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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-12-15 23:01:42 | 日記

新約聖書「ルカによる福音書」
第15章  「放蕩息子」のたとえ
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 


旧我を棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生のしがらみに縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。

2019-12-15 20:56:42 | 日記

人生のしがらみに縛られるのは
もう嫌だ。
自由がないからである。
でも本当の自由を得るには、
実相を獲得する必要がある。
神想観をしっかりやろう。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【それには不適任だとかいう劣等感のすべての感情から反転して、わたしは、今自分の内に必要なすべての資質も能力も存在することを発見するのである。わたしは、今、わたしの内に、わたしの必要とするすべてのものを発見するのである。過去を放ち去るに随って、わたしは贖(あがな)うべき何ものも持たないことを発見するのである。また免れんとして逃げ出さねばならぬどんな業障も存在しないことを発見するのである。旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生のしがらみに縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。旧き習慣・悪癖の如きものは私を支配する何らの力をも持たないのである。環境条件等はわたしを支配するどんな力をも持たない。性格がどうのこうのといって私を支配することはできない。わたしはわが人生の主宰者である。わたしは今既に、そして永遠に完全であり、自由であり、円満無欠であり、それは変ることなき真実である。】


わが全身を“無限者の心”が貫流しつつあると観じる観法

2019-12-15 20:17:48 | 日記

人間はすでに“神の子”であり“実相”である。
素晴らしい世界のなかに吾々は
存在しているのであり、
その事実を知らないだけである。
フレッド・ベイルズがこう言って祈ったという「実相の中に居ることを観じる祈り」は
私たちが神想観をして実相を観じる際に
とても参考になる。
このように神の世界に居ることを心に想うと良いのである。
すでに神の国に存在していることを
受け入れる観である。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【フレッド・ベイルズは彼の著『人間の問題を解決する秘密の力』において、次の様に書いている。
『わたしは瞑想のうちに、自分の想念の最後の一筋の糸までもことごとく、わが全身のすべての細胞を貫いてわたしの全身を生かしてい給う神の“透徹せる健全の想念”の中に投げ入れたのである。
……わたしはわが内に神の構図の美しさを観るのである。言語を絶するその調和を観るのである。どんな障礙からも完全に自由なる実相を観るのである。神が瞑想によってこの世界を創造し給いし時、“すべて善し”と宣いしその息吹をわたしは今感ずるのである。心静かに、今、わたしは、天地を創造し給いし、“無限者の心”の奥殿にまします中核体の中に自分自身を投げ入れてそれと融合し、その“無限者の心”はわたしの心となりわが全身を貫流しつつあることを如実に知って、揺がざる金剛の平和を獲得したのである』】


2019年12月勉強会資料

2019-12-15 10:35:21 | 日記

1 現象の心を“実相の心”に合わせてそれに任せよ。
2 肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである。
3 人間は神から生まれた“神の子”であることを自覚しよう!
4 人間が「如来」と云うのは実在から生れて来たのであります。 
5 すべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならない。
6 あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質
7 現象の心配事を消す方法
8 現象の根底には見えない創造の神の理念が厳然と存在している。
9 イエスの「十字架」と、キリストの「復活」の本当の意味
 
 
1 神の力が吾われに流れ入ることになるには、現象の心を“実相の心”に合わせてそれに任せ切る必要がある。
2019/12/8
神の力はどんな時に私たちに流れ入ることができるか?
これは現在の私の課題である。
 以下のアディントン作の詩にヒントがあると想った。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【わたしは光である。
神はその光を通して輝き給う。
それは神と私とは“二”にあらず
一体であるからである。
わが居るところ、そして常に
神はわれを通して意志し給う。
わたしは恐れることも
みずから意志することも
計らうことも必要ではないのである。
されど、もしわたしが
絶対他力の無我全託の
力みなく、そのままの心になれば
神は、みずからの“はからい”を
わたしを通して実現し給うのである。】
「されど、もしわたしが絶対他力の無我全託の力みなく、そのままの心になれば、神は、みずからの“はからい”を
わたしを通して実現し給うのである。」
という部分が
神の力の流れ入る条件であると、
私は思った。
ところで“神の力”は
わたし達人間の本体実在であるから、
常恒の実在である。
だから絶対他力の無我全托というものを
“生命の実相”(宇宙創化の法則)に対して
心を合わせてそれにお任せするということに
他ならないのである。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【ベイルズ博士は宇宙創化の法則についてこのように書いている。
「宇宙創化の法則を簡単に要約して言うならば、人間は“心”という名の“河の流れ”に取り囲まれて生活しているのであって、ひとたびその人が起した想念が、その“心の河”の中に落ちると、その河の流れは間断なくその想念を“形の世界”にまで押し流して行くのである。その河の流れは人間に従属して仕えるのである。何故なら、その流れの本性というものは人間の想念を“具体的な経験”にまで翻訳する性質を備えているからである。その流れの力は限りなく、その流れの知る知識は無限であって、希望を実現する凡ゆる方途をもっているのである。それは極わずかの抵抗も躊躇もなく悦んで想念を具象化してくれるのである。それは“久遠の神”の創造の面であるのである」】
ベイルズ博士は生命の実相を想念して、その“、生命の実相”に無我全托をしたのであった。
【「わたしは瞑想のうちに、自分の想念の最後の一筋の糸までもことごとく、わが全身のすべての細胞を貫いてわたしの全身を生かしてい給う神の“透徹せる健全の想念”の中に投げ入れたのである。
『わたしはわが内に神の構図の美しさを観るのである。言語を絶するその調和を観るのである。どんな障礙からも完全に自由なる実相を観るのである。神が瞑想によってこの世界を創造し給いし時、“すべて善し”と宣いしその息吹をわたしは今感ずるのである。心静かに、今、わたしは、天地を創造し給いし、“無限者の心”の奥殿にまします中核体の中に自分自身を投げ入れてそれと融合し、その“無限者の心”はわたしの心となりわが全身を貫流しつつあることを如実に知って、揺るがざる金剛の平和を獲得したのである。』】
結局神の力が私たちが求めて流れ入るためには
1.   絶対他力の無我全托を行う。
2.   絶対他力の無我全托は“宇宙創化の法則”に対して行う。
3.   実相世界の素晴らしさを想念しその実相理念(神の子)に無条件無我で自己を預ける。預けるということは一切信用して任せるということである。
 
2 肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである。「実在」が生きているのである。神が生きているのであると自覚するのであります。
2019/12/4
ここは悟りの急所であります。
しっかり噛みしめたいと思います。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【こういうふうに「現象空無」を解くのでありまして、この見える世界をいったん夢の如く、幻の如き世界と否定してしまうのであります。しかし否定のままでは、「無い世界」に生活することはできない。そこで大否定の後に大肯定が出て来るのであります。それが即ち『甘露の法雨』にあるところの「肉体の奥に、物質の奥に、霊妙極まりなき存在あり。これこそ神に造られたる存在及び人間である」と書いてあるのでありまして、その実在の世界に、その実在の人間が生きているのであります。現象の空無がここでくらりと一転して、はかなき生命を生きていながら、永遠不滅・金剛不壊の実在生命を生きているのが自分だという事になるのであります。肉体を現わして、生活していながら、肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである。「実在」が生きているのである。‟I am”が生きているのである。神が生きているのであると自覚するのであります。「吾の置き換え」であります。この自覚の置き換わりがヨハネ伝3章にあるところの「新たに生れる」であります。「もはや生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚もそれであります。かかる自覚に於いてはキリストは如何なる病気といえども癒されないものはなかったのであります。そのキリストが自分の内に在って生きているという自覚が体験としてはっきりつかめますと、もはや病気はないのであります。】
 
                
3 人間は神から生まれた“神の子”であることを自覚しよう!
2019/12/09
人間は神の肖像(にすがた)として
神を実現するために神から生まれた“神の子”であるから
自分が“神の子”であることを自覚して
父なる神様から導きを受けて
“神の子”の生き方をするところに
本当の生きる喜びが感じられるのである。
“神の子”の自覚が生まれるまでは、
いわば放蕩息子であり、
不如意な生活ぶりを
するしかないのである。
この大切な自覚を得るために
『生命の実相』とか『真理』という聖典があるのだから、
これらのご本を一人でも多くの人に
読んでいただく必要があるのである。
この二種類の聖典の重要さは
他のどんなものよりも大なるのであって、
「いのち」というものは見えないけれど
これほど大切なものはないのと、
同様であるのである。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【フェンウィック・エル・ホルムス博士が、皆を指導するために念ずる言葉の形式は大体次の通りであります。
「吾が信仰は霊の科学の上に基礎を置くのである。宇宙に唯一つの原因者がある。唯一つの霊がある。唯一つの普遍的智慧がある。唯一つの道がある。道即ち普遍的法則がある。それを神と呼ぶのである。その唯一つの原因者が法則を通して物質と現われ、肉体と現われ、その他無限の変化ある形態をとって現われるのである。人間は神の自己表現であり、その実質は神の霊を実質としその心は神の心を心とし、神の本性と法則とを理解することが出来るのである。神の本性に一致し、神の法則に従うとき吾らは之を自己の健康に、幸福に、豊かな供給に又人類への奉仕に使う事が出来るのである。されば吾はただ最初の第一原因者なる神と関係を結ぶ事によって、神の智慧と一体となり、神の智慧に導かれ、神との意識的融合を完成せんとするものである。神の生命はわが生命である。神の愛は吾が愛である。神の愛は吾が中に宿り給い、吾と全人類を今、そして永遠に祝福し給うのである。」】
 
    
4 人間が「如来」と云うのは「真如」~真如というのは『マコト』本物そのまま実在です。実在のその儘のそこから生れて来た~来生して来たので、如来と云うのであります。 
2019/12/03
人間は実相からそのまま来ている存在です。
つまり実相そのものであるのです。
だけど気がついていないのです。
気がついていないことが現象苦の原因となるので
これは人に知らせないといけない。
私はこれを今後
やっていくつもりです。
谷口雅春先生が生涯やろうとしたことが
これなので、
私もそれをやります。
そのことが解りやすく以下のご文章で説かれています。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【病気を現わしていると云うのは要するに、本来明るい景色が憂鬱な感情から暗く見えるようなものであります。ただ人間の場合にはその生命波動が心の働きで既に影響を受けますから客観的にも生理的に健不健の影響を具体的にあらわすのであります。迷いの心の眼で以て観た場合に神の造り給うた自分の本当のすがたと云うものは覆われてしまって、或いは歪んでしまって、変にいびつに見えて、不快な姿に現れて来る訳であります。それが悟りの眼を以て、五官のレンズをかけないで、生命と生命とがカチカチ触れる底の眼で直接ものの本当のすがたを観た時に、此の人間は完全な歪みなきところの人間に見える。すなわち「神の子」の本来健全なる姿が見えるのであります。病人は本当は無いのです。神の理念に依って、理念そのものでつくられているのが人間であります。神の理念を言い換えると仏性とも神性とも申します。人間は仏性であり神性でありますから、未だ嘗て病気をしたこともなければ是からも病気をすることもない。また未だ嘗て迷ったこともなければ是からも迷うと云うこともない。ですから、人間は今迷っているのでも、これから救われるのでもない。初めから神の理念であり、神の「いのちの波」でありますから、その儘で如来である。「如来」と云うのは「真如」~真如というのは『マコト』本物そのまま実在ですね~「如」はさながら、実在のその儘のそこから生れて来た~来生して来たので、如来と云うのであります。】
 
5 すべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならない
2019/11/29
「すべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならない」
わたし達は現象を見ずして
実相を観るようにせねばなりません。
「物質を神と見る」のでなく
「物質において“視えない神”を観る」のです。
そうするとこの物質世界(現象世界)の実相は、
全部“神のいのち”だということになります。
一切が根底において神であり善なのです。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界たらしむる根本となるのであります。吾々は先ず自分自身の完全さを信じなければならないし、すべての人間を善であると信じなければならない。そしてすべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならないのであります。その正しき信念が確立して現象の世界に影を映してくる所の、自分の健康、周囲の人々の状態、環境、運命等が変ってくるのであります。】
 
6 われらが存在の実相を静観するとき、すなわち、あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感する。 
 2019/11/29
われらが存在の実相を静観する時、
何故ならそのとき「あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感する」と、
谷口先生はお書きになっています。
神想観のやり方を
もっと深くやろうと思います。
(参考 生命の実相第8巻「無限生命に汲む道」 谷口雅春著)
【しかしわれらが心の方向を一転して存在の実相を静観するとき、すなわち、あらゆる人、物、事の奥の奥の奥に横たわる円満具足の本質を観ずる時、われらの意識は実相を直感するのです。われらはあらゆる事物の実相に触れ、生命の実相に触れ、充たされ、またそれにとり囲まれていることを悟得するのです。われらは実相の生命の完全さを如実に見、自己の念の内に「神」なる人間の実相そのままのあらゆる善きものをもって充たすことになるのです。こうしますと、念の具象化の法則により、人間の実相~即ち「神」~に属するあらゆる健全なるもの、完全なるもの、善きものは、われらの全存在の隅々隈々にまで顕現するのです。】
 
7 現象的に心配事をすべてを神様に任せられるようになるには?
2019/12/11
たとえば体調というものは日々少しずつ変化するので
体の変化を気にしないようになると
すごく楽なわけです。
何かしら体に気になる箇所があっても
気にしないにはどうしたらよいか。
現象のもとになる自分の本体 “神の子”というものは
この現象の肉体を離れた次元に存在しているわけだし、
もっと明確に言えばこの現象世界の万象が
“生命の実相”つまり自分の“いのち”の表現であるので、
見えない“神”であるわけです。
そうなると見えない“いのち”であるところの
“神の子”に身を任せてしまえばよいわけで
その完全さを信じてしまえば、
それだけで自分の肉体のみならずすべて調うわけで、
何一つ心配は要らないわけです。
こういう心境に近づいてきたのは
神相観で実相に全托するようになってからです。
心配事を全部神様に委ねてしまえば、
心配事がなくなるわけで
現象的にも神様に任せられるようになってきます。
 
8 一切の創造は、それが秩序あるのだから、想念の産物である。想念の神なるものも迷いなるものもあるが、とにかく現象の根底には見えない創造の神の理念が厳然と存在している。
2019/12/12
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
一切の創造は想念の産物であるから
吾々は現象界の事物を観るにあたり
実相(神の言葉)を反映しているもの(真象)と
妄念(迷い心)の反映とを
見分ける必要がある。
勿論混在している場合もある。
人間は「自由」な心で
どちらをも生み出す可能性はあるが、
いずれにしても
創造の神の“実相の心”は
現象の根底に理念として厳然と存在している。
【一切の創造は、それが秩序ある限り、想念の産物であると云うことが出来るのである。偶然でないと云うことは、それは計画されたるものであり計画されたるものと云うことは、結局想念の中に描かれたと云うことにほかならない。想念が万物をつくり、想念が万物を変化するのである。「はじめにコトバあり、コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき」とヨハネ伝第一章の冒頭にあるコトバとは想念にほかならない。想念とは生命(いのち)の波動である。「はじめに想念あり、想念は神と偕にあり、想念は神なりき」である。ただし想念の神なるものもあり、想念の迷いなるものもある。想念の神なるものを理念と云い、神と偕にあるものである。想念の迷いなるものを妄念と云う、神と偕ならざる想念である。神と偕ならざる想念が跋扈(ばっこ)するにつれて、「コトバは神なりき」と神と偕なる想念を過去のものとして表現せざるを得なくなったのである。併し今や、新しき想念の科学の復興とともに、「コトバは神なり」と現在形態の表現を用いて好い時代が来たのであります。】
 
9 イエスの「十字架」と、キリストの「復活」の本当の意味
2019/12/13
キリストが十字架にかけられたことが
何を意味するのか、
雅春先生のご説明です。
すばらしい解釈です。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【そうした肉体の自覚を磔(はりつけ)につけた時に、即ち肉を十字架でクロス・アウトして、「本来なし」として打消してしまった時に、初めて実相の人間「霊なる人間」が復活するのであります。それがキリストの歴史的事実にシンボルとして現れている真理であって、「十字架」なるものは「肉の抹殺」であると共にそれは「復活」の印であります。十字はクロス×とプラス+の同時的存在のシンボルであります。詰りイエスはすべての人間に対して、人間の本体と云うものは、すべて神聖受胎であり、神のいのちが宿って来たものであって、肉のいのちだと思うのは嘘である。それをクロス・アウトした時に始めて本当の永遠のいのち、穢れないところのいのちが自覚されてくる。即ち肉のイエスが死んでキリストが復活して来ることを教えんがために出現せられたものであります。イエスの「十字架」と、キリストの「復活」なるものとを斯う云う風に生長の家では、説明しているのであります。】