新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「見失った羊」のたとえ
7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「見失った羊」のたとえ
7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
素晴らしいご文章がありました。ごらんください。
(参考 真理第二巻 第5章 健康・財福・繁栄の諸原則
<祈りの成就する根本法則>
真に自分の魂の底から、潜在意識さえも“それ”を求めていることが確かであるとわかりましたら、もう潜在意識からくる逆念はありませんから、早速、祈りに取りかかるのが宜しいのであります。その祈りを完全にするには祈りの根本法則を知らなければなりませぬ。即ち「汝ら祈りて何事にても求むる時、既にそれを受けたりと信ぜよ、然らば汝らこれを得ん」とイエスの教えられた法則であります。「既に受けた」と信ずることが必要なのです。肉眼で見たならば、まだ決してそれを得ていないにしましても、「それを既に受けた」と信ずるのです。この信念を確呼と持つには、肉眼で見える世界は「影」であって、その「影」の奥に「眼に見えない実体」があるとして、その実体を既に受けたと信ずるがよいのです。
(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
私たち人間は“神の子”の完全なる表現体である。だから
現象の吾れも実は神が本体だから完全なる存在である。
<吾々の本体は真理(キリスト)である“神の生命”であり、それは人間を通して常にたゆみなく表現されている>
【神の完全さは、神が最高完全に自己に肖(に)せてつくり給える人間なるものを通して常にたゆみなく表現されつつあるのである。キリストとは人間として“神の生命”が顕現せられたものであり、常に永遠に変ることなく完全にあらせられる吾々の実相である。】
<“神の子”は円満完全であってこのことは永遠に常恒不変なのである>
【神は“大生命”であり、大生命というものは完全であり、十全であり、欠けることなく円満完全であって、この事は昨日も今日も変ることなく、永遠に常恒不変なのである。この神の生命が人に宿ってわれらの生命となり給えるのであるから、外部の条件や環境などに依存してその完全さが変化するようなものではないのである。人間に内在して人間を通じてその実相を表現しようとしていられる神の完全性を、何ものといえども、傷つけたり妨げたりすることはできないのである。環境条件などというものは神に対して何の力もないのである。本当に実在する力は神のみである。】
1 多くの病気は、吾々の記億(業)の表現である。
2 肉体の健康を得るには「記憶」即ち業の蓄積を変えなければならない。
3 “科学的祈り”(神想観)により、業の蓄積を消すことができる。
斯くするとき「不快観念」の具象化によって発生していた諸種の病気が姿を消すのであってこれがメタフィジカル・ヒーリングの可能である根拠であります。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【多くの病気は、吾々の記憶(業)の表現であるということもできるのであります。病気の学説を読んで病気にかかり易くなった人々や、色々の外界の印象に対して起した想念そのままの形が肉体の病気の姿となって現われてきたりするのは即ちそれであるのであります。だから記憶は決して「過去」の蓄積ではないのであって、今現に生きているのであります。吾々の生命はその記憶心象を無意識神経系統(植物性神経)に蓄積して自動的に内臓、筋肉、又は血管等の運動を支配しているのであって、すべての記億は、この無意識神経系統の中に今働いているということができるのであります。】
【その理論がわかれば、無意識神経系統の働きによって栄養及び新陳代謝が行われている吾々の肉体に於いては吾々の記億の中にある所のある「不快観念」が具象化して癌腫の発生、粘膜の潰瘍、皮膚の発疹等々の状態が現われてくるのは当然のことだといわなければならないのであります。】
【かく吾々の「記憶」は今現に生きている。従って「肉体」の健康を得るには「記憶」即ち業の蓄積を変えなければならないのであります。新しき善き「記憶」を無意識神経系統に打電してその運動を新しき健全なるものとしなければならないのであります。斯くするとき「不快観念」の具象化によって発生していた諸種の病気が姿を消しのであってこれがメタフィジカル・ヒーリングの可能である根拠であります。】