<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

「やまなし」と私

2024-01-20 14:46:43 | 「遊去の部屋」
<2002年3月25日頃に投稿>
 私が初めて宮沢賢治に出会ったのは小学生のときでした。おそらく5,6年の頃だったと思います。その頃の私は漫画の本が好きで、といっても自分の家ではとても買ってもらえなかったから、いつも見せてもらっていたのですが、漫画の本を買ってもらえる家をみると本当に羨ましく思いました。そんな家に生まれたらどんなにいいだろうとそんなことばかり考えていました。ところが、そんな家がすぐ隣にあったのです。しかも、私と同じ年の子供がいて、生まれた日もたったの1日違うだけだというのに、向こうの家はおもちゃで溢れ、漫画もいっぱいありました。そういうわけで、いつもそこで見せてもらってはいましたが、見せてもらう立場というのは子供なりにも遠慮があって、自分で買えたらどんなにいいか知れないとよく思ったものです。中でも特に好きだったのは「少年」の別冊付録の「鉄人28号」で、この月刊誌が発売される日などは、自分が買うのでもないのに、指折り数えて待ったものです。
 そんなとき、名古屋にいた姉がちょうど帰省することになりました。その連絡の電話を取った私は、これこそ天恵、この機を逃したら二度と自分の漫画を手に入れる日は来ないというほどの意気込みで、姉に漫画の本を買ってきてくれるように懇願しました。それからというもの、一日千秋の思いで姉の帰りを待ちました。というより漫画の本を待ち焦がれていたのです。そして、とうとうその日がやってきて、姉から紙包みを渡されたのですが、実は、その中身が「宮沢賢治童話集」だったのです。漫画の本は一回読んだら終わりだけど、これならずっと読めるから…というのが姉の言でした。今にして考えると、お金を出す方としては、それを有効に生かしたいと考えるのは当然のことだったのかも知れませんが、子供にとっては将来のことなんかどうでもよく、そのとき欲しいものを手に入れることしか頭にありません。私はその紙包みを開くときまでその中身が漫画の本であることを疑いませんでした。何種類かある漫画の本のうちのどれだろうかということだけが頭の中をぐるぐる回っていたのです。そして包み紙を開いた瞬間、望みは儚く消えました。私は心底落胆して声も出ませんでした。

 本は図書館で借りてよく読んでいました。それらはたいてい冒険小説か動物記の類でしたが、おもしろくて時間の経つのも忘れるくらいでした。それに引き換え「宮沢賢治童話集」はどこがいいのかさっぱり分かりません。あっちこっちおもしろそうなところを捜しては読んでみるのですが、どの話もわくわくするようなことはありませんでした。目次で「気のいい火山弾」というのを見たときには、「火山弾」という言葉の響きから天地が裂けるような物語を期待しましたが、読んでみてがっかりしました。
 不幸にもそのようにして出会った童話集でしたが、いい本だと聞かされていたことと表紙が厚くて立派な箱に入っていたこともあって長く本棚に大切に飾ってありました。その背表紙を毎日見て育ったこともあって、いつか宮沢賢治という名前は私にとって馴染みのある響きを持つようになっていきました。

 次に賢治作品に触れたのは大学生のときでした。といっても夜学だったので、昼間はアルバイトをしていましたが、次第に自分というものをどう考えたらいいか分からなくなってきて、そうなるともう学校へも行かなくなり、アルバイトで稼いだお金がなくなるまでアパートにこもって本を読むという毎日になりました。主に、その頃流行の実存主義哲学関連のものが多かったのですが、そのときはその中に答があるものと思っていたのです。こうして2年ほど暗い青春期を過ごしましたが、とうとう完全に行き詰まってしまいました。それで、何もかも放棄したくなっていたとき、どういうものか突然ひらめいたのです。人間の存在は他者とのあらゆる関係の集合体として規定されるのだという考えが浮かびました。それなら自分が他者と結びたい関係を順番にどんどん結んでいけばいいじゃないかということに気付いたのです。当たり前すぎるほど当たり前のことですが、こんなことにもこうした手続きを必要とするところに青春期の特徴があるのでしょう。それで、そのとき頭に浮かんだのが「雨ニモ負ケズ」のあの詩でした。「東ニ病気ノコドモアレバ」から続く数行です。つまり他者とどういう関係をもちたいかということを述べているのです。はっとして、それからというもの、賢治作品を片っ端から読みました。だけど、そのときも、今から思えば<分かりたい>という気持ちの方が勝っていたように思います。

 ここで、一気に25年飛びますが、年に一度の高校の音楽発表会に行ったとき、そこでたまたま教え子に会いました。彼女が高校生のときに朗読をしてもらったことがあったので、機会があればまた何かやろうという話をして別れました。それは単に外交辞令にすぎなかったのですが、車で帰る途中、ふと、彼女の昔の朗読の声を思い出したのです。「あの声」と思った瞬間、突然「やまなし」が頭に浮かんだのです。これだと思いました。
 家に帰るとさっそく本を捜して音作りにかかりました。ところが、これがまたやっかいで、作ろうとすると何故かわざとらしいものになってしまうのです。感じのいいものを作りたいという気持ちがあるので、作ろうとすればするほどわざとらしいものなってしまいます。それで私は先ず自分の気持ちを、いつも行く谷川の小さな川原に持って行きました。そこは「やまなし」の話が本当に起こってもおかしくないようなところです。20年くらい前からよく遊びに行っているところなので目を閉じれば水の流れや岩の位置、木の枝の張り出し具合まで見えてきます。それを思い浮かべて耳をじっと澄ましてみました。そうすると心の中にいろんな音が聞こえてきます。そしてそこで感じた音のイメージを楽器で拾いました。
 次は言葉との組合せでした。頭の中で音のイメージを流しながら言葉を読んでいくのですが、10回、20回と読んでいくに従い、私はこの作品が、それまで自分が思っていたよりもはるかにすばらしいものだということが分かってきました。100回、200回と読んでいくうちに、私は、このとおりの世界が賢治さんの目に見えたのだと確信するようになりました。それをどうやって言葉に表すかというところであちらこちらに賢治さんらしさが出ています。それを感じるたびに生きた賢治さんと話をしているような気分になりました。
 例えば、『波から来る光の網が、底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。』というところも、普通なら「波から来る」という言葉はつけないでしょう。賢治さんはここで「光の網」が物理的に存在して、それが「波」によるものであることを言わずにはおれなかったのだと思います。もちろん、「波」は「12月」の方で重要な役割をしているわけだから布石と見てもいいわけですが、こんなに美しい描写の中に、その発生の原因までも滑り込ませてしまうところなどはいかにも賢治さんらしいと思います。
 これ以来、私は「光の網」を意識するようになりました。もちろん水の中の光が美しいということは子供のときから知っていました。しかし、それはあるのが当たり前の世界で、山が緑であったり、空が青かったりするのと同じようなものでした。意識して思ったことはありませんでした。それで、その夏、川に泳ぎに行ったとき、私は息を止めて水に浮きながらずっと水の底に映る光の網がゆれるのを見てみました。そして自分が本当に美しい世界に取り囲まれているのだということを初めて自覚したのです。それ以来、美しいものを見つけるのが前よりうまくなったような気がします。それは、それだけしあわせを感じる機会が増えたということです。

 今、私は「やまなし」の英語版に取り組んでいます。翻訳ではありません。英語での朗読です。日本語では、一応、ギターを弾きながら朗読できるようになったので、その日本語のところを英語でやろうというわけです。動機は至って簡単です。外国人の知り合いにも「やまなし」の世界を知ってほしいからなのです。と言いたいところですが、実は、自分がこんなコンサートをやったということを外国人の知り合いに話したとき、日本語では相手に分からないので、つい、口がすべって、予定もないのに、今度英語版を作るつもりだと言ってしまったのです。日本的サービス精神というか日本人的お人好しというか、そんなわけで英語版に取り組むことになりました。
 家にあった英語版の賢治童話集をみると、ちょうどその中に「やまなし」があったので、よし、これで半ば出来たと思いました。まあ、あまり気にしないでください。私はもともと極めて単純な人間なのです。たまたま一時期実存主義に染まったためか、本来の自分を見失ってしまったのです。それでいまだに自分を取り戻せないでいるのですが、何かの拍子にひょいと元々の自分が顔を出すことがあるのです。このときも、出来上がった英語版を演奏しているところまで見えたのですが、細かく読んでいくうちにこれはどうもおかしいぞという部分がいくつも出てきました。どうしてだろうと考えてみるのですが、この翻訳は外国人の手によるもので、どうもそれぞれの場面に合理的な説明を求めていて、理解できないところは自分で補って埋めているようなのです。
 その中の一つを紹介しましょう。「12月」のずっと終わりの方に『やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。』という部分があります。この「木の枝」が問題です。「 caught in the low-hanging branches of a tree 」と訳されているのですが、これから考えると、訳者は、「木の枝が低く垂れて水の中に入っていて、ちょうどそこにやまなしが流れてきて引っかかった」というように考えていると思うのです。これは、まず、「やまなしは木の枝に引っかかったが、水の中に木の枝があるというのはおかしい。きっとこれは岸辺にある木が水面に覆い被さるように枝を伸ばし、それが水の中にまで入っていて、そこに引っかかったのだ。なるほど。」と考えて納得したのでしょう。
 谷川を歩いていればすぐに分かることなのですが、上流から流れてきた木の枝はあちこちで岩と岩の間に引っかかります。そうするとそこに流れてきた枯草などが次々に引っかかって流れを堰きとめるような形になるのです。こういう光景は谷川のいたるところで見られます。そこへやまなしが流れてきてこの堰にぶつかると上を乗り越えるか下をくぐり抜けるかしなければなりません。この場合は、おそらく流れに押されて下に潜り込んだのでしょう。ところが運悪く十分下まで行く前に、水中で引っかかってしまったのです。それで、くぐり抜けることも出来ないし、どんどん水に押されているから戻って浮かび上がることもできないし…、という中途半端な状態で(何か私の人生のようですが)水中で上下にぷかぷかしていたのです。そのため、やまなしの上の水の流れが乱れて、そこに月光が射し込んだので、光がゆらゆらして見えたということだと思います。それを「月光の虹がもかもか集まった。」とは何という見事な表現でしょう。
 現在、まだ練習中ですが、何とかなりそうだという気がしています。ただ、ギターを弾きながら朗読をするので、指が難しくなると英語の発音がカタカナ化してしまうという点など、多少問題はありますが、90%も伝えられれば上等だ(賢治さん、ごめんなさい)という、自分に甘い乗りで、録音テープを渡す日のことを心に描いて何とか切り抜けてみせるつもりです。

 
★コメント
 日付がないので何時この原稿を書いたのか分かりませんが、最終印刷日が2002年3月25日となっているのでその辺りでしょう。
元生徒に朗読してもらったライブは2000年7月22日に実現しました。このとき私は横でギターを弾きながら『あの声はもう戻って来ないな』と寂しい気分になっていました。彼女はそのとき大学生になっていて既に大人の声に変わっていたのです。私が思い出したのは高校生の時の子供の声だったのですが…。
 その後、自分でギターを弾きながら朗読する練習を始めました。そしてますますこの話が好きになりました。それから2,3年後くらいだと思うのですが、自分の授業の最後の日、テストを返した後の残り時間を使って生徒の前でこれを演奏しました。生徒たちにこのような世界を心の隅に持って大人になっていって欲しいと願ったからでした。それ以来15年くらいは続けたと思います。これについては批判もあったでしょうけど、学校で、「やって良かった」と自分で思うのはこれくらいのものです。
 何年かぶりで「やまなし」を弾いてみました。言葉も音も忘れているところがあり、楽譜でチェックしました。書いておいて良かったと思いました。数回弾くと完全に思い出しました。やはりいい話だなあと思いました。年の初めに、これはなかなかいい滑り出しになりました。
2024年1月20日


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アゲハ蝶とミカンの木

2023-12-20 17:42:49 | 「遊去の部屋」
<2003年11月22日に投稿>
 南側のトタン塀の外側に小さなミカンの木があります。刺があるのでミカンじゃないかもしれませんが、子供のころ、よく似た木が庭に生えているのを見たことがあるので、まだ一度も実をつけたことはありませんが、多分その仲間でしょう。ちょうどトタン塀のやや内側の日の当たらないところに自然に生えてきたのですが、それでも成長して塀の高さくらいまでになりました。そうなると今度は家と塀との間に立ちはだかり通りにくくなってしまいました。しかも刺があるので服や洗濯物が引っかかって破れたりすることまで起こってきました。それで思い切って木を曲げて塀の下をくぐらせ、向こう側に出してやることにしたのです。
 折れるかも知れませんが、そのときには諦めてもらうしかないでしょう。思い切ってぐっと曲げてみましたが、木はぐにゃりと曲がっただけで折れる様子はありません。それで、そのまま塀の下をくぐらせ、無事、南側の日当たりのいいところに出してやることができました。前には畑も広がっているし環境は抜群です。これでミカンの木は体全体で太陽の光を浴びてのびのび成長できるはずです。だから、一度くらいぐにゃりと曲げられたからといって文句を言うこともないと思うのですが、それでもミカンの木は曲げられたときに腹を立てたのか、私は刺で手を傷つけてしまいました。木も若いときは随分柔らかいものだなあと感心しました。
 その後、ミカンの木は南側でどんどん葉を茂らせていきました。塀のこちら側にあったときは葉の色も黒ずんで、どことなく意地悪な面持ちをしていましたが、塀の向こう側に行ってからは葉の緑色はどんどん明るくなり、性格もぐんぐんおおらかになっていくように見えました。これで実をつけてくれさえすれば何も言うことはないと私も内心ちょっと期待したくらいです。
しばらくたって、ある日、ふと、気になり塀の向こうを覗いてみました。普段は塀越しに木の先がちょっと見えるだけです。それで気付かなかったのですが、私はその光景に唖然としてしまいました。アゲハ蝶の幼虫が群がっているのです。葉の半分くらいはすでに食べられてしまいました。こげ茶色の小さいものから緑色の大きなものまでたくさんいます。これではまるでアゲハ蝶の保育園のようです。それにしてもこんなにたくさんいては共倒れになるだろうと思いました。
 数日後、またも私は唖然としてしまいました。今度は葉が一枚もなくなっていたのです。あとには鋭い刺だけが残っていて、まるで針の木のようになってしまいました。しかもあんなにたくさんいた幼虫が1匹も見当たりません。いったいどこに行ってしまったのでしょう。幼虫も行く当てがあったのなら、ここまで食い尽くさずとも、その前に引っ越せばいいのです。それが礼節というものではありませんか。しかし、これも自然の掟なら仕方がないようなものですが、憮然とした様子のミカンの木を見ていると、体中の刺を振り立てて強がっているようにさえ思われ、わざわざ塀の下をくぐらせて本当に済まないことをしてしまったなという気がしました。
 ミカンの木は、それでも健気にまた若い葉を伸ばしはじめました。少しずつ本来の木らしい姿に戻っていくのを見て、南側に出したのはやはり悪いことではなかったのだと私もちょっと安堵したのですが、それも束の間、数日後にはまた幼虫の保育園になっていたのです。蝶が卵を産んで、それが孵って成長するにはあまりにも速すぎると思います。どこかからやって来たのでしょうか。すぐにミカンの木はまたも裸になってしまいました。
 ため息を吐きながら塀の上を見ると、何と、そこにいたのです。アゲハ蝶の幼虫が塀の上を悠々と去っていくではありませんか。憎たらしいことに太って丸々しています。ここはひとつ、ミカンの木の仇を討ってやらないわけにはいかないという気持ちが湧き起こりましたが、これもやはり自然の掟ならば手を出すことは控えなければなりません。それかといって黙って見送るのもミカンの木への義理が立たないので、仕方なく、私は指先で幼虫の頭を軽く押さえてやりました。すると、泡を食った幼虫はいきなり頭からオレンジ色の角を2本突き出しました。そこからぷーんとミカンの香りが立ち上り、その瞬間、一気に40年以上もタイムスリップしてしまったのです。
 裏庭のミカンの木の前で、幼児の私が、夢中になってアゲハ蝶の幼虫の頭を、モグラタタキのように突付いているのです。そのたびに幼虫は2本の鮮やかなオレンジ色の角を突き出すので、大きなミカンの木はあちこちでオレンジ色の花を咲かせたように見えました。あたりには甘酸っぱいミカンの香りが立ち込めて、まるで楽園にでもいるような気分になりました。
そんな記憶の断片が自分の頭に残っていたことは驚きでした。それからここまで、はるばるやって来たものだと思いました。
2003.11.22


★コメント
 今の家に引っ越してから庭に実のなる木を植えました。温州みかんもその一つです。10年経って木は大きくなりました。毎年実がなるのでありがたいです。植えた場所が塀に近かったので北側に曲げるようにして伸ばしていますが、まあ仕方ありません。きちんと考えたつもりでしたが、私のやることは殆どそんなことばかりです。
 この木にも夏になるとアゲハ蝶がやってきます。幼虫の食べる葉の量は凄く、みるみる木が丸裸になります。これも自然だと達観できればいいのですが…、そうも行かず、ハムレット式の煩悶が始まります。辛いです。それで、前に、大きな幼虫を一匹取り、少し離れた所にある伊予柑の木に移してみたことがあります。伊予柑の方は葉がたくさんあったからです。これなら少々食べられても大丈夫だろうと思いました。数時間後見に行ってみると幼虫は木の根元の幹にくっついたままじっとしています。私は葉の上に置いたのですが自分で移動したようです。しばらくしてまた見に行くとやはり同じところにじっとしていました。伊予柑の葉と温州みかんの葉には違いがあるのだろうか。この幼虫は伊予柑の葉では生きていけないのではないか。ああ、またハムレットです。
 仕方がないと思い幼虫を元の温州みかんの木に戻してやりました。今年は実はならないかなと思いましたが、それも自然なら仕方がありません。そのあとどうなったか忘れてしまいましたが毎年ミカンは食べています。多分、これでいいのでしょう。無為自然、無為自然。
2023年12月20日


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「てるちゃん」の店

2023-11-21 14:51:10 | 「卒業後」
 4回生のとき、私は就職活動をしませんでした。というのは、その年度内に卒業に必要な単位の半分を取らなくてはならず、それで教育実習の単位を取ることができなかったからでした。そうなると翌年に取るしかありません。就職したら教育実習のために2週間の休みを取ることなどできないからというのが就職活動をしなかった理由でした。その時には教職に就くつもりでいて、夜学で教えて昼は畑をしようと考えていました。それにしても卒業しなければなりません。それに必要な70単位ほどを1年間で取った時、「大学の制度を見直す必要があるな」と講座の助教授に言われました。
 一年間アルバイトをして過ごそうとも考えたのですが、ちょうどそのとき、体を壊して療養していた兄貴が新しくプレスの仕事を始めることになり、手伝ってほしいということなので、一年間だけの約束で引き受けました。本当はしたくなかったのですがなかなか断れるものではありません。まあ、兄貴の工場は田舎の山間地にあったので、豊かな自然の中で暮らしてみたいという気持ちもありました。ただ、プレスの機械で指を落とさないようにしなければという意識だけは脳裏から離れませんでした。指を落としたらギターが弾けなくなってしまいますから。

 兄貴に住む家を探してもらっておいてそこに引っ越しました。大家の屋敷とはつながっていましたが隠居所のような感じで、玄関も風呂も、広さ一畳くらいの台所もありました。やっと風呂のある暮らしができるようになって嬉しかったです。しかもその風呂は五右衛門風呂ときています。感動しました。子供の時は五右衛門風呂だったのでいろいろなことを思い出しました。底板を浮かした状態で風呂を焚き、沸いたら底板を沈めるのですが子供の体重は軽いのでなかなか板を押さえ込めないし、子供の腕は短いので最後は顔を湯に浸けないと届かないのです。そこで息を止めて顔を浸けたまま押し込んだ底板を横に回して鉤に引っ掛けるのですが底板は浮き上がろうとするものだからうまく回せません。いつも何度かやり直しました。また焚口の灰の中にサツマイモを埋めておいて焼き芋を作ったこともありました。またやろうと思いました。
 住み始めるとすぐに子供を教えてほしいと頼まれ、塾の形で小中学生15人ほどを家で教えることになりました。始めたばかりの兄貴の工場は仕事が切れることが多く、そんな時は山や川で遊んでいました。潜って鮎を取ることを覚えたのもそのときですが、給料の未払いが増えて行ったので収入は殆ど塾だけになりました。
 子供達も今とはまるで違います。授業はするにはしますが、まるで遊びに来ているようで無茶苦茶です。せがまれて釣りやキャンプに連れて行ったりすることもありました。しょっちゅう遊んでいたような記憶しかありません。事故がなくて良かったです。

 生徒の一人が私に言いました。「てるちゃんとこのパンはカビが生えとるで気ぃつけな。」「てるちゃん」というのはうちの大家の奥さんの名前で、60歳くらいだったと思います。大家は食料品店を営んでいて、家の一角が、10坪くらいの広さでしょうか、店舗になっていました。そこの食パンにはカビの生えていることがよくありました。その地区の人はみんなそれを知っていて手に取って確認しながら買っていくのです。その頃はまだ賞味期限や消費期限という言葉はない時代でした。その村には食料品を売っている店が他に2軒ありましたが、どこも同じくらいの規模で、「この地区の人はこの店に行く」という形がほぼ出来ていて、私もそこの家を借りている手前、他の店には行きにくいところがありました。だけど他の人のようにじろじろ見て調べるようなこともしにくいところがあって、何度かカビの生えているパンを買ってしまったことがあります。
 それまで田舎で暮らしたことのない私はどうすればいいのか戸惑うことがかなりありました。風呂も五右衛門風呂なので薪を手に入れなければなりません。兄貴に椅子を作っている家を教えてもらいそこで木切れをもらうことになったのですがお礼をどうすればいいかが分かりません。兄貴に聞くと「盆・正に何か持って行けばいい」と言います。付き合い方が難しいなと思いました。
 田舎の人は、相手が気分を害するようなことは面と向かっては言わないので本当はどう思っているのか分からないところがあります。その点、子供に聞くと何でも教えてくれるので助かりました。子供は親が話していることを聞いているのです。そうして村の事情に通じていくわけですが、政治的に利用すれば密告社会が可能になるわけで、そのように利用されてきた例は世界中にたくさんあります。
 トイレは汲み取り式で家から少し離れた所にありました。溜まると「てるちゃん」が汲み取りをしてくれました。長い柄杓のようなもので汲み取るのですが、きちんと全部汲み取らないのです。液が残っていると便をしたときにオツリが戻って来ることがあります。長い間忘れていた記憶が蘇りました。これは本当に嫌でした。その頃愛読していた「なだいなだ」氏の本にも出ていて共感しました。氏は子供のとき2階のトイレからすればオツリは来ないだろうと思って朝早く学校に行き2階のトイレから試したというのです。そうしたらやはりオツリが来たと書いています。本当だろうと思うのですが、私は今も信じられません。氏は「ウンチクを傾ける」ことの意味が分かったと締めくくっていますが、私もこれで便壺が便器の真下から少しずらせて設置してあることの意味に気付きました。それまでは設計・施工がいい加減なんだと思っていたのです。
 今となっては昭和の名残りともいえる暮らしですが、子供の頃は汲み取りも自分のところでしていて裏の畑の肥壺に運んでいました。させられたこともありますが、運ぶときふらふらして危ないのですぐに代わってくれました。ぶちまけられたらそれこそ後始末が大変だと思ったのでしょう。今は浄化槽でシャワートイレになったので隔世の感がありますが、その時代のことを忘れてはいけないと思います。とはいうものの逆戻りはできないですね。トイレをきれいに保てるというのはありがたいです。

 てるちゃんの店のような規模の店舗は消滅しかけています。複雑な気持ちです。が、私自身もどうしても大型店の方に足が向いてしまいます。通販で買うことも増えました。家まで届けてくれるのだからやはり便利です。だけどこの方向でいいのかなという危惧が残ります。人間関係が希薄になるのも当然です。
 先日、図書館で「岡本太郎の沖縄」という写真集を借りてきました。見て、読んで、衝撃を受けました。人間、人間、人間、…。これが人間なんだなと思いました。暮らすというのは実に生きるということなんだなという実感があります。だけどとてもここには戻れそうもありません。
 また、つい最近ビデオテープ見つけました。「ヤノマミ」というアマゾンの奥地に住む原住民の暮らしのドキュメントです。これも凄い暮らしです。中学生の時にアフリカや南米のジャングルで暮らしたいと考えていた私ですが、知らないということは実に怖いことだと思いました。生まれたところで暮らすのがいいようです。
2023年11月21日


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菜の花、二つ

2023-10-20 10:49:03 | 「遊来遊去の雑記帳」
春の食材
 <2005年3月19日に投稿>
 畑の菜の花が一斉につぼみを膨らませてきました。この一週間で一気に数を増やしています。つぼみの先が黄色みを帯びて、もう2,3日もすれば花を咲かせることでしょう。その希望に満ちた最後の瞬間に、私は、非情にも、それらのつぼみを次々と摘み取っていくのです。菜の花にとっては子孫を残すために、これまで冬の間に温存してきたエネルギーを一気につぎ込んで勝負に出たところが、私にとっては待ちに待った瞬間というわけです。とはいっても取り尽くすということはありません。それに植物は「摘み取る」というような穏やかな手段でへこたれるような柔な生き物ではありません。10本摘まれれば新たに20本の新芽を出し、20本摘まれればさらに40本の新芽を出すという具合で、まるで日本神話のイザナギ・イザナミのやりとりみたいです。私が食材に使うくらいの量なら大丈夫です。それに全部取り尽くしてしまったら来年食べられないから私の方も困ります。そういうわけで、ほどほどに食べて、その残りが花を咲かせ、そこへミツバチがやってきて、as busy as a bee と、大忙しの春本番となるわけです。
 菜の花が咲くと私は株間にしゃがんで下から菜の花を見上げて時間を過ごすことがあります。そうすると菜の花の茎がにょきにょきと天に向かって伸び上がり、まるで巨木の森にいるようで、その天井を埋め尽くす黄色い花の間から青空を覗き見ることができるのです。そしてその狭い空ではたくさんのミツバチが花から花へ飛び回っているのですが、ミツバチは本当にじっとしていることがありません。一つの花に止まるとちょっと蜜を吸ってすぐ他の花に移ります。するとその花にはすぐにまた別のミツバチがやってくるのですが、これもまたすぐに飛び去ってしまいます。それは、もう蜜がなかったからなのか、あるいは元々一回でほんの少ししか蜜を吸わない習性なのか、それとも一つの花の蜜を吸っている間に、他の花の蜜の方がおいしそうに思えてくるのか、それはミツバチに聞いてみなければ分かりませんが、いずれにせよ、実に生き生きとしていて、蜜を吸うこと以外は何も考えてないという様子です。
 私も、春の匂いに包まれたひと時を菜の花の森で過ごした後は、たいていのことは大したことではないように思えてきて気分も穏やかになるようです。それまでの間、もうしばらくは菜の花料理を食べながら待ちたいと思います。
2005.3.19


<こちらは書きかけの原稿です。出てきたので一緒に出します。2005年の4月末に書いていたものです。>
春は菜の花
 私の小さな畑は、今、菜の花でいっぱいです。昨日は、夕方、畑に行く途中でおもしろいものを見ました。雨上がりだったので、少し向こうの里山の上に霞がかかり、その後ろから弱く太陽の光が射しているのです。畑の少し手前で止まってちょっとしゃがむと、里山の前に沸き立つような菜の花の黄色を重ねることができました。おぼろ月夜よりずっと幻想的でした。ああ、カメラを持ってくるんだったと思いましたが、あとの祭り。仕方がないのでただじっと見て、その借景を目に焼き付けておきました。
 周りの畑には殆んど菜の花はありません。その理由は簡単で、普通は、春になるまでに野菜はみんな収穫してしまうからなのです。それから春に向けての野菜の作付けをするので、冬の終わりは更地のようになっているというのが篤農家の畑です。
 私はというと、根を食べる物以外は根こそぎ収穫することはしません。自分の食べる部分だけを取っています。葉菜は、一つの株からは一枚か二枚の葉を取るだけで株ごとは取ることはしません。それでも数株あれば一回食べる分くらいは集まります。しばらくするとそれぞれの株はまた新しい葉を伸ばしてくるので、そうしたらまた次の葉を取って食べることが出来るのです。そうすると野菜はずっと成長を続けられ、畑に住んでいる他の生きものたちも大きな影響を受けることがありません。生産効率は低いかも知れませんが、それで足りるように工夫して食べているのであまり問題はありません。
そういうわけでうちの畑はいつも何か野菜が生えています。この冬は春のじゃがいもを植えるのにその野菜が邪魔だったので引き抜いて緑肥にしようかと思いましたが、まあ、せっかくここまで生きてきたものを抜き取ってしまうのも不憫な気がしたので、やはり種を実らせるところまではそのままにしておくことにしました。
 それからひと月たって、畑は菜の花の黄色でいっぱいになりました。菜の花のつぼみは後から後から出てきます。これはいい食材になるので、春先には私は毎日それを摘みに畑へ出かけます。昨日も行ったら畑に来ているのは私だけではありませんでした。まだまだ冬の寒さが残っている中で、たくさんのミツバチが花から花へと飛び回り忙しく蜜を吸っているのです。そのせわしないことといったらありません。菜の花は小さな花がたくさん集まっているのですが、その一つに頭を突っ込んだかと思うと1秒か2秒で次の花へ移ります。じっとしていることがありません。次から次へと花を渡って行くのです。
花からみれば次から次へとミツバチがやって来るわけです。おそらく一つの花の蓄えている蜜はほんの少しでしょう。だからそれがなくなった後にやってきたミツバチは空振りというわけで、すぐに次の花に行かなければなりません。もしかすると、このミツバチのせわしなさは殆んどが空振りというところから来ているのかも知れません。初めのうちは「当たり」続きだったのが、次第に「外れ」が増え、飛行のエネルギーを考えてそろそろ損益分岐点に迫ってくると何時別の畑に行くかの決断をしなければなりません。しかし別の花畑では別のグループが同じようなことを考えているのだろうし、そうなると、もう止めて巣に帰ろうとする怠け者やまだきっといいところがあると考える強気のもの、みんなが行くなら自分も行くとか、文句ばかり言ってけなすのが得意なものなど、人間社会と同じように色々な性格があっても良さそうです。
 私は菜の花畑の中にしゃがみ込んで下から空をバックに菜の花とミツバチたちを眺めていました。
<ここで終わっています。締めを書こうとして、そのまま忘れてしまったようです。>

★コメント
 私は菜の花畑が好きです。子供の頃の記憶と重なるからでもあるでしょう。菜の花畑に寝転んで空を見上げると哀しいほどの懐かしさに包まれることがあります。むっとする菜の花の香りと暖かい日差しを浴びながらみる青空が遠い記憶を呼び覚ますのでしょうか。ただ、ぼぉーとしているだけですが、自分の畑でそれが楽しめるのは恵まれていると思います。
 子供の頃に菜花を食べた記憶はないのですが、その頃の菜花は菜種油を取るために栽培されていたのではないかと思います。だから菜花を食べてしまったら種はできないから食材にはしなかったのでしょう。だけど小学校の修学旅行で奈良に行ったとき、そこで出された弁当に菜花の漬物が入っていたことを覚えているので、地域によっては食べていたようです。
 私が菜花を調理し始めたのは学生の頃からですが、最初は先の方だけ摘み取っていました。友人の畑で20cmくらいの長さに摘んでいるのを見て驚きました。こんなことでも最初は分からないものなのですね。今はぽきん折れるところまでなら大丈夫なようで、手で探って摘んでいます。
 食べ方は色々ですが、塩漬けにしたものが一番うまいと思います。このところ「塩」の力は凄いと感じていて、少しの塩に2~3日漬けるだけでおいしくなるのには感動します。保存が目的ではないので塩の量はそのまま食べられる程度の少量にしています。この2,3年、ようやく自分なりの調理法を見つけ出すことができるようになりました。
 今、畑では菜花が本葉を出したところです。種を播く野菜もありますが、多くは自生してくるので畑はあちらこちら冬野菜だらけです。邪魔になる草を取りながら野菜の芽を見つけると嬉しくなります。自然に生えてくるものが好きなんですね。それらを活かすようにするので畑はぐじゃぐじゃで野原状態になるわけです。雑然としたものが好きなところは「無為自然」の道教にも通ずると言い訳をしています。
2023年10月20日

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山のコンサート

2023-09-19 14:57:43 | 「遊去の部屋」
<2002年6月2日に投稿>
 私はよく山で一晩を過ごします。テントを張ることもあれば車の中で寝ることもあります。たまには真っ暗な森のなかでただじっとしているだけということもあります。若いときには山は登ることが目的でしたが、だんだんと歩くことが自体が楽しくなってきて、それからは気持ちのいいところを見つけると、そこで昼寝をしたりして過ごすことが多くなりました。
 あるとき谷川の小さな川原でキャンプをしていました。石を積んで作った炉で飯を炊き、食事は日の暮れる前に済ませます。とういうのは暗くなってしまうと、炉の火にしてもランプの明かりにしても下から照らすので、肝心の食器の内側は暗くて見えないのです。その上、辺りが暗くなってそこだけに明かりがあるわけですから山じゅうの虫が明かりを目指して飛んできます。そうなるともう何を食べているのやら分かりません。
 晩飯のあとはコーヒーです。これは山用に家で粗さを調節して挽いたものを使います。コーヒーを入れるにも道具がないから家でやるようなわけにはいきません。そこで多少の工夫が必要になるわけですが、これはまた別の機会に回しましょう。
 夕暮れが近づいてくると森は急ににぎやかになってきます。鳥たちが鳴きながら盛んに飛び交い餌を取るからです。これは、おそらく、夕方になるとたくさん虫が飛ぶのでそれを目当てに鳥が飛び回るということでしょうが、この短い時間が過ぎるとすうっと鳥のさえずりが治まって夜になります。
 辺りが暗くなるともう動くことはできないので広げたシートの上に寝転んで水の音やら風の音やらを聞いて過ごします。この季節、つまり初夏の頃は河鹿蛙の声が特にきれいです。まさかこれが蛙の声とは誰も思わないでしょう。初めは何の声かわからず、秋でもないのに虫の声とは奇妙だと思っていましたが、それが蛙の声と分かったときには多少がっかりしたところもありました。あまりにも美しい声なのでそれにふさわしい可憐な生き物を期待するのは無理もないことだと思います。
 この季節は蚊もまだ少ないので過ごしやすいのですが、必ずぎょっとさせられることがあるのです。それは闇の中にすうっと光が現れては消えていくからで、もちろんこれは蛍ですが、一回目にはいつもドキッとさせられます。シートの上にはコーヒーやらお菓子やらが手の届くところに置いてあるので暗闇の中で飲んだり食べたりしながら水の音に混じって聞こえてくる様々な音を聞いて楽しんでいます。星もきれいです。気分が辺りの雰囲気になじんでくると楽器を取り出して鳴らしてみることもありますが、だいたいは静かなのが一番です。
 この日はたまたまウイスキーがあったので炉の残り火でツマミを焼いて一杯飲みながらウクレレを弾いていました。ランプは少し離れたところに炎を小さく絞って置きました。というのは明るくすると光の届くところはよく見えるのですがその外側は全くの暗闇になってしまい回りの様子がつかめなくなるからなのです。逆に明かりを消すと次第に闇に目が慣れてきて森の中でもかなり見えるようになるのです。回りが見えると恐怖心が薄らぐので、変な話ですが火を焚けば焚くほど闇は濃くなり恐怖心は募ることになるのです。
 しばらくしてふとランプの方を見るとランプのすぐ横に蛙が一匹来ていました。じっと座ってこちらを見ています。私は蛙が演奏を聞きにきたとは思いませんでしたが、もしそうだとするとおもしろいので、その蛙を観客にコンサートを始めました。ところが1時間たっても2時間たっても蛙は動きません。じっとこちらを見たまま喉の皮をひくひくさせているだけなのです。蛙というのは実に忍耐強い生き物だということをこのときに知りました。そのうち私も蛙のことは忘れてウイスキーを飲みながらウクレレを弾いていましたが、1時間くらいたってふと蛙の方を見るともうそこには何もいませんでした。とうとう行ったかと思いましたが少々さびしい気もしました。妙なものです。それからまたウクレレを弾きかけたのですが、今度はもう何だか張り合いがなくなってしまいました。それで片付けて寝ようと思い、もう一度ランプの方を見るとさっきとは反対の側の方に蛙がいるのです。体はやや斜めになってはいるもののやはりこちらを見ています。私はもう疲れていたので弾きたくなかったのですが、それでもせっかくなのでアンコールを一曲やって終わりにしました。
 次にそこへ行ったときは蛙が出てくるかどうか楽しみでした。日が暮れてランプを点けるとしばらくしてまた蛙が出てきました。すぐ後ろの芦の茂みにでもいたのでしょうか。私はうれしくなってこの日もずっと楽器を弾いたり歌を歌ったりしていましたが、蛙はその間中ずっと座ってこちらを見ていました。
 その次のときはランプを自分から2mくらいのところに置きました。さあ、来るだろうかと期待していましたが、何と、この日は2匹も出てきました。相変わらず喉の皮をひくひくさせています。しばらくして蛙たちが時々体の向きを変えてはまたこちらに向き直るのに気が付きました。何をしているのかなと思って注意しているとすぐに謎は解けました。蛙たちはランプの明かりに集まってくる虫を食べていたのです。ランプに虫が飛んできてぶつかるとひょいと体の向きを変え、虫と真正面に向かい合い、ぴゅっと舌を伸ばして虫を取っているのです。なぜ体の向きを変えるかというと蛙は首を曲げることができないからなのです。だから蛙は常に相手と正面対決をする生き物なのです。この点は私も見習わなければいけないと思いました。そして食事が終わるとまた私の方に向き直り何事もなかったかのようにじっとこちらを見続けるのでした。つまり、蛙たちにはディナーショーだったわけなのです。
 蛙が出てくる本当の理由は今も分かりません。去年は出て来ませんでした。谷川は美しい声で溢れていましたが、蛙は出て来ませんでした。今年はどうでしょうか。ぜひ出て来て欲しいものだと思います。
2002.6.2


★コメント
 この話は、後に、「谷川の小さな河原のコンサート」としてギター朗読作品にしました。そしてコンサートで発表しているので録音があるはずだと思い、捜してみました。すぐに見つかりました。2017年4月23日となっています。ということは6年前になるわけですが、聴いてびっくり、ひどすぎです。この録音を聴かなかったら「うまく行った」と思っていたことでしょう。記憶というのはこのように美化されていくのかと思いました。もしかすると、コンサートの後、録音を聴いていない可能性もあります。最近感じていることは、録音中に聞いている音と、それを再生して聞く音との間にかなりの違いがあることです。自分で「できた」と思っても録音を聞いてみるとできていないということが普通にあります。演奏時に迷いがあり、そのため表現が際立ってこないこともあります。中途半端なデフォルメは意味をなさないことが殆どですが、自制心が働くためそうなってしまうのでしょう。歌舞伎の隈取りを見るとよくここまで来たものだと思います。
 今回録音を聞いて、これは作り直しだなと思いました。それを楽しめるなら一番いいわけで、できればユーチューブに上げて終了ということもできます。その日が来るのかどうかは分かりませんが…。
2023年9月19日


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