gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

人類光明化運動は超越的内在の神性または仏性の信仰が全てである

2014-09-19 15:28:41 | 日記
尊師谷口雅春先生が
人類光明化運動において意図したことは
超越的内在の神性または仏性(つまり実相世界)の信仰が全てであって、
決して現象的な運動ではなかった。
時に現象的な運動が必要な時期もあったが、
それが「主」であったことは
まったく無いのである。
であるから
人類光明化運動は宗教なのであって、
実相探求の求道がそこから失われるとき、
それはもはや
人類を人生苦から救うことなど
まったくできなくなってしまう。
いつでも苦しみ、悩みのあった時に、
そのような人たちを受け入れて真理を知らせる場所が
なくてはならないし、
必要な書物が
ふんだんに
そこになくては
ならないのである。
尊師がはじめに意図したことを
改めて思い起こそう。


(参考 生命の実相第39巻 谷口雅春著)
<生命の実相第39巻はしがき>
 このような超越的内在の神性または仏性の信仰こそ全人類を「一」(ひとつ)に結び合わす愛の紐となりうるのである。わたしは仏教家がすぐ言葉の端を捉えて有神論にケチをつけたがるのを悲しむ者である。有神論は結局、内在仏性論となるべきことは、「神の国は汝の内にあり」というイエスの言葉でも分かるのである。本書においては仏教とキリスト教(投稿者註~万教のことを暗に含む)とが結局「一」に融合すべきものであることを明らかにし、それによってイエスや釈迦時代の宗教的奇蹟の復活を可能ならしめ、かねてこの真理よりして、人類永久平和への道と、人類永遠至福健康への道とを具体的に開示せんとしたものである。


「この不思量底を思量せよ。不思量底を如何に思量せん。非思量なり」

2014-09-19 14:22:54 | 日記
実相を祈る、ということは、
どういう感覚であるのだろう。
神想観をやり続けてきているが、
今日、
良い資料をみつけた。
坐禅の究極である。

(参考 正法眼蔵を読む 三十七品菩提分法の巻 谷口清超著)
1<八正等支>
 次に「正思惟道支」は正しく実相を思惟して悟りに入る方法であり、この思惟をなす時、一切の諸仏が全て現れ出るのである。それ故、この思惟をなす時は、十方が現成し、一切諸仏が現れる。又、この思惟をなす時は、自己・他己を超えるのである。しかも釈尊はこの思惟をなし了(おわ)って、波羅奈国の鹿野苑に往かれ、5人の比丘たちに初めて説法をされた。そこで釈尊の思惟が説かれたのであり、この思惟が正伝され、吾々もそれを思惟するのである。古仏はこう説いておられるのだ。
「この不思量底を思量せよ。不思量底を如何に思量せん。非思量なり」と。
 この非思量こそが正思惟である。即ち思量を超えた実相を思量するところの「非思量」である。坐禅の蒲団(思量)を破り切ったところに「非思量」がある。これこそ「正思惟」である。