渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

妙な家庭 ~玉鋼~

2012年02月29日 | 日本刀



私は幼い頃の一時期、神奈川県藤沢に住んでいた。
江ノ島がある湘南の海に面した町だ。

家にあるテレビは、ブラウン管の四隅の下に細い木製の足が生えたような
タイプだった。
昭和30年代後期だから、当時一般的な形だ。
アンテナはU字型に曲がった針金のような物が二本着いていた。
やがて、屋外アンテナが設置され、テレビの上のアンテナがなくなった。
当然テレビも放送も白黒の時代だった。

テレビの上からアンテナがなくなった時、妙な物がテレビの上に
現れた。父親が箪笥の奥からなにやら大切そうに取り出して置いた
物だった。
鮮明に残っている記憶では、白いレースの布が敷かれ
その上にドンと
鎮座していた。

確実な記憶では昭和38年(1963)から昭和44年(1969)の間
である(その後、横浜に引っ越しをしているので間違いない)。
私は幼稚園の頃、これは光った溶岩だと思っていた。
また、磁石をくっつけてよく遊んだ。「溶岩て磁石がくっつくんだぁ」
なんて風にも思っていた。
家に友だちが遊びに来たらみんながこの妙な物体に興味を持つ。
「これなぁに?」
私は「溶岩じゃない?」と答えると友だちの一人が言った。
「違うよ。これきっと隕石だよ!」
なぜと問うと、その友だちは「だって、溶岩ていうのは茶色だよ。
僕、旅行に行って見たことあるもん」と。
一同、「そうだ、隕石に違いない」ということで納得した。私も、
「そうか、これは隕石だったのだ」と納得した。
しかし、こんな野球ボールくらいの大きさの塊の隕石などそうそうない
ことに幼稚園児たちは知恵が回らなかった。

なぜ、私は知らなかったのか。
名前は父から聴いていた。父は「タマガネ」と言っていた。
「溶岩ではないの?」とは思わなかった。色は違うのだが、図鑑で見た
マグマの冷却凝固体にそっくりだったから、自分で勝手に「タマガネ」
とは溶岩のことだと思い込んでいた。

友だちが帰ったその晩、父に尋ねてみた。
これは隕石ではないのか、と。
すると、「これは刀の材料だ」と父は初めてその時教えてくれた。
何十年後かによく見る玉鋼という物よりも、もっと白く、もっと銀色で
キラキラと光り輝いていた記憶がある。今刀剣博物館のお土産や
ネットオークションで販売されている「玉鋼」とは色合いがまるで
違う。

私の家では、タマガネを飾っていた。
なぜだかはよく分からない。
後年、父と中野の居酒屋で飲んだ時、どこから入手したのかだけは訊いた。
それはある鍛冶屋が秘蔵していた物を昭和30年代中期に譲り受けたとの
ことだった。鍛冶屋の所在を父は失念していた。聴きだしたのは平成2年
(1990)12月のことだ。30年程経っているので忘れたの
だろう。
しかし、30年で忘れるものだろうか。今から30年前の記憶は私は鮮明に
覚えている。(正確には33年前と32年前に限っては何月
何日にどこで
何をしていたかも覚えている)

ところが、私も抜けていて、なぜそのタマガネなるものが我が家、
いや昭和30年代の一般家庭の聖域ともいえるテレビの上に鎮座していた
のかを
訊き出すのを忘れていた。
とにかく、事実としては、我が家にはタマガネがレースの座布団に乗って
存在していた。

昭和44年(1969)の年末に横浜に引っ越すときにタマガネはなくなった。
その理由も後年知った。
引っ越しを手伝った誰かに望まれてあげてしまったのだという。
父も元来物には執着はせず、懇請されれば進呈してしまうクチだったようだ。
だが、現在あのタマガネが私の家にあったらどうだろう。
たぶん誰にもあげないのではないだろうか。
昭和30年代中期といえば、日本刀の原料が底を尽き、まだ国内で
自家製鉄(人間国宝天田刀工の造語らしい)に誰も成功していない
時代のことだ。出雲たたらが国の肝煎りで復活するのは1970年代末期
なので、その時点から四半世紀後のことだ。我が家にあったタマガネは、
靖国鋼もしくは江戸期の
鋼であったことは間違いない。
私にとって鋼は金(きん)より価値がある。
金自体は加工性は良いものの、摩耗率も高く、構造用金属として貴重な
ではなく、あくまでも世界中ではカネに換算する意味において人間界では

価値があるが、私には貴金属としての金や炭素の塊の透明な硬い石ころに
興味は
ない。
私にとっては鋼こそがレアメタルなのである。
だが、その貴重なタマガネは、我が家には今はもうない。
私の記憶の中だけにあるので、日記にとどめておく。

しかし、鍛冶職でもないのに、家の中に玉鋼が鎮座していたとは、
つくづく妙な家庭だったと思う。
「地斑(じふ)は映りの一種であろう」などという知見どころか、
日本刀そのものをまったく知らなかった頃のお話である。


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ねぇ、マリモ

2012年02月29日 | ポチたま

ぽちたまは、なぜもう少し長く生きてくれないのだろう。
だけど、そんな思いは人間の勝手な思いだ。
彼らは彼らで、自分たちの生涯を懸命に生きている。

我が家にも犬がいた。
最初の子は、私の息子が死んで、悲しみに暮れる日々の中で
数年後に迎えた雄のキャバリアだった。
騎士たれとの願いを込めてルークと名付けた。
存外の聡明さという犬の能力の高さに驚いた。
ある日、娘ができた。
娘と幼馴染のようにそのキャバリアが育ってくれることを望んだ。
当時住んでいた新宿の早稲田では、毎晩20頭以上の犬が
近所の公園に集まって、犬たちは互いにじゃれて遊び合い、
人間たちはそれを見守りながら談話して、とても和んだ空気と
時間が流れていた。
娘の出産の時に、犬の散歩仲間が好意でうちの犬を預かって
くれた。

だが、ある寒い朝、1歳になったばかりのその子は冷たく
なって帰って来た。
体は冷たくなって硬くなっているのに、お腹だけはぐにゃぐにゃに
柔らかかった。鼻先も折れていた。
酔った人間に殴り殺されたうちのワンコがそこにいた。
妻は三カ月毎晩泣いた。
親友の家で起きた悲惨な出来事に、私も茫然自失となった。

私も朦朧とした日々が続く中、ある日、町中のペットショップに
ふらりと寄った。
うちのルークというワンコが生きていた時、時々、立ちよった店だった。
そこでケージに入れられた三毛のキャバリアを見た。
以前ルークとも会ったことがある。
しかし年は5才だ。1年半もケージに入れられている。
いろいろ事情を聴いて、店主の物言いと店での扱いに腹立たしくなり
すぐにその子を連れて帰った。
名前は前の飼い主がつけたクルミというままにした。
足がだいぶ弱っていたが、うちで徐々に回復し、だんだん元気も
取り戻してきた。
私は仕事以外で車で出るときには、どこに行くにも連れて行った。

死んだルークと血のつながったキャバリアを私はルークを世話してくれた
横浜の業者にお願いしていた。
ルークが死んで1年後、その店から連絡が来た。一般的店舗では
あり得ない計らいなのだそうだ。
すぐに妻と乳幼児だった娘とともに出かけて見に行った。
ルークのイトコにあたるブレンハイムという毛色の犬が店にいた。
不細工だった。ルークの幼い時とあまりにも器量が違った。
少し逡巡していると、別なお客さんがその子を抱きかかえて
離さない。
今を逃すともうこの子との縁が切れてしまい、ルークとの縁も
切れてしまいそうな気がした。
その子をつれて帰った。
我が家にはワンコが2頭と娘と妻と私の五つの生命体が同居する
ことになった。
新しく迎えた子にはアークと名付けた。ノアの箱舟の意味がある。

クルミは生後9年の時、広島の三原市の実家で死んだ。
キャバリア特有の心臓疾患だった。
10歳までにキャバリアの100%が罹患する。
キャバリアという犬種は、一度絶滅した犬種を多種をかけあわせて
1945年に復活させた新しい犬種のため、無理な近親繁殖がたたり、
心臓の弁が閉鎖不全を起こす病気をすべてのキャバリアの命が
持つことになってしまった。
人間は神ではないので、種を新たに生み出すことはできない。
種でなくとも、似たようなことをすれば無理が生じる。
キャバリアという犬種は、死ぬ時にはすべて心臓病で苦しみながら
死んでいく。そして、意外と短命だ。
ペットブームというのは身勝手なもので、キャバリアは一時期
愛らしさと聡明さと飼いやすさから人気がうなぎのぼりだったが、
短命であることが知れ渡ると人気は一気に低下した。
ルークがうちに来た頃は、国内でそれまで数十年で1700頭しか
キャバリアはいなかったが、ペットブームで一気に数が増加し、
さらにブームだから流行り廃りで人気が落ちてからはまた一気に
数が減った。
ブームの時には、増産のため、健康に留意しないブリードが
業者によって行われ、心臓疾患の蔓延に拍車をかけた。

アークはルークと性格がまったく異なり、先祖が鳥猟犬とも思えぬ
程のガンシャイ(銃の射撃音に生まれながらにすごく怯える性格)で、
性格も落ち着きがなくチョロマツだった。
犬は一頭一頭まるで性格が異なるのだということを私はクルミと
アークと出会って初めて知った。
それでも、アークは愛嬌のある奴で、娘とは幼馴染として育った。


「どうしたの?」となだめに入るクルミ

アークはキャバリアとしては異様な長命をさずかり、14年生きて
そして、心臓疾患で死んだ。
家の中で家族三人に看取られて、妻の腕の中で苦しみながら死んだ。
生まれてから2ヵ月でうちに来て、それからずっとこの日まで一緒に過ごした
時間は、人間の時間からするとほんのわずかの間だが、とても温かい

時の流れを私たち家族に与えてくれた。彼もきっと楽しかったと思う。

犬や猫がもっと生きてほしいと願うのは、人間の勝手な思いだ。
犬や猫は人間にくらべると年を取るのが早すぎて、いつの間にか
人間よりも大人になり、そして老いていく。
けれども、それも現実として私たちは受け止めなければいけない。
それに、人間の方が犬より短命だとしたら、飼い主の人間が先に死んだら
一緒に暮らした犬だってきっと途方にくれてしまうだろうと思う。

好きな短編映画があった。
「いぬのえいが」という短編シリーズの中の「ねぇ、マリモ」という映画だ。
youtubeでアップされていたが、例によって著作権侵害申し立てで
削除されていた。
だが、別な人が再アップしていたので、ここに紹介したいと思う。
ワンコのマリモの声を吹き替えで入れたバージョンだが、
私はマリモのセリフがスーパーだけだった原作の方が良い作品の
ように思える。
犬はしゃべれない。しゃべれないけど、人間がその心をくみとって
あげている雰囲気がマリモの声なしバージョン原作ではよく表現されていた。
でも、吹き替えの方もこれはこれでよいかなとも思うので(声優さんが
とても良い)、マリモ肉声
バージョンの動画を紹介したい。

いぬのえいが『ねぇ、マリモ』(後作のマリモの声入りバージョン)



『ねぇ、マリモ』(吹き替えなし原作)

マリモが無声なだけに、ラストの宮崎あおいの肉声のセリフが
コントラストとして生きる。映像として非常に完成度が高い。
映画はそういう製作サイド視点での観方をしてはいけないのだけど(苦笑)

この二本は吹き替えがあるかないかで、まったく印象が異なる
作品となっている。


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隣の住人(人ではないが)

2012年02月29日 | 一般

先日、深夜マンションに帰って、すぐにまた事務所に戻るため
来客用駐車スペースに車を入れたら・・・・

なにやら闇夜に光る眼がふたつ。


人間から危害を加えられたことがないのか、全く警戒する様子を見せない。
車から出てみたら・・・

裏山に住む子タヌキ君こんばんは。
なんだか食べ物を探しているようだ。
雪も降って来た。

だあぁ~!
雪が結構降って来たよ。
お~いと声をかけたらこちらをずっと見てる。距離3メートル。
そして、しばらくするとゴソゴソとそこらを探している。
お腹すいているみたい。

本当はよくないのだろうけど、ポケットにあったおにぎり(なぜ背広の
ポッケに?)
を一つ、ラッピングを解いて投げてあげた。
自分の真横にボトンと落ちたおにぎりにきょとんとしていたが、すぐに
咥えて山の
上の方に帰って行った。

この桜山という山は三原の駅から300メートルくらいのところにある。
中世には山名氏の城があった。

三原城本丸跡から見た桜山。中世には山頂に山名氏の城があった。
現在も曲輪(くるわ=城の回廊)跡や井戸堀の遺構がある。
中央のマンションの右が三原武道館。手前の水辺は城の堀。


この坂を登り切ったところがタヌキ君との遭遇場所。
桜山に登るには、この画像右側の広島大学附属幼小中の敷地の脇に
登山道入口がある。


この山にはイノシシも棲んでいる。
山際のマンションの駐車場の柵を越えることはできないが、よくここの
フェンス際まで下りて来て、
フゴフゴいいながら木の根っこをほじくり
返して食べてたりする。

キツネを見たこともあった。
そういえば、今から30年も前のことだが、猿まわしで有名になった
猿の初代ジロー君は三原の山で捕獲されたということだった。
このあたりには猿もいたのかなぁ。
もっとも、江戸時代には、今の東京の王子や赤羽や目黒や池袋
あたりには鹿がうようよいて、将軍が鹿狩りで獲りまくったとかいう記録が
徳川実紀に残っているのだけど、今の東京では想像もできない。
地名でも、タヌキが多くいた狸穴(まみあな)という場所は今の東京タワーと
ロシア大使館の近くだし。
田舎町三原では、動物と人間との共生が現在も折り合いよくできているようだ。
江戸時代とほとんど変わらないものね、自然環境が。明治に鉄道が通った
くらいなもんで。
動物たちにとってみれば住みやすい場所なのかも知れない。
タヌキってね~、犬や猫と違って、相手が死ぬまで他の個体に伴侶を変えないんだよ。
死ぬまでずっと仲良く一緒なんだって。

広島県福山市仙酔島のタヌキ。


翌朝は薄らと雪。
パーキングの車も白く染まっていた。



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師匠筋のルーツ ~安芸国出雲大掾源正光と堀川国広~

2012年02月28日 | 日本刀

地元芸州の幕末の藩工に出雲大掾源正光という刀工がいる。
作風は、反り浅く、小板目つんで地沸つき、直刃、切先伸びる。
とにかく地鉄のまとめ方が巧い。いかにも丈夫で大斬れしそうな
実用刀だが、見た目もとても美しい。
以前の日記でも記述したが、この刀工、天保から明治初期に活躍
した人で、私の昔のフライの釣り仲間のご先祖だ。釣り仲間の彼も
グリーンのベレーをかぶっている(笑)。

刀工正光は享和2年(1802年)生まれ、山県郡高野住。
尾張で修行して各地を転々とし、安芸国に落ち着いた。
家伝では石州にもいたと聞く。
この正光の師匠筋のルーツを可能な限りたどってみた。

途中から3名に分かれるが、最後は驚く刀工に繋がった。
以下に系譜を記述する。過去に遡る逆系図だ。

正光(安芸/天保)

二代 元長(摂津・山城/天保)
|  青木照之進。文政中に京都に住す。のち泉州に移住、嘉永2年京に戻る。

初代 元長(文化/摂津)
|  青木嘉兵衛(天明~天保に作刀)。はじめ尾張六代信高門人。
|  のち助隆門人となり、基寿に改め、享和3年6月薩州元平門人となり
|  元長と改銘。山城、摂津、尾張、薩摩にて作刀。

|----------------------------------------------------------------
|                         |                       |
初代 元平(寛政/薩摩)          助隆(寛政/摂津)              六代 信高(尾張)
|  奥孝左衛門。延享元年生、      尾崎源五右衛門。              | 
|  安永6年家督。天明5年藩工。    本国播磨、大阪にて修行。           |
|  寛政元大和守。文政9年没      寛政15年長門守。文化2年         |
|  83才。                   没。53才。                   |
|                          |                      |   
|                          |                      |   
元直(寛政/薩摩)               二代 助広(寛文/摂津)         五代 信高(尾張)
|  奥次郎兵衛。延享元家督。       津田甚之丞。越前守源助広。       |  伯耆守。
|  安永6年没62才。             寛永14生。助広門人となり        |
|                           のちに養子。作刀明暦元~       |
|                          天和2。天和2没。東の虎徹に      |
|                          並ぶ西の泰斗。涛乱刃の考案者。   |
|                          |                      |
|                          |                      |四代 
元貞                        初代 助広(承応/摂津)        信高(正徳/尾張)
    奥元貞。                   津田弥兵衛。生国播州津田細江   河村三之丞。
                            寛文3年没。ソボロ助広。        初銘信照。正徳6
                            |                      信高に改、享保14
                            |                      没。60才。
                            |                      |
                           初代 国助(寛永/摂津)         三代信高(寛文) 
                             小林甚兵衛。生国伊勢亀山。     河村三之丞。
                             はじめ石堂派、山城にて堀川     寛文5伯耆守。
                             国広に学ぶ。後に大阪住。       宝永4没76才。
                             寛永2年河内守。            | 
                            |                      |二代
                           国広(慶長/山城)             信高(寛永/尾張)
                              田中金太郎。日州生。         慶長8生。寛永
                              新刀第一人者堀川国広。       10伯耆守。元禄
                                                     2年没87才。


幕末に広島において玄人好みの刀を作った安芸国出雲大掾源正光の
師匠は尾張の青木元長だが、その師匠筋のルーツをたどると、なんと
名工薩摩元平に行き、さらに驚くべきは、別ルートでは新刀第一人者の
洛陽の堀川国広に繋がった。

この堀川国広は、面白い経歴なので、簡単に紹介する。
堀川国広。俗名田中金太郎。日向国飫肥(現在の宮崎県日南市飫肥=おび)
に生まれる。
天正元年(1573)から天正17年(1589)にかけて日州古屋におり、
九州各地を回って作刀した。元々は戦国実用刀の数打ち専門刀工だった。
だが、数を多く作れば自ずと腕は上がる。事実、伊東家に仕えている際に
家中の注文打ちもこなしおり、山伏時代に作ったと銘のある山伏国広は
初期の傑作とされている。

天正18年(1590)に関東の野州足利学校にて作刀する。この時期、
長尾顕長に求められて鍛えた山姥切国広は金太郎の最高傑作と
されている。もはや国広はこの時期には数打ち工ではない。

天正19年(1591)に京に一時上京。その後、諸国を流浪するが、
慶長4年(1599)京に定住した。
慶長19年(1614)に84才で没する。
作刀の年紀あるものは天正4年(1576)から慶長18年(1613)まである。
信濃守を受領(ずろう)している。
堀川国広の作品で残されたもののうち、12口(ふり)が国の重要文化財に
指定され、別の12口が重要美術品に指定されている。


堀川国広が若き日に活躍した時代は、丁度映画『七人の侍』の時代だ。
映画『七人の侍』は劇中で時代が天正16年(1588)であることが判る。
(菊千代の盗んだ系図にある天正3年紀から物語設定の13年後を逆算)
堀川国広は九州から関東から京都まで、諸国を転々としているので、
小説の主人公として搭乗させたらとても面白いのではないだろうか。
『いっしん虎徹』を書いた山本兼一先生あたりが書いてくれたらきっと
素晴らしい作品になるような気がする。先生には、刀工シリーズみたいな
誰も書かない
力作を書いてほしいと勝手に期待したりする。
でも、展開が『鬼麿斬人剣』(隆慶一郎)みたいになっちゃうかも(笑)。
どうせ森雅裕あたりが書いても底意地の悪い文章で他人を揶揄する感情
の発露を作品に表出させるだけで、プロットは良いのに読んでいて不愉快に
なるだけだし、第一、出版業界に干されているから彼の作品の出版は無理。
堀川国広は、
最初はしがない数打ちの実用刀の刀鍛冶であるのに、なにゆえ
各地を転々として
いたのかは人生劇場の物語メインのテーマになり得るだろうし、
最後に
京都に落ち着いて東西随一の名手と呼ばれるのには壮大なロマンを
感じる。十分小説の主人公になる。

彼の波乱万丈の人生は、大河ドラマで焦点を当ててもいいくらいだ。
時代も戦国末期から徳川の世になり、歴史が大きく動く時代。
あの時代の人間模様も、きっと壮大なドラマがあったに違いない。


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日本刀の断面構造

2012年02月27日 | 日本刀

日本刀の断面


福岡の先輩、無断転載ごめんなさい(笑)。

個人的好みでいえば、徳川家伝来の造り込みがいいなぁ。
古刀青江は、これは現代刀でしょう、たぶん。

刀剣に詳しくない方のために日本刀の区分けを説明すると、
日本刀・・・・・平安時代中期以降の反りのある日本の刀剣のこと。
古刀・・・・・・・平安~室町時代末期までの日本刀のこと。
新刀・・・・・・・慶長以降の日本刀のこと。
新新刀・・・・・新刀のうち、特に幕末~明治初期の日本刀のこと。
現代刀・・・・・明治以降、現在までに作られた日本刀のこと。
軍刀・・・・・・・日本刀の時代区分の概念にはない。日本軍が使用した日本刀はすべて軍刀。
         時代により軍指定の規定外装が着けられた。



こちらのサイトは膨大なので読むだけで何日もかかりますが、ページごとに
つまみ食い的に読んでも、よくまとめられていて読み応えがあります。
               ↓
軍刀サイトから 「日本刀の刀身構造」

ちなみに、鋼そのものを作る方法は簡単にまとめると以下のように
なります(一般の方向け説明)

【直接製鉄】
1.炉に木炭(炭素)と酸化鉄(鉄鉱石or磁鉄鉱砂鉄)を入れ、送風装置で送風、

 炉内温度上昇(1000℃以上)。
2.炉内の雰囲気(専門用語)により、炭素Cは酸素O2と結合するが、酸素濃度が
 足りずに不完全燃焼により一酸化炭素COが発生。
3.一酸化炭素COは酸素と結合して二酸化炭素CO2になろうとするため、酸化鉄
 から酸素をはがして奪う。⇒これがいわゆる「還元」。
4.上記工程を経た鉄は不純物を多く含むため、さらに「精錬」で錬鉄を作る段階に
 入る。炉内を1200℃以上に加熱して取り出した鉄の塊を鍛錬することにより
 不純物を飛散させる。こうして鍛鉄を作り出す。

らに炭素量が低い場合には「吸炭」させて焼き入れ硬度が出る炭素量まで調節
してやります。
高炭素鋼を脱炭させたりするのは裸で加熱して叩けばよいので簡単ですが、炭素を
増やして鋼を作る浸炭・吸炭という工程はひと工夫必要です。

【吸炭(浸炭)】
1.炉にて錬鉄を木炭とともに加熱。
2.木炭の炭素が徐々に鉄固体の中に遷移していく(浸炭)。
3.鉄の炭素含有量が増加、鋼(炭素含有量0.3%~2.0%)が生成される。

簡単にまとめると上記ですが、この方法は、炉の形状や大きさ、送風のあり方、
火口の形状や高さ、等々によって大きく結果が変わるので、大変難しいものと
されています。直接炭素量の高い鋼を作ってそれを叩いて脱炭させながら刀を
作った方が簡単だといえます。
なお、八鍬靖武刀工の話では、高炭素鋼を脱炭させながら刀を作った場合と、
鉄に炭素を浸炭させて刀を作った場合では、脱炭した方が良い刀(靭性や刃味)
が出来ることが多い、とのことです。吸炭鋼はあまりにも炭素の固溶がまばら
すぎるからかもしれません。

また、鉄に炭素が4.25%以上溶け込むと銑鉄(せんてつ/ズク)となります。
純鉄の融点は1535℃ですが、炭素を多く含むと1200℃以上の「低温」の加熱
状態で固体からドロドロの液体に変化します。これを銑鉄もしくは鋳鉄(ちゅうてつ/
イモノテツ)と呼びます。
この銑鉄をサゲる方法は簡単にまとめると以下の通り。

【脱炭】
1.ルツボで溶融した銑鉄を撹拌する。
2.撹拌により大気中の酸素CO2が溶融銑鉄の中の炭素Cと化学反応で結合。
 ⇒二酸化炭素CO2となって蒸発する。
3.銑鉄の炭素量が低下して鋼が生成される。


古刀日本刀の材料はなんであるのか解明されていませんが、鋼であることだけは
確かです。
とにかく刀鍛冶は、アゲ(吸炭)たり、サゲ(脱炭)たりしながら、炭素を調節して
刀を作っているようです。


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エヴァンゲリオンの世界、刀匠が挑む特別展(岡山)

2012年02月27日 | 日本刀

岡山県瀬戸内市教委は24日、名刀の産地・同市長船町長船の
備前長船刀剣博物館で7月14日~9月17日、人気アニメ
「新世紀エヴァンゲリオン」と伝統の刀剣制作技術を融合させた
特別展「新日本刀版エヴァンゲリオン」を開くことを明らかにした。

刀匠らが、作品に登場する「ロンギヌスの槍(やり)」や、作品の世界を
イメージした刀剣を作り、展示の目玉にするという。

同館では昨夏、人気ゲーム「戦国BASARA」の登場人物にちなんだ
武器や武具を展示する企画展を行い、若い世代を中心に約2万人が
訪れた。今回は、日本刀の新たな表現を目指し、刀匠らが人気アニメ
の世界に挑む。作品で重要な役割を果たすロンギヌスの槍を長さ約
3メートルで再現するほか、関連の作品に登場する刀なども制作。
作品の歩みを紹介するパネルなどと合わせ約50点を展示する。

市教委は「若者に絶大な人気のアニメを通じ、刀づくり文化や、日本の
ものづくりへの理解を深めてほしい」と期待している。

2012年2月26日11時07分  読売新聞)
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あ、あのなぁ。。。。。
なんか、もって行き方間違っているような気がする。
誰だよ、こんな企画発想するの。
真剣日本刀の世界にもアキバ系の感覚持ち込んでまで
チャラい若者に迎合しよとするのかよ・・・。
「人気アニメを通じ文化やものづくりへの理解を」って・・・
「あんた、ヴァカァ?」
とアスカに言われないことを祈るよ。。トホホ。

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ドラマ『運命の人』

2012年02月26日 | 映画・ドラマ



TBSドラマ『運命の人』
いや~、面白い。

この後どうなってしまうのか。
沖縄返還で国民をたばかって犠牲を強いた佐藤栄作総理の
ノーベル平和賞が茶番であることは今更だが、沖縄返還に伴う
日本政府の米国との裏取引を告発しようとして逮捕された新聞記者と
情報リークした事務官。沖縄返還は「核抜き本土並み」というのは
当時よく言われたが、米軍基地は残り、また運営費はすべて国民が
負担するものだった。米軍基地があるということ、それは核が保有されて
いることでもある。現実の政府は否定してきたが、最近核持込の密約
が暴露されている。核弾頭着けたミサイル装備した米空母が日本に
寄港する前に核弾頭を外す筈がない。どこで外すのか(笑)。
自民党長期政権による「非核三原則」が嘘であったことは現在白日の
下に曝されつつある。
米国とソ連が冷戦体制にあった時代では、核戦争の恐怖は深刻な
現実問題として存在したし、それゆえ、被爆国である日本の国民には
なおさらに不安がつのっていた。そういう時代だった。
そして、太平洋戦争で「味方」からも切り捨てられた沖縄が今でも米軍の
世界軍事戦略の前哨基地となっている。
つまり、日米安保による日本の「安全」は沖縄の犠牲の上に成り立って
いる。現在取り返しのつかない事故が起きて被曝という危険性に原発近隣
の国民が曝されているが、「原発の危険性は地元に負わせてそれによって
繁栄を享受する構造」という今の日本の姿は、戦後の日米安保条約成立
の時にすでにその構造が準備されていた。
多くの国民(60年安保では実質7割以上の国民が反対。右派である
石原慎太郎でさえ反対して行動を起こしていた)が日米安保に反対
したのは、再び日本が米国の世界戦略の中で前哨基地として戦禍に
曝されるのを拒否したからであり、在日米軍基地が「アメリカの戦争」の
ための拠点であったからだ。
このドラマの物語の設定時代当時の1972年はベトナム戦争真っ只中であり、
事実上ベトナム戦争のための戦費を日本国民が負担していたことになる。
ベトナム戦争により日本が繁栄し、その戦費を払っていた。政府はその戦費
負担を隠していた。
朝鮮戦争の時もベトナム戦争の時も、日本は近隣国が苦しめられている戦争
によって特需を得て繁栄してきた。戦後日本の繁栄は、自分たちは安全
地帯にいて隣国の戦禍を傍観あるいは戦争協力しながら得た繁栄という、
血にまみれた繁栄であったのだ。まさしくアフリカの悲しみブラッドダイヤモンド
ならぬアジアのブラッドエコノミックであった。
それは、かつての戦禍を忘れ、奇しくも自国は一度も侵略や進駐や直接
攻撃を受けたことがないまま他国を侵害することによって権益を享受する
アメリカの縮小版を目指すかのようだった。

ドラマで沖縄返還の密約を暴こうとした二人が官憲に捕らえられ、被告人
同士として裁判でせめぎあう
現在の裁判劇段階の展開も面白い。
情報リークの女事務官(真木)は被害者を装い新聞記者(本木)に
強要されたと偽証していく。そこには、もはや社会正義に基づいて
政府を共に言論報道の立場から糺そうとした二人の信頼関係はない・・・。
だが、新聞記者は自分を悪者にする女事務官さえも守ろうとする。

法廷でのやりとりも、深いところで見ごたえがある。

ちょっと現実の裁判とは法廷内の様子は違うけどね。
なかなか面白い視点で原作者とシナリオ作者は突いている。
権力と闘おうとする人々。それを潰そうとする権力者。
反権力で社会正義を貫こうとする人々は、自分が属する側の上層部
からも圧力を加えられていく。
社会正義とは何か。
この『運命の人』は、政府=正義、権力=正義、勝利=正義とするアメリカ人
は嫌うだろう日本人ならではのドラマといえるのではないだろうか。
アメリカ映画では『JFK』がそれまでのアメリカンな視点に初めて自問を呼び
かけ、近年では『グリーン・ゾーン』が注目される。
といえども、アメリカ人は総じて自分たちがいつも正しく、権力者や力ある者は
常に正義
だと思っている部分が多い。「強い者が正しい」がアメリカだ。だから
日本のような健康保険制度などは存在しない。金がない者は医療治療も
受けられない。病気で働けなくなった腎不全患者は人口透析も受けられず
死を待つばかりだ。
そういう社会がアメリカ社会だ。
このドラマが突っついている「社会正義とは必ずしも権力者の側にはなく、
むしろ権力者は社会正義に反する場合が多い」という定理を説く視点は、
アメリカンにはなかな受け容れられない視点なのではなかろうか。
己の身に刃を当てて自問する日本人独自の感性が感じられる点、
また主権在民の観点から、このドラマの作りには好感が持てる。
主人公を演じる本木氏本人も「今の時代だからこそ、ぜひ観てほしい」と
TVの番宣インタビューで力説していた。
『白い巨塔』を書いた作者、なかなかやる。

TBS日曜劇場「運命の人」公式サイト

公式サイトの出演者のインタビューに注目したい。特に北大路欣也の
「基地問題も軍属問題も解決していない。今回、この『運命の人』という
作品が、沖縄の問題を学び考えるきっかけになればと思いますね。一日
でも早く平和で思いやりのある世の中になって欲しいと願っています」
という言葉と、
真木よう子の最後の言葉、本木雅弘の沖縄問題に関する
発言などは心に染みる。
また、松たか子は体制派育ちだからか、社会問題に関する発言は一切口
にしておらず、ただ演技についての感想を述べているだけである。
演技人としてドラマのテーマをどう身近に引き寄せているのか、俳優と
しての立ち位置の違いも公式サイトのインタビューから読み取ることが
できる。
ちなみに真木よう子は、東日本震災の時に公にせずに自ら被災地に赴いて
支援活動を行っていた。売名行為ではないので、他のタレントのように
PRキャラバンなどは一切やっていない。

本ドラマは実話をもとにしている。
被告人の新聞記者西山は一審無罪、女性事務官は懲役6月執行猶予1年、
二審で西山に懲役4月執行猶予、女性に懲役6月、上告棄却により刑が
確定した。
関連裁判は現在も係争中だが、注目すべきは、本件以降、マスコミ各紙は
報道の自由を守るためにと機密文書に関してスクープすることは一切やめた。
日本の報道の真の自由は死んだ。逆にこの事件により、毎日新聞を叩くことに
みられる報道テロリズムが育成されることになる。自由は、はきちがえられた。
この時以降、国民の知る権利を守るためではなく、政争の武器として報道が
利用されるようになった。
また、本ドラマのモデルである毎日新聞は世論によりバッシングされ販売部数
が激減し、倒産した。その西山バッシングをいつまでも煽り続けたのが、女性
事務官とその夫と新潮社だった。連日ワイドショーやTVで話題に上がった。
もう日米密約などはオハナシにも上がらなかった。
また、西山側は裁判以外では沈黙を守ったので、さらに女性の言い分のまま
世論は女性に同情的に形成されていった。
現実の西山事件での裁判は、検察側は機密の有無そのものには一切ふれない
まま持ち出した入手経緯のみを追及し、女性事務官の弁護側は男女関係のみ
に終始し、西山側のみが言論の自由と密約の存在を争っていた。
だが、結果としては、密約の有無については蚊帳の外に置かれてしまう判決が
誘導された。日本国民に負担を密かに強いた佐藤栄作が毎日新聞と西山記者の
反対勢力側のマスコミをスキャンダラスに利用して政治的に勝利した。政治家に
言論の自由は敗北した。
言論の自由を守らんがために闘った側は、逆に「言論の自由」に依拠して佐藤側に
ついた新潮社による言論テロリズムによって敗北した。皮肉と呼ぶにはあまりにも
問題が大きすぎる歴史的事件だった。この時以降、日本の言論の自由は死んだ
からだ。
関連裁判は係争中だが、時代は変わり、民主党政権になって、岡田外務大臣は
情報公開の一環として、密約関連文書を全て調査の上で公開するよう命じた。
これにより設置された調査委員会が2010年3月、全てについて密約及び密約に
類するものが存在していた事を認めた。また岡田は同年5月、作成後30年を経過
した公文書については全て開示すべき事を定めた。

西山事件


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歴史的な研究資料

2012年02月26日 | 文学・歴史・文化

福岡の日本刀研究者の方から研究資料として大量のコピーを頂いた。
日本で発掘された鉄剣の学会資料および関連資料、そして
ベック著の『鉄の歴史』の写しだ。深謝。
著者のルードウィヒ・ベックはドイツの工学博士で、この書は
1891年に出版され、1981年に中沢護一によって翻訳された版だ。
19世紀の書である。
私は第二外国語はドイツ語を選択しておらず、書名の原題さえ読めない。
せいぜい私が知っているドイツ語というのはブントとゲバルトくらいなもんで(笑)。

届いたばかりで、まだ本腰入れて読んでいないが、さらりと粗読してみると世界の
鉄の歴史を俯瞰している名著と呼ばれる本書において、日本の部分がとんでもなく
軽く触れられているのみだ。「ええ~?」という感じ。
しかも・・・なんだか、中身も的を射ていないような・・・。
マルクスが日本のこと書いていたときも「なんだかなぁ~」みたいな感じは
あったが、やはり産業革命以降の先進国だった列強国にとっては、極東アジアの
後進資本主義国などは研究対象にも値しない「未開国」であるという意識を
強く感じる。
一方、ウーツ鋼や中国の鉄の歴史については頁を割いており、その面では鉄の
研究としての芯は外してはいないと思うが、いかんせんわれらが日本については
サラリとしすぎているし、朝鮮に至ってはほとんどすっとばし(笑)。
そして、日本の鉄に関しては、これは業界では有名だが、ベック博士は
大きな誤認を著書において書いている。曰く、土中に長年埋めて朽ちて残った鉄
から日本刀を日本の刀工は造った、てのはなんだよ、それ(苦笑)。
神州ジャパ~ンの霊的儀式か?(笑)
19世紀の列強の意識、特に世界規模での学術的な突出意識というのは
やはり政治経済体制と同じく帝国主義的であったのだなぁ、と感じる。

そりゃあ、ついその30年ほど前まで封建体制で産業革命の洗礼も受けて
いない非キリスト経国の極東アジアの未開人の国が自分たちの陣営の
仲間入りをしだしたのだから、とまどいと同時に軽侮の意識もあったのだろうね。
それが清やロシアと戦争して勝ったりしたから、よけい焦っただろう。
この書の後のドイツにしてみれば、第一次大戦で日本は敵に回るし、どんどん
統治権益をアジアに拡大するし、三国干渉で日英同盟が破棄されて、
いよいよ自分ら先進帝国主義同士の領土と権益の泥棒合戦に日本が
参入してきたから、やむなく伊とともに軍事同盟結んだのだろうね。心底の
盟友としてではない。ヒトラーなんてのは、日本が東南アジアで英軍を壊滅
させた時には、日本と軍事同盟関係下にあるのに、「できることならあの黄色い
サルどもを私がけちらしてやりたい」なんて日本のこと言ってたしな。これは
ヒトラーに限らず、今の英米にもみられる継続的なゲルマン系白人優位主義の
表出だろうね。

第二次大戦を扱った映画でもよく出てくるよね。戦争下で同じ同盟軍なのに
英国などはポーランドやフランスをめちゃんこ蔑視して具体的にも差別して
いた表現描写が。きっちり歴史状況を描いた映画には必ず出てくる。
これは日本でもそうで、アジアを欧米列強の侵略から守るためとか言って
自分が侵略していたら世話ない話で、大東亜共栄などというのは日本の
一部が戦略的に言ってただけで、現実的には朝鮮、台湾、アジア諸国からは
歓迎されてはいなかった。
今の右翼的人間なんかはインフラ整備を以って日本は侵略していない
なんて言うけど、それは無理がありすぎる。
そりゃそうだよ、考えてもみてよ。
隣の家のやつが勝手にうちに乗り込んできて「お前の家の水道直して
やった」と言って居座り、「今度から俺の家の言葉を話せ」と強制して
名前まで取り上げたらどうよ?「ありがとうございます」と言えるか?
日本がかつてアジアの国々を「同胞」として日本人と同列に意識したかと
いうと歴史的にはそんなことは絶対にない。関東大震災の時も、日本人は
朝鮮人に対してどんなことしたと思ってるのよ。
アジア人がいつまでも指摘する反日言動に対して、右翼的な日本人が
反反日感情でもって応えようとするのは、「戦時中にインフラ整備して
アジアの先進国の日本の一員にしてやって、欧米列強からの圧力に
対して聖戦を戦ってやったのに、戦後『戦勝国』側としてでかい顔しやがって、
第三国人のくせに」というような思い上がった考えが日本人の根底に
今でもあるからだと思うよ。自分の心を覗いてごらんよ。
「国を愛する」ということは国土と国民を愛することで、やったことをやった
こととして自省せずにすべて美化して捏造して、なんでもかんでも賛美する
ことが真に国を愛することではないのだけどね。
人を殴っておいて「殴ってやったのだ」とか「お前のためだ」というのは
通らないでしょ。アメリカが原爆を落としたのは「戦争を終わらせるための
正義の行いだ」なんて言ってるのとまったく変わりないよ、それじゃ。
真に日本を愛するならば、自らに刃を向けて自問自省するかつての
日本人の美を噛み締めるべきだと、私は思うよ。

とりあえず、盗んではいけない。
人(心)も領土も、その国の人のものだ。他国が干渉して思い通りに
して許されるものではない。これはどんな国でもだ。
国際主義こそ真の愛国主義であると、私は思うけどね。

19世紀のドイツの工学博士の書の傾向性を見て、ちょっと感じたことを
述べてみた。


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2012年02月25日 | 内的独白
携帯から編集しようとしてて、テレビ見ながらよそ見して
キーボタン触ったら記事消えた!
ま、独白系だからいいか。。。

最近、おめでたニュースが多いね。

AKBがピンクレディを抜いて販売枚数歴代1位?
う~ん。
複数買いシステムの笠上げは差っ引かないのかなあ(笑)

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日本刀の疑問

2012年02月25日 | 日本刀

多少加筆しました。

2012/2/23付 日本刀は斬れなくなるのか


武術武芸ファン、日本刀ファン、歴史ファン、雑学分野興味深々の方々
向けのおはなしです。
「なぜ刀の刃を引く(刃先を潰す)必要があるのか」についても
書き加えました。


 


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真実を見極める ~日本刀は斬れなくなるのか~

2012年02月23日 | 日本刀

世の中、不確かなこと、ほぼ嘘であることがまことしやかに
「本当のこと」のようにしてまかり通っていることが多くあります。

そのひとつに、「日本刀は砂鉄を原料とした玉鋼を素材にして
折り返し鍛錬で鍛えられ、曲がりを防ぐために柔らかい鉄を
硬い鋼で包んだものであり、これが日本刀の伝統工法である」
という造られた考え方があります。

これは、正直いって嘘です。
「玉鋼」という呼び名は明治以降に登場したものです。
また、タイヤキやモナカのようにアンコ鉄を入れた構造は、日本刀
の歴史の中で、「ある時期以降」に登場した歴史の流れに沿った
仕方ない選択であり、源平~鎌倉~南北朝の日本刀の黄金期に
主として採用されていた工法ではありません。

日本刀に使われるのは鋼ですが、打ち続く戦乱(鎌倉末期以降)に
よって武器としての日本刀の原料である鋼が多く必要とされました。
最初は鋼の節約のために、全鋼ではなく、合わせ鉄工法で鋼を割り
込んだことから始まったのでしょう。これは美濃金工の剣装具が量産
工法として三枚板合わせ鐔などが登場したことと背景を一にします。
古い古刀でも単に鋼を割り込んだだけの割り鋼構造の物がありますが、
堅牢さではなんの不安もありませんし、「切れ味も優れているはずだ」
と明言している著名な無鑑査現代刀工もいます。
この刀工は、いわゆる古刀期の無垢造から幕末~現代工法のアンコ
工法まで自在に鋼をあやつれる方で、古刀の本質はわかっているけど、
割り鋼や無垢では「面白くないから」と甲伏せやまくりでも頑丈かつ
美術的にも国内第一級の出来栄えの作品を造りだせる人で、私など
は、その狡猾な狸ぶり(良い意味で)に、「やるなぁ」と感心してしまい
ます。
技量としての実力があるからできることで、誰にでもできること
ではありません。大抵は実用一点張りのみか、折れやすくて斬れない
けれども美術的には綺麗な刀、という二極化に大方の現代刀工は
属しています。
私は、なぜこの無鑑査刀工が人間国宝になっていないのか、不思議で
なりません。
ただ、この東京下町在住の刀工は過去の発言をみるかぎりでは相当な
自信家で、自分は鎌倉時代の刀工を越えたとさえ言いきっていますが、
果たして日刀保のたたら新鋼を使ってそれが出来ているのかどうかは
私はよく知りません。
しかし、作品を見ると、特定年代でその人の作が別な鋼を使っている
ことは見る人間が見たら明らかです。現代玉鋼よりも別な新鋼も使って
いるはずです。また、研いだ研ぎ師などは明確に判るのではないでしょうか。


室町以降、鋼の大量生産が工夫されていくのですが、これは送風装置
の発展とともに可能となります。
ただし、問題が起きた。
この新送風装置である天秤フイゴで送風して生産した「たたら鋼」は
どうやら質性が大変硬くて脆いようです。含有炭素がまばらなので
叩き鍛えて炭素量を均一に散らして粘りをだそうとするのがこの新鋼
(出羽鋼や千草鋼など)が出てきた時期から現代まで続く日本刀の
製法(工法としては歴史的に後半部分にあたる)なのですが、叩いて
折り返しても鋼が粘らない。粘っているように思えても、それで作った
日本刀は古刀にくらべて堅牢さが著しく劣ることは、私などの経験を
示さなくても歴史的に確かなようです。
折れやすくて欠けやすい刃であるのが、「大型たたら」で作られた
鋼で作った刀(の大部分)だといえると思われます。現実的に、
新刀や現代刀などでは散々な結果を示すことが多くて、ショボーンと
なってしまいます。(幕末刀=新新刀には一部丈夫な物あり)

「欠けやすい」という表現をここで使いました。
ここから表題の話に入ります。
世間でよく言われることに「日本刀は人を二~三人斬ったら斬れなくなる」
ということがあります。日本刀を握ったことも、畳表ひとつ斬ったことも
ない人が、さも自分が知っているかのようにこのようなことを言います。
また、インターネットの質問サイトを見てみると、明らかに日本刀に
関して握ったこともないような人だろうと確信できる人たちが回答して
います。ネットって怖いですね。

日本刀は人を二~三人斬っただけで斬れなくなるのでしょうか。
私は物体なら数知れずといえども、人は斬ったことがありません。
人を食うのはしょっちゅうですが。
ただし、人体に対する斬撃結果については、多くの資料が残って
いるので、それらから真実を窺い知ることができます。
まとめると、日本刀が人を数人斬ったら斬れなくなるというのは、
ある意味では当たっていて、ある意味では間違っています。

斬れなくなるのは、日本刀は「刃こぼれ」することがあるからです。

(探偵ファイルより)
バイクのバックミラーのステーを斬ってみたらしい(^^;)
良い子は絶対に真似しないでください(苦笑)


刃こぼれとは、斬切対象に対して日本刀の刀身が進む
方向の力に焼刃が耐えられなくなった時に刃部の組織が
壊滅し分離して脱落を起こす現象のことです。
大抵は刃より硬い物に接触した時や、刃筋と呼ばれる
刃先から棟頂点の延長線上に刀身が進まなかった
場合に横方向の力が加わりパキンと欠けたりします。
それとは別に、出来上がった鋼自身に靭性という「粘り」が
少なく、柔らかい水漬けの畳イグサを斬っただけで細かく
刃が欠けることがあります。

この刃こぼれが出来た部分は、刃がついていませんから
ただの鉄板です。斬れません。
では刃こぼれが沢山できて、刃の部分がすべてなくなって
しまったら?
当然、刃がないのですから斬れません。鋼の平板で
ぶっ叩いているのと同じことになり、斬れません。

(探偵ファイルより)
大きな石を斬ってみたらしい(^^;)
良い子は絶対に真似してはいけません(苦笑)

刃こぼれは、古書を読んでも、人体の骨に当たった場合に
生じたりすることがあるようです。
現代の畳表試斬(畳表斬りは中村泰三郎氏の弟子が考案)でも
古畳の中に細かい砂利や金属片が残っていた場合、確実に
刃こぼれする確率が高くなります。ですから、畳は巻く前に
よく広げて綺麗にする必要があります。かつての私のグループ
では畳表を広げて一枚一枚ホースで水をかけ、丁寧に拭いながら
目視で小石が残っていないか確認していました。一度軽く畳を洗い
流すイメージです。
室町時代の書に「骨を断つを良とす」という記述もあるくらいで
すから、骨まで切断できる刀は多くなかったことがわかります。
そして、その刃こぼれが無数にできたら、つまり刃がなくなるの
ですから、斬れなくなってしまいます。
さらに、刃が無くなるということは、いくら研いでももう駄目=再生
不能、ということになります。
よく言われる「日本刀は数人斬ったら斬れなくなる」と
いうのは、このような状態を示す刀が意外と多いから
だと思います。なお、「脂が乗って斬れなくなる」という
ことは一切ありません。摩擦係数が増えますから、多少
食い込みが悪くなることはあっても、脂で斬れなくなる
ことはありません。

さて、もう一方では、「斬れなくなる」に当たっていない
こととして、日本刀での人体の斬撃結果の記録があります。
これを読むと、「ある傾向の刀」は刃こぼれもなく、何人斬っても
斬れ味も落ちず、という結果になっています。
あまりに生々しいデータなので、ここには掲載しませんが、
斬れる刀はかなり斬れます。

また、鉄などの硬物を切ってもまったく刃こぼれしない
刀も多く存在します。これは刃と刀身が粘って、かつ、
しなやかな弾力性を持っているから、衝撃を刀身全体で
逃がす結果となり、刀身自体の折損を防いでいます。
これは鉄切りの高速度カメラの結果からも明らかです。
鉄が切れる刀はよくしなります。
そして、刃自体も大変粘りがある刃となっています。
刀身も粘りがあります。

粘る刀というのはどれくらいのものかという面白いエピソード
がありあます。
「刃切れ(刃に細い切れ目が入った部分)がある刀は折れる」、
「いや折れない」で意見が分かれた二人が、その刀を万力に
挟んで横に折り曲げ試しをしましたが、100回以上折り曲げても
まったく折れる気配がなかった、というようなこともあるようです。
刀は寿命でした。(『斬れ味日本刀』掲載)。

今回は日本刀は何人も斬れるのかという疑問に関して、
実際に斬れるのか斬れなくなるのかという物理的な側面に
ついて述べてみました。
日本刀とて刃物ですので、刃がなくなれば斬れません。
当たり前のことなのです。
ですので、「日本刀というものは・・・・」などと称して、自分が
握ったり斬ったりしたこともないのに、インターネット上でわかった
ように回答したり、「~と聞いたことがあります」などと無責任な
回答をするのは、よしたほうがいいと思うけどなぁ。

それと、少し刀のことをかじった人は「刃まくれ」が起きる刀の
ことを「ナマクラ」などと言いますが、これも大きな間違いです。
刃がまくれるということは、刃が欠損しないのですから、刃が
残っている状態であることを指します。刃先は粘っているので、
刃の厚い部分と分離脱落せずにくっついて残っているわけです。
これは、職方の手にかかれば、整形して刃部として再生できます。
日本刀の刃としては理想的な粘りの状態なわけです。

よく切先が欠ける日本刀が多くあります。
武術の稽古などで、床をこすってしまったりしたときに切先が
けし飛んで行って無くなってしまう刀。これは実に多い。現代刀
などはほとんどこれです。
ところが、粘る刃を持つ刀の切先は、こうした不慮の事故の際も
切先はまくれるだけです。
私は未熟なので、過去に2口の自分の刀を床に当てたことが
ありました。1口は「脛囲い(すねがこい)」という、地面すれすれに
こちらの足首を斬ってくる敵の刀を払う技で、初段の時に一度床を
こすってしまいました。「あ!切先飛んだか」と思いましたが、板床に
放物線状の疵をつけ、切先が少々まくれただけでした。
もう1口は、三段の時に、無作法にも、体育館で正座して手入れ中に
刀を取り落としてしまい、ゴン!と切っ先が床に斜めに突き刺さり、
刀の重みで倒れました。これも切先が多少まくれただけでした。
どちらも、粘らずに硬い刃だったら切先はけし飛んでいたことでしょう。
先輩の現教士七段の人は、やはり五段の時に脛囲い失敗で
切先がかなり大きくけし飛びました。
(脛囲いは、下に向けて鞘から抜刀しながら地上1センチ以内の高さで
切先を真横に半円形に素早く旋回させて敵の刀を払いのけます。
モノウチより先で払うので、こちらの切先が地面に近ければ近いほど
敵の剣との接触部位が相対的にこちらの手元に来ますので、力学的
にも技が利きます。つま先で横に蹴るのと脚で蹴るのとの違いに似て
います。真伝では、「実戦の際には切先を潰すつもりで地面ごと敵の
剣を払え」との教えが土佐英信流にはあります。それほど、身を守る
ために切先の低さが重要になる技なのです)

私の刀は2口とも、金床に乗せコンコンと軽く小槌で叩いて直しておき
ました。切先が欠損して無くなってしまってはこうはいきません。
かつて、多くの高段者をはじめ多数の剣士の剣を手にとって手入れ
する機会がありましたが、切先が無くなっている刀が実に多くて驚いた
記憶があります。あれは平成6年頃だったでしょうか。
どうやら、日本刀というのは、粘る刃、靭性の高い刀身を持ちえたのは、
常設型の大型永代たたらで作られた鋼を使用する以前の古刀と、
戦時中の軍刀に使用された近代刀だけで、他のほとんどの日本刀は
脆くて欠けやすい物が圧倒的に多いようです。
(「日本刀 刃まくれ」で画像検索すると、やたらと私の刀の画像が
出てくる。笑)

このことから、私は過去に「ある小さな実験」をしてから試刀する
ことにしていました。方法はここでは明らかにできませんが、
「試して折れてもよい」という前提で試刀に供された刀でも、その
事前検査により欠損予想が立つ作品では試刀しませんでした。
頑丈とされる軍刀でも、その事前検査により不安が生じたため
堅物試しをするのを中止したことがあります。
「日本刀は折れるもの」
こう思っておいた方が安全です。
ただし、折れにくく欠けにくいものもあるにはあります。
桜や樫は硬木ですが、私は直径5センチ程の桜の枝を一刀で切断
したことがあります。刃はなんともありません。友人の末古刀でした。
また、古刀新刀現代刀にかかわらず、角や鉄板を切っても刃こぼれ
しない刀というのもあります。
こういう刀は骨を斬っても刃こぼれせず、刀身に異常をきたさないでしょう。

私が今までに試した刀数はたかだか数十口の日本刀しかありま
せんが、その中でも傑出した靭性と斬味を示したのは幕末の水戸の
ある刀工の刀でした。私の少ない過去の経験ではその個体が一番
斬れて丈夫でした。面白いことに、誰が斬っても「え?」とその刀の
斬味に驚きます。私も驚愕しました。他のどの刀とも斬味の次元が違い
すぎるのです。無論、切れ物でならした斬鉄剣小林康宏刀もまったく
その幕末水戸刀には及びません。信じがたいでしょうが、濡れ畳半巻き
なら、畳から刀の刃を5センチほど離していれば、そこからサックリと
畳が片手で切断できます。誰がやってもできます。後にも先にもそんな
妙な刀はその刀のみでした。細身ですが、肉置きは意外とついた少し
ポッチャリとした刀です。堅物試しでも十分な結果を示しました。
物故刀工の作なので折り試しはしませんでした。
この刀は硬軟対象物に対して斬切が自在で刀身はなんともなく、
「巻藁用・竹(堅物)用と分ける現代試斬刀の作り方は問題あるな」と強く
感じました。
侍時代を考えると、敵は鎧を着ているか、平服かなどは状況によるし、
火急の事態に瞬時に刀を取りかえる暇などないからです。日本刀には
汎用性がないとなりません。
現代は、濡れ畳用に平肉をペッタンコに落として身幅広い刀姿を刀工に
注文打ちさせ、また、逆に堅物据え斬り用には厚手で極度に重い刀身を
作らせる剣士がとても多くいますが(物斬りを主体とする流派はほとんどこれ)、
そうした部門別に日本刀を特化させる製作指示は、私自身は日本刀の本来の
姿から考えて問題があると思っています。
小林康宏刀のように定寸(2尺3寸5分前後)、定幅(1寸前後)と重ね
(6~6.3ミリ程度)の普通の刀姿なのに、硬軟の対象物に対して高い
斬切力を持つ刀が日本刀の理想であると思います。
(康宏工房においては、製作試験として試しに超幅広刀身や厚み1センチ
近い刀を作ってみたが、試してみて結論として「必要ないね」ということ
になった。定寸・普通の刀姿で十分性能に満足が行ったからだ。
よく斬り物剣士から康宏刀が「細身の刀」と言われるのは、康宏刀が
定寸で普通であって、物斬り剣士たちが大段平だったり超ぶ厚いという
変則刀を持ちすぎているから康宏刀が「細身」に見えるだけのことだ。
ちなみに、製作者は、太い。笑)

1994.8.25(木) 撮影:私

ただ、この幕末水戸刀でのカラカラに乾燥した畳表1巻(折り巻きでは
なくギュウギュウの本巻き。畳は巻き方で硬度が変わる)の試刀では、
私は切断ができませんでした。七段の先輩もできなかった。
ところが、所有者の先輩はサックリと一刀で切断しています。この結果は
刀ではなく、斬り手の腕の問題。私や七段の人が下手だから切れなかった
のです。
試刀は、斬れ(漢字原意で斬り割くこと)と切れ(切断のこと)のその結果が
刀の性能であるのか、斬り手の腕であるのか、どちらなのかを見極める
ことが大切です。
いくら斬れる刀でも斬り手の腕前が拙劣だと切れませんし、また斬れない
刀(刃を引いた刀や切味が劣る刀)でも、斬り手いかんでスパンと切断
できます。完全に乾燥した状態の畳表1枚の本巻きは太い建材丸太のようで、
おいそれと軽く切断はできません。さりげなく切断するのは腕が良いの
でしょう。その斬り手は、手首程の太さの採り置き乾燥竹6本を同時切断
してしまうような腕前の人です。
しかし、試刀の場合は居合斬術稽古ではありませんから、何でもかんでも
腕前で切断しまっては刀の性能比較にならないことも斬り手は注意が
必要です。それは刀試しではなく腕試しだからです。(刀道連盟では、
斬り試合の際の決勝では、同じ刀を両選手が使用する規定があるが、
これは賢明な審判方法だと思う)
江戸時代にこんな話があります。幕府御様(おためし)御用の山野
勘十郎に伊予藩がある刀の試しを依頼し、山野が斬ったところ
肋骨部分で刀が止まり、山野は「斬れ味よし」としました。
それを見た見聞役の侍士が山野にクレームをつけた。今一度、と。
山野はまた斬り、肋骨で刀が止まり「斬れ味よし」と。
伊予藩士は「斬れていないのに斬れ味よしとはいかなることか」と
詰め寄ります。
すると山野は「そこもとは刀の斬れ味が知りたいのか、それがしの
腕が知りたいのか。心外である」と言うや、やっ!と死体に斬りつけ
土壇(試刀のための死体を乗せる砂の壇)まで骨もろとも斬り下げ
ました。伊予藩の侍はいたく恐縮して非礼を深く詫びたそうです。

私が居合斬術稽古で使う自分の備前刀をほんの軽く刃引き(刃先を
丸めること)していたのは、刃こぼれが生じにくくするためと、キンキン
に研ぎ澄ました刃では自分の腕で切ったのか刀が切らせてくれたのか
判断できなかったからです。事実、その刀で切れる人と切れない人が
いて、その意味でも大変勉強になりました。康宏刀は最初刃を引いて、
後に寝た刃を合わせて(立てて)備前刀とはあえて差異を設けました。
さらに、ほとんど世間では知られていない江戸期の武士の心がけ
としての面から、昔の人は刀の刃を引くことがありました。研ぎ過ぎて
刃を立て過ぎた刀で剣戟に及ぶと、敵の刃と打ちあった際にこちらの
刃先が細かくちぎれ飛んでくることがあります。幕末の新選組長倉
新八の談話でも、ちぎれた刃が顔にいくつも刺さったということが伝え
られています。
(実はこの話は本当か否か、川崎の英信流道場で師範と二人で
バイクのフルフェイスで顔面を防護して研ぎ澄ました脇差でやって
みた。江戸期の伝聞は真実だった)
これが万一目などに入ったら遅れを取って隙ができて斬り倒されて
しまうのは必至です。
ですから平山行蔵などは、武士の心得として刃引き刀を常用して
いました。
江戸市中の捕り方同心が帯びるのは刃引き刀が決まりでしたが、
これは殺傷よりも捕縛重視であったことと、やはり剣戟の際の
刃ちぎれ飛びに対しての一石二鳥ごしらえだったと思います。
もしかすると、出陣前に侍が砂の築山に刀を突っ込むのは、
従来言われてきた「寝た刃合わせのため」ではなく、逆に刃を
軽く潰して刃先ちぎれ飛びを防ぐ目的であったかも知れません。

私が試した幕末の水戸刀のように、折れにくく、かつ鋭い斬れ味の
刀は古今東西いくらか存在します。
でも、そういう日本刀らしい日本刀の方が、実は数が圧倒的に
少ないのです。
それでも日本刀は元来は武器ですから、「要求性能」があります。
何百人の刀と刃を合わせて残る日本刀などというのは存在しません。
大体一回の合戦で刀はオシャカになると考えておいた方がよく、
それゆえ、戦国時代には砥石を携行したり、一人あたり何本もの
刀剣を持って行ったり、刀鍛冶そのものを駐屯先に連れて行ったり
したのです。
刀をいくさ場で二本帯びるようになったのも、元々は短い方は「予備」
としてあったと思われます。(異説あり)

本日の私の記事をここまで読まれた方々に知っておいていただき
たいのが、「日本刀は折れやすく欠けやすい(物が多い)」こと。
「数人斬ったら斬れなくなるというのは日本刀に限らない」こと。
「粘る刃はまくれる。脆い刃は欠ける」ということ。
さらに進んで、
「心金構造は日本刀の伝統製法ではない」こと。
「日本刀の原料は古来から砂鉄だけではない」こと。
「砂鉄から作った和鋼が最高品質ではない」こと。

冶金学的には、構造鋼のような現代特殊合金鋼の方が、和鋼よりも
ずっと優れています。ただ、製鉄炉で吹く鉄しかこの世に存在しない
時代にはその鉄しかなかったのでそれを素材にしただけです。
日本刀は刀剣武器として世界でも優秀なものですが、日本刀が
優れているのは、砂鉄を使ったからでも、和鋼だからでも、たたら
製鉄だからでもありません。反りと形状と構造(刃先から棟にかけて
漸次的に硬度を変化させて弾力性をもたせる日本刀独自の構造)
ゆえに、バトルタイムプルーフを経て、日本刀が武器として優秀で
あると評価されているのです。
ただし、武器としては優れていても兵器としては時代遅れなので、
戦争には使えません。そこには、日本刀に限らず「刀剣」が持つ
限界性があります。戦争は正規集団戦も精鋭による特殊戦も
火器でないと話にならない。そして、兵器としては軍艦や航空機や
近代電子機器が必須となってきます。刀剣は近代戦の中では
石つぶてに毛がはえたようなものですし、銃剣としての用兵使用
しか存在しえず、日本刀は戦闘には不便不適この上ない刀剣と
いえます。

一方で、日本刀が実用のために存在した封建時代を見てみても、
美術的な態様はすべて「後付け」です。侍の時代に美術的に優れた
物だから遅れをとらない、などという概念は存在しません。
ただただ、「丈夫で斬れる」という性能一点に、求めるものが集中して
いました。
それが崩れたのは江戸期に平和になってから。見た目重視になって
きました。
ところが、幕末になると俄かに武器としての日本刀の本来の姿が
再び求められたのです。それまでの江戸期の新刀はなんだか折れ
やすいことに幕末の武士たちは気づいた。ああ、これじゃいかん、と
いうことで幕末には各地で切味だけでなく、耐久試験をするように
なったのです。幕末の武士や志士たちが強く求めたのは
「折れない刀=刃こぼれがしにくい刀」だったのです。
その気風を切り拓いたのは、幕末の100年程前に刀工であり
刀剣研究者である一人の男が唱えた「復古刀論」でした。

その話は、いずれ後ほど。

あと、蛇足ですが、最近、台湾・中国・韓国・東南アジア・アメリカ等で
作られている日本刀の形をした刀があります。厳密にはあれは
日本刀ではないにせよ、「日本刀の足もとにも及ばない」などと
あなどるようなことを我々日本人は言わない方がいいです。
なぜならば、うかうかしていると、海外製の刀の方が日本刀よりも
本来の古い日本刀が持っていた性能を有している場合があるからです。
私個人は日本刀とは、砂鉄云々とは関係なく、日本において日本人が
造った刀剣が日本刀である、と考えています(含む在日や在住外国人。
キース・オースチンや、いにしえの来派のように)。
あまり国粋主義的に他国の刀剣製造者を馬鹿にしたいがために
肝心の性能面を無視しては痛いシッペ反しをくらいますよ。
韓国刀の一部やコールドスチールの刀が多くの日本刀よりも性能面で
優れているという事実は動かしがたく、現在日本にいる刀工たちには
奮起努力を願いたいと思うのです。もはや戦後ではないのですから、
絵に描いた餅を追い続けた時代にそろそろくびきを断ってもよいのでは
ないでしょうか。
いくら海外製の刀を「あんなもの日本刀ではない。パクリだ」と刀剣を
知らない日本人が感情的に言っても、それは確かに海外製は日本刀
ではありませんが、現代日本刀(正式名称「美術刀剣」)よりも「折れず
曲がらずよく斬れる」という現実があるとしたら、負け犬の遠吠えに
なってしまいます。負け犬ほどキャンキャンと吠えますが、そういうのは
深遠なるたたずまいの存在感を伝統とする日本人の美とは程遠いもので、
むしろどこかの国の人々が半狂乱でギャアギャアがなりたてるのに
似ているように思えます。
本当の「負け」が来ないように、日本刀の認識に関しては、確かなものを
多くの日本人に持ってほしいと願うばかりです。


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日付

2012年02月22日 | 内的独白

10年後の方がぴったりだろうけど、きょうは
2012年2月22日。
2が5個並ぶ。
2が7個全部並ぶのはあと210年後(笑)。
親子でいうとだいたい7世代くらいの時間かな。

考えてみたら、俺が生まれた時って、江戸時代からまだ
100年経ってないんだよね。ほんの親子3~4代の時間の流れだ。
それ考えると、時の経つのは速いね。あっという間。



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新宿百景 part.1 ~眠らない街の危ない話~

2012年02月22日 | 外出・旅

眠らない街というところがある。
小説・映画『新宿鮫』のタイトルのようだが、まさに新宿はそれだった。
だが、正しくは、眠らないのではない。
一般人が眠っている間に覚醒しているのが新宿という街なのだ。
一般人が起きている時は、転寝をしているのである。
新宿には古くから複雑な新旧の、若者と「かつて若かった者」の
エナジーが胎動のようにうごめく不気味な街だった。
その坩堝がゴールデン街だった。

まさしく、昼間は眠っている。


なんの変哲もない戦後のバラックがそのまま残った飲み屋街だが、
ここはただの飲み屋街ではない。
ある種の「解放区」のような様相を呈している。

ゴールデン街は俺の懐だった。
毎日ではないが、ほぼ毎日立ち寄った。


この街がとんでもない街なのは、とんでもない連中がここを根城にして
トグロを巻いているからだ。
一般的な公序良俗に属する品行方正な市民の方々はいらっしゃらない。
そんなことはないのだが、ここに行けば拳銃だろうが麻薬だろうが
手に入るような(重ねて言うがそんなことはない)雰囲気を醸し出している。

ただ、一般客に見えてもここに巣食う連中は普通じゃない奴らばかりなので、
ひとつ間違うととんでもないことになってしまい、一夜の
うちにあちこちで
殴り合いが起きているのもここゴールデン街だ。
原田芳雄や松田優作や唐十郎も当然にして、ここの常連だった。

とんでもない場所というのは、とにかく突っかかってくる連中が
そこらじゅうに潜んでいるのだ。
そして、左翼文化人やヤクザな新左翼の定宿のような街でもある。
この街じゅう、そこかしこで言い争いと殴り合いが起きている。
一度、ある店で「静かにしねぇか!」と言われて見たら、カウンターの奥に
優作がいた、なんてこともある。

くわばらくわばら、なのであるが、今でもゴールデン街はドクンドクンと
ingで不気味な鼓動を続けている。
あそこが解放区であるのか、ただの吹き溜まりであるのか、それは
あの街に膝上まで足を踏み入れてみた者でないと語れない。
新宿は眠らない街。
そうではない。
昼間は眠るように休んでいるだけなのだ。
多くの文化人が愛するには、得体の知れないワケがありそうだ。



という話を昔の人から聞いたことがありますので、記してみました。


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弥生時代の九州

2012年02月21日 | 文学・歴史・文化

昨年、暦使用の鉄剣が発見された元岡古墳(6世紀-AD570)




『邪馬台国と狗奴国と鉄』(菊池秀夫/彩流社刊)より

2012年現在、発見されている日本最古の製鉄遺跡跡は広島県三原市の
小丸遺跡(弥生末期頃)だが、同時期の弥生時代末期は、日本列島は
クニという小国に分かれており、覇権を争っていた。
当時、日本の中心的な地域は畿内でも勿論関東でもなく、九州だった。
それは産鉄という最新技術を持つことが即ち軍事力の保持に直結した
ので、鉄をいかに確保するか次第で勢力的に優位に立てるか否かが
決した。軍事が支配の安寧を確保するのであった。

また、鉄器使用による農耕面での収穫の寡多も存在したことだろう。

弥生時代とは、BC(Before Christ=キリスト以前=紀元前)10世紀頃から
AD(Anto Domini=キリストの年=紀元後)3世紀までの日本の時代を
指す。
上の方の図で示す元岡古墳で出土した鉄剣は弥生時代が終わった後の
古墳時代(3世紀半ばから7世紀末までの400年間)の時代の物だが、
下の図はその時代の前史である弥生時代(BC10世紀~AD3世紀末)の
当時の日本の勢力図を示すものだ。

下の図の菊池秀夫氏の図を見るとあることが読み取れる。

この図は、邪馬台国時代の九州各地の鉄器出土地域を7地域に分け、
その特徴の違いからさらに3グループの勢力範囲を概括的に表した
ものだ。
北部九州グループは女王国連合で、菊池氏はこれが邪馬台国グループ
だと比定している。
さらに南には、その女王グループと激しく敵対した狗奴国(くなこく)グループ、
そしてさらに南東部にあるのは菊池氏が「原大和王国」と比定している日向灘
沿岸
の勢力だ。
これらはすべて出土鉄器の分布としてまとめている。

ここで、注目されるのは、九州北部の女王国連合と熊本周辺の狗奴国との
出土鉄器の大きな違いである。
3つの勢力地域において、一番出土数が多いのは鉄鏃(てつぞく=やじり)で
あり、これは相対的には共通している。
だが、出土鉄器の内訳の傾向性を見ると、北部女王国連合、そこと激しく争った
狗奴国では出土傾向に大きな隔たりが
みられる。
それは、北部女王国連合では刀子(とうす=小さいナイフ)がかなりの割合を
占めるのに対し、狗奴国は刀子の割合が少なく、圧倒的に鉄鏃が多くなる。
また、狗奴国では鉄剣、鉄刀の出土数が異様に少ない。東部の大野川・大分川
流域の勢力に至っては、鉄刀類は一切出土せず、殆どが鉄鏃で占められる。

このことは何を意味するのか。
一つには、刀子(とうす=小型ナイフ)の普及が北部女王国で進んでいたことが
考えられる。

これは、刀子は汎用ナイフであるので、鉄器として刀子が普及していたことは、
文化的水準が先進的であったことを示すと思われる。
また、女王国連合と狗奴国では、一国単位でみた場合、武器である鉄剣・鉄刀と
鉄鏃の出土には大きな比率的差異
が示されている。
これは、戦闘様式の違いとして捉えることができる。武器の違い=
戦闘方法の
違いといえるからだ。(例:元寇)

北部女王国連合は刀剣類を重視し、対する狗奴国では弓矢を重要視した戦闘
方法ではなかったろうか。
となると、当然想像できるのが、北部は刀剣を主軸にした騎馬と歩兵中心の
多種多様なゲリラ戦、狗奴国は
弓部隊による射撃戦を戦闘方法の中心に据えて
いた可能性がある。
乱暴に括ると、歴史的勝敗の趨勢は別にして、軍事的には、狗奴国の方が
先進性において女王国連合に遅れていたのではなかろうか。
狗奴国領域で発掘される遺跡の多くが、「ある日突然村全体が一気に消滅」
という発掘調査結果が出ており、このことは当時の戦闘模様がどのような
ものであったか想像させる。
女王国連合は狗奴国のムラを蹂躙するがごとく、多種多様な小規模戦闘に
よる混乱破壊戦を展開することにより、ムラを個別撃破して壊滅させて
いったのではなかろうか。弓射戦は一定距離においての集団戦には効果が
あるが、突破口を切り開かれてからは獅子奮迅の歩兵の近接戦闘が優位性を
持つ。その為には矛(ほこ)や刀剣の装備は必須となる(槍は新しい武器で、
発明されたのは室町時代)。
そして、陣地攻略→占領を成すのは最終的には歩兵であり、これは近代科学
兵器を使用する現代戦においても一切変化はない。飛び道具が戦争の流れを
作ることはあっても、最終的な戦略拠点確保を行うのは歩兵である。

仮に弥生時代末期九州の鉄器出土の傾向性が軍事バランスに基づくという
これらの視点が実証されていけば、「戦争様式からの古代史の解明」という

アプローチもできる。
当然、当時の大陸・朝鮮半島の軍事的な特徴と照らし合わせることにより、
いずれのクニが大陸・半島の勢力と緊密であったかが浮かび上がってくる
だろう。

また、菊池氏が比定する原大和王国勢力はその頃どうしていたのか。
原大和王国勢力と想定するならば、その後の畿内大和政権に繋がっていった
原勢力として比定しているのだろうが、『邪馬台国と狗奴国と鉄』では詳しく
展開はされていない。
もしかすると、原大和王国勢力は、混乱に乗じて一気に「トンビがアブラゲ」展開か?
いずれにせよ、古墳時代に入り、大和政権が日本各地のクニを侵略制圧して
倭という統一国家作りを進めていくのであるから、現天皇家である大王(おおきみ)
の勢力(根源的発生地は時代が弥生時代のため比定されていない)が弥生時代
から存在し、やがて国内で最強権力を掌握していくのだけは明らかになっている。
ちなみに、「倭」という単語は、知らずに日本人は自らの国名として使っていたが、
これは中国が日本に与えた賤称であり、それに気付いた統一国家の日本人は
自ら国号を「日本」と名乗った。これは聖徳太子=廐戸皇子(うまやどのみこ。
AD572~622。最近の教科書では聖徳太子とは呼ばない)の時代のことだ。
日本が「日本」となったのは、7世紀の飛鳥時代のことなのである。皇子は遣隋使の
際に、隋側が「倭皇」とした箇所を「天皇」と書き改めて返信している。ここに初めて、
独立国日本の意識がアイデンティティとして確立し、「物言う日本」が登場した。

現在の日本の軍事組織は歩兵小銃(ライフル)に旧ソ連グループのAK小銃を
使わない。
現日本国の制式小銃は国産だが、輸入銃器(武器および兵器)はすべて旧西側
先進国製
の物だ。
小銃(ライフル)の弾薬も米軍を中心としたNATO軍指定弾薬に合致する弾薬を
使用している。
これは、現在の日本が米国と軍事同盟を結んでいるからだ。敵性弾薬である
旧ソ連系AK弾は使用しないのは当然だ。

こうした軍事バランスや軍事的な特徴というものは、古代から現代まで続く
一つの定理だと思える。軍事的・政治的に協調関係にある国(しかも先進)の
軍事物資や武器と同じ仕様になっていくのは当然のことなのだ。
古代においてもこの定理が働いていると私は思う。
そして、菊池秀夫氏がまとめた弥生時代末期の九州(日本の中心であった)
の勢力バランス配置図において、グループごとに出土する武器に大きな傾向的な
分裂がみられるのは、そこに使用する主要武器の差異(=戦闘様式)と当時の
大陸・朝鮮半島(当時
の先進国)との政治的密着度が現れていると思われる。
戦闘様式と主要武器の特徴は、その国が「どの近隣地域と相互影響関係に
あるか」を示す。

こうしたミリタリーバランスという視点からの古代史の解析も、ありではないだろうか。
人類の歴史は戦争の歴史である。


と、ふと私は思ったのですよ、と。


余談だが、「武」という漢字を指して「武とは戈(ほこ)を止めること」と称して
活人剣なるものを説いたり、刀を抜かないことが武士の誉れであるかの
ように説諭する人がいるが、大間違いである。
「武」という漢字の原意は「戈(ほこ)をもって止(あし)
で進むこと」
であり、武装して荒々しく進軍することである。
これは『謚法』(しほう)という中国の古書に、武王・武帝のオクリナ
の意味として「武」の漢字の原意が示されていることからも明らかだ。
「武」は読んで字のごとく「武」なのである。決して武力を制止すること
ではない。これは覚えておいた方がいいと思われるプチ漢字知識なり。
私もずっと「戈を止める」ことだと教えられた通りに思い込んでいたが、
漢字の原意を調べたら、真実はまるで反対の意味だった。
「武」の漢字の原意を知ったのは1990年のことである。
真実と云うものは、裏を取らないとわからないものだ。



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日本最古の暦使用の刀剣 発掘 (2011.9.21)

2012年02月20日 | 内的独白

今さらお前はなにやってるんだ、と言われそうなドンガメNEWSだが、
本日、福岡の刀剣研究者の先輩から直接教えていただいた。
先輩は今後、この発見につき、学会での研究に噛んで行くそうだ。

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西暦570年示す「庚寅」銘文の大刀出土 日本最古、
暦使用例か 2011.9.22 09:40(サンケイ)

福岡市西区の元岡古墳群で出土した鉄製の大刀。
左はエックス線写真で、長円で囲まれた部分に「庚寅」
など19文字の銘文が象眼されている。

 ■福岡 元岡古墳群

 福岡市教育委員会は21日、同市西区の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で、
西暦570年を示すとみられる「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字
の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土したと発表した。

 調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示す
とみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」
に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。

 坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀
の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な
資料だ」と話している。

 市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」
であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。

 大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、
刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が
象眼されているのが確認された。銘文は刀が作られた年月日などを記していると
みられ、最後の文字は「練」の可能性もあるといい「すべてよく練りきたえた刀」と
いう意味が考えられるという。

 大刀が出土したのは元岡古墳群のG6号墳(直径18メートル)で、古墳時代では
国内最大級の全長約12センチの銅鈴も見つかっており、被葬者は有力豪族と
みられるという。


【用語解説】元嘉暦

 中国南朝宋の天文学者・何承天が編纂(へんさん)した暦法で、中国や日本で
使われていた太陰太陽暦。南朝の宋、斉、梁の諸王朝で、445年から509年まで
用いられた。百済へは宋から伝えられ、661年の滅亡まで使用された。日本には
6世紀ごろ、百済から招いた暦博士が大和政権にもたらしたと考えられている。
「日本書紀」の暦日が5世紀中ごろから元嘉暦の計算と合うことから、日本でも
元嘉暦を用いていたと推定されている。

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これね、すごいことです。
今でもこのように歴史的大発見の遺跡が出てくるのだから、今後もどんどん
日本の歴史は明らかになっていくと思います。楽しいなぁ~。
このような大発見は、さきたま古墳群の稲荷山古墳の鉄剣発見以来のことでは
ないだろうか。
稲荷山古墳出土の鉄剣には115文字の金象がん銘があり、雄略天皇のことが
書いてある。表された辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。
さきたま古墳群てのはね~、小学校の社会科見学、中学の社会科見学、大学の
時の歴史散歩で何度か行ったよ~。

ただ、昨年の福岡元岡古墳の鉄剣の暦の庚寅が暦最古だとすると、稲荷山古墳
鉄剣記載の辛亥はどう捉えるのだろう。稲荷山の方が99年も古いことに
なるのだが・・・。稲荷山古墳鉄剣も元岡古墳鉄剣も元嘉暦
ではあるのだが、
元嘉暦が大和朝廷にもたらされたのは6世紀で、渡来人によって百済から
大和朝廷にもたらされたとなっている(日本書紀では544年としている)。
となると、471年の辛亥年にワカタケル雄略天皇のことを刻んだ稲荷山鉄剣を
どう捉えるのかということになる。稲荷山鉄剣にある雄略天皇の動向は日本に
元嘉暦が入る以前の半島大陸の暦で語られたことになる。
その暦からの関連性の整合性をどう捉えるのか、浅学ゆえ私はよくわからない。
471年辛亥年に製作された鉄剣はどこで作られたの?ワカタケル雄略天皇は
どこにいたの?という疑問が残る。
また、ワカタケルを倭王武=雄略天皇とすると、辛亥年の比定は宋書との整合性
がとれなくなるような気もする。『宋書倭国伝』の記載によると、倭王興が没したので、
武が新たに大王(のちの天皇)となり、478年に宋に朝貢してきたとある。
日本の歴史としては、学術的には雄略天皇の在位期間は456~479年となって
いる。このあたり、宋書を中心に考えると、倭王武=雄略としてよいのかという
問題が起きる。
ワカタケル=雄略=武王説は、肯定・否定とも学説が諸説あるようだ。
稲荷山の鉄剣だけを解読してワカタケルを雄略とする説は、辛亥年がいつの辛亥年
にあたるのかのみにかかっている。
辛亥年がいつの辛亥年であるかは、「大王(おおきみ)」という称号が日本において
いつから使われていたのかの確証にもなるので、とても重要なことだ。

昨年発見された今回の福岡元岡古墳の鉄剣の銘は、錆の中に金象がんがある
ので、それを最新科学機器でスキャンして文字を判読したのだそうだ。
先輩によると、日本全国でそのスキャンをする装置は2台のみ、その2台ともが
福岡にあるのだそうだ。
日本の始まりは九州北部だしね(笑)
う~ん、いや、宮崎か?(^^;)
いや、もっと昔は・・・
日本列島の起源のオノコロ島は古事記と日本書紀で場所が違っていて、古事記
だと淡路島だけど、日本書紀だとうちの近所なんだよね(笑)。まあ、これは神話の
話だからアレだけど。

いずれにせよどんどん研究は進むし、新たな大きな発見も今後出てくるだろう。

私個人としては、古代製鉄の野たたら(湖沼鉄等の)が発見されないのは、
山の斜面を利用した農夫炉だから、全国どこぞに埋もれてしまっているの
だと思う。
たしか、日本海側のどこか(失念)で古代製鉄炉(製鉄か精錬かは不明)が
発見されてとてつもなく重要な遺跡なのだが、なぜか学会の学者は見向きも
せずに、保存もまったくされていないので地元の有志がなんとかしようとしている
サイトを数日前に見ていた。
斜面にいくつもの穴があけられていて、そこで製鉄していたようだ。
学術的見地からの保護措置が取られていないので、今にも崩れそうで
これはひどい、と思った。

(湖沼鉄:葦原の中つ国であるわが日本には、砂鉄、鉄鉱石以前に、葦が生える
水地に鉄の塊=しかも生物が鉄化したもの=が存在した。つまり鉄(原料)は
そこかしこで簡易に採れた。ただし、この原料を「還元」させて鋼を得るという
製鉄・精錬技術を知ったのはずっと後世のことである。その技術は6世紀に
韓鍛冶=からかぬち=によって日本にもたらされたことが現在の学説では
定説となっている)



また、別サイトだが、このページは大変興味深い!↓
http://kiyond.blogspot.com/2009/12/blog-post_21.html
(ギター製作家の視点 「古代製鉄 9」)

このサイトによると、日本の古代製鉄のルーツを南方系に求めている。

日本の製鉄のルーツ (この画像はインド)




この独特の土器は実は日本で発掘されている。

この土器は播磨から東に位置する三田(さんだ)市三輪・宮ノ越遺跡
から出土したものだそうだ。

これと同様のものが播磨地域(兵庫県加東市社町)でも出土している
とのことだ。丹波篠山でも3点出土している。
どう見ても、鉄を吹くためのインド式土器炉だよねぇ。


日本の古代製鉄は、ある時期(弥生~古墳前期)において
朝鮮半島の韓鍛冶(からかぬち)である吉士(きし)が精鋼
技術を倭鍛冶(やまとかぬち)にもたらし、以降日本の古代
製鉄技術は飛躍的に進歩したというのがいままでの定説だ。
では、それ以前の倭鍛冶(やまとかぬち)の技術はどこから
きたのか。
卑弥呼の時代の古代製鉄炉以前の様式と思われる炉は
東南アジアなどにその残像が見られる。
また、現在のところ日本で最古の製鉄遺跡とされる広島県
三原市の小丸遺跡(弥生前期~縄文?←未確定)は、一体
いつの時代の製鉄炉跡なのか。
三原の小丸遺跡が最古であるならば(今後さらに古い遺跡が
発見されないならば)、現状では、日本の製鉄の起源は三原と
いうことが続く。
日本への製鉄技術伝播は、
当初南方系の技術が人と共に伝来し、
そのずっと後の
4世紀以降に北方系・半島系の高度な技術が伝来
したのでは
ないだろうか。(学術的定説は確定されていないが、
日本への製鉄技術伝播は縄文期ではないかと私は思っている)
また、地理的にみて、広島県三原が日本最古の製鉄地であるとは
考えにくく、やはり南方・北方からの玄関口である九州から三原小丸
遺跡よりも古い製鉄炉が今後発見されるのではないだろうか。

いずれにせよ、日本の歴史は製鉄に限らず、いわゆる「空白の4世紀」が
明らかにならないことにはミッシングリンクは解明されない。

おもしろいなあ、古代史は。
学生の頃は近現代史だけしか突っ込んで勉強しなかったからね(笑)。
古代史おもろいや。
ただ、アカデミックな学者たちは、象牙の塔にこもらずに、また、縄張り
意識など捨象して、互いに手を結んで各方面からのアプローチをすれば
いいのにね。
歴史学と考古学の確執というのは、最近の学会ではどうなの?
おいらが学生の頃は憎しみ合うくらいに反目しあっていたけどね。
それじゃ、学術の探究というのはあかんのとちゃいまっか?


ところで、九州の先輩が教えてくれた鉄剣の銘の一部には
「十二果湅」とあったそうだ。意味不明。現在学者が解読中とのこと。

※「十二」は数のことだろう。何の数のことであるのか。(これ重要)


※「果」は「はたす」のみならず「はだか」という意味もある。
  また「擲果満車」という言葉が
『世話新語』(漢末・魏・晋にかけての士大夫の
  名言・逸話を集めた本)に記載されている。
  「投果」とは、古くは邪霊を祓うことと
された。つまり辟邪のために行われ、
  のち魂振りの俗になったと故白川静先生
(漢文学者、文学博士)は説明している。
  それによると、この俗は後まで
行われたものらしく、六朝の晋の潘岳
  (ばんがく)は風采のよい美男子で、
彼が狩衣姿で都中に車を走らせると、
  女たちは争って彼の車に果物を
投げ込んで車中はたちまち果物で
  一杯になったという。同じ頃、山東
から都に出てきた左思(さし)が、都中を
  車で行くと、この風采のあがらぬ
田舎人に、女たちは瓦礫をあびせたので
  辟易して逃げ帰ったという。
(ひどい話だ、笑。この故事は高校の時の
  漢文の時間に二松学舎大出身
の教師に習って「ひで~」と記憶していたので、
  この度、調べてみた)

  この鉄剣の「果」は「はだか」と読むなら鍛錬工法のことを指し、また「投果」と
  同じような意味で使われたなら「十二」を干支と見立て、それを修辞する
  思想的意味合いで使われたのではなかろうか。「十二果」というこの銘文の
  解読の決め手は「果」という一文字の解析に尽きるような気がする。


※湅・・・これは単純に「鍛錬」の「錬」のことだろう。原料からくる大陸系の用法と

  思われる。



 


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