☆こちら→「ブログに込めた想い-1」からの続きです
前回終わりにお話した、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの記事ですが、新聞社のHPではバックナンバーが見られないようですね。
*">南日本新聞ホームページ(折角なので、奄美関連のニュースをご覧下さい)
*「南島雑話」に関してはbizaさんの『幕末奄美遠島生活』('08 1/7版)にも以前紹介がありましたので、
こちらをどうぞ。→鹿児島大学の資料閲覧ページです。
記事を切り取って保管していたこと自体はっきりとは覚えていませんでしたが、母は既に他界していたので、当然父と私のどちらか、あるいはふたりで読んだということでしょう。
‥‥とここまで書いて、自分で切り抜きしたことを思い出しました。
とうとう記憶が曖昧になるような年齢になってきたようです。
で、その記事には「保管していた原口泉鹿児島大学教授を通じて
"子孫から"名瀬市に寄贈された。」とありました。
この時点で私は、現在もご存命の左源太の子孫の方が原口先生に依頼なさって、保存してこられた左源太のゆかりの品を名瀬市へ寄贈なさったのかと思ってしまったのですが‥‥。
続いて記事には、「史料は昭和初期、名越の遺族から鹿児島市の研究者に委託され、四十年ごろ研究者から故 原口虎雄さんに委託。虎雄さんが六十一年に亡くなり作業は中断していた。」とありました。
う~~~ん。。この昭和初期に委託した「名越の遺族」とは一体、‥‥誰なんだろう??
この記事について父とも話したのですが、父によると、南島雑話のことが話題になった当時、父の父親(私からすれば祖父)が、「"あれ"が手元にあれば左源太関連のものを渡せたのになぁ‥‥」と言っていたことがあるそうです。
"あれ"とは、終戦で台湾から内地に引き上げる際に現地の知り合いにウチの家系図だとか諸々を預けたのだそうで、左源太の書いた(描いた)ものも含まれていたのかもしれません。
父も父親から、曾祖父である左源太の描いた絵(『遠島録』にあるような感じの墨で描かれた絵や書き付け)を見せてもらったことがあったと言います。
祖父・篤彦は左源太(泰藏)の次男・轟の子供(長男)で、昭和23年1月に鹿児島市で亡くなっています。
永井亀彦氏の『高崎くづれ 大島遠島録(名越左源太翁遠島日記)』の発行は1934(昭和24)年11月(その前に自費出版された『高崎崩の志士 名越左源太翁』は1949(昭和9)年12月)なのですが、発行前にすでに話題になったということなんでしょうか?
話を少し戻します。
更にその新聞の関連記事をよく読んでみたら、「"(左源太の)子孫の快諾を得て"本当のふるさとに戻った。」とも書いてあったので、やっぱり現在ご存命の子孫の方が他にいらっしゃるということではないかと。
ではウチにもおいでになったことのある内村さんかしら?と思うのですが、ご本人にお訊きする機会を今だ逸している訳です。。
*続きは「ブログに込めた想い-3」で。
前回終わりにお話した、2001年4月11日の南日本新聞朝刊に載った「南島雑話 史料 名瀬に里帰り 名越左源太の子孫が寄贈」という見出しの記事ですが、新聞社のHPではバックナンバーが見られないようですね。
*">南日本新聞ホームページ(折角なので、奄美関連のニュースをご覧下さい)
*「南島雑話」に関してはbizaさんの『幕末奄美遠島生活』('08 1/7版)にも以前紹介がありましたので、
こちらをどうぞ。→鹿児島大学の資料閲覧ページです。
記事を切り取って保管していたこと自体はっきりとは覚えていませんでしたが、母は既に他界していたので、当然父と私のどちらか、あるいはふたりで読んだということでしょう。
‥‥とここまで書いて、自分で切り抜きしたことを思い出しました。
とうとう記憶が曖昧になるような年齢になってきたようです。
で、その記事には「保管していた原口泉鹿児島大学教授を通じて
"子孫から"名瀬市に寄贈された。」とありました。
この時点で私は、現在もご存命の左源太の子孫の方が原口先生に依頼なさって、保存してこられた左源太のゆかりの品を名瀬市へ寄贈なさったのかと思ってしまったのですが‥‥。
続いて記事には、「史料は昭和初期、名越の遺族から鹿児島市の研究者に委託され、四十年ごろ研究者から故 原口虎雄さんに委託。虎雄さんが六十一年に亡くなり作業は中断していた。」とありました。
う~~~ん。。この昭和初期に委託した「名越の遺族」とは一体、‥‥誰なんだろう??
この記事について父とも話したのですが、父によると、南島雑話のことが話題になった当時、父の父親(私からすれば祖父)が、「"あれ"が手元にあれば左源太関連のものを渡せたのになぁ‥‥」と言っていたことがあるそうです。
"あれ"とは、終戦で台湾から内地に引き上げる際に現地の知り合いにウチの家系図だとか諸々を預けたのだそうで、左源太の書いた(描いた)ものも含まれていたのかもしれません。
父も父親から、曾祖父である左源太の描いた絵(『遠島録』にあるような感じの墨で描かれた絵や書き付け)を見せてもらったことがあったと言います。
祖父・篤彦は左源太(泰藏)の次男・轟の子供(長男)で、昭和23年1月に鹿児島市で亡くなっています。
永井亀彦氏の『高崎くづれ 大島遠島録(名越左源太翁遠島日記)』の発行は1934(昭和24)年11月(その前に自費出版された『高崎崩の志士 名越左源太翁』は1949(昭和9)年12月)なのですが、発行前にすでに話題になったということなんでしょうか?
話を少し戻します。
更にその新聞の関連記事をよく読んでみたら、「"(左源太の)子孫の快諾を得て"本当のふるさとに戻った。」とも書いてあったので、やっぱり現在ご存命の子孫の方が他にいらっしゃるということではないかと。
ではウチにもおいでになったことのある内村さんかしら?と思うのですが、ご本人にお訊きする機会を今だ逸している訳です。。
*続きは「ブログに込めた想い-3」で。
https://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35/e/c0093f7f2fc2674ca62fa0d33e51160d
(二人とももう亡くなっていますが)昔、名越の子孫だと名乗りたいと、許可をとりに来た人がいたらしいです。
祖父は、もう40年くらい前に亡くなってますし(孫である私も生まれる前)、オッケーしたそうです。
と言っても、家系図があるわけでもなく、祖父もとっくの昔に亡くなってる今、ご先祖様が鹿児島で武士だかなんだか、有名な人だったらしい。。って、言われた~って程度の記憶だったんですが、今日ふと思い出して、なんとなく検索してるうちに、こちらに辿りつきました。
もしかしたら、遠い親戚の可能性もあるかもしれないって事ですよね(^-^*)
少し前に娘が、外に刀持ったお侍さんが見えたと。。
あれ?って、思ってまた見てもやっぱりいたと。
あまり怖がってないので、ご先祖様かもね~なんて話してて、思い出したとこだったんですよね~。