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懸命に神想観を行う

2014-09-12 19:54:40 | 日記
神想観を
ぐっと深くできるように
なってきた。
神想観というものは
(真剣にだが)
続けているうちに
実相へ実相へと
入り込んでいくものであって、
多分これは
坐禅と同じだろう。
打坐また打坐を重ねて
悟りに近づくのは
まったく同様だ。
私は現在
夜に
雅春先生のCD利用で
2回神想観をやるが、
2度目には
実相に近くまで
行けていると思う。
これをやると
私が目標として祈っていることが
実現に近づいていくし、
私の健康の
本当の成就も
約束されている。
一族一門だけでなく、
周囲の人々を
本当に幸せにしようと思いつつ、
今日もこれから
真剣に
2度
神想観を行う。

そのままの心が、法爾自然な智慧の判別を行う

2014-09-12 16:27:22 | 日記
そのままの心が
正邪真偽の判別をおこなう。
実相そのままの心にしたがっていれば、
選択の失敗など
起こらないはずであるのだ。

(参考 正法眼蔵を読む 三十七品菩提分法の巻 谷口清超著)
1<七等覚支>
七等覚支とは、ここに掲げている七つであるが、正覚、即ち等正覚ともいう。悟りを得るための七つの修行法を「七覚支」、又は「七等覚支」と言うのである。
先ず「択法覚支」とは智慧の力でものごとの正邪真偽を判別する方法である。もし真偽の判別が少しでも狂っていると、その結果は天と地ほどの差が出てくる。そこでこの判別法は非常に大事だが、では難しい仕事であると思って肩に力を入れると、かえって間違うのである。至道無難、即ち当り前が至道であり、ただ「自(おのずか)らの揀択(けんじゃく)を要す」であって、揀択(けんじゃく)とは判別であり、そのままの心の揀択を要する。そのまま法爾自然に智慧の判別が行われるのである。