広島市中区中島町の平和記念公園に移植されている「被爆アオギリ2023年版」です。
※1945(昭和20)年8月6日当時基町の広島逓信局中庭(爆心地≒1,300m)で被爆しました。
6月27日(火)12時ころから13時前まで、いつもなら平和記念公園の各箇所を撮影してから兄との待ち合わせ時間に合わせるようにしているのですが、
この日は少々疲れていたいたので、アオギリ前の簡易椅子に座ってアオギリたちを見ていました。
今月は、アオギリたちは、多くの花芽で黄色くなっていました。
被爆したアオギリたちが一番喜ぶであろう出来事にであいました。
アオギリの前で幼稚園の園児たちが(老人ボケのわたしが覚えきらない)「アオギリのうた」を謳いだしたのです。
かわいい子どもたちだなと思った緑色帽子を被った園児たちで、先生の言葉で年少の園児たちだなと思ったのです。
少し時間をおいて今度は、青色帽子の園児たちがやってきて謳いだしたので、
近くの幼稚園児と思ったのです。
青帽の園児たちが謳っているときに白色帽子の園児たちが来て謳い終わるのをアオギリの後ろで待っているようでした。
年長であろう白帽の園児たちが声を合わせ謳っている処を見た観光客(外国人が多いようでしたが)立ち止まり歌っている園児を見つめ、歌い終わると多くの拍手が園児たちに贈られていました。
(きっとアオギリたちも拍手を贈っていたことでしょう)
(裕編集の)被爆アオギリの四季(2023年)
※1945(昭和20)年8月6日当時基町の広島逓信局中庭(爆心地≒1,300m)で被爆しました。
6月27日(火)12時ころから13時前まで、いつもなら平和記念公園の各箇所を撮影してから兄との待ち合わせ時間に合わせるようにしているのですが、
この日は少々疲れていたいたので、アオギリ前の簡易椅子に座ってアオギリたちを見ていました。
今月は、アオギリたちは、多くの花芽で黄色くなっていました。
被爆したアオギリたちが一番喜ぶであろう出来事にであいました。
アオギリの前で幼稚園の園児たちが(老人ボケのわたしが覚えきらない)「アオギリのうた」を謳いだしたのです。
かわいい子どもたちだなと思った緑色帽子を被った園児たちで、先生の言葉で年少の園児たちだなと思ったのです。
少し時間をおいて今度は、青色帽子の園児たちがやってきて謳いだしたので、
近くの幼稚園児と思ったのです。
青帽の園児たちが謳っているときに白色帽子の園児たちが来て謳い終わるのをアオギリの後ろで待っているようでした。
年長であろう白帽の園児たちが声を合わせ謳っている処を見た観光客(外国人が多いようでしたが)立ち止まり歌っている園児を見つめ、歌い終わると多くの拍手が園児たちに贈られていました。
(きっとアオギリたちも拍手を贈っていたことでしょう)
(裕編集の)被爆アオギリの四季(2023年)
6月29日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
26.7℃、81%
素敵な光景です。
引率の先生の話を園児達が大人になったときに又子供達に話してくれるのでしょうね。
読ませて頂いている私も嬉しくなりました。
そして被爆アオギリが何時までも元気でいてくれますようにと願わずにはおられません。
年小の緑帽の園児たちは、4月5月6月で覚えたのだと思うと、
いまだ歌詞を覚えていないわたしには彼らが眩しく、広島を伝えてくれるのだろうな~~と。
白帽の年長園児たちは声も大きく合唱になっていたので、周りから拍手が沸き上がったのだと思います。
”アオギリのうた”を小学生の時作詞作曲した森光さんは、
NHKラジオのキャスターをされていましたが、結婚され、いまやお母さんになっておられ確実に次の世代に受け継がれていっていると思います。
植物にも心があると云われ、
拙いながらわたしも園芸を続けていてそう思いますから、
アオギリたちはうれしくてたまらなかったと思うのです。
たくさんの元気と喜びをアオギリも見ていた人達も貰ったことでしょうね。
わたしも頂きましたー!
裕さん、教えてくださってありがとうございます♪
人の命を簡単に考えているのでしょう嫌な事件報道があふれるようになった昨今ですので、
涙もろい老人になったわたしには、一生懸命に歌っていた子どもたちに目頭があつくなりましたので、紹介しなくてはと思ったのです。
心温まる話あふれる日本になってくれればと思いますよね。
良いお話を聞かせていただきました。ずっと歌い続けてほしい歌ですね。
三つ子の魂百まで・・・と云われているように、
幼いとはいえ彼らが次に広島から戦争のない世にしようと発信してくれるのでしょうね。
幼稚園児が覚えた“アオギリのうた”を被爆アオギリたちに聞いてもらおうと歌っていたので、
荒野鷹虎さんもその場におられたら拍手されたと思うのですが。