渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

三原城お堀のつがいの鴨

2017年03月17日 | 風情・季節・地球













がこちゃんかわゆす。
というかですね、見ていると仲良い夫婦なので気持ちが落ち着くのよ。

ただ、以前より少し痩せ気味なのが気になる。
お堀に餌は無いだろうなぁ。タニシとか。
まあ、アヒルではないので自分で飛べるだろうから、案ずるには及ば
ないのかもしれないが。


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サクランボの花満開

2017年03月15日 | 風情・季節・地球



我が家のサクランボの木の花が満開である。
こうやって二階から見ると、絵巻の絵のように見える。


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梅は咲いたか 桜は・・・

2017年03月13日 | 風情・季節・地球


これはうちの梅。父が生まれた時に植樹されたものを植え替えたものだ。
私の娘が生まれた時には新宿区から梅の木を貰い、三原の庭に植えた。
かなりの大きさの木になった。
父の梅も娘の梅も成る年には梅の実がたわたわに成る。




サクランボの木も、三原に引っ越してきた10数年前に植えて、当時は
苗木のような姿だったが、今や屋根より高い大樹に育った。
このサクランボの実がまたうまし!
そのサクランボの花が満開だと家の二階の住人から連絡があった。
お。昨日はよく見ていなかったす(笑

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Gジャン

2017年03月13日 | 風情・季節・地球


Gジャンがほしいと言う少年に、おいらが20代の頃に着ていたのを
あげた。おいさん太って着られないし(笑
「俺は太りすぎかい?」(on ハスラー2)というやつさ。

この用品屋を物色している時にGジャンが欲しい~と言ってたので。

着てみたらぴったんこ。15歳の彼は喜んでいた。
そういえば、おいらが16歳の時も叔父からの革ジャンもらって
それをバイクに乗る時には着ていた。かなりの年代物で1950
年代の革ジャンだった。両サイドベンチが真っ赤でカッコよかった。

もうすぐ日が暮れる。
きょうは中学の卒業式だったのと、父親の誕生日会を兼ねてお祝い
の食事会をする予定。美味しいと評判の焼肉屋さんへGO。


満月なり。


3人で舌鼓を打って焼肉をたっぷりと堪能した。お米はあれは
新潟のコシヒカリだね、たぶん。肉も質の良い最高の肉だった。
食事後、激渋台を求めて少年の練習の為に少年父子と共に
老舗店に向かう。
かつての撞球会1番テーブルほどに渋々のきつきつ台がある
某老舗だ。


この先に世界が広がる。
というか、この造作は絶対にあの場所を再現している造りにして
いると思う。それは映画『ハスラー2』でエディ=ポール・ニューマン
が「俺は太り過ぎかい?」と捨て台詞をする25年前のミネソタ・
ファッツとエディの世紀の対戦を知っていた黒人ハスラーにカモら
れてしまって、失意のうちにビンセント=トム・クルーズと別れること
になった玉屋の階段である。



ここには、これがある。俺が一番好きな矢羽根と座布団のTAD。


世界で一番このTADのこのデザインが好きだ。
TADの座布団・矢羽根・黒檀8剣。尻はデルリンに限る。


でもって、撞球はどうかというと、この15才に父親と私はボコられた。
ほぼマスワリのし(笑





彼は5歳の時から目標を決めていた。
10代後半でポケット・ビリヤードのプロになり、その後日本を脱して
アメリカに
移住して北米でプールプレーヤーとしてやっていく、と。
その人生の目標は10年後の15歳になった今も軸が一切ぶれて
いない。
音楽演奏家でもあり各地で父と演奏もしているが、彼の目標は職業
としてのプールプレーヤーである。
そのため、彼には「遊び」や「レジャー」で撞くことは1キューたりとも
ない。すべて、本職になるための修行の一環としてキューを出して
いる。小学生の時から1個玉の練習を泣きながら父親の厳しい指導
で訓練して来た。まるで「巨人の星」の星飛雄馬のような練習を積み
重ねてきた子だ。
ただ、プロの世界はシュート力だけではないので、これからいろいろ
人生経験を積んで、それがプレーに反映されるとよいだろう。

若い子が目標を持ってまっしぐらに進んでいるのは、見ていて清々
しい。


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夜明け

2017年03月07日 | 風情・季節・地球



夜明けの備後三原。コンビニの駐車場から。

ネットで今話題はこちら埼玉県秩父の風景。


偶然、先日家内が言った。
「RZで秩父に行った時、ムササビが飛ぶのを見たよね」
何か、そんな事もあったかも。
35年位前の話だろ、それ(笑

秩父での印象的な思い出は、居合の全国大会の後、先輩と観光がてら
SLに乗ったことだ。
実は人生30何年かで、蒸気機関車に乗るのは生まれて初めてだった。



あれ、全剣連の大会開催曜日を土曜日にしているのは、観光や
遠隔地移動を考慮したのでしょうかしらん。


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朝日を映す瀬戸内海

2017年03月01日 | 風情・季節・地球

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寒波

2017年02月27日 | 風情・季節・地球



きょうは東京はかなり寒いそうです。
雪は降らないだろうけど。


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三原城跡のライトアップ

2017年02月25日 | 風情・季節・地球



夜の三原城。
灯光器でライトアップされている。



堀に石垣が映り、なんだか妙な物体が宙に浮いているように見える。




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フクロウもしくはミミズク

2017年02月25日 | 風情・季節・地球



うちの裏手にある低い山を桜山という。
戦国末期に湾内を埋め立てて三原城が築城されるまでは、
この地は山名氏の城があった。
桜山の山頂。500年程前の曲輪(くるわ)の土塁や井戸が
残っている。


この桜山直下がかつて中世時代の海岸線だった。


戦国末期から慶長にかけての平城の築城思想とは異なり、
中世の武将の城は単なる軍事拠点の砦のようなものであり、
城の下に町を作る城下町の発想は無かった。
初めて城下町を形成する都市構想を実行したのは織田信長
ではなかったろうか。
武将の城が平城へと移行する織豊時代が近世の始まりと
しても間違いではないだろう。
合戦のたびに軍事要員として駆り出された農民が主体の
軍団は、農繁期には戦闘不能であった。
それを職業軍人化して専属武士団を家臣団として抱えたのが
織田信長でもあった。
以降兵農分離政策により、季節に関係なくいつでも戦える
武士団が成立した。固定的軍事専門職を意図的に創案したのも
信長である。兵農分離は後に秀吉が刀狩りと検地の実施と共に
押し進め、以降、武士は武士、他は他として身分の固定化が
完遂された。
それまでにも専業武士の血脈は武門としては存在したが、平時
においては農作業も行なったりもしていた。
だが、それの職業的分離を確定的に決定したのは秀吉だった。
すべては即応戦時軍事力の常備のためであった。秀吉以降、
武士は鍬を持つことを止めた。古代から中世まで続いた「一所
懸命」は、どんどん変質していった。これは恩賞により領地替え
が進行した中世において、武士の「土地への執着」は薄らぎ、
「統治領地としての土地獲得への執着」が芽生え始めたことを
表す。
そして、その領地拡大とは、人の物を武力と暴力で分捕ることに
より遂行された。「武力で強奪する」。それが武士の倣いであると、
中世において武士の在り方は源平の時代とは大きく変質し
た。
その力任せの暴力是認が見直されて、180度武士の存在意義
の変更を断行したのが江戸時代の江戸幕府だった。
切り取り強盗武士の倣い、とされた時代そのものが江戸幕府の
「元和偃武」によって綱紀粛清の対象とされたのであった。
江戸期には「型にはまって粗相をしない」というものが武士の
手本であるとされた。その時代に培われた気風は、現在の
日本の役人根性に根強く継承されている。

織田信長は、安土に城を築き、そして城下町を作った。
そこには家臣団を居住させ、また、街道と水路を整備して商人
たちを呼び寄せ、楽市楽座という自由商業構造を構築して
産業都市としても活性化させた。
そうしたことを日本で初めて行なったのが信長だった。
その手法から多くを学んだ秀吉と家康は大坂と江戸でそれを
さらに拡大させて実行した。
以降は、全国の大名がそれに倣って、城下町に家臣団を集住
させ、商工業者を集めて「都市」を造った。
21世紀の現在においても、全国都道府県のほとんどが、その
主要大名が治めた城下町が県庁所在地となっている。

山名氏が出城として持っていた桜山城には今は多くの生き物が
棲む。
私が目撃した動物だけでも、猪、狸、狐、(鳥類は計り知れない)
等々。
きっと、少し前までは熊や猿や鹿も棲息していたことだろう。
猿回しで有名な太郎ジローの初代ジロー(1970年代~80年代
に活躍。CMの「反省する猿」やウォークマンを聴く猿は初代ジロー
だ)は三原の山生まれということだが、たぶんここらあたりから
出たのかもしれない。

「フクロウがよく鳴いてるよ。ホー、ホーって」と家内が言うので、
昨夜家の外に出て確認してみた。
鳴いていた。
ただ、私には鳴き声は「ホーホー」ではなく、「ヒーホー、ヒヒッホ
ホー」と聴こえた。
ウグイスには各地方ごとで鳴き方が異なり、ウグイスにも方言が
あるらしいが、フクロウにもあるのだろうか。
ただ、昨夜桜山で鳴いていたのがフクロウかミミズクかは、私には
判らない。

ミミズク。私には聡明な鳥に見える。


うちのミミズク。ミミズクにしては、何だか別な生き物のように見える。


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メジロ

2017年02月18日 | 風情・季節・地球


横浜の友人の自宅にやって来たメジロ。かわいす。

メジロといえばライアンだよな。
「ライアン。ライアン。(ボソッ)」
大川先生(≧∇≦)

マニアックな話で、さーせん。
ケイシュウ愛読者でした。
アイネスフウジン中野で背広作った頃(笑)
でも一番好きなのはヤエノムテキだった。
優等生よりヤンチャが好きさ。
あの頃、オグリキャップと武豊が競馬をメジャーにしてくれた。
博打がやりたいんじゃない、競馬を見たいんだ、というファンが多く
誕生したのは、オグリと武豊人気が競馬ファンの掘り起こしに火を
つけたからだ。
そして、相撲は若・貴だった。
オヤジしか見なかった大相撲を一気にメジャーにした。
90年代前半は、まだ華やかな80年代の延長で、世の中明るかった。
音楽シーンが今に続くポップなアーティスティックさを持ち始めたのも
90年代初期だった。
だが、あの頃が、後に言われる「失われた20年」の開始でもあった。

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離れ目ちゃん

2017年02月16日 | 風情・季節・地球



離れ目ちゃん、かわい♪


私が好きな元祖離れ目ちゃん。この人が原点ですね。
40年前からまったく変わりなし。それもまた怖いが(^^;
おいらの二つ年上。
 

若い時は、そりゃ若いけどよ~。


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鴨が泳いでいる

2017年02月13日 | 風情・季節・地球



昨日、御城の御堀で鴨が二羽泳いでいた。
整備事業で水を入れ替えたのか、底まで透けるほど水が綺麗に
なっていた。

この御堀で鴨を見たのは初めてだ。
アオクビと鴨色のマガモ。
どこからか飛んで来たのだろう。
淀んだ堀の水だった頃には全く見かけなかった。




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海抜ゼロメートル地帯

2017年02月08日 | 風情・季節・地球



昨夜、仕事で荷物を発送しに行ったら、店内にこの表示があった。
これね、土盛りしてるから1メートルなんであって、実質的には
海抜ゼロメートル地帯なんだよね。
うちの戸建てもかなり土盛りしてるから道路から2メートル位高いけど、
実質的には海抜ゼロメートル地帯だ。
三原市内の市街地はほぼ全域そう。
だって、何万年も海だったから(笑
縄文海進が終わった後も、今の三原市街地エリアは全て海。
全部埋め立て地帯なのよ。
城と城内住宅地からして、東京湾に浮かぶお台場みたいな所だったの
だから。
市内を流れる川は、海が満潮になると流が逆流して河口から10キロも
潮が満ちるのを想像してみてくらはい。
それ見ても海だったというのがすぐにわかる。
町名を考えてみて。宮浦は元は宮の浦という地名だった。宮とは城下
最西端にある西宮八幡宮のことだ。その神社の眼下の海なので宮の
浦(海)ということなのである。
宮浦の隣りには宮沖という町名があるが、これなども元海であった
ことを表している。
また、宮浦に隣接する山側は西野町であるが、これは西にある野で
あり、ここは江戸期から山の斜面がせり出して小さな原があった。
ただ「三原とは三つの原(和久原、駒ヶ原、西野原)が集まった場所のが
地名の由来」というのは明らかに後世の作り事だろう。
三原の地に三つの腹がつながったのは、海上埋め立てによって地面が
出現した戦国末期以降のことになる。三つの狭い谷にある地面は築城
以前には繋がっていなかった。
すると、それ以前に「三原」と呼ばれていた土地はどこだ?ということに
なる。三原という原は存在せず、そこは海だったのだから。



東から和久原


山を挟んで駒ヶ原と恵下谷


城下を外れた城外に西野原


まあ、これらの原は、築城土地開発以前には、それぞれが繋がっては
おらず、それぞれ独立して海に面していた(駒ヶ原のみは奥地にあり。
かなり急峻な狭い扇状地であり、海岸部=現本町までを戦国末期に
駒ヶ原と呼んだのかどうかは不明)。
さらに、三原の地名由来を「和久原、駒ヶ原、西野原」とするならば、
なぜ中間地点にある「恵下谷」を無視したのか。「三原(さんはら)が
集まった場所だから三原(みはら)」というのはかなりのこじつけの
呼称のように思える。
まあ、とりあえず、確かな事実としては、現在の三原市の市街地区は
すべて江戸初期までは海の中だった。
三原の地名の由来は、三原市の行政サイドの説明通りとすると、戦国
末期の築城以前には三原という名称はこの場所には成立しないことに
なってしまう。
だが、「三原」という地名呼称は室町初期から確認されている。
たぶん室町期の「三原」という場所は、現在の三原のことではないの
であろう。中世の地形等を勘案した論理的整合性からはそうなる。
今の三原は原など無く、海だったのだから。三浦とかいうような名称で
あったならば理解が及ぶが、原のない浦である場所に原とはこれいかに。
平安時代末期の承平年間(931~938年)に編纂された『和名類聚抄
(わみょうるいじゅしょう)』に登場する備後国の「柞原(みはら)郷」とある
地名の場所は、現三原のことではなく、古代山陽道沿いの内陸部で
あったことであろう。これは「柞」の文字を用いていることからもその場所
が山林部であったことが類推できる。
(私は「元みはら」は、古代山陽道の駅名不明の駅家があった地点の
エリアのことだと考えている)

子どもの時に、三原に遊びに来たら「なんだこれ?変な川〜!」とか
思ってたけどね。海からの潮が満ちてため池みたいになる川だから。
でもって、ボラとか海から遡上する。
潮が引くと、砂浜みたいな川底では小さな蟹さんが大群で顔出して
チョキチョキと大運動会をする。
今、宮島に行くと、潮の引いた鳥居の周りで蟹がやってるあれだ。
つまり、三原の市内の川の底は今でこそ川底どけど、実は浅瀬の海底
なんだよな。

でもって、室町末期までは海だったのに、鎌倉南北朝時代から地面が
ここにあったかのように云われることが多い。
無いすから、地面(≧∇≦)
前述したが、足利尊氏の書面にある「備後國三原」というのは、今の三原
ではないと思う。それはもっと別な内陸の場所のことかと。個人的見解は。
古代には「柞原」と書いてミハラと読んだとも云われるが、柞とはユス、
ハハソであり、森林を意味する。それの原だ。海だった場所をそうは呼
ばない。
だから、仮にミハラと呼ばれた場所があったとしたら、また、それが「柞原」
であるとするならば、今の三原城のあるエリアよりももっとずっと内陸部の
ことになる。
私個人は、ミハラ=柞原とは現在の久井インターチェンジ(広いエリアとして)
周辺あたりのことではないかと推測している。
久井の「ク」は「柞」ではなかったか。香川県丸亀市には「柞原町(クバラ
チョウ)」という町名がある。イスノキ(ユスノキ)、ハハソの柞を「ク」と読ま
せている。三原市の久井は柞井→久井に転じたのではなかろうか。
そして、現在のところ、国内最古とされる製鉄関連炉はこの三原の久井
近隣エリアから出土している。古代山陽道の街道沿いである。その場所は
三原市八幡町垣内(みはらし・やはたちょう・かいち)という場所だ。
この「垣内」という地名も、実は民俗学的視点からは製鉄および人民統制史
において注目に値すべき地名なのであるが、今回はその説明は割愛する。

もう一つ、三原に関しては古代史の謎がある。
それは、律令制により、街道には駅家(うまや)が一定距離ごとに置かれた。
そこで常備する馬の頭数も定められていた。
だが、三原の久井付近の地域にあった駅家の名称は今以て不明なので
ある。これはどうにも、どう首を捻っても解せない。そこに駅家があった
だろうということは学術界でもよく云われている。古代山陽道の地図など
では、駅名不明で規定距離の場所に不明駅家を記載したりしている。
だが、駅名が一切不明などという駅家が存在することこそ何だか非常に
おかしいことだ。まさに、奇奇怪怪。

ちなみに、最古の製鉄関連遺跡があったエリアは「八幡(やはた)」と
呼ばれている。それは無論製鉄との関連性を彷彿とさせる地名だ。
この三原市八幡地域の古代史をもっと研究解明したら、かなりのことが
明らかになってくるように思える。
それはとりもなおさず、日本の製鉄史の未開のページを開くこととしても。


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ほし柿

2017年02月05日 | 風情・季節・地球



鳥取の友人からおみやでもらったこの干し柿、いい味出してる!



こちら ⇒ 百一のほし柿

東京の千疋屋でも取り扱ってるらしい。


2003年からか。知らねーす(^^;
その年には、もうすでに西日本に移住していた(笑

千疋屋のフルーツパーラーには昔の彼女とよく行った。
お客さん女性ばかりだったけどね。気にしなかった。
でも、販売している果物も、パーラーでの飲み物食べ物も、
確かに値段は高かった。パフェが当時で1,800円くらいした(笑

千疋屋っておもしろいのよ。天保年間に埼玉郡千疋郷(現在
の越谷市)で槍術師範をしていた武士が江戸に出て日本橋の
葺屋町(ふきやちょう=現日本橋人形町)で水菓子販売を始め
たのが創業なのよね。そこの屋号が「千疋屋」で、果物と野菜を
商って大成功した。
武士が槍を捨てて果実を扱った商人になったのだけど、最初は
安売りで地道にシェアを広げて、やがて高級食材店へと成長した。
今でも高級料亭などで出される水菓子(フルーツのこと)などは
千疋屋からの仕入れだったりすることも多い。

うう。
最近料亭行ってないぞ~。


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雷鳥

2017年02月05日 | 風情・季節・地球



雷鳥は私は写真でしか見たことがない。天然記念物。
夏場はウズラのような羽毛だが、冬になると純白の美しい姿に変身する。
雪の高山に凛と生きる雷鳥は、とても気高いように私には見える。



雷鳥というと平塚らいてうを思い出すが、らいてう(本名明=はる)に
しろ、山川菊栄にしろ、どうして士族には社会主義者・共産主義者が
多いのであろうか(苦笑
私の居合仲間に先祖が元幕臣旗本5050石の人がいて、その先祖
は将軍に正月に謁見する各大名の名を将軍の横で読み上げる役職
だった。出世が望めない江戸期に800石ほどからトントン拍子に5050
石まで出世している。子孫の人
曰く「たぶん要領がかなり良かったの
だろう」とのことだ(笑)。その人から、幕臣の実体、末裔の暮らしぶり
などを聞くと、とても歴史研究の参考になるし、書物などでは書かれて
いない武家の本当の実相を知るにつけ、私自身も我が家のことに照ら
して首肯できたり、また瞠目したりさせられることもあり、とても有意義
な時間が流れる。

その子孫の居合仲間は、昔、稽古の帰りに仲間たちで飲むと居酒屋に
刀を
よく忘れて来た。「そんなことだから薩長に負けるんだよ」と仲間に
からかわれていた。
その人の父上は、無論東京府の士族だったが、戦前から戦後にかけて
官庁職員で、戦後にレッドパージで公職追放となっている。日本共産党
の文化部長まで務めていたのだから、戦後直後のGHQに
よる思想弾圧
の時代には公職追放になったのだろう。

戦後の「民主主義」というのは完璧なまやかしで、思想の自由などは
確保されず、戦後の冷戦による東西世界分割で日本は西側に置かれ
米国のしもべとなった、というだけのことである。
今も公式には思想信条信仰の自由が憲法により謳われているが、実質
的な警察国家である日本という国においては、真の思想信条信仰の自由
は保障されていない。現に社会主義者・共産主義者がその信条において
活動をした経歴ある場合、有力民間企業等への就職は困難である。
無政府主義者まで行かない社会主義者であってもだ。
真の実体とはそういうものである。
日本は米国のポチであるから、社会主義や共産主義は悪い物であると
いう教育とキャンペーンが繰り広げられ、それを信じ込む国民が育てられ
ている。
自由主義でも共産主義でも何でもよい。要は、日本には真の思想信条信仰
を保障した「民主主義」は存在しない、ということだけは確かだ。(北朝鮮の
ような大嘘エセ「民主主義」などは論外)
米国とは異なり、ヨーロッパではかなり民主主義の深い歴史があり、いわ
ゆる左翼政権が各国で誕生している。日本においては単独与党で左翼
政権が誕生した歴史は無い。そもそもが自民党と日本社会党が連立政権
を成す歴史があった程なので、「予定調和」の出来レースの茶番が日本の
政党政治では繰り広げられており、すべては米国の掌の中でのままごとの
ようなことを「政治」であるかのように取り繕っているだけであるのが日本の
政治状況なのである。

それにしても、私が知る士族および士族を親に持つ人たちには主義者が
多い。これ不思議な現象なり。
山川菊栄さんの著書では、『武家の女性』という書が非常に面白い。
武家の日常を知る史料的なことだけでなく、読み物としても楽しめる。
これはおすすめ。
『武家の女性』では、菊栄さんは社会主義者的な主張展開は一切していない。
つとめて客観的に、事実を淡々とゆったりと述べている。サムライをことさらに
強調することもない。その筆調に私はとても惹かれる。

ご近所だったこともあり(それだけではないが)、うちは山川さんとつきあいが
あった。
「翔んでる女」平塚らいてうさんとのつきあいはない(笑)。
『青鞜』時代の論争については、なんというか、もうしっちゃかめっちゃか(苦笑
まあ、わからないでもないのだが・・・。


山川菊栄(有名な写真だが、素のイメージとは程遠い)


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