今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

織部の日

2007-02-28 | 記念日
今日(2月28日)は、「織部の日」岐阜県土岐市が制定。
土岐市 HPによると、”土岐市では、「織部」が史実に登場した2月28日を「織部の日」と制定し、毎年この時期に記念行事を開催しています。 美濃焼産業の基盤が築かれた時代に思いをはせ、「織部」に注がれた創造の精神をたたえ、広めようとするものです。”・・・とあった。
同市HPを見ても”「織部」が史実に登場した2月28日”・・・についての詳しい事は何も書いていないので、独自に調べてみると、それは、1599(慶長4)年2月28日に開かれた古田織部の茶会に招かれたときの様子が書かれている博多の豪商・神谷宗湛(かみや そうたん)の「宗湛日誌」によるものらしい。
神谷 宗湛は戦国時代から江戸時代前期にかけての博多の豪商・神屋家の6代目。1582(天正10)年、宗湛は島井宗室と共に上洛して時の天下人・織田信長に謁見、信長の保護を得ようとしたが、同年6月に本能寺の変が起こって信長が死去したため失敗。1586(天正14)年、再度上洛して今度は畿内の諸大名やの大商人・津田宗及らと親交を深めた。同年、大徳寺にて出家し、宗湛と号した。1587(天正13)年、信長死後に天下人となった豊臣秀吉に謁見。秀吉に気に入られ、豪商としての特権を与えられて以後は博多商人の第一人者として栄華を極めた。秀吉の九州征伐の資金的援助や朝鮮出兵時後方兵站の補給役を務め、晩年の秀吉の側近として活躍した人物だそうである。
宗湛の著作として、『宗湛日記』がある(宗湛日記参照)。これは、1586(天正14)年から1613(慶長18)年にかけての茶事に関する日記。つまり、宗湛が秀吉時代に活躍したことをまとめた茶会記であるが、秀吉政権の内部を知る上では貴重な史書の一つともされている。
その1599(慶長4)年2月28日の「宗湛日誌」に、「初出のセト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と記されているそうだ。これは、「ひょうげ(瓢化)た」というのは、「おどけた」「ゆがんだ」といった意味である。
織部焼と言えば、神谷宗湛が驚きをこめて「ヒズミ候也。ヘウゲモノ也」と記したとおり、強烈なデフォルメと不均衡の美を主張した奔放で奇抜な焼物。織部焼きには「青織部」「鳴海織部」「赤織部」「黒織部」「志野織部」「伊賀織部」「唐津織部」などがあるが、中でも最も一般的なものが青織部で、銅の青釉がかかり青い(緑)色が所々出ている。
この織部焼、織部流の創始者が、古田 重然(ふるた しげてる)である。一般的には茶人・古田織部(ふるた おりべ)として著名。「織部」の名は、壮年期に正六位下織部正の官位を叙任したことに由来している。(官制大観参照)通称は左介。
そして、2月28日の茶会で織部が使用した”ヘウケモノの器が後に織部焼と呼ばれるようになった。”・・・と言う事で、この茶会日を、記念日、「織部の日」としたのであろう。
古田織部は、1544(天文13)年、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれ、織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。その後、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕え、、摂津攻略にも参加。1576年(天正4)年には山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年(天正13年)秀吉が関白になると、織部正の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。その後、九州征伐小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して活躍した。
1582(天正10)年から千利休の書簡に織部の名前が見えるため、この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。
1591(天正19)年に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいになるのを恐れるなか、堺に下る利休を、織部と細川忠興だけが密かに淀の渡しまで見送りに来たことが、松井佐渡守康之宛の利休自筆書状に書かれている。(以下参考の茶の湯の楽しみ「利休」のページを参照。)
利休の死に、あい前後して、今井宗久(1593年没) や津田宗及(1591年6月没) らが没したことと相俟って、事実上、堺町衆茶頭の時代は終りを告げた。その後も、利休の子の道安や、女婿の万代屋(もずや)宗安、宗久の子の宗薫らが仕えるが、第二世代として存在感は薄い。そして、1598(慶長3)年、8月の秀吉の死のより、茶頭は完全に消滅した。その翌・1599(慶長4)年3月、利休の弟子で当時「茶湯名人」」といわれていた古田織部が奈良衆の招待を受けて、伏見から下向、あちlこちで歓待されたあと、初瀬を経て吉野山に登り、25日か26日に花見茶会を催している。同行者は小堀政一(遠州)など武将に京・境の町人たちである。このときの記録『松屋会記』によると、一行は「ニナイ(荷)茶屋」を持ち込んだが、それには「利休妄魂」と書いた扁額(へんがく)が打ち付けつけられていたという。単なる「亡魂」ではなく、「妄魂」とあるのが留意されるところで、秀吉が伏見城に没した8ヵ月後であることを考えれば、これは秀吉に気兼ねなく持つことのできた利休追悼茶会であり、救われなかった「妄魂」を鎮めるための茶会であったといえるようだ。(週間朝日百科「日本の歴史」)
織部は、その後、利休の地位を継承して、豊家の筆頭茶人となった.。
1600年(慶長5)年9月の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川派・東軍参照)に与した。しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通して全国の大名に多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615(慶長20)年の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿(かくま)ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したという。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。内通云々もさることながら、密かに織部の死を予言した大河内金兵衛(以下参考の「松平大河内家」参照)と言う人物がいたという。大河内金兵衛は、のちに”知恵伊豆”と才覚をうたわれた松平伊豆守信綱の父で、幕府側のイデオロギーを代表する1人だが、金兵衛によれば、織部は「世の宝を損なう人」であり、その理由は、「茶碗茶人などえおも疵(きず)なきをうちわりて繕(つくろ)ふておもしろしなという」非道をしたからだだという。織部は、天下の名物という既成の価値の秩序を認めない。無疵の名物の茶碗をわざと打ち割って、デフォルメするなかに己の美意識を主張する。そのやり方は、かぶき者達がお仕着せの秩序を認めず、己の意地を通そうとして、破滅していった軌跡と重なり合うという。(週間朝日百科「日本の歴史」)
下克上の論理を梃子(てこ)に新しく誕生した天下人は、その頂上を極めると同時に、今度は下克上の論理の鎖を断ち切り凍結しようとしたのである。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を認めない危険なかぶき者(かぶき者については、以下参考の「かぶき者たちの心象風景」を参考にされるとよい)的茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
長々と書いたが、肝心のことが後になってしまった。
このブログの字数制限でこれ以上かけないので、この続きは、以下をクリックして、見てください。このページの下に続きが表示されます。
→ 続・織部の日

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。