三木城址にのぼった。歴史学者の小和田哲男氏が
「この城は美嚢川の断崖をうまく使った天嶮の要害城」と指摘するように、
たやすく攻略できるような城ではない。
このため、秀吉は城を完全に包囲し、兵糧攻めの作戦をとった。
さらに周辺の城が次々と落とされ、城主の別所長治は開城を決意する。
長治らの切腹とひきかえに兵士の命を助けるという条件で和議が成立した。
城址には長治の辞世の歌を刻んだ歌碑がある。
「いまはただうらみもあらず、もろ人の命に代わるわが身と思えば」
城址には三木の金物の歴史を紹介した金物資料館や金物神社があり、
毎月第1日曜には、金物の古式鍛錬の実演が行われている。
この町は神戸電鉄粟生線の存廃問題などを抱え
やや寂しげな空気が流れているのは気がかり。