散歩の時に見つけた!

東京都内を散策しますが、こんな所にこんなものがと再発見します。写真を添えて紹介します。

篠塚稲荷神社(柳橋1丁目)

2014-08-06 06:00:06 | 日記
     

 神田川に架かる柳橋を北へわたり、西へ進むと篠塚稲荷神社が鎮座しています。由緒書によ

りますと昔、新田義貞の家臣篠塚伊賀守が信仰して、後に入道して社の傍に庵を結んで住んだ

と伝えられています。現在の社殿は比較的新しいですが、創建は江戸時代以前と推定されるお

稲荷さんで、江戸名所絵図によると浅草橋近くから享保年間に移ったようです。  

 玉垣には界隈の料理屋さんの名が刻まれて、往年の繁盛が忍ばれます。柳橋といえば花街が

有名で、幸田文さんの「流れる」を思い出します。1950年代に制作された同名映画は柳橋

の花柳界を舞台にした物語。田中絹代、山田五十鈴、杉村春子、高峰秀子などの芸達者たちが

揃い、それに栗島すみ子のカンロクが忘れられません。この方々たちも、このお稲荷さんに足

を運んだと思いますよ。


正岡子規と羽二重団子

2014-08-05 06:00:07 | 日記
    

        

 羽二重団子の店頭にある「正岡子規と当店」の立て札を紹介しましょう。以下の通り。

 子規居士が上根岸に居を構えたのが明治25年である。爾来亡くなる明治35年までの10

年間、随分とご愛顧を頂いたと当店四代目は伝える。「仰臥漫錄」から明治34年9月4日の

日記を抜粋すると、「芋坂団子を買来たらしむ(これに付悶着あり)あん付き3本、焼1本食

う」とある。多分悶着とは妹の律さんと、当店の団子のことで言い争いがあったのであろう。

 旺盛な食欲が日記から推察でき、死を目前にした子規居士の人間味を彷彿とさせる・・と。

     

 正岡子規は、店の内には十人ばかり腰掛けて喰い居り、店外には女二人佇んで団子の出来る

を待つ。根岸に琴の音の鳴らぬ日ありとも、此店に人の待たぬ時あらじ と日常の団子屋の風

景を記述しています。「芋坂の団子」とあるのは、当時この店の西側は上野台地の谷中墓地へ

の坂道であり、自然薯(山芋)が獲れたので「芋坂」と呼ばれ、団子屋も芋坂の団子と呼ばれ

ていました。これ納得です。

 

羽二重団子(日暮里)

2014-08-04 06:01:01 | 日記
       

        

 善性寺の山門前に「羽二重団子」という団子屋さんがあります。文政2年(1819)創業

とやらで、醤油の「焼き団子」とあづきの風味が香る「餡団子」、これを4個づつ串にさした

もので、くぬぎの消し炭で焼かれたものだそうだ。煎茶の入った急須と共に運ばれてくる。テ

ーブルに座って、戴くのだが見事な庭も見物できる。  

     

 羽二重(はぶたえ)とは?若い人のために解説すれば。羽二重は肌ざわり抜群の絹織物で、

なかでも経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽くて光沢のある布になります。和服の

裏地として最高級とされています。きめ細かい団子を人々は「羽二重」と呼びました。消し炭

もどんなものか分かりますかね。解説は又の機会に。

 

大横綱 双葉山のお墓(善性寺)

2014-08-03 06:02:34 | 日記
     善性寺山門

       

 太田道灌像から南へ200メートルも下がると、善性寺(ぜんせいじ)というお寺がありま

す。山門を入って正面は本堂、左手に回り込むと「穐吉家」(あきよし)と書いたお墓があり

これが稀代の大横綱双葉山のお墓です。生前の双葉山の名言「勝って騒がれるうちはまだ駄目

だ。負けて騒がれる相撲取りになれ」は、後輩を諭した言葉だそうで、双葉山の偉業を物語っ

ていますね。  

 入門して苦節11年、昭和13年(1938)に横綱を張ると69連勝の偉業を成し遂げま

した。引退後は時津風部屋を興して弟子たちの育成に励み、後に相撲協会理事長として活躍、

56歳で生涯を閉じました。9月には両国国技館で秋場所が始まります。新しい大関も誕生し

ました。土俵を盛り上げてもらいたいですね。

お台場の夜景

2014-08-02 06:05:00 | 日記
    

       

 屋形船にレインボーブリッジ、遠くに東京タワーが見えますね。夏のお台場は夕涼みの人々

が、夜景を楽しみに賑わっているようですね。ミスター麹町が写真を送ってくれました。  

 和食、イタリアン、焼肉など、嗜好を変えたお店がいろいろ、店内から夜景を一望できる店

がいっぱいだそうで、私も少しだけ若返って行って見たくなりましたよ。