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これって「実相独在」?

2019-12-02 20:02:03 | 日記

先日出したブログのことで

次の日、あれは「実相独在」の真理ではないのか?

と、自分で投稿したブログについて思い至ったのであります。

丸ごと再投稿します。

 

「真性の人間」「実相人間」「“神の子”」を観じ、自覚しよう。
2019/11/29
人間は完全なるものである。

神想観においては、

「完全なる“神の子”」を観じる必要があるのです。

「心の眼で観なさい」とあります。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【「実在」と云うものは「本当に在るもの」であって、「本当に在るもの」は消えないものです。消えるものは「本当に在るのではない」のであって、それは「仮にある」のです。化相とか現象とか申しまして「仮に現われている姿」であります。「現われの相」と云うものは「本当にあるものでない」のであって、永遠ではないのであります。「永遠に在るもの」こそ「本当に在るもの」であります。神の言葉で造られたところの永遠に消えないところの、「本当のもの」が実在なのであります。実在こそ永遠に必ずあるので、「本当にあるもの」は永遠に消えないのであります。人間も世界も「本当にあるもの」は滅びないものであります。「みこころの既に成れる世界」こそ永遠にあるものであって、本当にあるものは病気にもならない。年寄りにもならない。死なないものである。神様が一たび人間を造られ、その人間は「神の姿に造り給えり」と聖書にありますが、神の姿に造られているところの完全なる人間、それが本当の人間であります。】           

 

ところで聖経『甘露の法雨』を復習します。

【或る日天使生長の家に来りて歌い給う-】

【創造の神は

五感を超越している、

六感も超越している、

至上

無限

宇宙を貫く心

宇宙を貫く生命

宇宙を貫く法則

真理

光明

智慧

絶対の愛

これらは大生命―

絶対の神の真性にして】

以上は実相(実在)についての説明です。

以下は本来が実相の反映であるところの現象に、

実相が顕われた場合に現象がどうなるかを告げています。

【神があらわるれば乃ち

善となり

義となり

慈悲となり、

調和おのずから備わり、

一切の生物処を得て争うものなく、

相食むものなく、

病むものなく、

苦しむものなく、

乏しきものなし。】

この聖経『甘露の法雨』の引用部分をごらんになると

理念である不可視の“生命の実相”が実体として

現象世界の裏に

メダルの表裏のごとく、

存在していることがわかります。

つまり現象はその裏に神が隠れていると

いうことであります。

ですから実在である「実相」を観じることが

神想観であります。


人を祈るときは自己心内の「病念」を清掃しなければならない。

2019-12-02 10:17:50 | 日記

実相独在の真理で

祈ることをして助けたい人は

誰でも身内とか知り合いにいるものである。

実相独在の真理を分ってくれば、

間違いなく

その観によって良き方向性は現われるはずだ。

真理の把握を徹底したい。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【「もしか治らないかも知れない」「自分の力の到底及ぶ處でないであろう」~こう云う疑念がある場合には、思念者は自分自身の心の中の恐怖や疑いを打ち消さなければ、真に効果ある治療を行うことは出来ないのである。即ち自分自身に対(むか)って自分の心のうちで次の如く念ずるのである。

「医者が如何に云おうとも、医者は人体の製造元ではないから、如何にせば人体を修復し得るかを知らないのである。生命力は、骨もなき卵細胞より骨を製造し、内臓のなき卵細胞より内臓を制作したところの製造元なのである。だから如何に骨に故障があろうとも内臓に故障があろうとも生命力は『無』からすら一切を創造し得るのであるから、故障を修理する位は何でもないことなのである。」】


思念者のすべきこととは?

2019-12-02 10:06:16 | 日記

この世は眼に視えないが

完全円満な理念世界だったんだ。

この事実をしっかり観によって

確立すべきなのだ。

今まで私は現象を在ると思って

とんでもない間違った生き方をしてきたなと、

反省しきりである。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【本当を云えば、思念と云うような特殊な技術的なものが必要な訳ではないのである。思念者は決して誰をも癒すのではないのである。すでにすべての人は癒されているのである。たれも「病気の人も不幸の人もないのである。」すべての人は神の子であり、病気も不幸もないのである。ただ自分が彼を病気であり不幸であると「観た」のに過ぎないのである。「観」を変えることが必要である。思念者がなすべき役割はただ神の造りたまうた実在の完全円満であることを観、それを不完全であり不健康であると観た間違いを懺悔し切り、無条件に実相の完全さの前に降伏することなのである。この懺悔が完全でないと存在を不完全であると云う観の幾分か残滓として残っていることになるから、実相の完全さがあらわれない恐れがあるからである。すべての不完全さは「実相」がその実質ではなく、「念」が実質であり、不完全なる肉体も環境も「念の影」であるから、それは真に実在するものではないのである。だから病気や不幸は「念の歪んだ影」であると云うことが出来るのである。そこで、この「念の歪んだもの」を心に描くことを抛擲(ほうてき)して、実相を正しく観る念と置きかえてしまったならば、実在の完全なる実相が再び現象界に輝き出ることになるのである。と云っても未だ嘗て「実相」の完全さは失われていたのではないのである。それは「久遠の実在」として久遠無滅に実在するのである。ただ太陽を雲の陰影が翳(かげ)らうように、歪められたる念の影がその表面を蔽う。】