東京滞在2日目。新橋の宿屋・松元屋に一泊したイサさんたち三人。
ここから更に様々な方々が登場します
『都見物日記』(四)‥‥ ②
五・二 松元屋にて六時過に起き、今日は天気よし。七時過に飯たべ候。 汁と皿は筍、蓮の根、豌豆(※エンドウ)、くわいと烏賊、此品にて候。お平は蛤也。のぞきに ゆばのしめたるもの、小皿に漬物也。昨日はここに着きたる時、茶とせんべ、其せんべは しお気有之、鹿児島には無き味あり。今日は私も気分宜敷く、昨日は汽車にて終日ゆられ候故か 頭痛致し あしき気分にて候いしも、今日はさえざえ敷事にて候。
八時前に宿屋をかえ、京橋区加賀町17番地 和田いくやどへ参り候。程なく 麻布永坂島津氏お染様の所へ三人とも連れたち参り上(アゲ)、いろいろと珍らしきやぼ蕎麦ご馳走などいただき、酒いただき、折角の思召にて候間 そばもたくさんに御遠慮なく頂き、暫くお話し申上候。 何かいろいろの事もおはなしいたし度候へ共 奇妙頂来(キミョウチョウライ)に言葉が出る故 気の毒に有之候事
また帰りには愛宕山、芝公園 増上寺見物いたし、夫より小刀、鋏など買入れ帰り候て、ゆるゆると内に致し居り候へば、一寸 永吉の(※)久良賀野辰彦様と水上(ミッカン)の野元彦十郎様のお出、夕ぐれより八時過に御立ち遊され候。久々にてお喜びの事に候。 こちらのそば御馳走いたし候。九時過には皆々いね候。
「麻布永坂島津氏」とは、以前『【第5話】麻布永坂島津氏のお染様』で書きましたが、「佐土原島津家」の屋敷が麻布永坂にあり、明治23年のこの頃は、「香蘭女学校」が屋敷の敷地の一部を30年契約で借りているようですが、正にそこへ三人連れ立って参上仕ったわけですね
☆「香蘭女学校」のHPより↓
「 香蘭女学校創立時の敷地は、東京府麻布区永坂町1番地の、子爵島津忠亮(しまず・ただあきら。1849年~1909年。日向・佐土原藩主の島津忠寛の長男。貴族院議員。)邸の一部1,644坪を1888年に30年契約で借りました。(1,702坪説もあり) 」
「奇妙頂来(キミョウチョウライ)」とありますが、「帰命頂礼」の音に乗っけてあるのでしょうか? 「頂来」は当て字?
「頂礼」は「五体投地」を意味するらしいので、ここは「奇妙」の音を引いて意味の違う四字熟語に乗せてみたのでしょうね。お茶目というか、ユニークなイサさんですね
また、これには明日、後日談があります お楽しみに〜
以前書いた『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様』でも紹介しましたが、「九良賀野辰彦様」とは、川上イサ&栗川轟の従兄弟にあたる人らしいです。
二人の母親・タネの実弟・島津久籌(島津登の長男) が永吉島津家を継いでいますが、辰彦はその息子の一人(三男か四男)で、『島津家家臣団系図集 下巻』によると、経緯はわかりませんが「九良賀野」を継いだ人のようです。
※ ここでは「久良賀野」となっていますが、このあと再会した5月15日では「九良賀野」と書かれています。
ご自分の長男・久良さんの名前から、ついこの文字を書いてしまったのでしょうか
※ 「永吉の」 とありますが、鹿児島市にある「永吉」の地名のことなのか、それとも「永吉島津家」を指すのかは不明です。 「水上(ミッカン)」は、やはり「水上坂(みっかんざか)」という場所があり、地名のことだと思われますが、、。
この「野元彦十郎様」については、まだよく分かりません。 → これについては後日わかりました↓↓↓
こちらをご覧ください →『水上の野元彦十郎様も(2020-06-23 13:45:22 )』('20.9.29 追記)
「水上坂」‥‥‥ 地元では「みっかんざか」と呼び、坂の登り口には「水神様」があります。
鹿児島城から続く街道の途中にあり、参勤交代でも使われた道です。
確か大河ドラマ『西郷どん(SEGODON)』でもその名が出てきたように記憶します。