五十の手習い足払い

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山梨に住む新しモノ好きのオヤジが自分の趣味や日々の暮らしをつづります。

トヨタ2000GT、日本GPに挑戦

2012年05月30日 | ミニカー
私の好きなトヨタ2000GTが日本グランプリ(日本GP)に出走したのは、1966年の第3回グランプリ。
後にも先にもこのとき限りでした。

当時私は小学校6年生。
富士スピードウェイがオープンし、モータースポーツが一気に盛んになる年だったのかもしれませんが、山梨の片田舎の小学生までには届かなくて、リアルタイムではまったく覚えていません。
ちなみに、1966年は日産自動車とプリンス自工が合併を発表した年、サニーとカローラが誕生した年でもありますね。

さて、第3回日本GPはプリンスR380とポルシェカレラ6の激しいバトルが繰り広げられたことで有名なのですが、このときのポールポジションすなわち予選1位はニッサン・フェアレディSに乗る北野元選手でした。前日の予選は激しい雨の中で行われたため、ほとんどの車が速度を上げて走ることが出来なかったのです。

レースはプリンス・ファクトリーチームが素早い燃料交換を行ってプライベートのポルシェに先行し、結局ポルシェのクラッシュなどもあってプリンスR380が1位(砂子義一選手)と2位(大石秀夫選手)を独占しました。

一方2台出場したトヨタ2000GTはくっきりと明暗が分かれました。



カーナンバー15番の赤い車に乗った細谷四方洋選手は予選10位ながら60周360kmを無給油で走る作戦が成功して、市販車ベースの車としては最高位の3位に入賞しました。
前年の東京モーターショウで華々しくデビューした2000GTが走りでもその強さを実証したのです。



一方、カーナンバー17のトヨタ2000GTは田村三夫選手のドライブで予選2位と好位置に着けました。
しかし、決勝では強風にあおられて飛んできた新聞紙にラジエターをふさがれるというアクシデントがあり、わずか5周でリタイヤする結果になりました。

さて、田村選手は当初2000GTに乗る予定は無かったとのことですが、同僚(後輩)の福沢幸雄選手が練習中に火災事故を起こしてやけどをしてしまったためにカーナンバー17の車に乗ることになったのだそうです。
このミニカー・メーカーからは福沢選手が乗るはずだった“幻の福沢幸雄号”というのも発売されています(買ってませんが)。

さて、下の写真は日本GPの練習のために用意されたトヨタ2000GTです。本番用と異なり白い車体に線が1本入っているだけのシンプルな塗装です。



こちらも、細谷号、田村号、福沢号とあり、写真のものはダーク・グリーンがトレードマーク(カラー)だった福沢幸雄選手にちなんだ福沢号です。ちなみに私の買ったのは福沢号だけです。



これらの写真を見ると、日本GPに出走したトヨタ2000GTは市販車とは明らかに異なる形状をしていることがよくわかります。

※ミニカーはQ-Model製、1/43スケール。


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2 コメント

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Unknown (300SL)
2012-05-30 21:56:51
初めて2000GTを知ったのはかの有名な映画でした。
格好の良さは鮮烈に記憶しております。
加えて国産車と判りさらに吃驚。
実車を真近に観たのは数十年を経て博物館でした。
レースに出走していた事は最近まで全く知りませんでした。
ミニカーは楽しいですね・・・(笑)
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2000GT (のせ)
2012-05-30 22:40:30
初めて2000GTを見たときにその小ささに驚いたものです。そのくらい写真では堂々と写っていましたから。一度でいいから乗ってみたかったと思います。
って、まだその可能性は無くなってしまったわけではありませんが。
せめてミニカーを集めて並べることで昔の感慨に浸っています。
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