366日連休のわたしが夏休みなんてことはないのですが、
HP(広島ぶらり散歩)の編集を休んでいるのでこのブログに投稿する記事がないことから夏休みなのです。
夏休みと称したいま保存していた書類・書籍などを処分することからはじめています。
天気だけは毎日記述していこうとは思っていますが。
2016.8.18.記-------------------------------------------------------
週刊朝日1969(昭和44)年8月5日号を求めないわけはなく保存しています。
人類、月面に立つ!と題した増刊号で定価100円になっていました。
アポロ11号の打上げは1969年7月16日で、帰還は1969年7月24日でした。
宇宙飛行士:ニール・A・アームストロング/マイケル・コリンズ/エドウィン・E・オルドリン
アポロ11号は史上初の月着陸を達成しました。着陸地点は「静かの海」。
月着陸船イーグル号から降りて人類で初めて月面を踏みしめたのが、ニール・アームストロング船長です。「人間の小さな一歩だが、人類にとって大いなる飛躍だ」とアームストロング船長は無線機を通じて、テレビ中継で見守る世界中の人々に語りかけました。
また、米国とソ連の宇宙計画で命を失った5人の宇宙飛行士〔バージル・グリソム(米:1926-1967)、エドワード・ホワイト(米:1930-1967)、ロジャー・チャフィー(米:1935-1967)、ウラジミール・コマロフ(ソ連:1927-1967)、ユーリ・ガガーリン(ソ連:人類初有人飛行士1934-1968)〕のための記念碑が、月面に置かれました。
記念碑には「地球から来た人類がここに初めて足跡をしるす。西暦1969年7月。すべての人類のため、われわれは平和のうちに来た」と刻まれています。
アームストロング船長とエドウィン・オルドリンの2人は、21時間36分のあいだ月面にとどまり、21kgの月の石を地球に持ち帰りました。
ビデオも保存していました。いまはVHSの再生機を捨ててしまっていますのでみることができませんが。
アポロ13号
1970年4月 11日、3度目の月着陸を目指してケネディ宇宙センターから、サターンV型ロケットで打上げられたアポロ宇宙船。乗組員は ジム.ラベル(1928- )海軍大佐、司令船 (オディッセー) パイロットの ジャック.L.スワイガート(1931-1982)飛行士、月着陸船 (アクエリアス) パイロットの フレッド.W.ヘイズ(1933- )飛行士。
原題:Apollo 13。1995年製作の米国映画。
月へ向かう途中で爆発事故を起こしたアポロ13号の救出劇。監督:ロン・ハワード、出演:トム・ハンクス、ケビン・ベーコン、ビル・パクストン、ゲイリー・シニーズ、エド・ハリスほか。
2016.8.17.記-------------------------------------------------------
1969(昭和44)年7月21日(月曜日)朝日新聞・夕刊、西日本新聞・夕刊。
人類初の月面着陸を快挙だと思っていたからでしょう、今日に至るまで保存していました。
今回本棚等の整理をしているときに見つけましたが、はっきりした保存への記憶がないのです。
人類史上初の月面着陸は、
米国のアポロ11号計画における船長ニール・アームストロング(1930-2012)と月着陸船操縦士エドウィン・オルドリン(1930- )によるものでした。
1969年7月20日、司令船操縦士マイケル・コリンズ(1930- )が月周回軌道上の司令船コロンビアで待機する中、
二人の乗り込んだ月着陸船イーグルは司令船から切り離され、7月20日午後4時17分(東部夏時間)、月面に着陸し21時間30分滞在しました。
米国が着陸計画を終了した1972年12月までに月に到達したのは合計12人、いずれも米国宇宙飛行士です。
「地球人、ついに月を歩く」と題した朝日新聞
「人間、月を歩く」と題した西日本新聞
当時、博多に住んでいたので、(いまは亡き商売をしていたおやじが)朝日新聞、西日本新聞を定期購読していたのでしょう、それを保存したようです。(わたしが直接新聞を買ったという記憶がありませんので)
(広島は朝日新聞に夕刊はありませんし、いまでは中國新聞も夕刊をやめてしまっています)
福岡では中央紙はいずれも朝刊・夕刊を発行していました。
いまみる“見出し”は、西日本新聞の方が朝日新聞よりいいように思いました。
わたしは学生で、この時は能登半島から北陸を旅していましたので、帰宅して新聞を保存したのでしょうね。
2016.8.16.記-------------------------------------------------------
週刊朝日1967(昭和42)年6月25日号は、
緊急増刊として(第三次)中東戦争を取り上げています。定価70円でした。
中東戦争
1948年のイスラエル国家成立で始まったアラブ諸国とイスラエルとの間の武力衝突。
これまでに大規模な戦闘局面は
第一次中東戦争(1948-1949、パレスチナ戦争)、
第二次中東戦争(1956、スエズ戦争)、
第三次中東戦争(1967、六日戦争)、
第四次中東戦争(1973、ラマダーン戦争、イスラエル側ではヨーム・キップール戦争とよぶ)の4回を数えますが、それ以外の時期も戦闘はさまざまな形でほぼ連続して(現在に至るまで)行われています。
大規模戦闘は、第四次中東戦争を最後として停止し、アラブ諸国とイスラエルとの国家的共存を目ざす「中東和平」構想が重要性をもつのですが、
事態の変化に並行して、第三次中東戦争以降開始されたパレスチナ人の対イスラエル・ゲリラ闘争が高まりをみせ、アラブ諸国の側がパレスチナ人に対する弾圧を強化して(1970年ヨルダン政府による黒い9月事件、1976年・1984-1985年レバノン内戦におけるシリア軍のパレスチナ・コマンド攻撃など)、アラブ諸国とイスラエルとがパレスチナ人武装闘争にいっしょになって攻撃するといった状況も生じてきています。
さらに中東の戦闘状況は、レバノン内戦(1975~)、イラン・イラク戦争(1980~)といったアラブ内戦争としても生じており、もはや「アラブ諸国対イスラエル」の図式で中東戦争をとらえることはできなくなっています。
第三次中東戦争のイスラエル側の立役者・独眼竜ダヤン(1915-1981)国防相
1960年代に入ってイエメン革命やアラブ諸国の社会主義諸潮流の高まりのなか、アラブ内の「進歩派体制」対「イスラム同盟」の対立が激化、
1966年シリアでバース党左派政権成立、ヨルダン王国危機、エジプト・シリア共同防衛条約締結などで両者の対立は異常に高まっていました。
その機会をとらえて、イスラエルはパレスチナ人ゲリラ活動をたたくとの名目でシリアへの軍事的攻撃を強化、エジプト・シリアが対イスラエル共同防衛の構えをとり、アメリカを先頭とする各国が「国際水路の自由航行権」「国家の生存権」の国際的要求を両国に突きつけている状況下で、
1967年6月イスラエルの周辺アラブ諸国への全面的侵攻が開始されました(第三次中東戦争)。
イスラエルはシナイ半島およびヨルダン川西岸地区を制圧(聖地エルサレムも占領)、シリアのゴラン高原も占領しました。
アラブ「進歩派体制」は深刻な打撃を被り、1967年11月の国連決議242号採択で、その後の「中東和平」の指針となる、イスラエルを含む中東域内諸国の生存権保障(パレスチナ人民族自決権の否定)、イスラエル軍の占領地撤退が示され、これをヨルダン、エジプトは受諾しました。
イスラエルはパレスチナ全土を含む広大な占領地を手に入れ、多数のアラブ・パレスチナ住民を抱え込み、その結果、アラブ諸国はイスラエルの国家的存在を否定することは困難となり、ロジャース提案(1970年)に始まるアメリカ主導の「中東和平」づくりが動きだしましたが、ご存知のように中東平和には程遠い現状なのです。
2016.8.15.記-------------------------------------------------------
*1)わが家も揺れましたので地震(震度2)だとわかりました。
震源地は伊予灘(北緯33.5度、東経131.9度、深さ70km)地震の規模:M4.3
週刊朝日1966(昭和41)年10月15日号は、
緊急増刊として中国の文化大革命を取り上げています。定価70円でした。
文化大革命
1966年夏から10年間にわたって中国で繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動。
毛沢東(マオツォートン:1893-1976)自ら発動し、中国では「無産階級(プロレタリア)文化大革命」と云われました。
「造反有理」(謀反には道理がある)を口々に叫んだ紅衛兵運動に始まり、指導者の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動によって、中国社会は激しく引き裂かれ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折しました。
文革は、1962年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発し、「資本主義の道を歩む、党内に潜む一握りの実権派」を打ち倒すことが命題でした。
写真は、毛沢東と「毛主席語録」をもった林彪
1969年の中国共産党9全大会では、林彪(リンピアオ:1908-1971)が党副主席に選出され、党規約で毛沢東の後継者に定められました。
文革は林彪国防相が指揮する人民解放軍の介入によって初めて、劉少奇(リウシャオチー:1898-1969)や鄧小平(トン・シアオピン:1904-1997)らの実権派に勝利しました。
杭州事件(1975年)や天安門事件(第1次、1976年)は、毛体制への大衆の反逆と云われています。
毛沢東側近の王洪文、張春橋、江青(チアンチン:1914-1991)、姚文元ら四人組も1976年10月の北京政変によって打倒され、華国鋒体制に取って代わられた。
北京政変は四人組らの文革左派と華国鋒(ホワクオフォン:1921-2008)らの文革右派との権力争いで、
やがて1978年12月の3中全会で鄧小平のリーダーとしての立場が固まり、非毛沢東化が始まりました。
文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動化という二重の性格があり、悲劇は拡大したと云われています。
実権を握った鄧小平は資本主義ともいえる路線で、
「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と云い、こんにちの中国繁栄のはじまりでしたね。
2016.8.14.記-------------------------------------------------------
断捨離とは「単に物を捨てるということではありません」と云うことだそうですね。
保存していた書類に関しては、再利用できないようにして、雑誌はそのままひもで結んで資源ごみとして半分ほど処分しました(これからも少しづつ処分していこうと)。
書籍、コミック類は、古本屋に売るという考えもありましたが、たいした価格にはならないでしょうからと、
まず、近所の方にもらってもらえばと、テーブルの上に本を並べ、“よければ持っていってください”と貼紙しました。
ドラえもんのコミック本は、40冊近くありましたがすぐ無くなりましたが。
昨日から今朝まで2・3冊しかなくなっていませんので、処分としては、埒が明かないようです。まだまだ大量にありますのでいずれ資源ごみとして処分を考えなくてはと思っています。
16.08.13撮影
2016.8.13.記-------------------------------------------------------
メダルラッシュの今夏のオリンピック、時差というものがあり寝不足が続いてます。
広島県出身、金藤理絵選手金メダル獲得おめでとうございます。
この夏はあさ、鉢物たちに水を撒くのです。
その時、時々ブラックベリーの実を生食するのです。
鉢物ですので大量に実が生ることはありませんがそれなりのうまさだな~と思って食べるのです。しかし、そろそろ終わりに近づいています。
きょう、わが家の(種アリ)デラウェア―が良い色をしてきていましたので、食べるかと思ったのですが、まずは撮影と。
16.08.13撮影
ことしはこれだけのなので、園芸の腕前はど素人のままです。
2016.8.12.記-------------------------------------------------------
本棚の中の飾り棚に15寸から2寸程のこけしが10個ほどあります。
(わが家は)1980年暮れから1年半強の短い間でしたが仕事の関係で宮城県刈田郡蔵王町遠刈田(とおがった)温泉に住んだのです。
長男が幼稚園に行く歳になったのですが当時遠刈田温泉地区に幼稚園がなく、白石市の幼稚園に通うことになり、
送迎バスの出発地終点地が遠刈田温泉であり、女房が同じ幼稚園に行く園児のお母さんと親しくなったそうで、土地の者でない女房は何かと親切にしてしてもらったそうです。
こけしのことに詳しくないわたしたちは、そのお母さんの義祖父が遠刈田系こけしの名工・佐藤丑蔵さんだと云われてもそうなのかと鈍い反応だったのです。
小柄であった(と還暦を過ぎたいまの女房から聞く)君子さんにわたしはあったことがありませんし、君子さん作のこけしはこれしかわが家にはありませんが、本の整理をしながら懐かしくみましたので。
遠刈田系こけし六寸
佐藤君子作
2016.8.11.記-------------------------------------------------------
本棚の本も整理捨てていこうと思っています。
その中に紙袋があり中をみると、古い週刊朝日の何冊かを残して(捨てずに保存して)いました。
今日の記事はその中の二冊です。
1963年11月23日早朝から、
いまは亡きおやじと、米国から送られてくるという(太平洋を越えてくるという)テレビの宇宙中継をまっていました。
午前5時半ころ、わが家のテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が映し出されたのです。
ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報でした。
緊急増刊でケネディ大統領暗殺を取り上げた週刊朝日定価50円
特集増大号でケネディ大統領暗殺を取り上げた朝ジャーナル日定価60円
ケネディ大統領暗殺は、衝撃的な事件でしたので、週刊朝日、朝日ジャーナルを求め読んだと思います。
また、(日本における)宇宙中継のはじまりだったことをこの事件を忘れない限り付いて回るのです。
週刊朝日の最新号“小池百合子の勝負勘と弱点”が定価380円なので2016年ー1963年=53年で定価が7倍強になっていることにも注目したわたしでした。
2016.8.10.記-------------------------------------------------------
ことしのわが家のパイナップルはクラウンが伸びないパイナップルだなと思っていましたが、ここ一週間の暑さで少し伸びたかなと思ったのですが。
今日(2016年8月10日)撮影
2002年7月13日撮影
2002年スーパーで求め食べたパイナップルのクラウンを植えたことから、
いまにつながるわが家の鉢で育てるパナップル栽培なのです。
HP(広島ぶらり散歩)の編集を休んでいるのでこのブログに投稿する記事がないことから夏休みなのです。
夏休みと称したいま保存していた書類・書籍などを処分することからはじめています。
天気だけは毎日記述していこうとは思っていますが。
8月18日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
8月17日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(通り雨あり)
8月16日(安芸区のわが家付近)天候:曇り(強い雨あり)
8月15日(安芸区のわが家付近)天候:曇り(通り雨あり)
*1)15日13時36分ころ地震。安芸区震度2
8月14日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
8月13日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
8月12日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
8月11日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
8月10日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
2016.8.18.記-------------------------------------------------------
週刊朝日1969(昭和44)年8月5日号を求めないわけはなく保存しています。
人類、月面に立つ!と題した増刊号で定価100円になっていました。
アポロ11号の打上げは1969年7月16日で、帰還は1969年7月24日でした。
宇宙飛行士:ニール・A・アームストロング/マイケル・コリンズ/エドウィン・E・オルドリン
アポロ11号は史上初の月着陸を達成しました。着陸地点は「静かの海」。
月着陸船イーグル号から降りて人類で初めて月面を踏みしめたのが、ニール・アームストロング船長です。「人間の小さな一歩だが、人類にとって大いなる飛躍だ」とアームストロング船長は無線機を通じて、テレビ中継で見守る世界中の人々に語りかけました。
また、米国とソ連の宇宙計画で命を失った5人の宇宙飛行士〔バージル・グリソム(米:1926-1967)、エドワード・ホワイト(米:1930-1967)、ロジャー・チャフィー(米:1935-1967)、ウラジミール・コマロフ(ソ連:1927-1967)、ユーリ・ガガーリン(ソ連:人類初有人飛行士1934-1968)〕のための記念碑が、月面に置かれました。
記念碑には「地球から来た人類がここに初めて足跡をしるす。西暦1969年7月。すべての人類のため、われわれは平和のうちに来た」と刻まれています。
アームストロング船長とエドウィン・オルドリンの2人は、21時間36分のあいだ月面にとどまり、21kgの月の石を地球に持ち帰りました。
ビデオも保存していました。いまはVHSの再生機を捨ててしまっていますのでみることができませんが。
アポロ13号
1970年4月 11日、3度目の月着陸を目指してケネディ宇宙センターから、サターンV型ロケットで打上げられたアポロ宇宙船。乗組員は ジム.ラベル(1928- )海軍大佐、司令船 (オディッセー) パイロットの ジャック.L.スワイガート(1931-1982)飛行士、月着陸船 (アクエリアス) パイロットの フレッド.W.ヘイズ(1933- )飛行士。
原題:Apollo 13。1995年製作の米国映画。
月へ向かう途中で爆発事故を起こしたアポロ13号の救出劇。監督:ロン・ハワード、出演:トム・ハンクス、ケビン・ベーコン、ビル・パクストン、ゲイリー・シニーズ、エド・ハリスほか。
2016.8.17.記-------------------------------------------------------
1969(昭和44)年7月21日(月曜日)朝日新聞・夕刊、西日本新聞・夕刊。
人類初の月面着陸を快挙だと思っていたからでしょう、今日に至るまで保存していました。
今回本棚等の整理をしているときに見つけましたが、はっきりした保存への記憶がないのです。
人類史上初の月面着陸は、
米国のアポロ11号計画における船長ニール・アームストロング(1930-2012)と月着陸船操縦士エドウィン・オルドリン(1930- )によるものでした。
1969年7月20日、司令船操縦士マイケル・コリンズ(1930- )が月周回軌道上の司令船コロンビアで待機する中、
二人の乗り込んだ月着陸船イーグルは司令船から切り離され、7月20日午後4時17分(東部夏時間)、月面に着陸し21時間30分滞在しました。
米国が着陸計画を終了した1972年12月までに月に到達したのは合計12人、いずれも米国宇宙飛行士です。
「人間、月を歩く」と題した西日本新聞
当時、博多に住んでいたので、(いまは亡き商売をしていたおやじが)朝日新聞、西日本新聞を定期購読していたのでしょう、それを保存したようです。(わたしが直接新聞を買ったという記憶がありませんので)
(広島は朝日新聞に夕刊はありませんし、いまでは中國新聞も夕刊をやめてしまっています)
福岡では中央紙はいずれも朝刊・夕刊を発行していました。
いまみる“見出し”は、西日本新聞の方が朝日新聞よりいいように思いました。
わたしは学生で、この時は能登半島から北陸を旅していましたので、帰宅して新聞を保存したのでしょうね。
2016.8.16.記-------------------------------------------------------
週刊朝日1967(昭和42)年6月25日号は、
緊急増刊として(第三次)中東戦争を取り上げています。定価70円でした。
中東戦争
1948年のイスラエル国家成立で始まったアラブ諸国とイスラエルとの間の武力衝突。
これまでに大規模な戦闘局面は
第一次中東戦争(1948-1949、パレスチナ戦争)、
第二次中東戦争(1956、スエズ戦争)、
第三次中東戦争(1967、六日戦争)、
第四次中東戦争(1973、ラマダーン戦争、イスラエル側ではヨーム・キップール戦争とよぶ)の4回を数えますが、それ以外の時期も戦闘はさまざまな形でほぼ連続して(現在に至るまで)行われています。
大規模戦闘は、第四次中東戦争を最後として停止し、アラブ諸国とイスラエルとの国家的共存を目ざす「中東和平」構想が重要性をもつのですが、
事態の変化に並行して、第三次中東戦争以降開始されたパレスチナ人の対イスラエル・ゲリラ闘争が高まりをみせ、アラブ諸国の側がパレスチナ人に対する弾圧を強化して(1970年ヨルダン政府による黒い9月事件、1976年・1984-1985年レバノン内戦におけるシリア軍のパレスチナ・コマンド攻撃など)、アラブ諸国とイスラエルとがパレスチナ人武装闘争にいっしょになって攻撃するといった状況も生じてきています。
さらに中東の戦闘状況は、レバノン内戦(1975~)、イラン・イラク戦争(1980~)といったアラブ内戦争としても生じており、もはや「アラブ諸国対イスラエル」の図式で中東戦争をとらえることはできなくなっています。
第三次中東戦争のイスラエル側の立役者・独眼竜ダヤン(1915-1981)国防相
1960年代に入ってイエメン革命やアラブ諸国の社会主義諸潮流の高まりのなか、アラブ内の「進歩派体制」対「イスラム同盟」の対立が激化、
1966年シリアでバース党左派政権成立、ヨルダン王国危機、エジプト・シリア共同防衛条約締結などで両者の対立は異常に高まっていました。
その機会をとらえて、イスラエルはパレスチナ人ゲリラ活動をたたくとの名目でシリアへの軍事的攻撃を強化、エジプト・シリアが対イスラエル共同防衛の構えをとり、アメリカを先頭とする各国が「国際水路の自由航行権」「国家の生存権」の国際的要求を両国に突きつけている状況下で、
1967年6月イスラエルの周辺アラブ諸国への全面的侵攻が開始されました(第三次中東戦争)。
イスラエルはシナイ半島およびヨルダン川西岸地区を制圧(聖地エルサレムも占領)、シリアのゴラン高原も占領しました。
アラブ「進歩派体制」は深刻な打撃を被り、1967年11月の国連決議242号採択で、その後の「中東和平」の指針となる、イスラエルを含む中東域内諸国の生存権保障(パレスチナ人民族自決権の否定)、イスラエル軍の占領地撤退が示され、これをヨルダン、エジプトは受諾しました。
イスラエルはパレスチナ全土を含む広大な占領地を手に入れ、多数のアラブ・パレスチナ住民を抱え込み、その結果、アラブ諸国はイスラエルの国家的存在を否定することは困難となり、ロジャース提案(1970年)に始まるアメリカ主導の「中東和平」づくりが動きだしましたが、ご存知のように中東平和には程遠い現状なのです。
2016.8.15.記-------------------------------------------------------
*1)わが家も揺れましたので地震(震度2)だとわかりました。
震源地は伊予灘(北緯33.5度、東経131.9度、深さ70km)地震の規模:M4.3
週刊朝日1966(昭和41)年10月15日号は、
緊急増刊として中国の文化大革命を取り上げています。定価70円でした。
文化大革命
1966年夏から10年間にわたって中国で繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動。
毛沢東(マオツォートン:1893-1976)自ら発動し、中国では「無産階級(プロレタリア)文化大革命」と云われました。
「造反有理」(謀反には道理がある)を口々に叫んだ紅衛兵運動に始まり、指導者の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動によって、中国社会は激しく引き裂かれ、現代中国の政治・社会に大きな禍根を残して挫折しました。
文革は、1962年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の「絶対に階級と階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発し、「資本主義の道を歩む、党内に潜む一握りの実権派」を打ち倒すことが命題でした。
写真は、毛沢東と「毛主席語録」をもった林彪
1969年の中国共産党9全大会では、林彪(リンピアオ:1908-1971)が党副主席に選出され、党規約で毛沢東の後継者に定められました。
文革は林彪国防相が指揮する人民解放軍の介入によって初めて、劉少奇(リウシャオチー:1898-1969)や鄧小平(トン・シアオピン:1904-1997)らの実権派に勝利しました。
杭州事件(1975年)や天安門事件(第1次、1976年)は、毛体制への大衆の反逆と云われています。
毛沢東側近の王洪文、張春橋、江青(チアンチン:1914-1991)、姚文元ら四人組も1976年10月の北京政変によって打倒され、華国鋒体制に取って代わられた。
北京政変は四人組らの文革左派と華国鋒(ホワクオフォン:1921-2008)らの文革右派との権力争いで、
やがて1978年12月の3中全会で鄧小平のリーダーとしての立場が固まり、非毛沢東化が始まりました。
文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動化という二重の性格があり、悲劇は拡大したと云われています。
実権を握った鄧小平は資本主義ともいえる路線で、
「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と云い、こんにちの中国繁栄のはじまりでしたね。
2016.8.14.記-------------------------------------------------------
断捨離とは「単に物を捨てるということではありません」と云うことだそうですね。
保存していた書類に関しては、再利用できないようにして、雑誌はそのままひもで結んで資源ごみとして半分ほど処分しました(これからも少しづつ処分していこうと)。
書籍、コミック類は、古本屋に売るという考えもありましたが、たいした価格にはならないでしょうからと、
まず、近所の方にもらってもらえばと、テーブルの上に本を並べ、“よければ持っていってください”と貼紙しました。
ドラえもんのコミック本は、40冊近くありましたがすぐ無くなりましたが。
昨日から今朝まで2・3冊しかなくなっていませんので、処分としては、埒が明かないようです。まだまだ大量にありますのでいずれ資源ごみとして処分を考えなくてはと思っています。
16.08.13撮影
2016.8.13.記-------------------------------------------------------
メダルラッシュの今夏のオリンピック、時差というものがあり寝不足が続いてます。
広島県出身、金藤理絵選手金メダル獲得おめでとうございます。
この夏はあさ、鉢物たちに水を撒くのです。
その時、時々ブラックベリーの実を生食するのです。
鉢物ですので大量に実が生ることはありませんがそれなりのうまさだな~と思って食べるのです。しかし、そろそろ終わりに近づいています。
きょう、わが家の(種アリ)デラウェア―が良い色をしてきていましたので、食べるかと思ったのですが、まずは撮影と。
16.08.13撮影
ことしはこれだけのなので、園芸の腕前はど素人のままです。
2016.8.12.記-------------------------------------------------------
本棚の中の飾り棚に15寸から2寸程のこけしが10個ほどあります。
(わが家は)1980年暮れから1年半強の短い間でしたが仕事の関係で宮城県刈田郡蔵王町遠刈田(とおがった)温泉に住んだのです。
長男が幼稚園に行く歳になったのですが当時遠刈田温泉地区に幼稚園がなく、白石市の幼稚園に通うことになり、
送迎バスの出発地終点地が遠刈田温泉であり、女房が同じ幼稚園に行く園児のお母さんと親しくなったそうで、土地の者でない女房は何かと親切にしてしてもらったそうです。
こけしのことに詳しくないわたしたちは、そのお母さんの義祖父が遠刈田系こけしの名工・佐藤丑蔵さんだと云われてもそうなのかと鈍い反応だったのです。
小柄であった(と還暦を過ぎたいまの女房から聞く)君子さんにわたしはあったことがありませんし、君子さん作のこけしはこれしかわが家にはありませんが、本の整理をしながら懐かしくみましたので。
遠刈田系こけし六寸
佐藤君子作
2016.8.11.記-------------------------------------------------------
本棚の本も整理捨てていこうと思っています。
その中に紙袋があり中をみると、古い週刊朝日の何冊かを残して(捨てずに保存して)いました。
今日の記事はその中の二冊です。
1963年11月23日早朝から、
いまは亡きおやじと、米国から送られてくるという(太平洋を越えてくるという)テレビの宇宙中継をまっていました。
午前5時半ころ、わが家のテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が映し出されたのです。
ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報でした。
緊急増刊でケネディ大統領暗殺を取り上げた週刊朝日定価50円
特集増大号でケネディ大統領暗殺を取り上げた朝ジャーナル日定価60円
ケネディ大統領暗殺は、衝撃的な事件でしたので、週刊朝日、朝日ジャーナルを求め読んだと思います。
また、(日本における)宇宙中継のはじまりだったことをこの事件を忘れない限り付いて回るのです。
週刊朝日の最新号“小池百合子の勝負勘と弱点”が定価380円なので2016年ー1963年=53年で定価が7倍強になっていることにも注目したわたしでした。
2016.8.10.記-------------------------------------------------------
ことしのわが家のパイナップルはクラウンが伸びないパイナップルだなと思っていましたが、ここ一週間の暑さで少し伸びたかなと思ったのですが。
今日(2016年8月10日)撮影
2002年7月13日撮影
2002年スーパーで求め食べたパイナップルのクラウンを植えたことから、
いまにつながるわが家の鉢で育てるパナップル栽培なのです。