はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

『ヒタメン 三島由紀夫若き日の恋』岩下尚史著 ①

2020年11月24日 | 三島由紀夫

2020/11/24

 

三島由紀夫関係の著作は、石原慎太郎著『三島由紀夫の日蝕』を読んで以来、ずっと読み続けている。読むものすべてがおもしろく、興味は尽きない。

明日25日は三島由紀夫の50年目の命日ですから、何か書いておきたいと思います。

取り上げるのは、岩下尚史著『『ヒタメン 三島由紀夫若き日の恋』。

 

 
 

 

岩下尚史さんは「ハコちゃん」というニックネームで、ときどきテレビのコメンテーターで見かける方。日本の芸事に詳しく、いつも着物姿で独特の雰囲気を漂わせている。

その岩下氏が、三島の結婚前の唯一の恋人だったと言われている豊田貞子さんに聞き書きしたのが本書。

福島次郎のときも、〈これを書いてくれてありがとう、新しい事実を知った〉と思ったけれど、貞子さんの聞き書きも感謝です。

福島次郎は男性の恋人で、貞子さんは女性の恋人です。このあたりのことは、また別の機会に書きたいと思います。

まずは、この本の紹介。

貞子さんは赤坂の高級料亭「若林」の娘で、裕福なお嬢様だが、堅気の家とはちょっと違っていて、半玄人というのか花柳界も知っている。「若林」のお客は政界、財界の一流人たちなので、そういう人々との面識もあり、自然に社交術を身につけている人だったようだ。

初めて三島と会ったのは、19歳のとき、中村歌右衛門の楽屋であり、次には歌舞伎座前で偶然会い、三島から時刻と場所を書いた名刺を渡された。翌日、その場所に行ったことが交際のきっかけとなる。

 

本文から抜き書きします。

【引用】

 いつも、次に逢う場所と時間を書きとめた名刺を渡された。(p.40)

次に逢うのが・・・と云っても、ほぼ毎晩ですけれども・・・ 何時に、どこへ行けば好いのかは、その名刺を渡されるまで、全くわからないわけです。 ですから、わたくしとしては、明日からの予定を決められなかったんですの。

とにかく、「好きだ、全身全霊で君に惚れてるよ」なんてことばかり言うわけですよ」(笑)

もう、わたくしのことを誉めて、崇めて、たいへんなの。また、口先ばかりでなく、心から優しいし、親切でしたからね。ほんとうに大切にして呉れました。彼と逢っていても、不愉快なことは、三年のあいだ、ただの一度もなかったんです。

私にとっては、誠実で、あんなに善い人ってありませんでした。

これは申し上げにくいんですが、当時のわたくしの胸の内を思い返しますと、(略)こちらのほうでも恋していたかと申しますとね、正直、それが一寸あやしいんです。(p.42)

ああして、公威さんに言われるままに、日ごとに逢いに出かけたのも、恋を知り染めた若い女らしい情熱なんかではなく、ちょうど小学生が朝になれば顔を洗って、歯を磨いて、鞄を提げて学校に通うのと同じように(略)指定された待ち合わせの場所へ出かけていたような気がしてならないんですの。もちろん、公威さんのことは好きでしたよ。

十九のわたしからすれば、ずいぶん老成者(おとな)に見えました。(注:三島は29~32歳)

それで他人に対して決して厭なことをしない、無邪気で、見るものは何でも、綺麗なものが好きな、気の弱い、臆病な、そして手先が不器用な・・・・・・どこまでも純粋で、一途な男(ひと)でしたね。

・・・・・

 

公威さんからのプロポーズですか?結婚してくれと正面から言われたことはありませんが、お付き合いをし始めて間もない頃に、子供を産んでほしいとは言われました。

わたくしの返事ですか? いやあよ、と申しました。

それで、その日からしばらくして「君、家が欲しくないか?」って言うのよ(笑)「家なんて欲しかありません」って返しましたけど。それから、またしばらくして「ねえ、二人でポルトガルに行って暮らさないか?」なんて真顔で言うんですよ。「日本を離れるなんてまっぴら」って断りましたけどね。

でも今から思うと、まんざら冗談でもないような気もするんですよ。あの頃の公威さん、よっぽど何かから逃れたかったのかなあなんて思うようになりましたね。

・・・・・

(昭和32年『金閣寺』で読売文学賞を受賞した前後くらいから)

わたくし、頭痛に悩まされるようになりましてね。なんとなく、色んなことに関して、気が重くなってきたんです。

だって、わたくしの身のまわりのことも、いつの間にか、すぐ小説になったりしますしね。それですから、「迂闊なことは言えない」と思うようにもなるし・・・・・。

その頃から公威さんの仕事に関係するような場所にも引っぱり出されるようなことも増えてきたんです。それでいて、おたがいに、結婚の話は、どちらからも致しませんでした。

出会ってから3年が経ち、わたくしも22歳になっていましたから、いかにわがまま娘でもそろそろ結婚することを考えなければなりませんしね。(p.236)

別れ話をするでもなしに、なんとなく離れ離れになりました。

ある日、いつものように指定された場所へは行かなかった。約束の時間が過ぎた頃。赤坂の家に電話がかかってきましたよ。それでも、わたくしは電話室へは行きませんでした。

取次の女中に、頭痛で寝ていると答えさせました。それから3日ばかり続けて、同じ時刻に、公威さんから呼び出しの電話がありましたけれども、わたくしは出ませんでした。(p.240)

・・・・・

何年か前に、威一郎さん(三島由紀夫の長男)が映画『憂国』のビデオを送ってくれたことがありました。

まあ、その映画の中の三島由紀夫の眼ね、それがわたくしの知っている公威さんと全く違うのに驚きましてね。

わたくしが逢っていた頃の公威さんの眼の澄んで、そのきれいなことと云ったら、言葉にも尽くせないほどでしたから・・・・・。

以前とはすっかり人が変わってしまったと云うことだけは確かだと思います。40歳を過ぎてからの公威さんは、あまり幸せではなかったかもしれない・・・・・とは感じましたね。

『憂国』の映画に映る、三島由紀夫の眼を見るのが辛くなって、すぐに消して仕舞ったんですが。

・・・・・・

 


貞子さんは三島の創作の原動力になっていたようで、彼女と付き合っていた頃、三島は「書けて、書けて、仕方がないんだ」という状態だった。彼女をモデルに『沈める滝』を書き、彼女との付き合いの中で経験したこと、見聞したことは小説に書いていた。

 それにしても、3年も毎日のように夕方から夜にかけて出かけて付き合いながらも、お互いの実家に行ったり、両親に紹介することはなかったようです。


【引用】

文士劇に出演するので、見に来てほしいと言われて、楽屋を訪ねると、狭いところに色んな人がひしめきあい、・・・公威さんのお母様も御機嫌好く座っておいででしたが、だれが誰だかわからないようなありさまでしたから、公威さんも紹介しませんし、わたくしも名乗りませんでした。

お母様をお見かけしたのは、このときが初めてでした。御目にかかって、わたくしが御挨拶を申し上げたのは、公威さんが亡くなりました後のことでございます。

お父さまには、ちょうどその頃、お目にかかっていますの。公威さんから、風邪をひいて熱があるから、すまないが見舞いに来てほしいと頼まれて、一度だけ、緑ヶ丘の御宅を訪ねたときのことです。

お母様はご旅行中とかでお留守、お父さまが一寸、出ていらして、公威さんに紹介されましたが、何だか、当惑なさった御様子でしたね。(p.191)

・・・・・【引用終り】


京都や熱海へ一緒に旅行に行ったり、仕事に関係する場所に引っ張り出されたりしているのに、家族には紹介しないというのが、ちょっと私には解せません。三島は、貞子さんが結婚する気がないと思っていたからなのか。

『ヒタメン~』の後半には、三島と家族ぐるみで親しかった湯浅あつ子さんのインタビューが載っている。湯浅さんは、三島の妹・美津子(17歳で没)の友人の姉にあたり、三島の両親にも可愛がられ、緑ヶ丘の家にも出入りしていた。

この人の話にもたいへん興味深いことが書かれているが、次にまわそうと思います。

三島にとって貞子さんとつきあっていた頃が、一番幸せだった。2人でいろいろな店に行き、おいしいご飯を食べて、芝居や映画を見て、さまざまな経験を楽しんだ時代だったのだろうと思う。



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