ず失敗する。釘の打ち方も知らないのに
家を建てることは
できない。それと同じだ。


ネット情報は玉石混淆なので取捨選択する「読む側の力」が必要となるし、
また、大切なことはあまりネット
などには出ていない。

ネットを見ていると、焼入れの際の炭を備長炭で焼き入れしたり、私から
すると薪のような考えられない大きさの炭で焼入れを試みるなど、目も
当てられないケースが多い。「炭切り3年」と言われている意味が解って
いない。というかそういう言葉も知らないのだろう。だから炭を切らずに
そのままバーベキューでもやるが如く丸投げで使う。

知らないことを思いつきでやり上げても失敗の問題解決にはならない。
知らなければ
知ろうとする意欲がないと何事も目標には到達しない。
まして、炭素鋼でない軟鉄で焼入れをしようとしている人たちもいて、
言葉を失う。
また、焼き入れにしても、「冷却水」という言葉がよくないのか、冷水で
焼き入れして焼き割れを起こしたり、逆に油焼き入れで油を適温まで
加熱せずに冷油のまま赤めた鋼材を突っ込んだり、もうちぐはぐさに
「どうしてそうするの?」「なぜそうしたの?」「それの意味は?」などと
正直言って思ってしまう。
英語やフランス語は温度に関係なく「水」でしかないが、日本語は
感覚的な温度により「水」は「湯」という表現に変わる。焼き入れの際の
冷却水の「水」とは広義においてのH2Oのことを指しているのである。
具志堅用高さんの好物は「ホットアイスコーヒー」だそうで、それをTVで
紹介されたとき、出演者たちは笑っていたが、具志堅さんは不思議そうな
顔をしていた。私は具志堅さんの感性はいいなぁと思った。具志堅さんは
ウチナンチューだが、日本語の感覚としては英仏のように「水」で大括り
することをしない。日本語には水があり、冷水(れいすい/ひやみず)があり、
湯があり、ぬるま湯があり、煮え湯がある。
炭素鋼の刃物の焼き入れに使う水は「ぬるま湯」であるのだ。焼入液に
水を使った場合の温度は10℃~30℃の範囲、油の場合は60℃~80℃を
保持する。この温度こそが、古来から秘伝とされた「湯加減」というもの
だが、冶金学的に科学的な数値としては上記のような温度粋になる。
これを外すと適正な焼きは入らない。何らかの不具合が必ず出る。

最低限、「炭素鋼」、「変態」、「変態点」については理解していないと話に
ならないし、その他にも沢山知っておくべきことがある。
作業を円滑に進める鍛造の手業も大切だが、熱処理や鍛造そのものの
関する基本的な知識がないと、「何のために何をするのか」ということが
分からなく
なるだろうと思うが、生半可な誤った知識のままエイヤッでやって
しまう人たち
が多いのは事実のようだ。
鍛冶鍛錬はすべての一動作に「意味」がある。意味のないことは一切しない。
だから、「何のために何をするか」ということが自分の中で整理されていない
と、やっていることが意味不明になる。
ゆっくりやるべきところを粗雑にパッパッとやったり、逆に俊敏に進めなけれ
ばならない作業工程をのんびりとのろまを決め込んでいたりしたのでは
まったく作るものは形にならない。
とにかく「勉強」が必要だ。知識と実践という両面について「勉強」が必要だ。
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」というのがてきんめんに現れるのが
人が鉄と接するときだ。


焼き入れという熱処理において、鍛造刃物の製作者ならば誰でも知っている
ことだろうが、一応図で最低限のことを示しておく。


鋼をオーステナイト化させる変態点まで過熱し、急冷すれば鋼の
立方格子が一気に「変態」して焼きが入る。鋼内部ではいわゆる
マルテンサイト
変態が起きる。
その際に、鋼は一度縮んでから冷却時の変態点を過ぎて急激に
膨張する。日本刀などはこの変化を利用して「反り」をつけている。
刀身は、一度刃側に縮んでから後、棟側にグーンと反り返っていく。

このときのストレスに耐えられなくなったら、亀裂という焼き割れが
入る。急冷した瞬間には割れは出ない。マルテンサイトが膨張する
際に割れる。
これは何も日本刀だけではなく、炭素鋼全般に当てはまる。
切先から先に湯に投入したら切先から焼きが入るし、刃を下にしたら
刃側から焼きが入る。さらに、焼き刃土の置き方、引き方によって、
早く冷える部分から変態が始まる。入湯の角度によっては真横に90度
近くまで曲がる反りが出てしまうこともある(私が主催したキャンプ場での
鍛造刃物焼き入れ会や刀工の鍛冶場で実見済み)。

焼入れによる熱処理はある意味鋼に急激な無理な動きをさせている
ことに
なるので、その影響を受けやすい弱い部分はもろにそのストレス
晒される。
鋼は焼き入れ後も焼き戻し後も「元に戻ろう、戻ろう」として変化して
いる。肉眼では見えないところで鋼は動いている。微妙なところで
鋼は「均衡」を保つように人間によって手が加えられた物だ。だから、
その均衡が崩れたとき、焼き戻しから数日たった頃でさえもピキンと
いう音と共に割れが生じたりすることもある。刃物としての鋼が安定
するには数年を要するといわれているし、千年経とうとも炭素鋼の
刃物は「元に戻ろう」と動いている。日本刀の刃文(マルテンサイト
部分)は数万年で完全に消失すると学術的にはいわれている。

焼き入れの際の割れについては、事前にほんの少しの加工を焼き
入れ対象物に施してあげることで、変態に
よって起きる影響を極力
少なくしてやることができる。

角が立っている部分は、変態による影響を受けやすい。だから、焼き
入れ前の整形で
丁寧に丸くツルツルに仕上げてやる。しかも均一に
丁寧に同じ比率の丸味をつけて
やる。
焼き入れ前の整形した
刃物(これから刃物に変身する物)の刃先に
「焼き代」を作るのは常識だが、ここを丸く綺麗に仕上げて
やるだけで
焼き割れは大幅に防げる。
舟と呼ばれる水桶(実は水ではなく20℃前後のぬるま湯。古来より
その温度は「湯加減」と呼ばれ、熱処理における大切な条件のひとつ
だった)に冷却のために入湯させる際の刃物の進入角度も焼きに
大きな影響を及ぼすので細心の注意を払う必要がある。槍のような
長い物で反りをつけたくない物は竹のような筒に湯を張り、真下に
投入したりの工夫が必要となる。
本当は焼き入れ前の整形の形状以外に多くの要素が複合的に影響
しあって「割れ」は
起こるのであるが、コーナーの角を丁寧に取るだけで
ある程度割れは
防げる。
ただ、「残留応力」の影響も多分にあるので、ベルトサンダーなどで
片側のみ削りまくったりした場合は大抵失敗する。刀工が刀を整形する
際に手作業でセンをかけることには大きな意味が含まれている。


鍛造や熱処理については、最低限の基本的知識が必要だ。
最近は、英単語の動詞 go の過去形を知らなくとも(つまり英語の
過去形そのものも知らない)入学できる大学があるようだが、それでも
卒業したら文科省が認める「学士」だ。
だが、中学一年の英語力がない者と宇宙船を飛ばす仕事に就く者が
学歴としては一緒というのは、やはり何かがおかしいように思える。
学歴ではなく、実力としてどうなのか、学識として中身がどうなのかが
大切な本質のような気がする。学識を学力と置き換えてもよい。

鍛造刃物の熱処理の場合はどうか。
新潟の故岩崎航介刀工のように大学の工学部で冶金学を学ばんと
東京大学に入学しなおすケースというのは特異だが、そこまでしなくとも
最低限の知識は「物作り」の際には必要となる。

かといって、専門職の鍛冶屋がすべて冶金学的に適切な処理を適切な
知識によって行っているかというとそうでもないケースもある。
かつて、こんなことがあった。
私はビリヤードのキュー先のタップを整形するために使う「皮裁ち包丁」を
「町の鍛冶屋」に頼んだことがある。
使う鋼の種類を尋ねたら「鋼だ」としか答えない。まあ、これはこれでも
いい。自分が使う鋼の性質にさえ精通していればいいと思った。
できるかできないか尋ねたら「できる」と言うので3丁作ってもらうことに
した。
でき上がった皮裁ち包丁でキューのタップを切ったらボロリと刃がかけた。
他の2丁は友人に進呈していたが、不安になり電話したら「刃こぼれして
使えない」とのことだった。軽率に出所不明(不明ではないのだが)の刃物を
人にあげることの愚かさを恥じて友人に詫びた。
鍛冶屋に文句を言うつもりもなかったが、後日、鍛冶屋の前を通った時、
別な
作業をしているのを見た。キンキンに鋼を加熱しまくって(溶ける寸前
まで)
から叩いていた。こりゃ駄目だと思った。

趣味で鍛造刃物を作る人は本職ではないにしろ、最低限の知識は持って
おかないと、失敗の可能性が限りなく高くなる。
以下の書籍をおすすめする。

このうち、左の『熱処理のおはなし』(大和久重雄/日本規格協会)だけは
最低限読んでおくことを切にすすめる。

一部引用紹介してみよう。
「1100℃以上に加熱するとたいていの鋼は粗粒となるので,これを加熱(オーバー
ヒート)といい,これは避けるようにしています.オーバーヒート以上に加熱すると,
結晶粒界が溶解し始めます.こうなると鋼の表面から火花が出るようになります.
この状態を燃焼(バーニング)といいます.これでは鋼は使いものにならず,死んだ
と同様なので,死鋼(デッド・スチール)といいます.
 オーバーヒートした鋼は火造りしたり,熱処理によって回復することができます.
オーバーヒートしたと思ったら,いったん火色がなくなる温度(黒づく温度,約550℃)
まで下げてからA1変態点以上に再加熱すればよいのです.これを結晶粒の調整
(グレーン,リファイニング)といいます.」

この後、「鋼の結晶粒に及ぼす熱処理の影響」の図を示しながら、鋼の火造加工
の「外してはならないこと」について分かりやすく解説している。
他にも、全204ページに渡り、大切なことを簡易な文章で、図や写真を示しながら
熱処理について網羅して解説している。

たぶん、多くの鍛造に関わる人たちはこの書を読んではいるのだろうが、趣味で
鍛造刃物を作ってみようとしている方々には必読の書なのではないだろうか。
1982年初版。私は1994年発行の第21刷を持っている。
鍛造刃物を手がけない方でも、刃物や日本刀に興味がある方には読み物としても
十分に面白い書であるので、ぜひ推奨したい。(定価1200円/税別)

Amazon 『熱処理のおはなし』


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居合人口

2012年09月26日 | スポーツ・武道など

私が通う尾道の道場の内訳は、連絡簿によると
全日本剣道連盟居合道段位で、

 七段 2名
 六段 3名
 五段 6名
 四段 2名
 三段 2名
 二段 2名
 初段 2名
 段外 4名

そのうち、毎週稽古に来るのは約半数。
もちろん、高段者の先生方は毎週いらっしゃるし、道場の稽古日以外
でも時間を作って他の場所で稽古されている。そうでないと、県代表の
全日本の選抜選手などにはなれないし、稽古せずして高いステップへの
道が開かれるはずもないと私は思う。
なにも、選手になったり、段位を取得するのだけが修練の目的ではない
だろうが、ひとつの自分自身の励みや節目になることだけは確かだろう。
無論、お年を召したり、体調に気遣いながらだったり、仕事が激務になったり
というのは人それぞれなので、各人の状態に沿った形で焦らずに稽古する
のが望ましいと思う。高齢なのに20代と同じ稽古をしたら身体的に不具合を
生じることもあるし、体に故障をきたしていれば完全に治癒してからでないと
傷病が悪化することもある。
大切なことは、焦らずに、長く稽古を続けることだと思う。
事情があって現在は稽古を休まざるを得なくなっても、心が居合と途切れ
ないようにするのが大切なことのように思える。


昨今、居合人口は増えているのか減っているのか詳らかなデータは
不明だが、比率的に高段者の数に比べて低段者が少ない傾向が
各都道府県で目だってきているらしい。
居合を始めてから段位を取らないうちに辞めてしまう人が結構いると聞く。
思い起こせば、私が知ってるだけでも、以前の道場でそのような方が
数名いた。刀から居合道着からすべて揃えて、そして稽古10回以内で
やめていく。こういう人が多いらしい。逆に、
ある一定の線を越えると、
どなたも長く続ける傾向にあるようだ。

ただ、高段者の比率が多くビギナーが少ない傾向は、少子化が進む中、
今後もますます進行していくことだろう。

居合って、少しでもできるようになると、とても面白いのだけどな。
自分が飛びたい大空を自分の羽根で飛べるように、若い翼が新たに
この世界に訪れることを期待したい。私自身も地道に稽古を続けます。



 


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稽古の稽古 ~尾道~

2012年09月25日 | スポーツ・武道など

18:30~21:00は尾道東高校武道場で居合の稽古。

本日のテーマはこれ。

目の錯覚-女の人が回る


この動画、右回りに見えますか?
それとも左回り?
実は、右脳と左脳の働きにより、どちらに回っているようにも見えるのです。
私の場合は、途中でパッパッとどちらにも任意に逆転して見えます。

この絵をよ~く見てください。

そもそも原画が、見方によって左足を軸か右足を軸か、
どちらにも見えるように描かれています。左足が軸なら
女性はこちらを向いていて、右足が軸なら向こうを向いて
いるように見えます。

本日の居合の学習テーマはこれです。
居合で危険な状態というのはいくつかのポイントがあって、
「切りつけた直後」、「切り下ろした直後」、「背中を向けた瞬間」、
「血ぶりの直前」、「納刀の瞬間」等々。
いわゆる「隙」が出やすいのがそれらの「直前」「瞬間」「直後」で、
つまり「間」と「拍子」を敵に盗られると隙を突いてやられてしまう、
というものです。
こうなると、こちらの敵に対する処し方は居合ではなく立合の領域
にも入ってくるようにも思えますが、大切なことは「いついかなる
状況下でも即座に合わすことができる」という「居合=居合う」ことで、
仮に「血ぶり(古流での呼称は「血ぶるい」)」を行おうとしている
瞬間でも、敵が切りかかって来たならば即応できる状態にないと
ならない、ということです。
そのためには、どんなときにも「居つく」ことがあってはなりません。
横血ぶりでもこめかみにもってくる血ぶりでも、体がいつでもパッと
即応できる下半身の状態を意識する。それには、ドデッと膝に全体重
をかけていたり、片足にのみ体重をかけていては即応できません。
「軸重」とは全体重をそこにかけるのではなく、あくまで体転を自在に
できるための一過性の「軸」である必要があります。

「隙」と「危険度」の状態についてさらに述べると、「切り下ろしの瞬間」
にも隙が出来やすくなります。
これはどういうことかと言うと、人間はアクションを起こしてそれに
行動が推移してからは容易に軌道修正ができないということを指し
ます。つまり、切り下ろしている最中に直角に刀線も体の移動も変化
させられないということ。変化させるには、科学的には0.2~0.3秒
かかります。これは脳が察知して脳から電気信号が送られて筋肉が
それに反応して行動を開始するまでに人体はタイムラグがあると
いうことからきています。
これらを逆に敵に利用されると、「切り落とし」や「合撃打ち(がっしうち)」
などでこちらが先に切りつけていても切り負けてしまいます。
「切り落とし」や「合撃打ち」とは、敵より遅くこちらが切り下ろして
刀の鎬(しのぎ)と反りを使って敵の刀を切り落としながら敵の刀を
はじいて、同時に切り下ろして勝つという「術」です。
刀と刀が合わさる時、合わさり代の法面(のりめん)の面積が大きい方が
物理的な運動量が多く力が出ますから、後出しの刀は鍔により近い方が
合わさり、先に切り下ろした方は切先方向に向けての距離が短いので
法面が小さく、力負けして刀がはじかれてしまいます。
切り落としや合撃をやられたら防ぎようがありません。竹刀でも木刀でも
横にはじかれてしまいます。そしてそのまま面にヒットさせられてしまいます。
刀の場合、ばっさりと真向から切られます。

ただ、この「切り落とし」(一刀流)と「合撃打ち」(新陰流)は、術技の極意
とされているように、そうそう誰にでもできるものではありません。救いは
相手がその技の妙技に達しているかいないか、その時にそれが発揮
できるかできないかで自分の運命が決まる、ということだけです。
敵が練達の士で、術の奥義を会得していた場合は自分に待っているのは
死だけ、ということになります。

これは、自分との比較でどちらが強いか弱いかという問題ではなく、
術技の深奥をどちらが会得しているかどうかという問題です。
敵との比較で自分ができるかできないかといったレベルの話ではなく、
「自分がどうであるのか」という領域の問題であるのです。
ですから、剣術はかかり稽古も大切ですが、もっと大切なこととして
「自分の在り様」がどの域まで達しているか、ということがテーマになって
きます。そして、それには到達点がない。どんどん高度な世界に入って
いきます。

ただ、切り合いは対敵行動ですから、切らずして敵を制したり、切らぬまま
終わらせるための「何か」が必要にもなってきます。
居合の究極の目的は「刀を抜かないこと」です。
なかなか難しいですね。真の制圧力というものは何かという問題になって
きますから。

ただ、そうした高度なことが究極域ではありますが、抜いて以降は、
いつでもどのようにでも対応できる状態に常にないといけない、という
ことは居合でも立合(=剣術)でもかわりはありません。
居合とは「居合わせる」こと。敵が殺気を発したり、行動を起こさない
限り、こちらから仕掛けることはありません。基本は専守防衛ですが、
具体的行動において先先の先を取る場合(=機先を制する)でも、
そこには敵の「殺気」という「掛かり」があります。
行動を起こしてからは絶対に勝たなくてはなりません。
そのためには、地面の上を滑るように、あるいは左右上下自在に
即応できるように、いつでもその状態に自分を置かないとなりません。
それを可能ならしめるためには、具体的に体のすみずみをどのような
状態にするのか。


本日、先生の授業から私が学んだことは、こうしたことでした。
それは、剣の握り方、握らない方法、足の指の使い方ひとつにまで
「意味がある」こと、その「意味の内実」を理解することから始まります。


稽古とは、先生の教えから何を学び取るか、ということだと思います。
1+1=2ではあるけれども、それは単に1+1=2ということに留まらず、
概念としては10+10=20とも同じである(x+x=2x)とする概念を
どれくらい自分の中で咀嚼力を以って捉えられるかがポイントに
なると思います。

「境地」を開くというのは難しいことですが、稽古をつけてもらう楽しさは
「できるようになるきっかけを与えてくれること」、稽古をする楽しさは
「解ること」、「できるようになるきっかけを得ること」だと思います。
そして、いずれできたらなお楽しい。すぐには誰もできません。小学生に
100mを10秒で走れとか因数分解を解けと言っても無理なのと同じで。
剣の境地とは人から与えてもらうものではなく、きっかけだけを与え
られて、そこから先は自分で自発的に研鑽して会得していくものです。
こうした独特の「自発性」というものが、剣の世界では必然となります。
だからこそ、「自分でどうするか」という点において、剣は他の仏教宗派
ではなく禅と結びついて「剣禅一如」という奥深い思想性が形成されて
きたのだと思います。
大森曹玄氏は著書『剣と禅』のはしがきにおいて、剣の道の目的を
「人間本来の根源的な主体を剣のはたらきの上に発露して、自在を
得ようとすること」と記しています。そして、「それは剣の妙を得るために
禅の力を借りることではなく、剣の作用を凝視して、そこに流れでてくる
人間という、この未知なるものをつかもうとする道」とも記しています。
「禅は諸道に通ず」という奥深いものを示唆しています。
自由自在の自在とは、「どのようにでもできる」という意味と「自分が
在る」という意味が合わさって「自ら在る」という字があてられています。
主体的な自発性、確固たる自己、これこそが大切だと思うのです。


体動かしていて気持ちいい~♪ とかいうのは、あれは脳内にベータ
エンドルフィンが出ているだけで単なる「ハイ」ですので駄目ですよ(苦笑)。
よくスポーツで陥りやすい落とし穴なので注意が必要です。
いわゆる「脳内麻薬」ですから。
もっとスーッと脳内が澄んだ状態、霧が晴れた状態になる必要がある
と思われます。
さて、そのためにはどうするか。

ここで、冒頭の動画に回帰するわけです(^^)








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あしたのために。打つべし、打つべし。 ~鋼の鍛造~

2012年09月25日 | 刃物

あら。なぜか職場の駐車場にこんなものが。

うほ~。斬りたい(笑)
竹に巻いた本物の巻き藁を試斬したら、畳表巻きなんて切り味がヌッペリ
していて嫌になりますよ、と。
でもこれは斬るための物ではありません。職場の若い者が知人の縄作り用に
用意したものらしい。
稲の藁は鍛造刃物には欠かせない。特に日本刀鍛錬には必須なのす。

何故かというと、

こんな感じでアク(藁灰)をまぶして火にくべるのよ。
工程においては泥汁をかけたりもする。
何故かというと、表面だけ炭素が「さよ~なら~」して
しまうから。芯からじっくりと沸かすためにはアク大切。

でもって、折り返して叩く。
そして、お風呂が沸いたかな?♪
と待つ。

沸いたかどうだか食べてみよう。まだ沸かない♪
くちゅくちゅ言って返事をしてきます。

折り曲げを繰り返して、またお風呂へ入ってもらう。
だんだん厚くて熱い豆腐ができてくる。

う~ん。よか色たい。

で、途中を8割方すっ飛ばすして最後の方にいくと、こんなのができる。


一番左の刀子の刃文(これは水田国重の鋼)

これは左から二番目の小刀。



これは左から三番目のナイフ。水をかけると焼き刃と地の部分に水が
はじけて分離するので焼き刃がよく判る。



これは一番右の小柄小刀。水心子正秀の書にある寸法を参考にした。




  小沸出来。



というのをそろそろまたやろうと思ってるわけ。
以上は手元にかろうじて残っている作で、国重鋼以外は小林康宏の自家製鋼が
材料。新刀初期の水田国重は無垢造でした。これは実見しているので確か。
粘りがあって良い鋼でした。
ちなみに、私は熱処理は本番ではまず失敗しません。たとえ炉が七輪であっても。
焼き入れ用の松炭は親指の第一関節程に切って、消し炭にして使います。



藁は絶対に必要なのだけど、今の時期は良いけど、真夏に藁焼くと暑さでシム!
あれはきついす。
また鍛冶仕事も、真夏は仕事にならないくらいだから(笑)
笑えるのが、カンカン照りの外に出ると、冷房が利いてるくらいに
感じてしまったりする。やはり夏は仕事にならんでしょ、鍛冶屋さん。
シムるぜ、まじで。ホゲ~と。

まあ、あたしは本職ではなく素人なんで、お風呂もこんな感じですけどね。

これは私のではないですが、外見はこんな感じで近似ですわ。

フォージングのイメージはこんな感じになる。


これは前からどうぞ♪ で送風しているけど、前からなんか送風したら
切先が溶けちゃうよ(><)


本来は、横からまんべんなくがベストだろうなぁ。密封炉の場合。
今泉刀匠のデンガク炉などは、横穴が幾つか開いていて、そこから
送風できるようになっていた。
日本刀製作の炉は左からだけというのが多いが、西洋のソードスミスは
下からどうぞ♪ というのが多いよね。あれなどはどうなのかしらね。
日本の石工さんや鋳掛屋さんのも羽口を下に持ってくるものもあるみたい。

そして、やはり一番大切なのが、このあたりのツボの押さえどころだよね。

この画像の変化の意味がどんな意味か解らないとならない。
磁石になど頼ってもいけないし、またゴールデンタイムを過ぎても
ズンドコベロンチョとやっていたら、延長料金明朗会計どころか、
終了後には悲惨な目にあいます。
ピャキーン!と(笑)


現実的に、日本刀の場合、折れるというのは滅多になくて、曲がるのが多い
のだけど、実際には刃こぼれし易い刀というのはかなり多い。
こぼれたところに敵の刀などモロに受けてしまったりしたらポッキリでしょうね・・・。
刀が折れるというより刀を「切られる」のではないだろうか。
だからガツンと受けることは古流の剣技にはほとんどないでしょ?
あれやると刀がやばいからです。受けた時に刀が万が一折れたら、
その時点で人生終わりですから・・・。
だから、日本刀の要件の順番は「折れず>曲がらず>よく切れる」なの。
切れ味なんてのは三番目なのでございます。
大切なのは、とにかく折れない刀、これに尽きる。
あと、刃が硬過ぎて、刀身全体で弾力性が低くて、硬物に斬りつけたら
刃切れが出ちゃうような刀は、刃切れのところからポッキリの可能性が
強いので、これまた怖い話です。

ネットで見ていたら、たたら製鉄やってできた鋼で作った包丁が載っていた。
こんなの。

めちゃくちゃいい感じの鋼に仕上がってるじゃないですか。

小刀も作ったらしい。


おお~。
やるなぁ・・・・と思ったら「刀匠」て書いてある。
なんだ、プロですか・・・。浅野?房太郎さんですか。
プロなら刀にまとめることができて当たり前。
また、折れず曲がらずよく切れるのを作るのが当たり前。
それが仕事ですから。豆腐屋さんが豆腐作れなくてどうする、
というだけの話です。


それにしても、巨大送風装置を使ったたたら製鉄でできた鉄から、いい感じの
鋼がこの操業のとき(2004年)には取れたようです。
参考サイトは以下をどうぞ。

鉄の歴史村 近代たたら

「近代たたら」としているのがいいね♪
だって、巨大送風装置を用いた大きな炉での製鉄というのは、中世には
なかったもの。だからそこで取れた玉鋼は「伝統的」な「古式」の鋼では
決してないのさ。
日本刀の研究者たちでさえ、「古刀」と「新刀(慶長時代以降)」という区分け
の理由は「鋼が異なるから」としているのに、江戸期以降の製鉄法を「古式」
「伝統的」とすることに矛盾感じないのかなぁ。
尤も、感じる良心持った刀鍛冶さんたちがいるから、自ら少しでも古式の方法
を探究しようとして自家製鉄やっているのだろうね。
できれば、磁石で採った砂鉄でなくて、餅鉄あたり試してもらいたいなぁ。
あと、銑鉄からサゲ法で鋼を作りだしていく方法とか。

ただ、ひとついえるのは、いろいろ問題がある日刀保の島根のたたら製鉄
だけど、あそこが潰れたら、今後日本ではあの規模のたたら製鉄は二度と
復活できないだろうと思う。
その意味では、「江戸期から近代黎明期の伝統的製鉄法」ときちんと位置
付けて、日刀保たたらを保存していく必要があると思う。決して「古式」「伝統的」
という偽もうであたかも古刀期の製鉄法であるかのような言辞を弄さずに。
それが健全だとおもうよ、私は。

同じ日本人。
細かいことでごちゃごちゃ争うの好きじゃないってのもあるけどね、俺は。


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