新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「放蕩息子」のたとえ
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
始めに谷口先生のご文章を掲げ、
後で要点をまとめてみます。
人を祈りで癒すやり方です。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【その病人の居る場所が知られていないことは別に何らの障害にもならないのである。十数年間絶交していてその居所のわからないような相手に「調和と和解」の神想観をしたときに、相手の方から「和解の手紙」を寄越してお詫びして来たような実例もあるのである。吾々は唯一の神の生命の中に生活しているのであり、大宇宙の心の中に「大宇宙の心」の一部分として生活しているのである。吾が心の思うことは「宇宙の心」の一部分が思うことである。「宇宙の心」の一部分が思うことは、「宇宙の心」の凡ゆる部分で知られていることである。吾々はただ「宇宙の心」と共に思うだけで、それを成就せしめ給うのが「宇宙の心」の“はたらき”なのである。自分の力で自分の念を送念する場合には、自己の努力が必要であるが、自分はただ信じ、観るだけで好いのである。それによって「宇宙の心の創化力」が働き給うのである。】
上に書かれている谷口先生のご文章の要旨を
順序に沿ってまとめてみた。
こうしてみると
論理的に把握し易い。
1吾々は唯一の神の生命の中に生活しているのであり、
大宇宙の心の中に「大宇宙の心」の一部分として生活している。
2吾が心の思うことは「宇宙の心」の一部分が思うことである。
3「宇宙の心」の一部分が思うことは、「宇宙の心」の凡ゆる部分で知られていることである。
4自分はただ信じ、観るだけで好いのである。それによって「宇宙の心の創化力」が働き給うのである。
まずは雅春先生のご文章を初めに転載する。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【如何なる場合に於いても若し吾々が不快な出来事や、悲惨凄愴な出来事や、醜悪目を蔽うべきような出来事に出会わした場合には、かくの如きものは決して真実の実在ではない。それは単なる「見セカケ」の仮相に過ぎない。仮相は如何に実在するかのように見えても、それは非実在であるから存在するものではないと云うことを念じて、現実の姿が如何に実際めかしく見えようとも、その存在を否定しなければならないのである。重病だとか、不治だとか、危篤だとか云う感じがする時には、それを想念の中で極力否定して、無限の偉大にして善なる神の創造の前には、かくの如きものは結局「無」に過ぎないと強く思念して、自己心内の「病念」を清掃しなければならないのである。ひとたび、「彼の病気に憐愍の情を感じ、彼を可哀相だと思った以上は」彼の悩みは自己の内に摂取されたのであるから、「彼の病気は既に“わが心の内”にある」~これを浄める道はわが心内を実相円満の想念によって浄めるほかなないのである。自己の心内を清掃することは彼の病気を癒やすことである。吾々はどこまでも其の病気の実在を否定し、病気の醜(いや)しき形に同化するようなことがあってはならないのである。】
以上の内容を箇条書きにしてまとめる。
実相円満の“生命の実相”の原理で
不完全を癒す方法がはっきりと分る。
1どんな不快な出来事や、悲惨凄愴な出来事に出会わした場合にも、かくの如きものは決して真実の実在ではいと思う。
2無限の偉大にして善なる神の創造の前には、かくの如きものは結局「無」に過ぎないと強く思念して、自己心内の「病念」を清掃する。
3ひとたび、彼の悩みは自己の内に摂取されたのであるから、自己の心内を実相円満の想念で清掃して彼の病気を癒やすことである。
4吾々はどこどこまでも其の病気の実在を否定する。彼を完全なる“神の子”と想う。
新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「放蕩息子」のたとえ
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
吾々はふだん原因結果の「法則」が働いた結果のみをみています。
しかしそれらの形の奥の奥に
見えない存在である神の理念的存在を直感することがでます。
しかし直感はできてもまだ全的把握ではないのです。
これは投稿者の意見に過ぎませんが
神想観は、
純粋な“理念”、“生命の本当の姿”に焦点を当てて、
それと一体になり、
その素晴らしさを現成させるのであります。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【すべて「法則」とか「原理」とか生命とかいうものは、目に見えないものであります。誰も「神」を見たものもなければ、「生命」を見たものもないのであります。吾々が五官によって見るものは、「神」そのものではなく、「神の表現」であり、「生命」そのものではなく、「生命の表現」であります。吾々は自己に宿る所の「生命」の姿を見ることはできないのであります。「生命」は唯内的にそれを体験し得るに過ぎないのであります。吾々は原因結果の「法則」を見ることはできないのであります。吾々はただその「法則」がはたらいた結果のみを見るのであって、その原因である所の無形の「法則」なる心的存在を見ることはできないのであります。吾々には「美」そのものを見ることはできないのであって、美が現われている所の「形」を見るだけであります。その「形」を通してその奥にあるところの理念的存在たる生命、智慧、美、愛等の如きものであります。】