先日出したブログのことで
次の日、あれは「実相独在」の真理ではないのか?
と、自分で投稿したブログについて思い至ったのであります。
丸ごと再投稿します。
「真性の人間」「実相人間」「“神の子”」を観じ、自覚しよう。
2019/11/29
人間は完全なるものである。
神想観においては、
「完全なる“神の子”」を観じる必要があるのです。
「心の眼で観なさい」とあります。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【「実在」と云うものは「本当に在るもの」であって、「本当に在るもの」は消えないものです。消えるものは「本当に在るのではない」のであって、それは「仮にある」のです。化相とか現象とか申しまして「仮に現われている姿」であります。「現われの相」と云うものは「本当にあるものでない」のであって、永遠ではないのであります。「永遠に在るもの」こそ「本当に在るもの」であります。神の言葉で造られたところの永遠に消えないところの、「本当のもの」が実在なのであります。実在こそ永遠に必ずあるので、「本当にあるもの」は永遠に消えないのであります。人間も世界も「本当にあるもの」は滅びないものであります。「みこころの既に成れる世界」こそ永遠にあるものであって、本当にあるものは病気にもならない。年寄りにもならない。死なないものである。神様が一たび人間を造られ、その人間は「神の姿に造り給えり」と聖書にありますが、神の姿に造られているところの完全なる人間、それが本当の人間であります。】
ところで聖経『甘露の法雨』を復習します。
【或る日天使生長の家に来りて歌い給う-】
【創造の神は
五感を超越している、
六感も超越している、
聖
至上
無限
宇宙を貫く心
宇宙を貫く生命
宇宙を貫く法則
真理
光明
智慧
絶対の愛
これらは大生命―
絶対の神の真性にして】
以上は実相(実在)についての説明です。
以下は本来が実相の反映であるところの現象に、
実相が顕われた場合に現象がどうなるかを告げています。
【神があらわるれば乃ち
善となり
義となり
慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし。】
この聖経『甘露の法雨』の引用部分をごらんになると
理念である不可視の“生命の実相”が実体として
現象世界の裏に
メダルの表裏のごとく、
存在していることがわかります。
つまり現象はその裏に神が隠れていると
いうことであります。
ですから実在である「実相」を観じることが
神想観であります。