<真理探究と間断なき祈りという修行によって、実相の呼び水を行う。>
実相はもともとあるのだから
修行は必要ないという考え方がある。
しかし修行が必要な理由は
現象の心を高め
心の波長を実相の心に近づけるためなのだ。
そして井戸で呼び水を行う如く、
信と言葉と観にて
実相を鳴り響かせるためなのである。
これが真理の勉強と
間断なき祈りが必要な理由である。
(正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超)
修行は必要ないという考え方がある。
しかし修行が必要な理由は
現象の心を高め
心の波長を実相の心に近づけるためなのだ。
そして井戸で呼び水を行う如く、
信と言葉と観にて
実相を鳴り響かせるためなのである。
これが真理の勉強と
間断なき祈りが必要な理由である。
(正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超)
<人は泥団にあらず>(その2)
さらに又こう疑うかも知れない。古鏡を磨いて行くと、あやまって磨いて塼(瓦)にしてしまうことはないであろうかと。そんな馬鹿なことを今ここで考えてもはじまらない。「磨く」という行為を、それ以外の時に考えても、真実が分るものではないのである。だが、南岳の言葉は、まさに真理をついた説法であるから、この問答それ自体が「磨塼作鏡」の一部なのである。これが分るのは、そしてこれによって馬祖が悟りをうるのは、そこに塼ならざるもの、仏性があるからである。
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