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2018年10月勉強会資料

2018-10-19 11:23:03 | 日記
吾れ“神の子”なりの信念の形成が鍵
2018/10/18
「生命の実相」や雅春先生の聖典を
読み始めた頃には
素晴らしいことが書かれているくらいのことを
考えているのであるが、
実相を実現して現世において
幸福を得ることを目ざす段階になってくると、
「神の子の自覚」を確立することが
最終的な目標なのだと
分ってくる。
真理を体現する必要が
あるのである。
人間は本来“神の子”なのだから
“神”を
自覚するということである。
「吾れ神の子なり」の信念の形成が
成功の、幸福の、鍵となるのであって
これを一生かかって目ざすのである。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【兎も角「吾れ神の子なり」との信念が強烈に得られる時、吾等は「神は吾れになくてはならぬ物を求むるに先立ちて与え給う」と坐(い)ながら静かに黙念するのみにて、求むるものは自然の秩序を通じて、即ち何らかの現実的順序を経て吾等に与えられることになるのである。「神は汝らにとりて必需物(なくてはならぬもの)を求むるに先立ちて知り給う」「汝らわれを呼ぶに先立ちて、われ汝らに応えん」とは神の言葉であるのである。】

「真理」は渾一体
2018/10/17
真理は「すべてのすべて」でありながら、
同時に一つである。
「全」にして「一」なのである。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【この事を理解するには「真理」は渾一体であることを知らねばならない。「真理」は必然すべてでなければならない。何故なら「真理」ならざるものは虚妄にして無であり、“すべて”に無を加えても以依然として“すべて”であるからである。このことは真理は分ち難きものであると云うことを意味する。何故真理は分ち難きものであるかと言えば真理を幾個かの部分に分つためには、真理を区切るところの「真理ならざる夾雑物」がなくてはならない。ところが「真理ならざる夾雑物」は畢竟「無」であるがゆえに真に区画としては存在せざるものである。それゆえ真理は必然的に渾一体でなければならないのである。】

何が最高の心的態度か?
2018/10/17
今日の引用箇所には
私たちが持つべき心的態度について
雅春先生がお書きくださっています。
また神想観をする際の
根本の態度についても
お書きくださっています。
この態度で観をなせば良いのです。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【然らば、何が最高の心的態度であるかと云うことに関して疑問が起こるであろう。答えて曰く、それは一切が霊的実在であると云うことを意識的に確認する心的態度である。自己自身を霊として認むること、宇宙が想念又は理念の形象化したものであることを認むること、そして思考が一切のものを支配する力なることを認むること―これこそ最高の心的態度である。この理由のゆえに、すべて神想観をなすには「神はすべてであり。人は神の子であり、神のすべての性質を与えられているのである。従って人はすべての力を天においても地においても与えられているのである」と云う意味の想念を忘れてはならないのである。】

本当の自分(実相)に打ちまかせよ
2018/10/15
私たちは本当の自分(神の子・実相)に
全身心を打ちまかす必要がある。
そのためには
“人間神の子”の真理を
即ち「生命の実相」を
正観しなければならない。
真理の理解が中途半端では
残念だが正観はできない。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【新しき真理にまったく打ちまかせた状態こそ全く必要なのである。半ば真理であると云うことは全然虚偽であることがあるものである。臆病な出発ぶりは失敗の先駆者である。ゲーテはこう言っている―
かように不決断は手間どるほかに何もない
毎日毎日悩みながら、日は失われる。
いよいよ益々吾等が熱情的に健全の大道に身をいちまかすならば―すなわち吾等が信仰の海を航海する勇敢さの度が増すに連れて、吾等の成功の確実さは増すのである。それ故に、吾等のうちで、真理に対する熱心な狂熱的な信奉者が神の王国を獲るのである―それは勝利の戦いの褒賞である。】

潜在意識に残る罪の観念を一掃する
2018/10/12
自分の潜在意識に
罪の観念が少しでも残っている間は
恐怖・不安が意識上に浮んでくることがあるので、
「神の子円満完全」の真理に安住して
絶対安全の境地に至らないこともある。
だから潜在意識が浄まってくると、
「既に救われずみ」の境地に
すぐになれて安心できる日もあれば、
残っている恐怖心があるので神想観をしても、
すぐに安心の境地になりにくい日もある。
私はそんな日は何回か観を繰り返し、
絶対他力の観で安心できるまで全托に努力する。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【かくの如くにして、罪の存在、過失の存在、恐怖の存在、不安の存在等に関する思想をことごとく放棄し去ったのち、吾等ははじめて一切の事物は、吾等のうちと吾等の環境とにおいて完全に調和していることを、心のうち深く感ずることが出来るのである。吾等は自己を縛る一切の観念から解放されて、人間に完全なる自由を与うるこの真理を知って、今如何に自由であるかをしみじみ瞑想すべきである。吾等は自己が神の子なることを知って実に悦びに満たされていると云うことを強く黙念すべきである。吾等は神の子として天においても地においても、神から全てを為す能力(ちから)を与えられているその実相をしみじみ黙念すべきである。そして吾等は父なる神と完全に結ばれているが故に、イエスの為し給いしことよりも大なる業を為し得るものであることをしみじみ自分自身の心に告げよ。】

自己自身を父と一体なりと描き得る者のみ、天的なる力が与えられるのである
2018/10/11
私たちは
自己自身を父と一体なりと、
描く必要がある。
自分自身の人間としての変革が必要だ。
本来そうである神の属性を取り戻す必要がある。
愛の人となる必要がある。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【水源のない河はあり得ないし泉から湧き出ない渓流はないのである。水なしに噴泉は湧き出ではしない。また風なしに帆船は航行し能(あた)わない。調車(プ―リ―)は調革(ベルト)なしには回転しないし、水車は水流なしには廻らない。そして電燈は光なしには輝かない。しかしそれぞれ本源と結合する時、河は流れ、泉は湧き出で、舟は航し、調車は回転し、電燈は「家に棲める凡ての人々に光を与えるのである」。吾等は目を挙げ、のぼり行き、山頂に行き着き、そこにて神と結ばれて神そのものと変貌するのである。吾等は見えざる力と結ばれなければならない。その時はじめて天的なる力が吾れを捕え、それを所有し、われを動かし、われを使うのである。その時吾等は神の力の入口となったが故に神の有ち給える凡てのものの出口となることが出来るのである。その日にはまことに神の力が現れて、「盲(めしい)たる者はこの世の光を見、跛(あしな)えたる者は道を歩み、癩病者は浄められ、貧しき者は天国にあげられ、罪なき者は幸福を与えられ」るのである。これらの事は信ずる者につき従うべき休徴(しるし)である。しかし先ず吾等は見えざる力と結ばれねばならない―挙げられたる者のみが高くあがることができるのである。
かく、自己自身を父と一体なりと描き得るもののみ、天的なる力が与えられるのである。】

「彼等は勝ち得ると思うから、勝ち得るのだ」
2018/10/10
私たちに必要なのは
「勝ち得る」という信念である。
「勝ち得る」という信念を持てるのは
人間が“神の子”(神)であるからである。
一番大事なのは
「現象ナシ実相あるのみ」の真理の把握である。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【「彼等は勝ち得ると思うから、勝ち得るのだ」とヴァ―ジルは叫んでいる。勝ち得ると信ずる自信力は戦いには是非必要である。吾等は一日じゅう勝利者の心を以って遣り通さねばならない。「スタートがよいと半ばは勝利である」とは真理を穿った言葉である。吾等は目が覚めると直ぐ、その日を手中に握ってしまわねばならない。偉人と言われる者は凡て目標を高きに按いて突進した人のみである。と言うのは、人は一事物を成就せんとするには先ず大いにそれを望めねばならない。そして、それについて大決心をなすほどの事物でなければ、それを成就したとて価値がないからである。吾等は今日勝つと決意しなければならない。】


吾れ“神の子”なりの信念の形成が鍵

2018-10-19 10:04:52 | 日記
「生命の実相」や雅春先生の聖典を
読み始めた頃には
素晴らしいことが書かれているくらいのことを
考えているのであるが、
実相を実現して現世において
幸福を得ることを目ざす段階になってくると、
「神の子の自覚」を確立することが
最終的な目標なのだと
分ってくる。
真理を体現する必要が
あるのである。
人間は本来“神の子”なのだから
“神”を
自覚するということである。
「吾れ神の子なり」の信念の形成が
成功の、幸福の、鍵となるのであって
これを一生かかって目ざすのである。
(参考 人生は心で支配せよ 谷口雅春 日本教文社)
【兎も角「吾れ神の子なり」との信念が強烈に得られる時、吾等は「神は吾れになくてはならぬ物を求むるに先立ちて与え給う」と坐(い)ながら静かに黙念するのみにて、求むるものは自然の秩序を通じて、即ち何らかの現実的順序を経て吾等に与えられることになるのである。「神は汝らにとりて必需物(なくてはならぬもの)を求むるに先立ちて知り給う」「汝らわれを呼ぶに先立ちて、われ汝らに応えん」とは神の言葉であるのである。】