ICT工夫
全ての自由を奪えても、自由を求める自由だけは奪えない
  だからネットの使い方も 工夫 したい こうふ のブログ




「2010.06.15 地デジ、リニアについて記事を修正しました」でリンクしておいた参議院ホームページの情報ですが、「高度テレビジョン放送施設整備促進臨時措置法の一部を改正する法律案」の審議経過情報は、「審査未了」となっていました。次の国会で引き続き審議されることになったようです。

前の記事では、『平成23(2011)年7月24日以後は完全にデジタル移行する放送の設備に今年22(2010)年12月31日までは補助するというのは分からなくもないけど、さらに5年ほど延長(H27-2015-.3.31まで)すると言うのは、まさに「字面を追っているだけではその法律が何を定めているのかよく分からず」です。』と書きました。

地デジ移行が延期(アナログ併行期間が延長)されるかどうかは政治次第でしょうね。東京スカイツリーが完成すれば難視聴地域の変化もあるかも知れません。
『2011年7月24日をもって地上アナログテレビ放送が終了するのに備え2008年7月14日に着工された。竣工予定は2011年12 月、試験放送などを経て開業は2012年春の予定。』Wikipedia)だそうです。 東京スカイツリーの役割が考えられていたなら、着工も開業も2011年6月末に合わせるべきだったはずです。それが地域の事情(いつもながらの反対運動とか)でできないなら、国策としての地デジ移行日程を含めて全体的な計画を練り直すべきだったでしょう。私はこの開業までのズレに意図的なものを感じてしまいます。
2011年7月24日を大がかりに売り込んでいく、その後でまた個宅アンテナ方向の改装工事とか、共聴組合もケーブルも使わずにすむようになったとか・・結局、この大騒ぎで儲かったのは業界だけとか(^o^)

当初の計画では共聴組合・施設も含めて関連業界への補助は2010年度末まで待たずに完了すると思っていたのでしょうか。しかし山梨県上野原市の事例があるように、地域での対応はさまざまで、全国的に当初計画では達成困難という状況が把握されたものと思います。

先日、上野原市についての記事でUBC(上野原ブロードバンドコミュニケーションズ)でデジタルからアナログ変換した信号を既存の共聴組合に配信してその加入者がテレビもそのままで放送を視聴できるようにすればよいと書きました。CATVが普及している地域ではデジタル、アナログの両方が送信できる体制を作り上げておけばよいのです。(上野原市の場合、デジタルで見たいならUBC加入、しばらくはこれまで通りで様子を見るなら共聴組合)

電波については現在は送信アンテナから両方が送信できているはずですから、そのまま継続すればよいわけで、7月24日以後アナログ送信装置を取り壊す必要は無いはずです、引き続き併用(併行送信)することで新規投資が必要にはならないでしょう(と書いても、私はテレビ電波の送信技術などは全く知りませんから、たんなる素人の考えです)。

ユビキタス社会では有限な資源である電波を空けて活用する必要があるからという説明が地デジ移行の主要理由の一つだったと思いますが、その活用の形は泥縄で募集していたのではありませんか。

参院選の争点から離れて記事にしましたが、ETC特需と地デジ特需のデータが何処かにあるかも知れませんが私は知りません。マクロ的な経済効果というような記事はどこかで見たような気はします。ポイントはミクロの効果であり、法人税を下げて消費税を上げる前に国策によるミクロへの効果について語るべきだと私は考えています。

前に読んでいたのですが、その時に確認情報が取れなくてこのブログに記載しなかったこと--2010年4月23日琉球新報 アナログ放送、7月5日から横長画面で放映 地デジ推進協が方針
NHKや民間放送事業者などでつくる全国地上デジタル放送推進協議会は22日、7月5日からすべてのアナログ放送をデジタル放送と同じ横長の画面で放映する方針を明らかにした。従来のアナログテレビで見ると、画面の上下に黒い帯が生じる。総務省の検討委員会で表明した。
2011年7月24日にアナログ放送が終了することを帯の部分を使って随時告知し、デジタル放送への切り替えを促すのが狙い。 7月4日の午後5時59分から1分間、アナログ放送を停止し、地デジ移行のお知らせ画面を表示する計画も明らかにした。(共同通信)
2010年4月26日 CNETの記事-「アナログ放送も7月から16対9へ--総務省の地デジ推進検討委員会で方針」も読めます。

具体的な画像が2010年03月29日付けの池田信夫さん記事にあったのでリンクしておきます--始まった「いやがらせ放送」、この画像にある「アナログ」表示のことは以前にどこかで書いたと思います。池田さんのこの記事も一度は読んでいて、そのブックマークが所在不明になっていたのが出てきたので再確認できました。また忘れるといけないのでブログにメモしておきます。

「全国地上デジタル放送推進協議会」についてはホームページを確認できないのですが、  「マルチメディア・インターネット辞典」に記事がありました--以下の通り
2002年7月17日に地上放送のデジタル放送への円滑な移行と普及・発展を図るため、一般放送事業者、日本放送協会、総務省、32の各地域地上デジタル放送推進協議会が設立した団体の名称。デジタル放送のチャンネル検討等を行ってきた地上デジタル放送共同検討委員会は、目的を達したことから、 2002年6月14日に終了した。詳細情報はURL(http://www.soumu.go.jp/s-news/2002/020717_2.html) で知ることができる。全国地上デジタル放送推進協議会は2002年8月1日に、「地上デジタル放送の今後の進め方について」を公開した。詳細情報は URL(http://www.soumu.go.jp/s-news/2002/020801_4.html)で知ることができる。
【総務省の記事はリンク切れですが保存版がありそうなので確認して別記事にしたいと思います】



コメント ( 0 ) | Trackback ( )




◆ 2013年 第32回 甲府空襲 戦争と平和・環境展、7月4日(木)~9日(火) 会場 : 山梨縣県民会館 1・2 号室 主催: 甲府空襲 戦争と平和・環境展実行委員会 055-222-1541 [山梨県教職員組合(日教組) 甲府市丸の内3-33-7 教育会館3階]


Kofu_airstrike_2010またその日が巡ってきます。甲府に来て甲府空襲のことを知ってから私の歳時記になっています。2009.06.29 第28回甲府空襲 戦争と平和・環境展が昨年の記事です。この記事から前の記事にリンクしてあるのですが、私にとって2009年のこの甲府空襲展はそれ以前とはことなるものでした。その記事で私は次のように書き残した---

甲府空襲で中心市街は全滅、岡島百貨店と元の甲府会館(松林軒ビル)-今はビジネスホテルに建て替えられた場所-だけが残った、「甲府空襲と学童疎開」のページに掲載した焼け野原の模型が空爆後の街の姿だと私は思っていました。
見学会とシンポジウムで山梨県の旧県庁(現在は教育庁と県警本部)、議事堂、旧図書館(第1南別館)は空襲で残った建物だったと気が付きました。この昭和初期の建築物についてはこれまでも読んではいたのですが、「二つのビルを残して焼き尽くされた市街地」というイメージにとらわれて、私には正しい認識が出来ていなかった事に気が付きました。
正確な歴史認識の下で未来を見ていくことは大切だと思います。このテーマはこんなブログで片言に語れるもんじゃないけど、少なくともみんなが見るものには誤解を招かない情報を伝えたいとWebページ制作に関わる者としていつも思います。

今年の開催情報を求めて昨年の記事を読み返しながら連合山梨サイトを訪問してみて情報を見付けたので、部分画像として引用させていただきます。今年も大月や富士吉田でも同様な企画がありますので、それは連合山梨の広報ページからご覧ください。連合山梨HOME > 連合山梨のご紹介 > 構成組織一覧 に気が付き、「甲府空襲 戦争と平和・環境展実行委員会」の電話番号も確認できました。甲府空襲を調べていて気付いたWebページには小学生達の見学記録もあります。

◇ 朝日小学校-6年生平和教育平成19年7月5日,県民会館で開催された「甲府空襲展」
◇ 富士川小学校-甲府空襲展をやっていました
◇ 富士川小学校-平成21年度3年生
甲府市立小学校のサイトで記録を探せばもっとあるかも知れません。私が気になったのは、「焼け野原の模型」を子供たちも見たのだろうか、見たとしたらそれをどのように記憶したのだろうかということです。
◇ 昭和町立押原小学校(山梨県)公式ブログ ~7月6日(金) 歴史の惨禍と知恵に学ぶ『6年生が校外学習に出かけました。・・・甲府市街地の建物は2つが残っただけ。この空襲を境に国内への爆弾投下が激しくなり、原爆の惨禍へつながったとも言われています。』 子供たちが「焼け野原の模型」を見学している写真が掲載されています。

私は甲府空襲の被災が実際どうだったのかは知りません。この模型を見た時に思い出したのは、大伯父から聞かされた敗戦後の池袋の光景です。池袋駅西口(立教大学のある方向)に立つと焼け野原が広がり、家のあった要町に入ったところで止っていた、近所の銭湯の煙突が駅から見えたという話なのです。ネットできちんと調べれば多分委細は分かるでしょう、立教大学はミッション系ですから直撃を免れたはずですが、大伯父の目に入っていたのかどうかはわかりません、とにかく一面の焼け野原ということでした。

甲府空襲で焼け野原の模型をそのまま歴史の事実と思い込んだのは、こういう訳です。小学生達が見学した時にもこの模型があったなら、引率の先生方はこれをどのように解説なさったのでしょう。旧県立図書館取り壊しのニュースに接した時、あれははじめから無かったも同じだと子供たちは感じたのでしょうか。

歴史を誤解させるような展示物は子供たちに見せるべきではない、それが何かを象徴する抽象的な展示であるなら、そのことをきちんと教えねばならない、私はそう思っています。

私は甲府空襲について山梨平和ミュージアムの展示や資料-甲府空襲の実相で学ばせていただきました。子供たちもこの平和博物館でもきっと多くの事を学んでいることと思います。私はもし時間が取れたら、今年は大月や富士吉田の方に足をのばしてみたいと思っています。

山梨NPO情報ネットに昨年同様な広報ページが出ています-「第29回 甲府空襲・戦争と平和・環境展」 ご案内、登録日時:2010-06-26
「甲府空襲・戦争と平和・環境展」の見学記録ではありませんが、関連検索で見つかった記事をメモしておきます。今後もみつかれば追記します。2010-06-29
◇ 相川小学校-2004年度「平和集会」 甲府空襲について学習しました。--相川小ニュースは良い記録だと思います
◇ 相川小学校-2006年度「平和集会」 甲府空襲、大型紙芝居「もうひとつのたなばた」の上演
番組審議会議事要録 平成20年9月16日 (1)UTY報道特別番組「甲府空襲・63年目の証言」

「平和集会」というタイトルでの学校行事があることを初めて知りました。「平和」という言葉をどのように解釈するか、「平和」のために私たちは何を知り、どのように考え、それを日常生活でも活かし、万一の時はいかに行動すべきか・・・この難しい問題を身心未熟な子供たちに教える先生方のご苦労が察せられます。保護者の皆さんも子供たちが教えられたことを聞き取り、自らも学ばねばならないと思えます。「道徳」も「平和」も同じように難しい問題です、前者はウエから語られることが多く、後者はウエに対抗して語られることも多い。

甲府空襲以前に昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲(Wikipedia)の大惨事があり、日本本土空襲(Wikipedia)からは地方都市に空爆が激しくなった時期なども分かります。昔は「先生のお話はゼッタイ」と小中の子供たちは思った(私はそうだった)が今はそんな時代じゃないですね。我が子が学校で何を教わっているかを保護者も注意せねばならないと思います。



コメント ( 0 ) | Trackback ( )