新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「放蕩息子」のたとえ
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
新約聖書「ルカによる福音書」
第15章 「放蕩息子」のたとえ
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
存在するものは皆善それ自体である。
人間は皆善それ自体だと
(勿論根底においてです)、
感じられるようになってくると、
現象に捉われて悩むことがなくなります。
私もそうなってきました。
それと一緒に感謝の気持ちも出てまいりました。
実在するものは神の理念であると
分ってきたからです。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【何よりもまず大切なのは、実在するものは、神のみであるということであります。従って神より出でたる所のすべての実在は完全であるという事を信ずることが、自分自身を健康にし、自分の住む世界を幸福に楽しく愉快な善き世界たらしむる根本となるのであります。吾々は先ず自分自身の完全さを信じなければならないし、すべての人間を善であると信じなければならない。そしてすべての存在を神より出でたる善なるものとして信じなければならないのであります。その正しき信念が確立して現象の世界に影を映してくる所の、自分の健康、周囲の人々の状態、環境、運命等が変ってくるのであります。】
私の本体“神の子”は現象の奥にあって
永遠に変ることなく
完全であるということであります。
現象世界はなしで実相の世界があるのです。
素晴らしい真理です。
神相観でその“神の子”(実相)を観じたいと思います。
谷口雅春先生は
メタフィジカル・ムーヴメントの根拠となる所の哲学について
次のように書いておられます。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【この世界観によれば、現象世界の奥に「実相」又は実在の世界を認めるのであります。病気がよくなったり、経済状態が好転したり、環境が良化したりするのは、現象界の事であって、それは吾々の想念の反映なのであります。その想念の奥に、完全円満なる実相の世界があり、又完全円満なる実相の人間があるのです。「実相の人間」はたとい「現象の人間」が病んでいても、貧乏で苦しんでいても環境の不調和に悩んでいても、そのような病気も、貧乏も、環境の不調和も、「実在としてはない」のであります。実在の人間は完全である。そして実在のみ実在する。されば完全なる人間のみ実在する。実在は永遠に変ることはない。だから完全なる人間は永遠に変ることなく完全であると云うのであります。】