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教えている子供たちの成長

2014-09-01 19:24:01 | 日記
今日は
私が講師をしている学習塾の
2学期授業の
始まりの日だ。
ちゃんと6人来てくれたので
ほっとしている。
彼らは5年生であり、
5人が女子で
1人が男子だ。
今日の算数授業では
倍数と公倍数の指導をした。
4年生の時から彼らを教えているが、
この年齢の子ども達は
かなり急速度に
体が大きくなる。
子供子供していた彼らは
急に大人っぽくなってくる。
人間の時空世界における成長というものは、
実に面白く、
すごいもんだなと思うが、
実相人間が彼らの奥にはいるわけで、
それが
現象世界に展開しているのだ。
奥にある本体は
理念だから、
不滅だ。

「信」の必要性

2014-09-01 19:11:45 | 日記
この現象世界を
神の国(仏の国)と信ずる所から、
神に属する良きものが
現われてくるのであるから、
現象世界の奥の実相世界の存在を
“信ずる”ことが不可欠である。
理屈(はじめは理屈でもよい)ではなく、
ここに神の国ありと
信じられるようになってくると
しめたもので、
必ず現象は
好転してくる。
次の文章は
その「信」の必要性を
説いたものだ。
ところで「信」は
求道(真理の探究)から生まれる。

(参考 正法眼蔵を読む 三十七品菩提分法の巻 谷口清超著)
1<五根>
次に五根とは何であるか。
一に信根、二に精進根、三に念根、四に定根、五に慧根の五つを言う。ここに言うところの根とは、「根本」という意味で、信の根本は何かというと、自己や他己が働きかけるから信ずるというようなものではない。又自らが強いて要(もと)めるから信ずるのでもなく、自己が作り上げるようなものでもないのである。そうかと言って他人が持って来てくれる訳でもない。自分が立てた規則によって信が生れるのでもない。東西の仏祖が密(ひそ)かに授け与えられたものであり、全身心が信そのものとなるのを「信」という。仏は信と一つであり、信は仏と一体である。仏でなければ信は現成しないのだ。それ故『大智度論』には「仏法は大海の如く、信をもって能(よ)く入ることを得」と書かれている。およそ信の現成は、即ち仏祖の現成である。