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個人に宿る主観的意識を宇宙の主観的意識と一致させることによって、大いなる力を自分の欲する事物を実現するために活用できるのです。

2019-12-19 09:57:59 | 日記

人間の中に

「始めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」

の如き「神のコトバ」が宿っている。

人間は神のコトバの肉化であります。

そこで

宇宙の主観的意識(実相)と

個人に宿る主観的意識(神の子)が

重なるのです。

だから「実相を観じること」と

「神の子を観じること」は

一つになります。

つまり

個人の意識を宇宙の意識に

一致させればいいのです。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

<「宇宙の主観的意識」すなわち法則としての宇宙生命の働き>

【だから人間は、自分自身の責任において、自分の運命を定めるのであります。自分が自分の航海の羅針盤を握っていて、自分自身の舵をとって、行く先をきめるのであります。するとその方向へ流してくれるのは、大海原の無限の力であります。この大海原の力の如きものが大生命であり、決して祈りによって、左右されたり、愛憎によって左右されたりするものではないのであります。舵を向けた所へどんな舟でも流してくれるのが大海原の力であります。これが法則としての宇宙生命の働きであります。この大海原の如き普遍的な心をメタフィジカル・ムーヴメントの学者たちは、「宇宙の主観的意識」と呼んでいます。】

<宇宙の主観的意識は吾吾に宿って、「個人に宿る主観的意識」となっている>

【その主観的意識は吾吾に宿って、「個人に宿る主観的意識」となっているのであります。本来同じ意識が、宿っているのでありますから、互いに連関があり、個人が心に描くことは宇宙意識が自己の中に描くことであり、法則によってこれが実現するということになるのであります。】

<吾吾は宇宙の意識と接続線をつなげばいいのである>

【吾々は宇宙の意識と接続線をつなげばいいのであって、それによって、大いなる力を自分自身の欲する事物を実現するがために活用することができるのであります。宇宙の力は無限でありますから、どれほど多くの人たちが其の力に目覚めてそれを利用することになろうとも、吾々に与えられるところの力は決して減るということはないのであります。】


何に対してそのまま素直に従うかということが求道者の問題となるのであります。

2019-12-19 09:39:49 | 日記

キリストは弟子を遣わすときに

「「蛇のようにさとく、鳩の如く穏やかであれ」と云われたのであった。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【そこで何に対してそのまま素直に従うかということが求道者の問題となるのであります。自分の内に宿っているところの神性、仏性、その神性、仏性の囁きにこそ、そのまま素直に従うべきであります。尤も自分の内から囁いているものはみんな神性、仏性というものばかりでないのです。その内には或いは煩悩、迷いの心、執着の心もいろいろあるのです。そういう迷いの執着の心に素直に従って「私はそのまま素直に従ったのです」と、それを是認するわけにも行かないのであります。一寸学校をエスケープして映画でも見に行こうか、と内部の声が囁いても、その心に素直に従ったのではいけないのであります。そうすると自分の内部からの囁きでも悪魔の囁きもあれば神様の囁きもあることが判ります。外からの囁きにも、神様の囁きもあれば、又煩悩の囁きも悪魔の誘惑もあるのですから、キリストは「私が汝らを遣わすのは狼の中に羊を遣わすようなものである」と言われたのです。「蛇のようにさとく、鳩の如く穏やかであれ」と云われたのであります。それは必ずしも吾々が伝道に遣わされる、弟子が伝道の為に遣わされるだけのことではないのであって、吾々が人生を歩んでゆく時にも、狼の中に羊を遣わすようなものである。悪魔が囁いているのであるか、或いは神様が囁いているのであるか、それをよくよく判断しなければならないのです。その判断の基準となるものは何であるかというと、自分の神性、仏性を内部から出して来て、それに照らして見てよく批判しなければならないわけです。】