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私達は物質を見て一喜一憂するのではなく、物質世界に相対応して実在している法則(存在の実相)のみを実在とする観方を身につけると良いのだと思う。

2019-12-21 10:25:10 | 日記

宇宙のすべての形あるものに
それに相応する見えない法則の世界があって
それは唯一つの「心」であるということである。
これが実相世界であります。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
【此の一層偉大なる智慧は、此処に満ちていて、彼処には満ちていないと云うことはない。東洋の一角で行われる物理学の法則は、南洋でも西洋でも、如何なる極地でも一様に行われるのである。だから此の一層偉大なる智慧は宇宙全体に普遍的に満ちていると云う事が出来るのである。神は宇宙に満ちているのである。法則は宇宙に満ちているのである。法則は宇宙に満ちているのである。法則は智慧であり、秩序であり、神の創造の律である。】
【宇宙のすべての形あるものの外形は変化する。変化しない何物も存在しないのです。これを釈迦は「諸行無常」と云う語で表現したのである。まことにも一切のものは変化する、常恒なものは一つもない。常恒なるものは唯、その奥にある法則だけである。食卓にあった数個の林檎はもう食べてしまって存在しないであろう。しかし、それを支配していた物理化学的又は数学的法則は常に存在するのである。そう考えて来るならば、「物質」と云う頑として固い不変化のものは存在しないのであって、唯眼に見えない法則のみが存在すると云い得るでありましょう。眼に見えるもの、形あるものは、眼に見えない、形なき法則の顕現(あらわれ)に過ぎないのである。】


「肺臓への結核菌の侵入」と云うような「非存在」に対しては和解のしようはないのであります

2019-12-21 10:06:34 | 日記

生命の実相の真理把握に対しては、
いささかも妥協は禁物であります。
真理への妥協は
“いのち”を損なうことにつながるので、
絶対に和解できないのであります。
(参考 神癒への道 谷口雅春 日本教文社)
<「肺臓への結核菌の侵入」と云うような「非存在」に対しては和解のしようはないのであります>
【生長の家の実相哲学によりますと、結核菌が人間の肺臓を犯していると云うような不調和な状態は、神の造りたまうた実相世界(現象界はそれの不完全な投影である)には決して存在しないのであります。ですから、その「肺臓への結核菌の侵入」と云うような「非存在」に対しては和解のしようはないのであります。無いもの(非実在)に対しては和解のしようがない。ですから、結核菌が人間を冒しているような状態を、甘受して、「さあどうぞ入って下さい」と云うような考え方は、本当の和解ではないのであります。こう云う考え方は、「結核菌が人間を冒す」と云うような、相犯し相闘うような不完全な状態を存在すると見た上で、それを許すと云うような、和解の仕方であります。それは「生命」の「死」への譲歩であり、「実相」の「仮相」(不完全な現象)への譲歩であります。譲歩は決して和解ではないのであります。】
<「無いもの」に和解することは、、「無いもの」を無いと、そのままにみとめることであります。>
【真の和解は、「真に存在するもの」(実在又は実相)をそのままの相(すがた)に於いて見、その存在の美しく妙なる姿にそのままに感謝する事であります。「在り得べからざる状態」~結核菌が人間の肺臓を冒していると云うような状態をば、ありと認め、許し、それを感謝することではないのであります。かかる非存在には和解しようがない、「無いもの」には和解のしようがないからであります。しいて「無いもの」に和解することは、、「無いもの」を無いと、そのままにみとめることであります。即ち、「結核菌は人間を冒しているのではない」と正直にその非存在を非存在とみとめることが、結核菌に対する和解なのであります。】