最近の携帯の待ち受け画面は、これです。
表には「為 恵祥院殿菩薩」とありました。
「名越右源太篤烈」の名前がありますが、これ、どうやら左源太時敏のことらしいです。
「天保十一年庚子正月」とあり、その当時の名乗りなのでしょう。
右源太、左源太と記述も変わり、名前も「篤烈、時敏、時行、泰藏」と変わっているようです。
この写真は、4年前の2012年11月16日に撮ったものです。
「島津矢市郎 久敬」などの名前もあります。どなたかはわかりませんが、他に何組かの「夫婦」で寄進された石灯籠のようです。
これより前、2010年8月に頂いたコメントに「篤烈」は左源太では?というものがありました。
※こちら→「そもそもの始まりは」のコメント欄
その後、県の歴史資料センターの調査室長さんから頂いた『黎明館だより Vol. 30 No.2』(平成24年8月1日発行)の7ページに載っていて、父と連れ立って見に行ったところ、父の仕事関係での知り合いで私も面識のある方のお宅でした。訪ねた際はご本人は外出中で、息子さんから少しだけお話を伺う事が出来ました。
場所を言えば先方にご迷惑になるのでは?と思うので、資料にもある「メルヘン館の近く」とだけ。
いま、この「黎明館だより」を読んでいて気づいた事があります。
この寄進者7組の夫婦にある程度共通する人物に永吉島津家の庶流の「島津登」という人が浮かび上がるそうですが、
前に読んだ時にもちょっと気になっていて確認したところ、
この名前、左源太の妻、タネさんのお父上のようです。
以前内村八紘さんから頂いた資料によると、タネさんは島津登久包(ひさかね)の長女とあるのです。
そして、タネさんの実弟:島津久籌(←竹冠に壽:ひさとし)は永吉島津家を継いでいるそうです。
なので、おそらくそちらの関係なのでは?と思う次第です。
今年はあまり歴史探訪は出来ませんでした。五代(友厚)さんの誕生地に行ってみたくらいでしょうか。
犬も猫も亡くなって時間はたっぷりあるのだけど、何やかやとやる事はあるもので、雑事に追われて一年が過ぎようとしています。
以前、他のブログに書いたかもしれないけどここにアップしていない記事や写真とかもあるので、今後はそのようなものも紹介していく予定です。
それでは、また。